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市川一家4人殺人事件

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市川一家4人殺人事件
場所

日本の旗 日本千葉県市川市幸2丁目(行徳地区)[報道 1]

東京湾沿いの9階建てマンション8階806号室[報道 1]
座標
標的 事件の1か月前に強姦した女子高生一家5人
日付 1992年(平成4年)3月5日 - 3月6日
午後4時30分頃 – 午前9時頃 (UTC+9)
概要 当時19歳の少年が行きずりの少女を強姦し、身分証明書を脅し取った。
その1か月後、その少女が住むマンションの一室に強盗目的で押し入り、住民一家(少女の家族)5人のうち、少女を除く4人を次々に絞殺・刺殺した。
その間、金品を被害者宅・勤務先から奪いつつ、少女を長時間監禁し、さらに強姦した。
攻撃側人数 1人
武器 電気コード、刃渡り22.5cmの柳刃包丁1本(平成5年押収第52号の1)[判決文 1][判決文 2][判決文 3]
死亡者

会社役員社長一家4人

雑誌編集会社社長男性A(事件当時41歳、少女Bの養父)
女性C(事件当時83歳、Aの実母、Bの父方の祖母)
雑誌編集会社取締役女性D(事件当時36歳、Aの妻、B・E姉妹の実母)
幼女E(事件当時4歳、A・D夫妻の実子・Bの妹)
負傷者 事件当時15歳少女B(当時県立高校1年の女子高生、Aの養女・Dと前夫との間に生まれた実娘)
損害 現金約34万円、預金通帳計9冊(額面合計424万円3412円)、印鑑7個[判決文 1]
犯人 少年S(犯行当時19歳)
動機 窃盗(空き巣)目的で侵入後、居直り強盗
対処 逮捕起訴
刑事訴訟 死刑少年死刑囚執行済み[報道 2]
影響 犯行当時少年に対する死刑確定・執行(少年死刑囚)は、永山則夫以来のことだった[報道 2]
その残忍な犯行から、日本社会を震撼させ[書籍 1]、衝撃を与えたこの事件は[報道 3][報道 4][報道 5]少年法の在り方などに論議を呼んだ[報道 6]
作家・永瀬隼介(祝康成)が、加害者少年と交流し、本事件関連の著書(#関連書籍参照)を出版した。
管轄 千葉県警察葛南警察署(事件当時の所轄署。2017年現在、現場一帯は行徳警察署管内)
千葉地方検察庁
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最高裁判所判例
事件名 市川の一家強盗殺人事件
事件番号 平成8年(あ)第864号
2001年(平成13年)12月3日
判例集 『最高裁判所裁判集刑事編』(集刑)第280号713頁
裁判要旨
  • 本件上告を棄却する。
  • 動機に酌量の余地がなく、4名の生命を奪ったという結果が極めて重大である上、犯行の態様が冷酷、執ようかつ残虐で、家族を一挙に失い、自らも強盗強姦等の被害に遭った少女の被害感情は非常に厳しく、社会的影響も重大である。
  • その犯行態様、結果ともに悪質であることなどの情状に照らすと、被告人の罪責は誠に重大であり、本件各犯行当時、被告人が18歳から19歳であったことなどの事情を考慮しても、原判決が維持した第1審判決の死刑の科刑は、やむを得ないものとして当裁判所もこれを是認せざるを得ない。
第二小法廷
裁判長 亀山継夫
陪席裁判官 河合伸一福田博北川弘治梶谷玄
意見
多数意見 全員一致
意見 なし
参照法条
強盗殺人殺人強盗強姦恐喝窃盗傷害強姦強姦致傷
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市川一家4人殺人事件(いちかわいっか4にんさつじんじけん)とは、1992年平成4年)3月5日深夜、千葉県市川市2丁目(行徳地区)にあるマンションで、犯行当時19歳の少年がマンション在住の一家4人を殺害し[報道 1][報道 7][報道 8][報道 9][報道 10][報道 11]、被害者遺族の少女を強姦した、強盗殺人・強姦事件(少年犯罪[報道 1][判決文 1][判決文 2][判決文 3]

平成の少年犯罪では初の死刑確定事件(少年死刑囚)であり[書籍 2]、10代の少年による底知れぬ残忍な犯行として日本社会を震撼させ[書籍 1]、衝撃を与えたこの事件は[報道 3][報道 4][報道 5]、その重大性から少年法の在り方などに論議を呼んだ[報道 6]

目次

加害者・被害者[編集]

元死刑囚S(犯行当時19歳少年)[編集]

1973年昭和48年)1月30日生まれ[判決文 1][判決文 2][判決文 3][書籍 3][書籍 4][書籍 5]。一連の事件で逮捕された当時、千葉県船橋市本中山のアパートに在住していた[判決文 1]

刑事裁判で死刑が確定し、2017年(平成29年)12月19日、東京拘置所死刑が執行された(44歳没)[報道 12][報道 13][報道 14][報道 15][報道 16][報道 17][報道 18]

ウナギの加工・販売業を営む母方の祖父Xの長女・母親Yと、Yと結婚してXの店で働き市川市内に在住していた元サラリーマンの父親Zの間に、長男として千葉県千葉市内で生まれた[判決文 1]。出生当時は市川市内に居住していたが、後に両親が同県松戸市内に転居したことから、同市内で幼少期を過ごした[判決文 1]

1979年(昭和54年)4月、転居先の松戸市内の[判決文 1]松戸市立和名ヶ谷小学校に入学[報道 19]し、1980年(昭和55年)9月[判決文 1]当時小学2年生の際に東京都江東区越中島に転居したことから[書籍 6]、同区内の[判決文 1]江東区立越中島小学校に転校した[報道 19]

しかし父Zが莫大な借金を抱え、義父Xの営む店に多大な損失を与えた上、暴力団員などによる厳しい取り立てに遭ったことに加え[判決文 1]、妻子に対しドメスティックバイオレンス(DV)・児童虐待を繰り返した[書籍 6]。そのため、母Y・5歳年下の弟とともに夜逃げ同然に家を出て[判決文 1]葛飾区立石のアパートに移住した[書籍 7][判決文 1]。1983年3月、母Yは父Zと調停離婚した[新潮 1]

当時小学5年生だったSは[報道 20]、翌1983年(昭和58年)1月から[判決文 1]葛飾区立清和小学校に通学した[報道 19]

両親の離婚・生活環境の劣化・転校などから学校でいじめを受けるなど、不遇な生育環境で育ち、不遇感を抱いて育った[判決文 1]

1985年(昭和60年)4月[判決文 1]葛飾区立立石中学校に入学した[新潮 2][新潮 1]

中学卒業後の1988年(昭和63年)4月[判決文 1]堀越高等学校普通科大学進学コースに入学したが[新潮 2]、わずか一年後の1989年(平成元年)5月31日付で[新潮 2]中退した[判決文 1]

高校中退後、祖父Xの経営する鰻屋を手伝うが、母や弟への家庭内暴力不良仲間らとの徘徊行為、未成年者にも拘らず飲酒喫煙を行うなど、生活は荒れていった[判決文 1]。事件直前には本事件の被害者一家宅を知るきっかけとなった強姦事件を含め、多数の傷害・強姦・強姦致傷・恐喝・窃盗などの事件を起こし、この頃には鰻屋も無断欠勤して辞めており、ほぼ無職の身だった[判決文 1]

#関連書籍で後述するように、本項目の出典となっている書籍・雑誌記事に死刑囚の実名が掲載されているが、本記事中では、死刑囚が初記述からイニシャル表記されている日本における収監中の死刑囚の一覧との表記矛盾の解消を兼ねて、それらの文献で記載されている実名の姓に基づくイニシャル「S」で表記する[新潮 2][新潮 1][書籍 8]。なお、実名・イニシャルを掲載している一部文献で、実名の漢字が誤読され、読みが「S・M」となっている文献があるが、正しくは「S・T」である(#参考文献を参照)。

被害者一家[編集]

被害者一家は、営団地下鉄(現:東京メトロ東西線行徳駅から南東約2kmの[報道 11]東京湾に面した、首都高速湾岸線千鳥町出入口付近に位置する[報道 9]、市川市幸2丁目の新興住宅街に建つ[報道 8][報道 9][報道 10][報道 11]、9階建てのマンションに住んでいた[書籍 9]

1990年頃、Aは「ベルギーのペンションを買いたい。ベルギーならドイツにもフランスにもすぐに行ける。(事件の発生した)1992年にEC(欧州諸共同体)統合があるので、あちらに拠点を持って活動したい」と語っていたが、その夢はSの凶行によって無惨にも断ち切られた[新潮 2][書籍 10]

男性A(死亡)

1950年(昭和24年)8月10日生まれ[判決文 1]、41歳没[報道 8][報道 9][報道 11][報道 10]。事件7年前の1985年、写真週刊誌『Emma』(文藝春秋)記事に掲載された、当時ロス疑惑で注目を浴びた三浦和義が、スワッピング・パーティーに参加した際のプライベート写真を撮影した、フリーランスのカメラマンであった[書籍 11][新潮 2][新潮 1]

1987年(昭和62年)3月に後述の女性Dと結婚し、連れ子の少女Bを養子として引き取った[判決文 1]。同年8月に妻Dとともに、行徳駅前のマンションを事務所に[報道 8]、雑誌の出版・編集などの業務を行う株式会社を設立し[判決文 1]、その取締役を務めていた[判決文 1][報道 8]。結婚後は、年頃の娘を持つようになったことから、それまでの風俗関連から離れ[新潮 1]、事件直前まで妻Dと共に料理雑誌の仕事を中心にし[新潮 2][報道 8][新潮 1]、フリーランスのカメラマンとして、レストラン・温泉地などの写真を撮影していた[判決文 1]。近隣住民の話によると夫婦揃ってカメラボックスを抱えて事務所に出入りする姿も見られたという[報道 8]

1992年3月5日午後9時40分頃、帰宅した直後、背後からSに左肩を刺されて致命傷を負った[判決文 1]、翌6日午前零時半頃、Sに包丁で背中を再び刺され、出血多量で死亡した[判決文 1][書籍 12]

少女B(負傷)

1976年(昭和51年)3月19日生まれ[判決文 1]、事件当時15歳[報道 8][報道 9][報道 11][報道 10]

Dの長女で、事件当時は船橋市内の県立高校に通学する1年生だった[判決文 1][書籍 13][報道 8][報道 9][報道 11][報道 10]。Aの実子ではなく、母Dが離婚した前夫との間にもうけた連れ子で[書籍 14]、AとはDが再婚した際、養子縁組した養女であった[判決文 1][報道 21][報道 22][報道 23]

共働きの両親に代わり、10歳以上離れた妹Eを朝夕と保育園に送迎するなど[報道 24]、優しい性格であった[報道 21]。通学する県立高校では、演劇部や美術部などに所属し、クラスの副委員長も務め[報道 21]、将来は美術関係の大学進学を希望する、ごく普通の女子高生だった[書籍 15]

一連の事件では、事件前の1992年2月12日、Sのアパートに拉致され、2回強姦された[判決文 1][書籍 16]

1992年3月5日夕方、帰宅直後からSが逮捕されるまでの約14時間にわたり、Sに監禁された[書籍 15][書籍 17][報道 24][報道 8]。その目の前で、母D・父A・妹Eと、既に殺されていた祖母Cを除く家族3人を惨殺された[判決文 1]

これに加え、母Dを目の前で殺害された直後に1回[書籍 18]、父Aを殺害されSにラブホテルに連れ込まれた際に2回と[書籍 17]、計5度にわたってSに強姦される被害を受けた[判決文 1]

事件後、両親の知人の下へ身を寄せた後、事件1年後の1993年に熊本県の母方の実家に引き取られた[書籍 19]。高校卒業後は故郷の熊本を離れ、事件前から夢見ていた美術系大学に進学し、2000年春に卒業した[書籍 20]。永瀬の取材に対しては「もう、事件のことは忘れました。でないと前に進めませんから。(犯人のSが)どういう刑を受けようと、まったく関心ありません。でも(極刑は)当然だと思います」と気丈に語っており、知人に対しては「バリバリ働いて私を育ててくれた母のようなキャリアウーマンになりたい」と将来の希望を語っていた[書籍 20]

その後、Sの死刑確定後の2004年(平成16年)春、かねてから交際していた男性と結婚した[書籍 21]。その後、日本を離れ、生前の両親の夢であったヨーロッパで暮らしているという[書籍 21]

『東京新聞』の取材に対し、事件現場近所の主婦は、一人遺されたBについて「心に受けた深い傷は想像を絶する。幸せを願い、そっとしておいてあげたい」と気遣った[報道 25]。現場に駆けつけた当時の捜査幹部は「とにかく酷かった。母親に息子夫婦、幼い子まで…被害者のために、間違いのないようになんとか裁判まで持っていこうと全力を尽くした」と振り返った[報道 25]

女性C(死亡)

1908年(明治41年)7月4日生まれ[判決文 1]、83歳没[報道 8][報道 9][報道 10][報道 11][書籍 9]

Aの実母。B・Eの父方の祖母[判決文 1]。高齢のため、散歩に出るとき以外は玄関北側の自室で過ごしていたことが多かった[判決文 1]

1992年3月5日午後4時半頃、自宅に侵入してきたSに首を絞められ、窒息死で死亡し、一連の事件で最初の犠牲者となった[書籍 12][書籍 22]

女性D(死亡)

1955年(昭和30年)6月19日生まれ[判決文 1]、36歳没[報道 8][報道 9][報道 10][報道 11]

Aの妻。1987年(昭和62年)3月にAと結婚し、同月に次女Eを出産した[判決文 1]。『読売新聞』報道によれば、前夫との間に生まれたBと一緒に、出身地の熊本県八代市から市川市に転居し、行徳駅前のマンションに部屋を借りて写真の勉強をしていた[報道 8]。その後、フリーカメラマンだったAと知り合って結婚・Eを出産し、1988年8月に現場マンションに引っ越した[報道 9]

1987年8月、雑誌の出版・編集などの業務を行う株式会社を夫Aと共に設立し、その代表取締役を務め[判決文 1][報道 8]、「中村小夜子」というペンネームで[新潮 2][新潮 1]、フリーランスのライターとして料理雑誌などのコラム欄などを担当していた[判決文 1]

1992年3月5日午後7時頃、長女Bとともに帰宅した直後、Bの目の前でSに包丁で刺され、出血多量で死亡した[判決文 1][書籍 22][書籍 23][書籍 24]

幼女E(死亡)

1987年(昭和62年)3月17日生まれ[判決文 1]、4歳没[書籍 18][報道 8][報道 9][報道 10][報道 11]。A・D夫妻の長女だが[報道 1][報道 8]、既に養女としてBがいたため「次女」とされることが多い。

Bの妹で、事件当時は市川市内の保育園に通う保育園児だった[判決文 1]。 1992年3月6日午前6時半頃、姉Bの目の前でSに包丁で刺され、出血多量で死亡した[判決文 1]

保育園の職員は、園児たちに対し、Eについては事件のことは伏せて「遠くに引っ越した」と伝えたという[報道 24][報道 26]

事件前の経緯[編集]

数々の暴力的犯罪[編集]

1991年10月19日、東京都江戸川区内における傷害事件[編集]

Sは一家殺害事件前年の1991年(平成3年)10月19日午後4時50分頃、愛車のトヨタ・クラウンロイヤルサルーンを運転し、東京都江戸川区上篠崎にある、祖父Xの経営するウナギ料理チェーン店の支店付近の道路を走行していた[判決文 1]

その際、当時34歳男性が運転する車両が、Sの前を先行して走っていたが、Sは「男性の車の速度が遅い」と立腹した[判決文 1]

男性の車が赤信号に従って停車すると、Sはその車の運転席側に駆け寄り、「とろとろ走りやがって、邪魔じゃないか」などと怒鳴りつけた[判決文 1]

その上で、開いていた窓から手を差し入れてエンジンキーを回し、エンジンを停止させた[判決文 1]

男性が車を降りると、Sはいきなりその顔面を拳で複数回殴りつけた[判決文 1]。そして、男性を支店の建物内に連れ込み、店の厨房内に置かれていた、長さ約112cmの鰻焼台用鉄筋で、男性の背中・左肘を1回ずつ殴りつけ、男性に全治3週間の頭部・胸部・左肘への打撲、挫創の怪我を負わせた(罪状その1、傷害罪)[判決文 1]

1992年2月、暴力団員とのトラブル[編集]

1992年2月6日[判決文 1][書籍 25]、Sは、市川市内のスナックバーに勤めるフィリピン人のホステスを連れ出し、店に無断で自宅アパートに泊めた[判決文 1][書籍 4]

その上で、このホステスと性的関係を持ち、ホステスをマンション自室に閉じ込め、負傷させた[報道 27]

1992年2月8日、店に帰ったホステスが、このことを店の関係者に泣きながら訴えた[書籍 4]

店の関係者は激怒し、暴力団に「落とし前」を依頼したため、Sはそれ以降、暴力団に追われる身となった[書籍 4]

Sは後述のように暴力団組員から200万円を要求されていた一方で、一連の犯罪に使ったのは高級セダンの自家用車[報道 28]、時価400万円のクラウンロイヤルサルーンだった[書籍 26][書籍 9][新潮 2][新潮 1]

写真週刊誌FOCUS』(新潮社)1992年3月20日号の特集記事では、「自分の車を売ればそれなりの金は工面できるとは思わなかったのだろうか。彼の考えは盗み―動機は単純かつ不可解で、その結末が残忍極まりない一家4人惨殺に繋がってしまった」と記された[新潮 1]

1992年2月11日未明、東京都中野区内における傷害・強姦事件[編集]

1992年2月11日午前4時30分頃[判決文 1]、Sは高円寺に住むバンド仲間のアパートから、クラウンに乗って帰宅しようとしていた[書籍 27]

その際Sは、東京都中野区新井の路上で[判決文 1]、当時24歳の会社員女性が、1人で左側歩道上を歩いているのを見つけた[判決文 1]

Sは、鬱屈した気分を晴らそうと、「女性を殴ろう」と思い、道を尋ねるふりをして、女性に近づいた[判決文 1]

その直後、Sはいきなり女性に対し、顔を拳で思い切り数回殴りつけるなど暴行を加えた[判決文 1]。これにより、女性に全治3か月半の鼻骨骨折・顔への擦り傷という傷害を負わせた(罪状その2、傷害罪)[判決文 1]

Sは、座り込んだ女性の顔を見たところ、意外に若かったことから、この女性を強姦しようと考えた[判決文 1]

Sは、その髪の毛をわしづかみにして引っ立て、「車に乗れ」と脅し、女性を無理矢理、クラウンの後部座席に押し込み、車を発進させた[判決文 1]

Sは、女性に対し、「病院に連れて行く」などと言い、車を走行させた上で、船橋市本中山の自宅アパートに、女性を連れ込んだ[判決文 1]

午前6時半頃、Sは女性の衣服をはぎ取り、女性を全裸にした上で、強姦した(罪状その3、強姦罪)[判決文 1][書籍 27]

Sはこの時、「強姦は、性欲の解消以上に、(自分に)優越感と自信を与えてくれる」と思った[書籍 27]。同時に、それまでの鬱屈した気分が嘘のようにスカッとし、「セックスと暴力は繋がっている」とも確信したという[書籍 27]

Sは、暴力の持つ達成感・陶酔感について、面会人の作家・永瀬隼介に対し、「傷害にしろ、強姦にしろ、他人の血を見るということは興奮するものです。とくに、しだいに相手が弱ってきて自分に従うようになり、どうにでも好きなように動かせるとなった時に見るそれは、僕の中では勝利の象徴として溜飲を下げるのに大いに役立ちました」、「一度強姦や強烈な傷害事件を成功させ、クリアしたことで、変な方向に自信を持ってしまい、もう一度やってみよう、出来るはずだ、出来るだろう、となっていったのです」と語っている[書籍 28][書籍 29]

またSは、一家殺害事件で逮捕後、この強姦事件について取り調べを受け、その後監獄生活を送るようになっても、しばらくはまったく反省していなかった[書籍 24]

それどころか、「どうせ捕まるのなら学生の頃、昔から好きだった女の子にしておけばよかったよな。同じ罪になるならいっそのこと、かねてから憧れだった女性を狙っておけば本望なので納得もできただろう」など、自己中心的な意味の筋違いな後悔しかしておらず、被害者の心情に思いを馳せるようなことなどしていなかったという[書籍 24]

しかし同日夜、Sの自宅アパートに、前述のホステスの件で暴力団組員7人が押し掛けた[書籍 16]。そのため、Sはクラウンに飛び乗って逃げたが[書籍 16]、店から依頼されていた外国人ホステス斡旋業者らがSを車から降ろそうと、クラウンの後部窓ガラスを叩き割った[判決文 1]

1992年2月12日未明、被害者一家宅を知るきっかけとなった、被害者少女Bへの強姦致傷事件[編集]

OLを強姦してから、約22時間後の1992年2月12日午前2時頃[判決文 1][書籍 16]、当時15歳で県立高校1年生の少女Bは[書籍 30]、夜遅くまで勉強していた[書籍 16]

その途中、シャープペンシルの替え芯が切れたため、Bは替え芯を買いに、自転車で出かけ、自宅マンション付近のコンビニエンスストアに行き、買い物を終えて帰宅しようとしていた[判決文 1][書籍 16]

クラウンを運転していたSは、帰宅途中だったBを見つけたため、マンション前の狭い路地で、Bの背後から近づき、自転車の後輪に、クラウンの左前部を衝突させた[判決文 1][書籍 16]

Bは自転車ごと路上に転倒し[書籍 16]、路上に投げ出され、右膝に擦り傷を負った[書籍 16]

車から降りたSは、ひき逃げと訴えられないように[判決文 1]、「病院に連れて行く」と、Bに優しく声を掛けた[書籍 16][書籍 12]

その上でSは、Bを車に乗せ[判決文 1]浦安市内の救急病院で、治療を受けさせた[書籍 16][書籍 12]。Bは当初、Sを警戒してはいたが、治療をさせてもらった後、自宅まで送り届けてもらうことを約束され、安心した[書籍 12]

しかし、Bを自宅に送るため、市川市・船橋市方面に向け、車を走行させていた途中で[判決文 1]、Sは「このまま帰すのはもったいない、強姦してやろう」と[書籍 12]、にわかに劣情を持ち[判決文 1]、突然人気のない路肩に車を停めた[書籍 12]

Sは車内で、本性を現し[書籍 16]、刃渡り約6.7cmの折り畳み式ナイフ(平成5年押収第52号の2)を、Bに突き付けた[判決文 1]。Sはナイフの刃を、Bの手の指の間にこじ入れ、ぐりぐりとこね回した[書籍 16]

Bが抵抗すると[書籍 16]、SはBの左頬・左手を切り付け、全治約2週間の顔面挫創・左手挫創の傷害を負わせた[判決文 1]、「黙って俺の言うことを聞け」と脅した[書籍 12][書籍 16]

