市川一家4人殺人事件

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市川一家4人殺人事件
場所 日本の旗 日本
千葉県市川市幸2丁目(行徳地区)
高層マンションの一室
座標
標的 以前強姦した女子高生(事件当時15歳)一家
日付 1992年(平成4年)
3月5日午後4時30分頃 – 翌3月6日午前9時頃
概要 犯行当時19歳の少年が強盗目的で押し入ったマンションの一室に住んでいた一家5人のうち4人を次々に絞殺・刺殺し、以前強姦して身分証明書を脅し取っていた残る1人を再び強姦した。
攻撃側人数 1人
武器 電気コード、柳刃包丁[最高裁判決文 1]
死亡者 4人
負傷者 1人
犯人 少年(犯行当時19歳)
動機 窃盗(後に強盗)
謝罪 なし
賠償 死刑(少年死刑囚未執行
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最高裁判所判例
事件名 市川の一家強盗殺人事件
事件番号 平成8年(あ)864
2001年(平成13年)12月3日
判例集 集刑 第280号713頁
裁判要旨
  • 本件上告を棄却する。
  • 動機に酌量の余地がなく、4名の生命を奪ったという結果が極めて重大である上、犯行の態様が冷酷、執ようかつ残虐で、家族を一挙に失い、自らも強盗強姦等の被害に遭った少女の被害感情は非常に厳しく、社会的影響も重大である。
  • その犯行態様、結果ともに悪質であることなどの情状に照らすと、被告人の罪責は誠に重大であり、本件各犯行当時、被告人が18歳から19歳であったことなどの事情を考慮しても、原判決が維持した第1審判決の死刑の科刑は、やむを得ないものとして当裁判所もこれを是認せざるを得ない。
第二小法廷
裁判長 亀山継夫
陪席裁判官 河合伸一福田博北川弘治梶谷玄
意見
多数意見 全員一致
意見 なし
参照法条
強盗殺人殺人強盗強姦恐喝窃盗傷害強姦強姦致傷
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市川一家4人殺人事件(いちかわいっか4にんさつじんじけん)は、1992年(平成4年)3月5日千葉県市川市2丁目(行徳地区)にあるマンションで発生した当時19歳の少年による強盗殺人事件(少年犯罪)である。

平成の少年犯罪では初の死刑確定事件(少年死刑囚)であり、10代の少年による底知れぬ残忍な犯行として日本社会を震撼させ、衝撃を与えた[書籍 1][報道 1]

事件の概要[編集]

事件前の動向[編集]

1992年2月6日[書籍 2]ウナギ料理店店員の少年S(1973年〈昭和48年〉1月30日[書籍 3][書籍 4][書籍 5] - 、犯行当時19歳。千葉県船橋市在住)は[報道 2]、市川市内のスナックバーに勤めるフィリピン人のホステスを連れ出し、店に無断で自宅アパートに泊め[書籍 4]、性的関係を持ち、このホステスをマンション自室に閉じ込め負傷させた[報道 3]。2月8日に店に帰ったホステスが店の関係者にこのことを泣きながら訴え[書籍 4]、激怒した店の関係者は暴力団に「落とし前」を依頼し、それ以降Sは暴力団に追われる身となった[書籍 4]。Sは後述のように暴力団組員から200万円を要求される一方で、一連の犯罪に使ったのは高級セダンの自家用車[報道 4]、時価400万円のトヨタ・クラウンロイヤルサルーンだった[書籍 6][書籍 7][新潮 1][新潮 2]写真週刊誌FOCUS』(新潮社)1992年3月20日号の特集記事では「自分の車を売ればそれなりの金は工面できるとは思わなかったのだろうか。彼の考えは盗み―動機は単純かつ不可解で、その結末が残忍極まりない一家4人惨殺に繋がってしまった」と記された[新潮 2]

2月11日午前4時、Sは高円寺に住むバンド仲間のアパートからクラウンに乗って帰る途中、東京都中野区内の路上で当時24歳のOLを襲撃して暴行し、自宅アパートに連れ込んで強姦した[書籍 8]。この時、Sは「強姦は性欲の解消以上に優越感と自信を与えてくれる」と思い、同時にそれまでの鬱屈した気分が嘘のようにスカッとし、「セックスと暴力は繋がっている」とも確信したという[書籍 8]。Sは暴力の持つ達成感・陶酔感について、面会人の永瀬隼介に対し「傷害にしろ、強姦にしろ、他人の血を見るということは興奮するものです。とくに、しだいに相手が弱ってきて自分に従うようになり、どうにでも好きなように動かせるとなった時に見るそれは、僕の中では勝利の象徴として溜飲を下げるのに大いに役立ちました」「一度強姦や強烈な傷害事件を成功させ、クリアしたことで、変な方向に自信を持ってしまい、もう一度やってみよう、出来るはずだ、出来るだろう、となっていったのです」と語っている[書籍 9][書籍 10]。また、逮捕後にこの強姦事件について取り調べを受け、その後監獄生活を送るようになっても、しばらくはまったく反省しないどころか「ああ、どうせ捕まるのなら学生の頃、昔から好きだった女の子にしておけばよかったよなぁ」「同じ罪になるならいっそのこと、かねてから憧れだった女性を狙っておけば本望なので納得もできただろう」などという自己中心的な意味の筋違いな後悔しかしておらず、被害者の心情に思いを馳せるようなことなどしていなかったという[書籍 11]。しかしその日の夜、ホステスの件でSの自宅アパートに暴力団組員7人が押し掛け、Sはクラウンに飛び乗って逃げた[書籍 12]

SがOLを強姦してから約22時間後の2月12日午前2時頃[書籍 12][報道 5]営団地下鉄(現・東京メトロ東西線行徳駅前で写真雑誌下請け会社の社長を務めていた当時42歳男性Aの長女で[報道 6][報道 2]、行徳駅から南東約2kmの東京湾に面した首都高速湾岸線千鳥町出入口付近に位置する市川市幸2丁目の新興住宅街に建つ9階建ての高層マンションに住んでいた[書籍 7]、当時15歳で県立高校1年生の少女B子は[注釈 1][書籍 14][報道 10][報道 6][報道 2][報道 11][報道 12]、夜遅くまで勉強していた中でシャープペンシルの替え芯が切れたため、替え芯を買いに自転車で自宅マンション付近のコンビニエンスストアに行き、買い物を終えて帰宅しようとしていた[書籍 12]。帰宅途中でマンション前の狭い路地で背後から走ってきたSの運転するクラウンに追突され、路上に投げ出されて右膝に擦り傷を負った[書籍 12]

SはB子に優しく声を掛けて「病院に連れて行く」と車に乗せ、浦安市内の救急病院で治療を受けさせた[書籍 12][書籍 15]。B子は初めは警戒していたが、治療をさせてもらった後、自宅まで送り届けてもらうことを約束されて安心した[書籍 15]。しかし帰り道でSは「このまま帰すのはもったいない、強姦してやろう」という劣情を持ち、突然人気のない路肩に車を停めた[書籍 15]。Sは車内で本性を現してB子に折り畳み式ナイフを突き付け、手の指の間に刃をこじ入れた[書籍 12]。SはB子の指の間にこじ入れたナイフをぐりぐりとこね回し、抵抗したB子の頬を切り付けて「黙って俺の言うことを聞け」と脅した[書籍 15][書籍 12]。B子は突如牙を剥いたSに震えおののき、そのままSのアパートまで拉致されて2度強姦された[書籍 12]。Sはその後B子の手足を縛って抵抗できなくしてから、B子の所持品を改めて現金を奪い、B子が通っていた高校の生徒手帳から住所、氏名を控えていったん外に出た[書籍 15][書籍 12]。その後Sが部屋に戻るとB子が自力で逃げ出していたが、Sはそれを特に気に留めなかった[書籍 15]。B子にはこのようにまったくの偶然が招いたあまりにも悲惨な形でのSとの接点があり[書籍 16]、直後にB子から千葉県警葛南警察署(事件当時の所轄警察署。現在、現場一帯は行徳警察署管轄)に被害届が出されたが、顔見知りの犯行ではなかったこともあり、当時Sは捜査線上に上がってこなかった[報道 4]

二晩続けて見ず知らずの女性を強姦し、自分の力に自信を持ったSだったが、ヤクザという暴力のプロには情けないほど無抵抗だった[書籍 12]。同日夜、大手暴力団組織傘下の暴力団組長から呼び出され、東京都港区赤坂の東京全日空ホテル(現・ANAインターコンチネンタルホテル東京)で組長とその手下(ホステスと関係のある暴力団組員)から散々脅され「お前のやったことは誘拐だ。女(Sが連れ込んだホステス)がこのままフィリピンに帰ったら店の損害は200万円になる。どうしてくれるんだ」と、「けじめ」として現金200万円を要求された[書籍 2][報道 13][報道 3]。金のあてはなく、Sは暴力団の取り立てが怖くて自宅アパートにもありつけず、車の中で寝泊まりする日々が続いた[書籍 2]

この日から一家4人を惨殺するまでの20日間に、「このままだといずれ半殺しにされるか、運が悪ければ殺されてコンクリート詰めにされて東京湾に沈められるかもしれない」と恐れていたSは車絡みで2度の暴力・恐喝沙汰を起こした[書籍 17]。2月25日午前5時、市川市内の国道を走っていたSは後続車から車間距離を詰められて煽られ、憤慨してクラウンを急停車させ、後続車は接触寸前で急停車した[書籍 17]。Sはクラウンを降り、トランクから鉄筋を取り出して右手に握り、1,2回威嚇するように鉄筋を振り回した後、相手の車のドアを開けた[書籍 17]。相手の運転手がにらみつけ「マジでやる気か」と吠えたが、Sはお構いなしに車のキーを抜いて退路を絶ち、運転手の襟首を掴んで車外に引きずり出し、「てめえのおかげでブレーキパッドがすり減ったじゃねえか」と鉄筋で2,3度殴りつけた[書籍 17]。運転手は血まみれになりつつもSをにらみつけたが、Sは怒りに任せて鉄筋を叩きつけ気絶させた[書籍 17]。Sはヤクザを装って運転手を脅し運転免許証を取り上げた[書籍 17]。その2日後の2月27日午前零時半、Sは埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)内を走行していたところ、交差点の脇から突然車が突っ込んできてあわや衝突寸前となった[書籍 17]。大学生が運転していた相手の車は何事もなかったかのように立ち去ろうとし、憤慨したSはクラウンを猛スピードで走らせて車を追いかけた[書籍 17]。相手の車は煽られると観念したかのように停車し、Sはクラウンを降りて懐から折り畳み式ナイフを取り出し、相手の助手席に乗り込んだ[書籍 17]。「俺をヤクザもんと知っててやったのか?」とSは大学生の顔を殴り、ナイフを突きつけた[書籍 17]。「てめえが滅茶苦茶な運転しやがるからタイヤが擦り減った」と大学生を恫喝したが、大学生は「はあ」「ああ」などというだけで手応えがなく、激昂したSはナイフを大学生の太ももに突き立てた[書籍 17]。「親父のとこへ連れて行け」とSは助手席に乗り込んだまま、恐怖する大学生に車を運転させたが、10分程度経過したところで元の場所に戻ったため、今度はナイフで肩を刺した[書籍 17]。自宅に向かおうとしない大学生に業を煮やしたSは「お前の親はいったいどんな教育をしやがったんだ?甘やかす一方で育てたからお前みたいな出来損ないになるんだよ。俺が性根を叩き直してやる」と罵りつつ、ナイフの刃を大学生の背中に食い込ませたが、大学生は「あっちです」「いや、こっちかも」と生返事を繰り返し自宅に向かおうとしなかったため、Sは怒りに任せて大学生を切り付けた[書籍 17]。1時間後、大学生は全身に20か所以上の切り傷(全治6週間[報道 14])を負い、血まみれになりながらも命からがらSの隙を見て逃げ出した[書籍 17]。Sは車で大学生を追いかけようとしたが、轢き殺すとまずいと思って断念した[書籍 17]。Sは大学生から取り上げていた運転免許証と、大学生の父親名義の車検証を手に、大学生の車を運転して自車に戻った[書籍 17]。大学生からは後から金を巻き上げるつもりだった[書籍 17]。なおこれらの事件については後述のように、逮捕後の1993年2月18日に追起訴された[報道 14]

一家殺害・逮捕[編集]

しかし恐喝を繰り返しても200万円は得られず、金の工面に困ったSは「パチンコ店を襲おうか、強盗しようか」などと考えつつ、日増しに膨らむ恐怖と焦燥感を抱えていた[書籍 17]。そして事件当日の3月5日、Sは約1か月前に車で轢いて強姦した際に住所を控えておいたB子宅に強盗に押し入ることを思いついた[書籍 15]。暴力団から多額の金銭を要求されて追い詰められ、自宅アパートにも近づけず、所持金も底をつき車中泊を続けていたSだったが、この日は朝からパチンコとゲームセンターで時間を潰した[書籍 7]。午後遅くに中華そば屋でラーメン1杯を食べ、4時頃に「B子の自宅から有り金をごっそり奪うつもりで」市川市に向かった[書籍 7]。そして、「ついでに」B子を再び強姦すれば鬱屈した気持ちも晴れるだろうとも考えていた[書籍 7]

Sは事件現場の行徳一帯の近くに自らの母方の祖父母の家があり、幼少期によく祖父母宅に泊まりに来ては、マンションが建つ以前の空き地だった現場一帯で凧揚げや自転車を乗り回して遊んだ記憶があったため、その後の開発により典型的な東京のベッドタウンになってはいたが、現場一帯には土地勘があった[書籍 7][書籍 18]。付近にはさらに新しい高級マンションもあったが、Sはこのマンションで金を得ようと考え[書籍 18]、マンション近くのタバコ屋の前にクラウンを駐車し、公衆電話でB子の自宅に電話を入れた[書籍 7]。SはB子を強姦した事件以降、何度かマンション周辺をうろついており[新潮 2]、また以前からB子宅には何度か電話しており、午後は留守か、老女(殺害されたB子の父方の祖母C子)が一人でいることを確認していた[書籍 7]。電話に誰も出なかったためSは留守だと思い、クラウンを児童公園の横に回して駐車し、午後4時30分頃[報道 15]窃盗目的で[最高裁判決文 1]、目の前にあるB子の自宅マンション8階の一室(806号室)に入った[報道 9][書籍 7][報道 2][報道 6][報道 11][報道 12]

Sは防犯カメラが設置されているエントランスを避けてマンションの外階段で2階まで上がり、そこから806号室がある8階までエレベーターで上がった[書籍 7]。平日の夕方近くという時間だったが、この日の市川市内は雨が降っていたためか[書籍 7]、誰ともすれ違うことはなかったという[書籍 11]。Sは806号室の玄関でチャイムを鳴らしたが応答はなく、ドアノブを回すとドアが開いたため「誰かがいる」と焦ってすぐその場を離れ、エレベーター横の階段に座って20分ほど様子を見た[書籍 7]。その後、ドアの鍵はかかっていなかったが、家人の気配はなく、照明も点いていなかったため、Sは留守だと思い[書籍 7]、「仮に誰かがいたとしてもB子以外なら、彼女の知人のふりでもしておけばいい」と考えつつ[書籍 11]、再びドアを開けて忍び入った[書籍 7]。Sは後に永瀬への手紙の中で「どう考えても執拗に被害者一家にこだわり、自分の一生を捨ててまで、預金通帳ならまだしも、この普通のマンションからほんのわずかな現金を奪うという犯行を成し遂げる価値があったとは思えません」と送っており[書籍 19]、実際普通のマンションに200万円もの現金があるとは思っておらず、貴金属類か預金通帳を見つけたら、気付かれないうちに早めに現場から逃走するつもりだった[書籍 7]

