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'''ルイス・フィーゴ'''こと'''ルイス・フィリペ・マデイラ・カエイロ・フィーゴ'''(Luís Filipe Madeira Caeiro Figo {{IPA|luˈiʃ fɨˈlipɨ mɐˈðɐjrɐ kɐˈɐjru figu}} 、[[1972年]][[11月4日]] - )は[[ポルトガル]]・[[リスボン]]出身の元[[サッカー|サッカー選手]]。元[[サッカーポルトガル代表|同国代表]]。ポジションは[[ウイング (サッカー)|ウイング]](主に右サイド)。
'''ルイス・フィーゴ'''こと'''ルイス・フィリペ・マデイラ・カエイロ・フィーゴ'''(Luís Filipe Madeira Caeiro Figo {{IPA|luˈiʃ fɨˈlipɨ mɐˈðɐjrɐ kɐˈɐjru figu}} 、[[1972年]][[11月4日]] - )は[[ポルトガル]]・[[リスボン]]出身の元[[サッカー|サッカー選手]]。元[[サッカーポルトガル代表|同国代表]]。ポジションは[[ウイング (サッカー)|ウイング]](主に右サイド)または[[ミッドフィールダー|攻撃的ミッドフィールダー]]<ref name="マルチ">{{Cite book|和書|author=週刊サッカーマガジン 編|title=サッカーマルチ大辞典 改訂版|publisher=ベースボール・マガジン社|year=2006|page=380-381|isbn=978-4583038803}}</ref>。原語の発音により近いのは、'''ルイシュ・フィリープィ・マザイラ・カアイル・フィーグ'''


[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル代表]]として127試合に出場するなど、[[黄金世代]]の中心選手として長らく代表を支えた<ref name="マルチ"/>{{要典範囲|その[[ドリブル]]技術の高さから[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]の[[ライアン・ギグス]]とともに[[1990年代]]最高のウイングと評される。|date=2016-07}}
言語の発音により近いのは、ルイシュ・フィリープィ・マザイラ・カアイル・フィーグ。


== 人物 ==
== 経歴 ==
=== スポルティング・リスボン ===
ポルトガルでは年間最優秀選手賞を5年連続で受賞するなど、[[黄金世代]]の中心選手として長らく代表を支えてき選手キャップ数は歴代最多場記録となる127試合。その[[ドリブル]]技術の高さから[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]の[[ライアン・ギグス]]とともに[[1990年代]]最高のウイングと評される。
[[ファイル:Football against poverty 2014 - Luís Figo.jpg|thumb|200px|チャリティマッチでプレイするフィーゴ(2014年)]]
ポルトガルの[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]の下部組織出身で、1989年からトップチームに昇格した。そこでの活躍により、1994年にはプリメイラ・リーガ最優秀選手、1995年にはポルトガル最優秀選手に選出された。


=== バルセロナ ===
語学にも堪能で、[[ポルトガル語]]、[[英語]]、[[スペイン語]]、[[スウェーデン語]]、[[イタリア語]]などが扱える。少年時代から学業の成績が良く、将来の夢は[[医者]]だと言っても誰も反発しなかったという。学力のあまりの良さに、[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]に入団する際の同意書には「サッカーに専念すること」というような内容が書かれていたようである。
1995年に[[ユヴェントスFC]]、[[SSDパルマ・カルチョ1913|パルマFC]]が獲得に興味を示した。ユヴェントスとの仮契約を結んだ後に、より好条件を提示したパルマと契約し二重契約の状態となった<ref>[http://soccer-soku.com/1793/ ルイス・フィーゴの過去の移籍問題] - サカソク</ref>。 ユヴェントスはイタリアサッカー連盟に契約の不服を訴え、協議裁定によりその後、フィーゴは2年間、イタリアクラブでプレーすることを禁じられた。 この出来事がきっかけでリスボンで居場所がなくなり、同年に移籍金225万ポンドで[[スペイン]]の[[FCバルセロナ]]へ移籍。契約的にはパルマの選手でありながら、バルセロナの選手でもある形になっていたが、1996年夏にパルマはフィーゴの所有権をバルセロナに売却した。[[パトリック・クライファート]]、[[リバウド]]と共に3トップを形成し、国内外の数々のタイトルを獲得する原動力となり、[[エル・ドリーム・チーム|ドリーム・チーム]]以降のバルセロナのシンボルとして支持を得た<ref name="マルチ"/>


