ラリー・モンテカルロ

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1999年大会

ラリー・モンテカルロRallye Automobile Monte Carlo)は、モナコ公国を中心に行われる世界ラリー選手権 (WRC) イベントの一つ。ラリー競技の雛形となった歴史的イベントである。

概要[編集]

1963年大会のエントリープレート(サーブ96 エリック・カールソン車)
昼間のチュリニ峠(2008年)
ブロー峠

初開催されたのはインディ500初開催年と並び同年となる1911年で、現在行われている国際モータースポーツイベントの中でも最も古い部類に入る。また格式も高く、いわゆる世界三大レースにも匹敵すると言われている。F1モナコグランプリと同じくモナコ自動車クラブ(Automobile Club de Monaco、ACM)がイベントを主催する。

世界ラリー選手権 (WRC) の発足以後は、通常1月下旬頃にWRCの開幕戦として行わることが多かった。しかし2009年よりWRCの開催にローテーション制(2年ごとに12戦ずつ、計24戦をWRCとして開催する)が導入されたため、2009年はWRCから外れインターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ (IRC) の一戦として開催された。2010年は当初WRCに復帰するものと見られていたが、主催者側では「タイムテーブルなど、イベント主催者の裁量の自由度が高い」ことを理由に、2010年もIRCの一戦として開催することを決定している[1]2012年にWRCに復帰した[2]

スタート/ゴール地点はモナコモンテカルロ。有名な公営カジノ前の広場でセレモニアルスタートが行なわれ、サービスパークとパルクフェルメは港湾部のヨットハーバーに設けられる。競技終了後は宮殿前で表彰式が行なわれ、時のモナコ大公から銀の賞杯が授与される。

実際の競技はほとんどモナコの北、フランス国内のアルプス山脈周辺の険しく曲がりくねった峠道で行なわれる。舗装された公道を走るターマックラリーであるが、所々に雪などが残っており、路面状況はアイス、時にはスノーの箇所があり、タイヤ選択が非常に難しいことで知られる。SSはレースゲームなどでも再現されたチュリニ峠 (Col de Turini) やシステロン (Col de Castillon) 、ブロー峠 (Col de Braus) などが有名である。最終日恒例のモナコGPコース上タイムトライアルは1964年に廃止されたが、2007年からGPコースの一部を使用したスーパーSSへと刷新された。

コンサントラシオン」(正式名称:「パルクール・デ・コンサントラシオン」)は、ヨーロッパ各都市からの約1000kmを48時間で走りきりモナコに参集するという「コンセントレーション・ラン」を意味する前座ステージであった。初期には競技の主体であったが、各ラリーの画一化を図る国際自動車連盟(FIA)の意向、主催のACMが各都市で車検を行う事への負担、および1980年代以降のラリーがSS主体で争われる競技へ変質したことから、ラリーのプロモーションという面しか持たなくなり、WRCとしては1995年を最後に廃止された[注釈 1]。コンサントラシオンは、その後1997年よりヒストリックカーカテゴリ[3]として分離し受け継がれている。詳細は後述の「ラリー・モンテカルロ・ヒストリック」を参照。

歴史[編集]

起源〜黎明期[編集]

第1回1911年の優勝者、ヘンリー・ロジャーの駆るテュルカ・メリー25Hp

「馬なし馬車」のサイクルカー移行期に程近い20世紀をまたいで、自動車が冒険旅行を主とした富裕層中心に普及していき、パリを中心に自動車競技も盛んになっていく頃。現ACMの前身であるSAVM(モナコモータースポーツ&自動車クラブ)が主体となり、当時のアルベール皇子1世の全面的な賛同を基に発足する。観光事業を財源とするモナコでは、1月のラリー・モンテカルロと5月のモナコグランプリ(1929年初開催)が伝統行事として続けられることになる。

ラリー (rally) という言葉には元々「再び集まる」と言う意味合いがあり、競技形態の起源はモンテカルロが初めてであった。モナコにはラリーすべてを開催できる充分な土地がない事を視野に入れ、主催者はヨーロッパ主要都市のいずれかから参加者をスタートさせ、モナコにゴールさせる形とした。

第1回大会のエントリーは23台。1,020km離れたパリフランス)から11台、1,700km離れたベルリン(当時:ドイツ帝国)から3台、1,319km離れたウィーンオーストリア)から2台、1,272km離れたブローニュ=シュル=メールフランス)から1台、1,340km離れたブリュッセルベルギー)から4台、670km離れたジュネーヴスイス)から2台が参加し、各車1月21日にスタートして、5日間にわたり一路モナコを目指した。