Bは、突如牙を剥いたSに、震えおののき、そのままSのアパートまで拉致された[判決文 1][書籍 16]

同日午前3時ごろから、午前6時頃までの間[判決文 1]、Sは2度にわたり、Bを強姦した(罪状その4、強姦致傷罪)[判決文 1][書籍 16]

Sはその後、Bの手足を縛り、抵抗を抑圧した上で、Bの所持品を改め、現金を奪った[書籍 12]。その上で、Bが通っていた高校の生徒手帳から、住所・氏名を控え、いったん外に出た[書籍 12][書籍 16]

その後、Sが部屋に戻ると、Bは既に、自力で逃げ出していたが、Sはそれを特に、気に留めなかった[書籍 12]

このようにBには、永瀬隼介曰く、「まったくの偶然が招いた、あまりにも悲惨な形」で、Sとの接点があった[書籍 31]

この事件直後、千葉県警察葛南警察署に対し[注釈 1]、Bから被害届が出されたが、顔見知りの犯行ではなかったこともあり、Sは当時、捜査線上に上がってこなかった[報道 24]

1992年2月12日夜、暴力団組長らからの脅迫、200万円要求[編集]

二晩続けて見ず知らずの女性を強姦し、自分の力に自信を持ったSだったが、ヤクザという暴力のプロに対しては、情けないほど無抵抗だった[書籍 16]

Sは同日夜、大手暴力団住吉会系列の暴力団組長から[判決文 1]、東京都港区赤坂の東京全日空ホテル(現・ANAインターコンチネンタルホテル東京)に呼び出された[判決文 1][書籍 25]

Sはホテルで、組長とその手下(ホステスと関係のある暴力団組員)から散々脅された上、「お前のやったことは誘拐だ。女(Sが連れ込んだホステス)がこのままフィリピンに帰ったら店の損害は200万円になる。どうしてくれるんだ」と、「けじめ」として現金200万円を要求された[書籍 25][報道 29][報道 27]

Sは「ホステスを連れ出した件についてはそれなりのことをするつもりだ」と答え、その場を収めたが[判決文 1]、金のあてはなかったため、Sは暴力団の取り立てを恐れ、自宅アパートにも戻れず、車の中で寝泊まりする日々が続いた[書籍 25]

この日から一家4人を惨殺するまでの約20日間、Sは「このままだといずれ半殺しにされるか、運が悪ければ殺されて、コンクリート詰めにされ、東京湾に沈められるかもしれない」と恐れていた中、車絡みで2度の暴力・恐喝沙汰を起こした(後述)[書籍 32]

1992年1月頃、祖父Xは、Sから危害を加えられることを避けようと店舗内で寝泊まりしていた[判決文 1]。しかし、Sは祖父の店舗に窓ガラスを割って侵入し、就寝中の祖父を起こし現金110万円などを奪い取った[判決文 1]。被害を受けたXは、弁護士帯同の上で、千葉県警市川警察署に「Sが犯人だ」と刑事告訴したが、警察にも取り合ってもらえなかったという[報道 20]

これに加え、1992年2月下旬[報道 20]、Sは親類の家に出かけ[報道 27]、従兄弟に当たる高校3年生の大学進学準備金110万円を盗んだ[報道 20]。これについては、Sの犯行だとする確たる証拠こそなかったが、合い鍵で侵入されたことから、親戚たちは、「あいつに間違いない」と、Sに対し疑いの目を向けていた[報道 20]。この事件を受け、親戚は、所轄の警察署に対し被害届を出した[報道 20]

親戚は、『週刊文春』の取材に対し、「2月下旬の事件の時点でSを社会から隔離し拘束していれば、こんな凶悪犯罪は起きなかったかもしれない」と証言した[報道 20]

1992年2月25日未明、市川市内における傷害・恐喝事件[編集]

1992年2月25日(火曜日)午前5時頃、Sはクラウンを運転し、市川市河原6番18号先の、千葉県道6号市川浦安線旧道を走行していた[判決文 1]

その途中、後ろを走っていた当時22歳の男性が運転する乗用車から[判決文 1]車間距離を詰められて煽られた[書籍 32]。これに腹を立てたSが、クラウンを急停車させ[書籍 32]進路を絶つと[判決文 1]、後続車は接触寸前で急停車した[書籍 32]

Sはクラウンを降車し、トランクから鉄筋を取り出して右手に握った[書籍 32]。その鉄筋を、1、2回威嚇するように振り回した後、後続車のドアを開け[書籍 32]、相手の運転手に対し「煽ってんじゃねえよ」などと恫喝した[判決文 1]

相手の運転手は、Sをにらみつけ「マジでやる気か」と怒鳴ったが、Sはお構いなしに[書籍 32]、男性の車のエンジンキーを抜き[判決文 1]、退路を絶った[書籍 32]。その上でエンジンキーを持ち去り、自分のクラウンに戻ろうとした[判決文 1]

男性は、エンジンキーを取り戻そうとSに追いすがったが、Sは、クラウンの後部トランクから全長112cmの鰻屋機鉄筋を取り出し、男性の左側頭部を1回殴りつけた[判決文 1]

男性は血まみれになり、両腕で頭を抱え、うずくまりつつも[判決文 1]、Sをにらみつけた[書籍 32]。Sは、これに逆上し、「てめえのおかげでブレーキパッドがすり減ったじゃねえか」と[書籍 32]、左半身を多数回殴打した[判決文 1]。これにより男性は、安静加療約10日間を要する、頭部挫創の傷害を負った(罪状その5、傷害罪)[判決文 1]

さらにSは、男性から金品を恐喝しようとし、男性の車両の運転席に乗り込んだ[判決文 1]。同日午前5時過ぎ頃から6時ころまでの間、Sはトラブルの現場から、市川市塩浜2丁目31番地先の路上を経由し、再びこの場所まで戻るまで、車を運転した[判決文 1]

その間Sは、男性に対し、暴力団組員を装い、「俺たちの相場では、こういう場合は7、8万円だ。金曜日(2月28日)までに用意しておけ。免許証はその時まで預かっておく」などと、金品・運転免許証を出すように脅した[判決文 1]。そして、要求に応じなければ、更にその身に危害を加えるような態度を示して男性を脅迫した上で、男性名義の自動車運転免許証1通を脅し取った(罪状その6、恐喝罪)[判決文 1][書籍 32]

1992年2月27日未明、埼玉県岩槻市内における傷害・窃盗事件[編集]

その2日後の、1992年2月27日午前0時30分頃、Sはクラウンを運転し、埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)東町1丁目7番26号路上を走行していた[判決文 1]

突然、当時21歳の男子大学生が運転していた乗用車が[判決文 1][書籍 32]、交差点の脇から突っ込んできて、あわや出会い頭での衝突寸前となった[判決文 1]

大学生の車は、何事もなかったかのように、現場から立ち去ろうとした[書籍 32]。これに憤慨したSは、クラウンを猛スピードで走らせ、大学生の車を追いかけた[書籍 32]

現場付近で、大学生の車が、赤信号のために停車したところ、Sはその前方にクラウンを停車させ、行く手を阻んだ[判決文 1]。大学生が降車してきたところ、Sは、「ヤクザ者をなめるな」などと、大学生を脅迫した[判決文 1]

その上で、Sは前述の強姦事件で使った折り畳みナイフ(平成5年押収第52号の2)を、ズボンのポケットから取り出し、「これで刺してもいいんだぜ」と言いつつ、大学生の左太腿を突き刺した[判決文 1]

その上でSは、大学生の車の運転席に乗り込むと、大学生を助手席に座らせ[判決文 1]、「てめえが滅茶苦茶な運転しやがるからタイヤが擦り減った」と、大学生を恫喝した[書籍 32]

しかし、大学生は「はあ」「ああ」などというだけで、手応えがなかったため、激昂したSは、「親父のとこへ連れて行け」と[書籍 32]、自ら大学生の車を運転し、岩槻市大字加倉1943番地路上まで移動した[判決文 1]

その間、Sは車内で、大学生に対し、左右の太もも、右肩、腕、背中など、20数か所を、ナイフで突き刺したり、切りつけたりなどした。これにより、大学生は、全身刺創・全身切創、右手第三指(中指)・第四指(薬指)伸筋腱断裂など、全治約6週間を要する傷害を負い(罪状その7、傷害罪)[判決文 1]、血まみれになりながらも、Sの隙を見て[判決文 1]、命からがら車から逃げ出した[書籍 32]

Sはこの車で、大学生を追いかけようとしたが、「轢き殺すとまずい」と思い、断念した[書籍 32]

午前1時20分頃、大学生が逃げ出すとSは、岩槻市東町1丁目7番24号先路上に、大学生から奪った車を移動させた[判決文 1]。その上で、大学生から後日、金を巻き上げようと[書籍 32]、住所・氏名を確認する目的で、車内にあった大学生名義の運転免許証1通・大学生の父親名義の自動車検査証を窃取した(罪状その8、窃盗罪)[判決文 1]

その後Sは、大学生の車を運転し、前述の出会い頭事故寸前となった現場に残した、自車に戻った[書籍 32]

現場宅の下見[編集]

しかし、恐喝を繰り返しても、暴力団から要求された200万円は得られなかった[書籍 32]

Sは、暴力団に弁償するための200万円を、今更母親・祖父に出してもらうわけにはいかず、だからといってほかに金のあてもなかった[判決文 1]

金の工面に困ったSは、「パチンコ店を襲おうか、強盗しようか」などと考えつつ[判決文 1][書籍 32]、日増しに膨らむ恐怖・焦燥感を抱えていた[書籍 32]

あれこれ思案した挙句、Sは、1か月前にBを車で轢き、強姦した際、Bの住所を控えていたため、B宅に窃盗に入り、金品を盗むことを思いついた[判決文 1][書籍 12]

Sは、Bを強姦した2月12日の事件以降、B宅の在宅状況を探るため、時間を変えて、B宅に何度か電話した[判決文 1]。その結果、午後は留守か、老女(殺害されたBの父方の祖母C)が1人でいることを、あらかじめ確認していた[書籍 9]

また、2月下旬、3月1日の2度にわたり[判決文 1]、現場マンション周辺をうろつき[新潮 1]、マンションに赴いた[判決文 1]

Sは、マンションのエレベーターを使用し、8階まで上がり、806号室がB宅であることを確認した[判決文 1]。また、1階のエレベーターホールには、防犯カメラが設置されていることなどを確認していた[判決文 1]

事件当日[編集]

1992年3月5日、14時間の惨劇[編集]

現場マンションに向かうまでの行動[編集]

そして、事件当日の1992年3月5日を迎えた[書籍 9]

Sはこの日まで、暴力団から多額の金銭を要求され、追い詰められていた。そのため、自宅アパートにも近づけず、所持金も底を尽きたため、車中泊を続けていたが、この日は朝から、パチンコ・ゲームセンターで時間を潰した[書籍 9]

Sは午後遅く、中華そば屋で、ラーメン1杯を食べた[書籍 9]

その後Sは、B宅に侵入し、現金・預金通帳などを盗む意思を最終的に固め[判決文 1]、「Bの自宅から有り金をごっそり奪うつもりで」、市川市に向かった[書籍 9]。そして、「ついでに」Bを再び強姦すれば、「暴力団の追い込みに恐怖し、車中泊を続ける惨めな生活からの、鬱屈した気持ちも晴れるだろう」とも考えていた[書籍 9]

事件現場の行徳一帯は、Sの母方の祖父母の家(母親Yの実家)が付近にあった[書籍 9]。Sは幼少期、よく祖父母宅に泊まりに来ては、マンションが建つ以前、まだ空き地だった現場一帯で、凧揚げをしたり、自転車を乗り回して遊んだ記憶があった[書籍 9]。そのため、その後の開発により、典型的な東京のベッドタウンになってはいたが、Sは現場一帯に、土地勘があった[書籍 9][書籍 33]

現場付近には、さらに新しい高級マンションもあったが、Sはこのマンションで、金を得ようと考えた[書籍 33]

午後4時30分頃、現場一室に侵入[編集]

午後4時ごろ、Sはクラウンを運転し、マンション付近に赴いた[判決文 1]。まず、マンション近くのタバコ屋の前に、クラウンを駐車した上で、付近にあった公衆電話を使い、Bの自宅に電話を入れた[書籍 9]

この電話には、誰も出なかったため、Sは留守だと思った[書籍 9]。Sは、クラウンを児童公園の横に移動させ、目の前にあった[書籍 9]、Bの自宅マンションに入った[判決文 1]

Sは、防犯カメラが設置されていた、1階エントランスを避け、外階段を使い、2階まで上った[判決文 1]。2階から、B宅が在住していた806号室があった8階までは、エレベーターを使用した[判決文 1]。この日は、平日の夕方近くという時間だったが、この日の市川市内は、雨が降っていたためか[書籍 9]、Sはここまで、誰ともすれ違うことはなかったという[書籍 24]

Sは、806号室の玄関で、チャイムを鳴らしたが、応答はなかった[書籍 9]。先ほどの電話に誰も出なかった上、チャイムにも反応がなかったことから、Sは留守だと思い[書籍 9]、806号室の玄関口ドアを、試しに開けてみようと[判決文 1]、ドアノブを回したところ[書籍 9]、意外にも鍵はかかっておらず[判決文 1]、ドアが開いた[書籍 9]

そのためSは、「誰かがいる」と焦り、すぐにその場を離れた[書籍 9]。その上で、エレベーター横の階段に座り、20分ほど様子を見たところ、ドアの鍵はかかっていなかったが、家人の気配はなく、照明も点いていなかった[書籍 24]

そのため、Sは留守だと思い[書籍 9]、「仮に誰かがいたとしてもB以外なら、彼女の知人のふりでもしておけばいい」と考えつつ[書籍 24]、午後4時30分頃、玄関口から、再びドアを開け、806号室に忍び入った[判決文 1][書籍 9]

Sは後に、永瀬への手紙で、「どう考えても執拗に被害者一家にこだわり、自分の一生を捨ててまで、預金通帳ならまだしも、この普通のマンションからほんのわずかな現金を奪うという犯行を成し遂げる価値があったとは思えません」と送っている[書籍 34]

実際Sは、普通のマンションに、200万円もの現金があるとは思っていなかったため、貴金属類・預金通帳を見つけたら、家人に気付かれないうちに、早めに現場から逃走するつもりだった[書籍 9]

午後4時30分頃、祖母Cを絞殺(強盗殺人罪)[編集]

Sが当初、空き巣目的で、806号室に入ったところ、玄関を入ってすぐの、玄関脇の北側洋間から[書籍 12][書籍 9]、テレビの音が聞こえた[判決文 1]

Sが、部屋の扉を開け[書籍 9]、洋間の室内を覗くと[判決文 1]、1人で留守番をしていた[書籍 9]、Bの父方祖母、Aの母親であるCが[判決文 1]、テレビをつけたまま寝ていた[書籍 9]

その後Sは自分の靴をベランダに隠し[書籍 12]、玄関の突き当りにある居間に入り、現金・預金通帳・貴金属類などを物色した[判決文 1][書籍 12]。しかし、目的とする金目のものは、なかなか見つからなかったため、自分で探すのが面倒になった[書籍 12]。そのためSは、「Cを脅迫し、現金などを強奪しよう」と決意し、強盗の意図を持った[判決文 1]

Sは、洋間に踏み込み[書籍 12]、「年寄り1人ぐらいなら、まずどんなことがあったって、力で負けることなどないはず」という、過信と短絡的思考から[書籍 24]、Cの足を蹴り上げ、就寝中だったCを起こした[判決文 1][書籍 9]。目を覚ましたCは、見ず知らずの男が、目の前にいるのに驚いた[書籍 12]

Sは、居直り強盗に転じ[判決文 1]、寝込んでいたところを突然起こされたうえ、高齢のため抵抗もままならなかったCに対し、危害を加える気勢を示しながら[判決文 1]、預金通帳・現金を出すようすごんだ[書籍 9][書籍 24]

しかしCは、Sに対し、おびえることもなく、「ここにあるだけならくれてやる」と[書籍 24]、毅然とした態度で、自分の財布の中にあった現金8万円を渡し、帰るように諭し[書籍 22]、部屋から出ていこうとした[書籍 12][判決文 1]

これに対し、Sは「バカにされた」と逆上し、Cの襟首につかみかかり、Cを引き戻した[書籍 12]。Sは、Cに対し、再び通帳を出すよう要求し、危害を加える気勢を示したが[判決文 1]、Cは頑なに応じなかった[書籍 22][判決文 1]

その時、Sは緊張し、尿意を覚えたため、Cに対し、「通帳を探しておけ」と言い置いた上で、一時トイレに行った。用を足した後、トイレから戻ったところ[書籍 22]、隙を見たCは、居間に出ており、電話の受話器を取り上げ、110番通報しようとしていた[判決文 1][書籍 22]

Sは、「少し痛い目に遭わせて力関係を分からせてやろう」と[書籍 22]、とっさに体当たりをし[判決文 1]、Cを仰向けに突き倒した[判決文 1][書籍 22]

Sはそのまま、Cに対し、「何をするつもりだったんだ」と問い詰め[判決文 1]、殴り掛かろうとしたが[書籍 22]、CはSに対し、唾を吐きかけた[判決文 1][書籍 22][書籍 24][書籍 12]

これに激昂したSは[判決文 1]、Cを頭ごと、激しく床に叩きつけたが、Cはなお果敢に抵抗し、Sに対し、爪を立ててひっかいた[書籍 22][書籍 24]

逆上したSは、殺意を持って、Cに馬乗りになった[判決文 1]。その上で、近くにあった電気コードを抜き取り[書籍 22]、電気コードをCの頸部に一周させ、前頸部で交差させた上で、電気コードの両端を、両手で持ち、Cの首を絞めつけた[判決文 1]

一度力を緩めると、Cが起き上がる気配を示したため、Sは再度力を込めて、Cの首を数分間絞めたことで、Cを窒息死させて殺害させた(罪状その9、強盗殺人罪)[判決文 1]

Sは、Cが絶命したことを確認すると、Cの遺体の首に巻かれていた電気コードを抜き取った[判決文 1]。その上で、Cの遺体を引きずり、北側の洋間に戻し[書籍 12]、洋間に敷いてあった布団に寝かせた[判決文 1]

Sは、他人と一緒に箸を使う鍋料理を口にできないほどの潔癖症だったため、老女の唾液を汚らしく思い、洗面所で頭、顔、首、手を何度も洗った[書籍 22][書籍 24]

当時のSには、「生まれて初めて人を殺めてしまった」という実感は乏しく、唾液を吐きつけたCに対する怒りや、「こんな汚いところにいられるか」という嫌悪感の方が強かったという[書籍 24]

その後、Sはいったん外に出て、付近の自動販売機で[判決文 1]たばこと[判決文 1]、「長期戦を覚悟して」[書籍 12]予備の缶ジュースを買い[書籍 24][判決文 1]、外で30分ほど過ごしてから、また部屋に戻った[判決文 1][書籍 22]

Sはその後、さらに室内を物色し、北側洋間内の出入り口にある棚に置かれていたCのバッグ内にあった財布から、現金約10万円を奪った[判決文 1]

Bはこの時、学校帰りに父Aの会社に寄り、母親Dと買い物をして家路に向かっていた[新潮 1]

午後7時過ぎ、母親Dを刺殺(強盗殺人罪)[編集]

午後7時過ぎごろ、Sは部屋に戻り、引き続き居間の中で、金品を物色していた[判決文 1]。家人の帰宅に備え、Sはあらかじめ、台所流し台の下から、数本の包丁を、冷蔵庫の上に移し、隠していた[判決文 1]

その際、少女B・母親Dが、買い物から帰宅した[判決文 1][書籍 23]

Sはこれを受け、隠していた包丁のうち、刃渡り22.5cmの柳刃包丁1本(平成5年押収第52号の1)を、手に取り、台所のカウンター付き食器棚の陰に隠れた[判決文 1]

そして、何も気付かず、そのまま居間に向かおうとした2人を待ち伏せ、台所から飛び出した[書籍 12]。Sは、B・D両名に対し、包丁を突き付け、「静かにしろ。あまり騒ぐと殺すぞ。ポケットのものを全部出せ」などと脅した[判決文 1][書籍 22][書籍 24]

しかしDは、怯えることもなく、「どうしてここにいるの」と厳しく問い詰めてきたため、SはDの「頭の切れそうな態度」に半ば恐れを感じ、「騒ぐと殺す」と怒鳴りつけた[書籍 23][書籍 24]

Sは「女とはいえ、2人を一度に相手にするのは無理だ。別々の方向に走って逃げられたら、どちらか1人は確実に逃げる」、「走って逃げ出し、大声でも上げられたら終わりだ」と考えたため[書籍 24]、2人を脅し、うつぶせにさせた[判決文 1][書籍 23]。その上でSは、既に殺害した祖母Cについて「睡眠薬で眠っているだけだ」と嘘を述べた上[判決文 1]、両名に対し、ポケットの中に入っていた所持品をすべて出させた[判決文 1][書籍 23]

母子2人を無抵抗にしたSは[書籍 24]、Dを「頭が切れそうな感じなので、策を練って、自分を警察に突き出そうとする」と危惧し、Dの動きを封じようとした[判決文 1]。Sは、数回背中を突き刺せば、Dが死亡することを認識・予見しながら、敢えてうつぶせになっているDを、左腰部から、包丁を逆手に持ち、背中を立て続けに、計5回突き刺した[判決文 1][書籍 22][書籍 23]。これにより、Dは背部刺創により失血死し、殺害された(罪状その10、強盗殺人罪)[判決文 1]

精神鑑定の際、Sは、Dのみを刺した理由について、「頭が働くずる賢そうな人というか、そういうタイプだったので、それだけ伊達に年取っていないからそれだけ知恵が働くんじゃないかと思って」と述べた[書籍 24]

また、永瀬への手紙で、Sは「すぐにDの腰の辺りを、3回ほど刺した。しっかり握り込んだ包丁を指すというより、持っていた包丁を上から垂直に、ストンと落とすように刺した。これは、自分なりの手加減のつもりで、『首筋や心臓でもなければ、頭でもないのだから、背中を刺されても平気なはずだ』と思っていた。計算通り、大量の血が出たり、口から吐くこともなく、服に血がにじむのが見て取れただけで、『まあこんなもんだろう』という感じだった。『これで走り回ったりしないだろうから、そこでおとなしく見てろよ』、ということを口にした覚えがある。全く怒りも憎しみもなくやったので、力も入れていないつもりだったから、放っておいてもしばらくは平気だろうと、あわてて怖がるのを見て、少々いい気味だと思ってみていた」と綴り、「殺意はなく、Dの動きを封じることが目的だった」旨を主張した[書籍 24]

