市川一家4人殺人事件

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市川一家4人殺人事件
場所 千葉県市川市幸2丁目
座標
標的 以前強姦した女子高生(当時15歳)一家
日付 1992年(平成4年)
3月5日午後4時30分頃 – 翌3月6日午前9時頃
概要 強盗目的で押し入った19歳の少年により一家5人中4人が絞殺・刺殺され、残る1人も強姦された。
攻撃側人数 1人
武器 電気コード、柳刃包丁[最高裁判決文 1]
死亡者 4人
負傷者 1人
犯人 少年(事件当時19歳)
動機 窃盗(後に強盗)
謝罪 なし
賠償 死刑
最高裁判所判例
事件名 市川の一家強盗殺人事件
事件番号 平成8年(あ)864
2001年(平成13年)12月3日
判例集 集刑 第280号713頁
裁判要旨
  • 本件上告を棄却する。
  • 動機に酌量の余地がなく、4名の生命を奪ったという結果が極めて重大である上、犯行の態様が冷酷、執ようかつ残虐で、家族を一挙に失い、自らも強盗強姦等の被害に遭った少女の被害感情は非常に厳しく、社会的影響も重大である。
  • その犯行態様、結果ともに悪質であることなどの情状に照らすと、被告人の罪責は誠に重大であり、本件各犯行当時、被告人が18歳から19歳であったことなどの事情を考慮しても、原判決が維持した第1審判決の死刑の科刑は、やむを得ないものとして当裁判所もこれを是認せざるを得ない。
第二小法廷
裁判長 亀山継夫
陪席裁判官 河合伸一福田博北川弘治梶谷玄
意見
多数意見 全員一致
意見 なし
参照法条
強盗殺人殺人強盗強姦恐喝窃盗傷害強姦強姦致傷
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市川一家4人殺人事件(いちかわいっか4にんさつじんじけん)は、1992年(平成4年)3月5日千葉県市川市2丁目(行徳地区)にあるマンションで発生した当時19歳の未成年者による強盗殺人事件(少年犯罪)である。平成の少年犯罪では初の死刑確定事件(少年死刑囚)であり、10代の少年による残忍な犯行として社会に衝撃を与えた[報道 1]

事件の概要[編集]

事件前の動向[編集]

1992年2月6日[書籍 1]、千葉県船橋市在住の店員の少年S(1973年1月30日[書籍 2] - 、犯行当時19歳)[報道 2]は、市川市内のスナックバーに勤めるフィリピン人のホステス(後述の結婚相手である別のフィリピン人女性が務めていた店とは違う店で勤務していた女性)を連れ出し、店に無断で自宅アパートに泊めて[書籍 2]性的関係を持ち、このホステスをマンション自室に閉じ込め負傷させた[報道 3]。2月8日に店に帰ったホステスが店の関係者にこのことを泣きながら訴え[書籍 2]、激怒した店の関係者は暴力団に「落とし前」を依頼し、それ以降Sは暴力団に追われる身となった[書籍 2]。Sは後述のように暴力団組員から200万円を要求される一方で、一連の犯罪に使ったのは高級セダンの自家用車[報道 4]トヨタ・クラウンロイヤルサルーン)だった[書籍 3][書籍 4]

2月11日午前4時、Sは高円寺に住むバンド仲間のアパートからクラウンに乗って帰る途中、東京都中野区内の路上で当時24歳のOLを襲撃して暴行し、自宅アパートに連れ込んで強姦した[書籍 5]。この時、Sは「強姦は性欲の解消以上に優越感と自信を与えてくれる」と思い、同時にそれまでの鬱屈した気分が嘘のようにスカッとし、「セックスと暴力は繋がっている」とも確信したという[書籍 5]。Sは暴力の持つ達成感・陶酔感について、面会人の永瀬隼介に対し「傷害にしろ、強姦にしろ、他人の血を見るということは興奮するものです。とくに、しだいに相手が弱ってきて自分に従うようになり、どうにでも好きなように動かせるとなった時に見るそれは、僕の中では勝利の象徴として溜飲を下げるのに大いに役立ちました」「一度強姦や強烈な傷害事件を成功させ、クリアしたことで、変な方向に自信を持ってしまい、もう一度やってみよう、出来るはずだ、出来るだろう、となっていったのです」と語っている[書籍 6][書籍 7]。しかしその日の夜、ホステスの件でSの自宅アパートに暴力団組員7人が押し掛け、Sはクラウンに飛び乗って逃げた[書籍 8]

2月12日午前2時頃[書籍 8][報道 5]、夜遅くまで勉強していた当時15歳で県立高校[報道 6][報道 7]1年生[書籍 9]の少女A子(営団地下鉄〈現東京メトロ東西線行徳駅前で写真雑誌下請け会社の社長を努めていた当時42歳男性の長女〈実子ではなく男性の養女であった〉[報道 8][報道 9][報道 2]はシャープペンシルの替え芯を買いに自転車でコンビニエンスストアに行き、その帰りに自宅(行徳駅の南東約2km、首都高速湾岸線千鳥町出入口付近の新興住宅街に位置する市川市幸2丁目の東京湾に面した9階建ての高層マンション[報道 10][報道 2][報道 11][報道 12][報道 5]〈関連書籍によれば10階建て[書籍 4]〉)前の狭い路地でSの運転するクラウンに追突され、右膝に擦り傷を負った[書籍 8]。SはA子に優しく声を掛けて車に乗せ、浦安市内の救急病院で治療を受けさせてもらったA子は自宅まで送り届けてもらえるものだと思っていたが、車内で本性を現したSに折り畳み式ナイフを突き付けられ、手の指の間に刃をこじ入れられた[書籍 8]。Sはナイフをぐりぐりとこね回し、頬を切り付け、A子を「黙って俺の言うことを聞け」と脅した[書籍 8]。A子は突如牙を剥いたSに震えおののき、そのままSのアパートまで拉致されて2度強姦された[書籍 8]。Sはその後A子の所持品を改めて現金を奪い、A子が通っていた高校の生徒手帳から住所、氏名を控えた[書籍 8]。A子にはこのようにまったくの偶然が招いたあまりにも悲惨な形でのSとの接点があった[書籍 10]。直後にA子から千葉県警葛南警察署(当時、現在は行徳警察署管轄)に被害届が出されたが、当時Sは捜査線上に上がってこなかった[報道 4]

二晩続けて見ず知らずの女性を強姦し、自分の力に自信を持ったSだったが、ヤクザという暴力のプロには情けないほど無抵抗だった[書籍 8]。同日夜、大手暴力団組織傘下の暴力団組長から呼び出され、東京都港区赤坂の東京全日空ホテル(現・ANAインターコンチネンタルホテル東京)で組長とその手下(ホステスと関係のある暴力団組員)から散々脅され「お前のやったことは誘拐だ。女(Sが連れ込んだホステス)がこのままフィリピンに帰ったら店の損害は200万円になる。どうしてくれるんだ」と、「けじめ」として現金200万円を要求された[書籍 1][報道 13][報道 3]。金のあてはなく、Sは暴力団の取り立てが怖くて自宅アパートにもありつけず、車の中で寝泊まりする日々が続いた[書籍 1]

この日から一家4人を惨殺するまでの20日間に、「このままだといずれ半殺しにされるか、運が悪ければ殺されてコンクリート詰めにされて東京湾に沈められるかもしれない」と恐れていたSは車絡みで2度の暴力・恐喝沙汰を起こした[書籍 11](これらについては後述のように、逮捕後の1993年2月18日に追起訴された[報道 14])。2月25日午前5時、市川市内の国道を走っていたSは後続車から車間距離を詰められて煽られ、憤慨してクラウンを急停車させ、後続車は接触寸前で急停車した[書籍 11]。Sはクラウンを降り、トランクから鉄筋を取り出して右手に握り、1,2回威嚇するように鉄筋を振り回した後、相手の車のドアを開けた[書籍 11]。相手の運転手がにらみつけ「マジでやる気か」と吠えたが、Sはお構いなしに車のキーを抜いて退路を絶ち、運転手の襟首を掴んで車外に引きずり出し、「てめえのおかげでブレーキパッドがすり減ったじゃねえか」と鉄筋で2,3度殴りつけた[書籍 11]。運転手は血まみれになりつつもSをにらみつけたが、Sは怒りに任せて鉄筋を叩きつけ気絶させた[書籍 11]。Sはヤクザを装って運転手を脅し運転免許証を取り上げた[書籍 11]。その2日後の2月27日午前零時半、Sは埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)内を走行していたところ、交差点の脇から突然車が突っ込んできてあわや衝突寸前となった[書籍 11]。大学生が運転していた相手の車は何事もなかったかのように立ち去ろうとし、憤慨したSはクラウンを猛スピードで走らせて車を追いかけた[書籍 11]。相手の車は煽られると観念したかのように停車し、Sはクラウンを降りて懐から折り畳み式ナイフを取り出し、相手の助手席に乗り込んだ[書籍 11]。「俺をヤクザもんと知っててやったのか?」とSは大学生の顔を殴り、ナイフを突きつけた[書籍 11]。「てめえが滅茶苦茶な運転しやがるからタイヤが擦り減った」と大学生を恫喝したが、大学生は「はあ」「ああ」などというだけで手応えがなく、激昂したSはナイフを大学生の太ももに突き立てた[書籍 11]。「親父のとこへ連れて行け」とSは助手席に乗り込んだまま、恐怖する大学生に車を運転させたが、10分程度経過したところで元の場所に戻ったため、今度はナイフで肩を刺した[書籍 11]。自宅に向かおうとしない大学生に業を煮やしたSは「お前の親はいったいどんな教育をしやがったんだ?甘やかす一方で育てたからお前みたいな出来損ないになるんだよ。俺が性根を叩き直してやる」と罵りつつ、ナイフの刃を大学生の背中に食い込ませたが、大学生は「あっちです」「いや、こっちかも」と生返事を繰り返し自宅に向かおうとしなかったため、Sは怒りに任せて大学生を切り付けた[書籍 11]。1時間後、大学生は全身に20か所以上の切り傷(全治6週間[報道 14])を負い、血まみれになりながらも命からがらSの隙を見て逃げ出した[書籍 11]。Sは車で大学生を追いかけようとしたが、轢き殺すとまずいと思って断念した[書籍 11]。Sは大学生から取り上げていた運転免許証と、大学生の父親名義の車検証を手に、大学生の車を運転して自車に戻った[書籍 11]。大学生からは後から金を巻き上げるつもりだった[書籍 11]