居間で金品を物色し始めたところ、玄関脇の北側の洋間から音がした[書籍 15][書籍 7]。その部屋の扉を開けると、一人で留守番をしていた女性C子(Aの母で少女の父方の祖母。当時83歳)[報道 2][書籍 7]がテレビをつけたまま寝ていた[書籍 7]。Sは自分の靴をベランダに隠し、突き当たり奥の居間に行って室内を物色したが、目当ての現金や預金通帳、貴金属類は出てこなかった[書籍 15]。自分で探すのが面倒になり[書籍 15]、C子から預金通帳のありかを聞き出そうと考えて洋間に踏み込んだSは[書籍 15]、「年寄り一人ぐらいなら、まずどんなことがあったって、力で負けることなどないはず」という過信と短絡的思考から[書籍 11]、C子の足を蹴り上げて起こした[書籍 7]。目を覚ましたC子は見ず知らずの男がいるのに驚いた[書籍 15]。Sは強盗に転じ[最高裁判決文 1]、預金通帳や現金を出すようすごんだが[書籍 7][書籍 11]、C子はSにおびえることもなく「ここにあるだけならくれてやる」と[書籍 11]、毅然とした態度で、自分の財布の中にあった現金8万円を渡して帰るように諭し[書籍 20]、部屋から出ていこうとした[書籍 15]。しかしSは「バカにされた」と怒りに打ち震え、C子の襟首につかみかかって引き戻し[書籍 15]、通帳を出すよう要求したが、C子は頑なに応じなかった[書籍 20]。Sは緊張して尿意を覚えたため、C子に「通帳を探しておけ」と言い置いて一時トイレに行った後で戻ると[書籍 20]、隙を見てC子が居間で電話の受話器を取り上げて110番通報しようとしていた[書籍 20]。Sは「少し痛い目に遭わせて力関係を分からせてやろう」とC子を突き倒し、殴り掛かろうとしたが、C子はSに唾を吐きかけた[書籍 20][書籍 11][書籍 15]。Sは激昂し、C子を頭ごと激しく床に叩きつけたが、C子はなお果敢に抵抗してSに爪を立ててひっかいた[書籍 20][書籍 11]。逆上したSは近くにあった電気コードでC子の首を絞めて殺害し[書籍 15]、現金数十万円(起訴状および判決によれば、奪った現金は合計約34万円)[報道 15][報道 5]を奪った[書籍 20][報道 2][報道 6]。C子が絶命したことを確認すると、SはC子の遺体を引きずって北側の洋間に戻し[書籍 15]、他人と一緒に箸を使う鍋料理を口にできないほどの潔癖症だったSは老女の唾液を汚らしく思い、洗面所で頭、顔、首、手を何度も洗った[書籍 20][書籍 11]。当時のSには生まれて初めて人を殺めてしまったという実感は乏しく、唾液を吐きつけたC子に対する怒りや「こんな汚いところにいられるか」という嫌悪感の方が強かったという[書籍 11]。その後、Sはいったん外に出て自動販売機でたばこと、「長期戦を覚悟して」予備の缶ジュースを買い[書籍 11][書籍 15]、外で30分ほど過ごしてからまた部屋に戻った[書籍 20]。B子はこの時、学校帰りに父Aの会社に寄り、母親D子(Aの妻、当時36歳)と買い物をして家路に向かっていた[新潮 2]

部屋に戻って再び金品を物色していた途中、午後7時頃にB子・D子が買い物から帰宅した[書籍 21]。Sは台所にあった刃渡り20cm超の柳刃包丁を手に取って台所の戸棚の陰に身を潜め[書籍 15]、何も気付かずそのまま今に向かおうとした2人を待ち伏せて台所から飛び出し[書籍 15]、包丁を突き付けたが[最高裁判決文 1][書籍 20][書籍 11]、怯えることもなく「どうしてここにいるの」と厳しく問い詰めてきたD子の「頭の切れそうな」態度に半ば恐れを感じて「騒ぐと殺す」と怒鳴りつけた[書籍 21][書籍 11]。「女とはいえ2人を一度に相手にするのは無理だ。別々の方向に走って逃げられたらどちらか1人は確実に逃げる」「走って逃げ出し、大声でも上げられたら終わりだ」と考えたSは2人を脅してうつぶせにさせた上で所持品をすべて出させた[書籍 21][書籍 11][書籍 15]。母子2人を無抵抗にした上で、Sは(鑑定書より)「頭が働くずる賢そうな人というか、そういうタイプだったので、それだけ伊達に年取っていないですからそれだけ知恵が働くんじゃないかと思って」D子のみを背中から柳刃包丁で計5回突き刺した[報道 6][書籍 15][書籍 21][書籍 11]。致命傷を負わされてもなお、苦悶に顔を歪めつつ足で床を蹴り、自身のダウンジャケットにしがみつくD子を、Sは「あーあ、血が付いちまうだろう」と言いつつ脇腹を蹴って遠ざけた[書籍 20]。D子は間もなく失血死し、SはそのままB子を脅してD子の遺体を「帰って来る家人に見られてはまずい」と2人がかりで南側の奥にある洋間に運び入れ[書籍 15]、B子にタオルで床に残ったD子の大量の血と失禁の跡を拭わせた[書籍 15][書籍 21]

その後SはB子を監禁し、D子を殺害してから15分後に保育園児のE子(B子の妹でAの次女、当時4歳)[書籍 22][報道 2][報道 6]が保母に連れられて帰って来た[新潮 2]。この際、B子がドアを開けてE子を部屋に入れた[新潮 2]。SはB子に夕食の準備をさせ、3人で食事を摂った[書籍 22]。食後、SはE子を絞殺された祖母C子の部屋に追いやってテレビを観せた[書籍 22]。その後E子が寝付くと[書籍 15]、少女を前に欲望で全身が火照っていたSは「父親は午後11時過ぎに帰って来る」とB子から聞いていたことから[書籍 22]、午後9時20分頃にB子を包丁で脅して寝室に連れ込み、強姦しようと「服を脱げ」と脅すが[書籍 22]、目の前で母親を惨殺され恐怖に震えるB子は服を脱ごうとしなかったため、いらついたSはB子をベッドに突き倒し、強引に服を剥ぎ取り、自分も素早く全裸になって再び強姦した[書籍 22][書籍 15]。家族の死体が横たわる傍らでB子を強姦するという想像を絶する凄惨な場面について、当時のSは精神鑑定時にその心境を「自分としては、時間潰しというか、気分転換というか」と[書籍 15]、またその言葉の意味について「盗みに入ってすぐに出ていくつもりが、金品を物色している中で2人帰ってきて、まだ慌てている割には目的は達成されていない。何をやっているのかな、というような気持になった。その間にB子から家族構成や、父親が何時頃帰って来るということも聞いていたので『じゃあ(父親の帰宅を)待とう』ということもあった」と語っていた[書籍 11]

しかし、強姦の最中の午後9時40分頃に予想より早くAが帰宅した[書籍 22]。Sは慌てて服を着てD子を刺殺した柳刃包丁を手に取り、台所の食器棚の陰に隠れた[書籍 22]。Aがベッドで横になっている娘を見て「寝てたのか」と声を掛けたところ、SがAの左肩を背後から柳刃包丁で刺した[書籍 15][書籍 22]。この時のSの心境は「一度刺しておけば力関係もはっきりするだろう。歩いている道の上に石が転がっていて邪魔だから蹴飛ばすようなもの」程度の感覚であり[書籍 22]、また永瀬への手紙の中では「『人間の体なんて思ったよりすうっと力が入っていくものだな』と考えたりしたものです。もっと骨とか筋肉とか、刃応えを感じることがあって、手に力が必要なのだろうと思っていたら、全然そんなことはなくて、あれならウナギを捌く時の方がよっぽど力がいるんじゃないかと思うほど、ケーキに包丁を入れるような感じしか手に残りませんでした」と綴っていた[書籍 11]。SはAに暴力団組員の名刺を突き付け[書籍 15]、組員を装って「お前が取材して書いた記事で組が迷惑している」と、床に座り込んで立てなくなったAに金目の物200万円を出すよう要求した[書籍 22]。まだ妻D子と母C子が殺されたことを知らず、家族を守ろうと必死だったAはSに母親の通帳のありかを教えてしまい[書籍 22]、娘に指示して家にある現金16万円と預金通帳2冊を集めさせた[書籍 15]。Sは額面257万6055円の郵便貯金総合通帳と、103万1737円の銀行総合口座通帳を手に入れたがまだ満足せず[報道 16]、Aの職場の事務所にも通帳と印鑑があると聞き出し、B子に電話を入れさせ、職場に残っていた社員にこれから通帳を取りに行くと伝えさせ、従わないと父親まで殺されると恐怖したB子を連れ[書籍 15]、翌3月6日午前零時半に外に出た[報道 16][書籍 22][報道 2]。Sはエレベーターでいったん1階まで下りたが、B子を1階に残して即座に引き返し[書籍 15]、刺されてから約3時間悶絶しつつ、台所のテーブルにつかまって立ち上がっていたAを刺殺した[書籍 22][書籍 15][報道 5]

3月6日午前1時頃[報道 16]、Sは事務所付近にクラウンを駐車すると、B子に「人がいるんじゃヤバい。俺はここで待っているから、お前が行って来い」と命じて行徳駅前の事務所に向かわせた[書籍 23][新潮 2]。B子が駅前のマンション2階にある事務所に行っている間[新潮 2]、空腹を覚えたSは近くのコンビニエンスストアで菓子パンを買って食べた[書籍 23][新潮 2]。当時残業中で、後に警察に通報した男性社員に[書籍 23]、まだ父親が殺されたことを知らないB子は「ヤクザがお父さんの記事が悪いとお金を取りに来ている」と告げたが[報道 16][書籍 23][書籍 15][報道 17]、助けは特に求めず[報道 16]、両親名義の預金通帳[書籍 23](関連書籍によれば額面合計63万5620円[書籍 23]、起訴状および判決によれば計9冊、額面約424万円)[報道 15][報道 5]印鑑7個を受け取った[報道 16][書籍 23][書籍 15]。B子が来た約20分後にはSも現れ、B子に「おい、行くぞ」と声を掛け[新潮 2]、2人で印鑑と通帳を持って行ったという[報道 17]。不審に思った社員は派出所に連絡し、直後の午前1時半頃に葛南署員とともにA宅に出向いてドアをたたいたり、電話をかけたりしたが[新潮 2]、その時は電気が消えており応答もなかった(この時点でB子の両親・祖母C子は殺害されていたが寝かしつけられていたE子はまだ生存していた)ため、署員は不在と思って引き揚げた[報道 16]。その間SはB子をクラウンに乗せて市川市内の東京湾沿いのラブホテルに連れ込み、30分ほどかけて通帳の額面を調べ、印鑑と通帳の印影を確認した[書籍 23]。Sはここでも再びB子を強姦し、大胆不敵にも4時間近く熟睡した後、再びB子を強姦した[書籍 15][書籍 23]

翌6日午前6時頃、SがB子とともに既に一家3人が死亡していたマンションに戻ってきた[書籍 15]。Sがしばらく部屋でくつろいでいたところ[書籍 15]、一旦は寝かせたB子の妹E子[報道 2][報道 6]が目を覚まして泣き始めていた[書籍 23]。隣近所に聞こえてはまずいと考えたSは、祖母C子の部屋で布団の上に座り、背中を向けて泣いていたE子を背中から包丁で突き刺した[最高裁判決文 1][書籍 23][書籍 15]。包丁は体を貫通し、刃先は胸まで突き抜けた[書籍 23][書籍 15]。「痛い、痛い」と弱々しく声を出し、苦しみもがく妹を前にしてSは「妹を楽にさせてやれよ。首を絞めるとか方法があるだろう」と平然と言い放ったが、B子は全身が凍ったように動けず、Sは激痛で泣き叫ぶE子の首を絞め上げ殺した[書籍 23][書籍 15]。家族を皆殺しにされ、5度にわたって凌辱されるという想像を絶する恐怖と絶望で心身ともに打ちのめされていたB子だったが、妹E子が殺された直後「どうして妹まで刺したの!」とSに食って掛かった[書籍 15]。しかしSは突然のB子の反抗に逆上し、包丁を振りかざして左上腕と背中を切り付け全治2週間の怪我を負わせた[書籍 23][書籍 15][報道 15][報道 5]。あろうことか、SはE子を刺殺する前後に一家4人が惨殺された凄惨な現場から友人に電話を入れ、取り留めもない話に興じていた[書籍 11]

8時過ぎ、再びB子から自宅の電話に金の工面を求める電話を受けたAの会社に勤める社員(関連書籍によれば、B子が深夜に訪問してきたことを不審に思った事務所の男性社員)[書籍 23]が「社長宅の様子がおかしい」と不審に思い、同日午前9時過ぎにマンションに電話を入れた[報道 18][書籍 23]。しかしB子は「おはよう」と言ったきり黙ってしまい[新潮 2]、社員が「脅している奴が部屋にいるのか」と聞くと尋ね、B子はうなずいたが[新潮 2]、すぐに電話は切れてしまった。B子の対応が不自然で、部屋を訪ねてもドアの鍵がかかっており、呼んでも返事がないことから社員は不審に思い、近隣の葛南署行徳駅前交番に通報した[報道 11][報道 12][書籍 23][報道 10][報道 6][書籍 15]。部屋の玄関の鍵がかかっており、呼んでも返事がないため、社員とともに駆け付けた同派出所の警察官が隣の部屋からベランダを伝って窓から侵入したところ[書籍 23]、Aは居間、D子は6畳の和室、E子はD子が死んでいた和室の隣の6畳の洋室、C子はE子とは別の7畳の洋室と、4人がそれぞれ別の部屋で死亡しており[報道 11]、室内の壁などに血が飛び散り[報道 12]、部屋の中でSとB子が呆然と立ち尽くしていた[報道 2][報道 10][報道 11]。警察官が現場に駆けつけるまでの十数時間、B子を監禁していた[報道 4]Sは「俺に殺されたいか、それとも一緒についてくるか」とB子に脅し迫ったが[書籍 23]、ドアの外で息を殺して動き回る複数の人間の気配を感じ、Sは放心状態のB子に3人を刺殺した包丁を握らせ、それでも動かないB子にイラついて怒鳴りつけたところ、ドアが開いて怒号とともに警官たちが突入した[書籍 24][書籍 15]

B子は警察によって14時間ぶりに保護され[書籍 24][書籍 23]、警察官は現場から逃走しようとしたSを追跡して取り押さえ葛南署に連行した[報道 6]。関連書籍によればSはなだれ込んだ警官隊に取り押さえられており[書籍 24]、また『読売新聞』の報道によれば、Sは署員らが部屋に入った時に玄関から逃走を図るも、追跡した署員との格闘の末に取り押さえられ、その際「おれはやっていない」と叫んだが[報道 11]、ナイフを所持していたため銃刀法違反容疑で現行犯逮捕された[報道 19]。千葉県警がSを参考人として事情聴取したところ、深夜になってSが「金が欲しくてやった」と犯行を認めたため、一旦釈放の手続きを取った上で[報道 19]、3月7日午前零時半頃に強盗殺人容疑で逮捕状を請求してSを逮捕した[報道 2][報道 11]。Sは身長178cm、体重80kgと大柄で、警察により身柄を拘束された際にはB子に包丁を持たせ、自分を脅しているように見せかけてて罪を逃れようとしており[書籍 24]、また逮捕前の取り調べでは「先月B子と知り合い、A宅の住所と電話番号を聞き出した」「B子とは一緒にコンサートに行った」などと虚偽の供述をしており、これを千葉県警および県警発表を通じて知ったマスメディア関係者も鵜呑みにしたことが後述の#報道被害につながった一方、被害者のB子はショックのため調べに対して何も話すことができず、それがSの供述に捜査本部が引きずられる結果となったが[報道 7][報道 6]、捜査本部は真偽を丹念に調べ、虚言と突き止めた[報道 2][報道 4]

千葉県警の取り調べに対し、Sは犯行を認めた上で、犯行の具体的な動機について「付き合っている女性のことで暴力団組員から脅され、200万円ぐらいの金が欲しかった。盗みに入り、見つかったので次々と殺し、B子を監禁していた」[報道 20][報道 6][新潮 2]「マンションの近くまで行ったことがある。あの家ならやりやすいと思った」と供述した[報道 21]。捜査本部は、Sが金に困った挙句、標的を絞り下見をした計画的な犯行ではないかと見て追及した[報道 21]。現場の806号室の真下の住民は「昨夜11時半頃、上の部屋でドスンと大きな音がした」と話した[報道 12]

逮捕後、現場検証で現場から血の付いた包丁が見つかった[報道 20]。捜査本部は包丁の柄などから採取した指紋を鑑定するなどの裏付け捜査を行い[報道 20]、翌3月8日午前[報道 22]、Sを千葉地方検察庁送検した[報道 22][報道 4]。また、同日までにSが住んでいたマンションを家宅捜索し、書類などを押収した[報道 22]

千葉県警が殺害された4人の遺体を司法解剖した結果、絞殺された祖母C子以外(刺殺されたA・D子・E子の3人)の遺体には背後から肺まで達する刺し傷があった[報道 7]。死因はAら3人は胸を刺されたことによる失血死、C子は首を絞められたことによる窒息死だった[報道 17]

3月12日に殺害された4人の葬儀が市川市内の寺院で営まれ[報道 23]、最後に喪主のB子に代わって親類代表は「学識者、マスコミが中心になってこんな惨劇が二度と起こらないように努めてほしい」と挨拶し、その言葉は後述の#報道被害をB子に与えたマスコミに厳しい課題を課した[報道 8]。当時葬儀を仕切った住職によれば、4人の遺骨はAの親族と、D子の親族にそれぞれ引き取られたという[報道 23]

後にSとの文通をするようになった『東京新聞』(中日新聞社)社会部記者の瀬口晴義も、この犯行の状況について「凶悪、凄惨という形容詞が陳腐に思えるほど残酷な場面の連続に、検察の冒頭陳述を呼んで吐き気を催したほどだ」と記した[報道 24]