参加車両は屋根なしよりは屋根付き、乗員が多い方が優遇措置が取られるレギュレーションであったため、スポーティ車より乗用車が、極端な例ではバスが優勝する可能性すらあり、ラリー終了後、きめ細やかな審査が行なわれ、結果は翌日の表彰式まで発表されなかった。

走破距離に違いがあるものの、距離とスピードに大した意味はなく、6位の結果を不服として抗議を提出したフォン・エスマルフは賞典授与とパレードを拒否して失格処分となった。日々の平均時速が最低10km/h、最高で24km/hと決められ、定められた中継点を通過していれば良く、大きなトラブルにさえ見舞われなければ休養も食事も睡眠も摂れる、という風に、競技というよりも自動車を用いた社交イベントと言う趣が強かった。その名残として、競技終了翌日の盛大なパーティが伝統として受け継がれている。

第2回大会は参加87台と急増する一大イベントとなるが、第一次世界大戦勃発でラリーは12年に渡り中断される。

モータースポーツイベントとしての成長[編集]

1934年出場車フォードV8

大戦が明け、1924年3月にラリー・モンテカルロが再開される。競技形態は第1回大会と変わらず、欧州各国よりスタートしたのは30台となる。この時の優勝車のスペックは、2.0L直列4気筒エンジンの仏車ビニュナン。

翌、1925年には従来通り1月開催に戻され、参加42台に対して完走32台。優勝はルノー・40CV。女性ドライバー、マルティンがランチア・ラムダを駆り2位に入った。スタート地点も各地に散らばっていき、もっとも遠方からのエントラントは北アフリカチュニスからで、モンテカルロまでの走行距離はおよそ2,400マイル(約3,900km)にも及ぶおおらかな大冒険イベントとしての趣が大きかった。スタート地点ごとに、モンテカルロまでの距離に応じてのボーナスポイントが与えられはじめると完走率も高くなる。

1927年からは参加車両に変わった車[注釈 2]が観られるようになり、マシンの大小・性能差に関わらず、ドライバーやコ・ドライバーの力量が試される競技へと変わっていく。

自動車技術の進歩により、1930年代よりフットワークのあるラリー向けのコーチビルダーマシンが続々と名を連ねるようになっていく。ドナルド・ミッチェル・ヒーリーは既製品メドウズ社製エンジンに積み替えたインビクタ・Sタイプ (Invicta) を駆り1931年に優勝、1932年に2位に入っている。1935年には開発に携わったトライアンフ・ドロマイトで出場するなど、モータースポーツに対する話題性に一躍買っていた。また、仏車オチキスとフォード・V8 (Ford Model B (1932)) 勢にも勢いがあり、1932年から1934年まで3連勝を成し遂げている。

1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ラリー・モンテカルロは10年間中断する事となる。

復興変化の中の復活[編集]

戦前の環境下では専ら「選ばれし者とクルマ達による冒険」という趣があったが、10年のブランクを経て1949年に復活を遂げると、各メーカーが販売戦略の一環としてエントリーする巨大イベントのひとつとして変貌を遂げていく。

その変化はエントリー数に見て取れる様になり、1949年のエントラントは204台にものぼり、新興メーカーが低コストで大きな宣伝効果を狙うイベントにもなっていった。ブリストル等の変わり種も多かったが、イギリス・フォードワークスチームを編成して参加し始める。また、1951年よりバックヤードビルダーをはじめとする英国車の参加が多くなっていくと、他のカテゴリで名声を挙げているスターリング・モスルイ・シロンなど有力ドライバー達の活躍により大会ステータスが年々向上していく。また1954年には、こうした選手達による減点ゼロ頻発を防ごうとスピード重視に規則改定し、GPコースでのスピードテストが加えられる。1955年になるとサンビーム・タルボ90 (Sunbeam-Talbot 90) がワークスとプライベーターで計19台参加し、プライベーターチームがワークスチームを食うと言う番狂わせを演じている。

ワークスチームの台頭[編集]