一家殺害・逮捕[編集]

しかし恐喝を繰り返しても200万円は得られず、金の工面に困ったSは「パチンコ店を襲うか、強盗しようか」などと考えていた[書籍 11]。そして事件当日の3月5日、暴力団から多額の金銭を要求されて追い詰められていたSだったが、この日は朝からパチンコとゲームセンターで時間を潰した[書籍 4]。午後遅くに中華そば屋でラーメン1杯を食べ、4時頃に「A子の自宅から有り金をごっそり奪うつもりで」市川市に向かった[書籍 4]。そして、「ついでに」A子を再び強姦して鬱屈した気持ちを晴らそうとも考えていた[書籍 4]。Sは事件現場の行徳一帯の近くに自らの母方の祖父母の家(後述のウナギ屋)があるため、行徳に土地勘があった[書籍 4]。Sはマンション近くのタバコ屋の前にクラウンを駐車し、公衆電話でA子の自宅に電話を入れた[書籍 4]。以前からA子宅には何度か電話しており、午後は留守か、老女(殺害されたA子の父方の祖母)が一人でいることを確認していた[書籍 4]。電話に誰も出なかったためSは留守だと思い、クラウンを児童公園の横に回して駐車し、午後4時30分頃[報道 15]、目の前にあるA子の自宅マンション8階の一室(806号室)[書籍 4][報道 2][報道 9][報道 11][報道 12]窃盗目的で[最高裁判決文 1]入った[報道 8][書籍 4]

Sは防犯カメラが設置されているエントランスを避けてマンションの外階段で2階まで上がり、そこから806号室がある8階までエレベーターを使い、806号室の玄関でチャイムを鳴らした[書籍 4]。応答がなく、ドアノブを回すとドアが開き、「誰かがいる」と焦ったSはすぐその場を離れ、エレベーター横の階段に座って20分ほど様子を見た[書籍 4]。その後再びドアを開けて忍び入り(鍵はかかっていなかったが、家人の気配はなく、照明も点いていなかったため留守だと思った)[書籍 4]、居間で金品を物色し始めたところ、玄関脇の北側の部屋から音がした[書籍 4]。その部屋の扉を開けると、一人で留守番をしていたA子の父方の祖母(男性の母、当時83歳)[報道 2][書籍 4]がテレビをつけたまま寝ていた[書籍 4]。Sは祖母から預金通帳のありかを聞き出そうと考えて部屋に踏み込み、足を蹴り上げ、目を覚ました祖母に預金通帳を出すようすごんだ[書籍 4]強盗に転じた[最高裁判決文 1]Sに対し、祖母はおびえることもなく毅然とした態度で自分の財布の中にあった現金8万円を渡して帰るように言うが、Sは「バカにされた」と怒りに打ち震え、祖母につかみかかって通帳を出すよう要求した[書籍 12]。Sは一時トイレに行ったあと戻ると、祖母が110番通報しようとしており[書籍 12]、Sは祖母を突き倒して殴り掛かろうとしたところ[書籍 12]、祖母から唾を吐きかけられて激昂、近くにあった電気コードで祖母の首を絞めて殺害し、現金数十万円(起訴状および判決によれば、奪った現金は合計約34万円)[報道 15][報道 5]を奪った[書籍 12][報道 2][報道 9]。その後、Sはいったん外に出て自動販売機でジュースとたばこを買い、30分ほど過ごしてからまた部屋に戻った[書籍 12]

その後、午後7時頃にA子とA子の母親(男性の妻、当時36歳)[報道 2]が買い物から帰宅した[書籍 13]。Sは台所にあった柳刃包丁を手にとって2人に包丁を突き付け、自分を厳しく問い詰めてきたA子の母親を怒鳴りつけ、2人を脅してうつぶせにさせた上で所持品をすべて出させ[書籍 13]、A子の母親を背中から柳刃包丁[最高裁判決文 1]で複数回刺して殺害した[報道 9][書籍 13]。A子に母親の遺体を別室に運び入れさせ、大量の血と失禁の跡をタオルでA子に拭わせた[書籍 13]

その後SはA子を監禁し、保育園児のA子の妹(男性の次女、当時4歳)[書籍 14][報道 2][報道 9]が保母に連れられて帰って来ると、SはA子に夕食の準備をさせ、3人で食事を摂った[書籍 14]。食後、妹を絞殺された祖母の部屋に追いやると、午後9時20分頃A子を包丁で脅して寝室に連れ込んで強姦しようとするが[書籍 14]、目の前で母親を惨殺され恐怖に震えるA子は服を脱ごうとしなかったため[書籍 14]、いらついたSはA子をベッドに突き倒して再び強姦した[書籍 14]。家族の死体が横たわる傍らでA子を強姦するという想像を絶する凄惨な場面について、当時のSは精神鑑定時にその心境を「自分としては、時間潰しというか、気分転換というか」と語っていた[書籍 15]。その後、Sは強姦の最中の[書籍 14]午後9時40分頃に帰宅した男性を柳刃包丁で刺し、暴力団関係者を装って「お前が書いた記事で組が迷惑している」として200万円を出すよう要求した[書籍 14]。まだ妻と母親が殺されたことを知らず、家族を守ろうと必死だった男性はSに母親の通帳のありかを教えてしまった[書籍 14]。Sは額面257万6055円の郵便貯金総合通帳と、103万1737円の銀行総合口座通帳を手に入れたがまだ満足せず[報道 16]、男性の職場の事務所にも通帳と印鑑があると聞き出し、A子に電話を入れさせ、職場に残っていた社員にこれから通帳を取りに行くと伝えさせ、翌3月6日午前零時半、A子を連れて外に出た[報道 16][書籍 14][報道 2]。Sはエレベーターでいったん1階まで下りたが、即座に引き返し、悶絶していた男性を刺殺した[書籍 14][報道 5]

3月6日午前1時頃[報道 16]、Sは事務所付近にクラウンを駐車すると、A子に「人がいるんじゃヤバい。俺はここで待っているから、お前が行って来い」と命じ、A子が事務所に行っている間、空腹を覚えたSは近くのコンビニエンスストアで菓子パンを買った[書籍 16]。A子は残業中の男性社員(後にこの社員が警察に通報した)[書籍 16]に「ヤクザがお父さんの記事が悪いとお金を取りに来ている」と告げたが[報道 16][書籍 16][報道 17]、助けは特に求めず[報道 16]、両親名義の預金通帳[書籍 16](関連書籍によれば額面合計63万5620円[書籍 16]、起訴状および判決によれば計9冊、額面約424万円)[報道 15][報道 5]印鑑7個を受け取った[報道 16][書籍 16]。A子が来た約20分後にはSも現れ、2人で印鑑と通帳を持って行ったという[報道 17]。不審に思った知人は派出所に連絡し、直後の午前1時半頃に葛南署員が男性宅に出向いたが、その時は電気が消えており応答もなかった(この時点でA子の両親・祖母は殺害されていたが寝かしつけられていた妹はまだ生存していた)ため、署員は不在と思って引き揚げた[報道 16]。その間SはA子をクラウンに乗せて市川市内のラブホテルにを連れ込み、30分ほどかけて通帳の額面を調べ、印鑑と通帳の印影を確認した[書籍 16]。Sはここで再びA子を強姦し、4時間近く熟睡した後、三度A子を強姦した[書籍 16]

翌6日午前6時頃、Sが既に一家3人が死亡していたマンションに舞い戻ったところ、一旦は寝かせたA子の妹[報道 2][報道 9]が目を覚まして泣き始めていた[書籍 16]。隣近所に聞こえてはまずいと考えたSは、祖母の部屋で布団の上に座り、背中を向けて泣いていたA子の妹を背中から包丁で刺した[最高裁判決文 1][書籍 16]。包丁は体を貫通し、刃先は胸まで突き抜けた[書籍 16]。「痛い、痛い」と弱々しく声を出し、苦しみもがく妹を前にしてSは「妹を楽にさせてやれよ。首を絞めるとか方法があるだろう」と平然と言い放ったが、A子は全身が凍ったように動けず、Sは激痛で泣き叫ぶ妹の首を絞め上げ殺した[書籍 16]。想像を絶する恐怖と絶望で心身ともに打ちのめされていたA子が妹が殺された直後「どうして妹まで刺したの!」とSに食って掛かったが、Sは突然のA子の反抗に逆上し、包丁を振りかざして左上腕と背中を切り付け全治2週間の怪我を負わせた[書籍 16][報道 15][報道 5]

同日午前9時過ぎ、A子から8時過ぎに自宅の電話に金の工面を求める電話を受けた男性の会社に勤める社員(関連書籍によれば、A子が深夜に訪問してきたことを不審に思った事務所の男性社員)[書籍 16][報道 18]が「社長宅の様子がおかしい」と不審に思い、マンションに電話を入れた[書籍 16]。しかしA子の対応が不自然で、部屋を訪ねてもドアの鍵がかかっており、呼んでも返事がないことから不審に思い、近隣の葛南署行徳駅前交番[報道 11][報道 12]に通報した[書籍 16][報道 10][報道 9]。社員とともに駆け付けた同派出所の警察官[書籍 16]が隣の部屋から侵入(部屋の玄関の鍵がかかっており、呼んでも返事がないため、隣の部屋からベランダを伝って窓から侵入した)して3LDKの現場一室に駆けつけたところ4人がそれぞれ別の部屋で死亡しており(男性は居間、妻は6畳の和室、次女は妻が死んでいた和室の隣の6畳の洋室、祖母は次女とは別の7畳の洋室でそれぞれ死亡していた[報道 11])、室内の壁などに血が飛び散り[報道 12]、部屋の中でSとA子が呆然と立ち尽くしていた[報道 2][報道 10][報道 11]。警察官が現場に駆けつけるまでの十数時間、A子を監禁していた[報道 4]Sは「俺に殺されたいか、それとも一緒についてくるか」とA子に脅し迫ったが[書籍 16]、ドアの外で息を殺して動き回る複数の人間の気配を感じ、Sは放心状態のA子に3人を刺殺した包丁を握らせ、それでも動かないA子にイラついて怒鳴りつけたところ、ドアが開いて怒号とともに警官たちが突入した[書籍 17]