報道被害[編集]

前述のように、Sは「自分はB子の知人である」などのような虚偽の供述をしたため、それを鵜呑みにした千葉県警捜査本部も6日夕方(午後5時)[報道 9]の記者会見までは「SはB子の男友達で、ともに参考人として事情聴取している」「警官が現場に駆けつけた時、SとB子は室内で呆然と立っていた」と説明し、Sが金を奪うため連れ出したAの会社では、留守番をしていた知人もSがB子の名前を呼ぶ声から「2人は友人」と思い込み、その時点では疑いを持たなかったという[報道 8]。その結果、『朝日新聞』など各報道機関でも6日夕方まで「長女・友人から聴取」「長女・男友達から事情聴く」など、まるでB子が加害者であると疑われるような報道がなされた[報道 8][報道 7][報道 9]。県警が報道陣に「Sの単独犯行であり、B子は全くの被害者」という事実を発表したのは6日午後9時半だった[報道 9][報道 7][報道 6]

『朝日新聞』1992年3月10日付朝刊千葉県版に掲載された報道内容検証記事によれば、千葉県警本支部の記者クラブに「午前9時頃、市川市内のマンション一室で、家族4人が死亡しているのが発見された」との第一報が伝えられたのは事件発生翌日の3月6日午前10時半だった[報道 9]朝日新聞社は無理心中と殺人事件の両方の可能性を考えた上で、京葉支局と千葉支局から記者3人を現場に向かわせ、支局に残った記者も電話取材を開始した[報道 9]。その結果、「葛南署に通報したのは死亡したAの知人である」「家族のうち長女は生存している」という2つの事実を確認した[報道 9]。千葉県警は被害者一家の名前を発表、朝日新聞社では千葉県南部・北東部に配達される夕刊早版用の記事を制作した[報道 9]。正午過ぎになって県警クラブの記者から千葉支局に「現場には生き残った長女(B子)のほか、長女の『友人』の若い男(S)がいた。千葉県警は2人から参考人として事情聴取しているようだ」との連絡と、長女(B子)はAの養女であることが伝えられた[報道 9]。長女(B子)が事件の加害者であった場合、未成年者の人権に配慮して一家の名前も匿名にせざるを得ないため[報道 9][注釈 2]、千葉支局デスクは朝日新聞社本社社会部と連絡を取り、その可能性がある以上、千葉市・東葛地域・東京都内に配達される夕刊からは一家の名前を匿名にすることを決めた[報道 9]。千葉県内版の見出しは(いずれも『朝日新聞』1992年3月6日付朝刊)「一家4人殺される 市川」、東京都内版では「一家4人刺殺される 長女・友人から聴取」となった[報道 9][報道 25]。なお、第一報で「B子の男友達」と報じられたSは前述のようにこの時点で既に銃刀法違反容疑で現行犯逮捕されていたが、その事実を3月6日付夕刊及び翌3月7日付朝刊で報じた全国紙はなく、『読売新聞』が事件解決後の3月11日朝刊で報じたのみであった[報道 19]

午後から『朝日新聞』記者は現場取材を始めたが、「長女(B子)も事件に関与か」という予断を持ったまま、現場マンションの上下階の7階・9階(事件現場の8階は当時、立ち入り禁止となっていた)の各住民に対し聞き取り取材を開始した[報道 9]。7階の住民は「前の晩、どしんどしんと音がした」と話し、記者が「前にもありませんでしたか」と聞くと、「何か月も前から音がしていた」と答えた[報道 9]。その後8階住民の主婦に記者が取材したところ、「夫婦仲は良かった」「長女(B子)は普通の女の子」という、予断とは異なる内容の回答が返ってきた[報道 9]。それでも、『朝日新聞』以外の他社記者らも加わり「長女(B子)の男女関係はどうか、素行はどうだったのか」という、予断に基づいた質問に終始した[報道 9]。「少年は長女(B子)の友人」という千葉県警発表に基づく情報にこだわった記者は予断を捨てきれず、「現場にいた長女(B子)と自称19歳の男友達(S)から参考人として事情聴取している」「警官が現場に駆けつけた時、SとB子は室内で呆然と立っていた」「これは極めて特異な事件」という午後5時の千葉県警による記者会見での説明も現場の記者の予断に追い打ちをかけた上、記者のみならず千葉支局デスクも、本事件と同じ3月5日に高知市内で発生した、当時高校1年生の少女が中学1年生の妹を刺殺した事件(こちらは事件当日に発覚している)[報道 26]などを連想し、その結果予断に基づいた読者に誤解を与えかねない記事ができるきっかけとなった[報道 9]。予断に囚われたまま、千葉県南部・北東部に翌日(3月7日)配達される朝刊早版の締め切りが迫る中、午後9時半になって捜査本部が「事件はSの単独犯」と発表した[報道 9]。この結果、社会面では「19歳の少年逮捕へ」との見出しになったが、千葉県版では(いずれも『朝日新聞』1992年3月7日付朝刊)「数カ月間深夜に物音」「詳しい事情聴取 長女と男友達から」という見出しになり[報道 25]、また『朝日新聞』の一部では前述の少年(S)の虚偽の供述を鵜呑みにした結果、SがB子の知り合いだったかのような記述も入り、結果的にB子が加害者であるかのような誤解を読者に与えかねない内容になり、紙面も整合性を欠いた[報道 9]。翌3月7日付朝刊の社会面・千葉県版双方で「事件はSの単独犯」という事実を報じることができたのは千葉市以西の新聞からであった[報道 9]。千葉県内でも千葉支局と京葉支局で締め切りの時間差があるとはいえ、読者に誤解を与えかねない内容となってしまった[報道 9]

そもそも、予断を持っていたのはマスメディア側だけでなく、千葉県警側もそうであった[報道 9]。前述のように取り調べの当初、Sが「B子とは昔からの友人」と供述したのに対し、B子はショックのためか何も話さなかったため、千葉県警はSの虚偽の供述を鵜呑みにし、2人を友人と判断し、そのまま記者会見でマスメディアに発表した[報道 9]。ある捜査幹部は『朝日新聞』取材に対し、「2人が無関係と分かってからは逮捕前に発表を行うなど、報道陣に誤解を与えないように努めたが、県警にも予断があったことは認めざるを得ない」と述べた[報道 9]

B子に対する報道被害はこれだけでは終わらなかった。事件発覚翌日(Sが逮捕された日)の3月7日朝刊で、『日本経済新聞』と『中日新聞』が(被害者遺族であり、自らもSによる複数回の強姦被害者である)B子を含め一家5人全員を実名報道してしまった[報道 26][報道 12][報道 6]。そのため、B子は自らが加害者であると疑われたばかりか、『日本経済新聞』と『中日新聞』によるセカンドレイプの被害者にもなってしまった(ただし、出典元である各新聞記事には「B子がSにより強姦された」という記述はなく、その事実は#関連リンクの最高裁判決文および#関連書籍に基づくものである)。一方で『読売新聞』、『朝日新聞』、『毎日新聞』、『東京新聞』(『中日新聞』と同じ中日新聞社発行)は殺害された4人を実名、B子については匿名で報道し、『産経新聞』は「両親の名前を書けば、結果として生き残った長女(B子)が誰かも特定されてしまう」として一家5人全員を匿名で報道した[報道 26]。B子を実名報道した『日本経済新聞』は、「第一報では警察が長女(B子)に疑いを持っている状況だったので匿名にしたが、7日の朝刊段階では長女(B子)が完全な被害者であることが判明し、そのことをはっきり示すためにも実名報道の方がいいと判断した。しかし陰惨で気の毒な事件であり、被害者は一刻も事件を忘れたいことだろう。今後の報道の仕方は考えたい」とした[報道 26]。また、事件3日後の3月9日朝にTBSテレビで放送されたワイドショー番組「モーニングEYE」ではB子の同級生へのインタビューの中でリポーターがB子の実名を口にした[報道 27]。質問に答える同級生もB子の実名を何度か言い、それがそのまま放送された[報道 27]。同番組プロデューサーの島崎忠雄は「当然匿名でいくべきケースだったが、VTRの編集で消し忘れた。突発事件の場合には、VTRの仕上がりが放送直前になるから、そういう単純なミスが起きることもある」(同番組ではその後もこの事件について繰り返し取り上げられたが、この「ミス」についての言及はなく)「社内では反省する話し合いの場をもった。ケースによっては番組内でケアすることもあるが、(この時点では)まだ具体的な予定はない」と語ったのに対し、他局のあるプロデューサーは「この場面をハラハラしながら見た」といい、その上で「編集の時間が足りないことはままある。インタビューを撮る前に『こちらはB子ちゃんと呼びますので、実名を言わないようにしてください』と念を押すなどの工夫が必要だ」と釘を刺した[報道 27]

またスポーツ新聞の中には、事件の主旨とは特に関係ないにも関わらず、長女(B子)が養女である点に注目したり、裏付けを取らないまま被害者一家の生活ぶりを報じたものもあった[報道 9]

「B子が最大の被害者だった」(捜査を担当した当時の千葉県警刑事部長の言葉)ことが判明した6日夜、B子が通う県立高校の担任(事件直後には「学校に出てきても慰めの言葉もない」と話していた[報道 12])は「昼間、警察の発表があったにせよ、マスコミの取材はB子を犯人扱いしていた」と憤った[報道 8]。また、『朝日新聞』1992年3月10日付朝刊千葉県版に掲載された報道内容検証記事でも、「殺された家族の痛ましさは筆舌に尽くしがたいが、事件を通じて、最大の被害者は1人残された長女(B子)だったかもしれない」と締めくくっている[報道 9]

刑事裁判[編集]

送検後の3月25日、千葉地検は「Sの精神状態に異常があるとは考えていないが、慎重を期した」として精神鑑定のため90日間のSの鑑定留置を千葉地方裁判所に申請し、認められた[報道 28][報道 29]。その後、9月まで千葉地検により第1回目の精神鑑定が行われた[報道 30]

千葉地検は10月1日に強盗殺人、傷害など5つの容疑でSを「刑事処分相当」との意見付きで千葉家庭裁判所に送致した[報道 31][報道 32]

4回にわたる少年審判を経て、千葉家裁は10月28日に「事件は社会を震撼させ、世間に多大な影響を与えた」「Sは成人に近い年長者である」などの理由で「刑事罰を加えることにより規範意識を覚醒させることが必要」として千葉地検に逆送致した[報道 33]

11月5日、千葉地検は逮捕直後から半年間にわたる専門家によるSの精神鑑定の結果「カッとなると歯止めが効かなくなるが、完全な責任能力があった」と結論を出し、Sを強盗殺人など4つの罪で千葉地裁に起訴した[書籍 15][報道 13][報道 34][報道 1][報道 35]。同日に千葉地検はこれに加え、Sが1991年10月に東京都江戸川区内で起こした別の傷害事件についてもSを起訴した[報道 1]

1993年(平成5年)2月18日に千葉地検は一家殺害事件前の1992年2月25日、Sが市川市内で通りすがりの会社員に因縁をつけて鉄の棒で頭を殴り、自動車運転免許証を奪い金を要求した、同27日には埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)内で通りすがりの大学生の顔を殴り、ナイフで全身数十箇所を刺すなどして全治6週間の怪我を負わせ、免許証などを奪った(いずれも前述)などの容疑で、Sを傷害や恐喝など5つの罪で追起訴した[報道 14]

過去にSが傷害、強姦、強姦致傷、恐喝、窃盗などの事件を繰り返していた点[報道 3][最高裁判決文 1]逮捕されてから裁判中までSには事件を起こしたことに対して全く反省した態度が見られない点、B子の目の前でその肉親を殺害したという残虐性、警察が踏み込んだ際にB子に包丁を持たせ自分が被害者を演じた計画性などが裁判で重く見られた。[要出典]

第一審(千葉地裁)[編集]

刑事裁判でSは強盗殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗、傷害、強姦、強姦致傷の7つの罪に問われ[注釈 3]、1991年10月から一家殺害事件直後に逮捕されるまでの約5ヶ月間に計14の犯罪を繰り返したと認定された[報道 36]
初公判は同年12月25日に千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)で開かれ[報道 37]、Sは罪状認否でB子宅を知るきっかけとなった強姦事件などについては全面的に認めた一方、強盗殺人罪の成立を認めたのはB子の祖母C子に対してのみで、D子は「逃げ出されると思い刺した」と傷害致死、Aは「金は奪ったが殺すつもりはなかった」と強盗致死、E子は「朝起きて騒ぎ始めたので驚いて刺した」と単純殺人をそれぞれ主張し、C子・E子については「死ぬかもしれないと思ったが確定的な殺意はなかった」と未必の殺意を主張した[報道 38]。弁護側は公判後の記者会見で「千葉地検に逆送致される際に千葉家裁は我々の主張にほぼ沿う判断をした。検察側が殺意を確定的と主張すれば全面的に争う」と話し、Sについては「『被害者に何とかお詫びをしたい』といつも言っている」と話した[報道 38]
事件から1年を前にした1993年3月3日の千葉地裁(神作良二裁判長)での第2回公判では検察側が冒頭陳述で、「Sは暴力団員から要求されていた金以外にも遊興費など欲しさから一家4人を次々に殺害し、現金約34万円と残高約420万円の預金通帳を奪った」などと主張した[報道 39]。弁護側はこの時点では「検察側による精神鑑定の結果には疑問がある」としながらも再鑑定は求めず、Sの責任能力は争わない考えを示していた[報道 39]
しかし5月19日の第3回公判までに弁護側は「2月18日に追起訴された傷害や恐喝など別事件についてはいずれも常人の理解を超えている」として再度の精神鑑定を千葉地裁に要求し、神作裁判長もこれを認める決定をした[報道 40]。同日の被告人質問では、SはC子・E子両名に対する殺意を認める供述をした[報道 40]
5月から11月まで2度目の精神鑑定が行われたのを経て、11月22日に第4回公判が開かれ[報道 30]、検察側は被害者遺族の尋問調書などを、弁護側は第3回公判で要求した精神鑑定の結果などをそれぞれ提出した[報道 41]。この日の公判後の弁護側の記者会見によれば、Sは通常時・犯行当時ともに精神的には正常であり性格に偏りがあるにすぎないが、尿酸値が高いという体質的要素から自分の感情をコントロールする能力と、刺激に寄って我を忘れやすくなる性格が結びついているとした上で、これまでの司法判断で言えば刑事責任能力は取れるが、今回は体質的な要素や、その要素は年をとるにつれて改善されるものであることを考慮して犯行当時未成年であったSの情状酌量をすべきと主張した[報道 41]。次回の第5回公判(翌1994年1月31日)でSの母親が情状証人として出廷することも決定した[報道 41]
1994年(平成6年)4月4日、千葉地裁(神作良二裁判長)で第8回公判となる論告求刑公判が開かれ[報道 30]、検察側はSの責任能力を認めた上で、被害者4人全員への強盗殺人罪が成立するとして「Sは何の落ち度もない一家の平和を決定的に破壊した身勝手、残虐な犯行を犯した[報道 42]。本件は計画強盗事件の凄惨な結果であり、犯行は残忍、冷酷、卑劣の極みであって誠に悪質。少年に対する極刑の適用はとりわけ慎重になされるべきであることを考慮しても、情状酌量などにより罪一等を減ずる余地は一片も見出すことはできない[報道 15]。罪刑の均衡と犯罪予防の見地から、命をもって罪を償わせ、今後このような凶悪犯罪が起きないようにすることが司法に課せられた責務だ[報道 43]」と主張し、4人全員への確定的な殺意があったとしてSに対し死刑を求刑した[報道 15][報道 43][報道 42][報道 44]。検察官は論告求刑の中で「無抵抗の被害者を虫けらのごとく―」などと指弾し、B子の「私から大切なものをすべて奪ったSが憎くてたまらない。Sをこの手で殺してやりたい、この世に生きていてほしくない」「優しかった父母や祖母、自分に『お姉ちゃん』と甘えてかわいかったE子をなぜ殺した。家族を返せ」などという言葉も読み上げた[書籍 1][報道 43]。弁護人の奥田保弁護士は公判後に記者会見で「生育環境など同情すべき事情や矯正の可能性を評価せず、意外な求刑だ。少年法の精神にも、死刑廃止の動きにも逆行する」と述べ[報道 43]、『日本経済新聞』の紙面にも「最近の死刑廃止の動きに逆行する求刑だ。被害者や遺族には申し訳ないと思うが、当時少年のSには矯正の可能性があり、少年法の精神からして厳しすぎる」という奥田の談話が掲載された[報道 42]
6月1日の第10回公判で弁護側の最終弁論が行われ[報道 30]、弁護側は「事件は計画的なものでなく、Sは当時精神未発達の少年だった」「(実際には前述の通りB子はSによって監禁されていたにも拘らず)被害者はSの犯行の合間に警察に通報する機会があった」「少年時代Sは不幸な生育環境にあった」「Sは深く反省し矯正する可能性が高い」などとして情状酌量を求め、神作良二裁判長から「何か言いたいことはあるか」と問われたSは「大変な事件を起こして申し訳ない。私が命を奪った方々は戻ってこないけれど、私はこれから生きていく中で少しでも償うように過ごしていきたいと思っている」と述べ、結審した[報道 45]
同年8月8日の判決公判で千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)は永山則夫連続射殺事件の判例(永山基準)を引用した上で[報道 46][報道 47]「何の落ち度もない一家4人の命を奪った犯行は、意に沿わないものは人の命でも奪うという自己中心的、反社会的なもの。殺害ぶりも終始冷静、冷酷非道で、社会に与えた衝撃は計り知れない」[報道 48][報道 46]「犯行は残虐、冷酷で身勝手[報道 5]。国内外でも死刑廃止の声が根強いが、いくら人を殺しても本人の命は保証される結果になる死刑廃止には多くの国民が疑問を抱いている[報道 47]。犯行当時少年とはいえ、Sは犯行当時は民法上成年とみなされる19歳の年長少年であり、Sは肉体的にも十分成熟して社会経験も積んでおり、知能も中位で、酒やたばこを常用するなど生活習慣も成年と変わらない[報道 47][報道 5][報道 48][報道 46]。少年に対する極刑の適用は慎重に行われるべきだが、多数の命を奪った責任を命をもって償うしかない場合もある[報道 47]。深く反省していることや、事件当時精神的に未熟な少年だったこと、不遇な家庭環境など、Sに有利な情状を考慮しても、罪刑均衡と一般予防の見地から極刑をもって臨まざるを得ない」[報道 5][報道 47][報道 46]などとして、Sに求刑通り死刑判決を言い渡した[書籍 1][書籍 15][報道 5][報道 48][報道 47][報道 46]。犯行当時少年への死刑判決は、1990年の永山則夫連続射殺事件最高裁判決(差し戻し控訴審の死刑判決を支持し、永山則夫被告人の上告を棄却)以来であり、第一審では1989年の名古屋地裁名古屋アベック殺人事件判決(控訴審で破棄・無期懲役に減軽)以来であった[報道 46][報道 48][報道 5][報道 47]
判決ではE子に対する殺害行為のみ「既に強盗行為はこの時点までに終わっていた」として強盗殺人罪ではなく、Sの弁護人の主張を認め単純殺人罪と認定したが[報道 48][報道 5][報道 46]、判決は検察側の主張にほぼ沿った内容で、B子の両親については「公判での証言などからAへの殺意は明白。D子の死も予見が可能だったのに、何ら救命措置を行わず金品強奪を企てた」などとして、C子同様強盗殺人罪を認定した上で[報道 48][報道 5][報道 46]、弁護側が主張していた「殺意は未必の故意もしくは不確定」という主張を退け、4人全員に対しいずれも確定的な殺意があったと認定した[報道 46][報道 48][報道 5][報道 47]
判決の中では「国際的にみると、それぞれの国の歴史的・政治的・文化的その他の事情から、現在死刑制度を採用していない国が多く、我が国においても一部に根強い死刑反対論がある」として、死刑事件では初めて死刑制度を巡る国内外の議論について言及し、国内外の死刑廃止論の高まりを追認した一方で「死刑制度が存置している現法制下で、死刑は極めて抑制的に適用されており、生命は尊いものであるからこそ、自己の命で償わなければならないケースもある。少年犯罪についても異なることではない」と述べられた[報道 46]
「Sの胎児期に母親が流産予防薬として服用した黄体ホルモンの影響で、Sは『爆発的精神病質者』であり犯行当時は心神耗弱状態だった」という弁護側主張[書籍 1]に対しては「2度の精神鑑定から、心神耗弱だったと断言するのは困難。また『爆発的精神病質者』との鑑定があるが、責任能力に支障をきたすほどではなかった』として退け、責任能力は問題なくあったと結論付けた[報道 5]。そして「Sは深く反省し被害者の冥福を祈るなど、更生の余地がないとは言えないが、目の前で家族を次々に殺され、一人遺されたB子の被害感情は峻烈で被害は回復不可能だ」とした[報道 48]
Sと弁護側は判決を不服として閉廷後の同日午後、東京高等裁判所に即日控訴した[報道 49][報道 50][報道 51]