=== レアル・マドリード ===
一人っ子である。家族は、1996年に[[バルセロナ]]にて[[ホアキン・コルテス]]のショーを観劇中に知り合った[[スウェーデン人]]元[[モデル (職業)|モデル]]のヘレン夫人との間に3女。フィーゴという登録名はポルトガル語で[[イチジク]]という意味。またフィーゴの名は父親のあだ名を貰ったものである。
[[2000年]]には[[バロンドール|欧州年間最優秀選手]]を受賞したが<ref name="マルチ"/>、2000-01シーズンに[[レアル・マドリード]]の[[銀河系軍団|銀河系]]政策第1号として、ライバルのレアル・マドリードへ電撃移籍をした。これに反発したバルセロナ・サポーターが、フィーゴ自身が経営する[[バルセロナ]]市内の[[日本料理]]店を破壊するという大変な騒動にまで発展した<ref>過去にも[[ミカエル・ラウドルップ]]や[[ベルント・シュスター]]などバルセロナからレアル・マドリードに移籍した選手はいたが、フィーゴの場合は移籍の2日前に会見でファンに向けて「移籍は無い」と発言し、また、移籍の理由が年俸が多いという理由だったと報じられたため、ファンりをった。</ref>。そのため引退した現在もなお、'''ペセテーロ'''(守銭奴)と呼び彼を許さないバルセロニスタが多い。しかし、後にフィーゴは「バルサを去ったのは、お金のためではなく、クラブから評価を受けられなかったからだ。」と、金のための移籍ではなかったと話した<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/6043308/ フィーゴがレアル移籍の真相を明かす「お金のためではない」] - livedoor News</ref><ref>[http://web.ultra-soccer.jp/news/view?news_no=157671 フィーゴ「軽視されたからバルサを出た」] - 超ワールドサッカー</ref>


また、バルセロナのホームスタジアム、[[カンプ・ノウ]]に乗り込んだ試合ではフィーゴがボールに触れれば即ブーイングが起き、「守銭奴」フィーゴの顔を印刷した100億[[ペセタ]](移籍金)のニセ札が投げられ、フィーゴが[[コーナーキック]]を蹴ろうとすればスタンドからビンやゴミやペットボトル、さらには豚の顔の皮まで投げ入れられるなどして<ref>[http://www.football-zone.net/archives/18706 サッカー界における禁断の移籍] - zone.web</ref>、約10分間試合が中断された<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/8194458/ フィーゴが禁断移籍に言及「あれほど敵視された選手はいない」] - livedoor News</ref>。また[[UEFA EURO 2004|EURO2004]][[サッカーギリシャ代表|ギリシャ]]の決勝戦でも、試合中にFCバルセロナの旗を持ったバルセロナ・サポーターの男がピッチに乱入する場面もあり、いまだに過去の確執が続いている<ref>{{cite web|last1=Glendenning|first1=Barry|title=ポルトガル 0 - 1 ギリシャ|url=http://www.theguardian.com/football/2004/jul/04/minutebyminute.sport|publisher=[[ガーディアン]]|accessdate=2016年7月26日|date=2004年7月4日}} {{en icon}}</ref>
== 経歴 ==
=== クラブ ===
[[ファイル:Football against poverty 2014 - Luís Figo.jpg|thumb|200px|チャリティマッチでプレイするフィーゴ(2014年)]]
ポルトガルの強豪[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]でキャリアをスタート。リスボンでの活躍により、1995年に[[ユヴェントスFC]]、[[SSDパルマ・カルチョ1913|パルマFC]]が獲得に興味を示した。ユヴェントスとの仮契約を結んだ後に、より好条件を提示したパルマと契約し二重契約の状態となった。 ユヴェントスはイタリアサッカー連盟に契約の不服を訴え、協議裁定によりその後、フィーゴは2年間、イタリアクラブでプレーすることを禁じられた。 この出来事がきっかけでリスボンで居場所がなくなり、同年に移籍金225万ポンドで[[スペイン]]の[[FCバルセロナ]]へ移籍。契約的にはパルマの選手でありながら、バルセロナの選手でもある形になっていたが、1996年夏にパルマはフィーゴの所有権をバルセロナに売却した。その破壊力抜群の突破力とチャンスメイクで右サイドを支配、FWの[[パトリック・クライファート|クライファート]]、左サイドの[[リバウド]]と共に3トップを形成し、国内外の数々のタイトルを獲得する原動力となり、[[エル・ドリーム・チーム|ドリーム・チーム]]以降のバルセロナのシンボルとして絶大な支持を得た。