1963年に投入されたミニ・クーパー

1950年代後半より古き善きアマチュア主義の時代は終息して行く様にも伺えられた。各メーカーが量産車とは名ばかりのコンベンショナルなラリー専用マシン(いわゆるワークスマシン)を作り上げ、プロフェッショナルなワークスチーム体制でしのぎを削るようになると、アマチュアドライバーが自分の車にわずかな改良を施してフロック等で好成績を得られるような競技レベルではなくなっていった。

コンパクト小排気量FF車であるサーブ・96を駆るスタードライバー、エリック・カールソンは、メルセデスベンツ・220SEシトロエン・DSなど並居るサルーンカーをよそに、1962年・1963年と連覇を成し遂げる。カールソンの活躍によるものも大きいが、当時ACMが設定していた排気量や車重、サイズに関わらず総合優勝を争えるようにしたハンディキャップ制度により、小型FF車でも勝利できるチャンスが巡ってきた。北欧系ドライバーが駆使する左足ブレーキング、FF車の特性を加味してのタックイン現象の利用により、モンテカルロのトリッキーな路面状況が次々と攻略されていく事になる。

サーブ以外にBMCミニMkⅠ1960年に投入。1962年1963年とミニ・クーパーへと進化させると、ラウノ・アルトーネンらが上位に食い込む活躍を見せる。この頃、後に英国フォードで手腕を発揮するスチュワート・ターナーがBMCワークスのマネージャーとなり、「ペースノート」、「レッキ」、「サービス計画」などの近代的なラリーシステムの骨格を導入し、モンテカルロでは後に常識となる「アイスノートクルー」をはじめて起用した。ハンデを考慮し、マイナーチェンジしたモデルを複数クラスへ分散エントリーし[注釈 3]、共倒れのリスクを避けるためコンサントラシオンのスタート地点を分けるなど、一歩先を進むオペレーションが行われていくことになる。

クーパーSへ進化すると、1964年にパディ・ホプカークがミニで初めての勝利を獲得。1965年はヘルシンキでBMCディーラーを営むティモ・マキネン1967年はアルトーネンも勝者となる。1966年も1、2フィニッシュしていたが、主催者のACMがヘッドライトの規定違反として「失格」とし、スキャンダルとなった[注釈 4]。この世代前後、FF車とRR車が約20年近く上位を独占する様になると「モンテではプロペラシャフト付きのクルマは勝てない」というジンクスが流布し、1980年台初頭までの時流となっていった[注釈 5]

スポーツカー時代到来[編集]

1962年からの4年間に及ぶミニの活躍の潮時はやってくる。1964年を最後に最終日恒例のGPコースタイムトライアルが廃止されるも、1965年にはSS距離が初めて200kmを超すコース取りとなる。1966年には簡略化されていたFIA競技車両規則がJ項と言う形で整理され、それに応える形でACMも「ハンディキャップ制」を廃止し、純粋なSSタイムでランキングを決めていくルールへと変更されていく。

この流れに台頭してきたのがポルシェ・911アルピーヌ・A110である。1968年は911Tのビック・エルフォード、アルピーヌのジェラール・ラルースら、スポーツカー選手権などで名を馳せる面々の活躍が目立つ。ドライコンディションではミニ・クーパーでも歯が立たず、アルピーヌ勢はチュリニ峠でラルースが観客の投げ込んだ雪塊でクラッシュするなどして全滅。ポルシェが1-2を飾りBMCミニが3~5位となると、BMCワークスはこの年限りでモンテから撤退する。

1969年にはSSの距離が408kmにまで伸びる。ポルシェはビヨン・ワルデガルドと移籍したラルースの911Sが、1968年~1970年にかけて大会史上37年ぶりに3年連続1-2を達成する。1971年、ポルシェが販売戦略として914/6を投入すると、2年連続3位であるアルピーヌにチャンスが訪れる。155馬力にまで進化させたA110を6台体制で投入し、オベ・アンダーソンをスポット起用して1-2-3を成し遂げる。

1972年は上位を独占していたアルピーヌ勢が全滅し、1968年大会での悲劇[注釈 6]を乗り越えたサンドロ・ムナーリランチア・フルヴィアHFで優勝する。WRC開幕戦として組み込まれることになった1973年はアルピーヌが1.8Lに進化し、1-2-3、5位と完勝を果たす。ポルシェワークスもラリー活動を縮小した事もあり、暫く誰もがこの流れが続くかに思えた。

