セレッソ大阪
セレッソ大阪 | |
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原語表記 | セレッソ大阪 |
愛称 | セレッソ、CRZ、桜 |
クラブカラー |
ピンク[1] ネイビー |
創設年 | 1957年 |
所属リーグ | 日本プロサッカーリーグ |
所属ディビジョン | Jリーグ ディビジョン1 |
ホームタウン | 大阪府大阪市[1] |
ホームスタジアム |
キンチョウスタジアム[1] 長居スタジアム[1] |
収容人数 |
20,500(キンチョウスタジアム) 50,000(長居スタジアム) |
運営法人 | 大阪フットボールクラブ株式会社 |
代表者 | 岡野雅夫[1] |
監督 | セルジオ・ソアレス |
公式サイト | 公式サイト |
■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 非上場 |
本社所在地 |
日本 〒546-0034[1] 大阪市東住吉区長居公園1-1[1] |
設立 | 1994年2月1日 |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 4120001034064 |
事業内容 | サッカークラブの運営 |
代表者 | 岡野雅夫[1] |
資本金 | 3億1,500万円 |
売上高 | 22億4,100万円(2010年1月期) |
営業利益 | ▲7,800万円(2010年1月期) |
純利益 | ▲8,400万円(2010年1月期) |
決算期 | 1月期 |
主要株主 | ヤンマー・日本ハム 他 |
外部リンク | http://www.cerezo.co.jp |
セレッソ大阪(セレッソおおさか、Cerezo Osaka)は、日本の大阪府大阪市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
概要
ホームタウンは大阪府大阪市[1]。ホームスタジアムはキンチョウスタジアム[1]および隣接する大阪長居スタジアム[1]。チーム名の「セレッソ(Cerezo)」はスペイン語で「桜」の意味[1]。桜は大阪の「市花」であると同時に、「さくらさくら」の歌で世界中に知られる日本を代表する花でもあり、大阪市を拠点に日本を代表するチームになるよう願いが込められている[1]。マスコットは狼の「ノブレ・バリエンテ・アッチェ・ロビート・デ・セレッソ」(愛称ロビー。長い本名は、"高貴で勇敢な、由緒あるセレッソ家のオオカミの息子"という意味)。2008年より、ロビーの母親として、「大阪のオカン」をモチーフにした「エレガンテ・エスプレンディーダ・マダマ・ロビーナ・デ・セレッソ」(愛称マダム・ロビーナ、「優雅で華麗な、由緒あるセレッソ家の“オオカミの令夫人”」という意味)が新たに加わっている。なお、北摂4市を本拠とするJリーグクラブのガンバ大阪と区別するため、「セ大阪」「C大阪」(CはCerezoの頭文字)などと略記される。
歴史
前身
前身は1957年創部のヤンマーディーゼルサッカー部[1]。日本サッカーリーグ(JSL)では、釜本邦茂やネルソン吉村らを擁しリーグ4回、JSLカップ2回、天皇杯3回のタイトルを獲得した。
1993年 - 1994年(JFL)
- 1993年 - ヤンマーディーゼルサッカー部を母体としてセレッソ大阪が発足[1]。
- 12月6日 - 大阪・中之島のリーガロイヤルホテルにてヤンマーディーゼル(現・ヤンマー)・日本ハム・カプコンなどの共同出資による新運営会社「大阪サッカークラブ株式会社(英語表記:OSAKA FOOTBALL CLUB CO.,LTD)」の設立と公募により決定したチーム名「セレッソ大阪」を発表。大阪サッカークラブ株式会社の初代社長にはプロ化推進室長だった鬼武健二が就任。
- 1994年 - 早期のJリーグ昇格を見据え、選手の大幅補強とブラジルからパウロ・エミリオを初代監督として迎える。ジャパンフットボールリーグ(JFL)で優勝、天皇杯ではV川崎、浦和、横浜MらJリーグ勢を次々と破り決勝戦まで進出。決勝では平塚に敗れた。Jリーグ開幕後では、男子一種のリーグピラミッドのトップカテゴリ(1998年までのJリーグと現在のJ1が当てはまる)に所属していないチームで初めての天皇杯決勝進出だった。1995年からJリーグ昇格[1]。