仰向けに倒れたDは、致命傷を負わされてもなお、苦悶に顔を歪めつつ、足で床を蹴り、Sの脱ぎ捨てたダウンジャケットにしがみついた[書籍 22]。そんなDを、Sは「あーあ、血が付いちまうだろう」と言いつつ、脇腹を蹴り、ダウンジャケットから遠ざけた[書籍 22]

Sは、そのままBを脅し、致命傷を負ったDを、「帰ってくる家人に見られてはまずい」と[書籍 12][書籍 23]、2人がかりで、南側の奥にある洋間に運び入れた[書籍 12][書籍 23][書籍 12]。その上でBに、タオルで、床に残ったDの、大量の血・失禁の跡を拭わせた[書籍 12][書籍 23]

午後9時20分頃、Bを強姦(強盗強姦罪)[編集]

その後Sは、室内にBを、警察が突入してくる翌朝まで監禁した[判決文 1]。Dを殺害してから15分後、保育園児の妹Eが、保母に連れられて帰って来た[新潮 1]

この際、Bがドアを開けてEを部屋に入れた[新潮 1]

Sは、Bに命じて、夕食の準備をさせ、3人で食事を摂った[書籍 18]

Sは食後、Eを、絞殺された祖母Cの部屋に追いやり、テレビを観せた[書籍 18]。Eは、絞殺された祖母の遺体の横で、1人最後の夜を過ごすこととなってしまった[書籍 18]

その後、Eが寝付くと[書籍 12]、少女を前に、劣情を催していたSは[判決文 1]、「父親は午後11時過ぎに帰って来る」とBから聞いていたことから[判決文 1][書籍 18]、その間、Bを強姦し、気を紛らわそうと考えた[判決文 1]

Sは午後9時20分頃、Dが目の前で刺されたのを見て、極度に畏怖し、抵抗不能な状態に陥っていたBを、先ほどDを刺した包丁で脅し[判決文 1]、寝室に連れ込んだ[書籍 18]

Sは、Bに対し、「服を脱げ」などと迫ったが[判決文 1][書籍 18]、目の前で母親を惨殺され、恐怖に震えていたBは、うまく手が動かなかった[書籍 18]

いらついたSは、Bをベッドに突き倒し[判決文 1][書籍 18]、ワイシャツを引きちぎるなどして[判決文 1]、強引に服を剥ぎ取り[書籍 18]、反抗を抑圧した[判決文 1]

Bをベッド上で全裸にさせると、Sは自身も服を脱ぎ、全裸になってBにのしかかり、再びBを強姦した(罪状その11、強盗強姦罪)[判決文 1][書籍 18]

家族の死体が横たわる傍らで、Bを強姦するという、想像を絶する凄惨な場面について、Sは精神鑑定時、その心境を「自分としては、時間潰しというか、気分転換というか」と語った[書籍 24][書籍 12]

その言葉の意味について、Sは「盗みに入ってすぐに出ていくつもりが、金品を物色している中で2人帰ってきて、まだ慌てている割には目的は達成されていない。何をやっているのかな、というような気持ちになった。その間にBから、家族構成や、父親が何時頃帰って来るということも聞いていたので、『じゃあ(父親の帰宅を)待とう』ということもあった」と語った[書籍 24]

3月6日午前0時30分頃、父親Aを刺殺(強盗殺人罪)[編集]

しかし、強姦の最中だった午後9時40分頃、Sの予想より早く、父親Aが帰宅した[判決文 1][書籍 18]

Sは、慌ててBの身体から離れ、服を着た[判決文 1]

その後、カウンター付き食器棚の上にいったん隠した、Dを刺殺した柳刃包丁を手に取り[判決文 1]、台所の食器棚の陰に隠れた[判決文 1][書籍 18]

Aが、ベッドで横になっている娘Bを見て、「寝てたのか」と声を掛けたところ、Sは金品を強奪する意図の下、Aの背後から、左肩を包丁で一突きし[判決文 1][書籍 18]、反抗を抑圧した[判決文 1]

この時、Sの心境は、「一度刺しておけば力関係もはっきりするだろう。歩いている道の上に石が転がっていて邪魔だから蹴飛ばすようなもの」程度の感覚であった[書籍 18]

また、永瀬への手紙で、Sは「『人間の体なんて思ったよりすうっと力が入っていくものだな』と考えたりしたものです。もっと骨とか筋肉とか、刃応えを感じることがあって、手に力が必要なのだろうと思っていたら、全然そんなことはなくて、あれならウナギを捌く時の方がよっぽど力がいるんじゃないかと思うほど、ケーキに包丁を入れるような感じしか手に残りませんでした」と綴っていた[書籍 24]

Sは、負傷して動けなくなったAに対し、「俺はこういう者だ」と、暴力団組員の名刺を突き付けた[判決文 1]

その上で、組員を装い、「お前が取材して書いた記事で、(自分の)組が迷惑している」と、架空の事実を突きつけて脅迫した[判決文 1]

その上でSは、「通帳でも現金でも、何でもいいから200万円出せ」と、Aに対し、金目の物200万円を出すよう要求した[判決文 1][書籍 18]

Aはまだ、妻D・母Cが、目の前の男に殺されたことを知らず、家族を守ろうと必死だったため、Sに母親の通帳のありかを教えてしまった[書籍 18]

Aは、娘Bに指示し、家にある現金16万円・預金通帳2冊を集めさせた[判決文 1]。これによりSは、額面257万6055円の郵便貯金総合通帳と、同103万1737円の銀行総合口座通帳を、それぞれAから強奪した[判決文 1]

Aは、「横にならせてくれ」と、うめくように言い、床に横たわった[書籍 18]。これにより、Sが必要としていた200万円は手に入ったが、Sはまだ満足しなかった[書籍 18][報道 30]

Sは、Aの職場の事務所にも、それぞれ別の預金通帳・印鑑があることを聞き出した[判決文 1][書籍 18]。それらも強奪しようと考えたSは[判決文 1]、Bに対し、事務所に電話を入れさせ[書籍 18]、職場に残っていた社員に対し、「これから通帳を取りに行く」と伝えさせた[報道 31][判決文 1][書籍 18]

その後Sは、「従わないと父親まで殺される」と恐怖したBを連れ[書籍 12]、日付が変わった1992年3月6日午前0時30分頃、806号室の外に出た[報道 30][書籍 18]

Sは、エレベーターでBとともに、いったん1階まで下りたが、Aが警察に通報するのを阻止しようと、Aを殺害することを決意した[判決文 1]。そのためSは、Bを1階に残し、806号室まで引き返した[判決文 1]

1992年3月6日午前0時30分頃、Aは、Sに刺されてから、約3時間、悶え苦しんでいた[書籍 18]。息は絶え絶えになり、顔面も蒼白していたAだったが、妻D・母親Cの身を案じつつ、台所のテーブルにつかまって立ち上がっていた[書籍 18]。Sは包丁を手に取り、Aの背中を1回強く突き刺し、Aを背部刺創による失血死で殺害した(罪状その12、強盗殺人罪)[判決文 1]

この頃、4歳の妹Eは、絞殺された祖母Cの遺体の横で、1人すやすやと眠りに就いていた[書籍 18]。SはAにとどめを刺した後、反抗を抑圧されたBを、クラウンに乗せて道案内させ、行徳駅前の事務所に向かった[判決文 1]

3月6日午前1時頃、事務所から通帳を奪う(強盗罪)[編集]

Sは、1992年3月6日午前0時40分頃[判決文 1]、事務所付近にクラウンを駐車した[書籍 17]

その上でSは、Bに対し、「人がいるんじゃヤバい。俺はここで待っているから、お前が行って来い」と命じ、事務所に向かわせた[書籍 17]

駅前のマンション2階[新潮 1]、204号室にある事務所に[判決文 1]、Bが行っていた間[書籍 17]、空腹を覚えたSは、近くのコンビニエンスストアに行き、菓子パンを買って食べた[報道 31][書籍 17][新潮 1]

まだ父親が殺されたことを知らないBは[報道 31][報道 30]、当時残業中で、両親であるA・D夫妻の部下だった、男性社員に対し[書籍 17]、「ヤクザが、『お父さんの記事が悪い』と、お金を取りに来ている」と告げた[書籍 17][書籍 12][報道 32]

Bはこの時、助けは特に求めず[報道 30]、額面合計63万5620円の、両親名義の預金通帳7冊と[判決文 1][書籍 17]印鑑7個を受け取った[判決文 1][書籍 17]

Bが来た約20分後、Sが事務所に現れた[報道 31][報道 32]。Sはこの時、他人の目を欺くつもりか[報道 31]、Bに「おい、行くぞ」と、親しげに声を掛け[新潮 1]、Bと2人で、印鑑・通帳を持って行ったという[報道 32]。これによりSは、前述の通帳7冊・印鑑7個を、それぞれ強取した(罪状その13、強盗罪)[判決文 1]

この行動を不審に思った社員は、派出所に連絡した[報道 33]。直後、午前1時30分頃、社員は、葛南署員とともに、A宅があった806号室に出向いた[報道 33]

葛南署員・社員は、部屋のドアを叩いたり[報道 31][新潮 1]、室内に電話をかけたりした[新潮 1]

しかしこの時は、部屋の照明が消えており、応答もなかったため[報道 31][報道 30]、署員は不在と思い引き揚げた[報道 31][報道 30]。なおこの時点ではいずれも前述したように、Bの両親・祖母Cは既に殺害されていたが、寝かしつけられていた妹Eはまだ生存していた。

Bをラブホテルに連れ込み、再び強姦[編集]

通帳・印鑑7組を奪ったSは、Bをクラウンに乗せ[判決文 1][書籍 17]、市川市塩浜3丁目にあった[判決文 1]、東京湾沿いのラブホテルに、Bを連れ込んだ[判決文 1][書籍 17]

判決文によれば、S・Bは、このホテルの5階501号室で、一夜を過ごした[判決文 1]

Sはこの間、ラブホテル室内で、30分ほどかけ、通帳の額面を調べ、印鑑と通帳の印影を確認した[書籍 17]

Sはここでも、Bに対し、4度目の強姦を行った[書籍 17]。Sはその後、4時間近く熟睡した後、Bに対し、5度目の強姦を行った[書籍 12][書籍 17]

3月6日午前6時30分頃、妹Eを刺殺(殺人罪)[編集]

Sは、3月6日午前6時30分頃、Bとともに、既に一家3人が死亡していた、マンション806号室に戻ってきた[判決文 1][書籍 12]

Sは、しばらく部屋でくつろいでいたが[判決文 1][書籍 12]、一旦は寝かせたEが、目を覚まして[判決文 1]、泣き始めていた[書籍 17]

Sは、両親・祖母の死を知って、Eが泣き叫べば、近隣住民にその声が聞こえ、犯行が発覚する恐れがあると考えた[判決文 1]。そのためSは、Eを殺害することを決意し、午前6時45分頃、食器棚の上に置いてあった包丁を右手に取った[判決文 1]

Sは、Eがいた寝室に入ると[判決文 1]、自分に背を向け、布団の上に上半身を起こして座り[判決文 1]、泣いていたEに[書籍 17]、背後から近づいた[判決文 1][書籍 17]

Sは、Eの顎のあたりを、左手で押さえつけながら[判決文 1]、包丁でEを、背中から一突きした[判決文 1][書籍 17]

包丁は、Eの幼い体を貫通し、刃先が胸まで突き抜けた[書籍 17]。Eは、「痛い、痛い」と弱々しく声を出し、もがき苦しんだ[書籍 17]

そのEを前にして、SはBに対し、「妹を楽にさせてやれよ。首を絞めるとか方法があるだろう」と、平然と言い放った[判決文 1][書籍 17]。しかし、Bは全身が凍ったように動けなかったため、Sは、激痛で泣き叫ぶEを、首を絞め上げ[書籍 17]、背部刺創による失血死で絶命させた(罪状その14、殺人罪)[判決文 1]

この殺害行為については、C・D・Aの各3人に対する殺害行為同様、強盗殺人罪で起訴されたが、刑事裁判では、「既に強盗行為はこの時までに終わっていた」として、単純殺人罪として事実認定された(後述)[判決文 1]

Bはこの時までに、目の前で家族を皆殺しにされ、5度にわたって凌辱されるという、想像を絶する恐怖・絶望で、心身ともに打ちのめされていた[書籍 17]。しかし、午前6時50分頃、Bは、妹Eが殺されたのを目の当たりにし、「どうして妹まで刺したの!」と、Sに食って掛かった[判決文 1][書籍 17]

しかしSは、突然のBの反抗に逆上し、包丁を振りかざして、Bの左上腕・背中を切り付け、全治2週間の怪我(左上腕切創、背部切創)を負わせた[判決文 1][書籍 17]

あろうことか、SはEを刺殺する前後、一家4人が惨殺された凄惨な現場から、友人に電話を入れ、取り留めもない話に興じていた[書籍 24]

Bはこの時、近所に住む、高校で同じクラブに入っていた、同級生の少女宅に、「今日は休む。部室の鍵を持っていけなくてごめんね」と電話していた[報道 34]

一晩で一家4人が惨殺されたこの事件で、Sに強奪された被害総額は、現金合計約34万円、預金通帳計9冊(額面合計424万円3412円)、印鑑7個に上った[判決文 1]

捜査[編集]

午前8時過ぎ、夫妻の職場に勤める社員が警察に通報[編集]

Bが深夜に訪問してきたことを、不審に思っていた、A・D夫妻の会社事務所に勤めていた男性社員は[書籍 17]、3月6日早朝、自宅の電話に、再びBから、金の工面を求める電話を受けた[報道 32]

社員は、「社長宅の様子がおかしい」と不審に思ったため、同日午前8時過ぎ[報道 31]、マンションに電話を入れた[報道 32][書籍 17]

しかしBは、「おはよう」と言ったきり、そのまま黙ってしまった[新潮 1]。社員が、「脅している奴が部屋にいるのか」と聞くと尋ねると[報道 31]、Bはうなずいたが[新潮 1][報道 31]、そのまま、電話口で押し黙ってしまった[報道 31]

そのため社員は、その不自然な対応や[報道 31][報道 33]、部屋を訪ねてもドアの鍵がかかっており、呼んでも返事がないことを不審に思った[報道 8][報道 9][報道 10][報道 11]

社員は、「知り合いの社長の娘から不自然な電話があった。家族が刺されたらしい」と[報道 1]、近隣の葛南署行徳駅前交番に対し[報道 1][報道 8][報道 9][報道 10][報道 11]、Sが事務所に来た時以来、2度目の110番通報をした[報道 31]

Sを銃刀法違反容疑で現行犯逮捕[編集]

部屋の玄関は、鍵がかかっており、呼んでも返事がなかった[報道 1]。そのため、社員とともに駆け付けた同派出所の警察官が、隣の部屋からベランダを伝って窓から806号室に侵入した[報道 1]

署員が部屋に踏み込んだところ[報道 1]、室内の壁などに血が飛び散り[報道 1][報道 10]、Aは居間、Dは6畳の和室、EはDが死んでいた和室の隣の6畳の洋室、CはEとは別の7畳の洋室と、一家4人がそれぞれ、別々の部屋で死亡していた[報道 1][報道 8]

部屋の中では、BがSとともに呆然と立ち尽くしていた[報道 1][報道 9][報道 11][報道 8]

警察官が現場に駆けつけるまでの十数時間、Bを監禁していたSは[報道 24][報道 8]、Bに対し、「俺に殺されたいか、それとも一緒についてくるか」と脅し迫ったが[書籍 17]、ドアの外で息を殺して動き回る、複数の人間の気配を感じ取った[書籍 15]

逮捕当時、身長178cm、体重80kgと大柄だったSは、Bが自分を脅しているように見せかけて、罪を逃れようと、放心状態のBに、家族3人を刺殺した包丁を握らせ、「これを持って、俺を脅しているふりをしろ」と迫った[書籍 15]。しかし、それでもBは、放心状態で床に座り込んだまま、動かなかったため、イラついて怒鳴りつけたところ、ドアが開き、怒号とともに警官たちが突入し、Sを押さえつけた[書籍 15]

Bは警察により、Sに監禁されて以来、約14時間ぶりに保護された[書籍 15][書籍 17]

Sは、署員らが部屋に入った際に玄関から逃走しようとしたが、警察官に追跡され、格闘の末に取り押さえられた[報道 31][報道 33]

Sはその際、「おれはやっていない」と叫んだが[報道 8]、ナイフを所持していたため、銃刀法違反容疑で葛南署に現行犯逮捕された[報道 31][報道 33]

1992年3月7日未明、強盗殺人容疑でSを逮捕[編集]

千葉県警捜査一課・葛南警察署は[報道 1]、殺人事件の疑いがあるとして[報道 35]、1992年3月6日夕方、捜査本部を設置した[報道 1]

その上で捜査本部は、長女B・現行犯逮捕された少年Sを[報道 35]、それぞれ参考人として任意同行した[報道 1]。その上で、2人に対し、前夜からの行動などについて[報道 1]、詳しく事情を聴取した[報道 36][報道 37][報道 38][報道 39][報道 35]

現行犯逮捕後もSは、千葉県警の取り調べに対し事件への関与を否定し、「先月Bと知り合い、A宅の住所と電話番号を聞き出した」、「Bとは一緒にコンサートに行った」などと、虚偽の供述をした[報道 21][報道 11]。一方で被害者のBは、ショックのためか取り調べに対し、何も話すことができなかった[報道 21][報道 11]

これが原因で、Sの供述に千葉県警捜査本部が引きずられ、「S・B両名を殺人容疑で取り調べている」と発表してしまうこととなったが[報道 21][報道 11]、その後も捜査本部は、真偽を丹念に調べた末、Sの供述を虚言と突き止めた[報道 40][報道 24][報道 28]

深夜になって、Sは「金が欲しくてやった」と犯行を認める供述をした[報道 1][報道 33]。そのため千葉県警葛南署捜査本部は[報道 1]、前述の現行犯逮捕容疑である銃刀法違反について、一旦釈放の手続きを取った上で[報道 33]、翌3月7日午前0時半頃、強盗殺人容疑で逮捕状を請求し、同容疑で被疑者Sを逮捕した[報道 1][報道 8][報道 41][報道 9][報道 40][報道 10][報道 26][報道 11]

現場806号室の真下の住民は、捜査本部の聞き込みに対し、「昨夜11時半頃、上の部屋でドスンと大きな音がした」と話した[報道 7][報道 10]

逮捕後[編集]

被疑者Sは逮捕後、千葉県警の取り調べに対し、一連の犯行を認める供述をした[報道 1][報道 42]

その上で被疑者Sは、犯行の具体的な動機について、「付き合っている女性のことで、暴力団組員から脅され、200万円ぐらいの金が欲しかった。盗みに入り、見つかったので次々と殺し、Bを監禁していた」[報道 42][報道 43][報道 11][新潮 1]、「マンションの近くまで行ったことがある。あの家ならやりやすいと思った」と供述した[報道 44]

捜査本部は、「被疑者Sが金に困った挙句、標的を絞り下見をした上で実行した計画的な犯行」ではないかとみて、被疑者Sを追及した[報道 44]

1992年3月7日午前9時半頃から現場検証が行われ、現場から血の付いた包丁が見つかった[報道 43][報道 42]。捜査本部は、包丁の柄などから採取した指紋を鑑定するなど、裏付け捜査を行った[報道 43][報道 42]

その上で、翌1992年3月8日午前[報道 45]、被疑者Sを千葉地方検察庁送検した[報道 46][報道 45][報道 24][報道 47]

家宅捜索[編集]

また、1992年3月7日までに捜査本部は、被疑者Sが住んでいたマンションを家宅捜索し、書類など数点を押収した[報道 46][報道 45]

逮捕当時、被疑者Sの自宅マンションの部屋には、家具はほとんどなかったが、男1人暮らしの割にはきれいに片付いていた[報道 46]。被疑者Sの部屋には、ギター4本・オーディオ機器があり、CDがラックにぎっしりと詰められていた[報道 46][報道 28]

また、被疑者Sは英字新聞を購読していた[報道 46]。取り調べに対し、被疑者Sは「英語とタガログ語は日常会話程度はできる」と話しており、海外旅行も「フィリピンなどに数回行ったことがあった」と話した[報道 46][報道 28]

殺害された被害者4人の司法解剖・葬儀[編集]

捜査本部は、1992年3月9日・10日の両日、千葉大学医学部で、殺害された被害者4人の遺体を司法解剖した[報道 1]。その結果、絞殺された祖母Cを除き、刺殺されたA・D・Eの3人の遺体には、いずれも背後から肺まで達する深い刺し傷があったことが確認された[報道 48][報道 21]

各被害者の死因は、A・D・Eの3人は胸を刺されたことによる失血死で、Cは首を絞められたことによる窒息死だったことが、それぞれ判明した[報道 48][報道 31][報道 32]

1992年3月12日、市川市本行徳徳願寺で殺害された被害者4人の葬儀が営まれた[報道 34][報道 49]

葬儀の最後、喪主のBに代わり、親類代表としてAのいとこが挨拶した[報道 49][報道 22]。いとこは「平和な家庭を一夜にして奈落の底に突き落とした信じがたい出来事。悪魔の所業だ。このような犯罪が二度と起こらないよう、犯罪防止に努めてほしい」[報道 49]、「学識者、マスコミが中心になってこんな惨劇が二度と起こらないように努めてほしい」と述べ、その言葉は後述の#報道被害をBに与えた、千葉県警・マスコミに、厳しい課題を課した[報道 22]。当時葬儀を仕切った住職によれば、被害者4人の遺骨はAの親族と、Dの親族にそれぞれ引き取られたという[報道 25]

後に被告人Sとの文通をするようになった、『東京新聞』(中日新聞社)社会部記者・瀬口晴義も、この犯行の状況について、「凶悪、凄惨という形容詞が陳腐に思えるほど残酷な場面の連続に、検察の冒頭陳述を読んで吐き気を催したほどだ」と記した[報道 50]

また、当時Bが外部の人間と1人で接触する機会が2度あったにもかかわらず、助けを求められなかった理由について、東京家政大学平井富雄・精神医学教授は「極端な異常事態に置かれて自律神経が『喪失』し、相手の言いなりになってしまうことはあり得る」と、『千葉日報』1992年3月13日朝刊の記事で解説した[報道 49]

報道被害[編集]

千葉県警側の「誤解を与えかねない」発表[編集]

前述のように、千葉県警捜査本部により、取り調べが行われた当初、Sが「Bとは昔からの友人」と、虚偽の供述をしたのに対し、Bはショックのためか、何も話せなかった[報道 23]

そのため、その虚偽の供述を、千葉県警捜査本部も、当初は鵜呑みにした[報道 23]

千葉県警は、Sの供述通り、2人を友人と判断した上、その「予断に基づいた」内容を、記者会見でマスメディアに発表した[報道 23]

