西岡剛 (内野手)

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西岡 剛
Tsuyoshi Nishioka
ミネソタ・ツインズ #1
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大東市
生年月日 (1984-07-27) 1984年7月27日(39歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
175 lb =約79.4 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 遊撃手二塁手
プロ入り 2002年 ドラフト1巡目
初出場 NPB / 2003年6月23日
MLB / 2011年4月1日
年俸 $3,000,000(2011年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 2008年
WBC 2006年

西岡 剛(にしおか つよし、1984年7月27日 - )は、ミネソタ・ツインズに所属するプロ野球選手内野手)。現在は傘下のロチェスター・レッドウイングスでプレー。大阪府大東市出身。2007年の登録名は「TSUYOSHI」。

経歴

プロ入り前

奈良市立平城東中学校時代に「郡山シニア」で全国大会出場。当時からずっとPL学園で野球をすることを望んでいたが、PL学園のセレクションに落選したことを直接通知され、大ショックを受け、PL学園を倒すことを目標とし大阪桐蔭高等学校へ進んだ。本人曰く「来てもいいよ」とは言われたが、丁寧に断り、その後、大阪桐蔭から熱烈な誘いがあったことから大阪桐蔭に進学。在学中はPL学園との試合では一度も負けることがなかった。ただしPL学園は2001年から2002年にかけて対外試合禁止処分を受けており、対戦できない時期もあった。[1]

3年時に主将・4番打者として夏の甲子園出場。しかし初戦の東邦高校に敗退。高校通算42本塁打

2002年のドラフト会議千葉ロッテマリーンズから1位指名を受けて入団。背番号は7

ロッテ時代

2003年は春季キャンプから一軍に帯同。開幕一軍はならなかったが、6月21日に一軍初昇格し、初打席で戸叶尚から初安打となる二塁打を放っている。数試合で二軍に戻されるが、二軍では打率.216で規定打席到達者中最下位だった。

2004年高橋慶彦コーチの指導の下、プロ入り当初の左打ちからスイッチヒッターに転向して頭角を現す。この年、プロ初本塁打を含む6本塁打を放った。

2005年は新規参入球団東北楽天ゴールデンイーグルスとの開幕戦こそスタメンを外されたものの、中盤以降堀幸一小坂誠との併用ながら二塁手もしくは遊撃手としてのスタメン出場が増える。41盗塁盗塁王を獲得(パリーグ最年少記録、1954年セリーグでの吉田義男と並ぶ日本プロ野球最年少タイ記録)。さらにベストナインを遊撃手部門、ゴールデングラブ賞を二塁手部門でそれぞれ受賞しリーグ優勝と日本一に貢献。この年のベストナイン二塁手部門は堀、ゴールデングラブ賞遊撃手部門は小坂であり、西岡とローテーションで二遊間を組んでいた二人であった。

2006年WBC日本代表での西岡剛

2006年WBC日本代表に二塁手として選出。2次リーグのアメリカ戦では世紀の大誤審の際にランナーとしてタッチアップした(得点はなし)。レギュラーシーズンでは前年の二遊間併用の負担で膝を痛めたことから1番ショートに起用法が固定された。チームは4位に沈んだものの、自身はほぼ前年に匹敵する成績を残した。6月20日阪神タイガース戦の試合前に行われたスピードガンコンテストでは142km/hを記録した。阪神からは藤本敦士野口寿浩が挑戦し、藤本は132km/h、野口は134km/hだった。変化球も投げられるようであり、ナックルボールのような球も投げることができ、それもかなり落ちるという[2]

2007年1月7日登録名本名から「TSUYOSHI」に変更。登録名変更の際、前日に自身のブログで「明日重大発表をする」と記述。登録名変更に際し、個人的にも親交の深いSHINJOこと新庄剛志に相談したところ、新庄は「つよぽんにすれば?」と薦めたが、流石にそれは恥ずかしいと「TSUYOSHI」にしたという。しかし文字数の制約や、既に「西岡」で有名になっていたため、登録名変更以降も一部新聞やNHKなどでは「西岡」と記載されるケースがあった。このほか阪神甲子園球場の選手表示では6文字を超えて表示出来ないため、SとHを外した「TUYOSI」と表記されていた。この年は手首の怪我や首痛などもありながら規定打席に到達。初の打率3割を残し、遊撃手部門でゴールデングラブ賞も受賞。盗塁の精度も高いスイッチヒッターで俊足の早川大輔と組む1番と2番のコンビでチームを引っ張る存在となった。

