トヨタ自動車のモータースポーツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
トヨタ自動車 > トヨタ自動車のモータースポーツ
1957年のオーストラリア1周ラリーに出場したクラウンの再現車。このレースへの参加がトヨタのモータスポーツ活動の始まりとされる。

トヨタ自動車のモータースポーツでは、トヨタ自動車モータースポーツ活動の特徴や歴史について記述する。

概要[編集]

体制[編集]

トヨタの本格的なモータースポーツ活動は1960年代に始まった。当時の体制はトヨタ自動車工業(自工)とトヨタ自動車販売(自販)の2系列に分かれていた。自工は第7技術部(通称「ナナギ」)がヤマハと提携してスポーツプロトタイプを開発し、ワークス・チームの「チーム・トヨタ」が日本グランプリなどの主要イベントに参戦した。自販はトヨペットサービスセンター特殊開発部(通称「綱島[1]」)がツーリングカーのチューニングを行い、若手ドライバー主体の二軍的な活動を行った。

1971年にはワークス運営を終え、クラブチームのTMSC-Rをセミワークスとして支援したが、オイルショックの影響で1974年に国内のレース活動を休止する。海外では世界ラリー選手権 (WRC) に参戦する「トヨタ・チーム・ヨーロッパ (TTE) 」への支援を継続した。

1980年代にレース活動を再開してからは、系列3部門が各地域のモータースポーツ活動を担当した。これらの部門の統括は従来本社のモータースポーツ部 (MSD) が担当していたが、2014年の組織改編でMSDは「モータースポーツユニット開発部」と名称を変更して技術系の業務に専念することになり、マーケティングについてはトヨタ全体のマーケティングを担当するトヨタモーターセールス&マーケティング(TMSM)に移管され分裂[2]

しかし2015年には組織改編で再びモータースポーツ活動全般の機能をトヨタ本社に集約することになり、新たに設けられた「モータースポーツ本部」が開発・マーケティングの双方を統括、「GAZOO Racing」の統一名称で活動を行うことになった[3]

GAZOO Racingカンパニー(GRカンパニー)
2017年に創設された社内カンパニー。車両開発をする部門、開発ドライバーやメカニックのなどの凄腕技能養成部、マーケティングのGR統括部の3部門によって構成され、トヨタのレース活動を統括する。総勢300名ほどの最小カンパニーで、本社・名古屋・東富士に拠点を置く。レースで得た知見を元に、レクサスのFシリーズも含めた今度のトヨタの市販スポーツカー・スポーティグレードの製作も手がける。[4]
トヨタ・モータースポーツ有限会社 (TMG) [5]
世界選手権・ヨーロッパ地域を担当。ラリーチームのTTE(アンダーソン・モータースポーツ)を前身とし、ドイツケルンに拠点を置く。WRC、ル・マン24時間レース(1998 - 1999年)、F1を経て、2012年よりFIA 世界耐久選手権に参戦。WRCのエンジンやカスタマー用ラリーカーの開発も手がける。
トヨタ・レーシング・ディベロップメント (TRD) [6]
日本・アジア地域を担当。トヨタテクノクラフトのレース部門であり、自販特殊開発部を前身とする。現在はSUPER GTの車両開発やスーパーフォーミュラのエンジン開発、ネッツカップのメンテナンスなどを行う。
TRD U.S.A. Inc.[7]
北米地域を担当。アメリカの販売会社米国トヨタ (TMS) の子会社であり、カリフォルニア州コスタメサ及びノースカロライナ州シャーロットに拠点を置く。IMSACARTインディカー・シリーズへのエンジン供給を経て、現在はNASCAR、レクサスGT3、ラリーカーなどの車両開発・供給を行う。

また、2000年には富士スピードウェイを買収し、約200億円を投じて近代化改修を行い[8]、2007年と2008年にはF1日本グランプリを開催した。

ラリー[編集]

サファリ・ラリーで優勝したセリカ (グループB) 、2007年撮影
セリカGT-FOUR (ST165)、2005年撮影
セリカGT-FOUR(ST185)、2010年撮影