1973年秋頃から第四次中東戦争含むオイルショックが発生し、多くのモータースポーツイベントが開催中止となる。ラリー・モンテカルロもそれに同調し、1974年の開催をキャンセルする。1年間のブランクを終えた1975年、コンサントラシオンを終えたラリーカーの勢力図はまた大きく変化して行く。

1960年代中盤より、ナイトステージ用にフォグランプ(ドライビングランプ)をステー等を使って後付搭載する様になり、1970年代ともなると一部スポーツカーを扱うチーム[注釈 7]ではライトポッドとして一体型となり、メンテナンスにおいて取り外ししやすい装備形状への合理化と変化がみられる。1970年代前後は、路面の積雪や凍結状況をペースノートに的確に反映させる「アイスノートクルー」が普及する途上で、チーム-ドライバー間の無線交信が普及しておらず[注釈 8]、観客がコース上に投げ入れた雪塊に、ドライ路面を得意とするスポット参戦の準レースドライバー達が足をすくわれ、結果に影響を及ぼす場面も時折見受けられた。

日本のエントラントによる挑戦[編集]

ワークス参戦 [編集]

日本のワークスメーカーで最初にモンテカルロに挑んだのは日産自動車であった。ダットサンチームの名の下、1965年より1967年まで日産・ブルーバード、1968年、1969年は日産・フェアレディ、そして1971年から1973年に240Zを投入。

1968年は若手のハンヌ・ミッコラがフェアレディ2000で9位入賞、1971年は優勝経験のあるラウノ・アルトーネンを招き240Zで5位、後のオペル(GM・ユーロハンドラー)チーム監督として手腕を発揮する事になるトニー・フォールも10位と健闘する。続く1972年、アルトーネンは3位と好成績を挙げ、日本でのラリー・モンテカルロの認知度は後のサザンクロス・ラリーサファリラリー同様、一気に高まる事となる。

1979年、1980年にはWRC常連勢(トヨタ・セリカ等)の他にもホンダ・シビック RS等のスモールハッチ車もスポットとして見受けられた。

プライベーターによる活躍[編集]

1970年台、この日産の活躍に刺激を受けた日本人ドライバーが次々とラリー・モンテカルロにプライベーターとしてスポット参戦する。

WRC組が混走となる1973年、トヨタ自工の山口義則によるトヨタ・セリカの初参戦を皮切りに、1976年には後にWRCのシードドライバーとなった柑本寿一が森川修と組んで日産サニー1200で出場。翌1977年には柑本は石垣勉と組み同サニー1200で総合32位完走。同年、中川一が日産サニークーペで森川修と組み完走。1979年は同組がマツダ・RX7でエントリー、クラス優勝する。柑本はその後ブルーバードターボ、シルビア等で5回出場。。森川は押しも押されもしない日本人名コ・ドライバーとなり1990年代後半まで折に触れ出場し、1997年には日下部保雄と組んで英ローバーのワークス・ミニクーパーで当時のアルベール王子杯(Challenge Prince Albert de Monaco[4])クラスで出場している。

日本人による最多出場は1980年から1991年にかけて、歴代「日産・パルサー」で出場し続けた石川英正の11回となる。

1973年以降の優勝者[編集]