2008年1月7日に“原点回帰”として、登録名を本名に戻す事を表明。同年より両耳にガードがあるヘルメットを使用。1年を通し新たに負った足の故障や持病の膝痛・首痛に苦しみ、毎年コンスタントに記録していた盗塁数は18盗塁に減り、シーズン終盤はホームインの際に足を引き摺る姿を見せながらも強行出場を続けた。打撃・守備・走塁に精彩を欠いた苦しい1年となったが、チームを引っ張る選手としての自覚も芽生え、2年連続の打率3割到達、自身初の2桁本塁打を達成した。

シーズン終了後にはサブローとともに球団負担で渡米し、故障箇所をメディカルチェックするとともに怪我のケア・リハビリ方法を学んだ[3]。12月、西麻布で同期入団の早坂圭介と共に無賃乗車犯を取り押さえる。また、高校の後輩である平田良介中田翔を含む6人と「TEAM TSUYOSHI」を結成し、都内で合同自主トレを行った。2009年1月2日放送の「クイズ!ヘキサゴンII」にゲスト出演した際には珍回答を連発し司会の島田紳助には「毎年、オフは待っている」、「レギュラーでも出てくれへん」とその素質を見出され、同年2月11日放送にも出演。予選ペーパーテストでの成績は僅か2回の出演で木下優樹菜以外のおバカ6人組に負けるほど悪かった。後に平田と中田と共に羞恥心に対抗して「好奇心」を結成する。

WBC日本代表への選出も目指したが、正二塁手に岩村明憲、正遊撃手に中島裕之が内定した上、原辰徳らWBC首脳陣らの「コンディションの良い選手を預かる」方針に前述の故障が響き落選。契約更改では、これを理由に来季年俸から1000万円を返上。「自分を選ばなかったことを後悔するくらいの活躍をしたい」といった報道が各誌に掲載され、後日のインタビューでは「優勝して帰ってきてほしい。自分は次のWBCこそ日本代表に選ばれたいという気持ちをバネに、野球人としての成長につなげたい」とコメントした[4]

2009年は、盗塁成功数、盗塁死数が前年シーズンより向上したものの、打率が.260と大きく低迷し安打数も118本と振るわなかった。一方で四球は大幅に増加したため出塁率は前年を上回った。シーズン中にボビー・バレンタインの解任が発表され、一部のファンが「死刑」等過激な言葉を用いて解任反対やフロント批判の横断幕を出したことに対して、9月26日のヒーローインタビューでは自ら段を下り2分間にわたり「本当にロッテを愛してるんなら、明日から、横断幕をおろしてください」と訴えた。翌日、一部のファンにより西岡を中傷する内容の横断幕が掲げられ、応援歌の演奏をボイコットされるなどしたが、応援団を批判せず黙々とプレーを続け、応援団のリードによらない大多数のファンによる「ツヨシ」コールの大歓声が上がった。12月29日に行なわれた契約更改交渉では「3年契約のときに、WBC(出場の評価)が入っていた。出ないのに受け取るのはおかしい。」との理由で、球団側に1000万円の返上を申し入れた[5]

2010年

ロッテ時代の西岡剛(2010年)

里崎智也に代わってキャプテンに就任し、ユニフォームシャツの左胸に「C」マークが追加される。この年より社会貢献運動として、山田邦子が代表理事を務める「リボン運動・がんの薬を普及する会」に共鳴し、ヒット1本につき1万円を寄付する活動を始めた。レギュラーシーズンでは開幕から好調を続け、5月は打率.417、4本塁打、OPS1.167の成績を残し月間MVPを獲得。7月24日にはファッションモデル徳澤直子と結婚することを自身のブログで報告し、26歳の誕生日である同月27日に婚姻届を提出。

9月1日の楽天戦でシーズン21回の猛打賞獲得を達成。別当薫が毎日オリオンズ当時の1950年に樹立した球団記録を更新した。9月12日埼玉西武ライオンズ戦で1回に左前打を放ってシーズン181安打とし、1961年榎本喜八(毎日オリオンズ)が記録したシーズン180安打を抜き、球団新記録を達成。9月21日の楽天戦でシーズン26回目の猛打賞を達成しイチローに並び、9月25日オリックス・バファローズ戦の4回に金子千尋から3安打目を放ち27回目の猛打賞を達成し日本記録を更新。またイチロー以来パ・リーグ2人目、日本人のスイッチヒッターおよび、内野手としては初となる200本安打を達成し、史上4人目となるスイッチヒッターでの首位打者となり、最多安打のタイトルも獲得。全試合フルイニング出場も果たし、日本新記録となるシーズン692打席を記録した。11月には自身のブログで「メジャーで野球をすることは子供の頃からの夢だった。自分の力も知った上で挑戦したい」と述べ[6]リック・サーマンを代理人としてポスティングシステムによるメジャーリーグ移籍を申請し、ミネソタ・ツインズが交渉権を獲得。

