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インド・パルティア王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
インド・パルティア王国
パルティア 20年頃 - 130年 クシャーナ朝
インド・パルティア王国の位置
インド・パルティア王国の版図
公用語 アラム語
ギリシャ語
パーリ語
サンスクリット語
プラークリット
パルティア語
首都 タキシラ
カーブル
元首等
20年頃 - 50年頃 ゴンドファルネス
50年頃 - 65年頃アブダガセス1世
100年 - 135年パコレス英語版
変遷
建国 20年
滅亡130年

インド・パルティア王国は、1世紀頃現代のアフガニスタンパキスタン北インドを含む領域に、パルティア人の指導者ゴンドファルネスによって建設された王国。

歴史

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東方領土への進出

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匈奴冒頓単于(在位:紀元前209年 - 紀元前174年)治世下で強大化して西方を脅かすようになると、元来タリム盆地に拠点を置いていた遊牧民大月氏サカ人の領土を奪い取り西遷した。 パルティアミトラダテス1世(在位:前171年 - 前138年)の治世には、北西インドのサカ人が本拠地のヒュルカニア英語版に侵入し始めた。紀元前128年フラーテス2世はサカ人討伐に失敗して戦死し、インド・スキタイ人インド・スキタイ王国大月氏大夏によって東方領土は占領されていた。

ローマとの抗争や、紀元前92年ミトラダテス2世の死などによってパルティア王国が弱体化すると、パルティアの大貴族スーレーン氏族英語版(王族から分岐した氏族)は東方領土に侵入を開始した。パルティア人は、ガンダーラ地方でクジュラ・カドフィセス(後にクシャーナ朝の王となる)など大月氏側の多くの地方領主と戦った後、全バクトリア北インドの広大な領域を支配下に治めた。インド・スキタイ王国は、最後の王アゼス2世英語版紀元前12年頃に死去するまで存続した。

建国

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西暦20年頃、パルティア人の征服者の1人、ゴンドファルネスは、パルティアからの独立を宣言し、征服した領域にインド・パルティア王国を建設した。インド・パルティア人は、パフラヴァ(Pahlavas)としてインド人に知られており、ヤヴァナ(Yavanas)、サカ(Sakas)とともにしばしばインドの文書に登場する。

この王国は何とか1世紀ほど存続した。王国はゴンドファルネスの後継者アブダガセスの時代には分解を始めた。北インド地方は75年頃にはクシャーナ朝クジュラ・カドフィセスによって再征服された。その後、王国の領域はほぼアフガニスタンのみに限定された。

滅亡

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最後の王パコレス英語版(100年 - 135年)の治世には、サカスタントゥーラーンを支配するに過ぎなかった。2世紀の中央インドの王国サータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)の王ガウタミープトラ・シャータカルニ(Gautamiputra Sātakarni 106年 - 130年)は、自らを「サカ西クシャトラパ)、ヤヴァナインド・ギリシア人)、パフラヴァインド・パルティア人)を滅する者」と称した。

仏教のシルクロード伝播

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226年サーサーン朝による支配の後も、パルティア人の孤立した領土が東方に残存した。2世紀から、中央アジアの仏教伝道師は中国の首都洛陽南京で、仏典の翻訳活動によって有名となった。現在知られている限り、最初に仏典を中国語に翻訳したのはパルティア人の伝道師であった。中国ではパルティア人はパルティア(安息国)出身であることを表す「」姓によって識別された。

  • 安世高:パルティアの王子。初めて小乗仏教系の経典を中国語に翻訳した。
  • 安玄(en):パルティアの商人で、181年に中国で僧侶となった。
  • 曇諦 (254年):パルティア人の僧侶。『曇無徳羯麿』を訳した。
  • 安法欽(281年 - 306年頃):パルティア出身の僧侶。

インド・パルティア王国の主な君主

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関連項目

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外部リンク

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