控訴審(東京高裁)[編集]

控訴審で弁護側は「未必の故意だったり、Sには殺意がないのに、原判決は確定的な故意があると認定している」として殺意の面で第一審判決には事実誤認があると主張した[報道 52][報道 53]。また、第一審における「爆発的精神病質者」という主張については更にアメリカ合衆国の心理学者の論文を添えて補強し、完全責任能力を否定した[書籍 1][報道 53]。世界的な死刑廃止運動や、18歳未満への死刑適用を禁じた少年法の趣旨を強調し「Sは犯行当時の精神年齢は18歳未満で、少年法の精神に照らせば死刑を適用することはできない[報道 54][報道 53]。『爆発的精神病質者』であるという精神鑑定結果や、深い反省の意を示していることなどから、死刑判決を破棄して無期懲役とするのが相当」と主張していた[報道 55][報道 52]
1996年(平成8年)7月2日の控訴審判決公判で東京高裁(神田忠治裁判長)は「犯行当時は少年であり、年齢を重ねれば教育によって改善の可能性はある」[報道 55][報道 56][報道 53]としつつも「動機、殺害方法、殺害された被害者数に照らして責任は誠に重大である。特に、幼くして命を奪われた幼女(E子)には深い哀れみを禁じ得ない」[書籍 15]「弁護側の主張する『黄体ホルモンの影響による心神耗弱』の根拠である学者の研究は、あくまで性格的な傾向を見るにとどまり、攻撃性の異常な増加を示してはいない」[報道 53]「被害者の傷の深さや、犯行後に救命措置を考えていないことなどから原審の殺意の認定は正当である」[報道 52]「(Sが犯行当時『爆発的精神病質者』であったとする主張に対しては)犯行当時Sは異常な心理状態にあったとは考えられず、自分より強い者には衝動を抑制し、弱い者には抑制しないなど自己の攻撃行動を区別している[報道 52][報道 53]。一家殺害の際もむしろ状況に応じた冷静な行動を取っており、行動制御能力に著しい減退はなかった[報道 54][報道 52][報道 55][報道 53]。Sは粗暴な犯行を重ねており、自己の衝動や攻撃性を抑制しようとしない危険な傾向が顕著である[報道 56]」「犯行当時19歳の少年だったこと、深い反省をしているなど、被告人の有利な事情を十分に考慮し、死刑が究極の刑罰であることを考えても、犯した罪の重大性を見ると犯行は卑劣で残虐であり、生命に対する畏敬の念を見い出せない。その罪の重大性から死刑に処すのはやむを得ない」[報道 54][報道 52][報道 55][報道 56][報道 53]として第一審の死刑判決を支持し、Sの控訴を棄却した[報道 54][報道 55][報道 52][報道 56][報道 53]
Sの弁護側は判決を不服として即日最高裁判所上告した[報道 54][報道 52][報道 55][報道 53]

上告審(最高裁)[編集]

事件から丸9年となる2001年(平成13年)3月5日までに、最高裁判所第2小法廷(亀山継夫裁判長)は上告審口頭弁論公判の日程を4月13日に指定した[報道 57][報道 58]
同年4月13日に最高裁第2小法廷(亀山継夫裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれ、弁護側は精神科医の鑑定結果から「幼児期に父親から受けた激しい虐待が心的外傷となり、人格の同一性が混乱する解離性障害となり犯行に繋がった」と新たな主張を展開し、「胎児期に流産予防のために投与された黄体ホルモンの影響など複合的要因が重なり、行動制御能力が著しく劣った心神耗弱状態であった」と強調した上で「死刑は残虐な刑を禁じた日本国憲法第36条に違反し、とりわけ少年への適用は許されない」「少年の成熟の度合いは個人差がある。Sは犯行当時19歳だったが、18歳を1年超えているからといって死刑を科すべきではない。矯正可能性がある少年への量刑は慎重かつ抑制的であるべきだ」として死刑判決の破棄と無期懲役への減軽・もしくは審理の差し戻しを求めた[報道 59][報道 60][報道 61][書籍 25]。一方、検察側は「量刑不当は単なる事実誤認でありとても上告理由とは認められない。自分より弱い者に向けられた冷酷で残虐な行為はとても許されるものではない。被害者に全く落ち度はなく、生き残った少女(B子)も被告人(S)の極刑を望んでいる。一・二審の死刑判決は正当であり、上告は棄却されるべきである」として上告棄却を求めた[報道 59][報道 60][報道 61][書籍 25]。犯行当時少年で、控訴審で死刑判決を言い渡された被告人に対する最高裁での審理は、永山則夫の第二次上告審以来だった[報道 61]。公判を傍聴した永瀬隼介曰く、弁護側の「脳科学の知識を踏まえた上で改めて審議すべきである。また、Sは4人の被害者に対して、どんなに謝っても取り返しのつかないことをしてしまったと悔いている」という主張はさして耳目をひくような事柄ではなく、全く説得力のない弁護の連続に法廷内は白けた空気が充満した[書籍 25]。唯一傍聴席が反応した場面は、女性弁護人が虐待の場面を述べた場面であった。彼女は熱っぽい口調で「父親からまるでマイク・タイソンのラッシュ攻撃のように殴られ、全身が痣によって赤紫色の世界地図のようになってしまった。これでは大好きなプールにも行けない、と泣いたこともあった」と語ったが、芝居っ気たっぷりに語られたタイソンと世界地図の比喩が妙におかしく、傍聴席からは失笑が沸いたという[書籍 25]
当初は同年夏までに判決が言い渡される見通しだと思われたが[報道 61]、最高裁第2小法廷(亀山継夫裁判長)は11月13日までに、判決公判の日程を12月3日に決定した[報道 62]
12月3日に最高裁第2小法廷(亀山継夫裁判長)は「Sは暴力団関係者から要求された金銭を工面するために強盗殺人を犯し、動機に酌量の余地はない。犯行は冷酷かつ残虐で、自らも被害者となった遺族(B子)の被害感情も非常に厳しい」「4人の生命を奪った刑事責任は極めて重大で、Sの犯行当時の年齢などを考慮しても死刑はやむを得ない。弁護側の主張は適切な上告理由に当たらない」として上告を棄却し[書籍 15][書籍 26]、Sの死刑が確定した[最高裁判決文 1][報道 63][報道 23][報道 64][報道 36][報道 30]
犯行当時少年だった被告人に言い渡された死刑判決が確定したのは、1990年に最高裁で死刑が確定した永山則夫連続射殺事件の永山則夫以来、最高裁が統計を取り始めた1966年以降では9人目で[報道 63][報道 23][報道 64][報道 36][報道 30]、平成の少年事件では初めてであった。事件当時19歳の少年だったSは28歳になっていた[報道 63][報道 23][報道 64][報道 30][報道 36]
Sは判決を不服として判決訂正申し立てを行なったが、最高裁第2小法廷(亀山継夫裁判長)から12月21日までに棄却された[報道 65][報道 66][報道 67][報道 68]。これにより、犯行当時少年としては永山以来となる死刑判決が正式に確定した[報道 65][報道 66][報道 67][報道 68]

確定後から現在[編集]

Sは最高裁判決当日の3日までに中日新聞社に手記を寄せ、最高裁判決を伝える『中日新聞』『東京新聞』2001年12月4日朝刊それぞれの記事にその内容が掲載された[報道 63][報道 23]。手記の中では「二度の死刑判決を受け、生き恥を晒し続けて、自分の家族にさえ迷惑をかけるより、とっとと死んで消えてなくなりたい、それで早く生まれ変わって新しくやり直す方がどんなにか楽だろうと、安易な自暴自棄に陥っていた頃もあった」「そんな僕を見た多くの人から『死んでおしまいなどというのはずるい』『生きて償うべきだ』と言われ、生きていなければ感じられない苦しみを最後の瞬間まで味わい続けようも改めて決意した。何もできないまでも、最後まで生き抜いて罪を贖える方法を模索したい」「僕の経験を反面教師として役立ててもらえば、この世に生まれてきたことに少しでも意味があったと言えるかも」などと当時の心境が吐露されていた[報道 23]。この手記は最高裁判決から9年後の2010年11月28日、裁判員裁判で初めて犯行当時少年の被告人に死刑判決が出た(石巻3人殺傷事件。2016年判決確定)ことについて触れた『中日新聞』朝刊のコラム「中日春秋」および『東京新聞』朝刊のコラム「筆洗」でも引用された[報道 69]。関係者によれば、Sは死刑確定を覚悟しつつも、判決までの数日間は落ち着かない様子だったという[報道 23]
2017年(平成29年)現在、Sは東京拘置所収監されている[書籍 27]。永山はSの死刑確定前の1997年(平成9年)に死刑執行されたため、Sは2017年現在収監されている少年死刑囚としては最古参であり、かつ2001年以降(21世紀)に死刑が確定した未執行死刑囚としても最古参である。「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(フォーラム90)による1993年3月26日以降に死刑が確定した死刑囚についての調査によれば、2006年にはSが再審請求したことが判明したが[書籍 5]、請求内容・時期などの詳細は不明である。

永瀬隼介と死刑囚Sの交流[編集]

Sが最高裁上告中の1998年(平成10年)10月から作家の永瀬隼介は本事件についての書籍出版を目的に、当時既に東京拘置所に収監されていたSと面会や文通を重ね[書籍 28]、死刑が確定するまでの約3年間に事件の様々な関係者(Sの家族や被害者遺族、Sと結婚したフィリピン人女性の家族ら)への取材活動も含め、Sの内面や事件の深層に迫った。

永瀬への手紙の中でSは「残された彼女(B子)のために毎日祈り、お詫びの言葉をつぶやいてみても、何にもならないどころか、考えてみればこれ以上、自分勝手でひとりよがりな行為もありません」「加害者の側の僕がいくら熱心に経文を唱えようとも、それは結局自分自身が自己満足するための儀式でしかないように思えてきます」などと綴っていた[書籍 29]2000年(平成12年)春、永瀬は面会中にSに対し「ならば、あなたにとって本当の意味での反省は何なのか」と尋ね、Sは「今でも、反省して何にもならないと思っています。本当に謝るべき人々を殺しておいて、いったい何やってんだ、という気持ちはあります。どうやって反省していいのか分からないのです」と[書籍 30]、また「次こそは、絶対に、真っ当な人間に生まれ変わりたいと願う次第です」とも書いてあったが[書籍 31]、それについて「あなたは本当に生まれ変われると信じているのですか?」という永瀬の質問に、Sは「信じています。信じていないと目標がなくなります。僕の場合、判決は目標にならないから……でも、自分がもっともっと深いところまで下りて行かないと……またダメかもしれませんね」と答えた[書籍 30]。永瀬は手紙の殺害場面が記された箇所で、それまで整然としていたSの筆跡が、まるで別人が書いたかのように突然大きく乱れていたことから[書籍 11]、その心の揺れについて「殺害現場を書くことが怖かったのですか」「当時の自分を直視するのが怖いのですか」などと尋ねたが[書籍 30]、Sは「みっともないんです」と答え、その言葉の意味については「誰に対してという訳ではありません」(「ああいう事件を引き起こした自分が人間としてみっともない、ということですか」という永瀬の問いに対し)「そうじゃありません。ただ、みっともないと…」とちぐはぐな返答をした[書籍 30]。永瀬の感想は「そうなると、みっともないことをした自分を直視するのが嫌だということになる。みっともない自分を正面から捉えないで、反省しても仕方ないと思います」というものだった[書籍 30]。さらに永瀬が「自分の人生を振り返って、何か言いたいことはありますか」と問うと、Sは「チャラというか、すべてがなかったことにしてほしいんです。Sという人間はこの世にいなかったということになれば一番いい」「自分という存在そのものをゼロにしたい」と答えた[書籍 30]。永瀬はSの「全てがなかったことになればいい」という言葉について「この言葉を耳にした時、私は面会室の床にへたり込んでしまいたいような脱力感に襲われた。この期に及んで、自分の人生の全てをなかったことにした、と口にするSの真意は、もはや理解不能だった。Sが抱える心の闇は、私の想像をはるかに超えて、冥く、深く、広がっていった」と綴った[書籍 30]