A子は警察によって14時間ぶりに保護され[書籍 17][書籍 16]、警察官は現場から逃走しようとしたSを追跡して取り押さえ葛南署に連行した[報道 9]。関連書籍によればSはなだれ込んだ警官隊に取り押さえられており[書籍 17]、また『読売新聞』の報道によれば、Sは署員らが部屋に入った時に玄関から逃走を図るも、追跡した署員との格闘の末に取り押さえられ、その際「おれはやっていない」と叫んだが[報道 11]、ナイフを所持していたため銃刀法違反の現行犯で逮捕された[報道 19]。千葉県警がSを参考人として事情聴取したところ、深夜になってSが「金が欲しくてやった」と犯行を認めたため、一旦釈放の手続きを取った上で[報道 19]3月7日午前零時半頃に強盗殺人容疑で逮捕状を請求してSを逮捕した[報道 2][報道 11]。Sは身長178cm、体重80kgと大柄で、警察により身柄を拘束された際にはA子に包丁を持たせ、自分を脅しているように見せかけてて罪を逃れようとしていた[書籍 17]上、逮捕前の取り調べでは「先月A子と知り合い、男性宅の住所と電話番号を聞き出した」「A子とは一緒にコンサートに行った」などと虚偽の供述をしており、これを千葉県警および県警発表を通じて知ったマスメディア関係者も鵜呑みにしたことが後述の#報道被害につながった一方、被害者のA子はショックのため調べに対して何も話すことができず、それがSの供述に捜査本部が引きずられる結果となったが[報道 6][報道 9]、捜査本部は真偽を丹念に調べ、虚言と突き止めた[報道 2][報道 4]。近隣住民によれば、一家は事件の4年前の1988年昭和63年)頃に現場マンションに引っ越してきたという[報道 2]。取り調べに対し、Sは犯行を認めた上で「金が欲しかった。盗みに入り、見つかったので次々と殺し、A子を監禁していた」[報道 9]「マンションの近くまで行ったことがある。あの家ならやりやすいと思った」と供述した[報道 20]。捜査本部は、Sが金に困った挙句、標的を絞り下見をした計画的な犯行ではないかと見て追及した[報道 20]。現場の806号室の真下の住民は「昨夜11時半頃、上の部屋でドスンと大きな音がした」と話した[報道 12]

Sは逮捕翌日の3月8日に千葉地方検察庁送検された[報道 4]

千葉県警が殺害された4人の遺体を司法解剖した結果、絞殺された祖母以外(刺殺された男性・妻・次女の3人)の遺体には背後から肺まで達する刺し傷があった[報道 6]。死因は男性ら3人は胸を刺されたことによる失血死、祖母は首を絞められたことによる窒息死だった[報道 17]

3月12日に殺害された4人の葬儀が市川市内の寺院で[報道 21]営まれ、最後に喪主のA子に代わって親類代表は「学識者、マスコミが中心になってこんな惨劇が二度と起こらないように努めてほしい」と挨拶し、その言葉は後述の#報道被害をA子に与えたマスコミに厳しい課題を課した[報道 7]。当時葬儀を仕切った住職によれば、4人の遺骨は男性と、妻の親族にそれぞれ引き取られたという[報道 21]

報道被害[編集]

前述のように、Sは「自分はA子の知人である」などのような虚偽の供述をしたため、それを鵜呑みにした千葉県警捜査本部も6日夕方(午後5時)[報道 8]の記者会見までは「SはA子の男友達で、ともに参考人として事情聴取している」「警官が現場に駆けつけた時、SとA子は室内で呆然と立っていた」と説明し、Sが金を奪うため連れ出した男性の会社では、留守番をしていた知人もSがA子の名前を呼ぶ声から「2人は友人」と思い込み、その時点では疑いを持たなかったという[報道 7]。その結果、『朝日新聞』など各報道機関でも6日夕方まで「長女・友人から聴取」「長女・男友達から事情聴く」など、まるでA子が加害者であると疑われるような報道がなされた[報道 7][報道 6][報道 8]。県警が報道陣に「Sの単独犯行であり、A子は全くの被害者」という事実を発表したのは6日午後9時半だった[報道 8][報道 6][報道 9]

『朝日新聞』1992年3月10日付朝刊千葉県版に掲載された報道内容検証記事によれば、千葉県警本支部の記者クラブに「午前9時頃、市川市内のマンション一室で、家族4人が死亡しているのが発見された」との第一報が伝えられたのは事件発生翌日の3月6日午前10時半だった[報道 8]朝日新聞社は無理心中と殺人事件の両方の可能性を考えた上で、京葉支局と千葉支局から記者3人を現場に向かわせ、支局に残った記者も電話取材を開始した[報道 8]。その結果、「葛南署に通報したのは死亡した男性の知人である」「家族のうち長女は生存している」という2つの事実を確認した[報道 8]。千葉県警は被害者一家の名前を発表、朝日新聞社では千葉県南部・北東部に配達される夕刊早版用の記事を制作した[報道 8]。正午過ぎになって県警クラブの記者から千葉支局に「現場には生き残った長女(A子)のほか、長女の『友人』の若い男(S)がいた。千葉県警は2人から参考人として事情聴取しているようだ」との連絡と、長女(A子)は男性の養女であることが伝えられた[報道 8]。長女(A子)が事件の加害者であった場合、未成年者の人権に配慮して一家の名前も匿名にせざるを得ない[報道 8][注釈 1]ため、千葉支局デスクは朝日新聞社本社社会部と連絡を取り、その可能性がある以上、千葉市・東葛地域・東京都内に配達される夕刊からは一家の名前を匿名にすることを決めた[報道 8]。千葉県内版の見出しは(いずれも『朝日新聞』1992年3月6日付朝刊)「一家4人殺される 市川」、東京都内版では「一家4人刺殺される 長女・友人から聴取」となった[報道 8][報道 22]。午後から『朝日新聞』記者は現場取材を始めたが、「長女(A子)も事件に関与か」という予断を持ったまま、現場マンションの上下階の7階・9階(事件現場の8階は当時、立ち入り禁止となっていた)住民に対し聞き取り取材を開始した[報道 8]。7階の住民は「前の晩、どしんどしんと音がした」と話し、記者が「前にもありませんでしたか」と聞くと、「何か月も前から音がしていた」と答えた[報道 8]。その後8階住民の主婦に記者が取材したところ、「夫婦仲は良かった」「長女(A子)は普通の女の子」という、予断とは異なる内容の回答が返ってきた[報道 8]。それでも、『朝日新聞』以外の他社記者らも加わり「長女(A子)の男女関係はどうか、素行はどうだったのか」という、予断に基づいた質問に終始した[報道 8]。「少年は長女(A子)の友人」という千葉県警発表に基づく情報にこだわった記者は予断を捨てきれず、「現場にいた長女(A子)と自称19歳の男友達(S)から参考人として事情聴取している」「警官が現場に駆けつけた時、SとA子は室内で呆然と立っていた」「これは極めて特異な事件」という午後5時の千葉県警による記者会見での説明も現場の記者の予断に追い打ちをかけた上、記者のみならず千葉支局デスクも、本事件と同じ3月5日に高知市内で発生した、当時高校1年生の少女が中学1年生の妹を刺殺した事件(こちらは事件当日に発覚している)[報道 23]などを連想し、その結果予断に基づいた読者に誤解を与えかねない記事ができるきっかけとなった[報道 8]。予断に囚われたまま、千葉県南部・北東部に翌日(3月7日)配達される朝刊早版の締め切りが迫る中、午後9時半になって捜査本部が「事件はSの単独犯」と発表した[報道 8]。この結果、社会面では「19歳の少年逮捕へ」との見出しになったが、千葉県版では(いずれも『朝日新聞』1992年3月7日付朝刊)「数カ月間深夜に物音」「詳しい事情聴取 長女と男友達から」という見出しになり[報道 22]、また『朝日新聞』の一部では前述の少年(S)の虚偽の供述を鵜呑みにした結果、SがA子の知り合いだったかのような記述も入り、結果的にA子が加害者であるかのような誤解を読者に与えかねない内容になり、紙面も整合性を欠いた[報道 8]。翌3月7日付朝刊の社会面・千葉県版双方で「事件はSの単独犯」という事実を報じることができたのは千葉市以西の新聞からであった[報道 8]。千葉県内でも千葉支局と京葉支局で締め切りの時間差があるとはいえ、読者に誤解を与えかねない内容となってしまった[報道 8]

そもそも、予断を持っていたのはマスメディア側だけでなく、千葉県警側もそうであった[報道 8]。前述のように取り調べの当初、Sが「A子とは昔からの友人」と供述したのに対し、A子はショックのためか何も話さなかったため、千葉県警はSの虚偽の供述を鵜呑みにし、2人を友人と判断し、そのまま記者会見でマスメディアに発表した[報道 8]。ある捜査幹部は『朝日新聞』取材に対し、「2人が無関係と分かってからは逮捕前に発表を行うなど、報道陣に誤解を与えないように努めたが、県警にも予断があったことは認めざるを得ない」と述べた[報道 8]

A子に対する報道被害はこれだけでは終わらなかった。事件発覚翌日(Sが逮捕された日)の3月7日朝刊で、『日本経済新聞』と『中日新聞』が(被害者遺族であり、自らもSによる複数回の強姦被害者である)A子を含め一家5人全員を実名報道してしまった[報道 23][報道 12][報道 9]ため、A子は自らが加害者であると疑われたばかりか、『日本経済新聞』と『中日新聞』によるセカンドレイプの被害者にもなってしまった(ただし、出典元である各新聞記事には「A子がSにより強姦された」という記述はなく、その事実は#関連リンクの最高裁判決文および#関連書籍に基づくものである)。一方で『読売新聞』、『朝日新聞』、『毎日新聞』、『東京新聞』(『中日新聞』と同じ中日新聞社発行)は殺害された4人を実名、A子については匿名で報道し、『産経新聞』は「両親の名前を書けば、結果として生き残った長女(A子)が誰かも特定されてしまう」として一家5人全員を匿名で報道した[報道 23]。A子を実名報道した『日本経済新聞』は、「第一報では警察が長女(A子)に疑いを持っている状況だったので匿名にしたが、7日の朝刊段階では長女(A子)が完全な被害者であることが判明し、そのことをはっきり示すためにも実名報道の方がいいと判断した。しかし陰惨で気の毒な事件であり、被害者は一刻も事件を忘れたいことだろう。今後の報道の仕方は考えたい」とした[報道 23]。また、事件3日後の3月9日朝にTBSテレビで放送されたワイドショー番組「モーニングEYE」ではA子の同級生へのインタビューの中でリポーターがA子の実名を口にした[報道 24]。質問に答える同級生もA子の実名を何度か言い、それがそのまま放送された[報道 24]。同番組プロデューサーの島崎忠雄は「当然匿名でいくべきケースだったが、VTRの編集で消し忘れた。突発事件の場合には、VTRの仕上がりが放送直前になるから、そういう単純なミスが起きることもある」(同番組ではその後もこの事件について繰り返し取り上げられたが、この「ミス」についての言及はなく)「社内では反省する話し合いの場をもった。ケースによっては番組内でケアすることもあるが、(この時点では)まだ具体的な予定はない」と語ったのに対し、他局のあるプロデューサーは「この場面をハラハラしながら見た」といい、その上で「編集の時間が足りないことはままある。インタビューを撮る前に『こちらはA子ちゃんと呼びますので、実名を言わないようにしてください』と念を押すなどの工夫が必要だ」と釘を刺した[報道 24]

