センゴク

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センゴク
ジャンル 歴史漫画
漫画:センゴク
作者 宮下英樹
出版社 講談社
掲載誌 週刊ヤングマガジン
レーベル ヤンマガKCスペシャル
発表号 2004年21号 - 2007年45号
発表期間 2004年4月19日 - 2007年10月6日
巻数 全15巻
話数 全149話
漫画:センゴク天正記
作者 宮下英樹
出版社 講談社
掲載誌 週刊ヤングマガジン
レーベル ヤンマガKCスペシャル
発表号 2008年3号 - 2012年26号
発表期間 2007年12月17日 - 2012年5月28日
巻数 全15巻
話数 全149話
漫画:センゴク一統記
作者 宮下英樹
出版社 講談社
掲載誌 週刊ヤングマガジン
レーベル ヤンマガKCスペシャル
発表号 2012年31号 - 2015年45号
発表期間 2012年7月2日 - 2015年10月5日
巻数 全15巻
話数 全134話
漫画:センゴク権兵衛
作者 宮下英樹
出版社 講談社
掲載誌 週刊ヤングマガジン
レーベル ヤンマガKCスペシャル
発表号 2015年50号 -
発表期間 2015年11月9日 -
巻数 既刊3巻(2016年9月現在)
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センゴク』は、宮下英樹による漫画作品。講談社刊『週刊ヤングマガジン』に2004年から掲載され、第2部を『センゴク 天正記』、第3部を『センゴク 一統記』として連載[1]。2015年50号から第4部にして最終章『センゴク権兵衛』が連載中[1]。2007年2月より番外編として『センゴク外伝 桶狭間戦記』(全5巻)が連載され、累計発行部数は連載11年目となる2015年3月時点で累計750万部[2]

あらすじ[編集]

時は戦国時代稲葉山城の戦いで美濃・斎藤家の家臣だった仙石権兵衛秀久は織田信長に捕らえられ、その部下として織田家中に迎え入れられる。

合戦に明け暮れる過酷な日々の中で権兵衛は、織田信長・羽柴秀吉ら戦国時代の英傑たちの下で失敗と挽回を繰り返しながら成長してゆく。

第1部「センゴク」[編集]

美濃・斎藤家家臣仙石権兵衛秀久(十五)は美濃を征服した尾張国主・織田弾正忠信長に見出され、その家臣・木下藤吉郎秀吉の寄騎となる。怒涛の勢いで勢力を広げる織田家に危機感を抱いた諸大名の信長包囲網の中、権兵衛は数々の死闘を潜り抜ける。1567年稲葉山城の戦いから金ヶ崎の退き口姉川の戦い比叡山焼き討ち三方ヶ原の戦い一乗谷城の戦いを経て、1574年小谷城の戦いによる浅井家の滅亡までが描かれる。全15巻。

第2部「センゴク 天正記」[編集]

小谷城攻略の功績により大名に取り立てられた秀吉と共に権兵衛(二十二)も一千石の領地を預かる領主となり、家臣団を組織する立場となった。一指揮官としての成長を迫られながら、未だ続く信長包囲網を戦い抜く。1574年長島一向一揆から長篠の戦い雑賀攻め手取川の戦い中国攻め甲州征伐による武田家滅亡までが描かれる。全15巻。

第3部「センゴク 一統記」[編集]

1582年中国遠征を続ける秀吉の備中攻めより物語は始まる。天下統一を目前とした織田家は本能寺の変により衰退の一途を辿ることになる。一つの時代が終わりを迎え、新たなる時代の始まりを迎える。高松城水攻め、本能寺の変中国大返し山崎の戦い清洲会議引田の戦い賤ヶ岳の戦い小牧・長久手の戦いまでを描く。全15巻。

第4部「センゴク権兵衛」[編集]

1584年の九州から物語は始まる。沖田畷の戦いにより龍造寺の衰退が始まり、島津家は九州統一まであと一歩と迫っていた。一方、淡路国の大名となった権兵衛(三十四)は長宗我部の抑えとして役割を果たしていた。

概要[編集]

戸次川の戦いでの大敗などから余り好意的な評価を受けてこなかった美濃出身の武将仙石秀久戦国史上最も失敗し挽回した男として、主人公に据えて戦国時代を描く異色の作品である。タイトルは戦国時代と主人公の姓「仙石」を引っかけたもの。

仙石同様に山崎新平鳥居景近野々村正成堀才介といったマイナーな武将が、展開の鍵を握る人物として描かれている点も本作の大きな特徴である。その上で丹念な歴史研究に基づいて戦国時代の通説・俗説を覆す仮説を「だがこの通説には疑問が残る」というフレーズと共に提示するのも本作の特徴である。こうした精密な時代考証と大胆な人物描写の両立による歴史描写は本作の魅力の一つであり、「全ての常識を覆す超リアル戦国合戦譚」がキャッチフレーズとされている。また作中では様々な古文書の一文が解説文と共に引用され、出典元が明確にされるなど考証に関する誠実な姿勢がとられている。考証では東京大学史料編纂所本郷和人助教授(准教授に改称後、2012年から教授)ら識者の協力を得ており[3]、自身も現地取材や文献調査は勿論、新しく発表された研究論文などにも目を通しているという[4]。また実在する別時代の歴史的人物をモチーフとして反映させたり、時事的な話題を作中のアイディアにしているなど[5]必ずしも史実のみを絶対視している訳ではない。

連載が続く中で大きな話題を集めて第32回講談社漫画賞一般部門に受賞候補として選出される人気作へと成長し、様々な小説・外伝・関連書籍が展開、2011年にはコンビニで総集編も販売された。『戦国大戦』『鬼武者Soul』などゲーム作品とのタイアップ企画も多く、2014年には『信長の野望・創造』とのコラボレーションが行われた。累計発行部数は連載11年目となる2015年3月時点で累計750万部[6]に達している。同年には公益財団法人・日本財団が主催した「これも学習マンガだ!」の百選に歴史漫画部門で選ばれた[7]

登場人物名の表記法[編集]

この作品では、登場人物名は「(苗字)+(仮名or官職名)+(諱)」で表記され、名が挙がる場合(特に口語)では諱より仮名や官職名が用いられる。

現代では歴史上の人物名を表記する場合、一般に「仙石 秀久」のように「(苗字)+(諱)」で表される。正しくは「(苗字)+(仮名or官職名)+(諱)」(例:仙石権兵衛秀久)であり、特に諱は朝廷の公式文書などで用いられるにすぎず、もっぱら日常会話などでは苗字か仮名、官職名が用いられるのが一般的だった(センゴクは権兵衛、秀吉は籐吉郎または筑前守、信長は上総介または弾正忠)。また、諱を避けるためでもある。

詳しくは諱#諱と通称との区別の消滅 や、避諱#日本での例を参照のこと。

一方で、出家し俗名(本名)とは別に仏教徒としての戒名(法名)を持っていた武田晴信(武田信玄)を武田法性院信玄、上杉輝虎(上杉謙信)を上杉不識庵謙信などのように、本名の苗字と戒名を混ぜている本作の独自表記も見られる。例えば、本作中の他の大名や武将(織田弾正忠信長など)とあわせた表記をこの二人にするならば、武田信玄は「武田大膳大夫晴信」、上杉謙信は「上杉平三輝虎」のようになる。戒名(法名)の場合は武田信玄が「徳栄軒信玄(法性院信玄は死後)」、上杉謙信が「不識庵謙信」であり、本名における氏姓名は用いられない(本名をそのまま戒名とする人物の場合はその限りではない)。

他、信長の妹であるお市の方が織田家ではなく夫の浅井家の人間であることを強調するために夫の苗字を使用し「浅井市」と名乗るなど、本作での名は必ずしも史実に忠実ではない。江戸時代以前の日本では婚姻関係を結んでいる夫婦であっても源頼朝の妻・北条政子が生涯北条であったように、婿養子でもない限りは婚姻後に配偶者の氏や苗字に改めることはなかった。

物語の留意点[編集]

姉川の戦い 浅井軍の策略
両軍は姉川を挟んで対峙するが、夜になると浅井軍は松明を連ねて小谷城へと引き上げていく様子が織田軍より観察された。横山城救援を諦めたように見せかけたのだ。こうして再度、横山城を攻めるであろう織田軍に奇襲攻撃を浴びせるのが『母喰鳥(フクロウ)の計』である。作戦の立案者は山崎新平俊秀。織田軍不利の中、ゴンベエは浅井軍の先駆け大将の山崎新平を打ち取り士気を上げる。横山城を攻めていた織田・徳川諸将が戻って帰り戦いは織田軍の勝利となる。
信長の首都(美濃)放棄
三方ヶ原の戦いの最中、陣中で信玄倒れるも武田軍はそのまま越年し、徳川領野田城を攻める。さらに織田の本拠地美濃に侵攻し放火・略奪を始めた。信長は家臣一同を岐阜城に招聘し、岐阜城を捨て京を拠点とすることを言い渡す。強き武田に岐阜を与え、それ以上の領土を弱き朝倉から奪うことも宣言する。こうして京侵攻が開始され、荒木村重、細川藤孝も味方に加わる。将軍義昭の二条城を攻略し、上京(かみぎょう)を焼く。ところが武田は岐阜に入らないために信長は一旦岐阜に戻る。そして信玄は死す。
竹中半兵衛の奇策
小谷城攻略戦。竹中半兵衛の奇策で堀を渡るため櫓を倒し橋とし、これにより第一関門を突破、城下町に兵がなだれ込んだ。また、小谷城の中枢たる「虎口」には堡塁のような掩体と隠し銃座があり、センゴクの部隊は大損害を被ってしまう。爆弾も使用され地獄の惨禍に見舞われるも僅か一日で「虎口」を陥としてしまう。
信長の天下諸色(臨時徴税)
信長は高天神城への後詰(救援)に向かうがわざと遅延し、勝頼との決戦を避ける。こうして高天神城は勝頼の手に落ちる。やがて家康と家臣団は信長に謁見する。酒井忠次は「徳川の激情の血は織田家の無情なる扱いを許しましょうや。家康自ら武田になびいても文句はないと」と怒りをぶちまける。信長は詫びとして夥しい黄金を家康に贈る。これは信長が天下諸色(臨時徴税)により集めたものだ。家康はこれに「慰謝料としてではなく掛け金として貰い受ける」と返答する。こうして両家の絆はかろうじて保たれたのであった。
長篠の戦いの全貌
先ずは鳶ヶ巣山砦に勝頼本陣があると見た酒井忠次がこれを襲撃・占領に成功する。しかし、これを知った勝頼はいたずらに兵を割く下策であると気にも留めない。勝頼の狙いは山県・馬場の最強部隊を両翼に配し、敵両翼を攻撃。敵中央がこれに兵を割き手薄になったところに中央突破をしかけるというものであった。鶴翼の陣から魚鱗の陣に移行するものである。しかし、勝頼軍は設楽原の田畑のあぜ道を通るため“殺し間”(障子堀と同じ理屈)に飛び込むこととなる。激しい銃撃にさらされるが竹束に守られ、やがて田畑を横隊で進む“仕寄り”に切り替え織田の柵に襲いかかる。設楽原の織田方陣地は山の麓を掘削した長大な丘であり、そこに柵を設けている。驚くべきことに陣全体が城塞のようであり武田兵はそこを登り侵入してくる様子が描かれている。中央突破を図るべくついに勝頼本陣が前進を開始する。信長は単騎、駆けつけ野々村鉄砲隊に下知を下す。「一の柵、ニの柵が破られても鉄砲を放つな」。これは最前線の味方を見殺しにしてよしとの命である。ちなみに秀吉軍は全ての陣を見渡せる高台の上にあった。信長の企図するところは鉄砲の交換射撃では武田を防げない。局地的な殺し間ではなく全部隊による包囲一斉射撃を目論んでいた。侵入して来た真田、内藤軍に対する織田本軍、秀吉軍、明智軍による射撃戦が展開する。猛烈な射撃音に事態の異常を察した山県昌景は単騎、勝頼のもとへと走るが射殺されてしまう。こうして武田勢は崩れ去り撤退することになる。
貨幣経済と織田家の高転び
明智は信長の居る前で参内した家康に「信忠補佐役として貴殿に日の本を託す所存」と伝え、「織田が高転びを起こさぬためその因果について知らねばならぬ」と語る。かつて大内氏は中国で揉め事を起こして銭の流れが滞るようになり撰銭が進行してしまった。また、尼子氏は銀の中国輸出で潤っていたもののスペインから中国への銀流入によりやはり撰銭が起こり没落していった。信長は貨幣の流通停滞が織田家の存続に関わることを憂慮していた。そこで信長は海外に進出することで富の確保を図ることを目論んでいたのである。
毛利軍が高松城を救援しなかった理由
高松城では清水宗治が水攻めに耐え籠城中。宗治は小早川隆景から「籠城策により厭戦の気分を生み出し、和睦の道を探る。羽柴は大きくなり、やがて信長に牙を剥くであろう」と言い含められていた。毛利・吉川・小早川4万の大軍が高松城救援に着陣する。「堤を破壊するべし」の声が毛利陣内に起こるが、戦場を観察した吉川元春はそれでは敵の包囲圏内に飛び込むことになると識る。羽柴軍の守りは固く堤の破壊も救援も困難と判断された。なお、堤は12 - 19日間という短期間で作られた。これは堤の長さが300m程度に過ぎないから可能であったとの解釈を作者は示している。
光秀の思惑
信長を弑して後、光秀は朝廷・寺社に銀子(ぎんす)を献上し、抜かりなく政治工作を行う。想定される戦場の大山崎では町を戦火に晒さないとする禁制が敷かれた。光秀は大山崎では保(地縁共同体)により民が主体的に町を治めており、理想の社会と見ていた。故にこの町を戦場とすることに反対であった。光秀は勝龍寺城を本陣としてその近辺に土塁を築いていた。数で優る羽柴軍に先ず包囲戦術をとらせ敗走し、土塁と土塁の狭間を“殺し間”としそこに敵を誘い込んで殲滅する作戦である。戦いの流れは光秀の思惑通りに進んだが、殺し間に殺到する羽柴軍の勢いは凄まじくついに明智の軍勢は敗走してしまう。
お市の方を柴田修理に与える
秀吉は清洲城に赴き市とその娘たちに会う。秀吉は市に柴田に嫁ぐように申し出る。その対として娘を羽柴家に嫁がせ織田家内の緊張を緩和する考えでいた。秀吉は長女の茶々を於次丸(信長の四男で秀吉の養子)に嫁がせる気だ。羽柴・柴田両家に誼を作るこの考えに市も理解を示す。
※勝家は12人もの妾を囲みながら正妻がいない。これはかつて信長に弓を引いたことに対する配慮であった。
清須会議が開かれる。柴田勝家が来る前に羽柴、丹羽、池田の重臣間で織田信忠の子、三法師を後継に据えることで合意する。柴田勝家着到。三法師の後見人を信孝とすることで合意する。また、国分けについては武功第一の羽柴が最大領土を獲得する。
一次史料
作者は本作品を描くにあたって多くの一次史料や研究書を用いている。各巻の巻末には信長公記、甲陽軍鑑、日本史(ルイス・フロイス)、日本戦史(陸軍参謀本部)、改選 戦国家譜、雑兵物語、細川幽斎覚書など価値ある一級史料の名を連ねている。

登場人物[編集]

仙石家[編集]

権兵衛と川爺以外の人物は第二部から登場。元々は美濃の豪族であったが、秀久が織田家に仕官すると数々の武功を上げ、羽柴軍の寄騎衆でも屈指の規模となったが、権兵衛の方針で武具などに銭を惜しまず、戦のためならば後先考えず、借銭なども厭わないため、万年金欠となっているのが悩みの種。本拠地は近江国野洲郡だが、美濃や播磨にも領地を有している。第三部で淡路国を平定したことで大名(淡路国・洲本城主)となり、以後は羽柴家の事実上の四国方面担当となっている。

