ガーイクワード家

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ガーイクワード家
Gaikwad
ムガル帝国 1731年 - 1947年 英領インド
インド共和国
ガーイクワード家の国旗
(国旗)
ガーイクワード家の位置
ヴァドーダラー藩王国の版図(1909年
公用語 マラーティー語など
首都 ソーンガド
ヴァドーダラー
サルダール
マハーラージャ
1731年 - 1732年 ピラージー・ラーオ・ガーイクワード
1732年 - 1768年ダマージー・ラーオ・ガーイクワード
1875年 - 1939年サヤージー・ラーオ・ガーイクワード3世
1939年 - 1947年プラタープ・シング・ラーオ・ガーイクワード
変遷
成立 1731年
イギリスとの軍事保護条約により藩王国1802年
インドへ併合1947年
通貨ルピー

ガーイクワード家(ガーイクワードけ、マラーティー語:गायकवाड Gāyǎkǎvāḍǎ, 英語:Gaekwad/Gaikwad)は、西インドグジャラート地方を支配したマラーター同盟の諸侯(サルダール)。1801年以降はヴァドーダラー(バローダ)藩王国となる。首都はヴァドーダラー

名称[編集]

ガーイクワードのほかに、ガエクワード、ガーイクワール、ガエクワールなどさまざまな名称がある。マラーティー語本来の読みではガーイクヴァード(Gāyakavāḍa)となる。

歴史[編集]

成立[編集]

ガーイクワード家の当主ピラージー・ラーオ・ガーイクワードは、もともとマラーター王国の武将の一人であった[1]

1720年代、マラーター王国宰相バージー・ラーオの命により、ピラージー・ラーオはチャウタサルデーシュムキーを徴収するためグジャラート地方への遠征を行った[2]。1726年にはソーンガドに拠点を築いた[3]

1730年、マラーター王国の軍総司令官トリンバク・ラーオ・ダーバーデーがグジャラートを自己の版図と見なし、ニザーム王国の援助のもと反乱を起こした[4]。そのため、バージー・ラーオは反乱鎮圧に向かい、ピラージー・ラーオもこれに協力した。

1731年4月、ピラージー・ラーオは宰相バージー・ラーオとともにトリンバク・ラーオをダバイーで打ち破った(ダバイーの戦い[5]。これにより、グジャラートの支配を認められたマラーター諸侯(サルダール)としてのガーイクワード家が誕生した[6]

ヴァドーダラー遷都と第三次パーニーパトの戦い[編集]

ピラージー・ラーオは領土拡大を目指していたが、1732年5月にムガル帝国の武将アバイ・シングとの戦いで死亡してしまった[7]

後を継いだピラージー・ラーオの息子ダマージー・ラーオ・ガーイクワードは、1734年にヴァドーダラーのムガル帝国軍を追い払い、この地を自身の拠点とした[8]

その後、ダマージー・ラーオはムガル帝国の軍勢と戦い続けて領土を広げ、1757年にはマラーター王国宰相バーラージー・バージー・ラーオとともに帝国の州都アフマダーバードを陥落させた[9]。これにより、マラーターによるグジャラート征服は完了し、この地方はガーイクワード家と王国で二分された[10]

その頃、アフガニスタンドゥッラーニー朝の勢力が帝国領にたびたび侵入し、ダマージー・ラーオも他のマラーター勢力とともにこれに対抗した[11]。だが、1761年1月14日、マラーター同盟軍はパーニーパトの地で大敗北を喫し、戦いに参加していたダマージー・ラーオは辛くも逃げ延びた[12]

マラーター戦争と保護国化[編集]

第三次パーニーパトの戦いののち、1768年8月にダマージー・ラーオは死亡し、息子のサヤージー・ラーオ・ガーイクワードが当主位を継承した[13]。先の戦闘は同盟の結束を緩め、諸侯の独立性を強める結果となり、ガーイクワード家は特にそれが強く表れた。

サヤージー・ラーオは権力がなく、1771年に弟のファテー・シング・ラーオ・ガーイクワードのが摂政となり、1778年には当主位を奪われた[14]。これに対し、同年に弟のゴーヴィンド・ラーオ・ガーイクワードがファテー・シング・ラーオに反乱を起こしたが失敗し、プネーへ逃げることを強いられた[15]

