津田妙算

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津田 妙算(つだ たえかず、生没年未詳)は、戦国時代安土桃山時代根来寺僧坊の一つである杉ノ坊の有力者。

津田監物算行の子で、津田監物算長の弟。杉ノ坊明算(すぎのぼう みょうざん)と記す場合もある。

兄に命じられて、火縄銃による武装化を手がけた。これが紀州鉄砲集団・根来衆の始まりとされる。養子に津田照算(算長の実子)。

また、杉ノ坊明算の素性に関して、畠山氏の重臣・遊佐長教の弟である「根来の松坊(杉坊か)[1]」をそれとする説が出ている[2]。これによると、泉南から紀北をおさえる根来寺の杉ノ坊に弟を送り込むことで遊佐長教は南近畿の支配を強化したことになるが[3]、長教は天文20年(1551年)に暗殺され[4]、長教の弟も長教の後継者を巡る争いの中、翌天文21年(1552年)2月11日に殺害されている[1][5]。このため、この説に従えば杉ノ坊明算(津田妙算)の没年もその時ということになる。

脚注[編集]

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  1. ^ a b 「興福寺大般若経(良尊一筆経)奥書」天文21年(1552年)2月15日付(『私部城跡発掘調査報告』交野市教育委員会、2015年、史料集6-7頁。doi:10.24484/sitereports.17362)。
  2. ^ 『新版 八尾市史 古代・中世史料編』八尾市、2019年、141頁(天野忠幸執筆)。このページで紹介される「徳蔵軒正宣判物」は天文9年(1540年)10月9日に真観寺(大阪府八尾市)に宛てて出されたもので、遊佐長教・杉ノ坊明算が南泉庵(大阪府寝屋川市)を真観寺の末寺であると認めたという内容が含まれる。また同書の143頁には、同年10月11日に杉ノ坊明算が真観寺に発給した書状が掲載されており、南泉庵分を真観寺に寄進するという木沢長政の意を了承したと伝える内容になっている(南泉庵は木沢長政の勢力圏にあったと見られる)。
  3. ^ 天野 2020, p. 51.
  4. ^ 天野 2020, p. 59.
  5. ^ 天野 2020, p. 60.

参考文献[編集]

  • 天野忠幸 『室町幕府分裂と畿内近国の胎動』 吉川弘文館〈列島の戦国史4〉、2020年。ISBN 978-4-642-06851-2 

関連項目[編集]