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冒頓単于

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
冒頓単于
匈奴単于
トルコに設置された、想像上の立像
在位 紀元前209年 - 紀元前174年

全名 攣鞮冒頓
出生 紀元前234年
内モンゴル地区
死去 紀元前174年
子女 老上単于
家名 攣鞮氏
王朝 匈奴
父親 頭曼単于
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冒頓 単于(ぼくとつ ぜんう、拼音: Mòdú Chányú; 注音: ㄇㄛˋ ㄉㄨˊ ㄔㄢˊ ㄩˊ、? - 紀元前174年)は、末~前漢前期にかけての匈奴単于(在位:紀元前209年 - 紀元前174年)。父の頭曼単于を殺害して匈奴の君主に君臨し、広大な地域を支配下に収めて歴史上初の統一遊牧国家である匈奴帝国を築き上げた。

「冒頓」という名前には諸説あり、個人の名前であるとする他にテュルク語モンゴル語における称号の一つで勇者や英雄を意味する「Baghadurバガトル)」の漢字音写などの説がある。

生涯

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匈奴はなどに進出して略奪を行う北方騎馬民族であり、二国にとって長年の悩みの種であった。二国は馬が越えられない壁(長城)を築き、紀元前221年始皇帝が中国を統一した後にそれらを連結させて万里の長城を築いた。また、始皇帝は蒙恬に30万の大軍による匈奴討伐を命じ、匈奴は河南地(現在の内モンゴル自治区オルドス高原及び寧夏回族自治区北部一帯)から駆逐され、北に撃退された。蒙恬の威と北部の長大な防衛線によって匈奴の勢力は減衰し、同じく北方騎馬民族だが異なる部族である西の月氏、東の東胡に圧迫されるようになっていた。

出生

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冒頓は頭曼単于の子として生まれ、太子(後継者)に立てられていた。しかし、頭曼が寵愛する閼氏(単于の后妃)との間に子が生まれると、頭曼は冒頓を廃してその子を太子に立てようと考え、冒頓を月氏へ人質として送り込んだ。冒頓が月氏に到着してすぐ、頭曼は月氏に戦争を仕掛けた。嫡子を差し出したことで油断した隙を突くのに加え、冒頓が月氏の手で殺害されるのを見越してのことである。月氏は人質の冒頓を殺害しようとしたが、冒頓は月氏の良馬を盗み、それに乗って匈奴へと帰還した。頭曼は冒頓の勇猛果敢ぶりを評価し、1万の騎兵を与えた。

父殺しによる即位

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冒頓は鳴鏑と呼ばれる音響の生じる矢を作り、「鳴鏑が射た標的に射ない者は斬首する」と配下に命じた。

まず、冒頓は狩猟に出て配下を試し、鳴鏑の標的を射なかった者たちは即刻処刑した。次に冒頓は自らの愛馬に向かって鳴鏑を射たが、側近の中には躊躇って射たない者もおり、冒頓はその側近を即刻処刑した。しばらくして、冒頓は自分の愛妻に向かって鳴鏑を射たが、恐れて射たない者がいたため、やはり冒頓は即刻処刑した。さらにしばらくして、冒頓が父の愛馬に向かって鳴鏑を射ると、全員が続いて頭曼の愛馬に矢を射た。こうして冒頓は己に絶対服従する兵を作り上げた。

その後、冒頓は頭曼と共に狩猟に出た際、鳴鏑を頭曼に向かって射た。配下たちは全員それに続いて矢を放ち、頭曼を射殺した。そして冒頓は父の後母と異母弟や自分に従わない大臣たちを皆殺しにし、紀元前209年に自ら単于に即位した[1]

東方への征伐と西方への拡大

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冒頓が単于に即位した当時、東方の東胡は強大な勢力だった。彼らは冒頓が父を殺して自ら即位したことを聞き、使者を遣わして冒頓に「頭曼の千里馬が欲しい」と伝えさせた。冒頓が家臣たちに意見を求めると、家臣たちは皆、「千里馬は匈奴の宝です。渡すべきではありません」と答えたが、冒頓は「どうして隣国であるのに、一頭の馬を惜しむことがあろうか」と言い、千里馬を東胡に与えた。

東胡は冒頓が惰弱な君主であると判断すると、再び使者を遣わして単于の閼氏(后妃)の一人を要求した。冒頓が家臣たちに意見を求めると、臣下たちは皆怒り、「東胡は道理を弁えません。討伐を請います」と出兵を求めた。しかし、冒頓は「どうして隣国であるのに、一人の女性を惜しむことがあろうか」と言い、自分の愛する后妃を東胡に差し出した。