1957年(昭和32年)、オーストラリア1周ラリーに招待され、クラウンで出場して総合47位となった。これがトヨタのモータースポーツ活動の原点であるとされる。

その後、1973年(昭和48年)から1999年(平成11年)まで世界ラリー選手権(WRC)にトヨタ・チーム・ヨーロッパ (TTE) がカローラレビンセリカスープラで参戦していた。1975年(昭和50年)の1000湖ラリー(フィンランド)での、カローラレビンによるWRC初制覇に始まり、TA64型セリカで1984年(昭和59年)、1985年(昭和60年)、1986年(昭和61年)とサファリラリー3連覇を達成した。

1988年(昭和63年)、WRC王座獲得を目指すべくツール・ド・コルス(フランス)でST165型セリカをデビューさせ、当時最強を誇っていた王者ランチアに挑み、熾烈な戦いを繰り広げることになる。

ST165型セリカで挑んだ1990年(平成2年)とST185型セリカにスイッチした1992年(平成4年)にはカルロス・サインツが日本車初のドライバーズチャンピオンを獲得する。

1993年(平成5年)には日本の自動車メーカーとして初めてマニュファクチャラーズタイトルを獲得(ドライバーズとの2冠)、1994年(平成6年)も続けてダブルタイトルを制覇した。1994年(平成6年)のサンレモ・ラリーユハ・カンクネンの手でそれまでのST185型セリカに変わってST205型セリカがデビューした。

1995年(平成7年)はST205の開発がうまくいかず、わずか1勝と苦戦。そしてラリー・カタルーニャでエンジンの吸気量を制限するリストリクターに意図的に細工を施すという行為が発覚した。エアリストリクターが装着されたトランペット状の部品単体では問題ないが、エンジンに取り付けると吸気の負圧でパーツがスライドして隙間ができ、その隙間から空気を吸入しパワーを上げるというものだった。国際自動車連盟 (FIA) は1995年(平成7年)シーズンのドライバー及びマニュファクチャラーの全ポイント剥奪と1996年終了までの出場停止処分を発表した。トヨタ側はこの処分を重く受け止め、さらに一年間活動を自粛したが、後にトヨタ復帰を願う声を受けて1997年の終盤にテストを兼ねて参戦を再開した。

このときセリカ譲りの3S‐GTEエンジンを搭載した、よりコンパクトなカローラWRCへとスイッチしており、このWRカーはすぐにタイトルを争う戦闘力を発揮。1998年(平成10年)はオリオールに加えて、サインツがフォードから移籍。サインツが開幕戦で優勝を飾るなど2勝をマークし、マニュファクチャラーズランキング2位でシーズンを終えた。最終戦はサインツがドライバーズタイトルまであとわずか数百メートルというところでエンジンブローという悲劇的なものだった。

1999年(平成11年)は優勝こそチャイナ・ラリーのみだったもののコンスタントに入賞を繰り返し、5年ぶり3度目のマニュファクチャラーズタイトルを獲得。しかし、サンレモラリーの直前にTTEはWRC撤退とF1参戦を発表、27年にも及ぶ日本最大のマニュファクチャラーのラリーへの挑戦は7度のタイトルと43度の勝利を持って幕を閉じた。

2015年(平成27年)1月30日にトヨタはWRCへの復帰を表明し、2017年(平成29年)からヤリスWRCで参戦[9]。シャーシ開発とオペレーションをトミ・マキネン・レーシング、エンジン開発はTMGが担当する。開幕前はマシン開発の遅れが懸念されていたが、フォルクスワーゲンから移籍してきたエースのヤリ=マティ・ラトバラが復帰初戦ラリー・モンテカルロで2位表彰台、2戦目のラリー・スウェーデンで早くも優勝を果たした。

通算成績:ドライバーズタイトル4回・マニュファクチャラーズタイトル3回・通算勝利数45勝。

ラリーレイド[編集]