千葉県警は、3月6日夕方(午後5時)の記者会見まで[報道 23]、「SはBの男友達で、ともに参考人として事情聴取している」「警官が現場に駆けつけた時、SとBは室内で呆然と立っていた」と説明した[報道 23]

また、Sが金を奪うため連れ出した、A・D夫妻経営の会社では、留守番をしていた知人社員も、SがBの名前を呼ぶ声から、「2人は友人」と思い込み、その時点では疑いを持たなかったという[報道 22]

ある捜査幹部は、『朝日新聞』取材に対し、「2人が無関係と分かってからは逮捕前に発表を行うなど、報道陣に誤解を与えないように努めたが、県警にも予断があったことは認めざるを得ない」と述べた[報道 23]

「予断に基づいた」報道[編集]

これらの要素が重なった結果、『読売新聞』『朝日新聞』など各報道機関でも6日夕方まで「長女・友人から聴取」「長女・男友達から事情聴く」など、まるでBが加害者であると疑われるような報道がなされた[報道 22][報道 21][報道 23]

千葉県警が、報道陣に対し、「本事件はSの単独犯行であり、Bは全くの被害者」という事実を発表したのは、3月6日午後9時半だった[報道 23][報道 21][報道 11]

そもそも、予断を持っていたのはマスメディア側だけでなく、千葉県警側も同様であった[報道 23]

『朝日新聞』1992年3月10日朝刊千葉県版には、本事件に関して、掲載された報道内容を検証する記事が掲載された[報道 23]

その記事によれば、千葉県警本部の記者クラブに、「午前9時頃、市川市内のマンション一室で、家族4人が死亡しているのが発見された」と、第一報が伝えられたのは、事件発生翌日の3月6日午前10時半だった[報道 23]

朝日新聞社は、無理心中・殺人事件の、両方の可能性を考えた上で、京葉支局・千葉支局から、記者計3人を現場に向かわせ、支局に残った記者も、電話取材を開始した[報道 23]

それらの取材の結果、「葛南署に通報したのは死亡したAの知人である」、「家族のうち長女は生存している」という2つの事実を確認した[報道 23]

千葉県警がその後、記者会見で被害者一家の名前を発表した後、朝日新聞社では千葉県南部・北東部に配達される夕刊早版用の記事を制作した[報道 23]。正午過ぎになって、千葉県警記者クラブ所属の記者から、千葉支局に対し、「現場には生き残った長女(B)のほか、長女の『友人』の若い男(S)がいた。千葉県警は、2人を参考人として、事情聴取しているようだ」との連絡と、長女(B)はAの養女であることが伝えられた[報道 23]

長女(B)が事件の加害者であった場合、未成年者の人権に配慮し、一家の名前も匿名にせざるを得ないため[報道 23][注釈 2]、千葉支局デスクは、朝日新聞社本社社会部と連絡を取った[報道 23]

本社社会部は、その可能性がある以上、千葉市・東葛地域・東京都内に配達される夕刊からは、一家の名前を匿名にすることを決めた[報道 23]

『朝日新聞』1992年3月6日付朝刊の場合、千葉県内版の見出しは、「一家4人殺される 市川」、東京都内版では「一家4人刺殺される 長女・友人から聴取」となった[報道 37][報道 23]。なお、『読売新聞』1992年3月6日東京夕刊は、「一家4人殺される 市川のマンション 部屋に高一の養女 男友達も、事情聴く」[報道 36]、『日本経済新聞』1992年3月6日夕刊は「一家4人殺される? 千葉・市川のマンション」、『産経新聞』1992年3月6日夕刊は「家族4人殺される 千葉のマンション 長女と男性から事情聴く」[報道 35]、『中日新聞』1992年3月6日夕刊は「一家4人刺殺される 長女と男友達から聴取 千葉のマンション」と、それぞれ『朝日新聞』とほぼ同内容の記事・見出しだった。

なお、第一報で「Bの男友達」「知人」などと報道されたSは、この時点で既に前述したように、銃刀法違反容疑で現行犯逮捕されていたが、その事実を3月6日付夕刊・翌3月7日付朝刊で報じた全国紙はなかった。これについて言及した新聞社は、『読売新聞』・『千葉日報』がそれぞれ、事件解決後の3月11日朝刊で報じたのみであった[報道 33][報道 31]

午後から、『朝日新聞』記者は現場取材を始めたが、「長女(B)も事件に関与か」という予断を持ったまま、現場マンションの上下階の7階・9階(事件現場の8階は当時、立ち入り禁止となっていた)の各住民に対し、聞き取り取材を開始した[報道 23]

7階の住民は「前の晩、どしんどしんと音がした」と話し、記者が「前にもありませんでしたか」と聞くと、「何か月も前から音がしていた」と答えた[報道 23]。その後、8階住民の主婦に記者が取材したところ、「夫婦仲は良かった」「長女(B)は普通の女の子」という、予断とは異なる内容の回答が返ってきた[報道 23]

それでも、『朝日新聞』以外に、他社記者らも加わり、「長女(B)の男女関係はどうか、素行はどうだったのか」という、予断に基づいた質問に終始した[報道 23]。各紙記者らは、「少年は長女(B)の友人」という、千葉県警発表に基づく情報にこだわっていたため、予断を捨てきれなかった[報道 23]

「現場にいた長女(B)と自称19歳の男友達(S)から参考人として事情聴取している」「警官が現場に駆けつけた時、SとBは室内で呆然と立っていた」「これは極めて特異な事件」という、午後5時の千葉県警による記者会見での説明も、現場の記者の予断に、追い打ちをかけた[報道 23]

なお、本事件と同じ3月5日には、高知市内で、当時高校1年生の少女が、中学1年生の妹を刺殺した殺人事件が発生しており、こちらの事件は発生当日に発覚していた[報道 51]

現場の記者のみならず、千葉支局デスクも、この事件などを連想し、記事の編集を行った[報道 23]。その結果、新聞各紙の3月6日夕刊では、予断に基づいた、「読者に誤解を与えかねない記事」ができるきっかけとなった[報道 23]

午後9時半、予断に囚われたまま、千葉県南部・北東部に、翌3月7日に配達される、朝刊早版の締め切りが迫っていた中で、捜査本部が「事件はSの単独犯」と発表した[報道 23]

この結果、社会面ではその事実が反映され、「19歳の少年逮捕へ」との見出しになったが、修正が追い付かなかった千葉県版では(いずれも『朝日新聞』1992年3月7日付朝刊)、「数カ月間深夜に物音」「詳しい事情聴取 長女と男友達から」という見出しになった[報道 40]

また、『朝日新聞』の一部地方版では、Sによる前述の、虚偽の供述を鵜呑みにした結果、「SがBの知り合いだった」かのような記述も入った[報道 23]。そのため、結果的にBが加害者であるかのような誤解を、読者に与えかねない内容になり、紙面も全国社会面・地方面で、矛盾する内容となったため、整合性を欠いた[報道 23]

結局、『朝日新聞』1992年3月7日朝刊では、社会面・千葉県版双方で、「事件はSの単独犯」という事実を報じることができたのは、千葉市以西に配達された朝刊からであった[報道 23]。千葉県内でも、千葉支局・京葉支局では、それぞれ締め切りの時間差があるとはいえ、読者に誤解を与えかねない内容となってしまった[報道 23]

なお、被疑者Sが逮捕された翌日の1992年3月7日朝刊で、『読売新聞』、『朝日新聞』、『毎日新聞』、『東京新聞』は、殺害された被害者4人を実名、Bについては匿名で報道した[報道 51]

『産経新聞』は、「両親の名前を書けば、結果として生き残った長女(B)が誰かも特定されてしまう」として、被害者一家5人全員を匿名で報道した[報道 51]

一方、『日本経済新聞』・『中日新聞』(『東京新聞』同様、中日新聞社発行)は、Bを含め、被害者一家5人全員を実名報道した[報道 51][報道 10][報道 11]。『日本経済新聞』は、その理由について、「第一報では、警察が長女(B)に疑いを持っている状況だったので、、匿名にしたが、7日の朝刊段階では長女(B)が完全な被害者であることが判明した。そのことをはっきり示すためにも、実名報道の方がいいと判断した」と説明した[報道 51]。その上で、「しかし陰惨で気の毒な事件であり、被害者は一刻も事件を忘れたいことだろう。今後の報道の仕方は考えたい」とした[報道 51]

また、事件3日後の1992年3月9日朝、TBSテレビで放送されたワイドショー番組「モーニングEYE」では、Bの同級生へのインタビューの中で、リポーターがBの実名を口にした[報道 52]。質問に答える同級生もBの実名を何度か言い、それがそのまま放送された[報道 52]。同番組プロデューサー・島崎忠雄は、「当然匿名でいくべきケースだったが、VTRの編集で消し忘れた。突発事件の場合には、VTRの仕上がりが放送直前になるから、そういう単純なミスが起きることもある」(同番組ではその後もこの事件について繰り返し取り上げられたが、この「ミス」についての言及はなく)、「社内では反省する話し合いの場をもった。ケースによっては番組内でケアすることもあるが、(この時点では)まだ具体的な予定はない」と語ったのに対し、他局のあるプロデューサーは「この場面をハラハラしながら見た」といい、その上で「編集の時間が足りないことはままある。インタビューを撮る前に『こちらはB(仮名)ちゃんと呼びますので、実名を言わないようにしてください』と、念を押すなどの工夫が必要だ」と釘を刺した[報道 52]

またスポーツ新聞の中には、事件の主旨とは特に関係ないにも関わらず、長女(B)が養女である点に注目したり、裏付けを取らないまま被害者一家の生活ぶりを報じたものもあった[報道 23]

事件の真相が判明した1992年3月6日夜、捜査を担当した当時の千葉県警刑事部長は、事件後、「Bが最大の被害者だった」とコメントした[報道 23]

Bが当時通っていた県立高校の担任教諭は、事件直後、『日本経済新聞』・『千葉日報』の取材に対し、「Bには学校に出てきても慰めの言葉もない」と話していた[報道 26][報道 42]。担任教諭はその後、「昼間、千葉県警の発表があったにせよ、マスコミの取材はBを犯人扱いしていた」と憤った[報道 22]

また、『朝日新聞』1992年3月10日朝刊千葉県版に掲載された報道内容検証記事でも、「殺された家族の痛ましさは筆舌に尽くしがたいが、事件を通じて、最大の被害者は1人残された長女(B)だったかもしれない」と締めくくっている[報道 23]

刑事裁判[編集]

過去にSが傷害、強姦、強姦致傷、恐喝、窃盗など、多数の暴力的犯罪を繰り返していた点、Bの目の前でその肉親を殺害し、恐怖と絶望に打ちのめされるBを何度も強姦した残虐性、警察が踏み込んだ際にBに包丁を持たせ、自分が被害者を演じ、取り調べでも「Bと親しい間柄だった」などと虚偽の供述をして容疑を否認した計画性などが、刑事裁判で重く見られた[判決文 1]

Sの捜査中の心境[編集]

一晩のうちに強盗目的で一家4人を惨殺し、血の海の中で遺された少女を強姦するという凶行に及んだSだったが、逮捕直後は、「少年犯罪なら、少年法により処罰は軽くなる」と考えており、死刑になる可能性はまったく考えていなかった[書籍 35]

逮捕当時、Sは自分の今後について、「これで俺も少年院行きか」、「未成年ならどんな凶悪犯罪を犯しても少年鑑別所に送られて、そこから少年院に入れられるだけだろう」といった程度にしか考えていなかったという[書籍 31][書籍 35]

その上、Sは「死刑なんてものは、自分とはおよそ縁遠いもの。一度殺人を犯しておきながら、刑期を終えてから、あるいは仮釈放中に再犯するような者ぐらいしか、死刑にはならない[注釈 3]。だから自分には関係ない、違う世界のもの」だと確信していた[書籍 35]

その理由の一つには、1989年(昭和64年・平成元年)1月、Sの住んでいた東京都葛飾区青戸の近隣、足立区綾瀬で発生した、女子高生コンクリート詰め殺人事件が背景にあった[書籍 35]

Sは「コンクリート事件の犯人の少年たちでさえ、あれだけのことをやっておきながら死刑どころか無期懲役にすらなっていない[注釈 4]。それなら俺の方が犯行は長期間ではないし、犯行にあたって凶器一つ用意していないからまだ頭の中身もまともだ」という、S曰く「不遜な考え」を持っていたため[書籍 35]、逮捕後、出所後の生活設計のために、母親Yから、教科書・参考書・辞書類を差し入れさせ、勉学に励んでいた[書籍 31][書籍 35]

久田将義は、著書『生身の暴力論』にて、「この事件の前後(1980年代後半から1990年代前半)にかけ、コンクリート事件・名古屋アベック殺人事件(いずれも1988年発生)、大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件(1994年発生)など、想像を絶するようなあまりにも残虐な凶悪少年犯罪が集中して発生した」と述べた[その他 1]

1992年3月25日 - 9月上旬、起訴前の精神鑑定[編集]

送検後の1992年3月25日、千葉地検は「被疑者Sの精神状態に異常があるとは考えていないが、慎重を期した」として[報道 53]、1992年3月27日の勾留期限満期を前に[報道 54]、精神鑑定のため、1992年3月26日から90日間、被疑者Sを鑑定留置することを千葉地方裁判所に申請し、認められた[報道 54][報道 53][報道 55]

当初の鑑定留置期限は、同年6月25日までの予定だったが[報道 56]、千葉地検はその後、同年9月上旬まで精神鑑定を延長することを申請し、同年6月16日までに千葉地裁から認められた[報道 56]

1992年10月1日、被疑者Sを千葉家裁送致[編集]

筑波大学教授(当時)・小田晋が半年間にわたって精神鑑定を行った[報道 57][報道 58][報道 59]

1992年10月1日、千葉地検はその精神鑑定の結果を踏まえ、強盗殺人・傷害など5つの容疑で、被疑者Sを「刑事処分相当」の意見書付きで千葉家庭裁判所に送致した[報道 3][報道 60][報道 61]

1992年10月27日、被疑者Sを千葉地検に逆送致[編集]

4回にわたる少年審判を経て、1992年10月27日、千葉家裁(宮平隆介裁判官)は「事件は社会を震撼させ、世間に多大な影響を与えた」、「被疑者Sは成人に近い年長者である」などの理由で、「刑事罰を加えることにより規範意識を覚醒させることが必要」として、被疑者Sを千葉地検に逆送致した[報道 3][報道 62]

1992年11月5日、強盗殺人罪などで被疑者Sを千葉地裁に起訴[編集]

逮捕直後から半年間にわたる精神鑑定の結果、千葉地検は「カッとなると歯止めが効かなくなるが、完全な責任能力があった」と結論を出した[報道 3][報道 29]

そのため、千葉地検は1992年11月5日、強盗殺人・傷害など5つの各罪状で被疑者Sを千葉地裁に起訴した[報道 3][書籍 12][報道 29][報道 63][報道 64][報道 5][報道 65]

同日、千葉地検はこれに加え、被告人Sが1991年10月19日、東京都江戸川区内で起こした別の傷害事件(前述)についても、Sを起訴した[報道 5]

1993年2月17日まで、犯行前の数々の余罪で被告人Sを追起訴[編集]

千葉地検は翌1993年(平成5年)2月17日までに、一家殺害事件前の余罪3件(いずれも前述)について、傷害・恐喝・窃盗・強姦致傷の計4つの罪状で、被告人Sを千葉地裁に追起訴した[報道 66][報道 67]。起訴内容は以下の通り。

  • 1992年2月11日午前4時半頃、Sが東京都内の路上での女性に折り畳みナイフを突き付け、殴るなどの暴行を加えた上、手を切り付けて脅迫し、自宅に連れ込み強姦した、強姦致傷容疑[報道 66]
  • 1992年2月25日、Sが市川市内で通りすがりの会社員男性に因縁をつけて、鉄の棒で頭を殴り、自動車運転免許証を奪い金を要求した、恐喝容疑[報道 66][報道 67]
  • 1992年2月27日、埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)内で通りすがりの大学生の顔を殴り、ナイフで全身数十箇所を刺すなどして全治6週間の怪我を負わせ、運転免許証や車検証などを奪った、傷害・窃盗容疑[報道 66][報道 67]

第一審・千葉地裁[編集]

刑事裁判で被告人Sは、強盗殺人・強盗強姦・恐喝・窃盗・傷害・強姦・強姦致傷の7つの罪に問われ[注釈 5]、1991年10月から一家殺害事件直後に逮捕されるまでの約5ヶ月間に、計14の犯罪を繰り返したと認定された[報道 68]

1992年12月25日、第1回公判、被告人側罪状認否[編集]

1992年12月25日、千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)で一連の事件の初公判が開かれた[報道 4][報道 69][報道 70][報道 71][報道 72]

罪状認否に先立ち弁護人は、検察側に対し、「起訴状に記載されている殺意は、確定的殺意か未必的殺意か」と説明を求めたが、検察官は「立証段階で明らかにする」と回答した[報道 69]

この日行われた罪状認否で被告人Sは、被害者B宅を知るきっかけとなった強姦事件などについては、全面的に起訴事実を認めた[報道 4][報道 69][報道 70]

一方、強盗殺人罪の成立を認めたのは、被害者Bの祖母Cに対してのみで、それ以外の被害者については以下のように否定した[報道 69]

  • 母親Dに対する殺害行為については「逃げ出されると思い刺した」と、傷害致死罪を主張した[報道 4][報道 69][報道 70]。また、Dについては殺意だけでなく、金品強取の目的も否定した[報道 4]
  • 父親Aに対する殺害行為については「金は奪ったが殺すつもりはなかった」と、強盗致死罪を主張した[報道 4][報道 69][報道 70]
  • 妹Eに対する殺害行為については「朝起きて騒ぎ始めたので、事件の発覚を恐れて驚いて刺した。強盗目的もない」と、単純殺人罪を主張した[報道 4][報道 69][報道 70]

また、被害者C・Eについてはそれぞれ、「死ぬかもしれないと思ったが、確定的な殺意はなかった」として、未必の殺意を主張した[報道 4][報道 70]

弁護人は被告人Sと同様、外形的な事実関係は認めたが、犯意・目的などの点について、起訴事実を一部否認した[報道 69]

公判後の記者会見で、弁護人は「被告人Sが千葉地検に逆送致される際、千葉家裁は我々の主張にほぼ沿う判断をした。検察側が殺意を確定的と主張すれば全面的に争う」と話した上で、被告人Sについては「『被害者に何とかお詫びをしたい』といつも言っている」と話した[報道 70]

前述のようにこの時点では余罪の追起訴が未完了だったため、検察側はこの日の冒頭陳述は見送り、次回公判の翌1993年3月3日までに余罪について追起訴した上で、改めて冒頭陳述・追起訴状の罪状認否を行うことになった[報道 4][報道 69]

1993年3月3日、第2回公判、追起訴余罪の罪状認否・検察側冒頭陳述[編集]

事件から1年を前にした1993年3月3日、千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)で第2回公判が開かれた[報道 73][報道 74][報道 75]

同日はまず、追起訴された傷害・恐喝・窃盗・強姦致傷など計4つの余罪についての罪状認否が行われ、被告人Sは起訴事実をほぼ認めた[報道 73]

その後行われた冒頭陳述で検察側は、「被告人Sは、暴力団員から要求されていた金以外にも遊興費など欲しさから、一家4人を次々に殺害し、現金約34万円・残高約420万円の預金通帳を奪った」などと主張した[報道 73][報道 74][報道 75]、事件の引き金となった暴力団員とのトラブルなど[報道 73][報道 74]、残忍な事件の様相も含めてさまざまな新事実を明らかにした[報道 74]

  • 被告人Sは常にナイフを持ち歩き、暴力団を装っては金を脅し取るなど、次々と犯罪を重ねていた[報道 73]
  • 被害者B宅を知るきっかけになった強姦事件の際、Bの自転車と衝突した際、最初から割れていた窓ガラスを「お前が割った」と言いがかりをつけ、車でBを自宅アパートまで拉致した[報道 73]
  • 被告人Sは事件前、現場マンションを2回下見していたことに加え、侵入時にはマンション1階に設置された防犯カメラを避け、外階段で2階に登ってからエレベーターに乗るなど、計画性があった[報道 74]
  • 被告人Sは祖母Cを襲撃した際、唾を吐きかけられたことに逆上してCを絞殺した[報道 74]
  • 近所に犯行が発覚しないよう、未明に泣き出した妹Eを殺害したが、その際には姉Bに「妹を楽にさせてやれよ。首を絞めるとか方法があるだろう」と平然と言い放った[報道 74]
  • 家族3人を刺殺し、3人の血液が付着した凶器の包丁をBに握らせた[報道 74]

この時点では、弁護人側は「検察側による精神鑑定の結果には疑問がある」としつつも、再度の精神鑑定は求めず、被告人Sの責任能力は争わない考えを示した[報道 73][報道 75]。その上で弁護人側は、「今後は被害者に対する反省の態度など、情状面での立証に全力を挙げたい」と表明していた[報道 73][報道 74]

千葉地裁は当初、次回公判(第3回公判・1993年5月19日)で証拠調べ・被告人質問[報道 73]、第4回公判(1993年5月26日)で弁護人側の情状立証[報道 73]、1993年6月21日に検察側の論告求刑公判をそれぞれ行い[報道 58]、6月中に結審することを予定していた[報道 73]

1993年5月19日、第3回公判、弁護人側請求の精神鑑定採用[編集]

1993年5月19日、第3回公判が開かれた[報道 76][報道 77][報道 58]

弁護人側は同日までに[報道 76][報道 77][報道 58]、それまでの方針から一転し、「1993年2月に追起訴された傷害・恐喝など別事件については、いずれも常人の理解を超えている」と主張した[報道 77]

その上で、検察側が起訴前に小田晋に依頼し、半年間実施した精神鑑定の結果に対し、「捜査段階での精神鑑定は精神的な面が主だったが、犯罪心理面からの鑑定が必要である」として、異議を唱えた上で[報道 58]上智大学心理学教授(当時)・福島章に委嘱し、約半年間にわたり再度の精神鑑定を実施するよう千葉地裁に請求した[報道 77][報道 58]

検察側は、「起訴前に半年間にわたって詳細な精神鑑定を実施しており、再鑑定の必要性はない」と反対意見を述べたが[報道 76][報道 77][報道 58]、弁護人側の請求を受け、千葉地裁はいったん休廷し、3人の裁判官が合議を行った[報道 76]

神作裁判長はその結果、「これまでに精神医学的観点から、精神鑑定は十分に時間をかけて行ってきたが、犯罪心理学から見た被告人Sの精神状態を見る意味でも、改めて精神鑑定を実施する」として[報道 76]、弁護人側の請求を認める決定をした[報道 76][報道 77][報道 58]

千葉地検は残虐な少年犯罪として、捜査段階で約8か月に及ぶ精神鑑定を実施し、慎重を期した上で起訴したが、結審間近の公判中に別の角度から再度の精神鑑定が行われる異例の展開となった[報道 76]