- 当時のメインスタジアムは長居陸上競技場に隣接した長居第2競技場だった。これは長居競技場が1997年の国民体育大会(なみはや国体)開催に伴う長期に渡る全面改修工事を行なった為の措置であった。しかし第2競技場ではJリーグの開催基準に施設が適合しない為、1994年夏季から改修工事を施し、この年の後半戦にバックスタンドを座席に変更。1995年の開幕時にナイター照明塔と電光掲示板を設置し改修を完了させている。
- 3月8日 - 神戸市立中央球技場(現御崎公園球技場)にウルグアイの名門ペニャロールを迎えてセレッソ大阪としての旗揚げ戦を行う。結果は 0-0 の引き分け。
- 10月20日 - 最終節前、台風の影響で延期になっていた藤枝ブルックス(現福岡)との試合を尼崎市記念公園陸上競技場にて行う。C大阪はこの試合前時点で単独首位。勝てばJリーグ昇格圏の2位以内はほぼ確定だったが、同時に負ければ自力昇格を失う試合でもあった。試合はスコアレスドローのまま延長戦に入ったが、延長後半12分に見崎充洋が決勝ゴールを挙げ、事実上のJリーグ昇格が決まった。
- 10月23日 - JFLの最終節、コスモ石油四日市FC戦を勝利し柏を抑えてJFL優勝。Jリーグ昇格に花を添える。
1995年 - 2001年(J1)
- 1995年 - Jリーグ加盟。
- 1996年 - 成績不振によりエミリオが監督を辞任。後任にコーチだった楚輪博が監督に昇格。
- 1997年 - 監督に当時ブラジルの若手有望監督だったレヴィル・クルピを迎える。カプコンが出資から撤退。
- 1998年 - 松木安太郎が監督に就任。リーグ戦では34試合中13試合で3失点以上を喫した。韓国代表の黄善洪が入団。
- 1999年 - レネ・デザイェレが監督に就任。
- 2000年 - 副島が監督に就任。
- 1月29日 - 大阪サッカークラブ株式会社の代表取締役社長が前任の鬼武健二から藤井純一に交代。鬼武は会長に就任。
- 1月31日 - ドイツ・ブンデスリーガのバイエルン・ミュンヘンと3年間のアドバイザリー契約を結ぶ。3年後の2003年からは単年契約となったが2005年を最後に契約を満了。以後バイエルンは浦和と業務提携を結んだ。
- 3月30日 - 大阪市議会において大阪市によるC大阪への1千万円の出資が承認。
- 5月27日 - 西澤明訓と森島寛晃の軸を中心に西谷正也と盧廷潤のサイドアタックでリーグを席巻。あと1勝で1stステージ優勝だったが、最終節で最下位の川崎にVゴールで敗れ、ステージ優勝を横浜FMにさらわれた。
- 森島と西澤がベストイレブンを獲得。シーズン終了後、西澤がリーガ・エスパニョーラのRCDエスパニョールへ移籍。
- 2001年 - 1stステージの成績不振から、強化部・監督が相次いで辞任し、その影響からシーズン途中に契約し1ヶ月も経過しない外国籍選手を次々と登録抹消し、新たな外国人選手と契約するなど混乱をきたす。結局、J1年間最下位となりJ2へ降格。天皇杯では2度目の決勝進出を果たすが、清水に延長の末2-3で敗れた。
2002年(J2)
- 2002年 - J2で2位となり1年でのJ1復帰を果たした。この年はワールドカップシーズンだったが J2では試合日程の編成に日本代表の強化試合や合宿に対する配慮はされておらず、森島寛晃・西澤明訓・尹晶煥ら各国の代表選手不在の期間も試合をこなす事となった。ただしこれによりFW大久保嘉人の出場機会が増え、大久保の大きな成長を促すシーズンともなった。
2003年 - 2006年(J1)
- 2003年 - 1stステージは健闘。しかし、2ndステージに入ると白星が遠く、2001年にJ2降格が決まってから指揮を執っていた西村がシーズン途中で解任。ここから監督交替が繰り返されることになる。また天皇杯では三度目の決勝進出を果たすが、磐田に0-1で敗れ、またしても準優勝となった。
- 2004年 -1stステージは相次ぐ監督交代もあって最下位に終わる。 2ndステージからは大分で監督を務めた小林伸二が監督に就任。小林は、西村から数えて9ヶ月程で6人目の監督であり、しかも最下位という混迷を極めていたチームを再生し、一丸となったチームは2ndステージを12位まで浮上。年間順位でも最終節で柏を逆転し15位でなんとか残留に成功した。シーズン終了後、大久保がスペインのマヨルカにレンタル移籍。
