香宗我部親泰
| 時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
|---|---|
| 生誕 | 天文3年(1543年) |
| 死没 | 文禄2年12月21日(1594年2月11日)[1][2] |
| 改名 | 長宗我部親泰→香宗我部親泰 |
| 別名 | 通称:弥七郎[3]、受領名:内記、安芸守 |
| 戒名 | 瑞松院殿明彭孤仙大居士 |
| 墓所 | 宝鏡寺跡(高知県香南市) |
| 主君 | 長宗我部国親→元親 |
| 氏族 | 長宗我部氏→香宗我部氏 |
| 父母 |
父:長宗我部国親、母:祥鳳玄陽(本山氏) 養父:香宗我部親秀 |
| 兄弟 | 長宗我部元親、吉良親貞、親泰、島親益、ほか |
| 妻 | 正室:香宗我部秀通の娘 |
| 子 | 親氏、貞親 |
香宗我部 親泰(こうそかべ ちかやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。長宗我部国親の三男。
生涯
[編集]天文3年(1543年)、長宗我部氏の当主・長宗我部国親の三男として生まれる[4]。母は本山氏の娘・祥鳳玄陽[3]。
弘治4年(1558年)、父の命によって、香宗我部親秀の養子となった[4]。
永禄12年(1569年)に安芸国虎が滅亡したため、安芸城主となる[4]。
その後は兄・元親に従って、各地を転戦する[5]。親泰は阿波平定に尽力し、阿波海部城を拠点にして各地を転戦し、天正7年(1579年)に新開道善の富岡城を奪取した[5]。
親泰は外交にも秀でており、天正6年(1578年)10月には長宗我部信親に織田信長の偏諱を与えさせたり、天正8年(1580年)6月[2]には畿内に渡海して安土城で信長と拝謁し、三好康長ら三好氏との和睦を求めたりしている[5]。
天正10年(1582年)6月の本能寺の変後、中富川の戦いで十河存保を破り、天正11年(1583年)には阿波木津城を攻略するなど、兄の四国統一に尽力した[6]。
信長の死後も柴田勝家や徳川家康と通じて四国平定を有利に進めたことは、全て親泰の手腕によるものである。織田氏・徳川氏など諸大名の窓口となっており、親泰宛に書状が送られている。天正13年(1585年)の豊臣秀吉の四国征伐では阿波牛岐城を守備したが、木津城が豊臣軍に落とされたため、城を放棄して土佐に帰国した[7]。

(高知県香南市の宝鏡寺跡)
天正20年(1592年)11月、文禄の役に赴く途上にあった嫡男・親氏が急死した。
文禄2年(1593年)12月21日、親泰自身も朝鮮半島に赴く途上、長門で兄に先立って急死した[8]。享年51。
没後、中山田泰吉(香宗我部親秀の弟・秀通[注釈 1]の子)に跡を継がせる話も出たが、結局跡は次男・貞親が継ぎ、泰吉はその後見となった。吉良親貞と同様、その死は長宗我部氏にとって大きな痛手であった[9]。
人物像
[編集]親泰は元親の分身として四国各地を転戦し、よく補佐を務めた[8]。親泰の死により、元親を補佐・諫言できる者がいなくなった[8]。その後、元親が暴走を繰り返したため、長宗我部氏は衰退し、元親の没後には改易となる。
家臣
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ 親泰の入嗣に反対したため、親秀に殺害された。