仙石秀久(せんごく ひでひさ)
声 - 小野大輔戦国大戦) / 三木眞一郎鬼武者Soul
通称は権兵衛。本作品の主人公。美濃地方に所領を持つ豪族の当主で、当時の成人男子の平均身長を頭一つ上回る五(約171cm)の体格を持つ青年。ダンゴ鼻が特徴[8]。額には山崎新平との一戦でつけられた向こう傷がある。信長からは「ダンゴ」、秀吉からは「センゴク」、周囲からは「ゴンベ」「ゴン」「ゴン兄ィ」とも呼ばれる。元は美濃守護・斎藤氏に仕えていたが、斎藤龍興を破って美濃を占領した織田信長に見出され、木下秀吉の寄騎として織田家に仕える事になる。恵まれた体力と生命力を活かし、戦場では百人力の槍働きをする。反面、頭脳労働が苦手で考え無しに動く事も多い猪武者だが、直情的な気質から多様な人々に信を置かれている。後に大名となっても身分に関係なく人付き合いをしており、商人らを厚遇して情報収集をしたり、時には自ら間者働きなども行っている。また動物的な勘は鋭く、経験と年齢を重ねるに連れ少しずつ大局的な物事の見方を身に付けてきている。
第二部からは小谷城攻略戦の活躍で1000石を与えられて一部隊を率いる旗本へと栄達し、自身の槍働きだけでなく部下を抱える将へと成長を迫られる。「出世するほどに苦しくなる」と一瞬の倦怠を抱くが、古参兵である以上は秀吉の栄達に合わせて更なる重職を委ねられていく。西国方面司令官となった秀吉の中国攻めの最中に5000石に加増されて家臣団を組織、続く荒木村重の謀反では湯山奉行(ゆのやまぶぎょう)として湯山街道の封鎖を一任され、井上祐之の亡き後はついに上津城主に任ぜられる。
第三部では、秀吉から誰とでも分け隔てなく付き合える性格を見込まれ、四国方面軍の背後となる淡路国の大名に推薦される。本能寺の変中国大返し後に自らの家臣団のみで淡路に進軍して洲本城を攻め落とし、山崎の戦いで苦境にあった秀吉に武将としての成長を見せた。光秀討伐後も織田家中の混乱が続いた為に宛行状が発給されず“”代官という立場のまま、賤ヶ岳の戦いでは柴田軍・羽柴軍の膠着を破るべく淡路から四国へ向かい、不利を承知の上で勝家側と同盟を結んだ長宗我部元親と対峙する。讃岐では合流した三好家の軍勢と長宗我部軍に奇襲を仕掛けて引田の戦いに臨み、香川信景率いる先遣隊に勝利を収めた。しかし戦勝に沸く将兵らの意気に押されて本陣奇襲を敢行した所を元親の計略に嵌って包囲殲滅され、森権平らを喪う完敗を喫した。
第四部では、羽柴軍の主要な大名の一人として「紀州征伐」では水軍を率いて参陣するも、長年の戦友であった妙算と決別することとなった。
コラボレーションとしてセガ・インタラクティブトレーディングカードアーケードゲーム戦国大戦』、カプコンブラウザゲーム鬼武者Soul』に武将として登場している[9]
  • 第一部1巻寸評:戦国史上最も失敗し、挽回した男
  • 第二部1巻寸評:史上最も失敗し、挽回した男
お藤(おふじ)
権兵衛の正室野々村正成の姪で、野々村幸成の娘。元は小川土佐守の室で間に一女を儲けたが、気性が合わず離縁している。おねの推薦により再婚相手として権兵衛との縁談を取りもたれるも、最悪の出会いを果たした事で一時は破談してしまう。しかし紆余曲折を経て権兵衛の素朴さに触れて最終的には婚姻を結び、菊太郎らを儲ける。年上女房として権兵衛を尻に敷いているが内心では夫に惚れ込んでおり、佐久間信盛が追放された際に家臣団が動揺する中、陣中を訪れ家臣団の不安を取り除いた。
第三部で権兵衛が淡路国の大名となったことから、子供達や家臣団を引き連れ淡路国へ入国した。
葛(かずら)
お藤の前夫との娘。年相応に無邪気で舌足らず。天正記終盤では母・お藤に似た年頃の女性に成長したが、性格は相変わらず無邪気で穏やか。仙石家のアイドル的存在だが本人は妙算に好意を抱いている。
菊太郎(きくたろう)
権兵衛とお藤との間で生まれた仙石家の長男。容姿は母・お藤似。
長次郎(ちょうじろう)
天正記終盤に登場した仙石家の次男。容姿は父・権兵衛似。
左門(さもん)
天正記終盤に登場した仙石家の三男。容姿は兄弟の中では最も権兵衛に似ており、ダンゴ鼻も受け継いでいる。
仙石盛政(せんごく もりまさ)
通称は治左衛門。仙石本家の一門。長身ながら穏やかな性格で「治の字」と呼ばれる。権兵衛と共に各地へ転戦し、長篠の戦いでは味方の不甲斐無さから敵将との一騎討ちを行いかけた権兵衛を諌め、総崩れとなった前線から無理やり後退させるも既に深手を負っており、討死した。
堀田正惟(ほった まさただ)
通称は右馬助。秀久の母方の堀田家一門で、権兵衛が領主となってから召抱えられた。丸々とした体格で、少々気の荒い性格。苛烈を極めた伊勢長島殲滅戦以後逃亡。長篠の戦いの後、激痩せした姿で盛政の墓前に現れる。
その後は、本願寺の一向衆に参加していた。
萩原国秀(はぎわら くにひで)
通称は孫太郎。権兵衛の叔父の一門。女顔。あだ名は「孫」「孫殿」で、自身の兜の前立てには「孫」の1字をあしらっている。盛政・正惟がいなくなってしまった後も、妙算と共に将となった権兵衛を支える。現在では古参の一門筋のため、仙石家の副将的存在で仕官当初は頼りなかったが、伊勢長島殲滅戦、長篠の戦いなど数々の激戦に従軍した経験もあって最近では頼もしさを身に付ける一方、川坊には馬鹿が伝染ってきたとも言われる。淡路入り以降は髭を蓄えるようになった。
津田妙算(つだ みょうさん)
通称は杉ノ坊。右頬にソバカスがある。仙石家領内で粗葉粕太郎(そば かすたろう)の名前で盗みを働いていた所捕縛され、その隠れた才能を見抜いた権兵衛に登用された。
クールで物臭だが、内に情熱を秘めている。鉄砲の名手で、揺れる船の上で正確に敵に射撃したり、銃身に二つの弾丸を装填して放ったりと妙技が光る。一時は同じ鉄砲の名手である織田家重臣・明智光秀からも勧誘を受けた程である。その正体は、紀州根来衆津田氏の一族で、一族でも白眉の才と言われていた。砲術の師は「雑賀重秀」。
第二部の雑賀攻めの際は師・孫市と主・権兵衛の間で揺れて一時家出したが、気持ちにケリをつけ仙石家に戻ってきた。以後は、孫太郎と共に各地を転戦する権兵衛を補佐しており、副将として城番を務めることも多い孫太郎と違い常に権兵衛と行動して馬廻を務めている。第四部の「紀州征伐」では幼馴染の大杉と再会し、「雑賀孫市」による秀吉の暗殺を阻止、代償として銃を捨てる決意をする。孫市の代わりに狙撃手として出頭するが、自身よりも先に大杉が罪を被って自害したことを知ると、根来の復興という大杉との約束を果たすため、涙を流しながら権兵衛に暇乞いをする。
仙石治盛(せんごく はるもり)→仙石久次(せんごく ひさつぐ)
通称は右衛門、後には左近。治右衛門の家に養子に入った。治左衛門同様権兵衛からは「治の字」と呼ばれる。時折、お付きをしているが大抵は川坊と共に庶務方に属している。第四部からは久次に改名しているが、あだ名は変わらず「治の字」。
川爺(かわじい)
権兵衛の守役。斎藤家にいた権兵衛のじいや的存在だったが、物語冒頭で稲葉山城陥落の際に流れ矢に当たり、権兵衛の前で戦死した。
小説の『センゴク兄弟』でも「河原源五左衛門」の名で登場し、作中でも川坊に「源五左衛門」と呼ばれる。
川坊(かわぼう)
川爺の孫。権兵衛が領主となってからの仙石家を盛り切りする家令的存在。権兵衛が安心して戦場へ行けるように計らう他、口うるさく他の家臣の言いにくいことを秀久に言う立場でもある。川爺を「おじいさん」と呼んでいた。父と兄は地元村の争いによって死んだと言っている。
淡路国に入国した際、大平殿からは「川村殿」と呼ばれていた。
川兄(かわにい)
川爺の孫、川坊の兄。名は源太右衛門。仙石隊の右筆。淡路入りの頃から多く登場し始める。解説本ちぇんごくにて、その仕官の様子が描かれた。
後藤基次(ごとう もとつぐ)
通称は又兵衛。小寺家家臣だったが、主君の官兵衛が捕縛され羽柴家で裏切り者扱いとなり所在を無くしていたところを権兵衛に声をかけられ一時、仙石家に属することになった。
外見のモデルは山本譲二
仁江(じんこう)
備中高松城攻め中に仙石隊に仕官してきた伊賀の忍衆。他の隊が間者の可能性を疑い、仕官を拒否する中、冠山城攻略を条件に権兵衛が受け入れる。仁江が発案した水の手切りは失敗に終わったものの、その能力の高さと戦働きによって仙石隊に雇い入れられる。
本能寺の変が起こり、山崎の戦い前に再び仙石隊の陣中に現れ、京近辺の地理に精通してる事を見込まれ羽柴軍に陣借りという形で加勢、加藤光泰率いる翡翠隊の案内役を務めた。その後も行商を装い仙石隊との縁から時折、情報を売りに来ている。
間島氏勝(まじま うじかつ)
播磨国衆。権兵衛が淡路島へ渡海する際にいつも自船で送り届けている。淡路で菅達長が蜂起した際には権兵衛に知行と引き換えに加勢するよう要請を受けており渋々、受諾した。以後は仙石隊と行動を共にすることも多く、賤ヶ岳の戦い後には約定通り岩屋城を拝領する。しかし本人は仙石家の家臣ではないと事ある毎に強調している。
大平殿(おおひらどの)
本領から動けない川坊に代わり、淡路の庶務を担当する人物。四国の出。後にセンゴクに仕える大平伊賀守國祐と同一人物かは現在まで不明。
言葉の前に「あー」、「うー」と前置きする癖があり、真似しやすいのか皆に真似される。口調、外見共にモデルは大平正芳元総理大臣
森(仙石)久村(もり ひさむら)
通称は権平阿波水軍を率いる森家の一門衆。幼馴染の勘解由、覺右衛門とは義兄弟の契りを交わした仲で常に三人で行動している。森家から織田家(羽柴家)への人質として仙石隊で身柄を預かることになった。人質の身ながら秀久を尊敬し「仙石」姓を名乗り、もともと容姿が権兵衛に似ていたことで名実ともに「仙石ゴンベエ」となる。
引田の戦いでは権兵衛からは一門衆と同様に扱われ、伏兵部隊の部隊長に抜擢され地の利を生かして長宗我部の先遣隊を撃退する。しかし元親率いる本隊の策により仙石隊が窮地に陥ると殿を買って出て、権兵衛も若き日の自分と重ねるほどの勇猛ぶりを見せるも、影武者として敵方の注意を引き最後は多勢に囲まれ討死した。
森(仙石)久春(もり ひさはる)
通称は勘解由。森三人衆の一人。幼馴染の権平、覺右衛門とは義兄弟の契りを交わした仲で常に三人で行動している。森家から織田家(羽柴家)への人質として仙石隊で身柄を預かることになった。人質の身ながら秀久を尊敬し「仙石」姓を名乗る。引田の戦いでは権兵衛からは一門衆と同様に扱われ、伏兵部隊の部隊長に抜擢されるも最後は権平に付き合って殿を務め討ち取られた。
森(仙石)久武(もり ひさたけ)
通称は覺右衛門。森三人衆の一人。幼馴染の権平、勘解由とは義兄弟の契りを交わした仲で常に三人で行動している。森家から織田家(羽柴家)への人質として仙石隊で身柄を預かることになった。人質の身ながら秀久を尊敬し、「仙石」姓を名乗る。引田の戦いでは権兵衛からは一門衆と同様に扱われ、伏兵部隊の部隊長に抜擢されるも殿を務めることになった権平と勘解由からはその身を案じられ、逃がされる。二人の戦死を目の当たりにし、一時は後を追おうとしていたが権兵衛の説得に思い留まり仙石家に仕えることになった。
田宮保富(たみや やすとみ)
通称は四郎。第四部から登場。一人称及びあだ名は「某(それがし)」。阿波田宮荘の当主の四男で元々は仏門に入っていたが、還俗して三好三郎の仲介で仙石家に仕官した。仏門に入っていたため、女性への免疫がなく葛に一目惚れしており、妙算からは“太々しい性格が仙石家向き”と評されている。
不知地 勝助(いさじ かつすけ)
第四部から登場。あだ名は「砂治」。仙石家の家臣で馬廻を務める。武勇に優れ、勘の鋭い愛馬を持つ。

羽柴(木下)家[編集]

権兵衛が所属する武家。半農の者も多く織田家臣時代には「泥ネズミの如き部隊」と言われていた。金ヶ崎撤退戦などの武働き、長比城調略などの政略と次第に功を挙げ、小谷城攻略の恩賞に北近江三郡を与えられ、大名となった。第二部では本拠地を長浜城に置き明智隊と功を競い、ついには西国方面軍に抜擢。一軍団で大国・毛利家と互角以上に渡り合うなど信長ですら望外の成長を見せるが、第三部の本能寺の変に際しては毛利家との電撃和睦からの中国大返しを敢行、山崎の戦い勝利の立役者となった。信長の死後は織田傘下の諸将を取り込み、最大の政敵であった柴田家との戦いを制してついに織田家中で唯一無二の筆頭宿老としてすべての実権を牛耳ることになった。また天下人として力を誇示するため日ノ本最大の商い地・大坂大坂城の普請を始め、小牧・長久手の戦いの後、秀吉の官位が織田信雄を上回った事を以て簒奪を完遂した。第四部からは毛利・上杉家をも事実上の傘下に組み入れ、名実共に天下人の勢力となり天下統一戦を開始する。

羽柴秀吉(はしば ひでよし)
通称は籐吉郎、後に筑前守、第四部からは内府大臣と呼ばれている。当初は木下姓を名乗っていたが、比叡山焼き討ち後に羽柴と改姓した。信長には「ハゲネズミ」と呼ばれ、他の多くの作品で一般的な「サル」と呼ばれることはほとんどない。多指症で右手の親指が二本あるが、「天正記」以降はそのように描写されている絵柄はない。極度の好色であり、また煙管中毒でもある。がしかし、竹中重治病没後はキセルをもった姿を見せていない。権兵衛の上司に当たる。笑いのシーンでは前歯が二本になったりヒゲが生えたりと、正に「ネズミ」そのものになる。
人心掌握の天才「人たらし」で、だらしのない人物ながら慕う者が周囲に絶えず、寄騎として羽柴隊に加わろうとする武将もいる。百姓出身で若い頃は諸国を放浪していた経験などから様々なことに知恵が回り、その万能で丈夫なほどの仕事ぶりから「木綿籐吉」と称される。
当初は智略に優れるも槍働きには悉く消極的な人物であったが、権兵衛に感化されて「金ヶ崎の退き口」を機に戦でもその働きを認められるようになっていく。第二部からは信長の求める「新しき戦」を模索する中で手取川の戦いでの失態を乗り越え、信長に西国方面司令に任ぜられる。盟友・半兵衛を失いつつも、集めた優秀な人材を駆使し難所・播州を平定させ、一方面軍ながら大国・毛利家と互角以上に戦うなどその才能を本格的に開花させ、ついには信長にも銭を知る者と認められる。
第三部では信長の唐入りについては反対の立場を取るが強行する場合は従うとしていた。光秀の謀反により本能寺にて信長が自刃した事実を受け入れられなかったが、光秀を討ち、天下に名を轟かせる為に、毛利との電撃和睦からの中国大返しを敢行して終生のライバルであった光秀と山崎にて決戦に臨み、辛くも勝利を収めた。戦後の清洲会議では筆頭家老である勝家の手前、四苦八苦したが本領・長浜と引き換えに光秀の旧領・山城国丹波国を確保した。暫くは織田兄弟の器量の無さ、宿老による合議がなければ何一つ決められない現状に業を煮やしていたが、“下克上の精神”を体現するため、ついに織田家簒奪に乗り出し天下人への階段を駆け上がっていく。堀秀政ら若手衆の抜擢、盟友・利家の調略などで勝家を破るも、専横を阻止せんと信雄・家康が立ちはだかる。小牧・長久手の戦いでは池田・森の両将を失い徳川軍に戦術的には敗れたが、苦戦と見るや堺の豪商らに“惣無事構想”を説いて多額の援助を引き出して十万の軍勢を維持して圧倒的な資金力の差を見せつけ、権兵衛の情報から信雄・徳川間の火種を発見するや信雄と電撃的に和睦して家康に戦略的に勝利した。下層の出自故に「決して驕っちゃあなんねぇ」と自身を戒めているが、天下人としての威圧感を醸し出し始め、信雄からは「父・信長を見るが如き」と評されるなど、天下人の業を背負っていく。
第四部では内大臣に昇官、毛利・上杉家をも同盟国として惣無事構想による天下統一戦として西国平定に乗り出す。
作者は「日本一空気の読める人物、笑いのセンスがあった人物」としている。
  • 第一部3巻寸評:史上最も淫蕩にして、最も難解な男
  • 第二部9巻寸評:史上無比の勝負師にして最も機微を知る男
おね
名は寧々、寧子とも。秀吉の正室。杉原氏の出身。酒好きで白昼から顔を赤らめることも多く、幼女のような振る舞いと底抜けに明るい性格を見せ、当初覇気に乏しかった秀吉の尻を叩いていた。秀吉の浮気性にもしきりに警戒している。とはいえ出張の多い秀吉の代わりに羽柴家の内政を盛り切りしており、酔っていても理性と聡明さは失わない。本能寺では長浜城から無事に脱出し、山崎の戦いの後に再会した秀吉の浮気を断罪するなど相変わらず尻に敷いている。
羽柴秀長(はしば ひでなが)
通称は小一郎。秀吉の異父弟で、兄と同じく当初は木下姓だった。信長には「細目」と呼ばれる。秀吉の忠実な家臣として行動し、権兵衛にも暖かく接するなど温和な性格の持ち主。後に、思いがけず伊勢長島包囲戦に先陣に抜擢されると、将としても活躍するようになる。以後は羽柴家の副将として西国方面軍にも従軍しており、正勝や高虎などと軍事、外交面で秀吉を支えている。
羽柴秀勝(はしば ひでかつ)
通称は於次丸丹波少将とも。秀吉の養子だが元の出自は信長の四男。風貌は実父の信長や兄達に似ず爽やかな美青年。家中の二大勢力となった羽柴家と柴田家の誼を作るため、一時は従妹に当たる茶々との婚姻が決まるも後に両家の決裂により反故となった。茶々とは一度、互いの正体を知らずに出会っており一目惚れしていたほどだが、羽柴家と毛利家の和睦のため、毛利輝元の養女と婚姻した。なお近年は病気がちで秀吉の後継者からは外されつつある。
三好信吉(みよし のぶよし)
通称は孫七郎。秀吉の甥(姉の息子)にあたるが、三好笑岩の養嗣子になった経歴から三好姓を名乗っている。叔父と違って喜怒哀楽に欠けた無表情な青年。
数少ない秀吉の一族衆ということで周囲から将来を嘱望されており、長久手の戦いでは実績を積む為、叔父から総大将に抜擢された。しかし内心では天下人の跡継ぎという大任に重圧を感じているらしく、大将への抜擢も失敗すればむしろ鼎の軽重を問われるだろうと呟いていた。懸念通り、長久手の戦いでは家康にまだ若輩の身であることを見抜かれて榊原隊の奇襲を受け、自らの軍馬を失って敗走するという大敗を喫した。親類衆であることから厳罰は免れた(断髪を命じられたのみで済んだ)が、器に欠けていると失望されてしまっている。
浅野長吉(あさの ながよし)
通称は弥兵衛。羽柴家の奉行頭でおねの義兄にあたるため、秀吉の親類衆として扱われている。三成・増田長盛と共に羽柴家の奉行を取り仕切っている。
竹中重治(たけなか しげはる)
声 - 小野大輔
通称は半兵衛。権兵衛と同じ美濃出身の元斎藤家家臣で、当主・斎藤龍興の軍師を務めていた天才的軍略家。左右の瞳の色が違うオッドアイ。酒色に溺れる龍興に失望して僅か16人の兵で稲葉山城を奪うが、自らの理想を実現できずに城を手放して隠棲する。
一見して線の細い美青年だが、物言いは遠慮がなく皮肉屋の部分がある。世を斜に構えて見ている厭世的な人物で、俗世について「武士も農民も汚い」と人間自体を毛嫌いしている(秀吉曰く「引き篭もり」)。しかし正反対の気質を持つ秀吉との出会いで徐々に心を開き始め、金ヶ崎撤退戦を成し遂げた秀吉に感化されて遂に俗世へと戻る。以降は秀吉の軍師として様々な政略・軍略を授け、他に織田家中でも信長に信任されたり、余暇は織田家中の将たちに軍略を教えたりしている。雑賀攻めの中で吐血し、その後次第に体調が悪化していく。
播磨攻めで自身同様孤高の天才である小寺官兵衛と出会い、周囲を寄せ付けない官兵衛にかつての自分を見て絆を育む。官兵衛の謀反が疑われた際には信長の命により処刑される予定であった官兵衛の嫡男・松寿丸をわが身を省みず密かに匿い、その事を権兵衛にのみ明かす。湯山街道攻めの最中に病を押して前線の秀吉の下へと赴き、「人が再び好きになれた事」への感謝の言を述べるが、直後に病没する。
『戦国大戦』Ver2.0にてSS竹中半兵衛としてカード化された。
  • 第一部6巻寸評:史上最も端麗にして、最も薄命な男
  • 第二部11巻寸評:史上最も聡慧にして最も深遠な男
蜂須賀正勝(はちすか まさかつ)
通称は小六。秀吉の友人。大酒飲みの巨漢で常に酩酊しており、山賊を髣髴とさせる衣装を纏っている。語尾に「〜ガス」がつく。金ヶ崎撤退戦から帰還した秀吉に感じ入り、以降は秀吉配下の将として転戦する。
所属こそ寄騎衆だが配下になる前から秀吉とは友人であった為、重臣の一人として扱われており羽柴軍では秀長と共に主に外交面で活躍している。
第三部からは嫡男・家政も羽柴軍の武将として戦列に加わっている。
神子田正治(みこだ まさはる)
通称は半左衛門尉。秀吉譜代の家臣の一人で黄母衣衆に所属する。竹中半兵衛にその才を認められており、後に半兵衛の寄騎となる。今馬良と称されており白眉殿と呼ばれている。知恵の回らない権兵衛の事は余りよく思っていなかったが、共に戦う内に打ち解けた。中国攻めの最中に5000石に加増される。しかし、小牧・長久手の戦いにおいて敵前逃亡の責を問われ改易、高野山に配流となった。
尾藤知宣(びとう とものぶ)
通称は甚右衛門。秀吉譜代の家臣で黄母衣衆の一人。後に竹中半兵衛の寄騎となる。同じ黄母呂衆の神子田と同じく権兵衛の事をあまり良く思っていなかったが手取川の戦いで権兵衛に助けられて以来、打ち解けた。泳ぐことが苦手。中国攻めの最中に5000石に加増される。小牧・長久手の戦いでは、物覚えが良く、早馬ということを見込まれ、戦の鍵となる池田恒興の調略という大任を命じられる。
宮部継潤(みやべ けいじゅん)
通称は善祥坊。浅井旧臣で秀吉配下の寄騎衆の一人。秀吉の西国方面軍にも従軍しており、鳥取城攻めで中核を担う。事前に秀吉から落城後の鳥取城主の地位を約定されており、鳥取城の生命線であった支城の雁金城を落城させる。
黒田孝高(くろだ よしたか)
声 - 浜田賢二(戦国大戦)
通称は官兵衛。当初は小寺姓を名乗っており、羽柴家中では苗字と通称を略して「小官殿」と呼ばれていたが、有岡城救出後に黒田と改姓した。播磨小寺家の家臣だったが、半兵衛の体調悪化により播州攻めの際に軍師となった。半兵衛に匹敵する軍略の才を持ち、優れた手腕を見せる。播州人の反体制的な鉄血と、近江人の親体制的な冷血を併せ持ち、表面的には皮肉屋ながら内面に熱い想いを抱いている。元は近江からの浪人であるため小寺家中ではあまりよく思われておらず、また羽柴陣営でも播州人の反骨精神を警戒され、信頼も得ることが出来ず苦慮する。友となった半兵衛に説かれ半兵衛超えを目指すが荒木村重に説得に向かった先で禁獄される。
牢獄では再三にわたって織田家からの離反を説かれるが、直向に半兵衛を越える事のみを考えて拒絶した。その死を伝え聞いた際には戦わずして天下一の軍師となったと嘯くが、半兵衛への慕いを持ち続ける決意をする。有岡城落城に伴い救出され、正式に羽柴軍軍師に迎え入れられ、以降は難所・鳥取城、備中高松城攻略の策を考案、中国大返しに際しては姫路城を中継地点に提供し、城にあった資産を全て分配している。山崎の戦い後は、秀吉の新本拠地となる山崎城の普請や外交などに奔走していたが長宗我部軍の進攻を受け、淡路の仮代官となっている仙石隊へ派遣される。仙石隊と共に四国で長宗我部軍の対応を練っていたが羽柴家と柴田家の対立が鮮明になると再び中央へ召還された。
『戦国大戦』Ver2.0にて、SS黒田官兵衛としてカード化された。
  • 第二部10巻寸評:史上最も堅忍にして最も直向な男。
石田三成(いしだ みつなり)
通称は佐吉。苗字と名を略して石佐とも呼ばれる。最初は茶坊主として仕えるが、やがて美貌と人並み外れた算術の才をもって秀吉の寵愛を得、子飼いの文官として重用される。常に笑みを絶やさない柔和な人物だが、理屈や道理に合わぬ事を極端に嫌う合理主義者で冷酷とも思える行動や発言も躊躇わない。頭巾姿に石田家の九曜紋の描かれた羽織を鎧の上に身につけており、考え事をする時には頭を掻く癖を持つ。茶坊主時代は過剰に丁寧な言葉遣いで意見を主張するため、却って反感を買っていた。本編の進行に先立ち、関ヶ原の戦いでの姿が滋賀県彦根市の展覧会で展示された[10]
安土城前での信長による演説場面で初登場し、手取川の戦い直前の軍議でも登場している(どちらも台詞はあるが顔は隠れ気味)が、正式に登場したのは播磨での検地時となる。播州平定後、若年にして官兵衛の補佐役として庶務方に加わる抜擢を受けるが、反対に出し抜かれた形になる黄母衣衆(神子田、尾藤)の反感を買ってしまう。経験不足を論おうとした神子田と尾藤を「古き戦など知らない方が良い」と返し、更には武功の時代が終った事を理詰めで説いて両者を論破するも、理屈よりも感情の動く権兵衛には問答無用で殴り飛ばされた。その後、理屈だけでは人は動かない事を上役の官兵衛に諭され、権兵衛とも和解の道を選んだ(以来、権兵衛のことは「猪武者殿」と呼んでいる)。
秀吉が天下人の道を歩むにつれて近習として頭角を現し、惣無事令を豪商達に提案する際にも同席を許されるなど秀吉の国作りに大きな関わりを持ちつつある。若手家臣の筆頭として、また羽柴家の内政を取り仕切る浅野長吉奉行衆の一人として、今や権兵衛の様な古参家臣ですら三成の取次なしに秀吉の指示を仰げないと程とされている。
  • 第二部14巻寸評:史上最も才頴にして最も果敢なる男
堀秀政(ほり ひでまさ)
声 - 神谷浩史(鬼武者Soul)
通称は久太郎、後に左衛門督。信長の最も寵愛深い小姓。介者剣法の使い手でもある。己の才を表すことのみを望みとしている。権兵衛が最初に信長に謁見した際に、権兵衛の胆力を試すために一騎討ちをして敗北。以後は権兵衛の悪友となり、金ヶ崎撤退戦では自ら進んで殿軍を務める木下隊に合流して死地から生還する。信長の馬廻り衆として着実に出世を重ね一部隊を率いる将となり、前線・事務方問わず「名人久太郎」の名に違わぬ活躍を見せる。
『一統記』では、中国出陣を決意した信長に先行して羽柴軍と合流していた為、本能寺の変に接する事はなかった。その後、信長死去の報を受けると涙を流しつつも信長を少しでも近づく事を誓い、光秀討伐の為に金ヶ崎以来となる羽柴軍の旗下に入った。山崎の戦いでは先鋒の斎藤利三隊を敗走させる戦巧者ぶりを見せ、戦後の清洲会議では信長の側近であったことからも安土城に近い、佐和山城主に任ぜられた。以後も旧知の秀吉の配下に納まり「羽柴」姓を賜ったこともあり、羽柴軍若手衆の筆頭格となった。小牧・長久手の戦いでは総大将の三好信吉の敗走という窮地に陥りながらも冷静な指揮で勝勢に乗る徳川軍の先遣隊を撃破、一矢を報いてからの退却であったことから戦後は処分を免れている。
『鬼武者Soul』に武将として登場している[9]
前田利家(まえだ としいえ)
通称は又左衛門。羽柴家とは家ぐるみの交流があり互いに「藤吉どん」「又左どん」と呼び合う仲。物語冒頭にて成政と母衣衆の赤母衣衆筆頭に登用され、長篠の戦いでは鉄砲奉行を務める。その後は、柴田勝家の寄騎として北陸方面侵攻中。
第三部で険悪になる羽柴・柴田両家の調停役として秀吉の元を訪れる。その際に秀吉から勝家の世とならば佐久間のような武辺者が重用されるが、政で天下を統べる自分の世には利家のような実直な人間が必要と逆に調略を受ける。賤ヶ岳の戦いでは、若くもなく老いてもない中間の自分はなんとしてでも勝たねばならない、と覚悟を決め退却した。戦後は加賀二郡を加増され、加賀・能登の二カ国を治める大名となっている。
福島正則(ふくしま まさのり)
通称は市松。秀吉の子飼いの少年。作品冒頭から登場しており、秀吉からは息子同然に可愛がられている。権兵衛とも子供時代から面識があり、「権(ゴン)さん」と呼んで慕っている。目が細く無口だが手先が器用で、第二部からは清正に比べて恰幅の良い体格にもなっており、権兵衛からは「饅頭食いすぎじゃ」とからかわれている。武勇に長けているらしく、柴田家に比べて「武人が少ない」とされる羽柴家にあって清正と共に賤ヶ岳の七本槍として喧伝されている。
加藤清正(かとう きよまさ)
通称は虎之助。秀吉の子飼いの少年。元服を前にして、正則らとともに特別に英才教育を施される事になる。正則同様、権兵衛を「権(ゴン)さん」と呼んで慕っている。羽柴家の将来を担う存在として賤ヶ岳の七本槍と称されているが、同じ子飼いながら急速な立身を果たす佐吉については権兵衛に尋ねられた時は何ともいえない表情を見せていた。
小西行長(こにし ゆきなが)
通称は弥九郎。羽柴家の家臣。商家出身という生い立ちから商い武士と呼ばれており、舟奉行として四国遠征軍の準備や大坂城普請の船舶の差配などを担当している。
畿内の海を中心に活動していることから淡路の権兵衛への連絡役も務めている関係で権兵衛とも交流がある。