このような騒動があったにもかかわらず、フィーゴにとってバルセロナ時代は思い出深いものらしく、「僕の経験上、(バルセロナでの)2年目(1996-97シーズン)は本当に素晴らしいシーズンだった」<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/3372256/ フィーゴ「バルサでの2年目は最高に素晴らしかった」]</ref>とインタビューで語っている。{{要出典範囲|その一方で、バルセロナからレアル・マドリードへの移籍という判断に間違いはなかったとも語っている。|date=2016-07}}
[[2000年]]には[[バロンドール|欧州年間最優秀選手]]を受賞したフィーゴであったが、2000-01シーズンに[[レアル・マドリード]]の[[銀河系軍団|銀河系]]政策第1号として、バルセロナからライバルのレアル・マドリードへ電撃移籍。これに反発したバルセロナ・サポーターが、フィーゴ自身が経営する[[バルセロナ]]市内の[[日本料理]]店を破壊するという大変な騒動にまで発展した<ref>過去にも[[ミカエル・ラウドルップ]]や[[ベルント・シュスター]]などバルセロナからレアル・マドリードに移籍した選手はいた。しかしフィーゴは移籍の2日前に会見でファンに向けて「移籍は無い」と嘘の発言し、また、移籍の理由が年俸が多いという理由のみであ、バルセロナのソシオの信頼踏みにじった裏切り行為といえる移籍であった。</ref>。そのため引退した現在もなお、'''ペセテーロ'''(守銭奴)と呼び彼を許さないバルセロニスタが多い。


伝統的なライバル間の移籍というプレッシャーの中、[[ラウル・ゴンサレス]]、[[ロベルト・カルロス]]、翌2001年に加入した[[ジネディーヌ・ジダン]]らと共に攻撃陣を形成し、銀河系軍団と称されるレアル・マドリードの黄金期の中心選手となり、自身も2001年には[[FIFA最優秀選手賞]]を受賞した。また、同クラブ在籍中には[[リーガ・エスパニョーラ|リーガ]]通算100アシストという記録も成し遂げ
また、バルセロナのホームスタジアム、[[カンプ・ノウ]]に乗り込んだ試合ではフィーゴがボールに触れれば即ブーイングが起きたり、「守銭奴」フィーゴの顔を印刷した100億[[ペセタ]](移籍金)のニセ札が作られ投げられ、フィーゴが[[コーナーキック]]を蹴ろうとすればスタンドからビンやゴミやペットボトル、さらには豚の顔の皮まで投げ入れられるなどして、約10分間試合が中断されたりした<ref>無観客試合など制裁は科されなかっ</ref>。また[[UEFA EURO 2004|EURO2004]]、ポルトガルと[[サッカーギリシャ代表|ギリシャ]]の決勝戦でも、試合中にFCバルセロナの旗を持ったバル・サポーターの男がピッチに走りこみ抗議を行い取り押さえられる場面もあり、うな垂れるフィーゴの映像も印象深く、いまだに過去の確執を根にもたれている様子である


2004-05シーズンは、レギュラーとして序盤は右サイドで、2005年1月にバランサーとして[[トーマス・グラヴェセン]]が加入してからは[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]在籍時以来のトップ下でプレーし、まずまずのパフォマンスを見せていたが、終盤に[[ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ|ルシェンブルゴ]]監督との確執が生じ<ref>{{要出典範囲|それまでレギュラーとしてスタメン出場していたフィーゴは、ルシェンブルゴから何の忠告もなくエル・クラシコでスタメンを外され、その後右サイドでプレーしていた[[デビッド・ベッカム]]の欠場時にもスタメン起用されることはなくなった。|date=2016-07}}</ref>、それ以後先発出場が激減した。
このような騒動があったにもかかわらず、フィーゴにとってバルセロナ時代は思い出深いものらしく、「僕の経験上、(バルセロナでの)2年目(1996-97シーズン)は本当に素晴らしいシーズンだった」<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/3372256/ フィーゴ思い出を語る「バルサでの2年目は最高に素晴らしかった」]</ref>とインタビューで語っている。その一方で、バルセロナからレアル・マドリードへの移籍という判断に間違いはなかったとも語っている<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/1112/headlines/20111119-00000008-spnavi-socc.html フィーゴ氏「バルセロナを出たのは正しい判断だった」]</ref>。


=== インテル・ミラノ ===
伝統的なライバル間の移籍という大きなプレッシャーの中、[[ラウル・ゴンサレス]]、[[ロベルト・カルロス・ダ・シウバ|ロベルト・カルロス]]、翌2001年に加入した[[ジネディーヌ・ジダン]]らと共に豪華な攻撃陣を形成し、銀河系軍団と称されるレアル・マドリードの黄金期の中心選手となり、自身も2001年には[[FIFA最優秀選手賞]]を受賞した<ref>フィーゴ以降のレアル・マドリードは、スター獲得でのクラブ強化に重点を置いている。</ref>。また、同クラブ在籍中には[[リーガ・エスパニョーラ|リーガ]]通算100アシストという記録も成し遂げている
2005-06シーズンからは、前述の確執により、半ば喧嘩別れに近い形で[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]へ移籍し、活躍の場をイタリアへ移した。{{要出典範囲|レアル・マドリード時代は限界説が囁かれたが|date=2016-07}}、[[セリエA (サッカー)|セリエA]]でも[[UEFAチャンピオンズリーグ]]でも中盤の右サイドで活躍した。