メジャー時代

12月17日にツインズと総額925万ドルの3年契約(4年目は年俸400万ドルの球団オプション)を結び、同球団初の日本人野手となった[7]。18日にはターゲット・フィールドにて背番号1のユニフォームを着て会見を行い[8]、会見の席には殿堂入り選手のポール・モリターも出席し、全面的なバックアップを約束したという[9]。背番号はロッテ時代と同じ7を希望していたが、ツインズの看板選手であるジョー・マウアーが着けていたため、1に決定した。

2011年スプリング・トレーニングで13試合連続安打を記録して打率.345の成績を残し、監督のロン・ガーデンハイアーは二塁手として起用することを明らかにした。4月1日のトロント・ブルージェイズとの開幕戦でメジャーデビュー。26歳での出場は日本人野手最年少となった。しかし7日のニューヨーク・ヤンキース戦で一塁走者ニック・スウィッシャーが二塁に滑り込んだ際に交錯し、左足腓骨の骨折でDL入り[10]。アドバンスドA級フォートマイヤーズで調整中にはポール・モリターから併殺プレーなどの指導を受け[11]、フォートマイヤーズとAAA級ロチェスターで計7試合に出場後、6月16日のシカゴ・ホワイトソックス戦で遊撃手として復帰したが[12]、7月まで打率.206、出塁率.259と低迷。8月8日には第一子(女児)が誕生し[13]、8月からは打率.272、出塁率.323と復調し始めたものの、8月下旬から右わき腹を痛め、9月は5試合に出場した後DL入りしシーズンを終了[14]。左投手に対し打率.203と苦しんだ他、外角に対応できていないことが指摘され[15]、シーズンを通しては68試合の出場で打率.226、本塁打なし、出塁率.278、2盗塁の成績に終わり、守備でも遊撃手でDRS-10、UZR-6.3、二塁手でDRS-1、UZR-1.1と攻守共に精彩を欠き、CBSスポーツから「最低殊勲選手(Least Valuable Player=LVP)」の候補にも挙げられた[16]

2012年2月、妻の徳澤直子と離婚協議中であることが報じられた[17]。スプリングトレーニングでは左手小指を痛め、3月19日にAAA級ロチェスターへ降格[18]。開幕もマイナーで迎え、4月24日には右足首の捻挫でDL入りした[19]

プレースタイル

2006年から2010年までの5年間での通算対右投手打率.293に対して対左打率.320と左投手に強く、特に打率3割を越える年は全て対右投手よりも対左投手の打率が高い傾向にある(2007年.380、2008年.313、2010年.387)。俊足の一番打者がよく試みる三塁線へのセーフティバントは少ないが、代わりに一二塁間へのプッシュバントを試みることが多く[20]2005年の日本シリーズ第1戦や2006年のWBCの決勝戦でも成功させている。

「スピードスター」と呼称されるが、50メートル走のタイムは6.1秒、一塁到達3.97秒[21]と歴代の盗塁王の中でも飛びぬけて速くはなく、一塁到達スピードは打席の左右に関わらずムラが大きい[22]過去にも自分よりも早坂圭介や早川大輔の方が足が速いと評しており、本人曰く「選手の中では特別足が速いわけではないが、勘や判断力がずば抜けている」と自負している[要出典]。一方でトップスピードは非常に速く、打席から三塁到達まで11.12秒[21][20]、バント時には一塁到達3.54秒を記録したこともある[22]

守備では遊撃手二塁手をこなし、遊撃守備では三遊間の打球に弱く失策も少なくないが[23]、定位置付近から二遊間の打球に強く[24]、2010年には600イニング以上に出場した遊撃手で両リーグ1位のUZR13.1を記録するなど失策数を補って余りある守備範囲の広さを誇る[23]。2005年には監督のボビー・バレンタインによる状況に応じてその都度二塁手または遊撃手に配置転換するという起用法が話題となり、2006年のWBCでは二塁手として起用された。2005年に膝痛を患って以降、連鎖的な下半身の故障や首痛などの怪我が非常に多く、前任の小坂誠が移籍した2006年以降はチーム内での役割や負担の増加を考慮し遊撃手で固定起用され、他の守備位置にはついていなかったが、ツインズ移籍当初は二塁手として起用された。