1995年からトヨタ車体がチーム・ランドクルーザー(TLC)を組織し、ランドクルーザーでパリ・ダカールラリーに挑戦しており、市販車無改造のディーゼル部門において1996年から2017年までの21回の開催中、6連覇を2度含む17回のクラス優勝を手にしている[10]

2012年からは南アフリカ法人のトヨタが改造したハイラックスで総合優勝に挑戦、2017年現在最高2位の成績を収めている。またこのハイラックスはFIAクロスカントリーラリー・ワールドカップにも参戦、2016年にナッサー・アル=アティヤがドライバーズタイトルを獲得している。

北米ではバハ1000で、TRD USAの開発した車両が1993年と1998年に総合優勝を果たしている。

プロトタイプスポーツカー[編集]

日本グランプリ[編集]

トヨタが初めてスポーツプロトタイプのレースに参加したのは1966年(昭和41年)の第3回日本グランプリである。ただしマシンは市販前の2000GTで純粋なレーシングカーではなく、プロトタイプカーのポルシェ906やプリンスR380に後れを取っていた。

トヨタは1967年の第4回日本グランプリを欠場して、翌1968年(昭和43年)に自社初のプロトタイプレーシングマシン、3リッターV型8気筒エンジン搭載のトヨタ・7をデビューさせる。5月の'68日本グランプリでは日産・R381に敗れたものの、その他のレースで勝利を収める。日産が日本グランプリ以外に消極的であったのに対して、トヨタは耐久レースに積極的に参戦したため「耐久のトヨタ」と呼ばれた。

1969年(昭和44年)には5リッターV型8気筒エンジンを搭載するトヨタ・7の第2期モデルが登場する。このマシンもデビュー戦の7月の富士1000kmで勝利を収め、続く8月のNETスピードカップも日産R381を破り優勝。また11月の第2回日本Can-Amも制するが、肝心の10月の日本グランプリでは6リッターV型12気筒エンジンを搭載する日産・R382の前にまたも涙を飲む。

翌年に向けてトヨタは日本初の5リッターV型8気筒エンジンにターボチャージャーを装着した第3期モデルのトヨタ・7を開発するが、日産が1970年の日本グランプリの欠場を表明したため、トヨタも欠場することとなる。トヨタの目は世界に向けられ、トヨタ・7ターボでのCan-Amへの挑戦を決意するが、それが決定したまさにその日、鈴鹿サーキットでトヨタ・7ターボをテスト中の川合稔が事故死、これによりトヨタ・7のプロジェクトは白紙にされてしまう。以降1980年代までトヨタはプロトタイプカーのレース活動を中断することになる。

ル・マン挑戦[編集]

GT-One (TS020)、2005年撮影
TS040 HYBRID、2014年撮影

1975年(昭和50年)にはシグマ・オートモーティブ(SARDの前身)にエンジンを供給し、シグマ・MC-75がル・マン24時間レースに参戦した。また、1973年にマツダのロータリーエンジンを搭載したシグマ・MC-73のリアウィングには「TOYOTA」のスポンサーロゴが書かれている。

1982年(昭和57年)に世界耐久選手権(WEC)の日本ラウンド (WEC-JAPAN) が初開催されると、童夢トムスが共同開発したグループCカー、トムス童夢・セリカCにWRC用エンジンをベースにした4気筒ターボエンジンを供給した。

1983年(昭和58年)から始まる全日本耐久選手権(1987年(昭和62年)より全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権=JSPC)にも参戦。童夢とトムスの共同開発によるトムス・83C(1983年) - 88C1988年(昭和63年))を経て、8気筒ターボエンジンを新開発し、88C-V(1988年) - 92C-V1992年(平成4年))を送り込む。1987年(昭和62年)からはトヨタの名を冠した「トヨタチームトムス」として参戦を開始。TRDが開発を主導することになり、マシン名も「トムス」から「トヨタ」となり、オイルショック以降中断していたワークス活動の事実上の再開となった。