またこの決定で再度の精神鑑定に半年を要することとなった上、1993年6月21日に予定されていた論告求刑公判期日も取り消され、公判の長期化は必至となった[報道 58]

同日の公判では、続いて被告人質問が行われた[報道 58]

被告人Sは、被害者C・E両名に対する殺意をそれぞれ認める供述をした[報道 77]。一方で、被害者A・D両名への殺意については「その時は殺すつもりはなかった。背中を刺して死ぬとは思わなかった」と否認した[報道 58]

被告人Sは「なぜこんな事件を起こしたのか」という質問に対し、「短絡的でした」と反省の言葉も述べた[報道 58]

検察側・弁護人側双方による被告人質問の中では、事件の異常さを明らかにする以下のような新事実も明らかになった[報道 58]

  • 被告人Sは、最初に被害者Cを絞殺した直後、一旦マンションを出て、自販機でジュースを買って飲んだ[報道 58]
  • Sはその後現場に戻り、帰宅した母親Dを娘Bの目の前で刺殺し、2人の遺体が転がるマンション内でBと食事をした[報道 58]

弁護人側はこの日、情状証拠として以下の証拠を証拠申請した[報道 58]

  • 被告人Sが被害者遺族の関係者宛てに書いた謝罪の手紙[報道 58]
  • A一家とは別の事件被害者に対して支払った50万円近い被害弁償を証明する領収書など[報道 58]

1993年5月 - 11月、2度目の精神鑑定[編集]

1993年5月から11月までの約半年間にわたり、福島による2度目の精神鑑定が行われた[報道 59]

その結果、1993年11月20日までに新たな鑑定結果が千葉地裁に提出された[報道 59]

その内容は、「被告人Sの母親Yが、妊娠中に流産予防のため黄体ホルモンを約2カ月間服用した。その胎児に対する男性化作用により、出生したSは攻撃的な性格になり、突然感情を爆発させる『間欠性爆発性精神病質』で、周期性気分変調と診断される。軽度の脳器質障害も見られ、興奮状態になる精神的な不安定さを有しているが、こうした心理・精神状態は中高年、30歳代で矯正可能である」などというものだった[報道 59]

起訴前に検察側の依頼で行われた小田の鑑定と異なり、福島の鑑定は被告人Sの矯正可能性に重点を置いた点が特徴だった[報道 59]

一方で検察側は、事件から1年5カ月が経過した精神鑑定中の1993年8月、被害者Bに対する期日外尋問を行った[判決文 1]。目の前で家族を皆殺しにされ、自らもその凄惨な現場で被告人Sの「通り魔ともいうべき獣欲の犠牲に供されて凌辱され、Sの一挙一動に肝を潰し、神経を擦り減らし、泣訴哀願して幸いにも一命をとりとめた、身も凍るような筆舌に尽くしがたい恐怖と戦慄」を味わったBは、この尋問に対し、「他の人が手に包丁を持ったまま振り向いたりすると『刺されるんじゃないか』と思って恐怖を感じる。夜はほとんど1人では出掛けなくなった」と、「その察するに余りある精神的衝撃の一端を窺わせる」供述をした[判決文 1]。その上でBは、量刑などについて「被告人Sに極めて厳しい意見」を述べた[判決文 1][報道 78]

1993年11月22日、第4回公判、精神鑑定結果取調べ[編集]

1993年11月22日、前回公判から約半年ぶりに公判が再開され、第4回公判が開かれた[報道 57]

同日、証拠調べが行われた[報道 57]。福島による再度の精神鑑定の結果に加え、検察側が提出した被害者遺族の尋問調書などが証拠として取り調べられた[報道 57][報道 78][報道 79]

再鑑定の内容は、検察側の依頼により起訴前に鑑定を行った小田の鑑定と同様、「Sは精神疾患ではなく刑事責任は問える」とした一方で、「被告人Sは心身成熟過程にあり精神的に不安定な性格異常だが、19歳は心身の成熟過程にあり、今後人格の改善の可能性がある」というもので、弁護人側はこれを「情状面で有利な資料」と見た[報道 57][報道 78]

精神鑑定を担当した福島は、被告人Sと直接面接した際の印象について「率直で正直な態度で、素朴な好青年と感じた」と記した上で、「被告人Sは事件について強い後悔・羞恥心を持ち、被害者に対する哀悼の気持ちを抱いていると感じた」と記した[報道 78]

一方で検察側が同年8月、被害者Bに対して行った尋問調書も証拠採用された[報道 78]

この日の公判後、弁護人は記者会見で「被告人Sは通常時・犯行当時ともに精神的には正常であり、性格に偏りがあるにすぎないが、尿酸値が高いという体質的要素から、『自分の感情をコントロールする能力』・『刺激に寄って我を忘れやすくなる性格』が結びついている」と述べた[報道 79]

その上で弁護人は、「これまでの司法判断で言えば刑事責任能力は取れるが、今回は体質的な要素や、その要素は年齢を重ねるにつれて改善されるものであることを考慮して、犯行当時未成年であった被告人Sの情状酌量をすべきである」と主張した[報道 79]

同日、次回の第5回公判(翌1994年1月31日)で情状証人尋問を行い[報道 57]、被告人Sの母親Yが弁護人側の情状証人として出廷すること[報道 79]、第6回公判(1994年2月23日)で論告求刑を行い、1994年3月に最終弁論を行った上で、同年4月に判決公判を開く予定が決まった[報道 57]

1994年1月31日、第5回公判、情状証人尋問[編集]

1994年(平成6年)1月31日、第5回公判が開かれた[報道 80]

同日、証人尋問が行われ、被告人Sの母親Yが弁護人側の情状証人として出廷した[報道 80]

Yは、前回公判で弁護人側が提出した精神鑑定の結果について、「妊娠中に常用していた黄体ホルモンが影響し、息子Sの性格が攻撃的なものになったと聞いて驚いた。家庭の事情による度重なる転校で、学校でのいじめもあったようだ」と証言した[報道 80]

この後、被告人質問が行われ、被告人Sは「犯行当時は自分の行動が理解できなかった。今は(当時被告人Sが収監されていた)千葉刑務所拘置区内で聖書を読むなど、心を落ち着かせている」と語った[報道 80]

次回公判(1994年2月23日、第6回公判)は論告求刑を予定していたが、その予定を変更し、同日にそれぞれ最後の被告人質問・証拠調べを行った上で、1994年3月14日に改めて検察側の論告求刑を行うこととなった[報道 80]

1994年3月14日、第7回公判、被告人質問[編集]

1994年3月14日、第7回公判が開かれた[報道 81]

同日の公判では、当初の論告求刑の予定を変更し、被告人質問が行われた[報道 81]

被告人Sは、犯行に至った経緯・心境、取り調べ状況などについて質問を受け、「事件当初は空き巣目的で、計画的な強盗ではなかった」などと強調した[報道 81]

この日の公判で証拠調べが終了し、次回公判(第8回公判、1994年4月4日)で検察側の論告求刑を行うこととなった[報道 81]

前述した通り、論告求刑公判は当初の予定では1993年6月21日だったが[報道 58]、1994年2月23日[報道 57]、同年3月14日[報道 80]、そして同年4月4日と、結果的に3度にわたり予定が変更された[報道 81]

論告求刑までの検察側・弁護人側動向[編集]

千葉地検は、論告求刑を前に、上級庁である東京高等検察庁とも慎重に協議を済ませ、後述の死刑求刑に臨んだ[報道 82]

千葉地検は、「自己中心的かつ短絡的な動機」、「現場マンションを事前に下見するなどの計画性」、「事情が分からないままベッドの上で泣き出したEをBの目の前で刺殺するなど、残虐極まりない犯行の態様」などを踏まえた[報道 82]

その上で、「犯行に斟酌すべき点はなく、残虐な犯行により4人の生命を奪った刑事責任は重大だ」と考え、「計7回の公判で立証は十分になされた」とした上で、被害者遺族であるBの心情も踏まえた上で、論告求刑に臨んだ[報道 82]

一方、弁護人側は、起訴事実に対して「被害者が外に逃げ出したり、声を出したりするのを恐れて刺した」として、確定的殺意を否定し、「強盗殺人罪の成立はCのみで、Aは強盗致死罪・Dは傷害致死罪・Eは単純殺人罪の適用が相当だ」と訴え、また前述の精神鑑定の結果や、「不遇な生育環境により、Sの暴力的性格が形成された」ことなどを主張した[報道 82]

その上で、以下のようなさまざまな情状を訴えた[報道 82]

  • 被告人Sは犯行当時19歳、判決時点でも21歳の若年であり、その改善更生の余地が皆無とは言えない[判決文 1]
  • 被告人Sは最終弁論までに一応は反省の態度を示し、殺害した被害者の冥福を祈っている[判決文 1]
  • 被告人Sの母親Yは、接触を拒否された被害者Bを除く各余罪の被害者に対しては、いずれも誠意ある謝罪をした上で、所有するマンションを売却するなど、可能な限りで資金を作り、以下のように示談をした[判決文 1]
    • 1991年10月19日の江戸川区内における傷害事件の被害者男性に対し、示談金45万円を支払って示談が成立した[判決文 1]
    • 1992年2月11日未明の中野区内における傷害・強姦事件の被害者女性に対し、示談金155万8475円を支払い示談を成立させた[判決文 1]
    • 1992年2月25日未明の市川市内における傷害・恐喝事件の被害者男性に対しては示談成立に至らなかったが、治療費・休業損・慰謝料の内金として50万円を現金書留郵便で送付した[判決文 1]
    • 1992年2月27日未明の埼玉県岩槻市内における傷害・窃盗事件の被害者男性に対しては、上に同じく合計50万円を送付するなどして被害弁償に努めた[判決文 1]
    • 被害者A一家に対する関係においても、その菩提寺に被害者の墓参りに訪れた上、供養のための喜捨をするなどして被害者の冥福を祈った[判決文 1]

1994年4月4日、第8回公判、検察側論告求刑・死刑求刑[編集]

1994年4月4日、千葉地裁(神作良二裁判長)で、第8回公判となる論告求刑公判が開かれた[報道 83][報道 84]

同日、検察側は被告人Sに対し死刑を求刑した[報道 84][報道 85][報道 86][報道 87][報道 88][報道 89][報道 90][報道 91][報道 92]

少年犯罪に対する死刑求刑は異例で[報道 92]、1989年1月・名古屋アベック殺人事件の第一審(名古屋地裁)以来だった[報道 84][報道 83]

検察側は論告で、まず他事件の事実関係について述べた上で一家殺害事件の詳細に入り、以下のような事実から被害者4人全員への確定的な殺意・強盗殺人罪の成立を主張した[報道 91]

  • 被害者Cの首を、舌骨などが折れるほど電気コードで絞めつけた[報道 91]
  • 刃渡り22.5cmの包丁で被害者Dの背中を5回も刺した上、A・E両被害者も深さ十数cmの傷で刺殺していることから、極めて強い攻撃を加えたと断定できる[報道 91]
  • Eを殺害する際にも、Bに「妹を楽にさせてやれ」などと言い放ったことから、この殺害行為は未必の故意ではない[報道 91]

また、被告人Sの責任能力についても「2度の精神鑑定から、弁護人側が主張するような精神疾患の兆候は全く認められない」として、完全責任能力を認める主張をした[報道 91]

その上で、犯行動機・態様について

  • 被告人Sは金欲しさから短絡的な犯行に及び、手段を選ばない自己中心的な動機から、下見をするなどした上で計画的に被害者宅に押し入った[報道 85][報道 91]
  • 何ら落ち度のない被害者4人を、虫けらを殺すかのように次々と惨殺し、わずか半日でマンションの一室を死屍累々の地獄にした[報道 85][報道 91]

そして検察官は、以下のように被害者の断末魔の苦痛を代弁し、犯行を厳しく非難した。

  • 被害者一家4人が非業の死を余儀なくされ、特に妻Dは娘2人の生命を気遣い、まさに死に切れぬ思いでこの世を去った。男性Aも可愛い娘たちを守ることができず、その恐怖・驚愕・断腸無念の思いは筆舌に尽くしがたい[報道 91]
  • 尋問調書でBが述べた、被告人Sに対する極刑を望む言葉も読み上げた[報道 90][報道 87]

「今でも両親らとの楽しかった思い出を夢に見る。私から大切なものをすべて奪ったSが憎くてたまらない。Sをこの手で殺してやりたい、この世に生きていてほしくない。Sは許されていいはずがない」[書籍 1]

「優しかった父母や祖母、自分に『お姉ちゃん』と甘えてかわいかったEをなぜ殺した。家族を返せ」[書籍 1]

そして検察官は、約1時間に及んだ論告の最後に以下のように主張し、「死刑が妥当である」と結論付けた。

  • 一連の犯行は全て被告人Sの単独犯行であり、少年犯罪にありがちな集団を形成し、相互に同調し合って重大事件を引き起こした場合とは性格が異なる[報道 92]
  • 警察が駆け付けた際、被害者Bに包丁を持たせて逃走しようとし、Bが犯人であるかのように装おうとした[報道 92]
  • 本件は計画強盗事件の凄惨な結果であり、犯行は残忍・冷酷・卑劣の極みであって誠に悪質だ[報道 86]
  • 少年に対する極刑の適用はとりわけ慎重になされるべきであることを考慮しても[報道 90][報道 86]、被害感情・動機・犯行態様・被害者数など、永山基準で示された死刑適用基準をすべて満たしていることから明らかなように、Sの刑事責任は誠に重大で[報道 90]、情状酌量などにより罪一等を減ずる余地は一片も見出すことはできない[報道 90][報道 86]
  • 罪刑の均衡と犯罪予防の見地から、命をもって罪を償わせ、今後このような凶悪犯罪が起きないようにすることが司法に課せられた責務だ[報道 90][報道 88][報道 92]

公判後に記者会見した、主任弁護人・奥田保弁護士は、「生育環境など同情すべき事情や矯正の可能性を評価せず、意外な求刑だ。少年法の精神にも、死刑廃止の動きにも逆行する」と述べ[報道 84][報道 85][報道 88][報道 91]、『日本経済新聞』『千葉日報』の紙面にも「最近の死刑廃止の動きに逆行する求刑だ。被害者や遺族には申し訳ないと思うが、当時少年のSには矯正の可能性があり、少年法の精神からして厳しすぎる」という奥田の談話が掲載された[報道 84][報道 89]

前述の「少年犯罪なら死刑にはならない」という考えも虚しく、この論告求刑公判で死刑が求刑されたことにより、Sがひそかに抱いていた「少年犯罪へのお目こぼしと、将来への希望」は、木っ端微塵に砕け散ることとなった[書籍 36]

Sはこの時、後の死刑判決宣告以上に大きなショックを受けたというが、この際もなお、死刑求刑とともに論告で自らの行為を糾弾した検察官を、嘲笑したり、逆恨みするような感情さえ抱いていた[書籍 36]

1994年4月27日、第9回公判、追加の証拠調べ[編集]

1994年4月27日、第9回公判が開かれた[報道 93][報道 94][報道 95]

同日、弁護人側の最終弁論が行われる予定だったが、弁護人側はこの日の公判で、「事件当時少年の被告人に対して行われた死刑求刑に対し、死刑制度の是非という大局的な見地での判断を仰ぎたい」との考えから、「死刑制度のありかたそのものについて」問いかける内容の弁護人側立証を行うことを同年4月15日までに決めた[報道 93]

千葉地裁も弁護人側のこの方針を認めたため、予定されていた最終弁論は延期されることとなった[報道 93]

この日の公判では、弁護人側が新たに証拠調べを要求し、被告人質問・証拠調べを行った[報道 95][報道 94]

その結果、被告人Sの死刑求刑後の心情などについて、追加で被告人質問が実施されたほか、死刑廃止を求める動きを報じる新聞記事などが、新たに証拠採用された[報道 94]

被告人質問で被告人Sは、死刑求刑に対し「自分の犯してしまった罪の重さを痛切に感じている」と心境を述べた[報道 95]

また、被告人Sは死刑求刑以降、拘置所で監房を変えられ、シーツの使用、タオル・鉛筆の所持など、以前より生活に制限があることを明らかにしたが、検察側の「変わったことは、あなたのことを思っているのですよね」との質問に、「理解できます」と答えた[報道 95]

弁護人側は証拠提出で、「検察側が起訴前に精神鑑定を依頼した小田晋教授は、鑑定前から週刊誌の記事上で『死刑を適用すべき』と言及するなど偏見があり、信憑性がない」と反論した[報道 95][報道 94]

さらに、死刑廃止に向けた超党派の国会議員の連盟「死刑廃止推進議員連盟」の結成など、死刑制度の在り方を問う社会的な流れがあることを主張した上で[報道 95][報道 94]、Sの母Yからの情状酌量を求める上申書2通などを含めて証拠申請し、いずれも証拠採用された[報道 95][報道 94]

1994年6月1日、第10回公判、弁護人側最終弁論[編集]

1994年6月1日、第10回公判が開かれた[報道 96][報道 83]

同日、改めて弁護人側の最終弁論が行われ、この日で第一審は結審した[報道 96][報道 83]

弁護人側は、被害者4人への確定的殺意・C以外3人への強盗殺人罪の成立をいずれも否認し、以下のように主張した[報道 96][報道 97]

  • 祖母Cに対する殺意は「未必の故意」であり、確定的殺意ではない[報道 96][報道 97]
  • 父親A・母親D両被害者に対する殺害行為は、いずれも殺意はなく強盗致死に該当する[報道 96][報道 97]
  • 妹Eへの殺害行為は強盗殺人罪・確定的殺意は成立せず、未必の故意による単純殺人である[報道 96][報道 97]

また責任能力については、福島の精神鑑定に基づき「Sは爆発型精神病質・類転換病質で、犯行当時は心神耗弱状態だった」と主張した[報道 96][報道 97]

その上で、情状面についても以下のように主張し、死刑回避・情状酌量による無期懲役の適用を求めた[報道 96][報道 98][報道 97]

  • 被告人Sの母親Yが各被害者への示談成立・供養をしている[判決文 1]
  • 死刑廃止は先進国際社会の常識で、死刑制度がある先進国は日本以外ではアメリカ合衆国の一部州のみである[報道 96][報道 97]
  • 少年法で18歳未満の少年への死刑適用は禁じられているが、被告人Sは犯行当時19歳で、18歳とわずか1年1か月しか違わない[報道 96][報道 97]
  • 事件は計画的なものでなく、被告人Sは当時精神未発達の少年だった[報道 98]
  • 被害者はSの犯行の合間に警察に通報する機会があった[報道 98]。(※なお実際には、本文中で述べたように被害者BはSによって脅迫され、監禁状態に置かれていた)
  • 被告人Sは少年時代不幸な生育環境にあった[報道 98]
  • 被告人Sは深く反省しており、矯正する可能性が高い[報道 98]

最後に被告人Sは、神作裁判長から「何か言いたいことはあるか」と問われ、「大変な事件を起こして申し訳ない。私が命を奪った方々は戻ってこないけれど、私はこれから生きていく中で少しでも償うように過ごしていきたいと思っている」と涙声で述べた[報道 96][報道 98][報道 97]

しかし被告人Sは、判決前には「被害者に申し訳ない」と弁護人に話し、宗教書などを読んでいた一方で、これまでの公判では心情を吐露することなく、被告人質問における供述も相手任せだったり、自分の言葉で深い心情を語らなかったりと、自らの「生と死」を決する裁判の進行も、まるで他人事と受け止めているかのような姿勢に終始していた[報道 99]

1994年8月8日、第11回公判、死刑判決[編集]

1994年8月8日に判決公判が開かれ[報道 100]、千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)は検察側の求刑通り、被告人Sに死刑判決を言い渡した[判決文 1][書籍 1][書籍 12][報道 101][報道 99][報道 102][報道 103][報道 104][報道 105][報道 106][報道 107][報道 108][報道 109][報道 110][報道 111][報道 112]

犯行当時少年への死刑判決は、永山則夫連続射殺事件に対する1990年の最高裁第三小法廷・第二次上告審判決(差し戻し控訴審の死刑判決を支持し、永山則夫被告人の上告を棄却)以来であり、第一審では1989年の名古屋地裁名古屋アベック殺人事件判決(控訴審で破棄・無期懲役が確定)以来であった[報道 101][報道 106][報道 104][報道 103][報道 105][報道 111]

なお各罪状における量刑選択の内訳は以下の通りであったが、実際に適用された刑は「両親・妹Eに対する強盗殺人・殺人罪に対する死刑」及び「押収された折り畳みナイフ1丁(平成5年押収第52号の2)の没収」のみで、刑法第51条の「死刑を執行すべきときは、没収を除き他の刑を執行しない」という規定により、それ以外の刑は科されなかった[判決文 1]

  • 祖母Cへの強盗殺人罪…無期懲役刑を選択[判決文 1]
    • 祖母Cが被告人Sへの咄嗟の抵抗としてSの顔に唾を吐きかけたことに対し、被告人Sが逆上したことで誘発された「偶発的犯行」と認定されたため、当罪状への死刑適用は回避された[判決文 1]
  • 母親D・父親A両被害者への強盗殺人罪・妹Eへの殺人罪…いずれも死刑を選択[判決文 1]
  • 被害者Bへの強姦致傷罪・強姦罪…いずれも有期懲役刑を選択[判決文 1]
  • その他各種余罪…いずれも懲役刑を選択[判決文 1]

判決の事実認定では、被害者Eに対する殺害行為のみ、「既に強盗行為はこの時点までに終わっており、それ以前の強盗殺人の発覚を防ぐためだとしても強盗殺人罪ではなく、別の殺人罪に該当する」として強盗殺人罪ではなく、被告人Sの弁護人の主張を認めて単純殺人罪と事実認定した[判決文 1][報道 101][報道 104][報道 103][報道 106]

しかしそれ以外の事実認定は検察側の主張にほぼ沿った内容で、Bの両親(A・D夫妻)については「公判での証言などからAへの殺意は明白である。Dの死も予見が可能だったのに、何ら救命措置を行わず金品強奪を企てた」などとして、被害者Cと同様、強盗殺人罪を認定した[判決文 1][報道 101][報道 104][報道 103][報道 106]

その上で、弁護人側の「被害者Aへの殺意は『未必の故意』であり、C・E両被害者への殺意は不確定」という主張を退け、殺害された被害者4人全員に対し、いずれも殺意があったことを認定した[判決文 1][報道 101][報道 106][報道 104][報道 103][報道 105]。なお母親Dに対する殺害行為については、「Dの死を意欲していたとまでは認められなくても、刃物で突き刺すことでDが死亡することを認識・予見しながらあえて刺突行為に及んでいるため、不確定とはいえ殺意が認められる」と認定した[判決文 2]