徳川家[編集]

三河の戦国大名。長年に渡り艱難辛苦の道を歩んできた家で、それ故に戦国時代には特異なほどの団結力がある。織田家とは同盟を結んでいるものの、実質傘下の勢力に近い扱いを受けている。第一部から第二部にかけて隣国の武田家に三方ヶ原で大敗を喫し領土を侵食されるなど、苦渋を味わわされたが長篠の戦いでついに武田家を打ち破ると第二部終盤で東海道を平定する。第三部では本能寺の変に伴う織田領の空白地帯(旧武田領)を巡って北条家や上杉家と戦い(天正壬午の乱)、信濃甲斐を併合して五ヵ国を治める大大名となった。

徳川家康(とくがわ いえやす)
通称は次郎三郎三河守とも呼ばれる。徳川家当主。織田信長とは幼なじみで盟友。賭け事が好きで、例え話としてもよく話題にしたり部下と賭博をする事もある。勇猛果敢で激しやすい熱血漢ながら、冷静に現状を分析する能力を持っており、信玄からは「上杉謙信に匹敵する器」と評されている。権兵衛とは意気投合している。外伝『桶狭間戦記』にも登場。
姉川の戦いではその勝負勘により朝倉軍を撃退するも三方ヶ原の戦いでは博打に出た所を信玄の術中に陥り、武田軍に完膚なきまでの大敗を喫する。その際の自分の肖像画を書かせて熱しやすい自らへの戒めとしており、徳川家が受け継いできた激情の気質を抑え、忍耐を得ようとする。その甲斐あって第二部では信長に「戦国大名になった」と威厳と風格を認められ、長篠の戦いでは武田家の先駆け大将・山県昌景の猛攻を織田軍の反撃まで耐え抜いた。戦勝の後は東海地方の平定に努め、甲州崩れが始まると武田家中の反勝頼派への調略戦を繰り広げ、武田一門から穴山梅雪を寝返らせた。
第三部では、安土城を訪れた際に信長の唐入り構想を伝えられ、信忠を補佐する日ノ本の宰相に指名されていたが本能寺の変にて織田父子が相次いで自刃したことを聞くと謀反によってなんら実益のない宰相という死人に等しき任より解放してくれた光秀に感謝する。堺から硬軟織り交ぜた戦略で伊賀越えを果たし三河へ帰国、すぐさま北条家より織田領を守護するという名目の元、甲州へ出陣、天正壬午の乱では兵数で勝る北条家相手に互角以上に戦い版図を拡げ、三河兵の精強さを世に知らしめるが北条領への侵攻は膠着状態になる公算が高いことから織田信雄に和睦仲介を依頼する。残された道は西進、かつての主家である織田領侵攻しかなく葛藤するも、戦ったこともない秀吉に臣従することは承服出来ず、「幽玄」にて“不幸こそが徳川の強さ”と真理に至ったことで信雄の要請を受け秀吉との決戦に臨む。合戦の最中に秀吉とは別の形で覚醒して羽柴勢を追い抜くために“学ぶ”ことを決意、激情と平静が両立された信玄を彷彿とする雰囲気を醸し出すようになった。戦では羽柴軍の猛将・池田・森を撃破するも、一方で盟主である信雄に内密で長宗我部家と交渉を行っていたことが信雄方に露見することとなり、秀吉・信雄の電撃和睦により大義名分を失うこととなった。統治者としても秀吉に敗れたことを認め、嫡男・於義伊を人質に差し出すことを呑み、秀吉の下で再び雌伏の日々を過ごす。
  • 第一部5巻寸評:日本史上最も執念深く、勝負強い男
於義伊(おぎい)
家康の次男で後の結城秀康。側室の子であったが長兄・信康が処断されたため、嫡男に格上げされた。それらの理由などもあり父・家康とは疎遠になっていが小牧・長久手の戦い前に家康から不遇の詫びを受けた。現世幽世の境界を覗いている様子があり、家康はこの「幽玄」を学んで政略に活用する。小牧・長久手の戦いの結果、徳川家は羽柴家への忍従を余儀なくされ、人質として羽柴家に送られることとなった。
本多忠勝(ほんだ ただかつ)
通称は平八郎。家康から友と信頼される重臣。自身も家康を「兄貴」と呼んで慕っている。豪快な性格で、戦場でもその勇猛さは健在。三方ヶ原の戦いでは山県昌景を相手に一本取る活躍を見せ、家康を逃がした。
  • 第一部10巻寸評:史上最高の忠臣にして、最も剛健な男
榊原康政(さかきばら やすまさ)
通称は小平太。家康から友と信頼される重臣。性格は冷静沈着で、熱しやすい家康を度々諌めている。小牧・長久手の戦いでは、敵軍総大将・三好信吉を奇襲して破っている。
酒井忠次(さかい ただつぐ)
通称は左衛門尉。家中で唯一家康に直言できる宿老。「背に目を持つ」と評され、信長からも高い評価を得ている。長篠の戦では別働隊を率い武田軍の背後を急襲、勝頼本陣を突くには至らなかったが、武田軍の背後を脅かす重要な役割を担った。対北条戦でも功を挙げており、小牧・長久手の戦いでは豪将・森長可の相手を受け持ち、奇襲にて森隊を破っている。
石川数正(いしかわ かずまさ)
通称は伯耆守。徳川家の重臣の一人。家康の側近を務めており、羽柴家や織田家(信雄)との外交なども担当している。
井伊直政(いい なおまさ)
通称は兵部少輔。徳川家の重臣の一人で正室は家康の養女であることから事実上の一門衆に数えられている。まだ若いが勇猛な将で徳川に降った武田旧臣を配下に組み込んで赤備えを編成して、小牧・長久手の戦いでは士気の高い池田隊と激突している。
小栗重常(おぐり しげつね)
通称は大六。家康の旗本奉公人。織田信長への使者として度々織田家を訪れている。武田家に拷問に掛けられたことも。
成瀬正義(なるせ まさよし)
通称は藤蔵。三方ヶ原の戦いでは一隊を率いて出陣する。包囲された徳川軍の退路を確保するために転進するが、その隙を狙った諏訪勝頼の攻撃を受けて討ち取られた。
今橋忠吉(いまはし ただよし)
通称は平五郎。酒井忠次の家臣。高天神城救援を承諾しながら撤退してしまった織田信長に不信感を抱いていた。しかし長篠城救援の際には、信長への評価も改めるなど性格は単純明快、三河武士を絵に描いたような者である。その性格から権兵衛とも親しくなる。

織田家[編集]

尾張の戦国大名。行軍速度は神速と評され、権兵衛が当初仕えていた美濃・斎藤家を滅ぼし、足利義昭を擁立するなど破竹の勢いで勢威を伸ばす。幾度もの織田家包囲網で一時は窮地に立たされるが、最終的にはこれすらも制して天下統一に最も近い勢力となる。第二部時点では、中部地方から近畿地方までその勢力を拡大しており、戦国大名でも屈指の領土を有していた。家中では下克上の言葉の下に苛烈な実力主義・競争主義を敷いているが、本能寺の変を境に家老・羽柴秀吉の台頭もあって衰退を始め、小牧・長久手の戦いを以て羽柴家による下克上が完遂し、羽柴家の一配下にまで落ちぶれた。

織田一門[編集]

織田信長(おだ のぶなが)
通称は上総介織田弾正忠上様大納言叙任後)。織田弾正忠家当主にして、織田一門の総帥的存在。「時代を愛し天下を寝取る」と謳い、戦国乱世に覇を唱えんとする。政略・戦略において他の追随を許さない天才性と、万人を畏怖させる冷酷な狂気を併せ持つ。人間的には繊細で不器用な人物であり、それを理解する家臣達とは確かな絆で結ばれている。髪型は当初総髪であったが、長篠の合戦の最中に月代を剃っている。また時折尾張弁で話す事がある。物語後半から身体の衰えを感じ、心にも迷いが生じつつある姿が描かれた。
信長包囲網の中で幾多もの死地に直面する度に苦心・砕身の限りを尽くし、覇者の才を覚醒させ成長していく。第二部ではその狂気と才覚を増幅させ、宿敵であった武田家を破り、本願寺を降伏に追い込んで遂に包囲網を崩壊させる。嫡男の信忠に家督を譲ってからは前線に赴く事は少なくなり、重臣達を各方面司令に任命して居城である安土城から天下統一に向けた戦略を進めていく。意外に孫煩悩の部分があり、甲州征伐の際には孫の三法師に土産物を渡していた。
第三部では自らの下剋上思想が乱世の終焉と共に高転びへ向かう事を予見し、誰も望まない次の戦争を求めて唐入りへと突き進む。その途上で光秀による本能寺の変が起きると若干の悔いを覚えるが、宿敵達の辿った滅びを自らも受け入れる。最期は崩れ落ちる本能寺で高笑いして切腹し、我が身に起きた下剋上を堪能しながら生涯を終えた。遺体は劫火に包まれた後、本能寺の崩壊に巻き込まれる。
外伝『桶狭間戦記』における主人公の一人で、その幼少期から青年期が描かれている。作者は「オンリーワンの権兵衛にたいしてのナンバーワンとしてのもう一人の主人公」としている。
  • 第一部2巻寸評:史上最も苛烈にして、最も繊細な男
  • 第二部2巻寸評:史上最も強悍にして、最も壮絶な男
織田信忠(おだ のぶただ)
通称は勘九郎城介岐阜中将左近衛中将叙任後)。父からは奇妙とも呼ばれていた。信長の長男。留守を任されるなど父の信任もあり、武田信玄の五女・松姫と婚約していたが両家の同盟決裂に伴い解消された。第二部では信長の大納言就任に伴い家督を譲られ、甲州征伐では父の代理として総大将を務めた。青年期を迎え風貌も若き日の信長に瓜二つとなっている。高遠城の戦いでは馬廻り衆を連れて大将自ら突撃する勇猛さを見せ、信長を驚かすのみならず武田家崩壊の一手になるなど武功を立てる。下克上の織田家にあって世襲による継承を潔しとせず、実力で重臣達を従わせる決意を固めている。
第三部では、父の唐入りに合わせて国内統治の権限を与えられるが、依然として実力で家督を継承するべく意欲を燃やし、父とも諍いの道を選ぶ。その本意は父と同じ生き方をする事であり、信長への敬慕が根底にある。その事は本能寺の変で迷わず父への後詰めの準備を行い、父の自刃を知ってなお明智軍と一戦を交えようした事で示された。鎌田新介の説得で二条城へと戻ると重臣達との合流を進言されるが、実力で家督を奪うに至らなかった自分では単に重臣達の飾りとなるに過ぎないと拒絶する。
父の死によって下剋上に耐え続けてきた重責を初めて理解し、「信長の子」に相応しい最期として馬廻り衆と二条城に立て籠もった末、織田家当主として切腹した。
織田信雄(おだ のぶかつ)
通称は三介、家族からは茶筅とも呼ばれている。信長の次男で『一統記』より登場、その時は養子先の北畠姓を名乗っていたが後に復姓した。風貌は信忠と同じく父に似通っているが、父や兄と違い将器は全く引き継いでいないと思われた。性格は尊大で周りに高圧的に振舞う上、情勢に対する理解力が乏しく、父の死後も見当違いの行動を取り続けた。「意味がわからん」が口癖。
三法師の後見人になることを信じて疑っていなかったが、清洲会議では諸将の支持を得られず信孝に敗れ、国分けでは織田家の本領尾張が分配される。家臣に過ぎない秀吉が幅をきかせている事を忌々しく思っているが、弟・信孝と不仲なこともあり秀吉の口車に乗せられ「賤ヶ岳の戦い」では羽柴派の名代に擁立されるも、柴田軍が動けない冬季に足場を固めようとする秀吉の意に反して冬季の出陣を見送るなど相変わらずで秀吉にも呆れられていた。戦後、三法師(後の秀信)の後見人になるも直後に嫡男・三法師が誕生したことで秀吉から「当主すげ替えの疑い」をかけられ後見人の地位を剥奪される。その場は大人しく従ったが“窮地に追い込まれてこそ滾る織田の血”に目覚め、諌める側近を謀殺しの義父・家康と手を結び秀吉に反旗を翻す。
小牧・長久手の戦いでは同盟国であった徳川家が勝利するも長宗我部家との外交を巡って亀裂、秀吉に和睦を打診する。秀吉との会談で徳川家への意趣返しとして単独講和交渉を行っていることを明かし、”信長の子として秀吉と家康の両雄を競わせたまで”とも語り、秀吉に“信長公に似てきた”と言わしめた。三法師のために下克上の階段を降り、秀吉の和睦案を受諾、領土の大半の割譲と引き換えに正三位へ昇官し秀吉の一家臣に納まった。
織田信孝(おだ のぶたか)
通称は三七。信長の三男で一統記より登場し、その時は養子先の神戸姓を名乗る。痩せ気味の風貌をしていて、四国方面軍の総大将に抜擢され兄・信忠に対抗意識を抱いているが神経質な性格から大将の風格に欠けている。
山崎の戦いでは名目上の総大将になったが秀吉の傀儡にされている事を感じとっており、戦後の清洲会議の折には、かねてから不仲であった兄・信雄と互いの手勢が一触即発になる事態が起こるも、順当に三法師の後見人に選出されて織田に復姓、国分けでは美濃が分配された。しかし秀吉が家中で幅をきかせて来ると反羽柴派の柴田・滝川と共に秀吉を糾合するも、「幼主・三法師抱えこみの疑い」の口実により居城・岐阜城を包囲される。秀吉の横暴に激怒するも側近達に諌められ、三法師や親族を人質に出して一旦は和睦したが、信長の子として最後まで“簒奪者”秀吉と戦う意志を固める。しかし勝家が敗れ、秀吉に踊らされている信雄を見て信長の息子である自分達の無力さを恥じながら降伏。裏切りであったため許されず、いずれ秀吉も自分達と同じ憂き目に遭うと予見しながら切腹した。
お市の方(おいちのかた)
織田信長の妹にして浅井長政の妻であった女。絶世の美女として名高く、浅井家が織田家と同盟するにあたって長政に嫁ぐ。非常に気が強く、信長と共に天下人になった長政を裏で操ろうと画策していたが、信長との絆に嫉妬した長政が信長を裏切ったために不意に終わった。憔悴してしまった長政を奮い立たせるのに一役買うが、以降は赤尾清綱の屋敷に幽閉される。小谷城落城寸前になると浅井市として生きる決意をするが、長政に突き放され、長政への愛に気付かされ涙ながらに織田家に戻る事になった。
一統記にて再登場し、清洲城で三人の娘を育てていたが家中の二大勢力となった羽柴家と柴田家の誼を作るため、秀吉の要請により柴田勝家と再嫁した。しかし賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れ、北ノ庄城が羽柴軍に包囲される勝家からは投降するよう勧められるも勝家と添い遂げるために拒み、最期は勝家の手で殺害された。
  • 第一部15巻寸評:戦国史上最も妖艶にして、傾城な女
茶々(ちゃちゃ)
お市と長政の長女。その姿はかつてのお市と瓜二つでその美貌は周囲の男子を無意識に魅惑するほど。政や姫としての嗜みには疎い反面、武芸に打ち込んでいる。
清須会議後、家中の二大勢力となった羽柴家と柴田家の誼を作るため、一時は羽柴家(秀勝)に嫁ぐことが決定したが婚姻前に両家が決裂したため、反故となった。北ノ庄城落城の際に死を決意したお市と「何れの人間が美しきもであったか」競うことを約束し、妹達を引き連れ城から退去するがその時にはお市のような雰囲気を醸し出していた。
(はつ)
お市と長政の次女。まだ幼いながらも聡明で、茶々とは反対に政や世情に精通している。
(ごう)
お市と長政の三女。
織田秀信(おだ ひでのぶ)
幼名は三法師。信忠の嫡男で、信長の孫。生母は側室の鈴姫。清洲会議にて信長、信忠の後継者たる織田家当主に選出される。
織田信包(おだ のぶかね)
通称は上野介。信長の弟で清洲城主。年長の兄達は皆、死去しているため織田一門の重鎮で浅井家滅亡後にお市や浅井三姉妹を保護しているがお転婆な三姉妹には手を焼いている。清洲会議前後からは、羽柴派として行動しており秀吉と一族衆の連絡役などを担っている。
織田信広(おだ のぶひろ)
通称は大隅守。信長の庶兄で、弟である信長の家臣。伊勢長島包囲戦では一軍を率いて参陣する。しかし信長の謀略に激昂した一向宗軍の標的にされてしまい、防戦空しく戦死した。外伝『桶狭間戦記』にも登場。
織田信治(おだ のぶはる)
通称は九郎。信長の弟。浅井長政軍の急襲を受け、森可成とともに防戦するも叶わず戦死した。
織田信興(おだ のぶおき)
通称は彦七郎。信長の弟。伊勢長島で一向一揆と対陣していたが、一揆軍の攻撃を防ぎきれず自刃に追い込まれた。
織田秀成(おだ ひでなり)
通称は半左衛門尉。信長の弟。伊勢長島の殲滅戦に参加するが、逆襲に転じた一揆軍に襲われ、兄・信広に続いて戦死した。
織田忠寛(おだ ただひろ)
通称は掃部助。武田家との交渉役を務めており、度々甲斐に下向している。三方ヶ原の戦い後は、信長の指示で信玄の周囲に探りをいれ、信玄の死亡を確認した。
お艶の方(おつやのかた)
美濃岩村城主・遠山景任の未亡人で、遠山家に養子に入っていた信長の五男・坊丸を擁して城主の座についていた女丈夫。信長の叔母にあたるが信長より年下であり、武田信玄は血縁はないと分析していた。信長に恋焦がれており、岩村城を包囲する秋山信友に抗戦していた。城兵の助命を条件に遂に降伏するが、逆に信友によって懐柔されてしまい、坊丸とともに武田方に寝返ってしまった。
その後は、本編では描かれていないが織田軍の岩村城攻めに遭い、信友と共に処刑されている。
池田恒興(いけだ つねおき)
通称は勝三郎、秀吉などからは勝入という名で呼ばれることもある。「〜らっしゃい」が口癖(黙らっしゃいなど)。織田家の重臣だが母が信長の乳母であった事から信長とは乳兄弟であり後に義理の兄弟となっている。山崎の戦いの際には羽柴軍に合流しており、信長の弔い合戦として高山・中川らと先鋒を務めたが明智軍の猛攻に遭う。戦後は五人の宿老の一人として清洲会議に出席し、国分けにて大阪などが加増されている。「賤ヶ岳の戦い」では羽柴派に組して、戦後は譜代家臣という立場から織田家の本領に近い美濃への転封を秀吉に提案される。当初は難色を示したが秀吉との対立を恐れ受諾するも羽柴家対織田・徳川連合軍の小牧・長久手の戦いが勃発、地理的に美濃の大名となった恒興が戦の鍵と両陣営に認識される。両軍から調略受けるも秀吉の実力を目の当たりにしていたことから羽柴家を選び、織田方の犬山城を奇襲する。しかし、長久手の戦いにおいて娘婿の森長可の討死を受け、進退窮まった事を察すると家督を元助から次男の輝政に移し、元助と共に奮戦するも最期は永井直勝に斬首された。