[[2006年]]12月に[[サウジ・プレミアリーグ]]の強豪[[アル・イテハド]]への[[レンタル移籍]]が取り沙汰され、シーズン終了後の移籍が正式に発表されたが、クラブ側の契約内容不履行(具体的にどのようなことであったかは不明)を理由に移籍は消滅した<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/2162781 インテル、フィーゴ移籍の報道を否定] - AFP</ref><ref>[http://web.gekisaka.jp/news/detail/?25730-6341-fl インテル残留に合意] - ゲキサカ</ref>。プレー続行を希望するインテル側の要望に応え、[[セリエA (サッカー) 2007-2008|2007-08]]シーズンもインテルで戦うこと決定した。しかし、起用法などから徐々に[[ロベルト・マンチーニ]]監督との確執が表面化し、「来シーズンもマンチーニが残るなら移籍する」という旨の発言をした。その後、[[セリエA (サッカー) 2008-2009|2008-09]]シーズンからは同胞の[[ジョゼ・モウリーニョ]]がインテルの監督に就任、「経験を生かし、若手の指南役になってほしい」との意見を聞き、フィーゴはインテルに残ることとなった。
2004-05シーズンは、レギュラーとして序盤は右サイドで、2005年1月にバランサーとして[[トーマス・グラセン]]が加入してからは[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]在籍時以来のトップ下でプレーし、まずまずのパフォマンスを見せていたフィーゴだったが、終盤に突如[[ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ|ルシェンブルゴ]]監督との確執<ref>それまでレギュラーとしてスタメン出場していたフィーゴは、ルシェンブルゴから何の忠告もなくエル・クラシコでスタメンを外され、その後右サイドでプレーしていた[[デビッド・ベッカム]]の欠場時にもスタメン起用されることはなくなった。プライベートでは「おはよう」や「さようなら」という挨拶すら交わさなかった。</ref>が生じ、それ以後先発出場がなくなり全て後半途中出場となった。半ば喧嘩別れに近い形で[[セリエA (サッカー) 2005-2006|2005-06]]シーズンからは[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]へ移籍し、活躍の場をイタリアへ移した。レアル・マドリード時代は限界説が囁かれたがその能力は健在で、[[セリエA (サッカー)|セリエA]]でも[[UEFAチャンピオンズリーグ]]でも中盤の右サイドで活躍した。


同シーズン、[[2009年]][[5月30日]]に、現役引退をインテルの公式サイトで発表した<ref>[http://web.gekisaka.jp/news/detail/?54550-36025-fl フィーゴ、インテル公式サイトで引退を表明] - ゲキサカ</ref>。そして、[[5月31日]]の[[アタランタBC|アタランタ]]戦を最後に現役を引退した<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/2607539 インテル、フィーゴの最後の試合を勝利で飾る] - AFP</ref>。
[[2006年]]12月に[[サウジ・プレミアリーグ]]の強豪[[アル・イテハド]]への[[レンタル移籍]]が取り沙汰され、シーズン終了後の移籍が正式に発表されたが、クラブ側の契約内容不履行(具体的にどのようなことであったかは不明)を理由に移籍は立ち。プレー続行を希望するインテル側の要望に応え、[[セリエA (サッカー) 2007-2008|2007-08]]シーズンもインテルで戦うこと決定した。しかし、起用法などから徐々に[[ロベルト・マンチーニ]]監督との確執が表面化し、「来シーズンもマンチーニが残るなら移籍する」という旨の発言をした。その後、[[セリエA (サッカー) 2008-2009|2008-09]]シーズンからは同胞の[[ジョゼ・モウリーニョ]]がインテルの監督に就任、「経験を生かし、若手の指南役になってほしい」との意見を聞き、フィーゴはインテルに残ることとなった。
[[2009年]]5月30日に、31日開催の[[アタランタBC|アタランタ]]戦を最後に現役引退を自身の公式サイトで表明した。
そして、[[5月31日]]のアタランタ戦、フィーゴは前半45分だけ出場。これが現役最後の試合でもあった。
引退後はインテルの幹部に就任することになった。


=== 代表 ===
=== ポルトガル代表 ===
[[ファイル:Luis Figo.jpg|thumb|200px|ポルトガル代表時代のフィーゴ]]
[[ファイル:Luis Figo.jpg|thumb|200px|ポルトガル代表時代のフィーゴ]]
[[1991年]]にはポルトガルU-20代表として[[FIFAワールドユース選手権]]優勝に貢献。[[マヌエル・ルイ・コスタ|ルイ・コスタ]]、[[パウロ・ソウザ]]、[[フェルナンド・コウト]]、[[ジョアン・ヴィエイラ・ピント|ジョアン・ピント]]と共にポルトガルの将来を担う「'''ゴールデン・ジェネレーション'''([[黄金世代|黄金の世代]])」と呼ばれた。
[[1991年]]にはポルトガルU-20代表として[[FIFAワールドユース選手権]]優勝に貢献<ref name="マルチ"/>。[[マヌエル・ルイ・コスタ|ルイ・コスタ]]、[[パウロ・ソウザ]]、[[フェルナンド・コウト]]、[[ジョアン・ヴィエイラ・ピント|ジョアン・ピント]]と共にポルトガルの将来を担う「'''ゴールデン・ジェネレーション'''([[黄金世代|黄金の世代]])」と呼ばれた<ref name="マルチ"/>