弁護人側は、「Sの胎児期に、母親が流産予防薬として服用した黄体ホルモンの影響で、Sは『爆発的精神病質者』であり、犯行当時は心神耗弱状態だった」と主張していたが[書籍 1]、これに対して千葉地裁は「2度の精神鑑定から、心神耗弱だったと断言するのは困難。また『爆発的精神病質者』との鑑定があるが、責任能力に支障をきたすほどではなかった」として退け、責任能力は問題なくあったと結論付けた[判決文 1][報道 101][報道 103]

次に量刑の理由の中で千葉地裁は、「国際的にみると、それぞれの国の歴史的・政治的・文化的その他の事情から、現在死刑制度を採用していない国が多く、我が国においても一部に根強い死刑反対論がある」として、死刑事件では初めて死刑制度を巡る国内外の議論について言及し、国内外の死刑廃止論の高まりを認めた一方で、以下のように述べた。

  • 各種世論調査の結果などが示している通り、いくら人を殺しても加害者本人の命は保証される結果になる死刑廃止には、多くの国民が疑問を抱いている[判決文 1][報道 105]
  • 死刑制度が存置している現法制下で、死刑は極めて抑制的に適用されており、生命は尊いものであるからこそ、自己の命で償わなければならないケースもある。少年犯罪についても異なることではない[判決文 1][報道 99][報道 107]

その上で千葉地裁は死刑適用に当たり、永山則夫連続射殺事件における1983年の最高裁判所判例「永山基準」を引用した上で[報道 108][報道 105]、以下のように犯行を非難し、「深く反省していることや、事件当時精神的に未熟な少年だったこと、不遇な家庭環境など、被告人Sに有利な情状を考慮しても、罪刑均衡と一般予防の見地から極刑をもって臨まざるを得ない」と結論付けた[判決文 1][報道 103][報道 105][報道 108]

死刑廃止を求める議論が活発になっていた当時、世論の注目の中での犯行当時少年に対する死刑判決は、その後の刑事裁判にも影響を与えるものだった[書籍 37]

死刑判決に対する反応[編集]
肯定的な反応[編集]

千葉地検次席検事・三谷紘は、「こちら側の主張をほぼ認めた判決だ。量刑も求刑通りで妥当だが、一部の点(次女Eに対する単純殺人罪認定など)で主張と異なる事実認定がされており、そちらについては対応を検討したい」と述べた[報道 101]

この死刑判決について、中央大学教授(当時)・渥美東洋は「自己目的の完遂に他人の犠牲をいとわぬ犯行で、19歳への死刑適用は合法であり当然。家族すべてを失い、ただ一人生き残った長女Bが『あんな男は生きていてほしくない』と語ったように、Sを死刑にしなければ被害者遺族は更に苦しむことになる」として、被害者の立場からこの判決を評価した[報道 99]

事件発生時にSを実名報道した『週刊新潮』の副編集長(当時)・宮沢章友は「無辜の人を冷酷に殺していく犯罪に、少年だからという理由で保護すべき要素は微塵もない」と振り返った[報道 99]

日本大学教授(当時・刑法)・板倉宏は、「1人で次々と4人を殺害した残虐性を考慮すれば、犯行当時19歳の少年だったとしても死刑はやむを得ない。もしこれが死刑でなければ最高裁の基準(永山基準)を無視することになるし、死刑制度を否定してしまうのだから妥当な結論だろう」という見解を示した[報道 99]

同日は真夏の暑さの中、一般傍聴席25席分の傍聴券を求め、判決に関心を持つ市民・学生ら174人が千葉地裁前に並んだ[報道 102]。それまで可能な限り公判を傍聴して着た被害者Aの元同僚は、『千葉日報』の取材に対し、「Aは仕事熱心でいい人だった。小さい子(次女E)まで殺した被告人Sを許せない。極刑にしてもらいたい」と怒りを露わにしていた[報道 102]

千葉市内在住の会社員も、『千葉日報』の取材に対し「死刑存廃論議もいいが、被害者遺族の気持ちを考えると、死刑が妥当だと思う。今の19歳は立派な大人だ」と話した[報道 102]

否定的な反応[編集]

一方、アムネスティ・インターナショナル日本支部・岩井信は「死刑廃止論が高まる中、あえて少年に死刑を科するなら、裁判所はその理由を積極的に示すべきだ」と述べ、死刑判決に否定的な見解を示した[報道 99]。判決を傍聴した同支部のメンバーも、『千葉日報』の取材に対し「今年に入り一審で死刑判決が言い渡される事例が増えているが、今回はあくまで少年事件であり、もっと事実関係を検証すべきだ。『結婚歴があるから一人前』とは言い切れない」と語った[報道 102]

当時、名古屋アベック殺人事件の被告人の主任弁護人を務めていた弁護士・安田好弘も「死刑判決を出すのは被害者感情からも簡単だ。しかしそこから社会が学ぶものは何もない。大人社会が少年を絞首刑にするのに、10回の公判で何ができたのか。法廷で少年が心を開いたとは思えない。犯行へ至る心のひだを解明すべきだ」と、死刑の是非以前に裁判そのものに疑問を呈した[報道 99]

明治大学教授(当時・刑事法)・菊田幸一は、「世界的には死刑廃止が潮流となっているにもかかわらず、裁判官は量刑基準から機械的に死刑判決を言い渡しており、誠に遺憾だ。裁判官には苦しいだろうが、死刑を選択しないぎりぎりの決断を期待していた。死刑に凶悪犯罪への抑止力はなく、加害者Sを抹殺しても被害者感情を満足させる結果にはならない」と批判した[報道 99]

精神科医・作家のなだいなだも、「一家4人が殺害された衝撃的な犯罪だが、被害者感情から死刑を肯定する考え方がある日本では、裁判で見せしめのような判決が下ることが多い。死刑は結局報復であり、新たな対立を招くだけだ。被告人の生い立ちなどの問題に目を向けず、精神的に未成熟な少年当時の犯行に死刑判決を安易に下すべきではない」と批判した[報道 99]

少年法に詳しく、少年事件研究会を主宰していた國學院大学教授・沢登俊雄(刑事法)は、「本件のような事件が発生すると、『少年事件全体が凶悪化しており、厳罰化が必要だ』という論調が生まれやすいが、これは本質を見失うものだ」と述べた上で、「被害者の立場に思いを言わすなら、死刑回避の決断は容易ではない。裁判官の勇断を期待するには、死刑適用基準の1つである『被害者の処罰感情』を緩和するため、国を挙げて思い切った被害者救済制度の確立に取り組むことが必要不可欠だ」と指摘した[報道 108]

「死刑制度廃止推進議員連盟」(会長・田村元)は同日、二見伸明事務局長名義で、「少年法の精神に則り、被告人の今後の生きるべき指針となる判決を期待したが、死刑判決には失望を禁じ得ない。この判決を気に被害者遺族への補填・救済の在り方を見直すと友委、死刑存廃問題について真正面からの議論を期待したい。そのために死刑に関する情報を公開し、死刑執行を一定期間停止する時限立法を制定すべきだ」との声明を発表した[報道 102]

被告人S・弁護人が即日控訴[編集]

閉廷後の記者会見で被告人Sの弁護団(主任弁護人・奥田保)は、「犯行時に被告人が未成熟だったことなどを否定し、世界的な死刑廃止の潮流に逆行して被害の重大性のみに目を奪われた量刑であり、極めて遺憾だ」と感想を述べた[報道 99]

その上で被告人Sと弁護人は判決を不服として、閉廷後の同日午後、東京高等裁判所に即日控訴した[報道 101][報道 113][報道 114][報道 115]

この時、死刑判決を受けたことで、Sは初めて、「一家4人殺害の罪の重さを受け止め、犠牲者の苦痛と、身も凍る恐怖を知ることとなった」[書籍 36]。同時に、それまでSが逮捕以来、口にしていた反省の言葉も全ては「偽善」であったことを、Sに突き付ける格好となった[書籍 36]

控訴審・東京高裁[編集]

控訴審における弁護人側主張[編集]

東京高等裁判所で開かれた控訴審で、弁護人側は以下のように「未必の故意だったり、被告人Sには殺意がないのに、原判決は『確定的な故意がある』と誤った認定をしている」として、殺意の面で第一審判決には事実誤認があると主張した[報道 116][報道 117]

  • 祖母Cへの強盗殺人罪について、その殺意は「未必の殺意」であるにも拘らず、確定的殺意による強盗殺人罪を認定している[判決文 2]
  • 母親Dへの強盗殺人罪について、殺意はなく強盗致死罪が成立するに過ぎないにも拘らず「未必の殺意」による強盗殺人罪を認定している[判決文 2]
  • 父親Aへの強盗殺人罪について、殺意はなく強盗致死罪が成立するにも拘らず、確定的殺意による強盗殺人罪を認定している[判決文 2]
  • 妹Eへの殺人罪について、その殺意は『未必の殺意』であるにもかかわらず、確定的殺意による殺人罪を認定している[判決文 2]

また、第一審における「爆発的精神病質者」という主張については[報道 117]、更にアメリカ合衆国の心理学者[報道 117]・ライニッシュの論文を添えて補強し[判決文 2]、完全責任能力を否定した[書籍 1][報道 117]

その上で弁護人側は、世界的な死刑廃止運動や、18歳未満への死刑適用を禁じた少年法の趣旨を強調した上で、以下のような観点から「死刑判決を破棄して無期懲役刑を適用するのが相当である」とする旨を主張していた[報道 118][報道 116]

  • 被告人Sの犯行当時の精神年齢は18歳未満で、少年法の精神に照らせば死刑を適用することはできない[報道 119][報道 117]
  • 「爆発的精神病質者」であるという精神鑑定結果や、深い反省の意を示していることなどから、死刑は重すぎて量刑不当である[報道 118]

1996年7月2日、控訴審判決公判、二審も死刑判決(被告人・弁護人側控訴棄却)[編集]

1996年(平成8年)7月2日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁(神田忠治裁判長)は第一審の死刑判決を支持し、被告人S・弁護人の控訴を棄却する判決を言い渡した[判決文 2][報道 120][報道 119][報道 118][報道 116][報道 121][報道 117]

東京高裁は「犯行当時は少年であり、年齢を重ねれば教育によって改善の可能性はある」と、被告人Sに対して有利な情状も認定した[報道 118][報道 121][報道 117]

しかしその一方で、以下のような様々な情状の認定により、死刑を回避するには至らなかった[判決文 2]

  • 犯行動機・殺害方法・殺害された被害者数に照らして責任は誠に重大である。特に、幼くして命を奪われた幼女(E)には深い哀れみを禁じ得ない[判決文 2]
  • 弁護人側の主張する『黄体ホルモンの影響による心神耗弱』の根拠である学者の研究は、あくまで性格的な傾向を見るにとどまり、攻撃性の異常な増加を示してはいない[判決文 2][報道 117]
  • 被害者の傷の深さや、犯行後に救命措置を考えていないことなどから、原審の殺意の認定は正当である[判決文 2][報道 116]
  • 弁護人は、被告人Sが犯行当時「爆発的精神病質者」であったことを主張しているが、被告人Sは犯行当時、異常な心理状態にあったとは考えられない[判決文 2][報道 116][報道 117]
  • 被告人Sは粗暴な犯行を重ねており、自己の衝動や攻撃性を抑制しようとしない危険な傾向が顕著である[判決文 2][報道 121]

その上で東京高裁は量刑について、「犯行当時19歳の少年だったこと、深い反省をしているなど、被告人の有利な事情を十分に考慮し、死刑が究極の刑罰であることを考えても、犯した罪の重大性を見ると犯行は卑劣で残虐であり、生命に対する畏敬の念を見い出せない。その罪の重大性から、死刑に処すのはやむを得ない」と理由づけた[判決文 2][報道 119][報道 116][報道 118][報道 121][報道 117]

被告人S・弁護人が即日上告[編集]

被告人Sの弁護人側は、判決を不服として、同日付で最高裁判所上告した[報道 120][報道 119][報道 116][報道 118][報道 117]

上告審・最高裁第二小法廷[編集]

2001年3月5日まで、上告審口頭弁論公判期日指定[編集]

事件発生から丸9年となる2001年(平成13年)3月5日までに、最高裁判所第二小法廷(亀山継夫裁判長)は、上告審口頭弁論公判開廷期日を同年4月13日に指定し、関係者に通知した[報道 122][報道 123][報道 124][報道 125]

2001年4月13日、上告審口頭弁論公判[編集]

2001年4月13日、最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれた[報道 126][報道 127][報道 128][報道 129][報道 130][報道 131]

控訴審で死刑判決を言い渡された犯行当時少年の被告人に対し、最高裁で審理が行われたのは、永山則夫の第二次上告審以来だった[報道 126][報道 129]

弁護人側は、精神科医の鑑定結果から、「被告人Sは幼児期、父親から受けた激しい虐待が心的外傷となり、人格の同一性が混乱する解離性障害となり犯行に繋がった」として、新たな主張を展開した[書籍 38]

その上で、「胎児期に流産予防のために投与された黄体ホルモンの影響など、複合的要因が重なり、犯行当時は行動制御能力が著しく劣った心神耗弱状態であった」と強調し、「死刑は残虐な刑を禁じた日本国憲法第36条に違反し、とりわけ少年への適用は許されない」、「少年の成熟の度合いは個人差がある。被告人Sは犯行当時19歳だったが、18歳を1年超えているからといって死刑を科すべきではない。矯正可能性がある少年への量刑は、慎重かつ抑制的であるべきだ」として[書籍 38]、死刑判決を破棄するよう求めた上で、無期懲役への減軽・もしくは審理の差し戻しが妥当だと主張した[報道 126][報道 127][報道 128][報道 129][報道 131][報道 130][書籍 38]

この公判を傍聴した永瀬隼介によれば、弁護人側の「脳科学の知識を踏まえた上で改めて審理すべきである。また被告人Sは、4人の被害者に対して、『どんなに謝っても取り返しのつかないことをしてしまった』と悔いている」という主張は、さして耳目をひくような事柄ではなく、「全く説得力のない弁護の連続」に、法廷内は「白けた空気が充満した」という[書籍 38]

その中で唯一、傍聴席が反応した場面は、女性弁護人が虐待の場面を述べた場面であったという[書籍 38]。その弁護人は、熱っぽい口調で、「父親からまるでマイク・タイソンのラッシュ攻撃のように殴られ、全身が痣によって赤紫色の世界地図のようになってしまった。これでは大好きなプールにも行けない、と泣いたこともあった」と語ったが、「芝居っ気たっぷりに語られた、タイソンと世界地図の比喩が妙におかしく、傍聴席からは失笑が沸いた」という[書籍 38]

一方で検察側は「量刑不当は単なる事実誤認であり、とても上告理由とは認められない。自分より弱い者に向けられた、冷酷で残虐な行為は、とても許されるものではない。被害者に全く落ち度はなく、生き残った少女(B)も被告人(S)の極刑を望んでいる。一・二審の死刑判決は正当であり、上告は棄却されるべきである」として、被告人S・弁護人の上告棄却を求めた[報道 126][報道 127][報道 128][報道 129][報道 131][書籍 38][報道 132]

2001年11月13日まで、上告審判決公判期日指定[編集]

当初は同年夏までに判決が言い渡される見通しだと思われたが[報道 126][報道 129][報道 130]、最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)は、同年11月13日までに、上告審判決公判開廷期日を、同年12月3日に指定し、関係者に通知した[報道 133][報道 132][報道 134]

2001年12月3日、上告審判決公判、被告人Sの上告棄却判決、死刑判決が事実上確定[編集]

2001年12月3日、上告審判決公判が開かれ、最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)は、「Sは暴力団関係者から要求された金銭を工面するために強盗殺人を犯し、動機に酌量の余地はない。犯行は冷酷かつ残虐で、自らも被害者となった遺族(B)の被害感情も非常に厳しい」「4人の生命を奪った刑事責任は極めて重大で、Sの犯行当時の年齢などを考慮しても死刑はやむを得ない。弁護人側の主張は適切な上告理由に当たらない」として、一・二審の死刑判決を支持し、被告人Sの上告を棄却する判決を言い渡した[判決文 3][報道 135][報道 136][報道 137][報道 25][報道 138][報道 139][報道 68][報道 140][報道 83][報道 141][報道 142][報道 143][報道 144][報道 145][報道 146][書籍 12][書籍 39]。これにより、被告人Sの死刑が確定することとなった[報道 135][報道 137][報道 25][報道 139][報道 68][報道 83][報道 143][報道 144]

犯行当時少年だった被告人に言い渡された死刑判決が確定するのは、1990年に最高裁で死刑が確定した永山則夫連続射殺事件永山則夫以来、最高裁が統計を取り始めた1966年以降では9人目で[報道 135][報道 137][報道 25][報道 139][報道 68][報道 83][報道 143][報道 144]、平成に入って発生した少年犯罪では初めてであった[書籍 2]

事件当時19歳の少年だった被告人Sは28歳になっていた[報道 135][報道 137][報道 25][報道 139][報道 68][報道 83][報道 143][報道 144]

2001年12月、判決訂正申し立て棄却により被告人Sの死刑判決正式確定[編集]

被告人S・弁護人は、上告審判決を不服として、最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)に判決訂正申し立てを行ったが、同小法廷が2001年12月21日までに下した決定により、この申し立ては棄却された[報道 147][報道 148][報道 149][報道 150][報道 151][報道 152]

これにより、犯行当時少年としては永山以来となる死刑判決が正式に確定した[報道 147][報道 148][報道 149][報道 150][報道 151]

死刑適用について判断が分かれる傾向にある少年犯罪でありながら、この事件は第一審・控訴審・上告審と一度も死刑判決が破棄されることなく、一貫して支持された上で確定する結果となった[報道 153][報道 16][報道 17][注釈 6]。これにより、Sは戦後日本で37人目(永山則夫連続射殺事件の最高裁判決以降、および平成の少年事件では初)の少年死刑囚となった。

死刑確定前後から死刑執行まで[編集]

被告人Sが上告中、中日新聞社に送った手記[編集]

2000年7月の手記[編集]

被告人Sは、最高裁上告中の1997年から、『東京新聞』(中日新聞)社会部記者・瀬口晴義と文通をしていた[報道 50][報道 154]

中日新聞社が発行する、『中日新聞』・『東京新聞』両紙は、2000年7月29日夕刊に、被告人Sから送られた手記の内容を掲載した[報道 50][報道 154]

当時、収監先の東京拘置所で、「570番」と呼ばれていたSは、「狭い独房で壁に向き合う孤独な日々を過ごしていた」[報道 50][報道 154]

瀬口に対する手記で、Sは「いちいち『少年法』とか、『死刑にならない』とか、考えながら事件を起こすなら、もう少し頭を使って、指紋が残らないように軍手の1つもはめますよ。高校も満足に行っていないような者に、少年法の中身を丁寧に教えてくれる人がいると思いますか」と記し、犯行当時は、少年法については熟知しておらず、法律など眼中にない、衝動的な犯行だったことを主張した[報道 50][報道 154]

また、1997年に発生した神戸連続児童殺傷事件を受け、少年法改正論議が沸騰した頃、Sは「大人と同じように処分することにして、いじめや恐喝、リンチ殺人がなくなると思いますか。きっと変わらない。それどころか、これまで以上に陰湿なやり方が増えることになるだけだと思います」として、少年法改正によっても、凶悪少年犯罪が減少することはない、という考えを示していた[報道 50][報道 154]

その一方で、手記の中では、「精神鑑定を担当した精神科医や、教誨師として面会に訪れてくれた修道会関係者との関わりなどを機に、罪を正面から受け止められるようになった」ことを明かした上で、「己の罪深さを恥じ、真に償いを求めるならば、私は自分の将来を求めてはいけないと思えます」と記した[報道 50][報道 154]

また、恵まれない家庭環境や、小学生時代のいじめの経験も赤裸々に曝け出し、「義務教育の9年間、一度も無邪気にはしゃいだ記憶がない。尊敬できる先生には一人も出会えませんでした」、「(小学校の高学年は)痣だらけにされて過ごしたつらい時期だった。人生をやり直すなら、これより前まで戻らないと、何度やり直しても同じことをしてしまうと思う」と述べた[報道 50][報道 154]

その上でSは、凶悪な少年犯罪を生む素地は、「大多数の『負け組』の上に、一握りの『勝ち組』が君臨する社会構造にある」として、「現代は、金か能力のある者だけが、正義ともてはやされ、勝ち誇る社会。一部の裕福で恵まれた人間以外は、子供でさえ、夢も希望も見ることもできない」という心境を記した[報道 50][報道 154]

Sは、瀬口との手紙・面会で、獄中生活で体重が120kgを超えたことを嘆く一方、礼儀正しく、大腸がんを患った瀬口に対し、本気で気遣っていたという[報道 155]

2001年12月、最高裁判決を前にした手記[編集]

最高裁判決期日の2001年12月3日までに、被告人Sは中日新聞社に手記を寄せた[報道 137][報道 25]。判決を伝える『中日新聞』・『東京新聞』両紙それぞれの、2001年12月4日朝刊記事で、その内容が掲載された[報道 137][報道 25][報道 156][報道 157]

手記の中で、被告人Sは「二度の死刑判決を受け、生き恥を晒し続けて、自分の家族にさえ迷惑をかけるより、とっとと死んで消えてなくなりたい、それで早く生まれ変わって新しくやり直す方がどんなにか楽だろうと、安易な自暴自棄に陥っていた頃もあった」、「そんな僕を見た多くの人から『死んでおしまいなどというのはずるい』『生きて償うべきだ』と言われ、生きていなければ感じられない苦しみを最後の瞬間まで味わい続けようと改めて決意した。何もできないまでも、最後まで生き抜いて罪を贖える方法を模索したい」、「僕の経験を反面教師として役立ててもらえば、この世に生まれてきたことに少しでも意味があったと言えるかもしれません」などと、当時の心境を吐露していた[報道 25][報道 156][報道 157]

関係者によれば被告人Sは、死刑確定を覚悟しつつも、判決までの数日間は落ち着かない様子だったという[報道 25]

なおこの手記は、最高裁判決から9年後の2010年11月28日、石巻3人殺傷事件の刑事裁判にて、裁判員裁判で初めて犯行当時少年の被告人に死刑判決が言い渡されたことについて言及した、『中日新聞』朝刊コラム「中日春秋」および、『東京新聞』朝刊コラム「筆洗」で、それぞれ引用された[報道 158][報道 159]

瀬口は、死刑執行後の『中日新聞』2018年3月4日朝刊特集記事で、「相対した際の印象と、残虐非道な犯行の差は、最後まで埋まらなかった」、「懺悔の言葉が、本心からの言葉なのかはまだわからないが、自分の命をもってしてもなお、償いきれない罪の大きさを自覚していたとは思う」と振り返った[報道 155]

被害者の遺骨が納骨された寺の住職と死刑囚Sの交流[編集]