1985年(昭和60年)からはル・マン24時間レースにも参戦を開始し、1989年にはイギリスのトムスGBを拠点として世界スポーツプロトタイプ選手権 (WSPC) にもフル参戦する。ル・マンには1990年(平成2年)まではターボエンジン車で参戦し、1992年、1993年には当時のF1と同じ規定で造られた自然吸気3.5リッター10気筒エンジンを搭載したTS010で参戦し、1992年には2位、1993年にC2クラス優勝を獲得している。1994年には92C-Vを改造した94C-Vで出場、しかしポルシェ962CをGTとして改造した掟破りとも言えるダウアー962GTの前にまたも2位に終わる(LMP1/C90クラス優勝)。

1992年にはスポーツカー世界選手権 (SWC) 第1戦のモンツァで、日本の小河等が優勝している。

1998年(平成10年)から1999年(平成11年)にかけては、TTEを中心に開発したToyota GT-One (TS020) でル・マンに参戦。マシン性能は他社に比べて優れていたが、マシントラブルのために最高成績は1999年の総合2位止まりに終わる(LMGTPクラス優勝)。

2012年ハイブリッドエンジンを搭載するTS030 HYBRIDで、ル・マン24時間レースを含むFIA 世界耐久選手権へ参戦を開始。オペレーションはTMGとオレカがジョイントして行うことになった。ル・マンでは1999年のGT-One TS020以来、13年ぶりの参戦となったが、途中首位を奪うシーンもあったものの、2車ともリタイヤに終わり、翌2013年のル・マンは2位と4位に終わった。TS030 HYBRIDは2012年のFIA 世界耐久選手権6戦と2013年のFIA 世界耐久選手権全8戦の計14戦に出場し、5勝を挙げた。

2014年同年のFIA 世界耐久選手権からTS040 HYBRIDを投入した。ル・マンでは中嶋一貴が日本人で初めてPPを獲るものの、豪雨でのクラッシュとマシントラブルで3位に終わった。一方WECでは全8戦に出場し5戦で優勝したことによりマニュファクチャラーズランキングとドライバーズランキング(トヨタ2車が同点優勝)の両方で悲願のスポーツカーの世界選手権タイトル獲得を果たした。

2015年は大量の開発費を投入してル・マンで5秒ものタイムゲインをしたポルシェ・アウディについていくことができず、良いところ無く一年を終えている。

2016年はル・マンで勝利することのみを主眼に置いたTS050を、突貫で開発し一年前倒しで投入。その甲斐あってル・マンでは終始有利な展開で進めたが、残り数時間で2位争いをしていた小林可夢偉がスピンし、ポルシェに2位を盤石にされる。さらに残り6分でトップ快走中の中嶋一貴のマシンに駆動系トラブルが発生、ホームストレート上にストップし、ル・マン制覇の悲願は露と消えた。またWECでは苦戦を強いられたが、富士では戦略と小林の頑張りによって2秒差でアウディから逃げ切って約二年ぶりの勝利を挙げた。

2017年は三台体制となり、3台目に前年スーパーフォーミュラ王者の国本雄資がエントリーした。ル・マンでは小林可夢偉がコースレコードを更新する走りで予選ポールポジションを奪取するものの、決勝では夜間走行中に3台中2台がリタイアを喫するなど大苦戦し、8号車が総合8位(クラス2位)に入るにとどまった。

IMSA[編集]

イーグル・マークIII

1980年代後半、アメリカではTRD-USAがダン・ガーニー率いるオール・アメリカン・レーサーズ (AAR) と提携し、IMSAに参戦。GTUクラス、GTOクラスを経て、1989年より最高峰のGTPクラスに挑戦した。

1991年にはトヨタの2.1リッター直4ターボエンジン(3S-G改)を搭載するイーグル・マークIIIを投入し、1992年と1993年にドライバーズ(ファン・マヌエル・ファンジオ2世)とマニュファクチャラーズタイトルを連覇、1993年デイトナ24時間レースと1992・1993年セブリング12時間レースでも勝利を収めた。

