別所吉親

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別所吉親
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正8年1月17日1580年2月2日
別名 賀相
官位 山城
氏族 別所氏
父母 父:別所就治
兄弟 安治吉親重宗淡河定範
畠山氏
吉成、男子、男子、女子

別所 吉親(べっしょ よしちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将鷹尾山城主。

兄・別所安治が亡くなった後は、弟・重宗と共に、甥(安治の子)・長治の後見を務めた。播磨国織田信長の部将・羽柴秀吉が進出して来ると、長治は信長に従属したが、吉親は加古川城での会談で秀吉と衝突、長治を説得して[1]信長に反乱を起こした。親織田派であった重宗は浪人となっている。

天正8年(1580年)、秀吉から長治に降伏の引き換えに長治とその弟・友之、そして吉親ら3人の切腹で城兵を助けるという旨を伝えられた。しかし、吉親は反対し、あくまで城に火をつけて信長に首を渡さずに自らの体を灰にしてしまうと言い、自分の家を放火してしまった。これを見て激怒した城兵に殺されて、首は安土に運ばれてしまった。吉親の妻、別所波3人の子(男子2人・女子1人)を次々と刺殺し、最後は自分の喉元を刺して自害した。享年23という。

子・吉成は生き延び孫の成忠(なりただ)を経て、曾孫の成光(なりみつ)の時に磯野姓を名乗った。

ちなみに鷹尾山城を守ったのは友之とする記述は大きな誤りと思われる。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 長治が反信長に転じたのは吉親が信長不信を長治に訴えた為とされ、別所方の資料では「佞人」と記されている箇所もある(『別所長治記』『播磨別所記』)。

関連作品[編集]