[[1991年]][[10月16日]]に[[サッカールクセンブルク代表|ルクセンブルク]]との親善試合で代表デビューを飾。当時18歳でプロデビューして間もない若手選手であったが、ゴールデン・ジェネレーションと呼ばれた仲間達と共に代表に定着し2度のワールドカップ([[2002 FIFAワールドカップ]]、[[2006 FIFAワールドカップ]])、3度の欧州選手権([[UEFA EURO '96|EURO1996]]・[[UEFA EURO 2000|EURO2000]]・[[UEFA EURO 2004|EURO2004]])に出場した。
[[1991年]][[10月16日]]に[[サッカールクセンブルク代表|ルクセンブルク]]との親善試合で代表デビューを飾った<ref name="rsssf"/>。当時18歳でプロデビューして間もない若手選手であったが、ゴールデン・ジェネレーションと呼ばれた仲間達と共に代表に定着し2度のワールドカップ([[2002 FIFAワールドカップ]]、[[2006 FIFAワールドカップ]])、3度の欧州選手権([[UEFA EURO '96|EURO1996]]・[[UEFA EURO 2000|EURO2000]]・[[UEFA EURO 2004|EURO2004]])に出場した<ref name="マルチ"/>


[[2000年]]のEURO2000では初戦の[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦で0-2のビハインドから見事なミドルシュートを決め逆転勝利の口火を切り、準々決勝の[[サッカートルコ代表|トルコ]]戦では[[ヌーノ・ゴメス]]へ2アシストの活躍でベスト4へ導いた。
[[2000年]]のEURO2000では初戦の[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦で0-2のビハインドから見事なミドルシュートを決め逆転勝利の口火を切り、準々決勝の[[サッカートルコ代表|トルコ]]戦では[[ヌーノ・ゴメス]]へ2アシストの活躍でベスト4へ導いた。


[[2006 FIFAワールドカップ]]予選で一時引退していたポルトガル代表に復帰。ポルトガル代表は快進撃を続け、無敗で予選通過。本大会ではグループリーグ初戦の[[サッカーアンゴラ代表|アンゴラ]]戦では得意のドリブルから絶妙なアシストを見せる、40年ぶりのベスト4進出に貢献。[[サッカードイツ代表|ドイツ]]との3位決定戦を最後に代表から引退した。
[[2006 FIFAワールドカップ]]予選で一時引退していたポルトガル代表に復帰。ポルトガル代表は快進撃を続け、無敗で予選通過。本大会ではグループリーグ初戦の[[サッカーアンゴラ代表|アンゴラ]]戦では得意のドリブルからアシストを見せるなど、40年ぶりのベスト4進出に貢献。[[サッカードイツ代表|ドイツ]]との3位決定戦を最後に代表から引退した<ref name="rsssf"/>


== 所属クラブ ==
=== 引退後 ===
引退後はインテルの幹部に就任した。また、2015年の[[国際サッカー連盟]]FIFA会長選へ向けて、立候補を表明していた<ref>[http://www.footballista.jp/news/23575 フィーゴ氏がFIFA会長選に立候補] - footballista</ref>が、選挙期間中に討論や演説の機会を十分に与えられなかったとして、立候補を取り下げた<ref>[http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/1480223.html フィーゴ氏、FIFA会長選への出馬を断念] - 日刊スポーツ</ref>
* 1989年 - 1995年 {{Flagicon|POR}} [[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル]]

* 1995年 - 2000年 {{Flagicon|ESP}} [[FCバルセロナ]]
== 人物 ==
* 2000年 - 2005年 {{Flagicon|ESP}} [[レアル・マドリード]]
{{出典の明記|section=1|date=2016年7月}}
* 2005年 - 2009年 {{Flagicon|ITA}} [[インテルナツィオナーレ・ミラノ]]
* 語学堪能で、[[ポルトガル語]]、[[英語]]、[[スペイン語]]、[[スウェーデン語]]、[[イタリア語]]などを話すまた、少年時代から学業の成績が良く、将来の夢は[[医者]]だと言っても誰も反発しなかったという。学力のあまりの良さに、[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]に入団する際の同意書には「サッカーに専念すること」というような内容が書かれていたようである。
* 一人っ子である。家族は、1996年に[[バルセロナ]]にて[[ホアキン・コルテス]]のショーを観劇中に知り合った[[スウェーデン人]]元[[モデル (職業)|モデル]]のヘレン夫人との間に3女。フィーゴという登録名はポルトガル語で[[イチジク]]という意味。またフィーゴの名は父親のあだ名を貰ったものである。