ファテー・シング・ラーオが権力を握っていたとき、マラーター王国の宰相位をめぐって1775年以降第一次マラーター戦争が勃発していたが、ガーイクワード家はこれにかかわらなかった。そればかりか、1780年1月26日にガーイクワード家はイギリスと攻守同盟を結んだ[16]

1789年12月、ファテー・シング・ラーオが死亡し、弟のマナージー・ラーオ・ガーイクワードが当主位を継承したが、1793年7月に死亡したため、兄のゴーヴィンド・ラーオが当主となった[17]

ゴーヴィンド・ラーオの息子アーナンド・ラーオ・ガーイクワードの治世、 1802年3月15日にガーイクワード家もまた軍事保護条約カンベイ条約を結んだ[18]。これにより、ガーイクワード家はイギリス従属化の藩王国となった(ヴァドーダラー藩王国またはバローダ藩王国)[19]

同年12月にマラーター同盟内の争いで敗れた王国宰相バージー・ラーオ2世がイギリスと軍事保護条約バセイン条約を結んだ[20]1803年8月、これに不満だったマラーター諸侯とイギリスとの間で第二次マラーター戦争が勃発したが、ガーイクワード家は中立を保った。この戦争はホールカル家のヤシュワント・ラーオ・ホールカルの功績により、1805年12月に引き分けに終わった。

1814年、グジャラートの重要都市アフマダーバードをめぐり、ガーイクワード家とバージー・ラーオ2世の宰相府との間で争いが起こった[21]。そして、その調停はイギリスによって執り行われることとなった。

だが、1815年7月14日にガーイクワード家からプネーに派遣された使節ガンガーダル・シャーストリーを、バージー・ラーオ2世の家臣が殺害してしまう[22][23]。このことから、イギリスとマラーター勢力との間で再び緊張が走り、1817年11月第三次マラーター戦争が勃発したが、ガーイクワード家はこのときも中立を保った。

1818年6月、第三次マラーター戦争は終結し、マラーター同盟は解体したが、ガーイクワード家はヴァドーダラー藩王国として存続し続けた。

イギリス統治下のガーイクワード家[編集]

第三次マラーター戦争終結後の翌年10月、アーナンド・ラーオは死亡し、その弟のサヤージー・ラーオ・ガーイクワード2世が藩王位を継承した[24]1847年12月、サヤージー・ラーオが死亡したのち、三人の息子ガナパト・ラーオ・ガーイクワードカンデー・ラーオ・ガーイクワードマルハール・ラーオ・ガーイクワードが藩王位を継承した[25]。だが、1875年1月にマルハール・ラーオはイギリスの駐在官を毒殺しようとし、4月にその疑いにより廃位され、マドラスへと追放された[26]

同年、マルハール・ラーオの廃位を受けて、カンデー・ラーオの妃は一族から養子をとって藩王とした[27]。これがヴァドーダラーの名君として名高いサヤージー・ラーオ・ガーイクワード3世である。

サヤージー・ラーオは開明的かつ近代的な思考の持ち主であり、不可触民制の問題に疑問を持ち、そのためにダリットのビーム・ラーオ・アンベードカルを雇用するなどした。彼と同様な思考の持ち主としては、マイソール藩王国の藩王クリシュナ・ラージャ4世が挙げられる。彼ら2人はほぼ同時期にそれぞれの藩王国を統治していた。

1947年8月15日、サヤージー・ラーオの孫プラタープ・シング・ラーオ・ガーイクワードの治世、インド・パキスタン分離独立により、ヴァドーダラー藩王国はインドへと併合された。

脚注[編集]

  1. ^ Baroda 3
  2. ^ Baroda 3
  3. ^ Baroda 3
  4. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p215
  5. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p215
  6. ^ Baroda 3
  7. ^ Baroda 3
  8. ^ Baroda 4
  9. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p217
  10. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p217
  11. ^ Baroda 4
  12. ^ Baroda 4
  13. ^ Baroda 4
  14. ^ Baroda 4
  15. ^ Baroda 4
  16. ^ Baroda 4
  17. ^ Baroda 4
  18. ^ Baroda 5
  19. ^ Baroda 5
  20. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p280
  21. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p282
  22. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p282
  23. ^ Princely States of India A-J
  24. ^ Baroda 5
  25. ^ Baroda 5
  26. ^ Baroda 5
  27. ^ Baroda 6

参考文献[編集]

  • 小谷汪之 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年。 

関連項目[編集]