その他の家臣[編集]

秀吉を含めた柴田・丹羽・明智・滝川が織田五大将と呼べる重臣でそれぞれが司令官として各方面軍を統率している。

畿内方面軍[編集]

司令官は明智光秀。本拠地は近江国坂本城。第二部から第三部にかけて畿内全域を手中に治めて織田家の筆頭部隊であったが突如、謀反。本能寺の変を起こす。

明智光秀(あけち みつひで)
声 - 小野大輔(戦国大戦、鬼武者Soul)
通称は十兵衛、後に朝廷より賜姓と叙任を受けてからは惟任日向守と名乗る。かつては自らの居城を持つ大名・明智氏の当主であったが戦乱の中で所領を失い、亡命君主として諸侯の間を流転する日々を送っている。足利幕府の直臣を経て織田家に仕え、外様出身でありながら譜代家臣を差し置いて家中での発言力を強めてゆく。
ルイス・フロイスによる「残忍で狡猾、裏切りや密会を好み、計略策謀に優れる」という記述から作中屈指の野心家として描かれ、信長以上に底の知れない人物として登場する。信長からは「黄金色の頭脳」という意味で「キンカン」と呼ばれており、風貌はザンバラ(乱れた長髪)に描写されている。一見して掴み所のない飄々とした性格だが、必要と認識すれば平然と他者を見捨てる冷酷な合理性を持つ(ただし自らに付き従う旧臣達には愛情を示すなど、単に残酷なだけの人物ではない)。
冷徹な戦略眼は最も信長の意を理解できると周囲に言わしめ、外様出身ながら急速な立身を果たす。戦に関しては新式の兵器である鉄砲に着目し、鉄砲隊による交差銃撃の陣形「殺し間」を駆使して幾度も織田家の危機を救う活躍を見せる。加えて自ら甲冑に火縄銃を持って前線を戦い、死した将兵の血で「血化粧」を行って戦意を高めるなど狂気に身を委ねた戦いを好む。六条合戦の折に発した「笑みを絶やさず、何も恐れぬ殺人鬼のようであれ」という言葉からも、光秀の苛烈かつ残酷な性格がうかがわれる。
第二部ではその影響力を高め続け、同じく栄達した秀吉に天下統一後を睨んだ密約を結ぶ。また長篠の戦いで真田・内藤隊に対し、鉄砲隊による包囲一斉射撃「夜這い間」を完成させ、武田勝頼が仕掛けた「逆さ魚鱗の陣」を破り織田家を勝利へと導いた。その後は本拠地の坂本を中心に、大阪・京都での政務を担いつつ、畿内方面軍として転戦、信長からも筆頭家老として信頼されている。信長に対しては誰よりも彼を心酔し、神として崇めている。
第三部では半生を通じて彼が抱える二面性に苦悩する姿が描かれている。神として崇めている信長が老いていくと共に人としての姿を垣間見るようになり更に苦悩し続けた結果、何かを悟る。そして、秀吉からの援軍要請により先行して中国に向け軍を率いていたが突如、進路を変更して本能寺を奇襲。信長と信忠をそれぞれ自刃に追い込み、続いて民主主義の構築と織田包囲網を敷くべく毛利、長宗我部、上杉、北条らに根回しを行い、京の公家衆らも制圧。細川藤孝、筒井順慶らの裏切りを経て山崎にて秀吉と対峙。殺し間を警戒する秀吉らを圧倒するものの、何かに目覚めた秀吉とその兵の勢いに飲まれ殺し間は崩壊し敗北。随風との語らいの後、落ち武者狩りの農民に討たれ生涯を閉じた。
外見のモデルはヒュー・グラント[11]。『戦国大戦』のVer1.2にてSS明智光秀としてカード化され、計略は「夜這い間」ではなく「殺し間」が採用されている。『鬼武者Soul』にも武将として登場しており[9]、こちらでも「殺し間」が固有技になっている。
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明智光春(あけち みつはる)
通称は左馬助。光秀の従弟で光秀のことは兄者と呼んでいる。光秀の美濃時代から付き従っており、明智家の副将的存在。本能寺の変でも利三と共に最初から計画を知らされていた。山崎の戦いの敗戦翌日に(史実では光秀の妻子らを刺殺した後、)自刃した。
光春の出自に関しては、諸説あるが本作では明智氏説がとられているようである。
斎藤利三(さいとう としみつ)
通称は内蔵助。明智家の重臣。常に光秀・光春と行動しており、本能寺の変でも最初から計画を知らされており、後の山崎の戦いでは先鋒を務めた。敗戦後は捕縛され、市中引き回しの末、斬首された。
松田政近(まつだ まさちか)
通称は太郎左衛門。明智家の武将。山崎の戦い時には、地元大山崎出身であったことから合戦前の情報収集などに当たり、光秀の大山崎視察の際には案内役を務めた。山崎の戦いでは、山手の先備えとして布陣し、神子田・尾藤らの黄母衣衆を切り崩している。しかし敗色濃厚となると敗走する自軍を尻目に「この荘厳なる合戦に永久に身を埋めたい」と言い残し戦場に消えていった。
細川藤孝(ほそかわ ふじたか)
通称は兵部大輔。明智光秀の調略によって荒木村重と共に織田家に仕官した大身の武将。以後は光秀の寄騎として雑賀侵攻などに従軍し、丹後国を得る。本能寺の変に際して、光秀から再三の協力要請を受けていたが、彼が作ろうとする民主主義に対しては唐の二の舞になるとそれを拒絶、忠興の進言に従い出家し世俗から離れることを決意する。
明智玉(あけち たま)
後の細川ガラシャ。光秀の娘であり、細川忠興の正室。本能寺の変に際して、信長に反旗を翻した光秀と離縁ではなく幽閉を選んだ忠興らの行動を身勝手と批判した。
北陸方面軍[編集]

司令官は柴田勝家で、本拠地は越前国北ノ庄城。第二部では手取川の戦いで上杉軍に完敗を喫したが、謙信亡き後の第三部では弱体化した上杉家を圧倒している。本能寺の変後の織田家中では羽柴家と二大勢力となるも、織田家乗っ取りを画策する秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いを起こす。

柴田勝家(しばた かついえ)
通称は権六、上洛後はもっぱら官名の修理亮を名乗る。信長からは「アゴ」と呼ばれる。織田軍随一の重臣。稲葉山城攻略戦で権兵衛の命を助け、織田軍に入るきっかけを作った人物。権兵衛からは「閻魔様」と恐れられる。大きな金棒を得物とし、金ヶ崎撤退戦の折には権兵衛に与えられた。「掛かれ柴田」と謡われる剛直な猛将だが、柔軟さに欠ける面がある。秀吉にとっては苦手な上司役でもあり、羽柴と改姓したのちも旧姓の「木下」と呼んでいる。
第二部では信長の老臣として北陸方面軍を率いて一向宗や上杉家と戦い、領国も大幅に加増されるなど存在感を示す。しかし内心では急速に台頭する秀吉・光秀らの「下克上」に危機感を抱くと同時に、自身は精神を疲弊させている。手取川の戦いでは決戦を回避しようとする秀吉を退けて背水の陣で挑むも、謙信の巧みな用兵に翻弄されて総崩れ寸前に追い込まれた。だが窮地に立たされた中でも己の剛直さを捨てず、大将自ら出陣する事で戦線崩壊を水際で防いだ。
本能寺の変では京に戻る決断が遅かったためか、その後の山崎の戦いにも参加していない。その後の清洲会議にて予てから抱いていたお市への恋慕を捨てるも、今度はお市から迫られ婚姻した。しかし秀吉が織田家簒奪の意志を明確にすると、山崎の戦いに間に合わなかったのは「真の謀反人を討つため」と悟り秀吉の成敗を決意する。賤ヶ岳の戦いでは堀秀政を攻めあぐねている間に先鋒の佐久間隊は撃破され、前田隊の退却もあり形勢不利の中、最後は突撃を敢行するも既に老境に入り往年の力はなく敵方に情けをかけられる現状に自身の時代が終わったことを悟る。北ノ庄城に帰還してお市や重臣の女房衆らを殺害した後、秀吉の前で切腹し引っ張り出した臓物を投げつけるという壮絶な最期を遂げた。
権兵衛にとっても秀吉と同じく尊敬すべき武将であり、勝家自害の報を聞いた時は織田家仕官当初を思い出して涙を流していた。
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佐々成政(さっさ なりまさ)
通称は内蔵助。美濃攻略後に新設された母衣衆の黒母衣衆筆頭に登用された。長篠の戦いでは鉄砲奉行を務める。その後は、柴田勝家の寄騎として北陸方面侵攻中。
第三部「賤ヶ岳の戦い」時は寄騎としてそのまま柴田派に組するも親羽柴派の上杉勢への牽制のために越中に留まる。戦後、戦には不参加であったことから秀吉に許され服従、引き続き越中の大名に留まった。一統記14巻の付記にて小牧・長久手の戦いの最中、秀吉方から離脱して織田・徳川連合軍に組して隣国を治める前田利家と対立している情勢が説明されている。
四国方面軍[編集]

司令官は神戸(織田)信孝、補佐に丹羽長秀。四国方面軍が結成された直後に本能寺の変が起きた為、他の方面軍に比べると功がなく、後に秀吉率いる西国方面軍に吸収された。

丹羽長秀(にわ ながひで)
通称は五郎左衛門。後に惟住氏とも名乗る。織田家の重臣の一人。信長には「巻き毛」と呼ばれる。数多くの合戦に従軍し、軍議では進行役を務める事も多い。「米五郎左」の異名をとる。左手の指を米神のあたりに付けるのが癖。
一統記からは名目上の四国方面軍大将である信孝の補佐の副将に抜擢されるも、渡海寸前に本能寺の変の凶報を受ける。身動きがとれなくなっていた所を大返ししてきた羽柴軍に合流して山崎の戦いでは四番手として参戦。自身が手を焼いていた信孝を巧みに操る秀吉の底知れぬ才を感じ取っている。戦後は宿老の一人として清洲会議に出席。柴田・羽柴のどちらもにも偏らず中立的な意見を述べ、国分けでは佐和山城を削減されるも、若狭国に加え近江国の四分の一を加増された。「賤ヶ岳の戦い」で羽柴、柴田両家が対立するとそのまま羽柴派に組して戦後、勝家の旧領・越前が加増。
外見のモデルは、サミュエル・L・ジャクソン[11]
  • 関東方面軍
司令官は織田信忠、軍監に滝川一益。第二部終盤では武田家を滅ぼしたが、本作では主に武田家に焦点があてられていた為、描写されることはなかった。その後、ほどなくして本能寺の変が起こり、混乱に乗じて侵攻してきた北条家に敗れ離散した。
滝川一益(たきがわ かずます)
通称は左近将監。神出鬼没の用兵を操る武将。織田家の主要な合戦には常に参戦している。甲州征伐編では信忠と共に武田領に侵攻しており、後の一統記では、関東方面軍の司令官となった事が語られた。しかし本能寺の変が起こると侵攻してきた北条軍に敗れた。この敗戦もあり清洲会議に参加する事すらできなかった。
清洲会議に参加出来ず、関東の自領を死守することも出来なかったことから他の四天王に比べてその立場は没落することとなったが、「賤ヶ岳の戦い」時には柴田派に組して居城長島城にて羽柴軍を迎え撃つ。しかし勝家が敗れると秀吉の圧力の前に剃髪して降伏、以降は越前で蟄居していたが小牧・長久手の戦いにて召還され、今度は秀吉方として信雄の領地・伊勢国を奇襲する。
その他の重臣・家臣[編集]
佐久間信盛(さくま のぶもり)
通称は右衛門尉。織田家の重臣の一人。過去のデータ分析により撤退戦が得意な事から「退き佐久間」と称される。比叡山での軍令違反で木下隊を出る事になった権兵衛が一時的に属していた。少々保身的な性格であり、切羽詰ると目下の者に厭味を言ったり、自ら危険を賭して働く事には躊躇するが、命を賭すものには応える意気を見せる。三方ヶ原の戦いでは当初懐疑的だった権兵衛に信頼を置くようになる。権兵衛が羽柴隊に復帰した後は、大坂で石山本願寺担当として交戦を続けるも開城ののち、信長に「佐久間折檻状」を突きつけられ放逐される。
佐久間盛政(さくま もりまさ)
通称は玄蕃。信盛の甥。丸っこい体格で普段は穏やかな性格。だが一度激昂すると敵中に猛進する勇敢さも兼ね備える。三方ヶ原の戦いでは権兵衛ともに佐久間隊の中核を担った。
『一統記』にて再登場し、勇壮な将に成長しており織田家より放逐された叔父の下を離れ柴田家の武将になっている。賤ヶ岳の戦いでは先鋒として羽柴軍の陣地に猛攻をかけ、高山右近を敗走させ中川清秀を討ち取る第一功を挙げた。しかし柴田本隊が攻めあぐねている間に神速で返してきた羽柴本隊に背後を衝かれ壊滅した。勝家の自害から暫くして拿捕され、秀吉からは服従を条件に赦免も打診されたがそれを拒否、打首刑に処される最後まで戦国武将として在り続けた。
三方ヶ原の戦いで権兵衛と共に戦い抜いた記憶は彼の中で鮮烈なものだったらしく、戦場にいない権兵衛を思い出しては秀吉が作る政の世への不安を吐露していた。
可児吉長(かに よしなが)
声 - 杉田智和(鬼武者Soul)
通称は才蔵。美濃一の強力無双を誇る武将で、槍の名手。権兵衛以上の巨体と怪力の持ち主で、根っからの戦好き。「糞があ!」が口癖。当初は柴田勝家の配下として登場。模擬戦で権兵衛と死闘を繰り広げ、戦後は権兵衛を認める。金ヶ崎撤退戦では進んで殿軍を務める木下隊に合流し、権兵衛とは戦友となる。
その後、所属を明智光秀に移す。小谷城攻略戦では再び羽柴軍の加勢に現れ、権兵衛や藤堂高虎と功を競った。生涯を戦場で過ごさんとしており、第一部終了時に新たな戦場を求め権兵衛と別れた。
『鬼武者Soul』に武将として登場している[9]
坂井尚恒(さかい ひさつね)
声 - 下野紘(鬼武者Soul)
通称は久蔵。坂井政尚の長男で、信長の小姓。文武に優れ将来を見込まれていたが、戦場を極度に恐れているために自力での武功を上げた事がなかった。金ヶ崎撤退戦では奮って殿軍の木下隊に参加し、その中で権兵衛との親交を深める。以後、権兵衛を「ゴン兄ィ」と呼び慕いくっついていた。
姉川の戦いでは浅井軍の急襲を受けた坂井隊中で一人踏み止まって奮戦し、援軍に来た権兵衛とともに山崎俊秀に挑む。俊秀の一矢に倒されるも執念で立ち上がり再び挑むが、再反撃で首を落とされた。その後、尚恒の小母衣は権兵衛が用い、権兵衛が領主となった際に尚恒の墓前に返された。
『鬼武者Soul』に武将として登場しており[9]
坂井政尚(さかい まさひさ)
通称は右近尉。尚恒の父で、織田軍の武将。姉川の戦いでは浅井軍の急襲を受け、山崎俊秀によって翻弄される。その後、浅井軍との戦いで討死した事が語られている。
野々村正成(ののむら まさしげ)
通称は三十郎。信長の旗本で馬廻り衆。鉄砲の名手であり、左頬には鉄砲を撃つ際に飛び散る火薬によって出来たそばかすがある。権兵衛とは重治の軍略講義で出会い、当初は不快感を示していたが、体を張って間者働きをする権兵衛を見て認識を改めた。権兵衛が最新式の鉄砲を戦場で無くしたときには、これを修復して仙石家に匿名で届けている。長篠の戦いでは鉄砲奉行を務める。その際に権兵衛を見込み、姪のお藤との縁談を進める。
本能寺の変において信忠に従い二条城にて奮戦するも討死する。今際の際に権兵衛に対しその真っ直ぐな性格のまま生きていくよう願っていた。
森可成(もり よしなり)
通称は三左衛門。「攻めの三左」の異名を取り、織田家の中核を担った武将の一人。浅井軍の急襲を受け、織田信治と共に抗戦するも、叶わず討死した。
森長可(もり ながよし)
通称は武蔵守鬼武蔵の異名で呼ばれることもある。森可成の次男で正室は池田恒興の娘。父譲りの豪将で甲州崩れでは関東方面軍の一員として功を挙げている。しかし本能寺の変の際、三人の弟を亡くしたことで深酒の上無理な突撃を繰り返すなど、自暴自棄な振る舞いを見せるようになっている。小牧・長久手の戦いの前哨戦となった「羽黒の戦い」では酩酊したまま戦に臨み合戦中に気を失い、徳川軍に大敗するなどの失態を犯す。秀吉の寛大な処置により岳父・池田恒興と共に失態を挽回しようと行動するが、徳川本陣への無理な突撃を敢行した最中に鉄砲の流れ弾が眉間を貫き討死した。
森成利(もり なりとし)
通称は乱法師。森可成の三男。一般には森蘭丸として知られる。織田家の武将で形の上で隠居した信長の側近。信長の唐入りの計画を知っており同行を望んでいたが、信長には拒否されていた。直後に起こった本能寺の変では、弟の長隆・長氏と共に奮戦するも明智軍の猛攻を受け討死。
平手汎秀(ひらて ひろひで)
通称は甚左衛門。三方ヶ原の戦いで佐久間信盛や水野信元とともに徳川家康の援軍として参戦する。合戦後は浜松城に帰還した佐久間隊とは別に織田領に撤退しようとするも武田軍の追撃を受け、戦死する。
原田直政(はらだ なおまさ)
通称は備中守。当初は塙九郎左衛門と称していた。長篠の戦いで鉄砲奉行を務める。後に大坂攻めに従軍するが、雑賀衆の奇襲に遭い戦死した。
荒木村重(あらき むらしげ)
通称は信濃守、後に摂津守。明智光秀の調略によって細川藤孝と共に織田家に仕官した大身の武将。秀吉の中国攻略の際には援軍として羽柴軍に加わる。毛利家との戦いに震えていたため、権兵衛や神子田からも頼りにならないと思われた。しかし播州平定も目前となった時、突如謀反。説得に訪れた秀吉と光秀に「信長の銭による天下一統は滅亡への道」と説き、その後さらに説得に訪れた官兵衛を牢に禁獄した。再三に渡り官兵衛を調略しようとするも叶わず、妻子を捨て居城・有岡城より脱出する。
九鬼嘉隆(くき よしたか)
通称は右馬允。織田家の武将。「宜候(ヨーソロ)ォ」が口癖。織田家中でも屈指の水軍を有しており、木津川の戦いで毛利軍を破った。
村井貞勝(むらい さだかつ)
通称は長門守。京都所司代。織田家の京での政務を担当する。本能寺の変の際、二条城にて討死。その行政能力は、討った明智軍の兵すら死後の京の政に不安を覚えるほど評価していた。
高山重友(たかやま しげとも)
通称は右近大夫、洗礼名はジュスト。転じて秀吉には"じゅすどん"と呼ばれる。織田家の武将の一人で信長の命を受け、鳥取城を攻めあぐねる羽柴軍の視察に訪れる。
山崎の戦い時には元々、明智軍の傘下にいたが秀吉方に寝返っており池田・中川らと先鋒を務めた。普段は物腰柔らかだが戦になると豹変、勇猛果敢になり口調も変わる。しかし賤ヶ岳の戦いでは内輪の戦いに戦意が湧かず、攻め込んできた佐久間隊と戦わずに後退している。
毛利秀高(もうり ひでたか)
通称は新介。『桶狭間戦記』にて義元の首級を上げる手柄を上げた後は信長の馬廻り衆として仕えていた。『一統記』本能寺編にて本編に登場し、馬廻り衆として奮戦するも二条城にて討死。光秀率いる若い兵はその死に涙を流していた。