永瀬は著書出版準備を進めていた2000年初夏、慢性的な精神的ストレスから自律神経失調症を発症し、満員電車での帰宅途中に気分が悪くなり、途中駅で下車した際に意識を失い、プラットホームの上にうつ伏せに転倒した[書籍 32]。その際に顎を強打して歯が砕け、後日病院で検査をした際に転倒の衝撃で顎の骨が割れていることが判明し、その治療のため3週間入院した[書籍 32]。それ以前から永瀬は「Sというモンスターと付き合うようになり、じきに心のどこかで、このままでは済まないな、と感じるようになった。手痛い代償を払わされるに違いない、との確信めいた思いもあった。口では『切腹でもして死にたい』『潔く終わりたい』と殊勝に語るSは、実は底知れぬ生命力の塊である。わたしは面会を重ねるたびに、一夜にして4人を殺しながら、生への欲望が全く枯れない男(S)のエネルギーに翻弄され、心身ともに削られていく気がした」という[書籍 32]。また、Sについても「Sは、わたしが過去、取材したどの殺人者よりも遥かに深い、桁外れの闇を抱えている(中略。広島タクシー運転手連続殺人事件の死刑囚の例を挙げ)少なくとも(その死刑囚は)分かり易い。だが、Sは分かりにくい。分からないから、取材者はより接近を試み、その黒々とした邪悪な渦に巻き込まれていく。無事で済むはずがない」と綴っている[書籍 32]。退院後永瀬は東京拘置所に再び通い、最初の面会でSに対し怪我と入院で面会に来られなかった旨を説明すると、Sは心配そうな表情で「身体には気を付けてください。人間、健康が一番ですから」と言った[書籍 32]。永瀬は単行本『19歳の結末 一家4人惨殺事件』のあとがきで「面会を重ね、本を差し入れ、手紙をかわすうちに、いつしか私はSに対し、悔恨と反省に満ちた『まっとうな心』を期待していた。人間的な感情が迸る場面や、滂沱の涙とともに発せられる懺悔の言葉と言った瞬間をどこかで望んでいた」「4歳の幼女まで刺殺した悪鬼の所業の前では、もはやどのような悔恨も反省も虚しい」「この本を書き終え、虚脱感と徒労感に支配されている自分がいる」と綴った[書籍 33]

2000年9月、永瀬はそれまでの取材結果をまとめて単行本『19歳の結末』を出版しSに差し入れた[書籍 34]。しかしSは「『1991年10月、当時フィリピン滞在中で結婚相手の女性の兄とともにマニラのカラオケスナックに来ていたSが、そこで現地の警察官を殴って拳銃を突き付けられた』という記述[書籍 35]は出鱈目だ。警官にあんなことをしたら、自分は今頃向こうの刑務所に入っている。マニラには街中で金をせびってくるやつがいて、あの警官もそうだった。だからうるさい、と腕で払ったら拳銃を突き付けられた」と主張した[書籍 34]。永瀬が「フィリピンで取材した事実を帰国後面会の席でSに直接確認した」と指摘したが、Sは「向こうの兄貴(女性の兄)が言ってるだけ。彼とは一緒に仲良く遊んだのに、恨んでいるのか。だとしたらあなた(永瀬)のことを僕の身内の者だと思っていたんじゃないか」と的外れな子供っぽい言い分を返した[書籍 34]。永瀬はこの時の心境を「許されるなら『お前が言うべきはそういうことじゃないだろう』と胸倉を掴んで揺さぶり、諭してやりたかった」と記した[書籍 34]。しかしSが怒った理由は弁護士から「『お前、あんなこともやってたのか。どうして隠してたんだ、けしからんじゃないか』と責められた」からであった[書籍 34]。永瀬が「あなたが今言うべきはそういうことじゃないと思う。拳銃云々は些末なことだ。あの本にはあなたに殺された被害者の遺族の悲しみとか怒りがいっぱい詰まっていたでしょう。あなたはそれについてどう感じたのか、まず語らなければならない」と指摘したが、Sは「そんなの、わかってますよ」と子供のように拗ねてそっぽを向くだけであった[書籍 34]。永瀬は「愛する娘と4歳の孫を刺し殺された祖母[注釈 4]の地獄の日々に思いを馳せることのできないこいつ(S)は、やっぱり救いようのないクズだ」と唾棄した[書籍 34]

その後も永瀬はSと面会や手紙のやり取りを続けたが、翌10月にSは永瀬との面会の中で、自らが強姦し、事件でひとり生き残ったB子について、唇をねじ曲げ、薄笑いを浮かべて、ヘラヘラと挑発するように「あの子は僕のことがわかっている。すべてを知っている。なのに、本当のことを言わない。おかしいですよ」「あなた(永瀬)の取材にもまともに答えない。とんでもない人間だと思いませんか」などと口を極めて罵った[書籍 34]。永瀬は「とんでもないのはお前だろう」と怒鳴ろうとしたのを辛うじて堪え、Sの聞くに堪えない罵詈を咎めると、Sはがらりと態度を変え、肩をすぼめて俯き「もっと早くあなた(永瀬)に出会っていればよかった。塀の外で会っていれば僕も変わっていたと思うんです。僕にはそうやって叱ってくれる人間がいなかった」と言った[書籍 34]。永瀬はこのSの言葉について「同情を買おうとしたのだろうか、それとも本音なのか、わたしにはわからなかった。分かったのはただひとつ。この男(S)は反省していない、ということだけだ」と切り捨てた[書籍 34]

2001年(平成13年)1月下旬、永瀬はSと2か月ぶり(前年12月以来)に面会し、Sは永瀬に「面会できることは世間との接点があってうれしい。これからもどんどん本を読みたいし、あなた(永瀬)とも会いたい」(面会できなかった場合を含め、永瀬から本を差し入れてもらっていることについて)「いつも本の差し入れをしていただき、有り難く思っております」と言い、永瀬がどんな本が読みたいか問うと『永遠の仔』を読みたいと答え、永瀬はSに次回の面会時に差し入れると約束したが、結果的にこれが最後の面会となった[書籍 25]

上告審口頭弁論公判から約8か月後の11月下旬、Sから永瀬宛に最後の手紙が届き、上告審判決公判の日程が12月3日に決定したこと、またそれ(死刑確定)により、死刑囚となったSに対する親族でない永瀬からの書籍の差し入れや、永瀬との文通ができなくなることなどが記され、最後に永瀬への気遣いの言葉で締めくくられていた[書籍 26]

そして12月3日、Sの上告棄却を言い渡した上告審判決公判を傍聴した永瀬は閉廷後、最高裁の中庭から熊本県に住むB子の母方の祖母宅に電話を入れ、母方の祖母はSの死刑が確定した旨を永瀬から伝えられると「やっと死刑になっとですか。よかった、本当によかった」と嗚咽した[書籍 26]。その後B子の叔父(B子の母の弟)が電話を代わり、「死刑が決まりましたか。あれ(事件発生)から9年ですか、長かった」と語った[書籍 26]。Sの死刑確定の知らせを聞いたB子はじっと押し黙ったままだったという[書籍 26]

死刑囚の生い立ち[編集]