2004年から2009年にもレクサスのエンジンを供給する形でグランダムのロレックス・スポーツカーシリーズに参戦、チップ・ガナッシとともにデイトナ24時間を3連覇、2008年のドライバーズタイトルを獲得している。

フォーミュラカー[編集]

フォーミュラにおけるトヨタは、1974年にイタリアのノバ社がチューニングしたトヨタ2T-GエンジンがヨーロッパのF3界を席巻したことに始まる。特にイギリスF3では9年連続でチャンピオンエンジンになる強さを見せた。このエンジンは日本にも逆輸入され、1979年から始まった全日本F3選手権でも他メーカーを圧倒した。1980年代にはトムスがチューニングした3S-GTEエンジンがヨーロッパや日本のF3で用いられ、こちらもライバルの無限を圧倒して多くのタイトルを獲得している。またマカオGPでも通算7勝を挙げる活躍を見せており、1983年アイルトン・セナがマカオGPを制したときのマシンもトヨタエンジンを搭載していた[11] [12]

トヨタ初のトップフォーミュラ参戦は1996年(平成8年)アメリカのチャンピオンシップシリーズ (CART) である。エンジン供給の形で、IMSAからの流れでAARと提携したが、当初は戦闘力も信頼性も無く、エンジンの熟成には時間を要した。しかし2000年(平成12年)にはファン・パブロ・モントーヤのドライブでCART初勝利を達成。2002年(平成14年)にはドライバーズ(クリスチアーノ・ダ・マッタ)、マニュファクチャラーズのダブルタイトルを獲得した。

2003年(平成15年)からは、インディカー・シリーズへ参戦し、世界3大レースのひとつであるインディ500を日本メーカーとして初めて制覇。さらに参戦初年でドライバーズ(スコット・ディクソン)、マニュファクチャラーズのダブルタイトルを獲得した。2005年にNASCARに集中するとして撤退。

F1にはシャーシ・エンジンとも自製するフルコンストラクターとして2002年(平成14年)から参戦。2009年(平成21年)シーズン終了後に撤退を表明した。ポールポジション3回と13回の表彰台を獲得したが、コンストラクターランキングは最高4位に留まり、優勝は一度も達成できなかった。

国内では2006年(平成18年)よりフォーミュラ・ニッポンスーパーフォーミュラにエンジンを供給している。2016年までトヨタエンジンはホンダエンジンを圧倒し続けており、11年間の参戦で9回のドライバーズタイトルと8回のチームタイトルを獲得している。

ツーリングカー / GTカー[編集]

JGTCに参戦したスープラ

1963年(昭和38年)に初開催された日本GPパブリカコロナクラウンが出場。「レースには積極的に関与しない」という国産メーカー間の紳士協定を破り、トヨタ自工がチューンした「裏ワークスマシン」を投入して出場3クラスを制覇した。その成績を大々的に宣伝したことがプリンスなど他メーカーを刺激し、ワークス対決のきっかけとなる。

市販車ベースのレースでは、2000GT1600GTS800が活躍した。1966年の鈴鹿1000kmレースでは二台の2000GTでワンツーフィニッシュ、翌年も鈴鹿500kmレースで優勝、1967年の富士24時間レースではスポーツ800とともに3台揃ってデイトナフィニッシュする完勝を収めた。1600GTのプロトタイプは「RTX」の名で自工ワークスが使用し、ツーリングカーの公認を得てからはプライベーターにも愛用され、日産スカイライン2000GTの牙城を崩した。

1970年代はカローラ / スプリンターセリカスターレットなどが活躍。ワークス活動休止後はプライベーターに放出され、マイナーツーリングレースで激戦を展開した。

1994 - 1998年には全日本ツーリングカー選手権 (JTCC) に参戦し、1994年(平成6年)第4戦からは全日本GT選手権(JGTC:現・SUPER GT)に参戦。GT500クラスでは2005年までスープラ、2006年から2013年まではレクサスSC、2014年からはRC F、2017年からはLC500で参戦。