その他の親織田勢力[編集]

尼子勝久(あまご かつひさ)
家名復興を目指して織田家の傘下に入った武将。中国攻略を担う羽柴軍の元で上月城に入るが、毛利軍・吉川元春によって攻略され、討ち取られた。
山中幸盛(やまなか ゆきもり)
通称は鹿之介。尼子家の家臣。尼子勝久とともに上月城に入り、勝久を励ましながら毛利軍と戦う。上月城落城後、毛利軍によって殺害された。
外見のモデルはシルヴェスター・スタローン
小寺政職(こでら まさもと)
通称は藤兵衛。播磨の豪族で小寺孝高の主筋にあたる。織田家に与するものの同時に織田家に対する不審を抱いている。
外見のモデルは西田敏行
宇喜多直家(うきた なおいえ)
備前の戦国大名。織田家が中国地方に侵攻してきた際に毛利家から離反し、以後は山陽側の毛利軍の抑え。
南条元続(なんじょう もとつぐ)
伯耆国人。織田家が中国地方に侵攻してきた際に毛利家から離反し、以後は山陰側の毛利軍の抑え。

織田家包囲網参加勢力[編集]

斎藤家[編集]

『第一部』に登場。美濃の戦国大名。物語冒頭で織田家に滅ぼされた権兵衛の元の主家で、当主の龍興はその後も信長の首を狙った。

斎藤龍興(さいとう たつおき)
通称は右兵衛大輔。元美濃稲葉山城主。当初は女色に溺れ、当時家臣だった竹中重治に諫言代わりに城を奪われるなど暗愚な武将だった。織田信長に敗北し国を追われるが、以降は信長に復讐し国主の座に返り咲く野望を抱いて、女衆と共に各地を流浪。何よりも女を大事にし学問も奨励している。
信長に勝利することだけを生きがいとして謀才を開花、浅井・朝倉・比叡山・本願寺を巻き込んで信長包囲陣を完成させ、信長を窮地に追い込んだ。畿内での戦線で信長に敗れた後は朝倉家に身を寄せ、鳥居景近とともに朝倉家の実権を掌握しようと暗躍する。しかし自身の野望が露見しかけ、更に刀禰坂の戦いで大敗を喫した朝倉家を見限り本願寺へ身を寄せようとするが、謀略に利用しながら寵愛してきた女衆を見捨てる事が出来ず、追撃する織田軍に討ち取られた。最期はその後事を景近に託す。
  • 第一部11巻寸評:戦国史上最も巧妙にして、最も食えない男
お蝶(おちょう)
斎藤家の侍女。権兵衛とは幼馴染で、両想いの恋人でもある。初期の権兵衛が戦う理由となるキャラクター。この物語においてキーとなる存在で、第一部ではほとんどの合戦に、回想という形で登場している
美濃を追われた斎藤龍興に従い、その美貌に目をかけられて、龍興の妹の姫として教育を受けるようになる。比叡山焼き討ちの際に権兵衛と再会するが、同じく比叡山にいた許婚・鳥居景近に攫われて越前に移る。その後、高徳院の女中となり、憔悴する景近の側にいながら心を通わせるようになる。朝倉家滅亡の際に権兵衛と再会するが、武士としての道を歩む権兵衛と共には行かず、朝倉家の姫たちと供に本願寺に逃れた。
その後は、教如に嫁いだ義景の娘・お渓の侍女を務めていたが、本願寺の大阪退去に伴い、2人で安芸へ向かう。
富田勢源(とだ せいげん)
斎藤家兵法指南役。龍興の側近。小柄で視力も低い老人だが、非常に身軽な剣術の達人。
お猪(おいの)
斎藤家の侍女頭。権兵衛やお蝶とは昔馴染みで、「姐さん」と親しまれている。美濃を追われた斎藤龍興に従ってともに流浪しながら、龍興の謀略を助ける。龍興が斎藤家に入ってからは高徳院の女中となる。刀禰坂の戦いで龍興が戦死すると、後を追うように自害した。
独活(うど)
龍興に仕える壮年の透波。部下であるお鹿と共に各地へ飛び回って諜報活動に従事していた。
お鹿(おしか)
龍興に仕える女透波。体の部位を基準に物事を記憶する。お蝶とは親友の間柄で、お蝶のために権兵衛と接触しようとするが、逆にその優しさに触れて権兵衛に惚れてしまう。しかし権兵衛とお蝶のために自らは身を引く。比叡山で鳥居景近によって昏倒した権兵衛を救い山麓まで権兵衛を帰還させるが、その際に矢傷を負い、それが致命傷になって命を落とした。

浅井家[編集]

『第一部』に登場。近江北部を治める戦国大名。織田家と同盟を組んでいたが、盟友・朝倉家が織田家に侵攻された事で裏切り、織田包囲網の一角となる。第一部終盤で織田家に滅ぼされる。

浅井長政(あさい ながまさ)
通称は備前守、幼名は猿夜叉丸。浅井家当主。織田信長の妹であるお市を娶り、お市を溺愛している。当初は大きな体躯に恵まれながら吃音癖のある小心者で信長にも憧憬を抱いていたが、信長とお市の絆に嫉妬し、越前に侵攻する信長を裏切り窮地に陥れた。金ヶ崎、姉川と信長と戦っていく中で精神的に成長し、利用されるだけだった他勢力からも一目置かれるようになる。自らは信長と戦う事でのみ戦国大名になれる事を悟り、各地で織田軍と戦い続けて行く。居城である小谷城を攻略されると、お市を突き放して織田家に戻させ、お市を想いながら自害して果てた。
  • 第一部13巻寸評:戦国史上最も雄偉にして、最も溺愛した男
浅井久政(あさい ひさまさ)
通称は下野守。長政の父。家督は長政に譲ってはいるが未だ発言力は強く、優柔不断だった長政に代わって信長を討とうとしていた。長政が当主として威信を持ち始めると、長政に全権を委ねる。羽柴秀吉によって小谷城虎口を突破されると自害した。
山崎俊秀(やまざき としひで)
通称は新平。浅井家臣で磯野員昌隊の先駆け。戦傷として鼻が無く惣面をつけ、馬上での弭槍を得意とする。若い頃から激情を抑えており、常に冷静になる事を心がけている。敵や味方からは「真紅の馬上槍」と呼ばれ恐れられる剛の者である。
姉川の戦いでは撤退したと見せかけて敵を奇襲する「母喰鳥の計」を披露、自ら先陣を務め織田信長の陣を奇襲。権兵衛と坂井尚恒の奮戦によって足止めされ、尚恒を討ち取るが、激昂の権兵衛との馬上の一騎打ちに敗れて討ち取られた。俊秀の死によって浅井軍の奇襲作戦は失敗し、姉川での敗戦に繋がった。なお、の「俊秀」は作者の創作。
磯野員昌(いその かずまさ)
通称は丹波守。佐和山城主を務める浅井軍きっての猛将。織田信長と対決姿勢を表明しながら逡巡する長政を支える。姉川の戦いでは先陣部隊を率いた。その後は佐和山城に籠もって織田軍に抵抗するが、支えきれずに降伏した。その後は織田家に仕える。初登場は六条合戦を描いた回(単行本2巻)であるが、その際は、2回目以降の登場時と異なる顔で描かれていた。
遠藤直経(えんどう なおつね)
通称は喜右衛門。長政の重臣。浅井家を格下のように扱う織田信長に警戒心を抱いている。姉川の戦いに出陣したがその戦いで戦死した。
堀秀村(ほり ひでむら)
通称は二郎鎌刃城を守備する若き城主。竹中重治によって調略を受け、重治の可能性を信じて織田家に寝返る。以降は羽柴秀吉の配下に納まる。
樋口直房(ひぐち なおふさ)
通称は三郎兵衛。堀秀村の重臣。年若き当主を暖かく補佐する。斎藤家を離れていた竹中重治を寄宿させており、重治の調略で織田家に寝返った秀村に従う。秀村とともに羽柴秀吉の配下に入る。
第二部では織田信長の苛烈な戦略に畏怖を覚えて逐電するが、逆に討ち取られてしまった。
阿閉貞征(あつじ さだゆき)
通称は淡路守、姉川の戦い時には貞秀と名乗っていた。浅井家の守備の要衝山本山城を守備する。戦略眼に長け、織田軍から城を守っていたが、政略は今一つながらプライドが高い。羽柴秀吉と共に調略に来た竹中重治に言いくるめられ、織田家に寝返り浅井家を窮地に追い込む。小谷城攻めでは秀吉の軍に属して浅井家臣たちへの調略を行った。
山崎の戦い時には、明智方に組して嫡男・阿閉貞大と共に参戦していた。
藤堂高虎(とうどう たかとら)
通称は与右衛門、幼名は与吉。阿閉貞征の与騎。浅井軍の元で数々の軍功を挙げた武将。没落した家名再興を志しており上昇志向が強い。権兵衛以上の巨躯を誇り知恵も回るが、小難しい性格をしており人当たりがよくない。権兵衛からは「虎吉」と呼ばれる。
貞征とともに織田家に寝返り、羽柴秀吉の小谷城攻略戦に参加する。当初は同僚となった権兵衛や才蔵と対立していたが、戦を重ねるにつれて互いに認め合う戦友となる。第一部終了時には己の不足を悟り諸国を巡り見聞を広め才覚を磨かんとする。第二部では、播磨攻めの最中に羽柴秀長の麾下として羽柴軍に復帰し、再び権兵衛と功を競う間柄となった。
  • 第一部14巻寸評:戦国史上最も強かにして、最も有能な男
赤尾清綱(あかお きよつな)
通称は美作守。浅井家三代に仕えた重臣筆頭であり、長政を幼少時から知る人物。小谷城中に屋敷を構えている。屋敷ではお市を幽閉していたが、浅井市として生きる決心をしたお市を見て笑顔を見せた。羽柴秀吉による調略を撥ね付け、長政の最期を看取る。
大野木茂俊(おおのぎ しげとし)
通称は土佐守。羽柴秀吉の調略によって織田家に寝返る。小谷城虎口近くに屋敷を構えており、秀吉に虎口の情報を伝える。
お竹(おたけ)
浅井家側女。斎藤龍興の調略を受け、織田信長が浅井家を裏切るという流言を流す。

朝倉家[編集]

『第一部』に登場。越前の一乗谷に居を構える戦国大名。名門だがそれ故に世情に疎く、さらに家中は守旧派と急進派に分かれている。織田家の侵攻を受け、盟友の浅井家らと共に織田包囲網を形成するも第一部終盤で織田家に滅ぼされる。

朝倉義景(あさくら よしかげ)
通称は左衛門督、左京太夫とも。朝倉家当主。英林孝景以来の繁栄を守ってはいるが、幼くして家督を継いだために戦国の倣いになじまず、台頭する織田信長に対して警戒心が薄かったり、信長を討てる絶好の機会を逃すなど暗君としての面が強かった。しかし体勢を立て直した織田家の脅威を前に内憂外患に気付き、当主としての自覚を持ち始める。以後は主戦派の鳥居景近を重用して信長と対決姿勢を表明するが、朝倉景鏡ら対立派閥に足を取られ、結局信長と対決する事はなかった。間もなく織田軍の一乗谷侵攻を受けて敗戦し、景鏡を頼るものの裏切られ、最期は景鏡に一乗谷を託して自害した。
  • 第一部12巻寸評:戦国史上最も薄幸にして、最も儚き男
高徳院(こうとくいん)
義景の母。女中たちの母親的存在であり、お蝶たちには「姑さま」と呼ばれている。家中でも一定の発言力を持っており、義景も彼女の言葉には逆らうことが出来ない。義景を「ドラ息子」と叱り付ける事が多いが、息子に対する愛情は本物であり、義景の身を案じている。鳥居景近を信任しており、景近を義景に推挙した。一乗谷を落ちた後は義景と共に織田軍から逃れるが、義景の死後になって捕らえられる。その際に同行しようとするお蝶を拒み、本願寺へ逃れさせた。その後丹羽長秀によって殺されたという。
朝倉景鏡(あさくら かげあきら)
通称は式部大輔、後に織田信長の偏諱を受けて土橋信鏡と改名する。義景の従兄弟で、朝倉家筆頭家老。家中の派閥争いでは守旧派に属し、自らの矜持も高く、領内の窮状を伝えなかったりと当主義景に反感を持っている。内憂外患が頂点に達した際に家中を調略して朝倉家当主となろうと画策するも、鳥居景近の尽力で叶わなかった。その後は出陣を拒否したばかりか信長との対決をも妨害し、遂には義景に見切りをつけて織田家に内応し、景鏡を頼って逃亡してきた義景を自害に追い込んだ。その後は朝倉旧領に配されるも、義景の娘の意を受けた本願寺によって扇動された一向一揆により戦死した。
朝倉景健(あさくら かげたけ)
通称は孫三郎。義景の重臣であり、自ら動かない義景の名代として行動する事が多い。義景が戦陣に立ってからも怠惰から抜け出せない義景を度々諌めている。姉川の戦いでは朝倉軍を率いた。家中の派閥争いでは守旧派に属するが、織田信長の台頭には危機感を抱いており、後に革新派の鳥居景近らと共に朝倉家を盛り立てていく。
初期は義景の名代として頻繁に登場していたが、終盤になるにつれ登場が減り、朝倉家中でもその最期が描かれなかった。
山崎吉家(やまざき よしいえ)
通称は長門守。武闘派の朝倉家重臣。猛々しい風貌から家中でも一目置かれると共に畏怖されている。金ヶ崎での織田軍追撃戦では先陣を率いるが、木下秀吉隊の活躍によって信長を逃がしてしまった。義景の側近から家老に出世した鳥居景近を良く思っておらず、度々義景を諌めている。織田家との決戦直前に朝倉景鏡の書状により鳥居景近、斎藤龍興の危険性を義景に進言し、景近らを押し切って撤退を強行するも、それが「刀根坂の戦い」を招いてしまい、殿として奮戦するも叶わず討死した。初登場の金ヶ崎の退き口の際とその後とでは異なった顔で描かれている。
鳥居景近(とりい かげちか)
通称は兵庫助。義景の側近。家中での革新派の中心を担う人物。爽やかな風貌で、ヨーロッパの騎士道(ろうまんす)を追い求める。斎藤龍興の計らいでお蝶と知り合い心惹かれて行く。お蝶を奪還しに来た権兵衛と比叡山で対決し、顔の左半分を潰され一旦は敗北するも、執念で起き上がって狂気を帯び、権兵衛を倒してお蝶を奪い取った。その後、潰された顔は仮面で覆っている。
以後も戦利品としてお蝶を囲うが、その中で再び穏やかな心を取り戻してゆく。高徳院に近く、その介添えもあって義景の信任を得、義兄弟となった龍興とともに朝倉家で影響力を持つ。しかし成り上がりのために「仮面奏者」と蔑む朝倉景鏡や山崎吉家らの抵抗に遭い、信長と対決する事は叶わず、義景とともに一乗谷を落ちる。しかし逃れた先の景鏡の裏切りに遭い義景が自害すると、最後に一矢報いるために景鏡軍に突撃する。奮戦叶わず景鏡に捕らえられ、景鏡の拷問を受ける中、その想いを汲み取った権兵衛の放った矢に斃れた。
高橋景業(たかはし かげなり)
通称は新助、比叡山焼き討ちの頃は甚三郎と名乗っていた。義景の側近で、鳥居景近の無二の親友。景近とは違って風貌は劣るが、共に騎士道に憧れる。家中では革新派に属している。一乗谷を落ちた義景に従うが、朝倉景鏡の裏切りによって義景が自害すると、その介錯を務め、今際の時まで一乗谷を案じる義景に敬意を表した。その後は義景の後を追うように自害する。
伊勢景茂(いせ かげもち)
通称は左衛門太郎。義景の家臣。客人的な立場にいながら不遜に振舞う斎藤龍興を快く思っておらず、龍興と結んでいる鳥居景近とも対立する。そのために龍興に危険視され、行軍中に毒殺された。