==所属クラブ==
*1989年 - 1995年 {{Flagicon|POR}} [[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル]]
*1995年 - 2000年 {{Flagicon|ESP}} [[FCバルセロナ]]
*2000年 - 2005年 {{Flagicon|ESP}} [[レアル・マドリード]]
*2005年 - 2009年 {{Flagicon|ITA}} [[インテルナツィオナーレ・ミラノ]]


== 個人成績 ==
== 個人成績 ==
=== クラブ ===
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185行目: 193行目:
* [[コッパ・イタリア]]:1回 (2005-06)
* [[コッパ・イタリア]]:1回 (2005-06)
* [[スーペルコッパ・イタリアーナ]]:3回(2005, 2006, 2008)
* [[スーペルコッパ・イタリアーナ]]:3回(2005, 2006, 2008)

=== 代表 ===
; {{Flagicon|POR}} U-20ポルトガル代表
* [[FIFAワールドユース選手権]]:1回(1991)


=== 個人 ===
=== 個人 ===
199行目: 211行目:
== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==


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[[Category:ポルトガルのサッカー選手]]
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[[Category:1972年生]]
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[[Category:存命人物]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:リスボン出身の人物]]

2016年8月5日 (金) 21:27時点における版

ルイス・フィーゴ
名前
本名 ルイス・フィリペ・マデイラ・カエイロ・フィーゴ
愛称 フィーゴ、白豹、
ラテン文字 Luís Figo
ポルトガル語 Luís Filipe Madeira Caeiro Figo
基本情報
国籍 ポルトガルの旗 ポルトガル
生年月日 (1972-11-04) 1972年11月4日(51歳)
出身地 リスボン県リスボン
身長 180cm
体重 75kg
選手情報
ポジション FW/MF
利き足 右足
ユース
1984-1989 ポルトガルの旗 スポルティングCP
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1989-1995 ポルトガルの旗 スポルティングCP 137 (16)
1995-2000 スペインの旗 FCバルセロナ 172 (30)
2000-2005 スペインの旗 レアル・マドリード 164 (38)
2005-2009 イタリアの旗 インテル・ミラノ 105 (9)
代表歴
1991-2006[1] ポルトガルの旗 ポルトガル 127 (34)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ルイス・フィーゴことルイス・フィリペ・マデイラ・カエイロ・フィーゴ(Luís Filipe Madeira Caeiro Figo [luˈiʃ fɨˈlipɨ mɐˈðɐjrɐ kɐˈɐjru figu]1972年11月4日 - )はポルトガルリスボン出身の元サッカー選手。元同国代表。ポジションはウイング(主に右サイド)または攻撃的ミッドフィールダー[2]。原語の発音により近いのは、ルイシュ・フィリープィ・マザイラ・カアイル・フィーグ

ポルトガル代表として127試合に出場するなど、黄金世代の中心選手として長らく代表を支えた[2]そのドリブル技術の高さからマンチェスター・ユナイテッドライアン・ギグスとともに1990年代最高のウイングと評される。[要出典]

経歴

スポルティング・リスボン

チャリティマッチでプレイするフィーゴ(2014年)

ポルトガルのスポルティングCPの下部組織出身で、1989年からトップチームに昇格した。そこでの活躍により、1994年にはプリメイラ・リーガ最優秀選手、1995年にはポルトガル最優秀選手に選出された。

バルセロナ

1995年にユヴェントスFCパルマFCが獲得に興味を示した。ユヴェントスとの仮契約を結んだ後に、より好条件を提示したパルマと契約し二重契約の状態となった[3]。 ユヴェントスはイタリアサッカー連盟に契約の不服を訴え、協議裁定によりその後、フィーゴは2年間、イタリアクラブでプレーすることを禁じられた。 この出来事がきっかけでリスボンで居場所がなくなり、同年に移籍金225万ポンドでスペインFCバルセロナへ移籍。契約的にはパルマの選手でありながら、バルセロナの選手でもある形になっていたが、1996年夏にパルマはフィーゴの所有権をバルセロナに売却した。パトリック・クライファートリバウドと共に3トップを形成し、国内外の数々のタイトルを獲得する原動力となり、ドリーム・チーム以降のバルセロナのシンボルとして支持を得た[2]

レアル・マドリード

2000年には欧州年間最優秀選手を受賞したが[2]、2000-01シーズンにレアル・マドリード銀河系政策第1号として、ライバルのレアル・マドリードへ電撃移籍をした。これに反発したバルセロナ・サポーターが、フィーゴ自身が経営するバルセロナ市内の日本料理店を破壊するという大変な騒動にまで発展した[4]。そのため引退した現在もなお、ペセテーロ(守銭奴)と呼び彼を許さないバルセロニスタが多い。しかし、後にフィーゴは「バルサを去ったのは、お金のためではなく、クラブから評価を受けられなかったからだ。」と、金のための移籍ではなかったと話した[5][6]