またスポーツ新聞の中には、長女(A子)が養女である点に注目したり、裏付けを取らないまま被害者一家の生活ぶりを報じたものもあった[報道 8]

「A子が最大の被害者だった」(捜査を担当した当時の千葉県警刑事部長の言葉)ことが判明した6日夜、A子が通う県立高校の担任(事件直後には「学校に出てきても慰めの言葉もない」と話していた[報道 12])は「昼間、警察の発表があったにせよ、マスコミの取材はA子を犯人扱いしていた」と憤った[報道 7]。また、『朝日新聞』1992年3月10日付朝刊千葉県版に掲載された報道内容検証記事でも、「殺された家族の痛ましさは筆舌に尽くしがたいが、事件を通じて、最大の被害者は1人残された長女(A子)だったかもしれない」と締めくくっている[報道 8]

裁判[編集]

送検後の3月25日、千葉地検は「Sの精神状態に異常があるとは考えていないが、慎重を期した」として精神鑑定のため90日間のSの鑑定留置を千葉地方裁判所に申請し、認められた[報道 25]

その後Sは強盗殺人、傷害など5つの容疑で10月1日に千葉地検から「刑事処分相当」との意見付きで千葉家庭裁判所に送致された[報道 26][報道 27]

千葉家裁で4回にわたる審判が行われていたが、10月28日に「事件は社会を震撼させ、世間に多大な影響を与えた」「Sは成人に近い年長者である」などの理由で「刑事罰を加えることにより規範意識を覚醒させることが必要」として千葉地検に逆送致された[報道 28]

その後、逮捕直後から半年間にわたる専門家によるSの精神鑑定の結果「カッとなると歯止めが効かなくなるが、完全な責任能力があった」と結論を出した千葉地検は11月5日にSを強盗殺人など4つの罪で千葉地裁に起訴した[報道 13][報道 29][報道 1]。同日に千葉地検はこれに加え、Sが1991年10月に東京都江戸川区内で起こした別の傷害事件についてもSを起訴した[報道 1]

1993年(平成5年)2月18日に千葉地検は一家殺害事件前の1992年2月25日、Sが市川市内で通りすがりの会社員に因縁をつけて鉄の棒で頭を殴り、自動車運転免許証を奪い金を要求した、同27日には埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)内で通りすがりの大学生の顔を殴り、ナイフで全身数十箇所を刺すなどして全治6週間の怪我を負わせ、免許証などを奪った(いずれも前述)などの容疑で、Sを傷害や恐喝など5つの罪で追起訴した[報道 14]

過去にSが傷害や強姦、強姦致傷、恐喝(事件直前の1992年1月下旬に親類の家に出かけ、親類が子供の高校受験用に用意していた現金120万円を無理やり奪った[報道 3])、窃盗などの事件を繰り返していた[報道 3][最高裁判決文 1]点、逮捕されてから裁判中までSには事件を起こしたことに対して全く反省した態度が見られない点、A子の目の前でA子の肉親を殺害したという残虐性、警察が踏み込んだ際にA子に包丁を持たせ自分が被害者を演じた計画性などが裁判で重く見られた。[要出典]

第一審(千葉地裁)[編集]

刑事裁判でSは強盗殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗、傷害、強姦、強姦致傷の7つの罪に問われ(確定判決では後述のように、4人のうちA子の妹に対する殺害を強盗殺人罪ではなく単純殺人罪と認定)[最高裁判決文 1]、1991年10月から一家殺害事件直後に逮捕されるまでの約5ヶ月間に計14の犯罪を繰り返したと認定された[報道 30]
初公判は同年12月25日に千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)で開かれ[報道 31]、Sは罪状認否でA子宅を知るきっかけとなった強姦事件などについては全面的に認めた一方、強盗殺人罪の成立を認めたのはA子の祖母に対してのみで、妻は「逃げ出されると思い刺した」と傷害致死、男性は「金は奪ったが殺すつもりはなかった」と強盗致死、妹は「朝起きて騒ぎ始めたので驚いて刺した」と単純殺人をそれぞれ主張し、祖母と妹については「死ぬかもしれないと思ったが確定的な殺意はなかった」と未必の殺意を主張した[報道 32]。弁護側は公判後の記者会見で「千葉地検に逆送致される際に千葉家裁は我々の主張にほぼ沿う判断をした。検察側が殺意を確定的と主張すれば全面的に争う」と話し、Sについては「『被害者に何とかお詫びをしたい』といつも言っている」と話した[報道 32]
事件から1年を前にした1993年3月3日の千葉地裁(神作良二裁判長)での第2回公判では検察側が冒頭陳述で、「Sは暴力団員から要求されていた金以外にも遊興費など欲しさから一家4人を次々に殺害し、現金約34万円と残高約420万円の預金通帳を奪った」などと主張した[報道 33]。弁護側はこの時点では「検察側による精神鑑定の結果には疑問がある」としながらも再鑑定は求めず、Sの責任能力は争わない考えを示していた[報道 33]
しかし5月19日の第3回公判までに弁護側は「2月18日に追起訴された傷害や恐喝など別事件についてはいずれも常人の理解を超えている」として再度の精神鑑定を千葉地裁に要求し、神作裁判長もこれを認める決定をした[報道 34]。同日の被告人質問では、SはA子の父方の祖母と妹に対する殺意を認める供述をした[報道 34]
第4回公判は11月22日に開かれ、検察側は被害者遺族の尋問調書などを、弁護側は第3回公判で要求した精神鑑定の結果などをそれぞれ提出した[報道 35]。この日の公判後の弁護側の記者会見によれば、Sは通常時・犯行当時ともに精神的には正常であり性格に偏りがあるにすぎないが、尿酸値が高いという体質的要素から自分の感情をコントロールする能力と、刺激に寄って我を忘れやすくなる性格が結びついているとした上で、これまでの司法判断で言えば刑事責任能力は取れるが、今回は体質的な要素や、その要素は年をとるにつれて改善されるものであることを考慮して犯行当時未成年であったSの情状酌量をすべきと主張した[報道 35]。次回の第5回公判(翌1994年1月31日)でSの母親が情状証人として出廷することも決定した[報道 35]
1994年(平成6年)4月4日、千葉地裁(神作良二裁判長)で開かれた論告求刑公判で検察側は「Sは何の落ち度もない一家の平和を決定的に破壊した身勝手、残虐な犯行を犯した[報道 36]。本件は計画強盗事件の凄惨な結果であり、犯行は残忍、冷酷、卑劣の極みであって誠に悪質。少年に対する極刑の適用はとりわけ慎重になされるべきであることを考慮しても、情状酌量などにより罪一等を減ずる余地は一片も見出すことはできない[報道 15]。罪刑の均衡と犯罪予防の見地から、命をもって罪を償わせ、今後このような凶悪犯罪が起きないようにすることが司法に課せられた責務だ[報道 37]」と主張し、4人全員への確定的な殺意があったとしてSに対し死刑を求刑した[報道 15][報道 37][報道 36]。検察官は論告求刑の中で「無抵抗の被害者を虫けらのごとく―」などと指弾し、A子の「私から大切なものをすべて奪ったSが憎くてたまらない」「優しかった父母らをなぜ殺した。家族を返せ」などという言葉も読み上げた[報道 37]。弁護人の奥田保弁護士は公判後に記者会見で「生育環境など同情すべき事情や矯正の可能性を評価せず、意外な求刑だ。少年法の精神にも、死刑廃止の動きにも逆行する」と述べ[報道 37]、『日本経済新聞』の紙面にも「最近の死刑廃止の動きに逆行する求刑だ。被害者や遺族には申し訳ないと思うが、当時少年のSには矯正の可能性があり、少年法の精神からして厳しすぎる」という奥田の談話が掲載された[報道 36]
6月1日の第10回公判で弁護側の最終弁論が行われ、弁護側は「事件は計画的なものでなく、Sは当時精神未発達の少年だった」「(実際には前述の通りA子はSによって監禁されていたにも拘らず)被害者はSの犯行の合間に警察に通報する機会があった」「少年時代Sは不幸な生育環境にあった」「Sは深く反省し矯正する可能性が高い」などとして情状酌量を求め、神作良二裁判長から「何か言いたいことはあるか」と問われたSは「大変な事件を起こして申し訳ない。私が命を奪った方々は戻ってこないけれど、私はこれから生きていく中で少しでも償うように過ごしていきたいと思っている」と述べ、結審した[報道 38]
同年8月8日の判決公判で千葉地裁(神作良二裁判長)は永山則夫連続射殺事件の判例(永山基準)を引用した上で[報道 39][報道 40]「何の落ち度もない一家4人の命を奪った犯行は、意に沿わないものは人の命でも奪うという自己中心的、反社会的なもの。殺害ぶりも終始冷静、冷酷非道で、社会に与えた衝撃は計り知れない」[報道 41][報道 39]「犯行は残虐、冷酷で身勝手[報道 5]。国内外でも死刑廃止の声が根強いが、いくら人を殺しても本人の命は保証される結果になる死刑廃止には多くの国民が疑問を抱いている[報道 40]。犯行当時少年とはいえ、Sは犯行当時は民法上成年とみなされる19歳の年長少年であり、Sは肉体的にも十分成熟して社会経験も積んでおり、知能も中位で、酒やたばこを常用するなど生活習慣も成年と変わらない[報道 40][報道 5][報道 41][報道 39]。少年に対する極刑の適用は慎重に行われるべきだが、多数の命を奪った責任を命をもって償うしかない場合もある[報道 40]。深く反省していることや、事件当時精神的に未熟な少年だったこと、不遇な家庭環境など、Sに有利な情状を考慮しても、罪刑均衡と一般予防の見地から極刑をもって臨まざるを得ない」[報道 5][報道 40][報道 39]などとして、Sに求刑通り死刑判決を言い渡した[報道 5][報道 41][報道 40][報道 39]。A子の妹に対する殺害のみ「既に強盗行為はこの時点までに終わっていた」として強盗殺人罪ではなく、Sの弁護人の主張を認め単純殺人罪と認定したが[報道 41][報道 5][報道 39]、判決は検察側の主張にほぼ沿った内容で、A子の両親については「公判での証言などから男性への殺意は明白。妻の死も予見が可能だったのに、何ら救命措置を行わず金品強奪を企てた」などとして祖母同様強盗殺人罪を認定した上で[報道 41][報道 5][報道 39]、弁護側が主張していた「殺意は未必の故意もしくは不確定」という主張を退けて4人全員に対しいずれも確定的な殺意があったと認定した[報道 39]
判決の中では「国際的にみると、それぞれの国の歴史的・政治的・文化的その他の事情から、現在死刑制度を採用していない国が多く、我が国においても一部に根強い死刑反対論がある」として、死刑事件では初めて死刑制度を巡る国内外の議論について言及し、国内外の死刑廃止論の高まりを追認した一方で「死刑制度が存置している現法制下で、死刑は極めて抑制的に適用されており、生命は尊いものであるからこそ、自己の命で償わなければならないケースもある。少年犯罪についても異なることではない」と述べられた[報道 39]
「Sの胎児期に母親が服用した流産予防薬(黄体ホルモン)の影響でSは『爆発的精神病質者』で、犯行当時心神耗弱状態だった」という弁護側主張に対しては「2度の精神鑑定から、心神耗弱だっだと断言するのは困難。また『爆発的精神病質者』との鑑定があるが、責任能力に支障をきたすほどではなかった』として退け、責任能力は問題なくあったと結論付けた[報道 5]。そして「Sは深く反省し被害者の冥福を祈るなど、更生の余地がないとは言えないが、目の前で家族を次々に殺され、一人遺されたA子の被害感情は峻烈で被害は回復不可能だ」とした[報道 41]
Sと弁護側は判決を不服として東京高等裁判所に即日控訴した[報道 42][報道 43]