  • Sの母方の祖父Xは第二次世界大戦終戦直後の青年時代、荒川の土手沿いに位置する東京都江戸川区松島ウナギの卸売業を興した[書籍 36]。Xは「生まれつき視力が弱かった兵役を免除され、命拾いした身だ。徴兵されて戦死した幼馴染たちに比べればはるかに恵まれている」と文字通り死んだ気になって寸暇を惜しんで働き続けた[書籍 36]。「仕事の鬼」と周囲から一目置かれた彼は自分にも他人にも厳しく、あまりの厳しさについていけず辞める従業員も続出したが、その猛烈な働きっぷりから事業を順調に拡大し、市川市・東京23区東部を中心に10件近くの鰻屋を構えるウナギ料理チェーン店のオーナーとなった成功者だった[書籍 36]
  • そんな祖父の長女として生まれたSの母親Y子は短期大学卒業後の1967年(当時24歳)、江戸川区役所のダンス教室で東芝関連会社勤務のサラリーマンだったSの父親Z(当時25歳)と知り合い、交際を始めた[書籍 36]。Y子はデートで手腕を発揮する父親に惹かれていったが、コネ・カネ・学歴何一つない身一つで己の努力と才覚だけでのし上がってきたXにしてみれば、半端なサラリーマンのZは「そこら辺りのチンピラと一緒」であり、初めて挨拶に訪れた日から「こいつはろくでもない遊び人だ」「仕事に対する熱意がうかがえない」と快く思っていなかった[書籍 36]。その日の夜、Y子が「Zを家に泊める」と言ったが、Xは「結婚前の自分の娘が、こんなろくでもない男と俺の家でひとつ屋根の下にいる」と思った途端憤慨し、仁王立ちになって怒鳴りZを叩き出した[書籍 36]。しかし2人は駆け落ち同然で結婚し、千葉県松戸市内のZの実家に新婚所帯を構えた[書籍 36]。なおXは結婚に反対していたが、1973年1月30日に夫婦の長男としてSが生まれ、Y子が父に初孫の顔を見せに行くと、祖父となったXは渋々ながらも結婚を認めた[書籍 36]。ほどなくして一家は松戸市内の公団住宅に移住し、教育熱心なSの母親は息子が歩けるようになるとすぐスイミングスクールに通わせ、小学校入学後からはピアノ、英会話も習わせ始めた[書籍 36]。Sが生まれた5年後の1978年には次男(Sの弟)も生まれたが、生活が落ち着いてくるや否やZの「ろくでもない遊び人」な本性が現れ始め、仕事よりギャンブルや酒、女遊びを優先するようになり、Y子との夫婦喧嘩も日常茶飯事になった[書籍 36]
  • Sが小学2年生の時、S一家は母方の祖父の援助で買った東京都江東区越中島の高級マンションに移住した[書籍 36]。このマンションには有名企業の社員や医者、実業家などの高額所得者が多数在住しており、S一家の部屋のすぐ上の階には、当時日本中を接見した漫才ブームで一、二の人気を争った漫才コンビの一人が家族とともに住んでおり、その息子がSの弟と同い年だったため、Sは自然とお互いの家を行き来するようになったという[書籍 36]。時折その漫才師と出会うと、彼はテレビに出ている時と同じ笑顔で「どや、元気か」と声を掛けてくれ、息子も父親と同じように屈託のない大阪弁で話しかけてくれることから、Sはこの陽気な漫才師一家を気に入っていた[書籍 36]。一方で自分の一家は高級マンションに住んでいるとはいえ、祖父の援助と借金によるものであり、Zは会社勤めを辞めてから義父Xから鰻屋を1件任されるようになったが、日銭が入るようになったために遊びにますます拍車がかかり、愛人の家での外泊を繰り返し、時折帰ると浮気を責めてくる母Y子に対して殴る蹴るなどのドメスティック・バイオレンスや、S自身や5歳年下の弟に対して何時間も正座をさせる、食事抜き、徹底した無視、真冬の夜中に外に放り出すなどの苛烈な児童虐待を繰り返していた[書籍 36]
  • 自宅を居場所と感じられなくなっていったSは毎週末、自分で着替えと勉強道具をリュックサックに詰め込んで、一人で電車に乗って市川市内の祖父X宅に寝泊まりするようになり、特に夏休み・冬休みの長期休暇はほとんど祖父宅に泊まり込んでいた[書籍 36]。Xは常に孫Sを笑顔で出迎え、一緒に風呂に入り、祖母が作ってくれる手作りの夕食を食べた[書籍 36]。祖父は晩酌のビールを飲みつつ、普段いかつい表情をした顔をほころばせつつ、Sの話を嬉しそうに聞いていた[書籍 36]。そんな祖父Xは従業員にしてみれば「一切の妥協を許さない厳しい人」ではあったが、彼らから見れば一見単調な生活にすら見えた、Xや鰻屋の従業員たちと過ごす毎日は、Sにとっては至福の時であり、当時のSは「いつも怖いだけの父親とは違う、お金持ちで頼りになる働き者」として祖父Xを心から尊敬しており「自分も祖父のように強くて立派な大人になりたい」と思っていた[書籍 36]
  • やがてストレスを溜め込んだ母親もSを虐待するようになり[書籍 36]。敬虔なエホバの証人の信者であった親友に勧められて聖書の勉強をするようになったが[書籍 37]、9歳の時、Sが熱心に読んでいた聖書を「こんなくだらないものばかり読みやがって」と父親が破り捨て、Sは初めて恐れていた父親に対して歯向かっている[書籍 38]。1982年(昭和57年)12月にSは母親に連れられて弟とともに夜逃げ同然に家を出て、葛飾区内(青砥駅付近)に移住した[書籍 39]
  • Sが小学生の時、父親Zのギャンブル好きによる約3億円の借金が原因で[報道 4]、1983年に両親が離婚し、親権は母親Y子に移った[新潮 2]。Sを溺愛しており、Sからも慕われていた母方の祖父からも、Sの父親の多額の借金が原因で見放された[書籍 40]。ランドセル代わりに風呂敷で登校し、一着しかない服を毎日着てくるSは周囲からはいじめの対象になり、担任が電話連絡網を作るためにクラス全員の前で電話番号を聞いた際、Sが「そんなもの(電話)、うちにはありません」と答えたところ、担任やクラスメートに大笑いされたという[書籍 41]。Sは月に1、2回、母Y子の財布から小銭を抜き取っては電車でかつて住んでいた越中島に行き、その度に劣等感に苛まれた[書籍 41]。この頃、ジミ・ヘンドリックスの音楽を知ってロックにハマり、カセットテープを近所のディスカウントストアから万引きするようになった[書籍 42]。その後放課後に気分転換のためひとりで電車に乗って浅草に通うようになり、公衆電話の横で現金約6万円の入った財布を置き引きしたのをきっかけに浅草で観光客を狙った置き引きスリ、かっぱらいを繰り返すようになり、賽銭泥棒もしたSはこの頃、「貧乏を笑う世の中のやつらからはいくら盗ったっていいんだ。世の中、なんだかんだいったってカネなんだ」と手前勝手な論理に酔いしれるようになった[書籍 43]。一方で「ワルのレッテルを張られると損をする」として、地元ではおとなしい真面目な少年を装い続けた[書籍 44]
  • その後S一家は葛飾区内でアパートを経営する大家夫妻の紹介を受け[書籍 45]、新築のアパートに転居した[書籍 46]。この頃祖父Xも母親Y子と関係を修復し[書籍 46]、SたちはXからの経済的な援助を受けつつ不自由なく暮らせるようになったが[報道 3]、Sは「一番つらくて寂しい時に俺を裏切って、手を差し伸べてくれなかった」として、以前のように祖父を尊敬することはできなくなっていた[書籍 47]葛飾区立立石中学校入学後[新潮 1][新潮 2]、Sは少年野球チームに所属してエース兼4番打者として活躍する一方で非行の度合いが一気にエスカレートし、地元の不良少年たちから喧嘩の強さを褒められて仲間に誘われ、放課後には街をうろついて喧嘩を繰り返し、ゲームセンターを根城に不良仲間とつるんで遊び歩き、恐喝を繰り返していた[書籍 47]。バイク盗[新潮 2]、飲酒や喫煙などの非行もするようになった[書籍 47]。この頃からSによる母親Y子や弟への家庭内暴力が始まり[新潮 1][新潮 2]、また家庭崩壊の元凶となった父親Zが現れるようになったこともSが荒れる原因となった[書籍 47]。Sは中学2年の時、シンナー中毒の女性との初体験を経験している[書籍 48]。次第に「自分は何のために生きているのだろう」と考えるようになり、再びキリスト教の教会に通うようになるが、すぐにやめた[書籍 49]。中学3年の頃に同級生の女子生徒と交際し始めたが[書籍 50]、高校中退後にその少女の両親が苦情を入れてきて、その後少女を東北地方の親戚の家に連れ帰ったため、Sは少女の父親を脅迫し、ナイフを手に少女を連れてくるよう迫ったことから軽犯罪法違反に問われ、家庭裁判所に書類送致された[書籍 51]
  • Sは志望校の日本大学第一高校岩倉高校を受験するも不合格に終わったため、祖父Xの援助を得て[書籍 52]、1988年(昭和63年)4月に中学卒業後野球の強豪校として知られる中野区内の私立高校(堀越高等学校普通科大学進学コース)に入学した[新潮 1][書籍 52][報道 3]。一時は甲子園を目指して野球部に所属し[報道 3]、高校1年時はクラス委員を務めて無欠席で成績も上位をキープしていたが[新潮 1]、その一方で地元では相変わらずの喧嘩三昧で、折り畳み式ナイフも常時携帯するようになった[書籍 53]。野球部の練習用グラウンドは八王子市内にあり、「そんな遠いところまで行けるか」とあっさり退部、家庭内暴力も悪化するようになった[書籍 53]。その後、Sが高校1年の冬にS一家は大家夫妻の紹介したアパートからさらに広いマンションに移住し、母親Y子が「長男(S)に個室を与えれば家庭内暴力も収まるはず」と思ったためにSは一人部屋を与えられたが、結果は裏目に出、自分の城を持ったことで妙な自信を持ったSによる家庭内暴力はさらに深刻になった[書籍 54]。2年に進級すると「こんな程度の低い高校では大学に進めない」と欠席がちになり、喧嘩に明け暮れるようになり、母親Y子はその度に怪我をした相手の家に謝りに行き、治療費や見舞金を払った[書籍 55]。この頃、祖父Xは母Y子が離婚した夫Zと会っていることを知って激怒し「カネを出せば、またあのろくでなしに渡るだけだ」としてS一家への一切の援助を再び断ち切っていた[書籍 56]。Sは2年生進級直後に恐喝事件への関与が発覚して停学処分になるが、自宅に待機していなければならない時間帯に不在だったり、無断外泊を繰り返していたため、母親から退学させてほしいと申し入れがあった[新潮 1]。暴力沙汰を繰り返しながらも反省の色を見せないSは進級2か月後の1989年(平成元年)5月31日付で高校を自主退学した[新潮 1][書籍 56][報道 3][報道 21]
  • 高校中退後Sは警備員や運転手などのアルバイトをするが[新潮 1]、どれも1週間と続かず、事件直前は祖父Xが経営していたウナギ料理のチェーン店を時々手伝う程度で[報道 3][新潮 2]、夕方過ぎからの出勤や無断欠勤も多く、おとなしそうな反面、レジを足蹴にすることもあり、ギャンブルなどの遊びや飲酒に明け暮れる生活だったという[新潮 1][報道 3][報道 4][報道 21]。働き始めた動機も真剣に将来を考えた末の決断ではなく、祖父Xの猛烈な働きっぷりに「仕事ってそんなに面白いものなのか」と興味を覚えたから、ということに過ぎなかった[書籍 57]。頑固で仕事一筋な一方、人情家として地元で知られていた祖父Xは付き合いのある信用金庫職員や商工会関係者から「面倒を見てほしい」と頼まれると、鑑別所や少年院から出てきたばかりのような者や現役の暴走族メンバー、暴力団事務所に出入りするようなチンピラも含め、どんな不良でも引き受けていたために仕事仲間には不良崩れが多く[書籍 57]、長距離トラックの荷抜きの方法、自動販売機荒らしのテクニック、盗んだバイクの転売先、高価な輸入アルミホイールとタイヤの外し方や買取先、変造ナンバープレートを請け負う板金工の紹介、シンナーの売人の連絡先などなど、休憩時間に先輩たちから様々な悪事のノウハウを習った[書籍 57]。「本物の喧嘩のやり方」として、「ナイフやビール瓶など何でも使って、こっちの顔も見たくなくなるくらい徹底的に相手をぶちのめさないと必ず復讐される」とも習い、このことから、腕力に任せた素手での喧嘩など子供の自己満足にすぎないとSは悟ったという[書籍 57]。店のワゴン車でウナギの配達に向かう途中、前方を走る車の運転手たち(一目でワルとわかるような4人の男)と揉めて喧嘩になり、焼き台で使う長さ110cmほどの鉄筋で相手を殴りつけて負傷させ、警察に連行されたこともあった[書籍 58]。最も年齢が近い店の仕事仲間から挑発され、スパナで殴打して負傷させ、その仕事仲間が以降店に来なくなるという事件も起こした[書籍 59]。祖父Xは孫の将来を心配し、Sに「お前は顔も声も父親に近くなってきた。ほっといたら、お前もああなっちまうぞ」と諫めたが、Sは全く意に介さなかった[書籍 60]。結局、ウナギ店は半年ほどでやめた[書籍 60]
    • なお、親類の一人によればSは真面目に働かないばかりか店の売り上げを勝手に持ち出すこともしばしばで、その際は各支店から集まってくる売上金の袋の中でも二十数万円と入った一番大きな袋を持って行ったという[新潮 1]。事件の2年前の1990年(平成2年)、Sは夜中に店のドアを破って侵入し、売上金の現金120万円を盗んだ[書籍 61][新潮 2]。その1か月後、店の金庫から現金6万円がなくなり「娘(Sの母親Y子)にそのことをそれとなく伝えたが、娘は自分の息子(S)が疑われたと思って頭に来たんだろうな。あいつに言っちゃったんだ(Sの母方の祖父X談)」[書籍 61]。その日の夕方、祖父Xは早朝からの重労働で疲れ切って寝ていたが、そこにSが突然訪ねてきて「俺のこと、疑いやがって」と怒鳴りつけ、祖父Xの顔を蹴り上げた[書籍 61]。Sの足の親指が祖父の左目に突き刺さり、祖父Xは眼球破裂で失明し入院し、その後祖父Xは糖尿病で右目も視力が低下しほとんど見えなくなったという[書籍 61]。祖父Xは永瀬の取材に対し、Sについて「俺はもう、死にたい。一日も早く死にたいんだよ。生きていても、なんにもいいことはない。苦しい事ばっかりだ。なぜ、あいつが今でも生きていられるか。不思議でならねえんだ。俺だったら死んでるよ。自殺して死んでる」「あの日(Sが逮捕された日)は、突然新聞記者がきたんだ。何が何だか分からなくてな。あいつが人を殺したとかなんとか。(Sは)バカのろくでなしだとは承知していたが、まさか人様を殺めるとは…それも4人も…俺はもう、血の気が引いたよ。腰が抜けそうだった。それ以来、すべてがあのバカ(S)のおかげで滅茶苦茶になっちまった」「あいつにはもう、関わりたくない。あれだけのことをやったんだ。もう生きちゃいられねえだろう。法に従えばいいんだ」「(Sの父親である娘婿Zは)俺は初めっから気に食わなかった。第一、人相が良くなかった。真面目に働く顔じゃなかった。だから結婚させたくなかったんだ。娘が俺の言うことをちゃんと聞いていりゃあ、あんなろくでなしの孫なんか生まれていない。いっそのこと、離婚するとき、向こうにくれてやりゃあよかったんだ」となど吐き捨てた[書籍 61]。事件直前の1992年1月下旬にもSは親類の家に出かけ[報道 3]、親類が子供(従兄弟)の高校受験用に用意していた現金110万円を盗んでいた[新潮 2]
      • その一方で、Sは祖父からギターやオーディオ購入費などの遊興費や、一人暮らしをしていた船橋市内のマンションの家賃、犯行に用いた高級車(トヨタ・クラウン)などの代金の援助を受け続け、中山競馬場での競馬開催日には競馬場でSの姿もよく見られた、という報道がなされている[報道 3]。中学入学頃からSは祖父や母親に多額の現金をせびっていたとも報道されており、その報道によれば祖父は従業員の前で「また夜遊びか」と笑いながらSに1万円札数枚を手渡すこともよくあったという[新潮 1][報道 4]。『週刊新潮』1992年3月19日号によれば、Sが住んでいたマンションの近隣住民によれば「Sは髪にはパーマをかけ、身長180cmもある大柄ながっちりした男だった。毎日、夕方どこかに出掛けては真夜中の2時、3時頃に帰ってきて、力いっぱいドアをバタンと閉めて近所迷惑を顧みない人だった。3000ccのクラウンを乗り回し、肩で風を切って歩いていた。歩き方も与太った雰囲気で、その姿はとても19歳とは思えない。25、26歳ぐらいだと思っていた」といい、前年の秋には近隣住民と違法駐車によるトラブルを起こして警察が出動する騒ぎとなっていた[新潮 1]
    • 中学時代からSを知る水産加工品店(ウナギ料理店)の同僚は事件直後、『中日新聞』の取材に対し「やりたいことはなんでもやった。中学時代から飲酒、喫煙をしていたし、ギャンブルも好き。野球も結構やっていたけど、適当にサボってバンドなどもやっていた。最近は女ばかり追いかけまわしていた。金で思うようにならないと暴力で、というパターンだった」と証言する一方、「店でも年上の従業員などにはいつもペコペコ頭を下げて従順だった。中学時代もつっぱり連中とは適度に距離を置いて目を付けられないようにしていた。結局、優しい人や弱いものに徹底的につけ込む性格」というSの気弱な一面も明かした[報道 3]。こうした証言からSの素顔は、他人への思いやりを知らない本能むき出しの人間像であり、その人格形成には複雑な家庭環境が影を落としていると伺えた、と1992年3月10日付の『中日新聞』は述べている[報道 3]
    • 「祖父に甘やかされ気ままに育ってきた」というSについて[報道 3]、親類は事件直後『朝日新聞』の取材に対し「あいつはやりたいようにやってきたからなあ」と冷たい言葉で語った[報道 4]。逮捕当時Sの自宅マンションの部屋にはギター4本、オーディオ機器があり、ラックにぎっしりと詰められたCDがあった[報道 4]。Sは英字新聞を購読しており、取り調べに対し「英語とタガログ語は日常会話程度はできる」と話しており、海外旅行もフィリピンなどに数回行ったことがあったという[報道 4]
  • ウナギ店をやめた後、Sはギタースクールに通い、バンドの練習や、ファッションヘルスの店員やラブホテルのルームボーイなどのアルバイトに明け暮れ[書籍 60]、職を転々とし定職に就いていなかった[報道 21]。バンド仲間や貸しスタジオで知り合った仲間たちとともにハルシオンブロンLSDなどの薬物乱用にも手を染め、自分以上に激しい家庭内暴力(そのうちのある少年は木刀で家族を殴り倒して歯を全部折り、顎の骨を粉々に砕き、恐れをなした家族がそろって家から逃げ出すと父親の職場に押しかけて暴れ回り、家族を路頭に迷わせた)や非行(敵対するグループのメンバーの家に放火を繰り返していた者、自分の交際していた女性をピンサロに売り飛ばし、昼間からパチンコや競馬に没頭している者などがいた。覚醒剤の打ちすぎで精神科病院に入院させられ、そこから逃げ出して街を徘徊している廃人寸前の覚醒剤中毒者もいた)に手を染めている者たちともつるむようになっていたが、Sは「こういう荒んだ連中に比べれば自分はまだずっとましだ」と思っていたという[書籍 62]。事件1年前の1991年3月、Sは家を出て中山競馬場近くの船橋市内の、JR総武本線下総中山駅および京成本線京成中山駅から徒歩圏内にある[書籍 6]、高級ワンルームマンションで一人暮らしを始めた[書籍 6]。マンションの家賃は7万円[書籍 6]、共益費込みで約10万1000円で[報道 4]、1991年秋に家賃を滞納し、その後は母親が振り込んでいた[報道 21]。『中日新聞』報道では同年10月頃に弟や母親への家庭内暴力のため、母親が前述のマンションの部屋を与えて別居させたと報道されている[報道 3]
  • その2か月後の1991年5月、Sは犯行に用いたトヨタ・クラウンロイヤルサルーンを自ら自動車ローンを組んで購入した[書籍 6]。クラウンは価格400万円近く、4年間48回払いで購入し、頭金50万円はそれまで乗っていた400ccのバイクを売った上で、アルバイトで貯めた金を足して払った[書籍 6]。ローンの支払いが遅れると母親が代わりに払った[書籍 6]。クラウンのトランクには常に前述の暴力事件で凶器として使用した鉄筋を3、4本隠し持っていた[書籍 63]。その一方で幼少期に自分たちを捨てた父親Zへの憎悪や、制御できない暴力、荒んだ不安定な生活からSの苛立ちは募る一方だった[書籍 63]。母親Y子のマンションでたびたび父親Zと出くわす度に父親Zと口論となり、父親ZはSを幼少期に苛烈な虐待の挙句見捨てた身でありながらSに対して母Y子や弟への家庭内暴力などを注意したが、Sは憎悪をたぎらせて反発し喧嘩となり、Sが包丁を持ち出して暴れたため救急車が出動したこともあった[書籍 63]
  • Sは美容師やフリーターの女性との同棲も経験したが、暴力が原因でいずれも1、2か月で別れている[書籍 64]。しかし1991年4月、Sはウナギ屋の同僚たちに連れて行かれた市川市内のフィリピンパブでマニラ出身のホステスの女性(当時21歳)と出会って恋に落ち、時折店外デートをするようになった[書籍 65]。やがてその女性から結婚を持ちかけられ、Sは初めは長期滞在が目的だとみて断っていたが、女性の必死の懇願は続き、「彼女は料理も掃除も得意だし、何より自分に尽くしてくれる。一緒に生活したら楽しいかな」と考えるようになり結婚を決意した[書籍 66]。母親にその女性のことを話すが、母は「日本人かせめて白人にしろ、フィリピン人は絶対にダメだ」と人種差別的な発言までして反対したためSは激怒、しまいには父親までやってきてSを説得するがSの火に油を注ぎ、家族との話し合いは決裂し、Sは一人で結婚の手続きをとった[書籍 66]。同年10月9日に女性がフィリピンに帰国し、Sもその10日後に女性の家族への挨拶と結婚手続きのためにフィリピンに渡った[書籍 67]。女性の実家は東南アジア最大のスラム街と言われるマニラ近郊の地区トンドにあったが[書籍 68]、極端な潔癖症であるSもこの時ばかりは特に意に介さず、のんびりとリラックスした[書籍 69]。翌朝から日本領事館やマニラ市役所に通い、10月25日にマニラ市役所で結婚の宣誓を行い、10月30日には日本領事館に結婚の書類を届け、女性が洗礼を受けたカトリック教会での講習を経て、11月にはマニラで結婚式を挙げた[書籍 70]。翌1992年1月に女性の妊娠が判明したが、女性は言葉が通じにくい日本の産婦人科を嫌がり、マニラの母親の下で産みたいと訴えた[書籍 4]。Sは了承し、女性は1月26日にフィリピンに帰国した[書籍 4]。その4日後の1月30日にSは19歳の誕生日を迎えたが、妻がいなくなったことで鬱屈した気分になったSは新しい女性を引っ張り込もうと考え、それが凶行の遠因となった[書籍 4]

その他[編集]