人物

プロでは俊足巧打の1番打者タイプとして認知されているが、高校時代は通算本塁打42本という記録が物語る通り長距離打者であり、練習中に余りにも打球を飛ばすため、ライトフェンスの更に後方に「西岡ネット」と呼ばれるネットが設えられ、試合では「西岡シフト」なる物を敷かれるほど長打を恐れられていた。

プロに入ってからスイッチヒッターになったが、生来は右打者。小学校 - 中学時代に左打者に転向し高校時代までは右投左打の選手、その後左打から両打になるという珍しいケースだった(通常は右利きの選手は右打ちから両打になる。他の選手では稲嶺誉田中一徳らがいるが、両者とも左打ちに戻している。また、鈴木尚広は右打→両打→左打→両打→右打である。)。

師と仰ぐ高橋慶彦と同じく練習の虫であり、チームの中でも最もハードなトレーニングをこなす一人と言われる。転向後、短期間でスイッチヒッターとして頭角を現せたのも、その人並外れた練習量があればこそであり、怪我を恐れる首脳陣からストップを掛けられることもあるなど、野球に対する情熱は人一倍である。

野球の日本代表へのこだわりは強く、2009年のWBCの代表についても「自分が代表に選ばれないはずがない」と公言したが落選。インタビューで「この大会を目標にしてきたし、自分の中では出るつもりでいたので本当にショックです。」と答え[25]、当時の公式サイト(閉鎖済み)のブログでは「家の中で暴れたし、家の物もぼこぼこに壊して荒れてしまった。」と綴った。なお、日本代表に対しては「(試合は)チラチラとしか見ていない。ずっと見ていると(代表から漏れた悔しさで)ムカついてくるから。」、「自分だったらこうした、こういうプレーをしたかった、とイメージしながら見ていた。」と本音を見せつつも、「優勝して帰ってきてほしい。自分は次のWBCこそ日本代表に選ばれたいという気持ちをバネに、野球人としての成長につなげたい」と前向きな姿勢を語り、次回のWBC日本代表への意欲も見せた[4]

中村剛也埼玉西武ライオンズ)は大阪桐蔭の1年先輩。前述のとおり50メートル走最速6秒1というタイムは飛びぬけた記録ではなく、高校時代は中村の方が足が速かったという。

大相撲の元大関千代大海(現・佐ノ山親方)と仲が良い。共通の知人を介して交流を深め、西岡いわく「僕のお兄ちゃん」と呼ぶほどの仲。千代大海は2008年6月14日のロッテ対阪神戦に招待され、始球式を務めた後、そのままバックネットから観戦し、西岡の奮起を促した。西岡は続く勝利者ヒーローインタビューの壇上で「今日のヒーローはボクじゃない。千代大海関でしょう」と同大関を招き入れ、共にファンの歓声を受けると言う一幕があった。

KAT-TUN亀梨和也に似てるとも言われ、「ロッテの亀梨くん」と言われる事もある。亀梨とは、「つよくん」「かずくん」と呼び合う仲。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
2003 ロッテ 7 11 9 3 3 2 0 0 5 1 0 0 0 0 2 0 0 1 0 .333 .455 .556 1.010
2004 63 232 212 32 54 8 2 6 84 35 8 2 2 2 14 0 2 37 2 .255 .304 .396 .701
2005 122 493 447 80 120 22 11 4 176 48 41 9 6 4 31 0 5 51 6 .268 .320 .394 .714
2006 115 485 426 58 120 20 7 4 166 27 33 17 4 3 49 2 3 61 6 .282 .358 .390 .747
2007 130 559 494 76 148 31 3 3 194 40 27 13 7 4 50 0 4 73 3 .300 .366 .393 .759
2008 116 522 473 78 142 26 6 13 219 49 18 11 4 2 36 1 7 68 3 .300 .357 .463 .820
2009 120 531 454 70 118 24 5 14 194 41 26 10 3 2 67 3 5 76 6 .260 .361 .427 .787
2010 144 692 596 121 206 32 8 11 287 59 22 11 8 5 79 1 4 96 8 .346 .423 .482 .904
2011 MIN 68 240 221 14 50 5 0 0 55 19 2 4 3 0 15 1 1 43 1 .226 .278 .249 .527
NPB:8年 817 3525 3111 518 911 165 42 55 1325 300 174 73 34 22 328 7 30 463 34 .293 .364 .426 .790
MLB:1年 68 240 221 14 50 5 0 0 55 19 2 4 3 0 15 1 1 43 1 .226 .278 .249 .527
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB最高