死刑囚Sは2006年、被害者4人の遺骨が納骨された、熊本県内にある寺の住職に対し、2500字の写経を書き、手紙として送っていた[報道 155]

この住職は、Sの母親らに依頼され、事件翌年で、当時公判中の1993年、千葉刑務所にいた被告人Sと初めて面会した[報道 155]

住職は面会した当初、被告人Sに対し、「犠牲者の無念を思い、アクリル板越しに怒りをぶつけたくなったこともあった」というが、第一審の死刑判決後、「生と死の境に立ち、命の重みを考え始めたのかもしれない」と思うようになったという[報道 155]

住職はその後、被告人・死刑囚Sと面会するたびに、被害者の供養を頼まれるようになり、「許す、許さないではないが、罪の大きさに苦しんでいるとは見て取れる」として、願いを聞き入れた[報道 155]

住職は、「宗教家として死刑執行を肯定こそしないものの、被害者遺族の悲嘆を目の当たりにすれば、死刑執行は『因果応報』とも思う」といい、死刑執行翌日の2017年12月20日、戒名は与えなかったものの、Sの供養を行った[報道 155]

死刑囚Sの再審請求[編集]

なお、「死刑廃止の会」(2006年当時)による[書籍 5][注釈 7]、1993年3月26日以降の死刑囚についての調査(2006年9月15日付)によれば、東京拘置所収監されていたSは[書籍 41]、2005年8月1日から2006年9月15日までに、再審請求を起こした[注釈 8][書籍 5]

後述のように死刑囚Sは死刑執行時点で、犯行当時の責任能力の有無を争い[報道 160]、第三次再審請求中だったが[報道 161]、具体的な請求内容・時期などの詳細は不明のままである。

Sは死刑執行まで、上告審から弁護団に加わり、その後も再審請求の担当の弁護人を務めていた[報道 155]、一場順子弁護士と、2カ月に1回ほど面会していた[報道 162][報道 163]

生前、Sと一場が最後に面会したのは2017年10月末で、Sは死刑執行まで、新聞をよく読んでいたといい、一場はSに対し、小説『ハリー・ポッターシリーズ』や、雑誌を差し入れていたという[報道 162][報道 163]

一場との面会時、Sは気候・体調など、たわいもない話をすることが多く、本人も落ち着いていた様子だったが、一場曰く、以前は「事件の情景が四六時中よみがえる。(殺害された被害者)4人がいつも自分にくっついていて、『おまえのことを許せない』と言っているようで苦しい」と打ち明けたこともあったという[報道 160][報道 162][報道 163]

石元太一の証言[編集]

一方、関東連合系の暴走族・「千歳台ブラックエンペラー」の元総長・石元太一(2018年現在無期懲役刑で服役中)は、被告人として東京拘置所に収監されていた際、死刑囚Sと同じフロアで生活していたが、2018年3月9日付のブログで、Sの生前を振り返り、「Sは過去に大暴れしたらしい」と証言した[その他 2]

死刑囚が施設内を移動する際、通常は刑務官1人が同伴するが、Sの場合は必ず刑務官2人が同伴していた[その他 2]。これを疑問に思った石元が、近くの独居房にいた他の死刑囚に理由を尋ねると、その死刑囚から「(Sが)過去に大暴れしたから」と教えられたという[その他 2]

これに加えて石元は、「Sの独居房は常にフロアの一番奥だった」、「屋外での運動時も、一番最初に部屋を出され、一番最後に部屋に戻されていた」など、Sが他の収容者と顔を合わせる機会がないよう、厳重な警戒態勢が取られていたことを証言した[その他 2]

死刑執行[編集]

2017年12月19日、死刑囚Sほか1人の死刑執行[編集]

2017年(平成29年)12月19日、法務省法務大臣上川陽子、同年12月15日付署名)の死刑執行命令により[声明 1]、収監先の東京拘置所[声明 1]、当時第三次再審請求中だった死刑囚S(44歳没)に対し[報道 161]死刑が執行された[声明 1][報道 2][報道 6][報道 164][報道 165][報道 166][報道 18][報道 161][報道 167][報道 157][報道 168][報道 12][報道 13][報道 14][報道 15][報道 16][報道 17][報道 18][報道 163][報道 169][報道 170]。事件発生から四半世紀(25年)[報道 170]、死刑確定から16年が経過していた[報道 171]

同日には同じく東京拘置所にて、1994年に群馬県安中市で3人を殺害し、死刑が確定した殺人事件の死刑囚に対しても、死刑が執行された[報道 12]

犯行当時少年だった死刑囚(少年死刑囚)に対し、死刑が執行されたのは、1997年に死刑が執行された永山則夫以来、20年ぶりのことで[報道 172][報道 173][報道 174][報道 160]、法務省が死刑執行について、事案の概要などを公表するようになった2007年12月以降では、これが初の事例だった[声明 1]

また法務省は、犯行当時少年だった死刑囚Sの死刑執行について、実名で執行事実を公表した[声明 1]

また、再審請求中の死刑執行は避けられる傾向が強く、近年では1999年12月17日(臼井日出男法務大臣の死刑執行命令により、福岡拘置所に収監されていた長崎雨宿り殺人事件の死刑囚を死刑執行)以来途絶えていたが、同年7月にスナックママ連続殺人事件の死刑囚(当時・大阪拘置所在監)に対し、金田勝年法務大臣の命令で死刑が執行されて以来2回連続で、再審請求中の死刑囚が執行されたケースとなった[報道 160]

弁護人・一場順子弁護士曰く、死刑囚Sは「解離性障害の可能性から、犯行当時の刑事責任能力の有無を争って」再審を請求していたが[報道 160]、法務省関係者によれば、第三次再審請求中だったものの、「実質的に同じ理由で再審請求を繰り返していた」という[報道 161]

Sは死刑執行直前、弁護士・一場宛の遺言として、「裁判記録は(一場)先生の元へ」とだけ言い残していた[報道 155]

同日、執行を発表する記者会見の際、上川は「再審請求中だからといって、(死刑を)執行しないという考え方はとっていない」と述べた上で、犯行時少年に対する死刑執行については、「個々の死刑執行の判断に関わるため、個人的な考え方については発言を控える」と述べた[声明 1][報道 161]

死刑執行に対する反応[編集]

事件当時少年で、再審請求中だったSの死刑執行を受け、さまざまな反応が示された。

否定的な反応[編集]

「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(フォーラム90)は同日、「まだ成長過程にあり更生の可能性のある少年への死刑執行は許されてはならない」、「再審請求中の死刑執行は、けっして許されてはならない」などの抗議声明を発表した[声明 2]

日本弁護士連合会(日弁連)も、中本和洋会長名義で同日、「死刑執行に強く抗議し、改めて死刑執行を停止し、2020年までに死刑制度の廃止を目指すべきであることを求める会長声明」を発表した[声明 3]

日弁連死刑廃止検討委員会事務局長・小川原優之は、「犯行当時少年の場合、判断能力が成人より劣っている上、家庭環境や、社会の影響も強く受けている。事件の責任を個人に負わせるのは相当ではなく、死刑を執行すべきではない」「死刑確定者も、犯人性への疑いだけでなく、責任能力に問題があったり、死刑が相当かどうかだったりと、さまざまな論点で再審を請求している。そうした人々から、裁判で争う機会を奪うのも問題だ」として、少年死刑囚・再審請求中の死刑囚に対し、死刑を執行することに反対する意見を述べた[報道 175]

千葉県弁護士会(会長:及川智志)も、翌12月20日付で、同じく死刑執行に抗議する声明を発表した[声明 4]。同会の副会長・藤岡拓郎も、『千葉日報』の取材に対し、死刑制度自体の問題・犯行当時少年に対する死刑執行への反対姿勢を明確にした上で、「死刑を執行すべきではなかった。極めて遺憾だ」と非難した[報道 6]

駐日欧州連合(EU)代表部も同日、東京に大使館を置く26加盟国、アイスランドノルウェー大使館と共同で、「死刑は残酷かつ非人間的で、犯罪抑止効果は全く証明されていない。(裁判の)誤審も免れない」として、日本政府に対し、死刑執行停止を促す声明を発表した[報道 160]

肯定的な反応[編集]

犯罪被害者支援弁護士フォーラム(VSフォーラム)は同日、共同代表の杉本吉史山田廣両弁護士名義で、「死刑制度は最高裁判例でも合憲とされている制度」、「法律に従い、執行されるのは当然のことであり、執行に反対することは法律を遵守しなくても良いと述べていることと同じこと。法治国家である以上、今後も法務大臣において、法律が遵守されることは当然のこと」とした上で、「再審請求中であっても、執行を停止しなければならないとの法の規定はなく、再審請求を延命のため濫用している事例があるとしたら、被害者遺族にとっては耐え難いことであり、二次被害を与えるものである。加害者が犯行当時、少年であっても、被害者からすれば、大切な人を失った悲しみ、苦しみや無念さは変わりなく、少年だからと言って、死刑執行を回避すべきではない」、「被害者遺族からすれば、歓迎すべき執行であり、当フォーラムでも、これを強く支持する」とする声明を発表した[声明 5]

常磐大学元学長・諸沢英道(被害者学)は、「少年の更生可能性という、非科学的・曖昧な基準で、死刑執行を回避するのは相当ではない。事件の重大性や、遺族らの被害者感情、社会への影響を考えると、執行は当然だ」、「執行の先送りを目的とした再審請求も多く、再審請求中だからと言って、死刑執行対象から除外すべきではない」として、死刑執行を支持した上で、「冤罪の可能性がないことを、法務省が具体的に説明する必要はあるだろう」という見解を示した[報道 164][報道 176]

16歳の少年による暴行で長男を失った、「少年犯罪被害当事者の会」代表・武るり子は、時事通信社の取材に対し、「被害者4人の大切な将来を奪ったのだから、少年であっても罪に合った罰を受けるべきだ。それが抑止力につながると信じている」と話した[報道 177]

産経新聞』(産業経済新聞社)は、2017年12月20日付で「死刑執行により、更生の機会が完全に失われたとの批判があるが、その可能性を争うのが裁判であり、法相に確定判決の是非を判断する職責はない」、「上川陽子法相の執行命令は当然の職務を果たしたもので、批判は当たらない。法相の個人的信条で執行の有無が決まるなら『法の下の平等』に著しく抵触する。刑の確定は16年前であり、むしろ遅すぎた執行ともいえる」、「死刑が確定した少年犯罪は、『いずれも身勝手で、凄惨な犯行であり、死刑以外の選択はできない』と、刑事裁判で判断された。法相は粛々と、刑の執行を命じるべきである」した上で、「元少年に対する死刑の執行を、国民一人一人が、少年法改正についての問題を考える契機とすべきだ」とするコラムを発表した[報道 171][報道 178]

実名報道[編集]

『週刊新潮』などによる実名報道・顔写真掲載[編集]

事件直後、いずれも新潮社から発売された、週刊誌週刊新潮』・写真週刊誌FOCUS』は、それぞれSを実名報道した[新潮 2][新潮 1][報道 179][報道 180]

当時、『週刊新潮』編集部次長であった宮沢章友は、『産経新聞』・『朝日新聞』などの取材に対し、「少年法が制定された当時とは、肉体的・精神的ともに、社会からの刺激が多いという点で、『少年』の概念が変わっているのに、旧態依然とした少年法に従って、20歳以下なら一様に実名を伏せることは好ましくない。犯行そのものも、帰宅した家族を次々と殺害するなど凶悪で、少年法でくくれる内容ではない」[報道 179]、「今回の犯行は未熟な少年が弾みで起こしたようなものではなく、少年法で保護しなければならない『少年』の枠を超えている。加害者の人権に比べて被害者の人権が軽視されている。少年による凶悪事件が増加している今、20歳未満ならばどんな犯罪を犯しても守られる現行の少年法は時代遅れ。問題提起する意味で実名報道した」と述べた[報道 51][報道 180][報道 179]

また、宮沢は、「(ライバル誌の『週刊文春』(文藝春秋)が加害少年らを実名報道した)女子高生コンクリート詰め殺人事件の際は、犯人グループのうち、誰がどう手を下したのか、はっきりしない部分があったため、実名報道は見送ったが、今回は犯人がはっきりしているからこそ、(実名報道という形で)問題提起をしやすかった」と述べた[報道 179]

その上で、「実名報道するかどうかの判断はケース・バイ・ケースであり、少年犯罪をすべて実名報道するわけではない」とした[報道 179][報道 51]

これらの実名報道に対しては、東京弁護士会小堀樹会長)が、1992年3月25日、「少年法の趣旨に反し、人権を損なう行為だ」として、「良識と節度を持った少年報道」を求める要望書を新潮社に郵送した[報道 181]。東京弁護士会は、「マスコミが少年を裁くようなことをしていいのか」と問題を提起した[報道 180]

『週刊新潮』は、1992年3月19日号(3月12日発売)にて、「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」というタイトルの特集記事を組み、記事中でSの実名を掲載した上で、Sの中学時代の顔写真、事件当時在住していた船橋市内のマンションの写真を掲載した[新潮 2][報道 179][報道 51][報道 180]

『FOCUS』は、1992年3月20日号で、Sの実名に加え、当時『FOCUS』記者だった清水潔が撮影した、Sが送検される際の写真を掲載した[新潮 1]

また、『週刊新潮』は、2001年12月13日号(同年12月6日発売)でも、Sの死刑が確定することとなった最高裁判決を、永瀬隼介(当時・本名の「祝康成」名義)のインタビューを交えて報じたが、この際もSの実名・顔写真を掲載した[新潮 3]

これに加え、上告中の2000年(平成12年)9月に出版された、永瀬隼介の著書『19歳の結末 一家4人惨殺事件』(新潮社、当時・本名の「祝康成」名義)および、死刑確定後の2004年(平成16年)8月、『19歳の結末』を加筆・改題の上で再出版した『19歳 一家四人惨殺犯の告白』(角川文庫)でも、Sの実名が記載されている(#関連書籍参照)[書籍 8]

なお、過去に女子高生コンクリート詰め殺人事件の加害者少年4人を実名報道し、物議を醸した『週刊文春』は、今回は実名報道は見送り、匿名報道とした[報道 179][報道 180]。同事件の際に実名報道を決定した編集長・花田紀凱は、「編集段階で、編集部内部から『今回も実名報道すべきではないか』という意見が上がったが、最終的に自分の判断で実名報道は見送った。以前の実名報道の動機である『少年法への問題提起』は、以前の報道・それによって起こった論議から、既になされたためだ。しかし、今回も少年法に対して問題があるという姿勢は崩していない」とコメントした[報道 179][報道 180]。3月19日号・3月26日号と、2週連続で組まれた同誌特集記事では、Sを「牧和雄」という仮名で報じた上で、その生い立ち・少年時代の自画像、中学時代の卒業文集などを掲載した[報道 19][報道 20]

死刑執行を受けた新聞・テレビ各局の実名報道[編集]

その一方で、最高裁判決による死刑確定時点でも、新聞各紙はSを実名報道せず、匿名で報じた[報道 182][報道 183]

なおその後、少年犯罪で死刑が確定する場合については、死刑執行前の判決確定段階で「更生可能性が消えた」として、実名報道に切り替える例が主流になりつつある[報道 183]

確認できる限りでは、『朝日新聞』が、本事件の死刑判決確定から3年後の2004年、少年死刑囚の実名報道を是認する方針を決め[報道 184]、2011年3月10日の大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件最高裁判決を受けての報道が、その方針の初適用例となった[報道 185]

その際、『読売新聞』・『産経新聞』・『日本経済新聞』の3紙、各テレビ局も、『朝日新聞』と同様の対応を取った一方で、『毎日新聞』は全国メディアで唯一、死刑確定時点でも匿名報道を継続した[報道 183]。それ以降の少年死刑事件である、光市母子殺害事件石巻3人殺傷事件両事件でも、各メディアは各々の対応を踏襲した[報道 183]

新聞・テレビの報道では、2017年12月19日の死刑執行まで、Sの実名報道はなされていなかったが[注釈 9]、死刑執行を受け、マスメディアは「死刑が執行され、更生や社会復帰の可能性がなくなった」、「国家によって人命が奪われる死刑の対象は明らかにされるべき」、「事件の重大性を考慮」などの理由から、少年事件で死刑確定時も匿名報道を維持した『毎日新聞』を含め、それぞれ実名報道に切り替えた[報道 12][報道 13][報道 14][報道 15][報道 16][報道 17][報道 18][報道 183]

  • 日本放送協会(NHK)は、2017年12月19日正午のNHKニュースで、Sの死刑執行についてのニュースを伝える際、Sの実名を含めて報道した[報道 186]。これに関して、NHKのウェブサイト「NHK NEWS WEB」では、「NHKは少年事件について、立ち直りを重視する少年法の趣旨に沿って原則匿名で報道しています」とした上で、「この事件が一家4人の命を奪った凶悪で重大な犯罪で社会の関心が高いことや、死刑が執行され社会復帰して更生する可能性がなくなったことから、実名で報道しました」としている[報道 186]
  • 読売新聞』(読売新聞社)は、「国家が人の命を奪う死刑が執行された対象が誰なのかは重大な社会的関心事であるため」と説明した[報道 161][報道 168]
  • 朝日新聞』(朝日新聞社)は、「国家によって生命を奪われる刑の対象者は明らかにされているべきだとの判断から」と説明した[報道 12]
  • 毎日新聞』(毎日新聞社)は、少年死刑囚について、死刑確定時点でも匿名で報道してきたが、「再審や恩赦による社会復帰の可能性などが残されていたことから、健全育成を目的とする少年法の理念を尊重し匿名で報道してきました。しかし、死刑執行により更生の機会が失われたことに加え、国家による処罰で命を奪われた対象が誰であるかは明らかにすべきであると判断」と説明した上で、実名報道した[報道 187][報道 188][報道 189]
  • 産経新聞』(産業経済新聞社)は、「死刑が執行され、更生の機会が失われたことから」と説明した[報道 15]
  • 日本経済新聞』(日本経済新聞社)は、「事件の重大性や死刑が執行されたことを踏まえ、実名に切り替えます」と説明した[報道 190]
  • 中日新聞』・『東京新聞』(中日新聞社)は、『毎日新聞』同様、少年死刑囚について、死刑確定時点でも匿名で報道してきたが、「刑の執行により更生の可能性がなくなったことに加え、国家が人の命を奪う究極の刑罰である死刑の対象者の氏名は明らかにするべきだと考え、実名に切り替えます」と説明した上で、実名報道を行った[報道 167][報道 191][報道 183][報道 192][報道 193][報道 156]

永瀬隼介と死刑囚Sの交流[編集]

1998年(平成10年)10月から、作家・永瀬隼介(当時、本名の「祝康成」名義で活動)は、本事件についての書籍出版を目的に、当時最高裁上告中で、既に東京拘置所に収監されていたSと、面会・文通を重ねた[書籍 8]。永瀬はその後、2001年12月に死刑が確定するまでの約3年間、事件の様々な関係者(Sの家族や被害者遺族、Sと結婚したフィリピン人女性の家族ら)への取材活動も含め、Sの内面や事件の深層に迫った。

永瀬は、10日に1度の割合で、東京拘置所を訪れ、面会手続きを行ってきたが[書籍 46]、弁護士以外の面会人は、1人1組に限られているため[書籍 47]、先に面会人がいた場合、その日は面会できなかった[書籍 46]。外の控え室で1時間以上待ち、荷物チェックを受けた上で、拘置所内部の控え室に通されても、誓約書を書き上げ、さらに1時間以上待ったにもかかわらず、拘置所職員から「Sは今日、予定が入っていて会えない」と伝えられ、帰らざるを得なくなったこともあった[書籍 46]

当時、永瀬の仕事場は、東京都東村山市内にあったが、葛飾区小菅にある東京拘置所までは、電車を乗り継いで往復4時間近く(片道約2時間)かかったため、永瀬は「拘置所に赴く日は、(Sと)会えても会えなくても、ほぼ1日を費やす覚悟が必要だった」という[書籍 46]

Sは、永瀬宛の手紙では「完全に枯れ切ってしまう前に、潔く終わりにしたいと思います」と綴っていたが、永瀬曰く、「拘置期間が長引くに連れ、感情の起伏は激しくなっていく。当初は終始、誠実な姿勢は変わらなかったが、1999年12月下旬からは、様子が一変した」という[書籍 46]。1999年12月17日、東京拘置所・福岡拘置所で、福岡拘置所に収監されていた、当時再審請求中の死刑囚を含め、計2人の死刑囚に対し、死刑が執行されたことから[書籍 46]、その直後から、Sは精神的に不安定になり、直後の面会で、「眠れない」、「この先も正気を保てるか自信がない」と訴えた[書籍 48]。その日を境に、Sからの手紙は、しばらく来なかったという[書籍 48]

その一方でSは、手紙の中で、幼少期に苛烈な虐待を加え、一家離散の引き金を引いた、父親Zはもとより、身を粉にして働き、自分や弟の生活を支えていた母親Yや、一代でウナギ料理チェーン店を興し、孫の自分を可愛がってくれた、祖父Xに対しても、逆恨みからの罵詈雑言を書き連ねていた[書籍 49][書籍 50][書籍 51]

永瀬とSの文通・2000年春の面会[編集]

Sは、初めて永瀬宛の手紙を、東京拘置所から送った際、その手紙に香水を付けていた[書籍 52]。永瀬は、「独房で書き上がった手紙に香水を振りかけている大量殺人犯―どこか歪んでいる」と記した[書籍 52]

永瀬への手紙の中で、Sは「残された彼女(B)のために毎日祈り、お詫びの言葉をつぶやいてみても、何にもならないどころか、考えてみればこれ以上、自分勝手でひとりよがりな行為もありません」「加害者の側の僕がいくら熱心に経文を唱えようとも、それは結局自分自身が自己満足するための儀式でしかないように思えてきます」などと綴っていた[書籍 36]

Sは、死刑の恐怖について、「もう一度、死刑判決(上告棄却)を受けて、確定囚となっても、当分は生かされていることになります。文字通り死ぬことで刑になるわけですから、その時までは刑務所の懲役とも違って仕事をするわけでもなく、償うこともできずに、ただ鉄格子の中で過ごすだけの毎日が待ち受けているのです。そして何年か過ぎて、平静を取り戻したころ、ある朝複数の刑務官の靴音が響きわたり、近づいてきたと思ったら、自分の房の前で立ち止まる。独房の錠をまわす金属音がしたところで『本日刑の執行だ』と言われて連れて行かれる。いつか必ず来るそんな日のために、首を吊るされることが決まっているのに、毎日今日か明日かと、死の足音に怖えながら暮らさなくてはなりません。想像するのも嫌な生活です」と記した[書籍 53]