シリーズ 優勝者 車輌
ドライバー コ・ドライバー
1973年 WRC フランスの旗 ジャン=クロード・アンドリュー フランスの旗 ミシェル・プティ (BICHE) アルピーヌ・ルノーA110 1800
1975年 イタリアの旗 サンドロ・ムナーリ イタリアの旗 マリオ・マヌッチ ランチア・ストラトス HF
1976年 イタリアの旗 サンドロ・ムナーリ イタリアの旗 マリオ・マヌッチ ランチア・ストラトス HF
1977年 イタリアの旗 サンドロ・ムナーリ イタリアの旗 シルヴィオ・マイガ ランチア・ストラトス HF
1978年 フランスの旗 ジャン=ピエール・ニコラ フランスの旗 Vincent Laverne ポルシェ・911
1979年 フランスの旗 ベルナール・ダルニッシュ フランスの旗 アラン・マエ ランチア・ストラトス HF
1980年 ドイツの旗 ワルター・ロール ドイツの旗 クリスチャン・ガイストドルファー フィアット・131・アバルト
1981年 フランスの旗 ジャン・ラニョッティ フランスの旗 ジャン=マルク・アンドレ ルノー・5 ターボ
1982年 ドイツの旗 ワルター・ロール ドイツの旗 クリスチャン・ガイストドルファー オペル・アスコナ 400
1983年 ドイツの旗 ワルター・ロール ドイツの旗 クリスチャン・ガイストドルファー ランチア・ラリー037
1984年 ドイツの旗 ワルター・ロール ドイツの旗 クリスチャン・ガイストドルファー アウディ・クワトロ A2
1985年 フィンランドの旗 アリ・バタネン イギリスの旗 テリー・ハリーマン プジョー・205ターボ16
1986年 イタリアの旗 ヘンリ・トイボネン アメリカ合衆国の旗 セルジオ・クレスト ランチア・デルタS4
1987年 イタリアの旗 ミキ・ビアシオン イタリアの旗 ティツィアーノ・シヴィエロ ランチア・デルタHF 4WD
1988年 フランスの旗 ブルーノ・サビー フランスの旗 ジャン=フランソワ・フォーシーユ ランチア・デルタHF 4WD
1989年 イタリアの旗 ミキ・ビアシオン イタリアの旗 ティツィアーノ・シヴィエロ ランチア・デルタ インテグラーレ
1990年 フランスの旗 ディディエ・オリオール フランスの旗 ベルナール・オセッリ ランチア・デルタ HF インテグラーレ 16V
1991年 スペインの旗 カルロス・サインツ スペインの旗 ルイス・モヤ トヨタ・セリカ GT-FOUR
1992年 フランスの旗 ディディエ・オリオール フランスの旗 ベルナール・オセッリ ランチア・デルタ HF インテグラーレ エボルツィオーネ
1993年 フランスの旗 ディディエ・オリオール フランスの旗 ベルナール・オセッリ トヨタ・セリカ GT-FOUR
1994年 フランスの旗 フランソワ・デルクール フランスの旗 ダニエル・グラタループ フォード・エスコート RS コスワース
1995年 スペインの旗 カルロス・サインツ スペインの旗 ルイス・モヤ スバル・インプレッサ WRX
1996年 W2L フランスの旗 パトリック・ベルナルディーニ フランスの旗 ベルナール・オセッリ フォード・エスコート RS コスワース
1997年 WRC イタリアの旗 ピエロ・リアッティ イタリアの旗 ファブリツィア・ポンス スバル・インプレッサ WRC
1998年 スペインの旗 カルロス・サインツ スペインの旗 ルイス・モヤ トヨタ・カローラWRC
1999年 フィンランドの旗 トミ・マキネン フィンランドの旗 リスト・マニセンマキ 三菱・ランサーエボリューションVI
2000年 フィンランドの旗 トミ・マキネン フィンランドの旗 リスト・マニセンマキ 三菱・ランサーエボリューションVI
2001年 フィンランドの旗 トミ・マキネン フィンランドの旗 リスト・マニセンマキ 三菱・ランサーエボリューションVI
2002年 フィンランドの旗 トミ・マキネン フィンランドの旗 カイ・リンドストローム スバル・インプレッサ WRC
2003年 フランスの旗 セバスチャン・ローブ モナコの旗 ダニエル・エレナ シトロエン・クサラ WRC
2004年 フランスの旗 セバスチャン・ローブ モナコの旗 ダニエル・エレナ シトロエン・クサラ WRC
2005年 フランスの旗 セバスチャン・ローブ モナコの旗 ダニエル・エレナ シトロエン・クサラ WRC
2006年 フィンランドの旗 マーカス・グロンホルム フィンランドの旗 ティモ・ラウティアイネン フォード・フォーカスWRC
2007年 フランスの旗 セバスチャン・ローブ モナコの旗 ダニエル・エレナ シトロエン・C4 WRC
2008年 フランスの旗 セバスチャン・ローブ モナコの旗 ダニエル・エレナ シトロエン・C4 WRC
2009年 IRC フランスの旗 セバスチャン・オジェ フランスの旗 ジュリアン・イングラシア プジョー・207 S2000
2010年 フィンランドの旗 ミッコ・ヒルボネン フィンランドの旗 ヤルモ・レーティネン フォード・フィエスタ S2000
2011年 フランスの旗 ブライアン・ブフィエ フランスの旗 ザビエル・パンセリ プジョー・207 S2000
2012年 WRC フランスの旗 セバスチャン・ローブ モナコの旗 ダニエル・エレナ シトロエン・DS3 WRC
2013年 フランスの旗 セバスチャン・ローブ モナコの旗 ダニエル・エレナ シトロエン・DS3 WRC
2014年 フランスの旗 セバスチャン・オジェ フランスの旗 ジュリアン・イングラシア フォルクスワーゲン・ポロR WRC
  • 1974年オイルショックの影響で開催をキャンセル。
  • 1996年は2リッターワールドカップ (W2L) として開催。