- 2005年-前年度までの脆弱な守備力の強化と大久保のスペイン移籍に伴う攻撃力の低下を補うべく即戦力主体の積極的な補強を実施、GKにG大阪から吉田宗弘を完全移籍で獲得、DFには2003年のユニバーシアード大邱大会優勝メンバーの江添建次郎を7クラブに及ぶ争奪戦の末に獲得に成功、テスト生出身の前田和哉も入団した。京都からFW黒部光昭、東京VからMF廣山望をいずれもレンタル移籍で獲得。外国人選手も数年続いた東欧路線から一変して、ブルーノ・クアドロス、ファビーニョ、ゼ・カルロスのブラジル勢を獲得した。当初9位を目標に掲げ、開幕は3連敗と出遅れたが、新加入の吉田、ブルーノ・クアドロス、江添が開幕からスタメンに定着、江添が第3節の大宮戦で右ひざじん帯断裂の重傷を負ったが、その穴を前田が埋め、ボランチのファビーニョや下村東美とともに守備の建て直しに成功、森島寛晃・西澤明訓・古橋達弥・黒部光昭といった当時のJ1屈指の攻撃陣と攻守の歯車がかみ合いだし、第4節の名古屋戦で初勝利を挙げると第11節の清水戦まで8試合負けなし、前半戦を6勝5分6敗で折り返した。後半戦はG大阪や鹿島、浦和などの上位チームがもたつく間に順位を上げ、第33節でG大阪を抜いて首位に立った。
- 勝てば優勝決定、敗戦・ドローで自力優勝が消えるという状況で迎えた最終節・FC東京戦で1点リードしたまま終盤を迎え、ロスタイムを乗り切れれば優勝が決まるという状況で相手コーナーキックでの競り合いのこぼれ球を今野泰幸に決められ、またも目前にした優勝を逃してしまった。翌朝の朝日新聞には「長居の悲劇」との見出しが掲載された。最終順位は5位だったが、後半戦(第18節~最終節)に限れば10勝6分1敗、当時のJリーグ無敗最長記録となる16試合無敗という絶好調をキープし、天皇杯も含めれば準決勝で清水に敗れるまで20試合負けなし。また、この年の平均観客動員数は過去最高の1試合当り17,648人。
- シーズン終了後、ファビーニョが家庭の事情により退団。他にも布部陽功と久藤清一を放出(ともに福岡に移籍)し、黒部と廣山のレンタル移籍契約を更新しない(黒部は浦和へ再度レンタル移籍、廣山は東京Vに復帰)など、世代交代を図る為にベテラン選手に対して大なたを振るった。
- 吉田と古橋がベストイレブンに選ばれ、前田が優秀新人賞を獲得した。
- 2006年- 東京Vから山田卓也を完全移籍で、河村崇大を磐田からレンタル移籍で獲得。新外国人選手ではピンゴが入団。即戦力では中盤中心の補強を行い、新加入選手では強化指定選手となっていた森島康仁が入団したのをはじめ、大学選抜で活躍した小松塁や、高校生ながら素質を見込まれてプロ契約を結んだ香川真司が入団するなど、将来を見越した有望な若手の獲得を進めた。ところが、開幕からの4節をすべて3失点以上で負けるなどしてつまづき、8節終了時で1勝1分6敗と波に乗り切れない状況を見たクラブ側は小林を成績不振を理由に4月18日付で解任、後任監督に塚田雄二が就任し巻き返しを図った。
- 4月22日、広島戦(アウェイ)では、かつてC大阪に在籍していたFW佐藤寿人にJ新記録となる試合開始から僅か8秒でゴールを決められる(Jリーグ最速得点・失点記録)など、改善の兆しを見ることは出来なかった。
- 6月15日、マヨルカにレンタル移籍していた大久保がチームに復帰するも勝ち星に恵まれず。
- 8月13日、磐田で出場機会を失っていた元日本代表MF名波浩をレンタル移籍で獲得。以後チーム状況が多少上向き、勝ち点を重ねるようになった。
- 11月26日、大宮戦で期待の若手、柿谷曜一朗が16歳10ヵ月で公式戦デビュー。チーム最年少出場記録を更新。一時は入れ替え戦進出となる16位をキープしていたが、12月2日の最終節で川崎に敗れ、年間17位となり5シーズンぶりのJ2降格が決定。塚田は降格の責任を取り監督辞任。後任に東京Vヘッドコーチの都並敏史を招聘したが、J2降格を受け、大久保嘉人(神戸へ)、西澤明訓(清水へ)、名波浩(磐田復帰後、東京Vへ)、下村東美(千葉へ)、ブルーノ・クアドロス(退団後、札幌へ)と、攻守の軸となっていた選手達が次々と移籍した。
2007年 - 2009年(J2)