  • 殺害された会社社長男性Aは、事件7年前の1985年に写真週刊誌『Emma』(文藝春秋)記事に掲載された、当時ロス疑惑で注目されていた三浦和義スワッピング・パーティーに参加した際のプライベート写真を撮影した、フリーランスのカメラマンであった[書籍 71][新潮 1][新潮 2]。『読売新聞』報道によれば、D子は前夫との間に生まれたB子と一緒に出身地の熊本県八代市から市川市に転居し、行徳駅前のマンションに部屋を借りて写真の勉強をしていた[報道 11]。その後、フリーカメラマンだったAと知り合って結婚、1988年8月に現場マンションに引っ越し[報道 2]、行徳駅前のマンションを事務所に写真の編集会社を設立した[報道 11]。会社ではD子が代表取締役を、Aが取締役をそれぞれ務めており、近隣住民の話によると夫婦揃ってカメラボックスを抱えて事務所に出入りする姿も見られたという[報道 11]。Aは雑誌の写真などを撮影しており、結婚後は年頃の娘を持つようになったことから、それまでの風俗関連から離れ[新潮 2]、事件直前まで妻D子とともに料理雑誌の仕事を中心にしていた[新潮 1][報道 11][新潮 2]。D子も「中村小夜子」というペンネームでライターとして活動していた[新潮 1][新潮 2]。1990年頃、Aは「ベルギーのペンションを買いたい。ベルギーならドイツにもフランスにもすぐに行ける。(事件の発生した)1992年にEC(欧州諸共同体)統合があるので、あちらに拠点を持って活動したい」と語っていたが、その夢はSの凶行によって無惨にも断ち切られた[新潮 1][書籍 72]
  • 本事件の被害者遺族であり、自身もSによる複数回の強姦被害者となったB子は、共働きの両親に代わって10歳以上離れた妹E子(両親・E子ともSに殺害された)を朝夕、東京都江戸川区本一色の私立保育園(同園の職員は園児たちに対し、E子については事件のことは伏せて「遠くに引っ越した」と伝えたという)[報道 4][報道 12]に送迎するなど優しい性格であり、通学する県立高校では演劇部や美術部などに所属し、クラスの副委員長も務め[報道 7]、将来は美術関係の大学進学を希望するごく普通の女子高生だった[書籍 24]。B子は事件後両親の知人の下に身を寄せた後、事件1年後の1993年に熊本県の母方の実家に引き取られた[書籍 73]。高校を卒業後故郷の熊本を離れ、事件前から夢見ていた美術系大学に進学して2000年春に卒業した[書籍 74]。永瀬の取材に対しB子は「もう、事件のことは忘れました。でないと前に進めませんから。(犯人のSが)どういう刑を受けようと、まったく関心ありません。でも(極刑は)当然だと思います」と気丈に語っており、知人に対しては「バリバリ働いて私を育ててくれた母のようなキャリアウーマンになりたい」と将来の希望を語っていた[書籍 74]。その後、Sの死刑確定後の2004年(平成16年)春にかねてから交際していた男性と結婚して日本を離れ、生前の両親の夢であったヨーロッパで暮らしているという[書籍 75]。『東京新聞』の取材に対し、事件現場近所の主婦は一人遺されたB子について「心に受けた深い傷は想像を絶する。幸せを願い、そっとしておいてあげたい」と気遣い、現場に駆けつけた当時の捜査幹部は「とにかく酷かった。母親に息子夫婦、幼い子まで…被害者のために、間違いのないようになんとか裁判まで持っていこうと全力を尽くした」と振り返った[報道 23]
  • 強盗目的で一晩のうちに一家4人を惨殺し、遺された少女を血の海の中で強姦するという凶行に及んだSだが、少年犯罪なら少年法により処罰は軽くなると考えており、逮捕当時は「これで俺も少年院行きか」「未成年ならどんな凶悪犯罪を犯しても少年鑑別所に送られて、そこから少年院に入れられるだけだろう」程度にしか考えておらず[書籍 16][書籍 76]、その上「死刑なんてものは自分とはおよそ縁遠いもの。一度殺人を犯しておきながら、刑期を終えてから、あるいは仮釈放中に再犯するような者ぐらいしか死刑にならない[注釈 5]。だから自分には関係ない、違う世界のもの」だと確信していた[書籍 76]。その理由の一つには〈1989年1月にSの住んでいた東京都葛飾区青戸の近隣、足立区綾瀬で発生した〉「女子高生コンクリート詰め殺人事件の犯人の少年たちでさえ、あれだけのことをやっておきながら死刑どころか無期懲役にすらなっていない[注釈 6]。それなら俺の方が犯行は長期間ではないし、犯行にあたって凶器一つ用意していないからまだ頭の中身もまともだ」という不遜な考えもあった[書籍 76]。そのためSは逮捕後、出所後の生活設計のために母親に教科書や参考書、辞書類を差し入れさせ、勉学に励んでいた[書籍 16][書籍 76]。しかしその考えも虚しく、第一審の論告求刑で死刑が求刑され、Sは後の死刑判決宣告以上にこの論告求刑で大きなショックを受けたという[書籍 29]。その期に及んでもSはなお死刑求刑とともに論告で自らの行為を糾弾した検察官を逆恨みするような感情を抱いていたが、第一審・控訴審と相次いで死刑判決を受けたことでその罪の重さを思い知らされ、犠牲者の苦痛と身も凍る恐怖を知ることとなった[書籍 29]。その後もSは永瀬への手紙の中で、幼少期に苛烈な虐待を加えた父親ばかりか、身を粉にして働き、自分や弟の生活を支えていた母親や、一代でウナギ料理チェーン店を興し、孫の自分を可愛がってくれた祖父に対しても逆恨みする上に罵詈雑言を書き連ねた挙句[書籍 77][書籍 78][書籍 31]、前述のように面会中に反省のない態度まで見せるという有様だったが、ついに上告審に至るまで一度たりとも減軽されることなく一貫して死刑判決が支持されて確定し[注釈 7]、戦後日本で37人目(永山則夫連続射殺事件の最高裁判決以降、および平成の少年事件では初)の少年死刑囚となった。
    • その一方で、Sが最高裁上告中の2000年に中日新聞社に送った手記が同年7月29日付の『中日新聞』『東京新聞』夕刊に掲載された[報道 24]。収監先の東京拘置所では「570番」と呼ばれ「狭い独房で壁に向き合う孤独な日々を過ごしていた」Sは、3年前の1997年から同社『東京新聞』社会部記者の瀬口晴義と文通をしていたが、その手記の中では「いちいち『少年法』とか『死刑にならない』とか考えながら事件を起こすなら、もう少し頭を使って、指紋が残らないように軍手の1つもはめますよ。高校も満足に行っていないようなものに、少年法の中身を丁寧に教えてくれる人がいると思いますか」と記し、犯行当時は少年法については熟知しておらず、法律など眼中になく衝動的な犯行だったと主張した[報道 24]。また、1997年に発生した神戸連続児童殺傷事件を受け、少年法改正論議が沸騰した頃には「大人と同じように処分することにして、いじめや恐喝、リンチ殺人がなくなると思いますか。きっと変わらない。それどころか、これまで以上に陰湿なやり方が増えることになるだけだと思います」として、少年法改正により凶悪少年犯罪が減少することはないという考えを示していた[報道 24]。その一方で、手記の中では精神鑑定や、教誨師として面会に訪れてくれた修道会関係者との関わりなどを機に、罪を正面から受け止められるようになったと明かし「己の罪深さを恥じ、真に償いを求めるならば、私は自分の将来を求めてはいけないと思えます」と記し、恵まれない家庭環境や、小学生時代のいじめの経験も赤裸々に曝け出し「義務教育の9年間、一度も無邪気にはしゃいだ記憶がない。尊敬できる先生には一人も出会えませんでした」「(小学校の高学年は)痣だらけにされて過ごしたつらい時期だった。人生をやり直すなら、これより前まで戻らないと、何度やり直しても同じことをしてしまうと思う」と述べた[報道 24]。また、凶悪な少年犯罪を生む素地は大多数の「負け組」の上に一握りの「勝ち組」が君臨する社会構造にあるとして「現代は金か能力のある者だけが正義ともてはやされ、勝ち誇る社会。一部の裕福で恵まれた人間以外は、子供でさえ夢も、希望も見ることもできない」という心境も記した[報道 24]
  • Sは東京拘置所からの手紙を初めて永瀬に送った際その手紙に香水を付けていたが、永瀬は「独房で書き上がった手紙に香水を振りかけている大量殺人犯―どこか歪んでいる」と記した[書籍 34]
  • Sは永瀬との文通の中で、死刑の恐怖について「もう一度、死刑判決(上告棄却)を受けて、確定囚となっても、当分は生かされていることになります。文字通り死ぬことで刑になるわけですから、その時までは刑務所の懲役とも違って仕事をするわけでもなく、償うこともできずに、ただ鉄格子の中で過ごすだけの毎日が待ち受けているのです。そして何年か過ぎて、平静を取り戻したころ、ある朝複数の刑務官の靴音が響きわたり、近づいてきたと思ったら、自分の房の前で立ち止まる。独房の錠をまわす金属音がしたところで『本日刑の執行だ』と言われて連れて行かれる。いつか必ず来るそんな日のために、首を吊るされることが決まっているのに、毎日今日か明日かと、死の足音に怖えながら暮らさなくてはなりません。想像するのも嫌な生活です」[書籍 79]「これから先何年も、死んでいくためだけにどうやって生きていけばいいのかもわかりません。外界から一切遮断されたコンクリートむきだしの監獄の中で、一年中誰とも会話をせず、希望を抱くことも許されず、何年も何十年も狂わずにやっていく自信も持てないのです。死ぬことが怖くない、と言えば嘘になりますが、それ以上に、先のない毎日を怯えながら生きていかねばならないことの方が怖いです」と記した[書籍 80]
  • 後の少年死刑事件である大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件光市母子殺害事件石巻3人殺傷事件では『毎日新聞』を除く全国メディア(『読売新聞』・『朝日新聞』・『産経新聞』・『日本経済新聞』の各全国紙と各テレビ局)は死刑判決確定後に実名報道に切り替えたが、本事件では死刑確定時点でも新聞各紙はSを匿名で報じた[報道 71]。その後、確認できる限りでは『朝日新聞』が本事件の死刑判決確定から3年後の2004年に少年死刑囚の実名報道を是認する方針を決め[報道 72]、大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の最高裁判決が初の適用例となった[報道 73]
    • 新聞・テレビの報道では事件発生から2017年現在に至るまでSの実名報道はなされていないが[注釈 8]、事件直後に発売された週刊誌週刊新潮写真週刊誌FOCUS』(共に新潮社)がSを実名報道した[新潮 1][新潮 2][報道 74]。『週刊新潮』は1992年3月19日号(3月12日発売)にて「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」というタイトルの特集記事を組み、その中でSを実名報道した上でSの中学時代の顔写真、事件当時在住していた船橋市内のマンションの写真も掲載した[新潮 1][報道 26][報道 74]。また、『FOCUS』は1992年3月20日号でSの実名、当時『FOCUS』記者の清水潔が撮影した送検されるSの写真を掲載した[新潮 2]。当時『週刊新潮』編集部次長であった宮沢章友は「今回の犯行は未熟な少年が弾みで起こしたようなものではなく、少年法で保護しなければならない『少年』の枠を超えている。加害者の人権に比べて被害者の人権が軽視されている。少年による凶悪事件が増加している今、20歳未満ならばどんな犯罪を犯しても守られる現行の少年法は時代遅れ。問題提起する意味で実名報道した」と述べた[報道 26][報道 74]。その上で、実名報道するかどうかの判断はケース・バイ・ケースであるとした[報道 26]。これに対しては東京弁護士会小堀樹会長)が3月25日、「少年法の趣旨に反し、人権を損なう行為だ」として「良識と節度を持った少年報道」を求める要望書を新潮社に郵送し[報道 75]、「マスコミが少年を裁くようなことをしていいのか」と問題を提起した[報道 74]
      • 『週刊新潮』のライバル誌であり、過去に女子高生コンクリート詰め殺人事件の加害者少年4人を実名報道して物議を醸した『週刊文春』(文藝春秋)は「今回も実名報道すべきではないか」と検討したが「前回の実名報道の動機である『少年法への問題提起』は既にしている」という花田紀凱編集長(コンクリート事件の際に実名報道を決定した)の判断で、今回は実名報道は見送り、匿名報道とした[報道 74]
    • また、上告中の2000年(平成12年)9月に出版された永瀬隼介の著書『19歳の結末 一家4人惨殺事件』および死刑確定後の2004年(平成16年)8月に加筆の上で再出版された『19歳 一家四人惨殺犯の告白』(前者は祝康成名義、#関連書籍参照)でもSの実名が記載されている[書籍 28]。本文内での表記「S」はそれらの文献で示されている実名に基づいたイニシャルである[新潮 1][書籍 28]

参考文献[編集]

参考判決文[編集]

  • 千葉地方裁判所刑事第4部判決 1994年(平成6年)8月8日 判例時報1520号56頁・判例タイムズ858号107号、平成4年(わ)1355号/平成5年(わ)150号、『傷害強姦致傷強盗殺人強盗強姦恐喝窃盗被告事件』。
    • D1-Law.com(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28019082
  • 東京高等裁判所刑事第2部判決 1996年(平成8年)7月2日 判例時報1595号53頁、判例タイムズ924号283頁、東京高等裁判所(刑事)判決時報47巻1 - 12号76頁、高等裁判所刑事裁判速報集(平8)78頁、平成6年(う)1630号、『傷害、強姦致傷、強盗殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗被告事件』。
    • D1-Law.com(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28025020
  • 最高裁判所第二小法廷判決 2001年(平成13年)12月3日 最高裁判所裁判集刑事編(集刑)第280号713頁、平成8年(あ)864号、『傷害、強姦、強姦致傷、強盗殺人、殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗被告事件』「死刑の量刑が維持された事例(市川の一家強盗殺人事件)」。
    • D1-Law.com(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28075105

関連書籍[編集]

  • 週刊誌週刊新潮』(新潮社)1992年3月19日号p.145-149 特集「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」
    • Sの実名及び中学卒業時の顔写真、Sが事件当時住んでいた船橋市内のマンションの写真が掲載された。この中では「この事件は死刑に値する犯行」(板倉宏・当時日本大学法学部教授)「もし死刑にできないようならば保安処分にすべき」(小田晋・当時筑波大学教授)という識者の意見の一方で「(当時)死刑が廃止に向かっている時代の趨勢の中、少年の場合は殺人が行われやすい環境だったかがどうかが争点になるため、この事件でも求刑段階で死刑は難しい」(少年法に詳しい秋山昭八弁護士)という意見も載せ、その上で元法務大臣奥野誠亮の「今の時代、20歳未満だからと言って甘やかしておれる時代ではないでしょう。運転免許だって18歳で取得できるわけですから、凶悪な犯罪を犯した少年が5歳や10歳の子どもと同じ扱いにされるというのはおかしな話ですよ」などの識者意見を載せ、少年法の改正を訴える内容となっている。
  • 写真週刊誌FOCUS』(新潮社)1992年3月20日号p.68-73「『待伏せ刺殺』『溶解炉』『伯母撲殺』『妹殺し』 続発『残酷殺人』若者の動機」●一家4人を待伏せして殺した「19歳のワル」
    • Sの実名、当時『FOCUS』記者の清水潔が撮影した送検されるSの写真、被害者一家のうち男性Aと妻D子の顔写真を掲載した。
  • 祝康成(永瀬隼介) 『19歳の結末 一家4人惨殺事件』 新潮社2000年9月15日ISBN 978-4104398010
    • 著者の永瀬がSとの面会やSの家族、Sと結婚したフィリピン人女性の家族、熊本県在住の被害者遺族ら事件当事者たちへの取材などを重ね、Sの最高裁上告中に出版したノンフィクション。Sは実名で登場するがその他の人物は全て仮名である。
  • 永瀬隼介 『19歳 一家四人惨殺犯の告白』 角川文庫2004年8月25日ISBN 978-4043759019
    • Sの死刑が確定した3年後の2004年、『19歳の結末』を新たに第9章「死刑」(2000年の『19歳の結末』刊行から2001年の最高裁判決まで)を描き下ろしとして加えた上で文庫化した書籍。前者同様、Sは実名で登場するがその他の人物は全て仮名である。
  • 丸山佑介 『判決から見る猟奇殺人ファイル』 彩図社2010年1月20日、122-131頁。ISBN 978-4883927180「13【少年犯罪】市川一家殺人事件」
  • 福田洋 『20世紀にっぽん殺人事典』 社会思想社2001年8月15日、687-688頁。ISBN 978-4390502122「千葉・十九歳少年、一家四人殺し」
    • この文献では「事件当日午後にSが路上でB子と出会い、脅してB子宅に案内するよう命じた」とあるが、これは誤りである。
  • 村野薫(編集)、事件・犯罪研究会 (編集) 『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』 東京法経学院2002年7月5日、45-46頁。ISBN 978-4808940034「市川の一家4人殺害事件」(鎌田正文

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ B子はAの実子ではなく、母D子が離婚した前夫との間にもうけた連れ子の養女であった[書籍 13][報道 7][報道 8][報道 9]
  2. ^ 少年法第61条「第4章雑則:記事等の掲載の禁止」が法的根拠である。もっとも、B子は全くの被害者であるに留まらず、Sによる複数回の強姦被害者でもあるため、いずれにせよマスメディアはそれに配慮してB子を匿名にせねばならなかった。
  3. ^ 確定判決では後述のように、4人のうちB子の妹E子に対する殺害を強盗殺人罪ではなく単純殺人罪と認定した[最高裁判決文 1]
  4. ^ 本事件で殺害されたB子の父方の祖母C子とは別人の、事件後B子を引き取った熊本県在住のB子の母方の祖母のこと。
  5. ^ Sに限らず、麻原彰晃などオウム真理教事件の死刑囚や永山、秋葉原通り魔事件の加藤智大、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件宮崎勤など、実際には過去に殺人前科のない初犯で死刑が確定した死刑囚は多数存在する。
  6. ^ 女子高生コンクリート詰め殺人事件と同年に発生した名古屋アベック殺人事件では第一審で死刑や無期懲役という極刑が当時少年2人に下されているが、そのことについては言及していない[書籍 76]
  7. ^ 永山則夫連続射殺事件大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件光市母子殺害事件といった死刑が確定した少年事件でさえ下級審は無期懲役判決だった[報道 70]。永山事件以降(および平成)に発生した少年犯罪では、第一審から上告審まで一貫して死刑判決が支持されたのは2016年(平成28年)に石巻3人殺傷事件の最高裁判決(一・二審の死刑判決を支持)が出るまでの間、長らく本事件のみであった[報道 70]
  8. ^ 2017年4月16日現在は『ヨミダス歴史館』(読売新聞)『聞蔵』(朝日新聞)など、全国紙5紙の記事データベースおよび『中日新聞・東京新聞データベース』にてSの実名を検索しても、この事件についての記事は1件もヒットしない。

出典[編集]