タイトル

表彰

記録

初記録
その他の記録
  • シーズン猛打賞:27回(2010年)※日本プロ野球記録
  • シーズン200本安打 ※プロ野球史上4人目 ※スイッチヒッターでは史上初。
  • オールスターゲーム出場:5回(2005年-2008年、2010年)

背番号

  • 7 (2003年 - 2010年)
  • 1 (2011年 - )

登録名

  • 西岡 剛(にしおか つよし)(2003年 - 2006年、2008年 - 2010年)
  • TSUYOSHI (2007年)

登場曲

  • Spitfire(The Prodigy)
  • 海の家(TUBE)(夏期の7 - 8月限定)

関連情報

CM出演

PV出演

TV出演

書籍

脚注

  1. ^ 第78回センバツ高校野球大会公式ガイドブックのインタビューの他、2007年12月22日のトヨタ スポーツドリームに出演時のコメントによる。[1]
  2. ^ TEAM26MAGAZINEの栗田雄介のインタビューより
  3. ^ “ロッテ西岡、サブローにVIP待遇リハビリ”. 日刊スポーツ. (2008年10月14日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20081014-418886.html 2012年3月23日閲覧。 
  4. ^ a b WBC落選男が“ゲキ白”…精神論に振り回されるな! 初代世界戦士、西岡&里崎 夕刊フジ 2009年3月13日
  5. ^ “ロッテ西岡WBC外れ1000万円返上で更改”. 日刊スポーツ. (2008年12月29日). http://www.nikkansports.com/baseball/professional/koukai/2009/news/f-bb-tp1-20081229-445260.html 2012年3月23日閲覧。 
  6. ^ 熱い声援ありがとうございました!!(本人ブログ、2010年11月10日付)
  7. ^ Twins, Tsuyoshi Nishioka agree to termsESPN、2010年12月17日。
  8. ^ Twins introduce Tsuyoshi NishiokaESPN、2010年12月18日。
  9. ^ “ツインズ西岡の成功の鍵を握る3人のコーチ”. 日刊スポーツ. (2010年12月23日). http://www5.nikkansports.com/baseball/mlb/tetsuya/100939.html 2011年4月8日閲覧。 
  10. ^ 西岡、突然の試練=本拠開幕目前に離脱-米大リーグ”. 時事通信 (2011年4月8日). 2011年4月8日閲覧。
  11. ^ The Twins have sent special assistant Paul Molitor to Fort Myers
  12. ^ “西岡が「3番」遊撃で本拠デビュー”. 日刊スポーツ. (2011年6月17日). http://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20110617-791444.html 2012年3月23日閲覧。 
  13. ^ “西岡に女児 夫人に付き添った後球場入り”. 日刊スポーツ. (2011年8月9日). http://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/f-bb-tp2-20110809-817755.html 2012年3月23日閲覧。 
  14. ^ “西岡今季のプレー終了「治療専念させる」”. 日刊スポーツ. (2011年9月18日). http://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/p-bb-tp2-20110918-836835.html 2012年3月23日閲覧。 
  15. ^ Tsuyoshi Nishioka needs 'mulligan' on yearCBSSPORTS.COM、2011年8月20日。
  16. ^ ツインズ西岡“最低殊勲選手”候補に…川崎&中島の米移籍に影響か夕刊フジ、2011年11月28日
  17. ^ 西岡、徳澤直子と離婚…不倫疑惑原因か サンケイスポーツ2012年2月1日
  18. ^ “西岡3A降格…指揮官「日本時代の姿を取り戻して」”. スポーツニッポン. (2012年3月20日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/03/20/kiji/K20120320002866200.html 2012年3月23日閲覧。 
  19. ^ 西岡、右足首捻挫でDL 骨には異常なし日刊スポーツ、2012年4月25日。
  20. ^ a b 友成那智、村上雅則『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2011』廣済堂出版、2011年、122頁頁。ISBN 978-4-331-51518-1 
  21. ^ a b 小関順二、西尾典文、泉直樹『プロ野球スカウティングレポート2007』アスペクトムック、2007年、6-7頁頁。ISBN 978-4-7572-1338-8 
  22. ^ a b 西岡剛のかけ抜け100本検証『野球小僧』2008年12月号、白夜書房、雑誌18801-12、120-123頁。
  23. ^ a b 西岡のメジャー1年目は予想以上の苦戦?『月刊スラッガー』2011年5月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-5、45頁。
  24. ^ Baseball Lab守備評価~Short StopSMR Baseball Lab
  25. ^ “ロッテ西岡WBC落選「ショックです」”. 日刊スポーツ. (2008年12月16日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20081216-440640.html 2012年3月23日閲覧。 

関連項目

外部リンク