パッラヴァ朝

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パッラヴァ朝の版図(345年)

パッラヴァ朝(Pallava)は、3世紀後半から893年までカーンチプラムを首都として南インド東海岸(コロマンデル海岸)地方を支配したタミル系王朝である。

歴史[編集]

王朝の起源[編集]

王朝の起源については、パルティア説、北インド説、土着王朝説があるがいずれとも決定しがたい。王朝初期の歴史については、サータヴァーハナ朝衰退後に、3個のプラークリット語刻文やサンスクリット語刻文など16枚の銅板の銘文によって知られる。しかし、これらの刻文の内容は矛盾が多いため、正確な年代や世系、中心地については研究者の間で意見が一致しない。例えば4世紀初頭から6世紀初頭にいたる刻文がすべてアーンドラ地方に関係するものであるにもかかわらず、王の詔勅の発行地が「カーンチ」となっており、通常はトンダイナードゥ(別名トンダイマンダラム)地方の「カーンチ」と考えられるため、アーンドラ地方から遠く離れている。そのため、刻文の「カーンチ」は、アーンドラ地方の地名ではないかと考える研究者もいる。

初期の歴史(シンハヴィシュヌ王まで)[編集]

3世紀末から4世紀初めにシヴァスカンダヴァルマン(またはスカンダヴァルマン)王がカーンチプラムを都として、北はクリシュナ川から西はクンタラ地方まで版図を広げ、アシュヴァメーダという儀礼を行なったこと、4世紀半ばごろ、ヴィシュヌゴーパ王が、カーンチ付近でグプタ朝のスカンダグプタの軍に敗れたこと、5世紀半ば頃のシンハヴァルマンが、西ガンガ朝英語版に対して宗主権を持っていたことについてはほぼ確実と考えられている。

また、交易を盛んに行い、インドネシア東ボルネオのクタイ王国、ジャワのタルマヌガラ王国というヒンドゥー王国が現れることについて、中国との交易船の寄港地であったためパッラヴァ朝の影響が強く王名が「 - ヴァルマン」になったという説もあるくらいであった。(最近は碑文の書体から同時期のカダンバ朝英語版の影響と考えられている。)パッラヴァ朝はこの後、5世紀末以降マイソール地方から勢力を拡大してきていたカラブラ族の勢力下に入ってしまったため、王朝の歴史がはっきりしなくなるが、6世紀後半のシンハヴィシュヌ王(位574年 - 600年)以降の記録はしっかりしている。王はカラブラを破って王国の領域をカーヴェリ川まで拡大し、パーンディヤ朝やスリランカ(セイロン)の君主たちと抗争した。

バーダーミのチャールキヤ朝との抗争とパッラヴァ朝の繁栄[編集]

ところで、北隣には、当時バーダーミ英語版に王都を置く前期チャールキヤ朝が台頭しつつあった。マヘンドラヴァルマン1世(位600年 - 630年)のとき、バーダーミのチャールキヤ朝と戦ったが、北インドの覇者ハルシャを破って勢いに乗るプラケーシン2世は、パッラヴァを打ち破って、その北方の地を併合した。復讐戦に燃えるパッラヴァのマーヘンドラヴァルマンの子、ナラシムハヴァルマン1世(位630年 - 668年)は、ヴァーダーミを占領して破壊し、プラケーシン2世を敗死させるなどバーダーミのチャールキヤ朝を一時は滅亡の危機にまで追い込んだ。またセイロンの王位継承戦争にも介入している。この王の治世に玄奘は都のカーンチプラムに訪れている。 しかし、プラケーシンの子、ヴィクラマディーティヤ1世のとき、パッラヴァ朝の勢力は追い払らわれ、バーダーミのチャールキヤ朝は復興した。

パーラメシュヴァラヴァルマン1世(位670年 - 680年)のとき、バーダーミのチャールキヤ朝によって攻め込まれ、カーンチプラムが陥落することもあったが、決定的な打撃とはならず、ナラシンハヴァルマン2世の時代に再び繁栄を取り戻した。カーンチプラムには、カイラサナータ寺院、マハーバリプラムには、「海岸寺院」が建てられた。経済は、海外貿易によって発展し、中国への使節も派遣されている。ところが次のパラメーシュヴァラヴァルマン2世の末年にバーダーミのチャールキヤ朝の攻撃を受けるようになって、王は戦死した。後継者問題が起こったが大臣たちとバラモン教学院(ガティカー)の高僧たちによって、シンハヴィシュヌの弟の系譜をひくヒラニヤヴァルマンの子、ナンディヴァルマン2世バラヴァマッラ(位731年 - 795年)が擁立された。彼の治世の初期は、バーダーミのチャールキヤ朝のヴィクラマディーティヤ2世に攻め込まれ、3度にわたって、都カーンチプラムが陥落させられた。しかし、バーダーミのチャールキヤ朝に代ったラーシュトラクータ朝とは友好関係を維持して勢力を伸張した。

マハーバリプラムの海岸寺院
マハーバリプラムの「ラタ」

滅亡(パーンディヤ朝との抗争とチョーラ家の台頭)[編集]

一方、南方のパーンディヤ朝も発展してしばしば衝突するようになった。以後、ラーシュトラクータ朝、西ガンガ朝やバーナ朝英語版、さらに台頭しつつあるチョーラ家との合従連衡や抗争関係を繰り返した。パーンディヤ朝との抗争は、ナンディヴァルマン3世(位844年 - 866年)のときに、マイソールの西ガンガ朝と同盟して、パーンディヤ王シュリマーラ・シュリーヴァツラヴァに大勝したものの、その過程で封臣の地位にあったチョーラ家の勢力がますます伸張し、アパラージタ(位879年 - 897年)のときに、チョーラ家のアーディテイヤ1世によって滅ぼされた。

マハーバリプラムの建造物群[編集]

パッラヴァ朝時代に建設された当時の木造寺院を模して、ライオンや象などが刻まれた「5つのラタ」と呼ばれる石彫寺院や「海岸寺院」をはじめとするマハーバリプラムの建造物群は、1985年世界遺産に登録されている。また、パラヴァ朝のすぐれた寺院建築はバーダーミのチャールキヤ朝にも大きな影響をあたえ、チャールキヤ朝のヴィクラマディーティヤ2世が工人たちに造らせたパッタダカルのヒンドゥー寺院の建築にその影響が顕著に見られる。

参考文献[編集]

  • 『アジア歴史事典』7(ト~ハ)貝塚茂樹、鈴木駿、宮崎市定他編)平凡社、1961年