武田家[編集]

『第一部』から『天正記』に登場。甲斐に居を構える戦国大名。一国の主にもなりうる実力を持つ猛者を数多抱える戦国最強軍団であり、独立連合体と言える。当初は織田家と結んでいたが、比叡山焼き討ちを大義名分として織田家殲滅を画策する。第二部では信玄亡き後も勝頼を「シンゲン」とし衰えるどころかさらに勢いを増し、一時は武田家最大の版図を広げるも、長篠での決戦に惨敗を喫す。その後は勝頼自ら、武田家を生まれ変わらせるべく奮闘するものの、旧制に固執した重臣らの謀反に加え織田・徳川・北条らの“多方面侵攻”甲州征伐によって滅亡した。

武田信玄(たけだ しんげん)
通称は法性院[12]、名は晴信。武田家当主。「戦の前に勝利を決める」を方針とする名将。僧体ながら不気味な雰囲気を醸し出し、領国を隣接する家康は勿論、信長もその死を確認するまで眠りを妨げられるほどに恐れていた。人差し指を軽く掲げて語らう独特の仕草が特徴。ある種のカリスマ性を持ち、家臣達からは畏敬を込めて「御屋形(オヤジ)」と呼ばれる。桶狭間戦記にも出家前である武田晴信の名で登場。
情報を何よりも重視しており、些細な情報からでも大局を見極め、不測の事態も利用し覆す鬼謀の持ち主。老獪に織田・徳川家を追い詰め、遂には三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍を完膚なきまでに撃破するも、その戦陣で大病から昏倒し、やむなく進軍を中止する事になった。その後、奇跡的に意識を取り戻し、家臣達に最期の言葉を残し大往生を遂げた。
先述の通り家臣達から絶大な支持を集めているが、これは軍神としての畏怖だけではなく、家臣の為であれば自らの家族をも処断する自己犠牲の精神からでもある。
外見のモデルはマーロン・ブランド[11]
  • 第一部8巻寸評:史上最強にして最も業深き男
武田勝頼(たけだ かつより)
通称は四郎。信玄の四男で、家督継承以前は諏訪勝頼を名乗っており、半ば人質として諏訪家に送られていた。当初は信玄の一武将として三方ヶ原の戦いでも戦功を挙げる。その途上で信玄が倒れると急遽、嫡子・信勝を当主とした陣代(当主代理)となり、山県昌景や馬場信春らによって信玄を模した指揮官「シンゲン」として英才教育を受け、信玄に劣らぬ名将に成長する。
長篠の戦いでも大将ながら前線に布陣するという陣代故の奇策を用い、更に鶴翼に似せた魚鱗「逆さ魚鱗」の陣を引いて織田・徳川連合軍を大いに苦しめた。しかし織田軍の一斉包囲射撃によって戦局は一変、壊滅的な敗北を喫してしまう。
分家筋として周囲から蔑まれた過去と、老臣に囲まれた陣代という立場から、自らを「代わりは幾らでもいる」と卑下しているが、一方で武田家の犠牲となる姿に父の姿を見る家臣も多い。長篠で大勢が決した際には諏訪勝頼として死ぬ事を望むも、真の武田の屋形として生きる事を願った馬場らの想いに動かされ、生き延びる道を選ぶ。
その後、織田家の強大な資金力に対抗するため、銭中心の国造りを武田家の活路として掲げ、真田昌幸ら若手家臣を抜擢して韮崎に新府城を普請するなど、武田家の改革を成し遂げようとする。だが改革への不満が燻っていたところに織田・徳川・北条による多方面同時侵攻を機に旧体制・権益に執着する家臣らの謀反が相次ぎその新体制は最後まで完成せず、やがて甲州崩れにより水泡に帰した。織田家が攻め寄せる中、新府城を自ら焼却して婦女子らを処分し、天目山にて全ての業と懊悩を背負い、自らの身を持って武田家に幕を下ろした。信長とは敵対関係にありながら、同じ大名職である同胞として互いに通ずるものがあり、信長とは違う形で職を全うした。
外見のモデルはロバート・デ・ニーロ 他にアル・パチーノである。また、戦国大名職という生業に殉じる様は、キリストを髣髴させる描写で演出されている。
  • 第二部15巻寸評:史上最も開明にして最も鞏固なる男
仁科盛信(にしな もりのぶ)
通称は五郎。信玄の五男で、仁科家の家督を継ぐ。兄・勝頼より甲信防衛の要衝・高遠城を任されるも内心は勝頼が死して自らが武田家の屋形となることを願っていた。しかし、失敗と挽回を繰り返し、人として高みへと昇っていく勝頼の実力を認め、迫り来る織田の大軍に対して抗戦の意を固めるが、その翌日に信忠軍の猛攻を受け、落城が決定付けられると自害した。
当初、勝頼は高遠城が十日保てば織田・徳川連合軍に勝利出来ると予想していたが、名城でもあった高遠城が僅か一日で落城してしまった事で武田家滅亡を決定付ける事になった。
穴山信君(あなやま のぶきみ)
通称は梅雪斎不白。武田一門衆筆頭で河内・江尻領主。勝頼と昌幸が推し進める新体制によって領内の権益が脅かされる事を危惧しており、徳川家康と密約を交わす。徳川家に降る代わりに家康から命の保障と武田家新当主の地位を確約され、織田家が侵攻してきた際に混乱に乗じて質となっていた妻子を奪還した事で勝頼に反旗を翻す。家康を仲介に早期に寝返っていた事もあり戦後は所領安堵・加増されている。
第三部では武田家の名跡を継いでおり、家康の同盟者として安土を訪れる。本能寺の変時は、堺に逗留しており家康と別行動を取る際に後から移動することを選ぶが、寡兵であった事が災いして夜盗の襲撃に遭い討たれた。
武田信勝(たけだ のぶかつ)
通称は太郎。勝頼の嫡男で武田家当主。織田家による甲州征伐が始まり、新府城包囲が現実味を帯びると父・勝頼に家宝の楯無を焼却したうえで自害するよう勧める。その際に隆盛の折には武田の名を笠に着て驕り、火急の際には主家を蔑ろにする家臣団の身勝手さを非難し、当主になりたくないと涙ながらに語った。
山県昌景(やまがた まさかげ)
声 - 銀河万丈(戦国大戦)
通称は三郎兵衛、若い頃は飯富源四郎と称していた。戦国最強と謳われる先駆け大将で、信玄の信頼厚い重臣。赤備えの部隊を率い、その兵隊を見せただけで敵将を畏怖させる猛将。史実では、身長が140cmに満たず醜男であったとされているが、本作においては伊達男風の颯爽とした容姿と気持ちのいい性格で、戦いに先んじては爽やかな弁舌で兵士を奮い立たせ、戦場では天才的な指揮を取り、敵には一切の容赦をしない冷酷さも兼ね備える。その性格は常に完全な戦を目指しており、それを求めるだけの将器もあるが、第四次川中島合戦ではそれが理由で信玄の本陣に敵の侵入を許してもおり、信玄からは「美質と同時に瑕でもある」と評されている。三方ヶ原の戦いでは先駆け隊を率いて徳川軍を窮地に追い込んだ。
信玄の死後は陣代となった勝頼を「シンゲン」として教育し、一方で健在な武田軍を織田・徳川家に誇示する活躍を見せる。長篠の戦では逆さ魚鱗の左翼に陣取り、徳川軍に甚大な被害を与えた。しかし織田軍の強力な鉄砲戦術を目の当たりにして敗戦を悟り、勝頼に撤退を進言しようと一騎勝頼の元へ駆けるが、根来衆の狙撃を受け、蜂の巣となりながら壮絶な討死を遂げた。
甲州征伐編では、嫡男の山県昌満が重臣として登場している。
『戦国大戦』Ver3.0にてSS山県昌景として登場。
外見のモデルはクラーク・ゲーブル[11]
  • 第一部9巻寸評:史上最高の先陣にして、最も残虐な男
  • 第二部4巻寸評:史上最も華麗にして最も合戦に貪欲な男
馬場信春(ばば のぶはる)
通称は美濃守、若い頃は民部少輔信房を称していた。山県昌景と双璧を成す武田家の要の重臣。数多くの戦場に出陣しながら傷一つ追わなかったという「不死身の鬼美濃」。煙管を愛飲。好々爺然としているが老練な戦術眼と剛胆さをもち、山県昌景との連携も非常に冴え渡る。また三方ヶ原の戦いの最中には昏倒した信玄に動揺する山県・高坂の両重臣を諌めるなど、重臣にも直言できる武田家でも屈指の武将といえる。
幼少期より家中で肩身の狭い思いをしながらも成長してきた勝頼に愛着を感じており、信玄死後の勝頼の教育の他に、若い家臣たちに世代交代が進むように心がけている。長篠の戦では逆さ魚鱗の右翼に陣取り、佐久間隊を壊走させ、丸山を占領した。退却戦となると決死の殿軍を務め、勝頼の撤退を見届けた後に討死。
甲州征伐編では、嫡男の馬場昌房が重臣として登場している。
外見のモデルはポール・ニューマン[11]
  • 第二部5巻寸評:史上最も老獪にして最も周到な男
高坂昌信(こうさか まさのぶ)
通称は弾正、若い頃は春日源五郎と称していた。かつては美男子として知られ、信玄に寵愛された武田家の重臣の一人。寡黙で沈着な性格で、口数の多い山県昌景に小言を言う事も多い。三方ヶ原の戦いでは信玄の脇備えに布陣し、信玄の異常に真っ先に気付く事となった。信玄没後は勝頼を「シンゲン」とするために教育を施す。越後・上杉家の抑えとして長篠の戦いには従軍せず、帰国した勝頼を出迎えた。
その後の甲州征伐編では既に逝去しているため登場しない。その代わり嫡男の高坂信達が重臣として登場している。
秋山信友(あきやま のぶとも)
通称は伯耆守、若い頃は膳右衛門と称していた。武田家の重臣の一人。ニヒルな性格で山県昌景には「ムッツリ」と呼ばれているものの、戦場では猛牛のような働きをする事から勝頼からは「牛友」と呼ばれる。対織田戦線では織田信長を引き付けるために、信長の居城・岐阜城の備えである岩村城を長年に渡って包囲。城主だったお艶の方を降伏、籠絡して信長を挑発する。信玄の死後は跡を継いだ勝頼の教育に務め、主に美濃方面で織田家への撹乱の役目を担う。
当初は、内藤昌豊に代わって武田四天王のように描かれたものの、その後については一切語られていないが、信忠による岩村城攻めに遭い、お艶と共に処刑されている。そのため甲州征伐編では登場しない。
小山田信茂(おやまだ のぶしげ)
通称は兵衛尉。「いぶし銀」と称される武田家の有力武将。戦場では輿に乗って行軍したり、ほとんど言葉を発る事のない不気味な人物。三方ヶ原の戦いでは少数の投石部隊を率いて徳川軍を挑発する。長篠の戦いでも一隊を率いるも、大勢が決すると部下達に退却戦を説く。甲州征伐編では、当初から勝頼らが推し進める新体制に反発しており、自領内に迎え入れるという話も実際は勝頼の自害を促すものであった。本当に勝頼が現れると新府を去る際に人質ごと焼き滅ぼした事を名目に受け入れを拒否し、武田家の滅亡を決定付けた。
その最期は、仙石家の会話から斬首された事が明かされただけであったが、単行本化の際に変更。事前に約定等がなかった事から主君を売った不忠者と織田信忠に断罪され、織田家に万民の恨みが降りかかる日が来る事を予見しながら打ち首となる姿が加筆された。
内藤昌豊(ないとう まさとよ)
通称は修理亮、名は昌秀とも。武田家の副将。三方ヶ原の戦いでは一隊を率いる。長篠の戦いでも部隊を率い、馬防柵を破った真田隊に続いて織田本陣へ突撃するが、逆に鉄砲隊の一斉射撃を受ける。その後、撤退戦で討死した。
史実では武田四天王に数えられる名将とされるが、本作では秋山に取って代わられており四天王の他の3人(山県、馬場、高坂)と比べて非常に活躍が少ない。
真田信綱(さなだ のぶつな)
通称は源太左衛門。武田家の有力武将で、六道銭の旗を掲げる真田家当主。大太刀「青江貞次」を得物とし、他国衆ながら信玄の信任も厚い。三方ヶ原の戦いでは昌幸とともに一隊を率いる。長篠の戦いでは先鋒として弟の昌輝とともに、馬防柵を守る権兵衛の部隊と衝突。途中、津田妙算による狙撃を受けながらも仙石隊を蹴散らして織田本陣へ突撃するが、織田鉄砲隊の一斉射撃を受ける。その後追撃戦中の仙石隊に、既に事切れた昌輝を背負って再度突撃するも討死した。
真田昌輝(さなだ まさてる)
通称は兵部丞。真田信綱の弟で真田家の次男。長篠の戦いでは兄の部隊に属し、どちらかが倒れても残った方が武功を挙げると息巻いていた。織田鉄砲隊の一斉射撃によって戦死する。
真田昌幸(さなだ まさゆき)
通称は安房守。真田信綱・昌輝の弟で真田家の三男。三方ヶ原の戦いでは兄・信綱と共に第二陣右翼として参戦していたが、信綱・昌輝が戦死した長篠の戦いには出陣していない。長篠の戦い以降の武田家では真田家当主として台頭しており、銭中心の新たな国造りの一環として韮崎新府城を普請する。甲州征伐では北条家に庇護を求め、結果的に武田を離反しており、後に関東方面軍司令官となった滝川一益の寄騎となった事が語られた。
甘利信忠(あまり のぶただ)
通称は藤左衛門。武田家の武将。三方ヶ原の戦いでは荷駄隊に化けて油断を誘い、酒井忠次隊を奇襲する。
甘利信康(あまり のぶやす)
通称は郷左衛門。武田家の武将、荷駄隊大将。長篠の戦いで一隊を率いるが、織田軍の猛攻を受けて戦死。
土屋昌次(つちや まさつぐ)
通称は右衛門尉。武田家の武将で信玄の護衛侍大将。長篠の戦いで一隊を率いるが、敗戦が濃厚になり撤退の陣触れが出されると、味方隊を逃がすために織田軍の柵に突撃し、討死した。
土屋昌恒(つちや まさつね)
通称は右衛門尉。武田家の武将で昌次の弟に当たる。勝頼の側近で多くの家臣が離反する中、最後まで勝頼に付き従い、天目山では、峡い崖道で織田勢を迎え撃つため片手を蔦に絡ませ崖下へ転落しない様にし、片手で戦い数多の兵を討ち取ったが最期は力尽きて崖から転落死した。戦後、その忠誠心に敬意を表した徳川家が子息を迎え入れた。
武田信廉(たけだ のぶかど)
通称は逍遥軒、甲州征伐編以前は法号の信綱(しんこう)を「のぶつな」と呼ぶかたちで登場していた。信玄の弟であり、勝頼にも信頼される一門衆。三方ヶ原の戦いや長篠の戦いで主力軍を率いる。勝頼らが推し進める新体制にも理解を示していたが、織田軍の甲州攻めでは大島城を放棄して、逃亡する。
原昌胤(はら まさたね)
通称は隼人佐。武田家の武将、陣場奉行。長篠の戦いで一隊を率いるが、退却戦で織田軍の追撃を受けて討死した。
小幡信貞(おばた のぶさだ)
通称は上総介。武田家の武将で、西上野先方衆。長篠の戦いで一隊を率いる。撤退の陣触れが出されるとすぐに転進を決断するが、織田軍の追撃により討死した。
一条信竜(いちじょう のぶたつ)
 通称は右衛門大夫。長篠の戦いでは馬場信春隊の寄騎を務める。信春とともに殿軍を務め、勝頼の撤退を助けた。
木曾義昌(きそ よしまさ)
 通称は伊予守。武田家の傘下にある信濃国木曾谷領主。勝頼らが推し進める新府移転が実現しても、僻地の木曽谷には恩恵がない事を感じ取っており、織田家から提示された所領安堵・加増という好条件を受け、断腸の思いで質となった生母と子を犠牲にして織田家に内応する。この義昌の寝返りが名門・武田家崩壊の序章となった。
おはら
山県昌景の愛人らしき女性。甲斐にいる際の昌景の側に居る事が多い。
北条夫人(ほうじょうふじん)
北条氏康の娘であり、勝頼の継室。勝頼から北条に戻ることを勧められるが、最期まで勝頼のそばにいることを選び、天目山にて自害した。
松姫(まつひめ)
信玄の側室である油川夫人の娘であり、織田・武田同盟時には織田信忠の許嫁であった女性。勝頼らと新府城を出たものの行動を別にし、信忠に敢て見逃され戦後、尼となったことが語られている。

本願寺[編集]

『第一部』から『天正記』に登場。浄土真宗を旨とする日本最大の教団。膨大な財力と全国各地に広がる一向宗徒を抱える。幾度も信長包囲陣に参画し、各所で信長を窮地に追い込む。しかし対織田戦線が劣勢に陥ってくると宗主・顕如は織田家の和睦勧告を受け入れ本拠地・大坂から退去、徹底抗戦派であった息子の教如も分断工作に屈し、退去した際に石山本願寺が焼失する事となった。

本願寺光佐(ほんがんじ こうさ)
法名は顕如石山本願寺宗主。頭や背には梵字の刺青が彫られている。派手な服装を好み関西弁で明るく話す、報恩講では笑いを取りながら悪人正機など教えを説き、大衆の心を掴むカリスマであり、彼の話を聞いて涙する民衆も多い。かなり癖のある食えない男だが、民を想う心意気は本物。信長包囲網の中核として長年に渡り各地で織田家を苦しめたが、最終的に朝廷斡旋による和睦勧告を受け入れて大阪から退去し、紀伊国鷺森へ向かう。信長も顕如を革新者として称し、「戦国大名」と称賛した。
後に小早川隆景は、本願寺の敗因について“織田家と違い、本願寺には銭を扱える者が不在で銭を浪費するだけだった”と分析していた。
外見のモデルはミック・ジャガー[11]
  • 第一部7巻寸評:戦国史上最も怜悧にして、最も熱き男
  • 第二部12巻寸評:史上最も豪胆にして最も侠気ある男
如春院(にょしゅんいん)
光佐の妻。武田信玄の妻の妹であり、本願寺と武田を繋ぐパイプでもある。夫と同じく関西弁で話す明るい性格で、無邪気な言動から場の空気を暖めるのに一役買う事も多い。また一見単純そうな性格だが、知恵にも長けている。
下間頼廉(しもつま らいれん)
通称は刑部卿法印。顕如の右腕的存在で、本願寺軍総司令官。表情を変化させぬ沈着な性格で、他人には威圧的態度をとる事が多い。坊官ながら戦術に優れ、信長を一時窮地に追い込んだ。
本願寺光寿(ほんがんじ こうじゅ)
通称は教如石山本願寺宗主である顕如の長男で朝倉義景の娘・お渓の夫。信長の大阪退去勧告に揺れる本願寺内で、織田家との徹底抗戦を主張するも父である顕如は勧告を受け入れた為、これに反発。教如派を立ち上げて、石山に篭城したが織田家の分断支配工作の前に屈し、三ヵ月後に退去した。
願証寺証専(がんしょうじ しょうせん)
本願寺の伊勢長島方面軍司令官。妻は武田勝頼の妹。伊勢長島の一向一揆を率いて織田軍に抗戦するが、味方軍の浪費が激しく士気を保つ事が出来ず、遂に信長に降伏する。しかしその条件を履行した後、反転した織田軍による集中砲火を受ける事となった
下間頼照(しもつま らいしょう)
通称は筑後法橋。本願寺の越前方面司令官。朝倉家の滅亡後に越前を席巻した織田軍を追い出して越前を手中に収める。後に織田軍の逆襲の際に、味方の裏切りに遭って首を打たれた。
下間頼俊(しもつま らいしゅん)
通称は和泉守。越前足羽郡司。後に下間頼照とともに越前の宗徒の裏切りによって首を討たれる。
杉浦玄任(すぎうら げんにん)
通称は隠岐守。本願寺の越前大野郡司、越中方面司令官。金沢坊中では反上杉の筆頭格として上杉軍と交戦していたが、上杉に通じる七里頼周の策謀により自害させられ、首を上杉謙信に送られた。
七里頼周(しちり らいしゅう)
通称は三河守。本願寺の越前府中支配、能登加賀方面司令官。金沢坊中では親上杉。織田軍に対抗すべく、同僚の杉浦玄任を殺害して上杉家との和睦交渉を試みるが謙信に一蹴される。一時は謙信に激怒するも上杉家との同盟「越賀一和」がなると謙信に心酔し、本願寺と上杉家の仲介役となるが後に自らも内紛で命を落とした。
奥政尭(おく まさあき)
通称は近江守。越中一向一揆の大将。敵対する上杉軍と対陣するが、突如謙信によって和睦を持ちかけられる。