- 2007年-ヤンマーサッカー部発足から創設50周年を迎えた。前年の主力が抜けた穴を埋めるべく、完全移籍で柳沢将之(東京V)を、レンタル移籍で羽田憲司(鹿島)、丹羽竜平(神戸)を獲得。逆にレンタルさせていた濱田武(鳥栖)と千葉貴仁(札幌)、小松塁(長崎)を復帰させ、新人では立命館大学から阪田章裕、外国人選手ではブラジルからアレーと韓国ユニバーシアード代表の金信泳を獲得。しかし、開幕3連敗と出遅れ、第4節の京都戦でようやく初勝利を挙げ、第12節の草津戦では柿谷がJ2最年少記録となるゴール(17歳3ヶ月)を決めるが、森島寛晃が原因不明の首痛に悩まされるようになり戦列を離脱した事や、一気に若返った選手の適性を見極める為、戦力を使い回す試行錯誤をしていて勝ち点が延びず、第14節終了時点で4勝3分6敗でJ2の9位という成績であった。5月7日付で都並監督、藤川孝幸コーチ、西村昭宏GMを解任し、後任として1997年に指揮を執ったレヴィー・クルピを監督に復帰させた。就任当初は1勝3敗と負けが先行したが、第19節の試合なし期間を活用した淡路島ミニキャンプで戦術を浸透させ、メンバーも小松塁をFWのスタメンに抜擢、香川真司をサイドに、ゼ・カルロスと柳沢将之を左右のSBに固定するなど、それまでの使い回しから一変した選手起用を実施。これが功を奏して第20節からは4連勝。第2クール終了後には、比較的戦力に余裕のあったFW陣から金信泳を鳥栖へレンタル移籍させ、空きができた外国人枠を活用して、ボランチを強化するためにクルピの肝いりでジェルマーノを獲得した。その後第3クールでは9勝3敗のリーグ1位の成績を残したが、第1クールでの出遅れと、京都(2勝2分)以外のJ1昇格争いを繰り広げた上位チームに大きく負け越した(札幌と仙台には1勝3敗、東京Vと湘南には1分3敗)事が響き、J2・5位に終わった。
- 昇格を逃したものの、FWに抜擢されて12ゴールを挙げた小松をはじめ、香川・森島康・柿谷が世代別代表に選出されて国際大会で活躍。しかし、その森島康や柿谷でもレギュラーではなく、彼らより先にU-23代表にも選出され、当初スタメンで出場していた苔口卓也に至っては、クルピ就任以後ベンチ入りする機会すら限られるなど、チーム内競争は激しさを増し、戦力の底上げがなされた。
- また、8月末から9月初めにかけて長居スタジアムで開催された世界陸上選手権大会開催とそれに伴う準備期間があり、(長居スタジアムで行われた6月の一部を除いて)7月末の第31節までは隣接する第2スタジアムを本拠地にしていた他、世界陸上開催前後はその第2スタジアムすら使用できず、テクノポート福井スタジアムや兵庫県立三木総合防災公園陸上競技場といった県外での開催を余儀なくされ、結局長居スタジアムは試合数全体の3分の1程度しか使用できなかった。そのうち平日の試合が4試合あった事から、平日専用の割引チケットの発売など集客に工夫を凝らしたが、J2降格の影響もあり、1試合あたりの観客動員数は過去最低の6,627人であった。
- 2008年-主力では吉田宗弘が福岡に完全移籍、苔口卓也が千葉にレンタル移籍したものの、香川・森島康・柿谷らの若手をはじめ、古橋達弥も残留した。補強はGKに川崎から相澤貴志をレンタル移籍で獲得、退団したゼ・カルロスの後任となる左SBに湘南から尾亦弘友希を完全移籍で獲得、FWにカレカをレンタル移籍で獲得。新キャプテンに前田和哉を任命、若手の香川・小松らが更に成長し、中堅・主力と共に巻き返しを図る。開幕は水戸に勝利し、久々の開幕戦勝利を収める。最初のうちは波に乗り切れずにいた。
- 5月は前月末の愛媛戦から数えて、負けなしの7連勝を飾り2位に浮上。
- 6月は怪我人と出場停止選手が続出。1勝1分4敗の成績。
- 7月も1勝1分2敗と勝ち点を伸ばせないまま終わる。
- 8月は2勝1分2敗と浮上の兆しが見えてきたに思われたが、本間勇輔がスタジアムマスターに就任し、新たなアンセムを作曲した9月も低迷のまま終わり、10月、優勝争いをした3位の仙台との直接対決に敗れた時点で勝ち点8差がつけられていた。
- 11月に入りC大阪が3連勝した一方、仙台は2分1敗と不振に陥った為、勝ち点差を1にまで縮めて最終節を迎えた。C大阪は愛媛に勝利を挙げたが、仙台も勝利したために逆転ならず、4位となりJ1昇格はならなかった。
