パラマーラ朝

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パラマーラ朝(パラマーラちょう、英語:Paramāra dynasty)は、9世紀初頭から14世紀初頭にかけて、中西インドマールワーを支配したヒンドゥー王朝ラージプートの王朝でもある。首都はダール

歴史[編集]

成立と独立[編集]

マールワー地方は、デカン地方を支配していたラーシュトラクータ朝の王ゴーヴィンダ3世によって、9世紀初頭に獲得された領土であった[1]。そのとき、ゴーヴィンダ3世はマールワーの統治を、パラマーラ族の族長ウペーンドラに任せたというのが、このパラマーラ朝の始まりであった[2]

とはいえ、北インドにはプラティーハーラ朝が存在し、デカンと北インドの間にあるこの地域をめぐり、ラーシュトラクータ朝とプラティーハーラ朝は幾度となく争った[3]。パラマーラ朝もラーシュトラクータ朝の封臣(サーマンタ)として、不安定な支配を維持しながらも戦った[4]

10世紀後半、シーヤカ2世の時代、プラティーハーラ朝は徐々に衰退し、ラーシュトラクータ朝は南インドのチョーラ朝との争いに追われていた[5]。彼はプラティーハーラ朝のマールワー領を奪い、西方ではマヒー川以西までを獲得し、マールワーの全領域を版図とした[6]

一方、主家のラーシュトラクータ朝はその間もチョーラ朝との争いに忙殺されていたが、クリシュナ3世が死にコーッティガ・アモーガヴァルシャが即位すると、シーヤカ2世は反旗を翻した。パラマーラ朝はラーシュトラクータ朝と交戦状態に入ったが、972年にはその首都マーニヤケータを焼き払った[7]。このことはカリヤーニのチャールキヤ朝の創始や者タイラ2世が立ち上がる契機をつくった。

これにより、タープティ川以北の領土を獲得し、ラーシュトラクータ朝から独立を達成した[8]

ボージャの治世と最盛期[編集]

ボージェーシュヴァラ寺院

11世紀初頭に即位した王ボージャは、パラマーラ朝の最も偉大な王だった[9]

ボーシャは王朝の領土を拡大し、デカンコンカン地方グジャラート南部のラータ地方を手に入れ、ラージャスターンのメーワール地方の都市チットールガルをおさえた[10]。また、コーンカン地方シラーハーラ朝を押さえて封臣とし、チットールガルを手に入れたことでグジャラートチャウルキヤ朝ラージャスターンチャーハマーナ朝に対しては優位にあった[11]

その一方で、11世紀初頭にアフガニスタンイスラーム王朝であるガズナ朝が攻めてくると、他のラージプートの王朝と連合してこれに対抗した。

ボージャは建築事業を盛んに行い、河川にはダムを建設し、自身の名を冠したボージェーシュヴァラ寺院などを建立したりした。また、彼は文芸を保護したことでも知られ、彼自身も詩作を行い、刻文には「詩人王」と記されている。この王はクシーラスヴァーミンやサーヤナといった有名な学者からは、「文典家」としても引用されている[12]

衰退・滅亡[編集]

だが、ボージャの治世末期、 チャウルキヤ朝とチェーディカラチュリ朝の連合軍に敗れた[13]。ボージャの死後、マールワーは両王朝によって分断されることろとなった。

その後、後期チャールキヤ朝の援助によって、パラマーラ朝はマールワーの支配を回復したものの、12世紀半ばから後半にかけてチャウルキヤ朝の侵攻を再び受け、マールワー全域を奪われた[14]

パラマーラ朝の一族はマールワーを捨て、遠く東へと逃げた。王朝は主系と傍系マハークマーラに分かれてしまい、ボーパールヴィディシャーの周辺地域を支配する小国となってしまった[15]

やがて、傍系マハークマールのヴィンディヤヴァルマンは、首都ダールをチャウルキヤ朝から奪還し、13世紀前半に主系と傍系を統合した[16]。だが、かつての勢力を取り戻すには至らなかった。

また、13世紀初頭にデリー・スルターン朝奴隷王朝が成立すると、1233年シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュウッジャインやヴィディシャーを占拠した[17]

1250年には再び奴隷王朝のギヤースッディーン・バルバンの侵略をうけた[18]。さらに、同じ頃にチャウルキヤ朝やデカンのヤーダヴァ朝の侵略もうけ、チャウルキヤ朝にダールを略奪されるなど、王朝が好転することはなかった[19]

パラマーラ朝はその後もマールワーで細々と存続した。だが、1305年にデリー・スルターン朝のハルジー朝の攻撃を受け、ウッジャインやマーンドゥーなどの拠点を落とされ、ついにはダールも陥落し、パラマーラ朝は滅亡した[20]

脚注[編集]

  1. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.34
  2. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.34
  3. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.34
  4. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.34
  5. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.34
  6. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.34
  7. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.19
  8. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、pp.34-35
  9. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.35
  10. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.35
  11. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.35
  12. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.35
  13. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.35
  14. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.35
  15. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.35
  16. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.35
  17. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.35
  18. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.35
  19. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.35
  20. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.35

参考文献[編集]

関連項目[編集]