最高裁判決文
  1. ^ a b c d e f g h 最高裁第二小法廷判決 2001年(平成13年)12月3日、事件番号:平成8(あ)864
書籍出典
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  3. ^ 永瀬、2004 p.17
  4. ^ a b c d e f g 永瀬、2004 p.70
  5. ^ a b 年報・死刊廃止編集委員会 『光市裁判 年報・死刑廃止2006』 インパクト出版会2006年10月7日、278頁。ISBN 978-4755401695
  6. ^ a b c d e f g 永瀬、2004 p.58
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 永瀬、2004 p.72-73
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  9. ^ 永瀬、2004 p.109
  10. ^ 永瀬、2004 p.241
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 永瀬、2004 p.172-181
  12. ^ a b c d e f g h i j 永瀬、2004 p.72-73
  13. ^ 永瀬、2004 p.79-82
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  15. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw 丸山、2010
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  17. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 永瀬、2004 p.74-78
  18. ^ a b 蜂巣敦山本真人 『殺人現場を歩く』 ちくま文庫2008年2月6日、59-73頁。ISBN 978-4480424006「市川市一家四人殺害事件―人間が暴発する直前に見た『意味』と『無意味』のパノラマ」
  19. ^ 永瀬、2004 p.171
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  22. ^ a b c d e f g h i j k l m n 永瀬、2004 p.87-89
  23. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 永瀬、2004 p.90-91
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  26. ^ a b c d e 永瀬、2004 p.227-229
  27. ^ 年報・死刊廃止編集委員会 『死刑と憲法 年報・死刑廃止2016』 インパクト出版会、2016年10月10日、220頁。ISBN 978-4755402692
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『週刊新潮』1992年3月19日号p.145-149、『FOCUS』1992年3月20日号p.68-73の出典
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『週刊新潮』(新潮社)1992年3月19日号p.145-149 特集「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 『FOCUS』(新潮社)1992年3月20日号p.68-73「『待伏せ刺殺』『溶解炉』『伯母撲殺』『妹殺し』 続発『残酷殺人』若者の動機」●一家4人を待伏せして殺した「19歳のワル」
報道出典
  1. ^ a b c 日本経済新聞』1992年11月6日朝刊39面「公開の法廷へ 社長一家殺人の19歳少年 『強盗殺人』で起訴」
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 朝日新聞』1992年3月7日朝刊31面「19歳の少年を逮捕 カネ目当て、次々襲う 市川の家族4人殺人容疑」
    『朝日新聞』1992年3月7日朝刊千葉版「残忍な犯行『なぜ』 市川の一家4人殺人、強殺容疑で少年逮捕へ」
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『中日新聞』1992年3月10日夕刊ワイド面右8面「特報ワイド/千葉の一家4人殺害容疑者 19歳少年、犯行の背景 影落とす複雑家庭環境 人への思いやり育たず 一時は甲子園を目指す」
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 『朝日新聞』1992年3月8日朝刊千葉版「残忍な手口(衝撃の刃 市川の一家4人殺人:上)千葉」
    『朝日新聞』1992年3月9日朝刊千葉版「甘えた生活(衝撃の刃 市川の一家4人殺人:下)千葉」
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『中日新聞』1994年8月8日夕刊1面「一家4人殺害事件 19歳少年(当時)に死刑判決 千葉地裁『犯行は残虐で冷酷』」
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m 中日新聞』1992年3月7日朝刊31面「千葉の一家4人殺し 少年が自供、逮捕 家人帰宅待ち次々凶行『金が欲しかった』長女も刺し監禁」「低年齢・凶悪化 相次ぐ少年犯罪」
  7. ^ a b c d e f 『朝日新聞』1992年3月10日朝刊第一社会面「生存の長女は少年と無関係と判明 千葉の4人殺害(ニュース三面鏡)」
  8. ^ a b c d e 『中日新聞』1992年3月15日朝刊30面「長女が最大の被害者 千葉の一家4人殺害 一時は“共犯”扱い」
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 『朝日新聞』1992年3月10日朝刊千葉版「重い課題(衝撃の刃・報道検証 市川の一家4人殺人)千葉」
  10. ^ a b c 中日新聞』1992年3月6日夕刊19面「一家4人刺殺される 長女と男友達から聴取 千葉のマンション」
  11. ^ a b c d e f g h i j k 読売新聞』1992年3月6日夕刊19面「一家4人殺される 市川のマンション 部屋に高一の養女 男友達も、事情聴く」
    『読売新聞』1992年3月7日朝刊31面「19歳店員を逮捕 市川の一家4人殺し 犯行ほぼ自供 帰宅親子を次々 前日から強盗目的で侵入 一家とは面識なし」
  12. ^ a b c d e f g h 日本経済新聞』1992年3月6日夕刊19面「一家4人殺される? 千葉・市川のマンション」
    『日本経済新聞』1992年3月7日朝刊31面「金欲しさ、帰宅待ち凶行 市川の一家4人殺害 19歳少年を逮捕 祖母絞殺後、次々と 長女も監禁 金工面の電話させる」「残忍な犯行 大きな衝撃」「少年犯罪、凶悪化の一途」
    『日本経済新聞』1992年3月7日夕刊11面「市川の一家4人殺害 少年を本格追及 千葉県警」「『園児には話せない』二女の保育園」
  13. ^ a b 『朝日新聞』1992年11月6日朝刊第二社会面「強盗殺人罪などで少年を起訴 市川の一家4人殺害事件」
    『朝日新聞』1992年11月6日朝刊千葉版「市川の一家4人殺人で少年起訴 刑事処分妥当と判断」
  14. ^ a b c 『朝日新聞』1993年2月18日朝刊千葉版「傷害・恐喝などの被告を追起訴 市川の四人殺害事件/千葉」
  15. ^ a b c d e f 『中日新聞』1994年4月5日朝刊26面「『少年』に死刑求刑 千葉地裁 一家4人強殺で検察側」
  16. ^ a b c d e f g 『朝日新聞』1992年3月11日朝刊千葉版「長女を使い、通帳も手に 市川の家族4人殺し」
  17. ^ a b c 『日本経済新聞』1992年3月11日朝刊39面「長女使い通帳奪う 千葉の一家殺害の少年」
  18. ^ 『日本経済新聞』1992年3月11日朝刊39面「長女使い通帳奪う 千葉の一家殺害の少年」
  19. ^ a b c 『読売新聞』1992年3月11日朝刊31面「凶行後、養女5時間連れ回す 一家4人殺害“異常な17時間” 『200万円に足りない』と会社から通帳持ち出さす」
  20. ^ a b c 『日本経済新聞』1992年3月8日朝刊31面「『200万円欲しくて』 市川の一家殺害 逮捕の少年供述」
  21. ^ a b c d e f 『読売新聞』1992年3月8日朝刊31面「一家4人殺害 『200万円欲しかった』 容疑者の少年供述『ヤクザに脅されて』」
  22. ^ a b c 『日本経済新聞』1992年3月9日朝刊35面「4人殺害の少年送検 千葉県警」
  23. ^ a b c d e f g h i 『東京新聞』2001年12月4日朝刊1面「犯行時19歳の死刑確定へ 市川の一家4人殺害 最高裁が上告棄却」
    『東京新聞』2001年12月4日朝刊27面「早く消えたい…自暴自棄にも 今は生き抜き罪あがないたい 僕の経験が反面教師になれば 『死刑確定』の当時19歳、心境赤裸々に 市川4人殺害 本紙に告白手記 今なおいえぬ遺族の心の傷」
  24. ^ a b c d e f 『東京新聞』2000年7月29日夕刊11面「前線日記 19歳で一家4人殺害 拘置所からの手紙 『凶悪犯罪生む勝ち組社会』『夢も希望もない』 少年法厳罰化『きっと変わらない』」
    『中日新聞』2000年7月29日夕刊11面「死刑判決元少年からの手紙 『少年法考えなかった』『私は将来を求めない』 あの日がフラッシュバック 法改正しても『変わらぬ』 『勝ち組』社会に不平等感」
  25. ^ a b 『朝日新聞』1992年3月6日夕刊19面「一家4人刺殺される 長女・友人から聴取 市川」
  26. ^ a b c d e f g 『朝日新聞』1992年3月19日朝刊第三社会面29面「原則実名から広がる匿名 2つの殺人事件報道―新聞編(メディア)」(※本事件と、前月に発生した飯塚事件における犯罪被害者の実名報道のあり方についての記事)
  27. ^ a b c 『朝日新聞』1992年3月18日朝刊29面「『匿名』『実名』分かれる判断 2つの殺人事件報道―テレビ編(メディア)」(※本事件と、前月に発生した飯塚事件における犯罪被害者の実名報道のあり方についての記事)
  28. ^ 『日本経済新聞』1992年3月26日朝刊39面「19歳少年精神鑑定へ 千葉の一家4人殺し」
  29. ^ 『読売新聞』1992年3月26日東京朝刊31面「千葉・市川の一家4人殺し 少年を鑑定留置」
  30. ^ a b c d e f g 『読売新聞』2001年12月4日東京朝刊1面「犯行当時19歳・市川の一家4人殺害 上告棄却、最高裁も死刑支持」
    『読売新聞』2001年12月4日東京朝刊38面「千葉・市川の一家4人殺害の元少年死刑 『冷酷、残虐』と極刑選択/最高裁」「3日の千葉・市川の一家4人殺害事件の判決要旨」
    『読売新聞』2001年12月4日東京朝刊京葉34面「市川の一家4人殺害上告棄却 凶悪犯罪も当時、未成年 住民ら極刑に複雑=千葉 ◇一家4人殺害事件の経過」
  31. ^ 『中日新聞』1992年10月2日朝刊27面「4人殺害の少年『刑事処分相当』 千葉地検が家裁送致」
  32. ^ 『朝日新聞』1992年10月3日朝刊千葉版「『刑事処分相当』と少年を家裁に送付 市川の家族4人殺害」
  33. ^ 『朝日新聞』1992年10月28日朝刊千葉版「少年を千葉地検に逆送致 家裁で4回審判 市川の一家4人殺人」
  34. ^ 『中日新聞』1992年11月6日朝刊31面「一家4人殺害の19歳少年を起訴 千葉、公開法廷へ」
  35. ^ 『読売新聞』1992年11月6日東京朝刊31面「千葉・市川の一家4人殺し 19歳少年を起訴」
  36. ^ a b c d 『朝日新聞』2001年12月4日朝刊1面「上告棄却で犯行時19歳の死刑確定 千葉・市川の一家殺傷事件」
    『朝日新聞』2001年12月4日朝刊33面「『適用基準』改めて確認 市川の殺人、未成年の死刑確定<解説>」
  37. ^ 『朝日新聞』1992年12月10日朝刊千葉版「市川一家4人殺人(92千葉・あの時その瞬間:1)」
  38. ^ a b 『朝日新聞』1992年12月26日朝刊千葉版「少年、強盗殺人の一部否認 家族4人殺人事件の初公判 千葉」
    『朝日新聞』1992年12月26日朝刊23面「2人について殺意を否認 市川市の『4人殺害』事件公判」
  39. ^ a b 『朝日新聞』1993年3月4日朝刊千葉版「『目的は金』と検察冒頭陳述 市川の一家四人殺害公判/千葉」
  40. ^ a b 『朝日新聞』1993年5月20日朝刊千葉版「再度の精神鑑定決定 市川の4人殺人事件公判/千葉」
  41. ^ a b c 『朝日新聞』1993年11月23日朝刊千葉版「市川の4人殺人公判 弁護側から鑑定書提出/千葉」
  42. ^ a b c 『日本経済新聞』1994年4月5日朝刊35面「少年(当時)に死刑求刑 千葉・市川の一家4人殺害 検察『身勝手、残虐な犯行』」
  43. ^ a b c d 『朝日新聞』1994年4月5日朝刊千葉版「極刑に廷内重苦しく 市川の一家殺害で死刑求刑/千葉」
    『朝日新聞』1994年4月5日朝刊31面「検察、死刑を求刑 19歳少年の一家4人強盗殺人 千葉地裁」
  44. ^ 『読売新聞』1994年4月5日東京朝刊27面「市川の一家4人殺し 当時19歳少年に死刑求刑 酌量の余地ない/千葉地裁」
  45. ^ 『朝日新聞』1994年6月2日朝刊千葉版「『罪を償いたい』最終弁論で市川の一家4人殺人の被告/千葉」
  46. ^ a b c d e f g h i j 『読売新聞』1994年8月8日東京夕刊1面「犯行時19歳少年に死刑判決 市川の一家4人殺害 未成年、5年ぶり 千葉地裁」
    『読売新聞』1994年8月8日東京夕刊15面「一家4人殺害 死刑…重苦しい廷内 『尊い命、命で償いを』/千葉地裁」
    『読売新聞』1994年8月9日東京朝刊11面「事件時19歳少年に死刑判決 『少年法の精神』論議の時期(解説)」
  47. ^ a b c d e f g h 『朝日新聞』1994年8月8日夕刊1面「犯行時19歳の被告に死刑 一家4人殺人 千葉地裁、罪刑の均衡重視」
  48. ^ a b c d e f g h 『日本経済新聞』1994年8月8日夕刊1面「少年(当時)に死刑判決 市川の一家4人殺害 千葉地裁『冷酷非道な犯行』」
  49. ^ 『朝日新聞』1994年8月9日朝刊23面「死刑判決受けた被告が東京高裁に控訴 市川の一家4人強殺事件」
  50. ^ 『中日新聞』1994年8月9日朝刊22面「死刑判決の被告控訴」
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  52. ^ a b c d e f g h 『日本経済新聞』1996年7月2日夕刊17面「当時19歳被告 二審も死刑 千葉・市川の一家4人殺害 東京高裁判決」
  53. ^ a b c d e f g h i j 『読売新聞』1996年7月2日東京夕刊1面「千葉・市川の一家4人殺し 犯行時19歳少年、二審も死刑 東京高裁が控訴棄却」
  54. ^ a b c d e 『朝日新聞』1996年7月2日夕刊1面「犯行時、19歳被告の死刑を支持 市川の一家殺人事件 東京高裁判決」
  55. ^ a b c d e f 『中日新聞』1996年7月2日夕刊15面「千葉の一家4人殺害 当時少年も死刑 東京高裁『犯した罪は重大』」
  56. ^ a b c d 『産経新聞』1996年7月2日東京夕刊社会面「市川の一家4人殺害 当時少年、二審も死刑 東京高裁判決『罪の重大性から相当』」
  57. ^ 『読売新聞』2001年3月6日東京朝刊38面「千葉・市川の一家4人殺害事件 最高裁、来月に弁論」
  58. ^ 『朝日新聞』2001年3月6日朝刊38面「市川の殺害、来月弁論 最高裁」
  59. ^ a b 『朝日新聞』2001年4月14日朝刊38面「最高裁で弁論 市川の一家殺害事件」
  60. ^ a b 『東京新聞』2001年4月14日朝刊24面「一家殺害上告審『幼児期の虐待影響』犯行時少年被告 弁護側、死刑回避訴える」
  61. ^ a b c d 『日本経済新聞』2001年4月14日朝刊39面「千葉の少年 一家4人殺害弁護側『死刑回避を』最高裁で弁論 今夏にも判決」
  62. ^ 『読売新聞』2001年11月14日東京朝刊京葉30面「市川の一家4人殺害事件 上告審判決、12月3日に=千葉」
  63. ^ a b c d 『中日新聞』2001年12月4日朝刊31面「犯行時少年の死刑確定へ 千葉の一家4人殺害 最高裁が上告棄却」「被告が本紙に手記 『僕を反面教師にして』」
  64. ^ a b c 『日本経済新聞』2001年12月4日朝刊39面「当時19歳被告死刑確定へ 千葉の一家4人殺害 最高裁が上告棄却」
  65. ^ a b 『朝日新聞』2001年12月22日朝刊30面「市川の一家殺害で死刑判決が確定 最高裁、申し立て棄却」
  66. ^ a b 『中日新聞』2001年12月22日夕刊10面「当時19歳の死刑確定」
  67. ^ a b 『読売新聞』2001年12月22日東京朝刊30面「千葉・市川の一家4人殺害事件 元少年の死刑確定/最高裁第二小法廷」
  68. ^ a b 『日本経済新聞』2001年12月22日西部朝刊17面「当時少年の死刑確定 千葉の一家4人殺害」
  69. ^ 『中日新聞』2010年11月28日朝刊1面「中日春秋」
    『東京新聞』2010年11月28日朝刊1面「筆洗」
  70. ^ a b 『朝日新聞』2010年11月26日朝刊宮城全県版第一地方面29面「向き合った極刑の重み 石巻・3人殺傷に死刑判決 ドキュメント/宮城県」(※石巻3人殺傷事件裁判員裁判により死刑判決が言い渡されたことを伝える記事)
  71. ^ 『中日新聞』2011年3月11日朝刊30面「リンチ殺人死刑確定へ 実名『更生する可能性なく』匿名『少年法の精神基づく』 報道各社対応割れる」(※大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の最高裁判決を報じる記事)
  72. ^ 『朝日新聞』2004年6月21日朝刊30面「朝日新聞指針『事件の取材と報道2004』 4年ぶり全面改訂」
  73. ^ 『朝日新聞』2011年3月11日朝刊1面「元少年3人死刑確定へ 最高裁 4人殺害『責任重大』」(※大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の最高裁判決を報じる記事)
  74. ^ a b c d e 『朝日新聞』1992年3月27日朝刊29面「論議呼ぶ19歳容疑者の実名報道 少年法巡り異なる見方(メディア)」
  75. ^ 『朝日新聞』1992年3月26日朝刊29面「新潮社の少年報道、人権を損なう 東京弁護士会が要望書」

関連項目[編集]