- 香川が3月の日本五輪代表に選ばれたアンゴラA代表との試合において、芸術的なプレーでアンゴラゴールを脅かした事が日本代表監督である岡田武史の目に止まり、香川は平成生まれとして初の日本代表に招集された。C大阪からは大久保嘉人以来4年ぶりの代表選出。香川はキリンカップコートジボワール代表戦でデビューし、ワールドカップ3次予選の2試合に出場。香川は8月に行われる北京オリンピック日本代表にも選ばれた。
- シーズン途中に、名古屋から青山隼、横浜FMから乾貴士、新人の白谷建人を含めて世代別の日本代表の経験がある選手を多く獲得。これはクルピの方針で『C大阪に移籍して、さらに成長する可能性のある選手』を獲得する傾向にある。一方でチームにフィットしなかったカレカを解雇し、出場機会が激減した森島康をレンタル(シーズン終了後に完全)移籍で大分に放出した。
- この年を最後に森島寛晃が現役を引退。
- 2009年-ジェルマーノ、古橋達弥、山本浩正、柳沢将之などが完全移籍で去り、相澤貴志、丹羽竜平、青山隼がレンタル終了、レンタル移籍中の森島康仁や宮本卓也も完全移籍する。しかし、レンタル移籍で加入していた乾貴士、羽田憲司、平島崇が完全移籍に移行し、小松塁、香川真司などの主力が残留した。外国人選手では前年途中加入し、フィットしていたカイオが残留、パルメイラスからマルチネス、クルゼイロからチアゴとクラブの主力だった2選手と2007年U-20W杯韓国代表のキム・ジンヒョンを「アジア枠」で獲得。レンタルで石神直哉を獲得し、また西澤明訓が清水から復帰した。
- 3月から4月は、4月19日の札幌に敗れるまで5連勝するなど無敗であった。
- その後も勝ち点を積み重ねるが、6月に富山と鳥栖に連敗する。
- 7月9日、鹿島から船山祐二を獲得。船山は加入直後こそ出場機会に恵まれなかったが、終盤戦にレギュラーを獲得。マルチネス故障の穴を埋め、チームの快進撃に大きく貢献した。
- 8月中旬から3戦連続で勝ちなしと不振に陥る。
- 8月30日の熊本戦からは10勝3分と勝ち点を積み重ね、11月8日に草津に5-0で勝利をおさめ、J1昇格が決定。同時に勝ち点100越えを達成した。J2で勝ち点100以上を達成したチームは川崎、広島に次いで3チーム目(ただし川崎は44試合、広島は42試合)。シーズンを通じて昇格圏外に落ちることはなかった。
- 11月8日の試合後、西澤明訓の引退が発表された。
- その後はJ2優勝を目指すが、11月22日の仙台戦(0-1)、1試合置いて12月5日の鳥栖戦(1-2)と、いずれもアウェイで後半ロスタイムに失点して敗北。シーズン2位となった(2009年J2最終節)。
2010年 -(J1)
- 2010年-松井謙弥(磐田…京都へのレンタル移籍期間満了)、茂庭照幸(FC東京)、上本大海、清武弘嗣、高橋大輔(大分)、播戸竜二(G大阪)、アマラウ(CRヴァスコ・ダ・ガマ)を完全移籍で、家長昭博(G大阪…大分へのレンタル移籍期間満了)、アドリアーノ(アトレチコPR)をレンタル移籍で、扇原貴宏、永井龍(共にC大阪U-18)、荻野賢次郎(峰山高校)が新加入して、レンタル移籍だった石神直哉が完全移籍となった。またキム・ボギョン(弘益大学校)とも契約したが、外国人枠の都合で大分へレンタル移籍。
- 開幕戦は大宮に0-3で敗戦。序盤は苦戦したが、京都戦で初勝利をおさめると、鹿島を破るなど前半は8位。
- 前半戦最終戦の5月16日の神戸戦を以て香川がボルシア・ドルトムントへ移籍。
- 香川移籍後も、家長、清武らが彼の穴を埋める活躍を魅せ、更にアドリアーノがフィットしたこともあってチームの歯車がかみ合って好調を維持。特に前年香川と共に得点を量産した乾が香川移籍後にようやく調子を上げ、チームの柱として活躍。
- 優勝争いに食い込み、J1過去最高の3位に入り、AFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得。前年J2クラブがJ1昇格を果たしたその年度にACL出場を果たすのは史上初の偉業だった。
- ナビスコカップは1分5敗でグループリーグ敗退、天皇杯は4回戦で鹿島に敗退。
- 2011年-シーズンオフに家長昭博のスペイン・リーガエスパニョーラのマヨルカへの移籍を皮切りに、2009年度キャプテンの羽田憲司(神戸)、石神直哉(湘南)、山下達也(札幌)、多田大介(鳥取)が移籍。アドリアーノ(アトレチコPR)はレンタル期間満了の上、G大阪に完全移籍。一方、大分からキム・ボギョンが復帰した他、神戸から高橋祐太郎(DF高橋大輔の実弟)を完全移籍で獲得。千葉から中後雅喜を、G大阪から倉田秋(千葉へのレンタル期間満了)を、またCRヴァスコ・ダ・ガマからホドリゴ・ピンパォンを、それぞれ期限付き移籍で獲得した。
