長浜城 (近江国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
logo
長浜城
滋賀県
模擬天守(長浜城歴史博物館)
模擬天守(長浜城歴史博物館)
別名 今浜城
城郭構造 平城
天守構造 不明
独立式望楼型3重5階(鉄筋コンクリート造模擬、昭和58年1983年
築城主 羽柴秀吉
築城年 天正元年、1573年
主な改修者 伊部町組(現在の元浜町)
大工 藤岡一門  
主な城主 羽柴氏、柴田氏
山内氏(一豊系)、内藤氏(信成系)
廃城年 慶長20年、1615年
遺構 石垣、堀
指定文化財 市指定史跡[1]
再建造物 模擬天守
位置 北緯35度22分39.65秒 東経136度15分40.87秒 / 北緯35.3776806度 東経136.2613528度 / 35.3776806; 136.2613528座標: 北緯35度22分39.65秒 東経136度15分40.87秒 / 北緯35.3776806度 東経136.2613528度 / 35.3776806; 136.2613528
Japanese Map symbol (Museum) w.svg 長浜城歴史博物館
施設情報
正式名称 長浜市長浜城歴史博物館[2]
事業主体 長浜市
管理運営 長浜市教育委員会
所在地 滋賀県長浜市公園町10-10
プロジェクト:GLAM
テンプレートを表示

長浜城(ながはまじょう)は、滋賀県長浜市公園町豊公園内にある羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城した日本の城跡。

沿革[編集]

1573年天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、1558年に火災に遭った竹生島宝厳寺の復旧資材として浅井長政が寄進した材木などを流用し築城を開始した。その後宝厳寺に対しては1592年に死去した豊臣秀吉の遺命として、大阪城の唐門などが移築されている。

同3・4年頃完成し羽柴秀吉が入城した。いわゆる水城であり湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。現在でも城下町には羽柴氏当時の面影や名残が残る。のちに天下人となる秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の領国・城下町経営の基礎を醸成した所とされている。

1581(天正9年)、織田氏の中国遠征で不在であった羽柴氏[3]のあと、信長は荒木村重討伐や越前一向宗制圧の功から堀秀政を長浜城主に任じた。しかし羽柴秀吉の親(大政所)と妻(北政所)はそのまま長浜に居住していたらしい。

1582年(天正10年)に本能寺の変が起こり、明智光秀の手により織田信長が殺害されると、明智に加担した山本山城主の阿閉貞征が長浜城を占領した。羽柴氏の妻ら係累は近隣の寺に逃れた。阿閉は山崎の戦いにも明智方として参加するが、明智は信長の仇討を掲げる羽柴方に敗戦し、阿閉は秀吉方に捕縛され阿閉一族全て処刑された。長浜城は羽柴氏の支配下に戻った。

山崎の合戦後に開催された織田家の重臣会議「清洲会議」で羽柴秀吉と意見対立し、結果として長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家であった。雪国である越前国を領していた柴田はゆえに畿内方面への橋頭保として北近江を欲していたが、羽柴が縁深い同地を手放すわけがない、と衆目に見られていた中での、まさかの支配権譲渡であった。勝家は一族(甥)の柴田勝豊を長浜城の守将として入城させたが、羽柴と柴田の対立は収まらず、同年末には秀吉が勝手知ったる長浜城を攻めた。柴田は雪に閉ざされた越前近江国境の山を突破し援軍を送ろうとしたが、その前に勝豊は降伏した。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いの後は山内一豊が入り、6年間在城した。1586年1月18日(天正13年11月29日)、天正地震により城が全壊し、一豊の一人娘である与祢らが死亡した。

1606年慶長11年)に内藤信成信正が城主になるが(長浜藩)、大坂の陣後の1615年元和元年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になった。資材の大半は彦根城の築城に流用された。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができる。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられている。

城の一部が琵琶湖に水没し、長浜城遺跡となっている(琵琶湖湖底遺跡)。

現在の天守1983年犬山城伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、市立長浜城歴史博物館として運営されている。

伝説[編集]

人柱「おかね」
天正2年の築城工事の際、長浜一の美女と評判だった女性「おかね」が人柱に選ばれて埋められ、天守北側にあった堀が「おかね堀」と呼ばれるようになった。天守閣跡にはこの話を伝える石碑が建てられている。
人柱「おきく」
秀吉から築城の命令を受けた京極氏の武士が人柱を探していたところ、漁師に出会ったので、人柱の事を伏せて「この辺りに娘はいないか」と尋ねた。漁師は「自分に娘が2人いる」と答えたところ、一人を人柱として差し出すように頼まれた。悩んだ漁師は2人の娘の内、盲目の妹「しのぶ」を人柱にするよう申し出たが、これを知った姉の「おきく」が妹を庇って自ら志願して人柱となった。天守閣跡側には「おきく」を祀ったといわれる祠がある。

ギャラリー[編集]

周辺[編集]

天守5階より左奥:伊吹山、手前:豊公園(日本さくら名所100選)、右:琵琶湖

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 長浜市所在指定文化財一覧”. 長浜市. 2013年3月21日閲覧。
  2. ^ 長浜市長浜城歴史博物館条例
  3. ^ 軍事的拠点機能を前線に近い播磨国姫路城などに移していた。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]