GT300クラスにもレクサスIS、および2008年までMR-S、2009年からはカローラアクシオ、2012年よりプリウス、2015年よりRC F GT3がそれぞれ参戦している。また開発・生産には関わってはいないが、2015年から導入されたマザーシャーシに86の外観が用いられている。

2017年からはレクサス RC-F GT3で海外にも戦場を求め始めており、IMSAのGTDクラスと欧州のGTオープンにセミワークス参戦を開始している。

NASCAR[編集]

2000年(平成12年)、アメリカのストックカーレースであるNASCARのグッディーズダッシュシリーズにセリカで参戦したのが最初である。

2004年(平成16年)にはNASCAR三大シリーズの一つであるクラフツマントラックシリーズ(現・キャンピング・ワールド・トラック・シリーズ)にタンドラでステップアップ。三年目の2006年(平成18年)にはドライバーズ、マニュファクチャラーズのダブルタイトルを獲得。その後2010年まで5年連続でタイトル制覇するなどして、現在当シリーズで最もマニュファクチャラーズタイトル獲得数の多いメーカーとなって猛威を振るっている。

2007年(平成19年)からは最高峰カテゴリーにあたるネクステルカップシリーズ(現・モンスターエナジーシリーズ)とブッシュシリーズ(現・ネイションワイド・シリーズ)へカムリで参戦。2008年(平成20年)のスプリントカップ第4戦で、外国車メーカーとしては1954年(昭和29年)のジャガー以来、日本車メーカーとしては初となる最高峰カテゴリーでの優勝を果たした。

2015年にはカムリを駆るカイル・ブッシュが日本車初の最高峰でのドライバーズタイトル、2016年にはやはり日本車初となるデイトナ500とマニュファクチャラーズタイトルを獲得した。なお2016年はエクスフィニティ・シリーズでドライバー・マニュファクチャラー・オーナー・ルーキー、キャンピング・ワールド・トラック・シリーズでもマニュファクチャラー・オーナー・ルーキータイトルを獲得しており、三大シリーズ戦のマニュファクチャラー部門全てをトヨタが制す大成功の年となった[13]

その他のアメリカンモータースポーツ[編集]

ドラッグカー最大のシリーズであるNHRAに2002年からTRD USAの開発したセリカベースのマシンでファニーカークラスから参戦を開始。2004年に初勝利を挙げ、2008年にソアラ、2015年にカムリでクラスタイトルを獲得した。最高峰のトップフューエルクラスにはMatcoツールズを支援する形で2010年に転向、その年にタイトルを獲得。その後2011年・2012・2015・2016年にもドライバーズタイトルを勝ちとった[14]

パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムには、ロブ・ミレンのドライバー・オーナーを務めるミレン・ワークスとTRD USAが開発したタコマが1994・1998・1999年、セリカが1996・1997年で合計5度の総合優勝を果たしている。

普及活動[編集]

アマチュアおよびモータースポーツ入門者向けのカテゴリとして、ワンメイクレースの運営を行っている。1981年(昭和56年)には国内初のワンメイクレースとして「スターレット・グランドカップ」を創設。2000年(平成12年)よりヴィッツアルテッツァ(2006年まで)で参加する「ネッツカップ」や、ラリー初心者向けのラリーシリーズ「TRDラリーチャレンジ」などを開催している。ヴィッツレースは趣味で参加できる「ナンバー付き車両レース」として人気を博している。2013年には86及びスバル・BRZによって争われる「GAZOO Racing 86/BRZ Race」もスタートした。

フォーミュラカーでは1991年(平成3年)より2007年(平成19年)までジュニア・フォーミュラシリーズとしてフォーミュラ・トヨタを主催。2006年(平成18年)~2013年(平成25年)には日産ホンダと共同でフォーミュラチャレンジ・ジャパン(FCJ)を運営していた。