- 開幕戦のG大阪との大阪ダービーは1-2で敗戦。
- 2011の布陣は1トップがピンパォンで、キム・倉田・乾の3シャドーが流動的に動く4-2-3-1に近いシステムを使う。
- AFCチャンピオンズリーグ2011では初出場ながらグループリーグをグループGの2位で突破。5月24日のラウンド16では、G大阪とのACL史上初の大阪ダービーを1-0で制し、Jリーグ勢唯一の決勝トーナメント進出を果たす。しかし、準々決勝で全北現代に2戦合計5-9(第1戦 4-3、第2戦 1-6)で敗れ、ベスト8で敗退。
- 8月に乾貴士がドイツ2部のVfLボーフムへ完全移籍、ピンパォンが契約満了による退団(後に大宮に入団)。これを受け、ファビオ・ロペス、FC東京よりMF大竹洋平をそれぞれ期限付き移籍にて獲得。
- 8月20日の清水エスパルス戦・9月11日のサンフレッチェ広島戦にて播戸竜二が途中出場でのハットトリックを達成。
- シーズン終了後、監督のレヴィー・クルピが退任。
- 2012年-新監督にセルジオ・ソアレスが就任。上本大海(仙台)、小松塁(川崎)、高橋祐太郎(熊本)、尾亦弘友希(福岡)が移籍、ファビオ・ロペスが退団、中後雅喜はレンタル期間満了(その後東京Vへ移籍)となったが、川崎から横山知伸、清水から児玉新、札幌から2年ぶりの復帰となる山下達也を完全移籍で獲得。徳島にレンタル移籍していた柿谷曜一朗が復帰した。
成績
タイトル
国内タイトル
個人別タイトル
スタジアム・クラブ施設
ホームスタジアムはキンチョウスタジアムおよび大阪長居スタジアムを使用している。過去には長居スタジアムのサブグラウンドである長居第2陸上競技場も使用したことがある。
トレーニングはクラブハウスやグッズショップ等が併設された南津守さくら公園スポーツ広場が使用されており、練習試合やサテライトリーグも行われる。2010年以降は毎年9月中旬から約1ヶ月間行う天然芝の養生期間に限り堺市立サッカー・ナショナルトレーニングセンターを使用している。以前は舞洲スポーツアイランドのセレッソ大阪グラウンド、尼崎市のヤンマーグラウンドも使用していたが、このうち舞洲は2010年春に閉鎖され、ヤンマーグラウンドはここ数年使用していない(但し下部チームの練習には使われている)。
キンチョウスタジアムへの移転
2009年11月に、クラブが費用を負担して大阪市長居球技場を改修し[注 1]、2010年8月から本拠地として使用すると発表した。ネーミングライツにて「キンチョウスタジアム」とされ、2010年8月8日の川崎フロンターレ戦が杮落としとなった。ただし、集客の見込める試合(J1上位クラブとの対戦である場合や、AFCチャンピオンズリーグ2011の全試合<予選・決勝リーグ全て>など)については長居スタジアムで開催される。このためJリーグにはキンチョウスタジアム・長居スタジアムの2箇所を本拠地として併記登録している。
球技場への本拠移転の理由として、日本においてサッカー専用スタジアムの文化が浸透していることや、長居スタジアムは5万人収容でありながら1試合平均入場者が15000人程度と、満席になる試合が少ないことも影響している[3]。
スローガン
年度 | スローガン |
1994 | Jump To J! |
1995 | To Be Professional 真のプロフェッショナルをめざして |
2002 | Passion to the Top |
2003 | PASSION SOUL 情熱魂 |
2004 | Be ONE! |
2005 | 日々進化 |
2006 | さらなる挑戦 |
2007 | 猛進 |
2008 | YOU ARE MY HEART |
2009 | ユアマイハート |
2010 | 攻めきる。~最後の笛が鳴るまで~ |
2011 | 攻めきるMAXかかげよ桜冠 |
2012 | 追球 THE CEREZO |
ユニフォーム
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チームカラー