控訴審(東京高裁)[編集]

控訴審で弁護側は「未必の故意だったり、Sには殺意がないのに、原判決は確定的な故意があると認定している」として殺意の面で第一審判決には事実誤認があると主張した[報道 44]。また、世界的な死刑廃止運動や、18歳未満への死刑適用を禁じた少年法の趣旨を強調し「Sは犯行当時の精神年齢は18歳未満で、少年法の精神に照らせば死刑を適用することはできない[報道 45]『爆発的精神病質者』であるという精神鑑定結果や、深い反省の意を示していることなどから、無期懲役が相当」と主張していた[報道 46][報道 44]
1996年(平成8年)7月2日の控訴審判決公判で東京高裁(神田忠治裁判長)は「犯行当時は少年であり、年齢を重ねれば教育によって改善の可能性はある」[報道 46][報道 47]としつつも「被害者の傷の深さや、犯行後に救命措置を考えていないことなどから原審の殺意の認定は正当である」[報道 44]「(Sが犯行当時『爆発的精神病質者』であったとする主張に対しては)犯行当時Sは異常な心理状態にあったとは考えられず、自分より強い者には衝動を抑制し、弱い者には抑制しないなど自己の攻撃行動を区別している[報道 44]。一家殺害の際もむしろ状況に応じた冷静な行動を取っており、行動制御能力に著しい減退はなかった[報道 45][報道 44][報道 46]。Sは粗暴な犯行を重ねており、自己の衝動や攻撃性を抑制しようとしない危険な傾向が顕著である[報道 47]」「犯行当時19歳の少年だったこと、深い反省をしているなど、被告人の有利な事情を十分に考慮し、死刑が究極の刑罰であることを考えても、犯した罪の重大性を見ると犯行は卑劣で残虐であり、生命に対する畏敬の念を見い出せない。その罪の重大性から死刑に処すのはやむを得ない」[報道 45][報道 44][報道 46][報道 47]として第一審の死刑判決を支持し、Sの控訴を棄却した[報道 45][報道 46][報道 44][報道 47]
Sの弁護側は判決を不服として即日最高裁判所上告した[報道 45][報道 44][報道 46]

上告審(最高裁)[編集]

事件から丸9年となる2001年(平成13年)3月5日までに、最高裁判所第2小法廷(亀山継夫裁判長)は上告審口頭弁論の日程を4月13日に指定した[報道 48]
同年4月13日に最高裁第2小法廷(亀山継夫裁判長)で上告審口頭弁論が開かれ、弁護側は精神科医の鑑定結果から「幼児期に父親から受けた激しい虐待が心的外傷となり、人格の同一性が混乱する解離性障害となり犯行に繋がった」と新たな主張を展開、「胎児期に流産予防のために投与された黄体ホルモンの影響など複合的要因が重なり、行動制御能力が著しく劣った心神耗弱状態であった」と強調した上で「死刑は残虐な刑を禁じた日本国憲法第36条に違反し、とりわけ少年への適用は許されない」「少年の成熟の度合いは個人差がある。Sは犯行当時19歳だったが、18歳を1年超えているからといって死刑を科すべきではない」として死刑判決の破棄と無期懲役への減軽・もしくは審理の差し戻しを求めた一方、検察側は「量刑不当は単なる事実誤認でありとても上告理由とは認められない。自分より弱い者に向けられた冷酷で残虐な行為はとても許されるものではない。被害者に全く落ち度はなく、生き残った少女(A子)も被告人(S)の極刑を望んでいる。一・二審の死刑判決は正当であり、上告は棄却されるべきである」として上告棄却を求めた[報道 49][報道 50][書籍 18]。永瀬隼介曰く、弁護側の「脳科学の知識を踏まえた上で改めて審議すべきである。また、Sは4人の被害者に対して、どんなに謝っても取り返しのつかないことをしてしまったと悔いている」という主張はさして耳目をひくような事柄ではなく、全く説得力のない弁護の連続に法廷内は白けた空気が充満した[書籍 18]。唯一傍聴席が反応した場面は、女性弁護人が虐待の場面を述べた場面であった。彼女は熱っぽい口調で「父親からまるでマイク・タイソンのラッシュ攻撃のように殴られ、全身が痣によって赤紫色の世界地図のようになってしまった。これでは大好きなプールにも行けない、と泣いたこともあった」と語ったが、芝居っ気たっぷりに語られたタイソンと世界地図の比喩が妙におかしく、傍聴席からは失笑が沸いたという[書籍 18]
12月3日に最高裁第2小法廷(亀山継夫裁判長)は「Sは暴力団関係者から要求された金銭を工面するために強盗殺人を犯し、動機に酌量の余地はない。犯行は冷酷かつ残虐で、自らも被害者となった遺族(A子)の被害感情も非常に厳しい」「4人の生命を奪った刑事責任は極めて重大で、Sの犯行当時の年齢などを考慮しても死刑はやむを得ない。弁護側の主張は適切な上告理由に当たらない」として上告を棄却し、Sの死刑が確定した[最高裁判決文 1][報道 51][報道 52][報道 30]
犯行当時未成年者に死刑が言い渡され、刑が確定するに至ったのは、1990年に死刑が確定した永山則夫連続射殺事件の永山則夫以来[報道 51][報道 52][報道 30]であり、平成の少年事件では初めてであった。事件当時19歳の少年だったSは28歳になっていた[報道 51][報道 52]
12月21日までに最高裁はSの判決訂正申し立てを棄却し、正式に死刑判決が確定した[報道 53][報道 54]

確定後から現在[編集]

Sは最高裁判決当日の3日までに『東京新聞』(『中日新聞』)に手記を寄せ、「二度の死刑判決を受け、生き恥を晒し続けて、自分の家族にさえ迷惑をかけるより、とっとと死んで消えてなくなりたい、それで早く生まれ変わって新しくやり直す方がどんなにか楽だろうと、安易な自暴自棄に陥っていた頃もあった」「そんな僕を見た多くの人から『死んでおしまいなどというのはずるい』『生きて償うべきだ』と言われ、生きていなければ感じられない苦しみを最後の瞬間まで味わい続けようも改めて決意した。何もできないまでも、最後まで生き抜いて罪を贖える方法を模索したい」「僕の経験を反面教師として役立ててもらえば、この世に生まれてきたことに少しでも意味があったと言えるかも」などと当時の心境を吐露した[報道 21]。関係者によれば、Sは死刑確定を覚悟しつつも、判決までの数日間は落ち着かない様子だったという[報道 21]。この手記は最高裁判決から9年後の2010年11月28日、裁判員裁判で初めて犯行当時少年の被告人に死刑判決が出た(石巻3人殺傷事件。2016年判決確定)ことについて触れた『中日新聞』朝刊のコラム「中日春秋」および『東京新聞』朝刊のコラム「筆洗」でも引用された[報道 55]
2017年(平成29年)現在、Sは東京拘置所収監されており再審請求中[注釈 2]である。永山はSの死刑確定前の1997年(平成9年)に死刑執行されたため、Sは2017年現在収監されている少年死刑囚としては最古参であり、かつ2001年以降(21世紀)に死刑が確定した未執行死刑囚としても最古参である。

永瀬隼介とSの交流[編集]