また若手レーシングドライバー育成プロジェクトとしてフォーミュラトヨタ・レーシングスクール(FTRS)やトヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム(TDP)を運営。中嶋一貴小林可夢偉という2名のF1ドライバーを輩出した。

トヨタがWRCに復帰するに当たっても、全日本ラリー王者の息子勝田貴元新井大輝、全日本ラリーコ・ドライバー王者の足立さやかを育成に選抜、WRCに参戦すべくフィンランドを中心に欧州で修行を積んでいる。

社員の研修にモータースポーツを用いることにも熱心で、全日本ラリー選手権に選りすぐったメカニックたちで組織した「凄腕技能養成部」を送り込んだり、ニュル24時間で市販車の開発責任者にステアリングを握らせたりしている。

年表[編集]

  • 1957年 - オーストラリア1周ラリーにクラウンで出場し、総合47位で完走。
  • 1963年 - 第1回日本グランプリで3クラス制覇。
  • 1964年 - トヨタ自工のモータースポーツ開発部門として第7技術部(通称「ナナギ」)を設立。
  • 1966年 - トヨタ自工系ワークス・チームとして「チーム・トヨタ」を設立。
  • 1968年 - スポーツプロトタイプトヨタ・7を開発。
  • 1969年 - トヨタ・7のテスト中に福沢幸雄が事故死。(日本Can-AM)で川合稔が優勝。
  • 1970年 - 日本グランプリへの出場を中止。トヨタ・7のテスト中に川合稔が事故死し、北米のCan-AMシリーズ参戦計画を中止。
  • 1971年 - ワークス活動を統合し、トヨタ・モータースポーツ・クラブ (TMSC) が運営するTMSC-Rを支援。
  • 1972年 - オベ・アンダーソン率いるラリーチーム、アンダーソン・モータースポーツに支援開始。
  • 1974年 - オイルショックの影響で本社のモータースポーツ活動休止。イタリアのノバ社が欧州各国のF3にトヨタエンジンを供給開始。
  • 1975年 - 世界ラリー選手権 (WRC)に参戦するアンダーソン・モータースポーツを「トヨタ・チーム・ヨーロッパ (TTE) 」として公認。1000湖ラリーでWRC初勝利。特殊開発部解散。
  • 1979年 - アメリカのレース拠点としてTRD-USAを設立。第一回全日本F3選手権チャンピオンエンジンとなる。
  • 1982年 - トムス、童夢と提携し、WEC-JAPANトムス童夢・セリカCが参戦。
  • 1983年 - 全日本耐久選手権に参戦開始。F3規格導入後初となるマカオグランプリで、アイルトン・セナとともに優勝エンジンとなる。
  • 1984年 - WRCサファリラリーで初優勝し、1987年まで3連覇。トスコ・デポをトヨタ・レーシング・ディベロップメント (TRD) に改組。
  • 1985年 - ル・マン24時間レースに参戦開始。
  • 1988年 - WRCにセリカGT-FOURを投入。
  • 1989年 - トヨタ自動車モータースポーツ部設立。世界スポーツプロトタイプカー選手権 (WSPC) に参戦開始。
  • 1990年 - カルロス・サインツ日本車初のWRCドライバーズタイトルを獲得
  • 1991年 - フォーミュラ・トヨタ創設。
  • 1992年 - 二度目のWRCドライバーズタイトル獲得。IMSA GTPでチャンピオン獲得セブリング12時間レース初優勝。SWCモンツァで小河等が優勝。ル・マン最高位の総合2位。
  • 1993年 - ドライバーズタイトルに加え、WRCで日本車初のマニュファクチャラーズタイトル獲得デイトナ24時間レース初優勝。セブリング12時間、IMSA連覇。日本車で初のバハ1000制覇。アンダーソン・モータースポーツを子会社化し、トヨタ・モータースポーツ有限会社 (TMG) へ改称(チーム名はTTEで継続)。