- ピンク[1]、 ネイビー
ユニフォームデザイン
1994年から1996年まで使用したフィールドプレーヤー用の1stユニフォームは、シャツおよびストッキングがピンク、パンツが空色であった。1997年以降の胸デザインはピンク×紺の縦縞であるが、2006年以降は縦縞がさほど強調されなくなっている(2006年-2007年モデルは右胸が紺で左胸がピンクの2ブロック。
2008年-2009年モデルは前年までの配色が反転したようなデザイン、2010年・2011年モデルはピンク地に3本の太い縦縞の3ブロック)。なお2010年8月8日のキンチョウスタジアムのオープニングゲームでは、専用デザイン(ピンクが真ん中に1ブロック)のメモリアルユニホームを着用した。2005年のフィールドプレーヤー用の2ndユニフォームは、シャツ・パンツ・ストッキングに薄手のグレーを採用していた。
2012年モデルは、胸から上がピンク地で下はピンク×紺の縦縞と、ピンクの割合が多くなった。
ユニフォームスポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
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胸 | ヤンマー | YANMAR | 2006年 - | 1995年 - 1996年までは袖、 1997年 - 2005年までは背中 |
背中 | 日本ハム | ニッポンハム | 1994年後半、 2006年 - |
1994年前半、1995年 - 2005年までは胸 2009年まではローマ字の「Nippon Ham」 |
袖 | 大日本除虫菊 | KINCHO | 2010年7月 - | |
パンツ | サンユー都市開発 | SANYU | 2010年7月 - |
ユニフォームサプライの遍歴
- 1994年 - (Jリーグ準会員時代) リーグ戦・カップ戦ともミズノ
但し1996年度はリーグ戦とカップ戦で別々のデザインのユニフォームを着用したが、1996年のカップ戦ユニフォーム(ピンクと紺色のストライプ)は1997年以後のリーグ戦ユニフォームにも多少のアレンジをしつつも使用された
歴代ユニフォームスポンサー年表
年度 | 胸 | 袖 | 背中 | パンツ | サプライヤー |
1994 | CAPCOM /Nippon Ham |
ヤンマー | Nippon Ham /CAPCOM |
- | Mizuno |
1995 | Nippon Ham | CAPCOM | |||
1996 | |||||
1997 | 2008大阪オリンピック 招致委員会 |
Yanmar | |||
1998 | |||||
1999 | - | ||||
2000 | タマノイ酢 | ||||
2001 | |||||
2002 | 大装ハウス | ||||
2003 | 大装 | ||||
2004 | SPORTS DEPO | ||||
2005 | |||||
2006 | YANMAR | SUPER H2O | Nippon Ham | ||
2007 | OSAKA PiTaPa | ||||
2008 | |||||
2009 | - | ||||
2010 | -/KINCHO | ニッポンハム | -/SANYU | ||
2011 | KINCHO | SANYU | |||
2012 |
下部組織
育成に力を入れており、近年は各年代別日本代表にも多くの選手を輩出している。下部組織は高校生世代のU-18、中学生世代のU-15・西U-15・和歌山U-15、小学生世代のU-12で構成される。2009年にはレディースU-15が設立され、将来的になでしこリーグ参入を目指すなど、女子選手の育成にも力を入れている。セレッソの特徴的な取り組みとして、育成サポートクラブの「ハナサカクラブ」が挙げられる。これにより、会費を募りその資金を活用して、育成組織の合宿や遠征、練習試合、食事などの費用補助といった活動全般のサポートができる体制が整備されている。
2012年より、ユースを含めた全ての育成チームを一般社団法人セレッソ大阪スポーツクラブが運営することになった。これまでもJリーグ加盟の数チームが育成機関を別組織(社団法人か特定非営利活動法人側)で行う事例は数例ある。
出身選手
主な獲得タイトル
U-18