上杉家[編集]

越後を拠点とする戦国大名家。第一部ではわずかに触れる程度の扱いで、『天正記』から正式に登場。質実剛健をモットーとしており、武田家と並び戦国最強の武力を誇る。織田家とは同盟関係にあったが、突如方針を転換し信長と敵対する。北国ということから当主謙信をはじめとする上杉家の人々はソ連ロシアの政治関係者に酷似した風貌をしているものが多い。謙信健在時は織田家相手に優勢を保っていたが謙信が死去し、家督争いが起きると著しく国力を低下させ、第三部では柴田北陸方面軍に押し込まれていたが本能寺の変による織田家の混乱によって危機から脱する。『権兵衛』では織田を傘下に入れた羽柴と同盟を結ぶ。当初は、手取川の合戦での上杉家を描くかどうかは定かではなかったが、NHK大河ドラマで上杉謙信を扱った天地人が放送されたことで、描かれることになったことが、『天正記』単行本15巻のあとがきで書かれている。

上杉謙信(うえすぎ けんしん)
通称は不識庵(ふしきあん)。幼名は長尾虎千代。元は長尾弾正少弼景虎、政虎、輝虎と名乗っていた。上杉家当主。かつて武田信玄と川中島で激闘を繰り広げた。三人称では「御仁」と呼ばれる。
合戦を続けることによる人の世の発展を「義」「天下静謐」として掲げ、同時に合戦を愉しみ自身の充足を埋めている。常に無表情で発する言葉は非常に短く、かつ抽象的でいかようにも解釈できるため、周辺国はもちろん側近ですらその真意を量れず苦労することもあり、気まぐれで矛盾極まりない政策をとる「不可思議な人物」とされている。
弾雨の中を平然と一騎で駆け抜けるなど信長に匹敵する狂気をのぞかせる一方で、敵対者ですら一瞬で魅了するほどの魔性めいたカリスマ性を持つ。また自ら見回りや偵察を務めるなどし、天性の勘によって高度な戦術を繰り出す。手取川の合戦では柴田勝家率いる織田軍を打ちのめすも、戦乱の火種を残すために織田軍を敗走させるにとどめ、訝しがる家臣団に、合戦を続けることで人も国も成長していくという独特な価値観を「静謐」として語った。その際自身の後継者をあえて指名せず、後継者争いですら自身の語る静謐に利用しようとしていることを伺わせて家臣団を戦慄させ、それは現実に御館の乱の伏線となっていくことになる。その後間もなく病に倒れ、自らの人生の本質はただその合戦を受け止められる相手を求め続けるのみのものであったことを、毘沙門天と語らいながらに自覚し逝去した。
外見のモデルはウラジーミル・プーチン
  • 第二部7巻寸評:史上最も剛強にして最も不可思議な男
上杉景勝(うえすぎ かげかつ)
通称は弾正少弼。上杉一門。上杉謙信の姉・仙桃院の実子で実際には謙信の甥に当たる。謙信が死去すると義弟・景虎との家督争いである「御館の乱」が勃発し、乱に勝利。上杉家当主となった事が語られた。
外見のモデルはウラジーミル・レーニン
上杉景虎(うえすぎ かげとら)
通称は三郎。上杉一門。上杉の一門ではあるが、実際は北条家からの質である。外見のモデルはロシアの作家マクシム・ゴーリキー
長尾為景(ながお ためかげ)
通称は信濃守。謙信の実父。幼い謙信に将器を見出し、野望を植え付けようとした。外見のモデルはヨシフ・スターリン
上杉憲政(うえすぎ のりまさ)
通称は兵部少輔。先代の関東管領。かつて長尾景虎と称していた謙信に関東管領職を譲り、関東の北条家と闘うように促した。
河田長親(かわだ ながちか)
通称は備前守。上杉家の家臣。北陸方面司令官。第一部では河上富信から武田信玄の死を報告されたと名前のみ登場。力士のような体格をしており、また文にも長けている。信長とは外交の窓口として謁見も果たしている。自らを「士(さむらい)」と称する。外見のモデルはアレクサンドル・カレリン
蔵田五郎左衛門(くらた ごろうざえもん)
上杉家の家臣。段銭方を務める。外見のモデルはカール・マルクス
山吉豊守(やまよし とよもり)
通称は孫次郎。上杉家の家臣。外見のモデルはボリス・エリツィン
直江景綱(なおえ かげつな)
通称は大和守。上杉家の家臣で謙信が若い頃からの重臣。謙信の死の前に没している。外見のモデルはグリゴリー・ラスプーチン
直江兼続(なおえ かねつぐ)
通称は山城守。上杉家の家臣。謙信の葬儀に参列。外見のモデルはアレクサンドル・ケレンスキー。ただし、実際には謙信逝去時は直江姓は名乗っていない。
斎藤朝信(さいとう とものぶ)
通称は下野守。上杉家の家臣。外見のモデルはワジム・メドヴェージェフ。手取川の合戦にも参加。
堀才介(ほり さいすけ)
加賀国能美郡波佐谷砦城主・宇津呂丹波の家臣。左利きで気のいい巨漢。現地では「黄金の左腕」と呼ばれていた。宇津呂氏は一向宗に属していたために織田家寄りであり、才介も権兵衛による調略を受ける。権兵衛とはその際に親しくなるものの、謙信に魅せられ上杉軍に身を置く事を決意する。しかし権兵衛の恩は忘れず手取川の戦いの最中では逃げるように言った。

毛利家[編集]

『天正記』から登場。安芸を拠点とする戦国大名家。かつて一郡の国人に過ぎなかったが、尼子・大内の両大国を滅ぼし西国の覇者となった。織田家とは対極の国人連合体による衆中合議という体制により、強固に家臣団を統率している。織田家の西国方面軍の羽柴軍と中国地方を巡る。当初は羽柴軍に優勢であったが、秀吉がその才能を開花させると次第に劣勢となり織田信長率いる本隊出陣間近という状況で滅亡は目前にまで迫っていたが、本能寺の変が起こったことにより羽柴軍と和睦、その後、羽柴家が織田家を簒奪し、日ノ本の最大勢力になると正式に同盟を結んだ。

毛利元就(もうり もとなり)
通称は陸奥守。毛利家先々代当主。羽柴軍の中国侵攻時には他界しているため回想という形で登場。
幼名は松寿丸、家督を継ぐ以前は多治比元就を名乗っていた。誠実な父・弘元、豪放な兄・興元が合議の圧力により落命し、自身も城から追放を受けるなど幼い頃から合議の恐ろしさを味わった。長じてからは感情を押し殺し続け、戦働きや志道広良ら重臣の支持を得るなど、その才知により毛利本家の当主に上り詰め合議を統べるに至った。その後は専横を極めていた井上一族を粛清、中国地方の二大大国・尼子・大内を相次いで滅ぼしたが、晩年は跡継ぎの隆元に先立たれるという悲劇も味わった。家臣たちに対しては手を胸に押し当てながら穏やかな表情と丁寧な口調で語りかけ、そのやり方は元春と隆景の兄弟に忠実に真似されている。
  • 第二部13巻寸評:史上最難の策謀を成し、最も信厚き男
吉川元春(きっかわ もとはる)
通称は駿河守毛利元就の次男で毛利家最強の武将。若年のころは猛将として鳴らしたが、長じては父と同様に紳士的で物静か、部下に対しても丁寧な口調を身につける。
将兵や自らも首桶を持ち歩き、討ち取った勝久や、死んだ時には自身の首を入れるために持たせている。尼子勝久らが篭城する上月城を包囲し、大筒をもって尼子勝久を討ち取る。
小早川隆景(こばやかわ たかかげ)
通称は左衛門佐毛利元就の三男で元春の弟。武勇に優れる兄・元春とは反対に知略に長ける知将。若い頃は元春に口が過ぎると苦言を呈されているが、長じては父同様の落ち着きはらった様子を身につけた。現在は元春と共に甥に当たる毛利輝元を補佐している。鳥取城攻めの際には山陽側で宇喜多軍と対峙しており、宇喜多方の有力者・伊賀氏の調略に成功している。中国地方を巡り羽柴方面軍と対峙する内に秀吉の底知れぬ才覚に気付き、元春を犠牲にしても毛利家を存続させる決意を固めている。第四部の紀州征伐に際しては羽柴家の同盟国として水軍を率いて、戦列に加わっている。
毛利輝元(もうり てるもと)
通称は右馬頭毛利元就の長男・毛利隆元の嫡男で現毛利家当主。叔父にあたる吉川元春・小早川隆景に補佐されている。
安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)
通称は瑤甫。毛利家の外交僧。第二部で荒木村重の突如の謀反の背後には恵瓊がいると秀吉・光秀は睨んでいた。初登場は第三部で高松城攻め中の羽柴軍との講和交渉に毛利側の全権代表として出席。羽柴軍の徹底した情報封鎖により本能寺の変を知らずに講和の交渉を行い、羽柴側の交渉担当であった官兵衛にその本質を見抜かれ羽柴軍に有利な条件で和睦する事を承諾する。
井上元盛(いのうえ もともり)
通称は中務丞。人懐っこげな外見に反し、元就が幼少期の頃から家中で幅を利かせており衆中合議を扇動する事で元就を城から追放するなど専横を極めていた。元就の成長後は専横も叶わなくなり、その後40年をかけて井上一族は粛清された。
外見のモデルは みのもんた
吉川経家(きっかわ つねいえ)
通称は式部少輔。石見吉川家当主。豪放磊落な性格で、一見大雑把に見えるほどの大器。争いが頻発する石見銀山を長年に渡って管理しており、吉川元春に見込まれて鳥取城の城番に任ぜられる。物事を思案するときは塩で歯を磨きながら思いに耽る。鉄砲・弾薬確保を優先した為、致命的なまでに足りない兵糧、自身に懐疑的な森下・中村の存在という困難な状況でありながらもその才能と人柄により鳥取城をまとめていく。戦においても官兵衛と佐吉が考案したヤマイヌの計の二重目の策まで看破していたが、秀吉自身を囮とした三重目の仕掛けを見破る事が出来ず敗戦を決定付けてしまう。
戦後、経家の才能を惜しんだ秀吉は独断で経家の赦免を提案したが、これを拒否して大局を見据え天下万民がために切腹を選んだ。
外見のモデルはリッチー・マコウ。作者によれば切腹する前に高笑いしたという記録や手紙からラグビー部のキャプテンをイメージしたとのこと。
山縣長茂(やまがた ながしげ)
通称は源右衛門尉。石見吉川家の家臣。経家の側近で共に鳥取城に入城する。経家の才覚を誰よりも信頼しており、経家が織田に降れば毛利なぞ明日にも滅ぶと断言し、自身の本音は毛利を滅ぼしても経家の名を天下に轟かせたいと語った。鳥取城が降伏した際に、赦免され経家の最期を伝えている。
森下道誉(もりした どうよ)、中村春続(なかむら はるつぐ)
通称は前者は出羽守、後者は対馬守。前鳥取城主・山名豊国の家臣。豊国が織田家に降ろうとした際には共謀して城から追放した。羽柴軍の包囲に備え鉄砲・弾薬の確保を優先した為に兵糧が足りず、羽柴軍に兵糧攻めを受ける事になる。新たな城番である吉川経家に対しても当初は懐疑的であったが、共に戦う内にその才覚を認め、臣従する。支城の雁金城が落城して、進退窮まると己の保身故に織田家への恭順を拒否した事を吐露した。降伏すると秀吉より豊国を追放した不忠の徒として切腹を命じられ、経家を案じながら自刃した。
森下道誉の外見のモデルは藤原喜明
清水宗治(しみず むねはる)
通称は長左衛門。毛利家の武将で備中国高松城主。秀吉から提示された備中国備後国の二ヶ国の宛がいを拒否して、高松城に篭城している。入城する前に小早川隆景との会談で秀吉の底知れぬ才覚を聞き、隆景の戦略通りに一日でも長く篭城を続け羽柴軍の厭戦の流れを作るよう策略するが高松城水攻めにより失敗、中国大返しを進めるため和議により講和条件として切腹。実際は、本能寺で信長が討たれたことについて密偵から知らされていたが、隆景の望む講和の為に敢えて毛利側へ報告は行っていなかった。
三村親成(みむら ちかしげ)
通称は孫兵衛。清水宗治の家臣。かつては宗治の主筋であったが宗治の城主昇格に伴い立場が逆転し、宗治が何事かを秘していると察知している事から不信感を抱いている。家臣の山下牛助を使い多数派工作などを仕掛け、追放しようとするも宗治の策略によって失敗する。

雑賀衆[編集]

『天正記』から登場。紀伊を拠点とする鉄砲傭兵集団。顕如の依頼により織田家と戦う。孫市の差配で人々は様々な職に就いて自由に生きているが、それ故士気の持続力が無い。信長でも降せなかった雑賀衆だが『権兵衛』では堺・大坂襲撃が秀吉の怒りを買い、「紀州征伐」を招くこととなった。十万にも及ぶ羽柴軍の侵攻を受け、緒戦の千石堀城の陥落を機に次々と制圧され、象徴であった根来寺の焼き討ちの憂き目に遭った。

雑賀重秀(さいか しげひで)
通称は孫市雑賀の孫市鈴木孫市という呼称も。雑賀衆の頭領を務める戦国最強の鉄砲撃ち。妙算の鉄砲の師で、彼からは「とっつぁん」と呼ばれている。
織田との戦いではかなり特殊な鉄砲戦術で織田勢を大いに苦しめた、将を狙撃するゲリラ戦法で織田家の競争主義を逆手に取り、痛み分けに持ち込んだ。その最中で妙算と再会している。その後、大阪退去を決定した顕如派を鷺森へ迎え入れた。その後は織田と同盟を結ぼうとするなど融和を主張し、引き続き抗戦を主張していた守重本人の願いもあり、彼を射殺した。
第四部の紀州征伐の際は、本能寺の変によって信長が死去すると、派閥抗争に巻き込まれ生死不明となっている。
外見のモデルはチェ・ゲバラ
  • 第二部6巻寸評:史上最も異端にして最も誇り高き男
土橋守重(つちはし もりしげ)
通称は若太夫。孫市と並ぶ雑賀二雄の一人。子供達に鉄砲を教えている。織田との戦いでは雑賀城に篭城、明智・細川・丹羽・滝川らの手勢より城を死守した。
織田に対しては徹底抗戦を主張していたが、融和路線を主張する重秀に雑賀の未来を託し、彼の手で射殺された。
モデルはボブ・マーリー
稲井秀次(いない ひでつぐ)
雑賀山郷方の土豪。山郷は雑賀の財政の一翼を担っていたが、そこに目を付けた信長によって調略を受け、孫市らと決別する。
岡本弥助(おかもと やすけ)
雑賀山郷方の土豪。稲井とともに調略を受ける。共に津田妙算とは顔見知りである。
無二(むに)、的中(てきちゅう)、発中(はっちゅう)、鶴鳥(かくちょう)、下針(しもばり)、小雀(こすずめ)、蛍(ほたる)
雑賀の郷の少年たち。卓越した鉄砲の扱いを仕込まれており、対織田戦ではかくれんぼを模したゲリラ戦法を駆使する。孫市の事は「とっちゃん」と呼んでいる。
雑賀孫市(さいか まごいち)
雑賀衆頭領。生死不明となった雑賀重秀の次代の頭領で、齢十三くらいの少年ながら卓越した鉄砲の才能を見込まれ、頭領となったが実際は周囲の大人達の傀儡となっている。
先代・重秀からは「他の童よりも賢く、腕も立つからこそ殺っちゃあなんねえ」と妙算と同様の忠告を受けていたが、紀州征伐時には周囲の大人達に言われるがまま、秀吉に一矢を報いるため、狙撃しようとするも妙算からは「狙うのは至高だが、狙われるのは不慣れ」と逆に撃たれ、人差し指を失った。
母親は大杉と噂されており、父親は不明だが、妙算と瓜二つの風貌をしている。
大杉(おおすぎ)
雑賀の女衆の頭目。顔に火薬痕のある美女。妙算の幼馴染でかつては男女の仲であった。
現在の頭領「雑賀孫市」の母親と噂されているが、本人は十数年前に産んですぐどこかに連れて行かれた子供のことはわからないと話している。紀州征伐前に間者働きを行っていた妙算と久々に再会するも、最後は妙算や孫市を守るため、狙撃手として出頭した直後に炎の中に身投げした。
湯川直春(ゆかわ なおはる)
紀南の土豪。紀伊亀山城主で湯川党と呼ばれる集団の頭領。「びば」が口癖。
熊野の木材を横流ししていたことから秀吉への降伏を渋っていたところに雑賀・根来衆の残党の意向を汲み、総勢八千もの軍勢を結集。「不自由な極楽か、自由な地獄」の選択を皆に問い、徹底抗戦を決意、熊野の山中で仙石らを迎え撃つ。

その他の武家[編集]

淡路十人衆[編集]

『一統記』から登場。淡路島を支配する海賊衆武家の様に領地という概念を持たず海の上で生活しており、ある意味で雑賀衆以上に自由を謳歌する。陸地を支配する領主が現れても形式的にしか従わず、近海の制海権を通じて実権を掌握している。菅と権兵衛の会談で、元は陸地に住んでいた者が土地を奪われて家船となった事が起源であると語られる。

菅達長(かん みちなが)
通称は平右衛門。淡路十人衆の一人。頭に布を巻き、首からは首飾りを下げた南蛮海賊の様な風貌をしている。商人として潜入した権兵衛を織田が新たに送り込んだ淡路国主であると看破した上で、武家同士の争いには興味がないとして会談に応じる。会談で十人衆に領主の身分を与えるという織田家からの条件を「身分や領地など所詮はただの約束事でしかない」と一蹴し、そんな名誉や領地を守って死ぬ武家の愚かさを嘲笑する。そして僅かな土地すらも武家に奪われ、家船として生きる事を強いられた自分達が武家に従う理由などないと高笑いするが、乱世を生きる武士を侮辱した事に憤った権兵衛に殴り飛ばされる。
殴られた後は一触即発になった配下を宥めつつ、自分達は誰にも従わないと返答して下船させた。しかし自分達を誇りに思うのなら過去を恨むなという権兵衛の言葉に感じる所があったのか、交渉決裂で引き下がる権兵衛に首飾りを渡した。しかし、本能寺の変が起こると光秀に内応して仙石隊の淡路の拠点であった洲本城を占拠する。
廣田蔵之丞(ひろた くらのじょう)
淡路十人衆の一人。達磨の様な顔つきをした恰幅の良い男。冗談(というより駄洒落)好きで、洒落を言っては自分で受けて笑っている。
陽気な一方、性格は現実的で菅が自由や反体制を口にするのも配下の水軍から支持を勝ち取る為の素振りであると明かす。また本当は領地や身分に関心を持つ海賊も多いと語るが、武家が本音の部分で信用できないという点については管と意見を同じくする。権兵衛に仮に信長が自分達を見捨てたとしたら淡路の国主として織田家と戦えるかと問いかけ、権兵衛からは悩んだ末に拒否される。その場限りの嘘を付かなかった事に信頼を覚え、権兵衛に帰路での護衛を提供する。その後、権兵衛が明智方に内応した菅に対処する為に淡路に戻ってくると、菅とは反対に仙石隊に加勢した。淡路平定後は仙石家の淡路での筆頭家臣として行動を共にしている。

長宗我部家[編集]

『一統記』から登場。土佐を拠点とする戦国大名家。かつては土佐七雄の一角として君臨していたが没落し、土佐一乗家の庇護の元に再興した。一領具足と呼ばれる軍制を敷き、元親の代に急速に勢力を伸ばしている。自身と同じ商業を中心とした国作りと戦を行う織田家には親近感を抱いて同盟を結んでいたが、途中で信長が反長宗我部側と結んだ事で敵対関係に転じた。本能寺の変による織田家の四国遠征が中断する中、中富川の戦いで反長宗我部勢力の残余を一掃し、四国統一を目前とする。後に三好三郎(十河存保)と共に権兵衛最大の失敗に関わることになる。