また、バルセロナのホームスタジアム、カンプ・ノウに乗り込んだ試合ではフィーゴがボールに触れれば即ブーイングが起き、「守銭奴」フィーゴの顔を印刷した100億ペセタ(移籍金)のニセ札が投げられ、フィーゴがコーナーキックを蹴ろうとすればスタンドからビンやゴミやペットボトル、さらには豚の顔の皮まで投げ入れられるなどして[7]、約10分間試合が中断された[8]。また、EURO2004ギリシャとの決勝戦でも、試合中にFCバルセロナの旗を持ったバルセロナ・サポーターの男性がピッチに乱入する場面もあり、いまだに過去の確執が続いている[9]

このような騒動があったにもかかわらず、フィーゴにとってバルセロナ時代は思い出深いものらしく、「僕の経験上、(バルセロナでの)2年目(1996-97シーズン)は本当に素晴らしいシーズンだった」[10]とインタビューで語っている。その一方で、バルセロナからレアル・マドリードへの移籍という判断に間違いはなかったとも語っている。[要出典]

伝統的なライバル間の移籍というプレッシャーの中、ラウル・ゴンサレスロベルト・カルロス、翌2001年に加入したジネディーヌ・ジダンらと共に攻撃陣を形成し、銀河系軍団と称されるレアル・マドリードの黄金期の中心選手となり、自身も2001年にはFIFA最優秀選手賞を受賞した。また、同クラブ在籍中にはリーガ通算100アシストという記録も成し遂げた。

2004-05シーズンは、レギュラーとして序盤は右サイドで、2005年1月にバランサーとしてトーマス・グラヴェセンが加入してからはスポルティングCP在籍時以来のトップ下でプレーし、まずまずのパフォーマンスを見せていたが、終盤にルシェンブルゴ監督との確執が生じ[11]、それ以後は先発出場が激減した。

インテル・ミラノ

2005-06シーズンからは、前述の確執により、半ば喧嘩別れに近い形でインテルへ移籍し、活躍の場をイタリアへ移した。レアル・マドリード時代は限界説が囁かれたが[要出典]セリエAでもUEFAチャンピオンズリーグでも中盤の右サイドで活躍した。

2006年12月にサウジ・プレミアリーグの強豪アル・イテハドへのレンタル移籍が取り沙汰され、シーズン終了後の移籍が正式に発表されたが、クラブ側の契約内容不履行(具体的にどのようなことであったかは不明)を理由に移籍は消滅した[12][13]。プレー続行を希望するインテル側の要望に応え、2007-08シーズンもインテルで戦うこと決定した。しかし、起用法などから徐々にロベルト・マンチーニ監督との確執が表面化し、「来シーズンもマンチーニが残るなら移籍する」という旨の発言をした。その後、2008-09シーズンからは同胞のジョゼ・モウリーニョがインテルの監督に就任、「経験を生かし、若手の指南役になってほしい」との意見を聞き、フィーゴはインテルに残ることとなった。

同シーズン、2009年5月30日に、現役引退をインテルの公式サイトで発表した[14]。そして、5月31日アタランタ戦を最後に現役を引退した[15]

ポルトガル代表

ポルトガル代表時代のフィーゴ

1991年にはポルトガルU-20代表としてFIFAワールドユース選手権優勝に貢献[2]ルイ・コスタパウロ・ソウザフェルナンド・コウトジョアン・ピントらと共にポルトガルの将来を担う「ゴールデン・ジェネレーション黄金の世代)」と呼ばれた[2]

1991年10月16日ルクセンブルクとの親善試合で代表デビューを飾った[1]。当時18歳でプロデビューして間もない若手選手であったが、ゴールデン・ジェネレーションと呼ばれた仲間達と共に代表に定着し2度のワールドカップ(2002 FIFAワールドカップ2006 FIFAワールドカップ)、3度の欧州選手権(EURO1996EURO2000EURO2004)に出場した[2]

2000年のEURO2000では初戦のイングランド戦で0-2のビハインドから見事なミドルシュートを決め逆転勝利の口火を切り、準々決勝のトルコ戦ではヌーノ・ゴメスへ2アシストの活躍でベスト4へ導いた。

2006 FIFAワールドカップ予選で一時引退していたポルトガル代表に復帰。ポルトガル代表は快進撃を続け、無敗で予選通過。本大会ではグループリーグ初戦のアンゴラ戦では得意のドリブルからアシストを見せるなど、40年ぶりのベスト4進出に貢献。ドイツとの3位決定戦を最後に代表から引退した[1]