- 2回 : 1996年、2009年
- 2回 : 2008年、2010年
西U-15
- 1回 : 2009年
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BGM
選手紹介
年度 | 曲名 | アーティスト名 | DJ |
2006 | Dark Chest of Wonders | ナイトウィッシュ | 西川大介 |
2007 | |||
2008 |
選手入場
年度 | 曲名 | アーティスト名 |
2008 | saturate | ケミカル・ブラザーズ |
2009 | セレッソ大阪アンセム | 本間勇輔 |
エピソード
FM NAGAI
2008年の5月18日の湘南戦から、「超セレッソ寄りのラジオ局」をキャッチコピーとした、FM NAGAI(エフエムナガイ)がC大阪の試合限定で開局した。内容は試合に出場していないC大阪の選手、またはC大阪のスクールコーチがスタジアムDJの西川大介、アンバサダーの森島寛晃とともに、試合内容、現役時代のエピソードなどを語っていくものである。ファンクラブ限定サイトでは、過去の放送内容を聞くことも可能である。また、スタジアムにゲストが訪れた時は、そのゲストが出演することもあり、元阪神タイガースの亀山つとむや、大阪プロレスの選手が出演したことがある。2009年には木村和司、水沼貴史といった他クラブ出身の解説者(ともに横浜FM)が登場した。
周波数は放送開始当初は77.3MHzであったが、78.5MHzとなっている。
スタジアムマスター本間勇輔の招聘
2008年の夏に、テレビドラマ「古畑任三郎」BGMなどの楽曲を作曲した本間勇輔がスタジアムマスターに就任した。最初に手がけたのはセレッソ大阪の入場アンセム及び、練習開始の時に流れる音楽を作詞作曲し、C大阪のサポーター200人以上が歌ったものがアンセムとなっている。2009年からは「古畑任三郎」風に選手を紹介するムービーがスタジアムで流れているほか、チームが勝利した場合のみ流される曲であるCerezo(さくら)満開の作曲を手掛けた。
他競技との連携
C大阪は2006年から、Jリーグ100年構想に基づいた他競技との連携を行っている。
2006年から行われている「エンジョイスポーツアカデミー」は、大阪を本拠地とするバレーボールの堺ブレイザーズ、バスケットボールの大阪エヴェッサと合同でクリニックを行っている。2007年からはフットサルのシュライカー大阪が、2009年からバドミントンの三洋電機を加えた5チームで毎年開催している。
2009年からは「フットボールアカデミー」も開催する予定で、ラグビーの近鉄ライナーズと合同でクリニックを行っている。
2011年、一般社団法人「セレッソ大阪スポーツクラブ」を発足し、さらに異競技交流と市民のスポーツレクリエーション参加活動を進めていく(前述のとおり、2012年からはユース・ジュニアユース・ジュニアの以上少年育成チームの事業を株式会社側から社団法人側に委譲)。
プロ対小学生100人
これまで2回セレッソ大阪対小学生100人のサッカー対決を行っている。
1回目は2010年2月23日放送の関西テレビ「冒険チュートリアル」で、対戦相手は関西の名門サッカースクールの小学生100人であった。場所は長居球技場(改修工事前の人工芝時代)で開催され、試合は3-2でセレッソ大阪の勝利。
2回目は2011年1月26日放送の毎日放送制作・TBS系「くらべるくらべらー」で、対戦相手はセレッソ大阪サッカースクールの生徒100人であった。場所は堺市立サッカー・ナショナルトレーニングセンターで開催され、試合は5-4でセレッソ大阪の勝利。なお、小学校3年生の男子児童一人が転倒し、他の児童に左腕を踏まれ、左肘骨折で全治3ヶ月の重傷を負う事故もあったが、ケガをした男子児童側から放送の許可を得られたことなどもあり、予定通り放送された。
その他
マスコットのロビーは、フジテレビ系「めちゃ×2イケてるッ!」の企画、めちゃイケ新メンバー全国4大都市オーディションにエントリー、1次審査を通過して2次審査の面接(面接官はやべっちと光浦さん)で落選した。
新体制発表会見では、監督、新加入選手に加えてキャプテンも出席し、新加入選手のうち1名は2ndユニフォームを着用して会見に臨むのが恒例となっている。
脚注
- 注釈
- 出典