Sが最高裁上告中の1998年(平成10年)10月から作家の永瀬隼介は当時既に東京拘置所に収監されていたSと面会や文通を重ね[書籍 19]、死刑が確定するまでの約3年間に事件の様々な関係者(Sの家族や被害者遺族、Sと結婚したフィリピン人女性の家族ら)への取材活動も含め、Sの内面や事件の深層に迫った。
最高裁上告中の2000年(平成12年)9月、永瀬はそれまでの取材結果をまとめて『19歳の結末 一家4人惨殺事件』を出版しSに差し入れた[書籍 20]。しかしSは「『1991年10月、当時フィリピン滞在中で結婚相手の女性の兄とともにマニラのカラオケスナックに来ていたSが、そこで現地の警察官を殴って拳銃を突き付けられた』という記述[書籍 21]は出鱈目だ。マニラには街中で金をせびってくるやつがいて、あの警官もそうだった。だからうるさい、と腕で払ったら拳銃を突き付けられた」と主張、永瀬が「フィリピンで取材した事実を帰国後面会の席でSに直接確認した」と指摘すると「向こうの兄貴(女性の兄)が言ってるだけ。彼とは一緒に仲良く遊んだのに、恨んでいるのか。だとしたらあなた(永瀬)のことを僕の身内の者だと思っていたんじゃないか」と的外れな子供っぽい言い分を返した[書籍 20]。永瀬はこの時の心境を「許されるなら『お前が言うべきはそういうことじゃないだろう』と胸倉を掴んで揺さぶり、諭してやりたかった」と記した[書籍 20]。しかしSが怒った理由は弁護士から「『お前、あんなこともやってたのか。どうして隠してたんだ、けしからんじゃないか』と責められた」からであった[書籍 20]。永瀬が「あなたが今言うべきはそういうことじゃないと思う。拳銃云々は些末なことだ。あの本にはあなたに殺された被害者の遺族の悲しみとか怒りがいっぱい詰まっていたでしょう。あなたはそれについてどう感じたのか、まず語らなければならない」と指摘したが、Sは「そんなの、わかってますよ」と子供のように拗ねてそっぽを向くだけであった[書籍 20]。永瀬は「愛する娘と4歳の孫を刺し殺された(A子の母方の)祖母の地獄の日々に思いを馳せることのできないこいつ(S)は、やっぱり救いようのないクズだ」と唾棄した[書籍 20]。その後も永瀬はSと面会や手紙のやり取りを続けたが、翌10月にSは永瀬との面会の中で、自らが強姦し、事件でひとり生き残ったA子について、唇をねじ曲げ、薄笑いを浮かべて、ヘラヘラと挑発するように「あの子は僕のことがわかっている。すべてを知っている。なのに、本当のことを言わない。おかしいですよ」「あなた(永瀬)の取材にもまともに答えない。とんでもない人間だと思いませんか」などと口を極めて罵った[書籍 20]。永瀬は「とんでもないのはお前だろう」と怒鳴ろうとしたのを辛うじて堪え、Sの聞くに堪えない罵詈を咎めると、Sはがらりと態度を変え、肩をすぼめて俯き「もっと早くあなた(永瀬)に出会っていればよかった。塀の外であっていれば僕も変わっていたと思うんです。僕にはそうやって叱ってくれる人間がいなかった」と言った[書籍 20]。永瀬はこのSの言葉について「同情を買おうとしたのだろうか、それとも本音なのか、わたしにはわからなかった。分かったのはただひとつ。この男(S)は反省していない、ということだけだ」と切り捨てた[書籍 20]
著書出版準備を進めていた2000年初夏、永瀬は慢性的な精神的ストレスから自律神経失調症を発症、満員電車での帰宅途中に気分が悪くなり、途中駅で下車した際に意識を失い、プラットホームの上にうつ伏せに倒れた。その際に顎を強打して歯が砕け、後日検査をした際に転倒の衝撃で顎の骨が割れていることが判明、その治療のため3週間入院した[書籍 22]。それ以前から永瀬は「Sというモンスターと付き合うようになり、じきに心のどこかで、このままでは済まないな、と感じるようになった。手痛い代償を払わされるに違いない、との確信めいた思いもあった。口では『切腹でもして死にたい』『潔く終わりたい』と殊勝に語るSは、実は底知れぬ生命力の塊である。わたしは面会を重ねるたびに、一夜にして4人を殺しながら、生への欲望が全く枯れない男(S)のエネルギーに翻弄され、心身ともに削られていく気がした」といい、また「Sは、わたしが過去、取材したどの殺人者よりも遥かに深い、桁外れの闇を抱えている(中略。広島タクシー運転手連続殺人事件の犯人の例を挙げ)少なくとも(広島タクシー運転手連続殺人事件の犯人は)分かり易い。だが、Sは分かりにくい。分からないから、取材者はより接近を試み、その黒々とした邪悪な渦に巻き込まれていく。無事で済むはずがない」と綴っている[書籍 22]。退院後永瀬は東京拘置所に再び通い、その後最初の面会でSに対し怪我と入院で面会に来られなかった旨を説明すると、Sは心配そうな表情で「身体には気を付けてください。人間、健康が一番ですから」と言った[書籍 22]
2001年(平成13年)1月下旬、永瀬はSと2か月ぶり(前年12月以来)に面会し、Sは永瀬に「面会できることは世間との接点があってうれしい。これからもどんどん本を読みたいし、あなた(永瀬)とも会いたい」(面会できなかった場合を含め、永瀬から本を差し入れてもらっていることについて)「いつも本の差し入れをしていただき、有り難く思っております」と言い、永瀬がどんな本が読みたいか問うと『永遠の仔』を読みたいと答え、永瀬はSに次回の面会時に差し入れると約束したが、結果的にこれが最後の面会となった[書籍 18]
上告審口頭弁論から約8か月後の11月下旬、Sから永瀬宛に最後の手紙が届き、上告審判決公判の日程が12月3日に決定したこと、またそれ(死刑確定)により、死刑囚となったSに対する親族でない永瀬からの書籍の差し入れや、永瀬との文通ができなくなることなどが記され、最後に永瀬への気遣いの言葉で締めくくられていた[書籍 23]
そして12月3日、Sの上告棄却を言い渡した上告審判決公判を傍聴した永瀬は閉廷後、最高裁の中庭から熊本県に住むA子の母方の祖母宅に電話を入れ、母方の祖母はSの死刑が確定した旨を永瀬から伝えられると「やっと死刑になっとですか。よかった、本当によかった」と嗚咽した[書籍 23]。その後A子の叔父(A子の母の弟)が電話を代わり、「死刑が決まりましたか。あれ(事件発生)から9年ですか、長かった」と語った[書籍 23]。Sの死刑確定の知らせを聞いたA子はじっと押し黙ったままだったという[書籍 23]

その他[編集]

  • 殺害された会社社長男性は、8年前の1984年に週刊誌記事に掲載された、当時ロス疑惑で注目されていた三浦和義のプライベート写真を撮影したカメラマンでもあった[新潮 1][書籍 24]。『読売新聞』報道によれば、妻はA子と一緒に出身地の熊本県八代市から市川市に転居し、行徳駅前のマンションに部屋を借りて写真の勉強をしていた[報道 11]。その後、フリーカメラマンだった男性と知り合って結婚、1988年8月に現場マンションを事務所に写真の編集会社を設立した[報道 11]。会社では妻が代表取締役を、男性が取締役をそれぞれ務めおり、近隣住民の話によると夫婦揃ってカメラボックスを抱えて事務所に出入りする姿も見られたという[報道 11]。男性は雑誌の写真などを撮影しており、生前は事件直前まで料理雑誌の仕事を中心にしていた[新潮 1][報道 11]。1990年頃、男性は「ベルギーのペンションを買いたい。ベルギーならドイツにもフランスにもすぐに行ける。(事件の発生した)1992年にEC(欧州諸共同体)統合があるので、あちらに拠点を持って活動したい」と語っていたが、その夢はSの凶行によって無惨にも断ち切られた[新潮 1][書籍 25]
  • 本事件の被害者遺族であり、自身もSによる複数回の強姦被害者となったA子は、共働きの両親に代わって10歳以上離れた妹(両親・妹ともSに殺害された)を朝夕、東京都江戸川区本一色の私立保育園(同園の職員は園児たちに対し、A子の妹については事件のことは伏せて「遠くに引っ越した」と伝えたという)[報道 4][報道 12]に送迎するなど優しい性格であり、通学する県立高校では演劇部や美術部などに車属、クラスの副委員長も務め[報道 6]、将来は美術関係の大学進学を希望するごく普通の女子高生だった[書籍 17]。A子は事件後両親の知人の下に身を寄せた後、1年後の1993年に熊本県の母方の実家に引き取られ[書籍 26]、高校を卒業後故郷の熊本を離れ、事件前から夢見ていた美術系大学に進学し2000年春に卒業、知人に対し「バリバリ働いて私を育ててくれた母のようなキャリアウーマンになりたい」と将来の希望を語っていた[書籍 27]。その後Sの死刑確定後の2004年(平成16年)春にかねてから交際していた男性と結婚して日本を離れ、生前の両親の夢であったヨーロッパで暮らしているという[書籍 28]。『東京新聞』の取材に対し、事件現場近所の主婦は一人遺されたA子について「心に受けた深い傷は想像を絶する。幸せを願い、そっとしておいてあげたい」と気遣い、現場に駆けつけた当時の捜査幹部は「とにかく酷かった。母親に息子夫婦、幼い子まで…被害者のために、間違いのないようになんとか裁判まで持っていこうと全力を尽くした」と振り返った[報道 21]
  • 強盗目的で一家4人を惨殺し、遺された少女を血の海の中で強姦するという凶行に及んだSだが、少年犯罪なら少年法により処罰は軽くなると考えており、逮捕当時は「未成年ならどんな凶悪犯罪を犯しても少年院に入れられるだけだろう。これで俺も少年院行きか」程度にしか考えておらず[書籍 10][書籍 29]「死刑なんてものは自分とはおよそ縁遠いもの。一度殺人を犯しておきながら、刑期を終えてから、あるいは仮釈放中に再犯するような者ぐらいしか死刑にならない。だから自分には関係ない、違う世界のもの」だと確信していた[書籍 29]。その理由の一つには〈1989年1月にSの住んでいた町の近隣である東京都足立区綾瀬で発生した〉「女子高生コンクリート詰め殺人事件の犯人の少年たちでさえ、あれだけのことをやっておきながら死刑どころか無期懲役にすらなっていない。それなら俺の方が犯行は長期間ではないし、犯行にあたって凶器一つ用意していないからまだ頭の中身もまともだ」という不遜な考えもあった[書籍 29]。そのためSは逮捕後、出所後の生活設計のために母親に教科書や参考書、辞書類を差し入れさせていた[書籍 10][書籍 29]。しかしその考えも虚しく、第一審の論告求刑で死刑が求刑され、Sは後の死刑判決宣告以上にこの論告求刑で大きなショックを受けたという[書籍 30]。その期に及んでもSはなお死刑求刑とともに論告で自らの行為を糾弾した検察官を逆恨みするような感情を抱いていたが、第一審・控訴審と相次いで死刑判決を受けたことでその罪の重さを思い知らされ[書籍 30]、そして上告審に至るまで一度たりとも減軽されることなく死刑判決が確定し[注釈 3]、Sは戦後日本で37人目(永山則夫連続射殺事件の最高裁判決以降、および平成の少年事件では初)の少年死刑囚となった。
  • Sは東京拘置所からの手紙を初めて永瀬に送った際その手紙に香水を付けていたが、永瀬は「独房で書き上がった手紙に香水を振りかけている大量殺人犯―どこか歪んでいる」と記した[書籍 20]
  • 後の少年死刑事件である大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件光市母子殺害事件、石巻3人殺傷事件では『毎日新聞』を除く全国メディア(『読売新聞』・『朝日新聞』・『産経新聞』・『日本経済新聞』の各全国紙と各テレビ局)は死刑判決確定後に実名報道に切り替えたが、本事件では死刑確定時点でも新聞各紙はSを匿名で報じた[報道 56](ちなみに、朝日新聞が少年死刑囚の実名報道の方針を決めたのは本事件の判決確定後の3年後、2004年のことである[報道 57][報道 58])。しかし、事件直後『週刊新潮』『FOCUS』(共に新潮社)がSを実名報道した[報道 59][新潮 1]。『週刊新潮』は1992年3月19日号(3月12日発売)にて「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」というタイトルの特集を組み、その中でSを実名報道した上でSの中学時代の顔写真も掲載した[新潮 1][報道 23][報道 59]。当時『週刊新潮』編集部次長であった宮沢章友は「今回の犯行は未熟な少年が弾みで起こしたようなものではなく、少年法で保護しなければならない『少年』の枠を超えている。加害者の人権に比べて被害者の人権が軽視されている。少年による凶悪事件が増加している今、20歳未満ならばどんな犯罪を犯しても守られる現行の少年法は時代遅れ。問題提起する意味で実名報道した」と述べた[報道 23][報道 59]。その上で、実名報道するかどうかの判断はケース・バイ・ケースであるとした[報道 23]。これに対しては東京弁護士会小堀樹会長)が「人権を損なう行為だ」として「良識と節度を持った少年報道」を求める要望書を新潮社に郵送し「マスコミが少年を裁くようなことをしていいのか」と問題を提起した[報道 59]
    • ライバル誌であり、過去に女子高生コンクリート詰め殺人事件の加害者少年4人を実名報道して物議を醸した『週刊文春』は「今回も実名報道すべきではないか」と検討したが「前回の実名報道の動機である『少年法への問題提起』は既にしている」という花田紀凱編集長の判断で、今回は匿名報道とした[報道 59]
    • また、上告中の2000年(平成12年)9月に出版された永瀬隼介の著書『19歳の結末 一家4人惨殺事件』および死刑確定後の2004年(平成16年)8月に加筆の上で再出版された『19歳 一家四人惨殺犯の告白』(前者は祝康成名義、#関連書籍参照)でもSの実名が公表されている[書籍 19]。本文内での表記「S」はそれらの文献で示されている実名に基づいたイニシャルである[新潮 1][書籍 19]