引退後

引退後はインテルの幹部に就任した。また、2015年の国際サッカー連盟FIFA会長選へ向けて、立候補を表明していた[16]が、選挙期間中に討論や演説の機会を十分に与えられなかったとして、立候補を取り下げた[17]

人物

所属クラブ

個人成績

クラブ

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
ポルトガル リーグ戦 リーグ杯ポルトガル杯 期間通算
1990-91 スポルティングCP 24 プリメイラ 3 0
1991-92 スポルティングCP 7 プリメイラ 34 1 7 0
1992-93 スポルティングCP 7 プリメイラ 32 0 8 1
1993-94 スポルティングCP 7 プリメイラ 31 8 1 0
1994-95 スポルティングCP 7 プリメイラ 34 7 7 3
スペイン リーグ戦 国王杯オープン杯 期間通算
1995-96 バルセロナ 7 プリメーラ 35 5 8 1
1996-97 バルセロナ 7 プリメーラ 36 4 9 2
1997-98 バルセロナ 7 プリメーラ 35 5 4 0
1998-99 バルセロナ 7 プリメーラ 34 7 10 1
1999-00 バルセロナ 7 プリメーラ 32 9 2 0
2000-01 R・マドリード 10 プリメーラ 34 9 1 0
2001-02 R・マドリード 10 プリメーラ 28 7 6 1
2002-03 R・マドリード 10 プリメーラ 33 10 1 0
2003-04 R・マドリード 10 プリメーラ 36 8 8 3
2004-05 R・マドリード 10 プリメーラ 33 3 0 0
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
2005-06 インテル 7 セリエA 34 5 3 0
2006-07 インテル 7 セリエA 32 2 7 0
2007-08 インテル 7 セリエA 17 1 1 0
2008-09 インテル 7 セリエA 22 1 - -
通算 ポルトガル プリメイラ 134 16 23 4
スペイン プリメーラ 336 67 49 8
イタリア セリエA 105 9 11 0
総通算 575 92 84 12

代表

代表国 出場 得点
1991  ポルトガル 3 0
1992 7 1
1993 5 0
1994 5 2
1995 6 1
1996 9 2
1997 7 2
1998 6 0
1999 9 4
2000 13 6
2001 9 9
2002 10 0
2003 10 3
2004 11 1
2005 7 0
2006 10 1
通算 127 34

タイトル

バロンドール 2000年

クラブ

ポルトガルの旗 スポルティングCP
スペインの旗 FCバルセロナ
スペインの旗 レアル・マドリード
イタリアの旗 インテル・ミラノ

代表

ポルトガルの旗 U-20ポルトガル代表

個人

脚注

  1. ^ a b c “Luis Filipe Madeira Caeiro Figo - Century of International Appearances” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation. http://www.rsssf.com/miscellaneous/figo-intl.html 
  2. ^ a b c d e f g 週刊サッカーマガジン 編『サッカーマルチ大辞典 改訂版』ベースボール・マガジン社、2006年、380-381頁。ISBN 978-4583038803 
  3. ^ ルイス・フィーゴの過去の移籍問題 - サカソク
  4. ^ 過去にもミカエル・ラウドルップベルント・シュスターなどバルセロナからレアル・マドリードに移籍した選手はいたが、フィーゴの場合は移籍の2日前に会見でファンに向けて「移籍は無い」と発言し、また、移籍の理由が「年俸が多い」という理由だったと報じられたため、ファンの怒りを買った。
  5. ^ フィーゴがレアル移籍の真相を明かす「お金のためではない」 - livedoor News
  6. ^ フィーゴ「軽視されたからバルサを出た」 - 超ワールドサッカー
  7. ^ サッカー界における禁断の移籍 - zone.web
  8. ^ フィーゴが禁断の移籍に言及「あれほど敵視された選手はいない」 - livedoor News
  9. ^ ポルトガル 0 - 1 ギリシャ”. ガーディアン (2004年7月4日). 2016年7月26日閲覧。 (英語)
  10. ^ フィーゴ氏「バルサでの2年目は最高に素晴らしかった」
  11. ^ それまでレギュラーとしてスタメン出場していたフィーゴは、ルシェンブルゴから何の忠告もなくエル・クラシコでスタメンを外され、その後右サイドでプレーしていたデビッド・ベッカムの欠場時にもスタメン起用されることはなくなった。[要出典]
  12. ^ インテル、フィーゴ移籍の報道を否定 - AFP
  13. ^ インテル残留に合意 - ゲキサカ
  14. ^ フィーゴ、インテル公式サイトで引退を表明 - ゲキサカ
  15. ^ インテル、フィーゴの最後の試合を勝利で飾る - AFP
  16. ^ フィーゴ氏がFIFA会長選に立候補 - footballista
  17. ^ フィーゴ氏、FIFA会長選への出馬を断念 - 日刊スポーツ