ラリー・モンテカルロ・ヒストリック[編集]

現在、ゆかりのあった「パルクール・デ・コンサントラシオン」は「ラリー・モンテカルロ・ヒストリック」と言う形で受け継がれており、1997年より1955年から1980年までのモンテカルロ・ラリーに当時参戦記録のあった車両がエントリー可能で、毎年世界中のエンスージアストの手によりレストアされ集う、現代版ミッレミリア同等の競技としてカテゴライズされている。

参戦資格[編集]

以下、100周年である2011年大会のレギュレーション上では、FIAのヒストリックラリーカテゴリ[5]に準じ、1955年の第25回大会から1980年の第48回大会までACMが把握しているラリー・モンテカルロ出場記録に記録が残っている車種でなければエントリーできない[注釈 9]。かつ、2005年例ではFIA発行の「ヒストリックカー」証明書の所持も必要となり、条件をパスしていたとしてもドライバー・コドライバーの戦歴を考慮した上で選考漏れする例があり、参戦は誰しもができるわけではない[6]

競技形式[編集]

競技の形式的には近代版ミッレミリア等とは異なり、コンマ1秒を争うレギュラリティラン形式が用いられ、他の単距離上のパレード的なデモンストレーションランと言えるヒストリックカー競技とは一線を画している。その最大の魅力としては昔ながらの一週間で計3,000km超とする走破距離にあり、2011年ルールでのスタート地点の選択肢はスコットランドグラスゴーポーランドワルシャワモロッコマラケシュスペインバルセロナフランスランスにパルクフェルメが設定され、現地で車検を終えた順に出走当日まで保管後、出走と言う流れとなる。ただし、距離面で有利となるスタート地点であるランスとバルセロナは年式が古いクラスと小排気量車クラスのみエントリーが許されている。

競技詳細[編集]

スタート地点により走破日数が異なるコンサントラシオンを無事完走すると、第2ステージである「エタップ・クラスマン」から「エタップ・コミュン」1、2と1日づつのスケジュールとなり、コミュン2到着直後はチュリニ峠のSSが含まれるナイトステージである「エタップ・フィナル」へとコマが進められる。ヒストリックでのGr.4カーでグラスゴーからのスタートの場合、全行程7日間。全走行距離はゆうに3,500kmを超える。

それまでのWRCラリーラウンド上ではエタップ・クラスマンよりコマ地図が各エントラントに配布されるが、ヒストリックの場合は全ステージとも原則としてレギュラリティ・テスト区間であるZR区間(WRCでのSSにあたる)以外配布されない(これも現在は廃止されている)。

ZR区間では区間指示速度が与えられ、その区間実走時間との差分減点となり、指示速度は50km/hに近い速度からなり、SSではスタート/フィニッシュ間でタイム計測が行われる。2011年のZR区間は14か所にのぼり、最長区間距離は66kmに及ぶ箇所もある。

いずれも、現地交通法規より低い指示速度を与えられている建前上、競技中は区間封鎖はされないため、不意の対向車が現れたりするところは昔ながらのルールさながらである。ただし、区間やその時の路面状態により、その指示速度が維持できないことも多く、結果的に普通のスペシャルステージのように「速い者勝ち」となる。

コ・ドライバーのZR区間での役割としては常に指示速度どおりに進んでいるかを機械式トリップメーターと計算機で計算しながらの進行となり、いわゆる近年のラリーコンピューターの類は使用は許されていない。中には車体前輪に車速センサを取り付け、カーナビを堂々とつけるエントラントも見受けられるが、古き良きラリーを楽しむエントラントは社交辞令として勿論装着はしていない。

エントラント[編集]

往年の世界ラリー選手権経験ラリードライバーレーシングドライバーからのエントラントも多く、ジャン・ラニョッティブルーノ・サビーラウノ・アルトーネンエリック・コマスブルーノ・ティリーらも参戦しているため、上位層は非常にレベルの高い走りとサポートが要求される。

日本のエントラントによる参戦[編集]