関連書籍[編集]

  • 『週刊新潮』(新潮社)1992年3月19日号p.145-149 特集「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」
    • Sの実名及び中学卒業時の顔写真、Sが事件当時住んでいた船橋市内のマンションの写真が掲載された。この中では「この事件は死刑に値する犯行」(板倉宏・当時日本大学法学部教授)「もし死刑にできないようならば保安処分にすべき」(小田晋・当時筑波大学教授)という識者の意見の一方で「(当時)死刑が廃止に向かっている時代の趨勢の中、少年の場合は殺人が行われやすい環境だったかがどうかが争点になるため、この事件でも求刑段階で死刑は難しい」(少年法に詳しい秋山昭八弁護士)という意見も載せ、その上で元法務大臣奥野誠亮の「今の時代、20歳未満だからと言って甘やかしておれる時代ではないでしょう。運転免許だって18歳で取得できるわけですから、凶悪な犯罪を犯した少年が5歳や10歳の子どもと同じ扱いにされるというのはおかしな話ですよ」などの識者意見を載せ、少年法の改正を訴える内容となっている。
  • 『19歳の結末 一家4人惨殺事件』祝康成(永瀬隼介)・著(新潮社)2000年9月15日出版 ISBN 978-4104398010
    • 著者の永瀬がSとの面会やSの家族、Sと結婚したフィリピン人女性の家族、熊本県在住の被害者遺族ら事件当事者たちへの取材などを重ね、Sの最高裁上告中に出版したノンフィクション。Sは実名で登場するがその他の人物は全て仮名である。
  • 『19歳 一家四人惨殺犯の告白』永瀬隼介・著(角川文庫)2004年8月25日出版 ISBN 978-4043759019
    • Sの死刑が確定した3年後の2004年、『19歳の結末』を新たに第9章「死刑」(2000年の『19歳の結末』刊行から2001年の最高裁判決まで)を描き下ろしとして加えた上で文庫化した書籍。前者同様、Sは実名で登場するがその他の人物は全て仮名である。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 少年法第61条「第4章雑則:記事等の掲載の禁止」が法的根拠である。もっとも、A子は全くの被害者であるに留まらず、Sによる複数回の強姦被害者でもあるため、いずれにせよマスメディアはそれに配慮してA子を匿名にせねばならなかった。
  2. ^ 2012年現在。映画『死刑弁護人』(数々の死刑求刑事件の弁護を担当し本事件でも弁護人を務めた弁護士・安田好弘を扱ったドキュメンタリー映画、2012年公開)作品解説ページより。
  3. ^ 永山則夫連続射殺事件や大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件、光市母子殺害事件といった死刑が確定した少年事件でさえ下級審は無期懲役判決だった。永山事件以降(および平成)に発生した少年犯罪では、第一審から上告審まで一貫して死刑判決が支持されたのは2016年(平成28年)に石巻3人殺傷事件の最高裁判決(一・二審の死刑判決を支持)が出るまでの間、長らく本事件のみであった。

出典[編集]