  • 1994年 - WRCドライバーズ・マニュファクチャラーズタイトル獲得。全日本ツーリングカー選手権 (JTCC) および全日本GT選手権 (JGTC) に参戦開始。タコマにて初のパイクスピーク・ヒルクライム総合優勝
  • 1995年 - オール・アメリカン・レーサーズ (AAR) と組み、CARTへエンジン供給開始。トヨタ車体のチームランドクルーザーが市販車無改造ディーゼル部門からパリ・ダカールラリー初挑戦。WRCにて車両規定違反により選手権から除外。1996年も出場停止、1997年は終盤まで自粛。藤本吉郎が日本人初サファリラリー総合優勝。
  • 1996年 - セリカにてパイクスピーク・ヒルクライム制覇。以降1999年までトヨタ車が4連覇。チームランドクルーザーがダカールラリー初クラス優勝。
  • 1997年 - WRCに非公式ながら復帰。
  • 1998年 - ル・マン24時間レースに復帰。バハ1000制覇。
  • 1999年 - F1参戦を表明。TTEによるWRCとル・マンへの参戦を終了。3度目のWRCマニュファクチャラーズタイトル獲得。
  • 2000年 - 富士スピードウェイを買収。CARTでエンジンマニュファクチャラーとして初勝利。NASCAR参戦開始。
  • 2002年 - F1世界選手権に参戦開始。CARTのドライバーズ・エンジンマニュファクチャラータイトル制覇。アルゼンチンTC2000にて初のドライバーズ・チームズタイトル獲得。
  • 2003年 - CARTからインディ・レーシング・リーグ (IRL) へ転向。ジル・ド・フェランペンスキー)がインディ500優勝スコット・ディクソンチップ・ガナッシ)がIRLシリーズチャンピオンを獲得
  • 2005年 - IRLから撤退。F1第二戦マレーシアで初の表彰台獲得。ハリアー・ハイブリッド(レクサス・LS460h)でニュル24時間レース参戦。
  • 2006年 - NASCARの三大シリーズ戦の一つ、クラフツマントラックシリーズで初のドライバーズ・マニュファクチャラーズタイトル獲得。エンジン供給の形でデイトナ24時間制覇。以降2008年まで3連覇。国内トップフォーミュラに初めてエンジン供給を開始、初年度でドライバーズ・チームズタイトル獲得。スーパーGT・GT500の参戦ブランドをレクサスに変更。
  • 2007年 - 富士スピードウェイにてF1日本GPを開催。観客輸送などの運営方法が問題となる。GAZOOレーシングとして初めてニュル24時間へ参戦。ハイブリッドカーのスープラ十勝24時間レース制覇。
  • 2008年 - ソアラでNHRAファニーカークラスタイトル初獲得。
  • 2009年 - シーズン終了後にF1から電撃撤退。NASCAR三大シリーズの一つ、ネイションワイド・シリーズにて初のドライバーズ・マニュファクチャラーズタイトル獲得
  • 2012年 - WECハイブリッドマシンTS030 HYBRIDで参戦。VLN(ニュル耐久シリーズ)にてアストンマーティンCEOと豊田章男社長のコラボレーションが実現。WEC富士で中嶋一貴が小河等以来のスポーツカー世界選手権優勝。
  • 2014年 - WECのドライバーズ・マニュファクチャラーズタイトル獲得。ニュル24時間レースで3クラス制覇。中嶋一貴がル・マンで日本人初PP獲得。シリーズとしての86/BRZレース初開催。
  • 2015年 - レース活動を「GAZOOレーシング」の名の下に一本化。NASCARの最高峰であるモンスターエナジー・NASCARカップ・シリーズで初のドライバーズタイトル獲得
  • 2016年 - モンスターエナジー・NASCARカップ・シリーズにてマニュファクチャラーズタイトル獲得。同年のNASCAR三大シリーズ全てでマニュファクチャラーズタイトル制覇。
  • 2017年 - トミ・マキネン・レーシングと共にWRC復帰、2勝を挙げる。ル・マンで小林可夢偉がコースレコードでPP獲得。

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]