長宗我部国親(ちょうそかべ くにちか)
家中では御屋形様と呼ばれる。苦難の時代の長宗我部家を率い、その再興と怨敵への復讐に生涯を費やしてきた剛直な人物。元親の異才を理解しようとせず、自身との対立でその心を閉ざさせてしまう。しかし後に三男の親泰からは情熱に突き動かされるという点において、本質的に国親と元親は似通っていたと評されている。
長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)
通称は宮内少輔、幼名は弥三郎。恵まれた体格と他者に理解できない天稟の才覚を持ち、土佐の出来人と呼ばれている他、巨鯨にも例えられる。
で見た都を追い求めるという夢想に耽った日々を過ごし、成長を見守っていた谷忠澄を除く家中からは奇人扱いを受け、廃嫡すら企てられていた。大柄な体に関わらず初陣すら踏まず、家臣はおろか民からも姫若子と揶揄されても生き様を変える事は無かった。しかし国親の死際に唯一の理解者であった忠澄からも突き放され、齢二十二にして遂に戦場に立った。初陣では秦泉寺豊後の助言を真に受けて当主自身が先駆けに出るという命知らずぶりを見せ、姫若子から一転して鬼若子と畏れられる。
夢見通りの都を作り上げるべく、巧みな内政と外交で土佐を商業国家として発展させ、また合戦でも結末を先読みしていたかのような人間離れした指揮を執る。中富川の戦いでは天候による増水を予測し、引田の戦いでは砂時計を使った時間差行軍で羽柴・三好軍を破った。生類を殺す事を嫌い、徒な領土拡張も好まない静謐な人物だが、理想に必要と判断すれば多勢が犠牲となる戦も躊躇わない。
吉良親貞(きら ちかさだ)
通称は左京進。国親の次男で元親の弟。
家督を継いだ兄・元親を補佐し、土佐平定に貢献する。元親に「四国の王」になるよう進言するが、兄に先立って死亡している。
香宗我部親泰(こうそかべ ちかやす)
通称は安芸守。国親の三男で元親の弟。長宗我部家の親族である香宗我部家を継承している。
野心高く冷徹で、兄の才覚をもってすれば四国統一はおろか、長宗我部家を畿内にまで躍り出る大国へ拡大できると考えている。しかし献策は戦の拡大を好まない元親に退けられ、逆に憎む理由もない生類を殺めねばならない乱世の残酷さを諭された。一方、兄が時に見せる自分以上の冷酷さに気圧される事もある。引田の戦いでは時間差での行軍を命じられ、山道を塞いで羽柴・三好軍包囲の一手を築いた。
香川信景(かがわ のぶかげ)
通称は兵部大輔。長宗我部家の武将。
引田の戦いでは大西頼包と共に長宗我部軍の先遣隊五千の将を務め、引田城に進軍するも待ち構えていた仙石隊に奇襲を受けるも劣勢と見るやすぐに後退する機転の良さを見せる。その後も仙石隊に逆襲を仕掛けようとするも抜群の勘の良さを見せる権兵衛に苦渋を強いられるが、当初から仙石隊の動きをすべて予測していた元親の策に従い本隊に合流して仙石隊を打ち破った。

反長宗我部勢力[編集]

『一統記』から登場。かつて畿内の有力大名であった三好家が中心となって四国を席巻する長宗我部家に対抗しているが、劣勢を強いられており共通の敵を持つ織田家(羽柴家)と共闘体制をとっている。

三好康長(みよし やすなが)
通称は山城守、または三好笑岩とも呼ばれている。天狗の異名を持つ三好一門の老将で、かつては足利将軍家や松永久秀、織田信長と激戦を繰り広げた。後にその執拗さを気に入った信長に登用されて臣従し、四国方面軍の寄騎として長宗我部軍相手に奮戦した。しかし信長の死により四国方面軍が解散された事で旧領奪回の夢も潰え、現在は畿内の屋敷に隠居している。長宗我部軍との対峙を控えた権兵衛に四国攻めの寄騎に加わる様に誘われるも、『時の権力者の権勢と下克上を堪能した。新しい世に興味はない』と拒否。去り際、自身が愛用した天狗頬を権兵衛に託した(後にこの天狗頬は三好三郎に贈られている)。
その後、秀吉の甥の三好信吉を養子にしていた縁から愁嘆極まっていた秀吉の元を訪れ、乱世の下克上を説き秀吉を発奮させた。
三好三郎(みよし さぶろう)
養子に入った十河家当主としての十河存保の名が現代では有名だが、本作では康長が離脱した後の三好家の中心的存在として三好名を主に、十河名を従に表記される。諸侯からは酒呑童子の化身と称される破天荒な武将。酒呑童子の渾名に相応しく、血の変わりに酒が流れていると噂されるほどの酒豪。
長宗我部軍と対峙した際には女装して落ち延び、包囲された阿波勝瑞城では生き残った兵士達と褌姿で鳥刺し舞を踊って雨乞いの儀式を決行し、本当に雨を降らせる事に成功している。板野平野一帯が洪水に呑まれたことで避難していた長宗我部軍を奇襲し一時は勝利を収めたかに思えたが、降雨すらも予測していた元親が軍を引かせていた事から逆襲を受け、阿波国史上最多の戦死者を出して大敗した。しかし敗北後もしぶとく生き残り、手勢を率いて長宗我部軍の進軍を阻み続けている。引田の戦いでは本陣突撃を狙う権兵衛の無鉄砲を気に入って自らも加勢し、撤退時にも生き延びる様に呼びかけた。
元親との戦いでの同胞達を次々と失う中で執念深く抵抗と逆襲を続ける。大柄な元親を巨鯨と呼び、気がつけば復讐を通り越して「巨鯨狩り」が生甲斐になってしまっている。
森村吉(もり むらよし)
通称は石見守。三好家臣で阿波水軍を率いる森家一門。森元村の子。織田家(羽柴家)への人質として息子の森権平らを引き渡し、一族の居城土佐泊城に権兵衛らを招き入れる。引田の戦いで権平をみすみす死なせてしまったことを謝罪する権兵衛に、既に仙石姓を名乗っていたからには仙石家の子と言い逆に権兵衛を励ます。

島津家[編集]

『権兵衛』から登場。九州南端にある薩摩国を領土とする守護大名上がりの戦国大名家。作中では、「石曼子(シイマンズ)」とも呼ばれている。

島津家久(しまづ いえひさ)
通称は中務少輔。島津四兄弟の末弟で、祖父より「軍法戦術に妙を得たり」と評される男。

足利将軍家[編集]

足利義昭(あしかが よしあき)
各国を流浪し、後に織田信長を頼って上洛、室町幕府十五代将軍となる。当初は織田家と行動を共にしていたが、金ヶ崎の戦い以降、次第に裏で織田家排斥を目論むようになる。以後も織田家とともに行軍しているが、遂には信長に反旗を翻し、京都を追放された。
本作では、斎藤龍興と共に信長包囲網の形成に一役買った人物だが、後に織田家が他国に侵攻する大義名分を得るために光秀に利用されていたことが明かされた。
和田惟政(わだ これまさ)
通称は伊賀守。義昭の家臣。義昭の使者として織田信長の元へ現れ、信長の上洛を後押しする。

畠山家[編集]

『天正記』に登場。七尾城を根拠地とする能登守護家。その立地故、上杉家と織田家の諍いに翻弄される。手取川の戦いの前にクローズアップされて描かれた。

畠山義綱(はたけやま よしつな)
通称は修理大夫。畠山家当主。畠山氏足利氏の血筋を引く名族(三管領)である事を誇りに思っている。家中の内乱によって腹心の遊佐続光に城を追放され、弟である義春と上杉家に身を寄せる。「義を重んじる」と聞き及んでいた上杉家が一行に復位の為に動かない事に焦燥を募らせながら、徒に年を重ねていく。息子である義慶が自身との内通を疑った遊佐に謀殺され、更に孫の春王丸まで傀儡君主として人質にされる苦難を味わう。
涙ながらに「義による挙兵」を嘆願した末に謙信が軍を挙げるも、同時に自身でも孫でもなく弟の義春が家督を引き継ぐと言い渡される。その後の消息は定かではないが、煩悶の末に入水したする伝承が記載されている。
畠山義春(はたけやま よしはる)
通称は民部大輔。義綱の弟。兄と共に上杉家を頼るが、兄と異なり次第に謙信を崇拝するようになる。上杉家に疑いを抱いた兄に「義は永久かつ絶対」という謙信の言葉を説き、畠山家すらもその前には小事であるとまで言い切る。甥の暗殺後に謙信が挙兵すると、兄を差し置いて謙信から当主に指名される。
畠山義慶(はたけやま よしのり)
通称は修理大夫。義綱の子で、義綱に代わって遊佐続光に擁立される。後に父や上杉家に通じている事が露見し、間もなく遊佐によって毒殺される。畠山家の行く末を死の間際でも案じ続け、遊佐を恨まぬように言い残した上で長続連に春王丸を託した。
畠山春王丸(はたけやま はるおうまる)
義慶の遺児。自らの事は「春」と称する。義慶が謀殺された後、遊佐続光によって擁立される。齢五歳の幼童ながら、飢えに苦しむ領民の姿を見て自ら織田軍に与するという英断を下す。しかし間もなく疫病によって夭折した。
遊佐続光(ゆさ つぐみつ)
通称は美作守。畠山七人衆の一人。主君である畠山兄弟を駆逐し、傀儡に立てて畠山家を牛耳ろうと画策する。春王丸の没後、クーデターを起こして長父子を自害に追い込み、上杉家に投降した。その後、長連龍に殺された。
長続連(ちょう つぐつら)
通称は対馬守。畠山七人衆の一人。義慶の信任厚く、その遺言を託される。織田軍に与しようと画策するも、土壇場で遊佐の謀略によって七尾城を奪われて自害させられた。
長綱連(ちょう つなつら)
続連の長男。父とともに織田家に与するために行動するも、遊佐のクーデターの際に父とともに自害させられた。
長連龍(ちょう つらたつ)
通称は九郎左衛門。続連の三男。僧形をしている。父の名代として信長に謁見し七尾城への先導を買って出るも、謙信の術中によって父兄を謀殺される。その後、浪人衆を率いて遊佐続光一族を殺害し、復讐を果たす。

別所家[編集]

播磨の国人。当初は親織田であったが、羽柴秀吉率いる西国方面軍の苛烈な仕打ちを目の当たりにして謀反を起こす。別所の離反を引き金に播磨の国人が一斉に反旗を翻したため、織田家の播磨平定が振り出しに戻ることになった。

別所長治(べっしょ ながはる)
通称は侍従。播磨三木城主。一度は織田家に与するも、別所賀相の説得によって織田家に反旗を翻す。一年の籠城の末に自分の首を差し出して降伏しようとするが、そのことが家臣の鉄血に火を付けた。最終的に妻子を殺害し、城兵の助命と引き換えに自害する。
別所賀相(べっしょ よしすけ)
通称は山城守。別所家の筆頭家老。不真面目な性格で軍議を欠席する事もあるが、人一倍播州人の鉄血に誇りを持っている。主君・長治に播州人の精神を説き、織田家から謀反させた。家臣のため命を捨てようとした長治の覚悟を見て結束が固まり好機が来たと悟り、羽柴家に奇襲を仕掛けるが半兵衛の策謀に敗北。その後、降伏を決断した長治に反発して、城に放火しようとするも長治の決断を汲む家臣に殺害される。
別所重棟(べっしょしげむね)
通称は主水正。別所家の家臣。賀相の弟。
後藤基国(ごとう もとくに)
後藤又兵衛の父。
別所長治の子、千代丸を井上祐之の元へと逃した。
外見のモデルは北島三郎
井上祐之(いのうえ ひろゆき)
通称は一蓮坊上津城主。元武家階級の僧侶。落飾前は井上源太夫の名乗りで戦場を駆け巡り、一介の兵士から城主まで上り詰めた武人であった。
乱世に嫌気が差して仏門に帰依していたが、主君・別所家の窮地に還俗して再び上津城の城主となる。権兵衛との対談を経て、城兵と民の無事と引き換えに自害する。

その他の勢力・人物[編集]

細川昭元(ほそかわ あきもと)
通称は六郎。斎藤龍興の立案した信長包囲陣に参画し、畿内で民衆に信長への檄文を読み上げるなどの活動を展開する。後に龍興とともに挙兵するが、援軍の本願寺も敗れたために降伏する。
比叡山延暦寺座主(ひえいざんえんりゃくじざす)
斎藤龍興・浅井長政・下間頼蓮・朝倉景健・細川昭元が信長包囲陣の密談を行う際に、場所を提供する。以後も反織田勢力を匿うなどの行いが続いたために、業を煮やした信長によって比叡山を焼き討ちされる。
松永久秀(まつなが ひさひで)
通称は弾正少弼。織田軍に所属する武将であったが、信長が上杉謙信と対陣する間に謀反を起こす。後日爆死。
随風(ずいふう)
天台宗の僧侶。光秀や家康の元を訪れては禅問答を行っている。
龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)
沖田畷の戦いにて討死。
鍋島直茂(なべしま なおしげ)
慶誾尼(けいぎんに)
堀田道空(ほった どうくう)
津島の商人。信長に楽市楽座を申し伝えられる。外伝『桶狭間戦記』では堀田正龍として登場している。
今井宗久(いまい そうきゅう)
堺の商人。
加藤順政(かとう のぶまさ)
熱田の商人。
森田三郎(もりた さぶろう)
越前の廻船商。信長の命を受けた柴田勝家の交渉により、本願寺の北陸の海路を封鎖する。
千宗易(せんのそうえき)
豪商。のちの千利休。包囲網の切り崩しを図る信長に軍需品を補給する。
勧修寺晴豊(かじゅうじ はれとよ)
公家。既得権益を守る為に最大勢力となった信長に三職推任を持ちかける。
国友藤太郎(くにとも とうたろう)
近江国友村の鉄砲鍛冶。自身も鉄砲の使い手であり、以前羽柴秀吉を狙撃した事もあった。最新式の鉄砲を開発した事を秀吉に目をつけられ、かつての怨恨を忘れて頭を下げられたため、秀吉に臣従し、新作の鉄砲を献上した。
津田照算(つだ しょうさん)
通称は杉ノ坊。依頼を受けては傭兵のように鉄砲衆を派遣する根来衆の一人。織田家の依頼を受けて対武田戦に投入される。津田妙算は従弟にあたるが、その才を警戒している。
志賀源次郎(しが げんじろう)
粗葉粕太郎と名乗っていた津田妙算とともに盗みを働いていた男。裏切って権兵衛に妙算を突き出し仙石家の家臣に取り立ててもらおうとするが、その内面を権兵衛に見破られ仕官できなかった。
均助(きんすけ)
羽柴秀吉の領内である近江国中井村の村長。大の戦好事家。外伝『桶狭間戦記』にも登場。モデルは織豊城郭研究者で、『センゴク』にもたびたび助言している中井均

書誌情報[編集]

『センゴク』各巻表紙は主要登場人物のイラストで、付随したオビにセリフや寸評が書かれている。『センゴク天正記』では各巻表紙は前作と同じく主要登場人物のイラストとなっているが、前作ではオビに書かれていた表紙人物のセリフや寸評は、裏表紙に書かれている。

『センゴク』全15巻
  1. ISBN 978-4-06-361284-4
  2. ISBN 978-4-06-361285-1
  3. ISBN 978-4-06-361298-1
  4. ISBN 978-4-06-361318-6
  5. ISBN 978-4-06-361345-2
  6. ISBN 978-4-06-361373-5
  7. ISBN 978-4-06-361411-4
  8. ISBN 978-4-06-361432-9
  9. ISBN 978-4-06-361440-4
  10. ISBN 978-4-06-361464-0
  11. ISBN 978-4-06-361490-9
  12. ISBN 978-4-06-361522-7
  13. ISBN 978-4-06-361550-0
  14. ISBN 978-4-06-361586-9
  15. ISBN 978-4-06-361630-9
  1. ISBN 978-4-06-374799-7 仙石権兵衛登場編
  2. ISBN 978-4-06-374801-7 金ヶ崎の退き口・姉川の合戦編
  3. ISBN 978-4-06-374802-4 比叡山焼き討ち編
  4. ISBN 978-4-06-374803-1 三方ヶ原の合戦編
  5. ISBN 978-4-06-374810-9 一乗谷炎上編
  6. ISBN 978-4-06-374820-8 小谷城虎口攻め編
『センゴク天正記』全15巻
  1. ISBN 978-4-06-361665-1
  2. ISBN 978-4-06-361710-8
  3. ISBN 978-4-06-361734-4
  4. ISBN 978-4-06-361766-5
  5. ISBN 978-4-06-361787-0
  6. ISBN 978-4-06-361814-3
  7. ISBN 978-4-06-361836-5
  8. ISBN 978-4-06-361873-0
  9. ISBN 978-4-06-361899-0
  10. ISBN 978-4-06-382019-5
  11. ISBN 978-4-06-382061-4
  12. ISBN 978-4-06-382105-5
  13. ISBN 978-4-06-382130-7
  14. ISBN 978-4-06-382169-7
  15. ISBN 978-4-06-382223-6
『センゴク一統記』全15巻
  1. ISBN 978-4-06-382231-1
  2. ISBN 978-4-06-382252-6
  3. ISBN 978-4-06-382287-8
  4. ISBN 978-4-06-382324-0
  5. ISBN 978-4-06-382363-9
  6. ISBN 978-4-06-382401-8
  7. ISBN 978-4-06-382435-3
  8. ISBN 978-4-06-382477-3
  9. ISBN 978-4-06-382512-1
  10. ISBN 978-4-06-382527-5
  11. ISBN 978-4-06-382557-2
  12. ISBN 978-4-06-382591-6
  13. ISBN 978-4-06-382623-4
  14. ISBN 978-4-06-382684-5
  15. ISBN 978-4-06-382750-7
『センゴク権兵衛』既刊3巻
  1. ISBN 978-4-06-382751-4
  2. ISBN 978-4-06-382807-8
  3. ISBN 978-4-06-382848-1
センゴク外伝 桶狭間戦記』全5巻
  1. ISBN 978-4-06-361642-2
  2. ISBN 978-4-06-375666-1
  3. ISBN 978-4-06-375926-6
  4. ISBN 978-4-06-375972-3
  5. ISBN 978-4-06-376001-9
センゴク兄弟』上下巻
東郷隆による小説。原作の宮下は表紙絵を担当。
センゴク兄弟

細川忠孝による漫画化作品。全6巻

『センゴク剣法』
東郷隆による小説。『センゴク兄弟』の続編で、兄の久勝を主人公としたもの。
『ちぇんごく』

著者が参加した解説本。上下巻。

『センゴク公式バトル読本』
『センゴクバトル歳時記』
『センゴク武将列伝』
『センゴク合戦読本』
『センゴクバトルランキング』

外部リンク[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b 「アンゴルモア」のたかぎ七彦、ヤンマガに戦闘機・月光の搭乗員描く読切”. コミックナタリー (2015年9月28日). 2015年9月28日閲覧。
  2. ^ 歴史漫画『センゴク』累計750万部の“秘密”…「通説を否定」、徹底した取材・視点で描く物語に専門家もうなる産経新聞 2015年3月28日
  3. ^ 戦国時代えぐる絵と知『ちぇんごく 上』 宮下英樹さん、本郷和人さん読売新聞 2011年10月11日
    宮下自身の意向で本職の歴史学者である本郷に「弟子入り」したという
  4. ^ twitter
  5. ^ 失敗は挽回できる 漫画家 宮下英樹中日新聞 2011年10月12日
  6. ^ 歴史漫画『センゴク』累計750万部の“秘密”…「通説を否定」、徹底した取材・視点で描く物語に専門家もうなる産経新聞 2015年3月28日
  7. ^ これも学習マンガだ日本財団
  8. ^ ボケや突っ込みのシーンでは鼻がダンゴになり手も簡略化する。褒められると巨大化。
  9. ^ a b c d e “「鬼武者Soul」,イベントクエストに漫画「センゴク」の主人公などが登場”. 4Gamer.net. (2013年4月22日). http://www.4gamer.net/games/150/G015000/20130422035/ 2013年7月6日閲覧。 
  10. ^ 2011年3月に滋賀県彦根市の夢京橋あかり館で開催されたイベント「MITSUNARI 11」では、宮下の描いた三成の肖像画が展示された。この肖像画では「方程式に生涯をかけて挑む数学者」というイメージの人物像を元に、関ヶ原の戦いで小早川秀秋に裏切られ絶体絶命となりながら怯まずむしろ心躍らせる表情を浮かべる三成が描かれている。
  11. ^ a b c d e f 「センゴク公式バトル読本」内、作者・宮下英樹インタビューでの発言より。
  12. ^ なお本来「法性院」は戒名である。

関連項目[編集]