最高裁判決文
  1. ^ a b c d e f g h 最高裁第二小法廷判決 2001年(平成13年)12月3日、事件番号:平成8(あ)864
書籍出典
  1. ^ a b c 永瀬、2004 p.73-74
  2. ^ a b c d 永瀬、2004 p.70
  3. ^ 永瀬、2004 p.58
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 永瀬、2004 p.72-73
  5. ^ a b 永瀬、2004 p.71-72
  6. ^ 永瀬、2004 p.109
  7. ^ 永瀬、2004 p.241
  8. ^ a b c d e f g h 永瀬、2004 p.72-73
  9. ^ 永瀬、2004 p.13
  10. ^ a b c 永瀬、2004 p.14
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 永瀬、2004 p.74-78
  12. ^ a b c d e 永瀬、2004 p.84-86
  13. ^ a b c d 永瀬、2004 p.86-87
  14. ^ a b c d e f g h i j 永瀬、2004 p.87-89
  15. ^ 永瀬、2004 p.176
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 永瀬、2004 p.90-91
  17. ^ a b c d e 永瀬、2004 p.12-13
  18. ^ a b c d 永瀬、2004 p.217-221
  19. ^ a b c 永瀬、2004 p.107
  20. ^ a b c d e f g h i j 永瀬、2004 p.213-217
  21. ^ 永瀬、2004 p.146
  22. ^ a b c 永瀬、2004 p.217-221
  23. ^ a b c d 永瀬、2004 p.227-229
  24. ^ 永瀬、2004 p.105
  25. ^ 永瀬、2004 p.106
  26. ^ 永瀬、2004 p.97
  27. ^ 永瀬、2004 p.211-212
  28. ^ 永瀬、2004 p.230
  29. ^ a b c d 永瀬、2004 p.181-184
  30. ^ a b 永瀬、2004 p.186-188
『週刊新潮』1992年3月19日号p.145-149の出典
  1. ^ a b c d e f 『週刊新潮』(新潮社)1992年3月19日号p.145-149 特集「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」
報道出典
  1. ^ a b c 『日本経済新聞』1992年11月6日朝刊39面「公開の法廷へ 社長一家殺人の19歳少年 『強盗殺人』で起訴」
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 朝日新聞』1992年3月7日朝刊31面「19歳の少年を逮捕 カネ目当て、次々襲う 市川の家族4人殺人容疑」
    『朝日新聞』1992年3月7日朝刊千葉版「残忍な犯行『なぜ』 市川の一家4人殺人、強殺容疑で少年逮捕へ」
  3. ^ a b c d 『中日新聞』1992年3月10日夕刊ワイド面右8面「特報ワイド/千葉の一家4人殺害容疑者 19歳少年、犯行の背景 影落とす複雑家庭環境 人への思いやり育たず 一時は甲子園を目指す」
  4. ^ a b c d e f 『朝日新聞』1992年3月8日朝刊千葉版「残忍な手口(衝撃の刃 市川の一家4人殺人:上)千葉」
    『朝日新聞』1992年3月9日朝刊千葉版「甘えた生活(衝撃の刃 市川の一家4人殺人:下)千葉」
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m 『中日新聞』1994年8月8日夕刊1面「一家4人殺害事件 19歳少年(当時)に死刑判決 千葉地裁『犯行は残虐で冷酷』」
  6. ^ a b c d e f 『朝日新聞』1992年3月10日朝刊第一社会面「生存の長女は少年と無関係と判明 千葉の4人殺害(ニュース三面鏡)」
  7. ^ a b c d e 『中日新聞』1992年3月15日朝刊30面「長女が最大の被害者 千葉の一家4人殺害 一時は“共犯”扱い」
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 『朝日新聞』1992年3月10日朝刊千葉版「重い課題(衝撃の刃・報道検証 市川の一家4人殺人)千葉」
  9. ^ a b c d e f g h i j k l 中日新聞』1992年3月7日朝刊31面「千葉の一家4人殺し 少年が自供、逮捕 家人帰宅待ち次々凶行『金が欲しかった』長女も刺し監禁」「低年齢・凶悪化 相次ぐ少年犯罪」
  10. ^ a b c 中日新聞』1992年3月6日夕刊19面「一家4人刺殺される 長女と男友達から聴取 千葉のマンション」
  11. ^ a b c d e f g h i j k 読売新聞』1992年3月6日夕刊19面「一家4人殺される 市川のマンション 部屋に高一の養女 男友達も、事情聴く」
    『読売新聞』1992年3月7日朝刊31面「19歳店員を逮捕 市川の一家4人殺し 犯行ほぼ自供 帰宅親子を次々 前日から強盗目的で侵入 一家とは面識なし」
  12. ^ a b c d e f g h 日本経済新聞』1992年3月6日夕刊19面「一家4人殺される? 千葉・市川のマンション」
    『日本経済新聞』1992年3月7日朝刊31面「金欲しさ、帰宅待ち凶行 市川の一家4人殺害 19歳少年を逮捕 祖母絞殺後、次々と 長女も監禁 金工面の電話させる」「残忍な犯行 大きな衝撃」「少年犯罪、凶悪化の一途」
    『日本経済新聞』1992年3月7日夕刊11面「市川の一家4人殺害 少年を本格追及 千葉県警」「『園児には話せない』二女の保育園」
  13. ^ a b 『朝日新聞』1992年11月6日朝刊第二社会面「強盗殺人罪などで少年を起訴 市川の一家4人殺害事件」
    『朝日新聞』1992年11月6日朝刊千葉版「市川の一家4人殺人で少年起訴 刑事処分妥当と判断」
  14. ^ a b c 『朝日新聞』1993年2月18日朝刊千葉版「傷害・恐喝などの被告を追起訴 市川の四人殺害事件/千葉」
  15. ^ a b c d e f 『中日新聞』1994年4月5日朝刊26面「『少年』に死刑求刑 千葉地裁 一家4人強殺で検察側」
  16. ^ a b c d e f g 『朝日新聞』1992年3月11日朝刊千葉版「長女を使い、通帳も手に 市川の家族4人殺し」
  17. ^ a b c 『日本経済新聞』1992年3月11日朝刊39面「長女使い通帳奪う 千葉の一家殺害の少年」
  18. ^ 『日本経済新聞』1992年3月11日朝刊39面「長女使い通帳奪う 千葉の一家殺害の少年」
  19. ^ a b 『読売新聞』1992年3月11日朝刊31面「凶行後、養女5時間連れ回す 一家4人殺害“異常な17時間” 『200万円に足りない』と会社から通帳持ち出さす」
  20. ^ a b 『読売新聞』1992年3月8日朝刊31面「一家4人殺害 『200万円欲しかった』 容疑者の少年供述『ヤクザに脅されて』」
  21. ^ a b c d e 『東京新聞』2001年12月4日朝刊27面「早く消えたい…自暴自棄にも 今は生き抜き罪あがないたい 僕の経験が反面教師になれば 『死刑確定』の当時19歳、心境赤裸々に 市川4人殺害 本誌に告白手記 今なおいえぬ遺族の心の傷」
  22. ^ a b 『朝日新聞』1992年3月6日夕刊19面「一家4人刺殺される 長女・友人から聴取 市川」
  23. ^ a b c d e f g 『朝日新聞』1992年3月19日朝刊第三社会面29面「原則実名から広がる匿名 2つの殺人事件報道―新聞編(メディア)」(※本事件と、前月に発生した飯塚事件における犯罪被害者の実名報道のあり方についての記事)
  24. ^ a b c 『朝日新聞』1992年3月18日朝刊29面「『匿名』『実名』分かれる判断 2つの殺人事件報道―テレビ編(メディア)」(※本事件と、前月に発生した飯塚事件における犯罪被害者の実名報道のあり方についての記事)
  25. ^ 『日本経済新聞』1992年3月26日朝刊39面「19歳少年精神鑑定へ 千葉の一家4人殺し」
  26. ^ 『中日新聞』1992年10月2日朝刊27面「4人殺害の少年『刑事処分相当』 千葉地検が家裁送致」
  27. ^ 『朝日新聞』1992年10月3日朝刊千葉版「『刑事処分相当』と少年を家裁に送付 市川の家族4人殺害」
  28. ^ 『朝日新聞』1992年10月28日朝刊千葉版「少年を千葉地検に逆送致 家裁で4回審判 市川の一家4人殺人」
  29. ^ 『中日新聞』1992年11月6日朝刊31面「一家4人殺害の19歳少年を起訴 千葉、公開法廷へ」
  30. ^ a b c 『朝日新聞』2001年12月4日朝刊1面「上告棄却で犯行時19歳の死刑確定 千葉・市川の一家殺傷事件」
    『朝日新聞』2001年12月4日朝刊33面「『適用基準』改めて確認 市川の殺人、未成年の死刑確定<解説>」
  31. ^ 『朝日新聞』1992年12月10日朝刊千葉版「市川一家4人殺人(92千葉・あの時その瞬間:1)」
  32. ^ a b 『朝日新聞』1992年12月26日朝刊千葉版「少年、強盗殺人の一部否認 家族4人殺人事件の初公判 千葉」
  33. ^ a b 『朝日新聞』1993年3月4日朝刊千葉版「『目的は金』と検察冒頭陳述 市川の一家四人殺害公判/千葉」
  34. ^ a b 『朝日新聞』1993年5月20日朝刊千葉版「再度の精神鑑定決定 市川の4人殺人事件公判/千葉」
  35. ^ a b c 『朝日新聞』1993年11月23日朝刊千葉版「市川の4人殺人公判 弁護側から鑑定書提出/千葉」
  36. ^ a b c 『日本経済新聞』1994年4月5日朝刊35面「少年(当時)に死刑求刑 千葉・市川の一家4人殺害 検察『身勝手、残虐な犯行』」
  37. ^ a b c d 『朝日新聞』1994年4月5日朝刊千葉版「極刑に廷内重苦しく 市川の一家殺害で死刑求刑/千葉」
    『朝日新聞』1994年4月5日朝刊31面「検察、死刑を求刑 19歳少年の一家4人強盗殺人 千葉地裁」
  38. ^ 『朝日新聞』1994年6月2日朝刊千葉版「『罪を償いたい』最終弁論で市川の一家4人殺人の被告/千葉」
  39. ^ a b c d e f g h i 『読売新聞』1994年8月8日東京夕刊1面「犯行時19歳少年に死刑判決 市川の一家4人殺害 未成年、5年ぶり 千葉地裁」
    『読売新聞』1994年8月8日東京夕刊15面「一家4人殺害 死刑…重苦しい廷内 『尊い命、命で償いを』/千葉地裁」
    『読売新聞』1994年8月9日東京朝刊11面「事件時19歳少年に死刑判決 『少年法の精神』論議の時期(解説)」
  40. ^ a b c d e f 『朝日新聞』1994年8月8日夕刊1面「犯行時19歳の被告に死刑 一家4人殺人 千葉地裁、罪刑の均衡重視」
  41. ^ a b c d e f 『日本経済新聞』1994年8月8日夕刊1面「少年(当時)に死刑判決 市川の一家4人殺害 千葉地裁『冷酷非道な犯行』」
  42. ^ 『朝日新聞』1994年8月9日朝刊23面「死刑判決受けた被告が東京高裁に控訴 市川の一家4人強殺事件」
  43. ^ 『中日新聞』1994年8月9日朝刊22面「死刑判決の被告控訴」
  44. ^ a b c d e f g h 『日本経済新聞』1996年7月2日夕刊17面「当時19歳被告 二審も死刑 千葉・市川の一家4人殺害 東京高裁判決」
  45. ^ a b c d e 『朝日新聞』1996年7月2日夕刊1面「犯行時、19歳被告の死刑を支持 市川の一家殺人事件 東京高裁判決」
  46. ^ a b c d e f 『中日新聞』1996年7月2日夕刊15面「千葉の一家4人殺害 当時少年も死刑 東京高裁『犯した罪は重大』」
  47. ^ a b c d 『産経新聞』1996年7月2日東京夕刊社会面「市川の一家4人殺害 当時少年、二審も死刑 東京高裁判決『罪の重大性から相当』」
  48. ^ 『朝日新聞』2001年3月6日朝刊38面「市川の殺害、来月弁論 最高裁」
  49. ^ 『朝日新聞』2001年4月14日朝刊38面「最高裁で弁論 市川の一家殺害事件」
  50. ^ 『東京新聞』2001年4月14日朝刊24面「一家殺害上告審『幼児期の虐待影響』犯行時少年被告 弁護側、死刑回避訴える」
  51. ^ a b c 『中日新聞』2001年12月4日朝刊31面「犯行時少年の死刑確定へ 千葉の一家4人殺害 最高裁が上告棄却」
    『東京新聞』2001年12月4日朝刊1面「犯行時19歳の死刑確定へ 市川の一家4人殺害 最高裁が上告棄却」
  52. ^ a b c 『日本経済新聞』2001年12月4日朝刊39面「当時19歳被告死刑確定へ 千葉の一家4人殺害 最高裁が上告棄却」
  53. ^ 『朝日新聞』2001年12月22日朝刊30面「市川の一家殺害で死刑判決が確定 最高裁、申し立て棄却」
  54. ^ 『中日新聞』2001年12月22日夕刊10面「当時19歳の死刑確定」
  55. ^ 『中日新聞』2010年11月28日朝刊1面「中日春秋」
    『東京新聞』2010年11月28日朝刊1面「筆洗」
  56. ^ 『中日新聞』2011年3月11日朝刊30面「リンチ殺人死刑確定へ 実名『更生する可能性なく』匿名『少年法の精神基づく』 報道各社対応割れる」
  57. ^ 『朝日新聞』2004年6月21日朝刊30面「朝日新聞指針『事件の取材と報道2004』 4年ぶり全面改訂」
  58. ^ 『朝日新聞』2011年3月11日朝刊1面「元少年3人死刑確定へ 最高裁 4人殺害『責任重大』」
  59. ^ a b c d e 『朝日新聞』1992年3月27日朝刊29面「論議呼ぶ19歳容疑者の実名報道 少年法巡り異なる見方(メディア)」

関連項目[編集]

関連リンク[編集]