2009年には前述の中川一・森川修が1979年にクラス優勝したマツダRX-7そのもので出場し完走(サービス隊も1979年時と同じ体制)。2011年には森川修が日本人エントラントのコ・ドライバーとして日産・240Zで出走。また2012年、2013年にも出場し無事完走している。

同年、現東京大学特任教授の草加浩平率いる東京大学と関東工業自動車大学校の学生たちは授業の一環として世界初となる学生チームによるラリー・モンテカルロ・ヒストリック参戦を果たした。同授業は東京大学の掲げる国際化教育とタフな東大生[7]を育成する場として、計画・運営・資金調達・規則翻訳・レストア・整備・改造まで全てを学生が担当した。日本での活動に加え、現地に於ける競技車の整備・修復・サポートまで一貫して学生が行うという今までに類をみない画期的な授業として日本のみならず世界各国でも注目を集めた。学生チームはトヨタ・スプリンタートレノ (TE27) を競技車両としてレストア・整備を行った。草加浩平と現オリジナルボックス代表である国政久郎のタルガ・タスマニアにおけるクラス優勝経験のあるコンビがグラスゴーより出走した。競技車両のTE27に大きなトラブルはなく、現地でサービスを行った学生達もワークスさながらのサービスワークをこなし無事完走を果たした。学生チームは、日本人として史上最高位を獲得し、大会参加者からも賞賛を受ける結果となった。

世界最高知名度の伝統的ラリーに教育の一環として学生チームが出場するということは現地ヨーロッパでも注目を集め、東京大学関東工業自動車大学校チームはテレビニュースや新聞、雑誌などに多数取材を受け、世界各国で放映・掲載された。

上記の様に、ホンダ・シビック RS(EB1) 等のモータリゼーション期に投入された車で当時の参戦メンバーの手により2000年代中頃から参戦するエントラント[8]も多数見受けられる。

参考文献[編集]

  • 「ラリー&クラシックス Vol.4 ラリーモンテカルロ 100年の記憶」、イデア、2011年、ISBN 9784779612060

脚注[編集]

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  1. ^ 1996年と1997年にも行われたが、この年はWRCのタイトルが掛けられていない
  2. ^ 上位はアミルカー1100、セルティック・ビニャーニ。他にもドイツ製シュタイア等がエントリーしていた。
  3. ^ BMC・ADO16に代表されるバッジエンジニアリング車であるライレー・エルフ及びケストレル、ウーズレー・ホーネットバンデン・プラ・プリンセス、MG・1100など、年々ミニ母体のエンジン仕様の違いによってもエントリー分散化していく。
  4. ^ それ以前にもACMが「アンチ・ミニ」の態度を示しているようにも見えた事からこの様な事態へと繋がった。この繰上りで優勝となったのはヘンリの父であるパウリ・トイヴォネン。
  5. ^ 1980年代初頭までにワルター・ロールによるフィアット・アバルト131オペル・アスコナ400などFR車がランキングトップに台頭してくるとそのジンクスも薄れていった。
  6. ^ 1968年、アテネ-モナコでのコンサントラシオン中、コ・ドライバーであるルチアーノ・ロンバルディの運転するフルヴィアは一般車と衝突、ロンバルディは死亡。助手席で仮眠を取っていたムナーリは重傷を負う事故となり、翌日ベッドの上でこの悲運を知る事になる。以後、ムナーリ自身このラリーに特別な並々ならぬ感情を抱き、成長していくことになる。
  7. ^ ランチア・ストラトスでは4連ライトポッド、フィアット・124・アバルトスパイダーダットサン・280Zなどではボンネット埋め込み形状のものが試されている。
  8. ^ 無線機をラリーやレースに持ち込み始めたのはランチアを率いるチェーザレ・フィオリオで、ストラトスを実戦投入すると変わりゆく山岳の天候や現地側トラブルにいち早く対応できており、後の1985年ラリー037時代でのSS中のサービスが禁止されていなかった当時、コースコンディションが変わる直前のSS中路肩でのタイヤ交換等でも無線機が活躍している(三栄ムック ラリーカーズ Vol.1 Lanchia Stratos HF「Interview with Key Person チェザーレ・フィオリオ」、1985年当時映像より抜粋参考)。
  9. ^ ただし、当時実際参戦した履歴のある同一シリアルN.O.のマシンでなくても同型、同年式の市販車を競技規則に則した範囲の改造及びリビルドを施した上での参戦も可能。

出典[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]