東胡王はますます驕り高ぶり、西へ進出して匈奴の地を侵略し始めた。当時、東胡と匈奴の間には誰も居住していない広大な土地があり、ここを緩衝地帯として双方は土地の両側に甌脱(哨所)を設置していた。東胡は使者を遣わし、冒頓に「匈奴と我々の境界にある甌脱以外の土地には、匈奴は近づいてはならない。我々がそれを領有する」と伝えさせた。冒頓が家臣たちに意見を求めると、遊牧民故に土地への執着が薄いこともあって臣下の中には「放棄された空地なので、与えてもよいし、与えなくてもよい」と言う者もいた。しかし、これに対して冒頓は激怒し、「土地こそは国の根幹である。どうしてこれを与えることができようか」と言い、東胡に土地を与えよと言った者を全員処刑した。そして冒頓は馬に飛び乗り、国中に「出遅れる者あらば斬首に処す」と号令を発して、自ら軍を率いて東胡に攻め込んだ。

東胡は先の件もあって完全に油断しており、その侵攻を全く防げなかった。匈奴軍は物を奪い、人は奴隷とし、東胡王を殺した末に、東胡を滅亡させた。

冒頓は続けて他の部族に対しても積極的な攻勢を行い、月氏を西方に逃亡させるなど勢力範囲を大きく広げ、広大な匈奴国家を打ち立てた。丁度中原は秦帝国崩壊から漢楚戦争の頃であり、北方(北狄)を注視していなかったこともモンゴル高原の統一を容易にした。しかしそれは、中原を統一した漢との決戦がいずれ行われることを示していた。

白登山の戦い

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匈奴支配下の地域

紀元前200年、40万の軍勢を率いてを攻め、その首都馬邑で代王・韓王信を寝返らせた。前漢皇帝・劉邦(高祖)が歩兵32万を含む親征軍を率いて討伐に赴いたが、冒頓単于は弱兵を前方に置いて、負けたふりをして後退を繰り返したので、追撃を急いだ劉邦軍の戦線が伸び、劉邦は少数の兵とともに白登山で冒頓単于に包囲された。この時、劉邦は7日間食べ物が無く窮地に陥ったが、陳平の策略により冒頓単于の夫人に賄賂を贈り、脱出に成功した(白登山の戦い)。

その後、冒頓単于は自らに有利な条件で前漢と講和した。これにより、匈奴は前漢から毎年贈られる財物により、経済上の安定を得ることとなり、さらには韓王信や盧綰等の漢からの亡命者をその配下に加えることで勢力を拡大させ、北方の草原地帯に一大遊牧国家を築き上げることとなった。この遊牧国家には、成立したての前漢王朝は対抗する力を持たず、劉邦が亡くなった後に「そなたの国の劉邦が死んだそうだが、私でよければ慰めてやろう」と冒頓から侮辱的な親書を送られ、一時は開戦も辞さぬ勢いであった呂雉も、中郎将季布の諌めにより「有り難いが、自分は老人なので」と、婉曲に断る内容の手紙と財物を贈らざるを得なかった。この件では冒頓単于も呂雉に対して非礼を詫びる手紙と、返礼として馬を贈っている。

その後、冒頓単于は月氏を攻め、西方へ追い立てる事に成功する。前174年に在位35年にして死去した。

没後

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その後も東アジア最大の国として君臨していたが、前漢王朝が安定し国が富むに至り、景帝の跡を継いだ前漢7代武帝は、冒頓がもたらした、匈奴による前漢への屈辱的状況を打破するため大規模な対匈奴戦争を開始する。しばらく一進一退が続いたものの、前漢の衛青霍去病が匈奴に大勝し、結局、匈奴はより奥地へと追い払われ、約60年続いた隆盛も終わりを告げた。

ただそれまで部族単位での略奪と牧畜が産業だった遊牧民に、国家という概念と帝国型の社会システムを根付かせたことは大きく、後のモンゴル帝国(元)へとつながることになる。

子女

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  • 稽粥 - 子。老上単于。

脚注

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  1. ^ 沢田 2015, p. 33.

参考文献

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  • 司馬遷史記』匈奴列伝
  • 沢田勲『世界史リブレット人014 冒頓単于 匈奴遊牧国家の創設者』山川出版社、2015年。ISBN 978-4-634-35014-4 
  • 沢田勲『匈奴 古代遊牧国家の興亡』東方書店、1996年。ISBN 4-497-96506-6 

関連項目

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