その上で、「これから先何年も、死んでいくためだけにどうやって生きていけばいいのかもわかりません。外界から一切遮断されたコンクリートむきだしの監獄の中で、一年中誰とも会話をせず、希望を抱くことも許されず、何年も何十年も狂わずにやっていく自信も持てないのです。死ぬことが怖くない、と言えば嘘になりますが、それ以上に、先のない毎日を怯えながら生きていかねばならないことの方が怖いです」と記した[書籍 54]

2000年(平成12年)春、永瀬は面会中、Sに対し、手紙の内容に言及した上で、「ならば、あなたにとって本当の意味での反省は何なのか」と尋ねた[書籍 55]

これに対し、Sは「今でも、反省して何にもならないと思っています。本当に謝るべき人々を殺しておいて、いったい何やってんだ、という気持ちはあります。どうやって反省していいのか分からないのです」と語った[書籍 55]

また、手紙の中には、「次こそは、絶対に、真っ当な人間に生まれ変わりたいと願う次第です」という文言もあったが[書籍 51]、それについて永瀬は、「あなたは本当に生まれ変われると信じているのですか?」と質問した[書籍 55]

Sは「信じています。信じていないと目標がなくなります。僕の場合、判決は目標にならないから……でも、自分がもっともっと深いところまで下りて行かないと……またダメかもしれませんね」と答えた[書籍 55]

永瀬は、手紙の中で、殺害場面が記された箇所に入った途端、それまで整然としていたSの筆跡が、まるで別人が書いたかのように、突然大きく乱れていたことに着目した[書籍 24]。その上で、その心の揺れについて、「殺害現場を書くことが怖かったのですか」、「当時の自分を直視するのが怖いのですか」などと質問した[書籍 55]

しかし、この問いかけに対し、Sは「みっともないんです」と答え、その言葉の意味については「誰に対してという訳ではありません」と答えた[書籍 55]

永瀬がさらに、「ああいう事件を引き起こした自分が人間としてみっともない、ということですか」と問いかけると、Sは「そうじゃありません。ただ、みっともないと…」と、ちぐはぐな返答をした[書籍 55]

Sのこの答えに対し、永瀬は「そうなると、みっともないことをした自分を直視するのが嫌だということになる。みっともない自分を正面から捉えないで、反省しても仕方ないと思います」という感想をぶつけた[書籍 55]

さらに、永瀬が「自分の人生を振り返って、何か言いたいことはありますか」と問うと、Sは「チャラというか、すべてがなかったことにしてほしいんです。Sという人間はこの世にいなかったということになれば一番いい」、「自分という存在そのものをゼロにしたい」と答えた[書籍 55]

永瀬は、Sのこの「全てがなかったことになればいい」という言葉について、作中で「この言葉を耳にした時、私は面会室の床にへたり込んでしまいたいような脱力感に襲われた。この期に及んで、自分の人生の全てをなかったことにしたい、と口にするSの真意は、もはや理解不能だった。Sが抱える心の闇は、私の想像をはるかに超えて、冥く(くらく)、深く、広がっていった」と綴った[書籍 55]

永瀬の事故・入院[編集]

永瀬は、著書出版準備を進めていた2000年初夏、慢性的な精神的ストレスから、自律神経失調症を発症した[書籍 56]

永瀬はそれ以前から、「Sというモンスターと付き合うようになり、じきに心のどこかで、このままでは済まないな、と感じるようになった。手痛い代償を払わされるに違いない、との確信めいた思いもあった。口では『切腹でもして死にたい』『潔く終わりたい』と殊勝に語るSは、実は底知れぬ生命力の塊である。わたしは面会を重ねるたびに、一夜にして4人を殺しながら、生への欲望が全く枯れない男(S)のエネルギーに翻弄され、心身ともに削られていく気がした」という[書籍 56]

また、Sの人物像についても、「Sは、わたしが過去、取材したどの殺人者よりも、遥かに深い、桁外れの闇を抱えている。(中略。過去に取材した広島タクシー運転手連続殺人事件の死刑囚の例を挙げ)少なくとも(その死刑囚は)分かり易い。だが、Sは分かりにくい。分からないから、取材者はより接近を試み、その黒々とした邪悪な渦に巻き込まれていく。無事で済むはずがない」と綴った[書籍 56]

同年初夏、満員電車での帰宅途中に気分が悪くなった永瀬は、途中駅で下車した際に意識を失い、プラットホームの上にうつ伏せに転倒し、顎を強打し、歯が砕けた[書籍 56]

後日、病院で検査をした際、転倒の衝撃で顎の骨が割れていることが判明したため、永瀬はその治療のため、3週間入院した[書籍 56]

退院後、永瀬は東京拘置所に再び通うようになり、入院により中断していた、Sとの面会を再開した[書籍 56]。最初の面会で永瀬は、Sに対し、「怪我と入院で面会に来られなかった」という旨を説明した[書籍 56]

Sは、永瀬に対し、心配そうな表情で、「身体には気を付けてください。人間、健康が一番ですから」と語った[書籍 56]

永瀬は、単行本『19歳の結末 一家4人惨殺事件』(新潮社)のあとがきで、「面会を重ね、本を差し入れ、手紙をかわすうちに、いつしか私はSに対し、悔恨と反省に満ちた『まっとうな心』を期待していた。人間的な感情が迸る場面や、滂沱の涙とともに発せられる懺悔の言葉といった瞬間をどこかで望んでいた」「4歳の幼女まで刺殺した悪鬼の所業の前では、もはやどのような悔恨も反省も虚しい」「この本を書き終え、虚脱感と徒労感に支配されている自分がいる」と綴った[書籍 57]

Sの態度に対する永瀬の失望[編集]

2000年9月、永瀬はそれまでの取材結果をまとめ、単行本『19歳の結末』(新潮社)を出版し[報道 194][報道 195]、同書をSに差し入れた[書籍 52]

しかしSは、その内容について、同月中の永瀬との面会で、「『1991年10月、当時フィリピン滞在中だったSは、結婚相手の女性の兄とともに、マニラのカラオケスナックに来ていた。その場でSは、現地の警察官を殴り、拳銃を突き付けられた』という記述は[書籍 58]、まったくの出鱈目だ。警官にあんなことをしたら、自分は今頃、向こうの刑務所に入っている。マニラには、街中で金をせびってくるやつがいて、あの警官もそうだった。だからうるさい、と腕で払ったら拳銃を突き付けられた」と主張した[書籍 52]

この主張に対し、永瀬は、「フィリピンで取材した事実を、帰国後面会の席で、Sに直接確認した上で記述した」と指摘した[書籍 52]

しかし、Sは「向こうの兄貴(女性の兄)が言ってるだけ。彼とは一緒に仲良く遊んだのに、恨んでいるのか。だとしたらあなた(永瀬)のことを僕の身内の者だと思っていたんじゃないか」と、「的外れな子供っぽい言い分」を返した[書籍 52]

永瀬は、この時の心境を、文庫本『19歳 一家四人惨殺版の告白』(角川文庫)で、「許されるなら、『お前が言うべきはそういうことじゃないだろう』と、Sの胸倉を掴んで揺さぶり、諭してやりたかった」と記した[書籍 52]

Sがこの記述に対し、憤慨した理由は、「弁護士から『お前、あんなこともやってたのか。どうして隠してたんだ、けしからんじゃないか』と責められた」というものであった[書籍 52]

しかし、Sに対し、真摯な反省の念を求めていた永瀬は[書籍 57]、「あなたが今言うべきはそういうことじゃないと思う。拳銃云々は些末なことだ。あの本にはあなたに殺された被害者の遺族の悲しみとか怒りがいっぱい詰まっていたでしょう。あなたはそれについてどう感じたのか、まず語らなければならない」と指摘した[書籍 52]

Sは、永瀬のこの説諭の言葉に対し、「そんなの、わかってますよ」と、「子供のように拗ねてそっぽを向くだけ」だった[書籍 52]

この態度に失望した永瀬は、Sを「愛する娘と4歳の孫を刺し殺された祖母[注釈 10]の地獄の日々に思いを馳せることのできないこいつ(S)は、やっぱり救いようのないクズだ」と唾棄した[書籍 52]

その後も永瀬は、面会・文通で、Sとの交流を続けたが、翌10月の面会で、再び永瀬を失望させるできごとが起きた[書籍 52]

Sは、永瀬との面会中、自らが強姦し、事件でひとり生き残ったBについて言及し、「あの子は僕のことがわかっている。すべてを知っている。なのに、本当のことを言わない。おかしいですよ」「あなた(永瀬)の取材にもまともに答えない。とんでもない人間だと思いませんか」などと、「唇をねじ曲げ、薄笑いを浮かべて、ヘラヘラと挑発するように、口を極めて罵った」[書籍 52]

この言葉に対し、永瀬は「とんでもないのはお前だろう」と怒鳴ろうとしたのを、辛うじて堪えたという[書籍 52]

その上で、Sの「聞くに堪えない罵詈」を咎めると、Sはがらりと態度を変えた[書籍 52]。その上でSは、肩をすぼめて俯き、「もっと早くあなた(永瀬)に出会っていればよかった。塀の外で会っていれば、僕も変わっていたと思うんです。僕にはそうやって叱ってくれる人間がいなかった」と言った[書籍 52]

永瀬は、このSの言葉について、「同情を買おうとしたのだろうか、それとも本音なのか、わたしにはわからなかった。分かったのはただひとつ。この男(S)は反省していない、ということだけだ」と切り捨てた[書籍 52]

2001年(平成13年)1月下旬、永瀬はSと、前年12月以来、約2か月ぶりに面会した[書籍 38]。Sはこの面会の際、永瀬に対し、「面会できることは世間との接点があってうれしい。これからもどんどん本を読みたいし、あなた(永瀬)とも会いたい」と述べた[書籍 38]。その上で、面会できなかった場合を含め、永瀬から本を差し入れてもらっていることについて言及し、「いつも本の差し入れをしていただき、有り難く思っております」と言った[書籍 38]

永瀬から、「どんな本が読みたいか」と問われると、Sは「『永遠の仔』を読みたい」と答えた[書籍 38]。永瀬は、Sに対し、「次回の面会時、『永遠の仔』を差し入れる」と約束したが、結果的にこれが、最後の面会となった[書籍 38]

「最後の手紙」まで[編集]

2001年3月、最高裁第二小法廷から、上告審口頭弁論公判開廷期日が指定されて以降も、永瀬は、東京拘置所を数回にわたって訪れ、Sとの面会を試みたが、最後まで面会はできなかった[書籍 38]。3月下旬、拘置所内の待合室まで通された永瀬は、「今日こそは」と期待したが、約30分後、「予定が入っていて面会できない」と、拘置所職員から伝言された[書籍 38]

上告審口頭弁論から最高裁判決まで、約半年、長くても1年と予想された[書籍 38]。これに加え、最高裁判決で上告が棄却され、Sの死刑が確定すれば、死刑確定者処遇となるSは、面会・文通など、外部とのやり取りは、親族・弁護士としか認められなくなるため、「可能な限り、話を聞いておきたかった」と、手紙を出したり、月3回の割合で拘置所に通うなどして、Sとの接触をしようとした[書籍 38]。しかし、手紙に対しても返信はなく、面会もできない日々が続いた[書籍 38]

この際の心境について、永瀬は、「『Sは、また精神的に衰弱していて、手紙を返す気力もないのだろうか』と疑った」、「拘置所に通うことで、Sとのつながりを保っていたかったのだろう。つながりを絶ってしまうのが怖かったのだろう」と振り返った[書籍 38]

上告審口頭弁論公判から約8か月後の、2001年10月31日、Sから永瀬宛に、久々の手紙が届いた[書籍 38]。その手紙には、永瀬が懸念していた、精神的な動揺は感じられず[書籍 38]、永瀬への挨拶、面会ができないことへの謝罪の文言が記されていた[書籍 59]

その上でSは、永瀬と面会できない理由について、「死刑確定までの時間が限られているので、平日はほぼ毎日、修道会の方や、関係者の方々と、交代で面会するスケジュールを組んでいるため」と説明した[書籍 59]。その上で、永瀬が定期的に差し入れていた『新潮45』(新潮社)についての言及もあった[書籍 59]

永瀬は、この時の心境を、「文面から察する限り、私の心配は杞憂に過ぎなかったようだ。いや、(Sは)軽口までたたいて、余裕綽々である。この期に及んで、どうしてこのような手紙を書けるのか、やはり理解不能だった」と記した[書籍 59]

それから約20日後の2001年11月下旬、Sから永瀬宛に、再び手紙が届いた[書籍 59]。内容は、「上告審判決公判の日程が、同年12月3日午後2時に指定された」ことや、「上告審判決で、Sの上告が棄却され、死刑が確定すれば、死刑囚となったSに対し、親族でない永瀬からの、書籍の差し入れ・永瀬との文通は、一切できなくなる」ことなどが記されていた[書籍 59]。その上で、最後にSは、「出せるうちにまた手紙を出したい。今回は取り急ぎ、お礼と報告のためです」と記したうえで、永瀬への気遣いの言葉で締めくくっていた[書籍 39]

永瀬は、この手紙について、「ついに来るべきもの(最高裁判決)が来た。しかし、手紙の文面は、他人事のように淡々としたものだった」と綴った[書籍 59]。その後、Sから永瀬宛の手紙は届かず、結果的にこれが、永瀬への最後の手紙となった[書籍 39]

死刑確定の報告[編集]

そして、永瀬は2001年12月3日、最高裁第二小法廷で、上告審判決公判を傍聴した[書籍 39]。同日、Sの上告を棄却する判決が言い渡され、Sの死刑が確定することとなった[書籍 39]

閉廷後永瀬は、最高裁の中庭から、熊本県内に住む、Bの母方の祖母宅に電話を入れた[書籍 39]

母方の祖母は、Sの死刑が確定した旨を、永瀬から伝えられ、「やっと死刑になったのですか。よかった、本当によかった」と嗚咽した[書籍 39]

その後、Bの叔父(Bの母Dの弟)が、母親から電話を代わった[書籍 39]。Bの叔父は、永瀬に対し、「死刑が決まりましたか。あれ(事件発生)から9年ですか、長かった」と語った[書籍 39]

Bは、Sの死刑確定の知らせを聞き、じっと押し黙ったままだったという[書籍 39]

死刑囚の生い立ち[編集]

S誕生まで[編集]

Sの母方の祖父Xは、第二次世界大戦終戦直後の青年時代、荒川の土手沿いに位置する、東京都江戸川区松島で、ウナギの卸売業を興した[書籍 6]

Xは、「自分は生まれつき視力が弱かったために兵役を免除され、命拾いした身だ。徴兵されて戦死した幼馴染たちに比べれば、はるかに恵まれている」と、文字通り死んだ気になって、寸暇を惜しんで働き続けた[書籍 6]

「仕事の鬼」と周囲から一目置かれたXは、自分にも他人にも厳しかったため、あまりの厳しさについていけず、辞める従業員も続出したが、その猛烈な働きっぷりから、事業を順調に拡大し、市川市・東京23区東部を中心に、10軒近くの鰻屋を構える、ウナギ料理チェーン店のオーナーとなった成功者だった[書籍 6]

Sの母親Yは、そのXの長女として生まれ、短期大学を卒業した[書籍 6]。その後、1967年(当時24歳)、Yは、江戸川区役所のダンス教室で、東芝関連会社勤務のサラリーマンだったSの父親Z(当時25歳)と知り合い、交際を始めた[書籍 6]

Yは、デートで手腕を発揮する、Zに惹かれていったが、コネ・カネ・学歴、何一つない身から、己の努力・才覚だけでのし上がってきた、Xにしてみれば、半端なサラリーマンのZは、「そこら辺りのチンピラと一緒」だった[書籍 6]。Xは、Zが初めて挨拶に訪れた日から、「こいつはろくでもない遊び人だ」、「仕事に対する熱意がうかがえない」と、快く思っていなかった[書籍 6]

その日の夜、Yが「Zを家に泊める」と言ったが、Xは「結婚前の自分の娘が、こんなろくでもない男と俺の家でひとつ屋根の下にいる」と思った途端、憤慨し、仁王立ちになって怒鳴りつけ、Zを叩き出した[書籍 6]

しかし2人は、駆け落ち同然で結婚し、千葉県松戸市内にあったZの実家に、新婚所帯を構えた[書籍 6]

S誕生から一家離散まで[編集]

Xはなお、結婚に反対していたが[書籍 6]、1973年1月30日、夫婦の長男としてSが生まれた[判決文 1]。Yが、父であるXに、初孫として産まれたSの顔を見せに行くと、祖父となったXは、渋々ながらも結婚を認めた[書籍 6]

ほどなくして、Z・Y・Sの一家は、松戸市内の公団住宅に移住した[書籍 6]。教育熱心なYは、息子Sが歩けるようになると、すぐスイミングスクールに通わせ、小学校入学後からはピアノ、英会話も習わせ始めた[書籍 6][判決文 1]

Sが生まれた5年後、1978年には、次男(Sの弟)も産まれた[書籍 6]。しかし、生活が落ち着いてくるや否や、Zの「ろくでもない遊び人」な本性が現れ始めた[書籍 6]。Zは、仕事よりギャンブルや酒、女遊びを優先するようになり、Yとの夫婦喧嘩も、日常茶飯事になった[書籍 6]

弟の誕生に先立ち、Sは1976年(昭和52年)[判決文 1]、幼稚園に入園した[判決文 1][書籍 6]

その2年後、1978年(昭和54年)4月、Sは転居先の千葉県松戸市内の[判決文 1]松戸市立和名ヶ谷小学校に入学した[報道 19]

さらに1980年(昭和55年)9月[判決文 1]、Sが小学2年生の時、Z一家は、Xの援助で買った、東京都江東区越中島の高級マンションに移住した[書籍 6]。これにより、Sは同区内の[判決文 1]江東区立越中島小学校に転校した[報道 19]

新居となったマンションには、有名企業の社員や医者、実業家など、高額所得者が多数在住していた[書籍 6]。Z一家の部屋の、すぐ上の階には、当時日本中を席巻した漫才ブームで、一、二の人気を争った漫才コンビの一人が、家族とともに住んでいた[書籍 6]。その息子は、Sの弟と同い年だったため、Sは自然と、お互いの家を行き来するようになったという[書籍 6]。時折、その漫才師と出会うと、彼はテレビに出ている時と同じく、笑顔で「どや、元気か」と声を掛けてくれたという[書籍 6]。漫才師の息子も、父親と同じように、屈託のない大阪弁で話しかけてくれることから、Sはこの陽気な漫才師一家を気に入っていた[書籍 6]

一方でSは、自分の家族は、高級マンションに住んでいるとはいえ、祖父の援助と借金によるものであった[書籍 6]。父Zは、会社勤めを辞めてから、義父Xから鰻屋を1軒任されるようになったが、日銭が入るようになったため、遊びにますます拍車がかかった[書籍 6]。Zは、愛人の家での外泊を繰り返し、時折帰宅すると、浮気を責めてくる母Yに対し、殴る蹴るなどのドメスティック・バイオレンス(DV)を加えるようになった[書籍 6]。そればかりか、S自身や、5歳年下の弟に対しても、何時間も正座をさせる、食事抜き、徹底した無視、真冬の夜中に外に放り出すなど、苛烈な児童虐待を繰り返していた[書籍 6]

自宅を居場所と感じられなくなっていったSは、毎週末、自分で着替えと勉強道具をリュックサックに詰め込んで、一人で電車に乗り、市川市内の祖父X宅に寝泊まりするようになった[書籍 6]。特に夏休み・冬休みの長期休暇中、Sはほとんど、祖父宅に泊まり込んでいた[書籍 6]

Xは、常に孫Sを笑顔で出迎え、一緒に風呂に入り、祖母が作ってくれる手作りの夕食を食べた[書籍 6]。祖父は、晩酌のビールを飲みつつ、普段いかつい表情をした顔をほころばせては、Sの話を嬉しそうに聞いていた[書籍 6]。そんな祖父Xは、従業員にしてみれば、「一切の妥協を許さない厳しい人」で、彼らから見れば、その生活は、一見単調な生活にすら見えた[書籍 6]

しかし、Xや鰻屋の従業員たちと過ごす毎日は、Sにとっては「至福の時」であり、当時のSは「いつも怖いだけの父親とは違う、お金持ちで頼りになる働き者」として、祖父Xを心から尊敬していた[書籍 6]。そして、「自分も祖父のように強くて立派な大人になりたい」と思っていた[書籍 6]

やがて、ストレスを溜め込んだ母親も、Sを虐待するようになった[書籍 6]。そんな中Sは、敬虔なエホバの証人の信者であった、親友に勧められ、聖書の勉強をするようになった[書籍 60]。過激なほどの徹底的な純粋性から、キリスト教内部でも異端視されてはいたが、Sは、愛と平和を高らかに説く、エホバの証人の教えに魅了された[書籍 60]。また、常に自分を温かく出迎えてくれては、丁寧に教義を教えてくれる、この信者一家のことも気に入っており、「聖書の教えを真剣に学べば、いつか自分の両親もわかってくれる。彼の家のように、笑顔の絶えない、平和な家になる」と信じていた[書籍 60]

しか、いくら聖書の勉強をしても、一家の借金は膨らむばかりで、切羽詰まった生活が続いた[書籍 60]

9歳の時、Sが熱心に読んでいた聖書を、父Zが「こんなくだらないものばかり読みやがって」と破り捨てた[書籍 60]。この際、Sは初めて恐れていた父親に対して歯向かい、蹴とばされ、殴られつつも、「全身の血が沸騰した」、「いつか仕返ししてやる」と心に誓った[書籍 60]。それまでわずかに残っていた、父親への情愛も、この時に完全に砕け散ったという[書籍 60]

父Zは、荒れた生活により、消費者金融(サラ金)ばかりか、闇金融にまで手を出すようになった[書籍 61]。その約3億円の借金が原因で[報道 28]、暴力団組員により、一家は厳しい取り立てに遭った[判決文 1]

そのため、Sは1982年(昭和57年)12月、母親Yに連れられ、弟とともに3人で、夜逃げ同然に家を出た[書籍 61]

Yは、2人の息子とともに、しばらく祖父X宅に身を寄せたが[判決文 1]、Sを溺愛しており、Sからも慕われていた祖父Xも、Sの父親の多額の借金を、全財産を吐き出し、清算せざるを得なかった[書籍 7]。Xは、娘Yに対し、「うちの敷居をまたぐな、電話もしてくるな」と、絶縁を言い渡したため、溺愛されていたSも、X宅を訪ねることはできなくなった[書籍 61]

そのため、Sらは、青砥駅付近にある、葛飾区立石のアパートに移住し[書籍 7][判決文 1]、当時小学5年生だったSは[報道 20]、翌1983年(昭和58年)1月から[判決文 1]葛飾区立清和小学校に通学した[報道 19]

凄惨な生育環境・性格の歪み[編集]

1983年3月、母Yは、父Zと調停離婚し、S姓に復氏した[新潮 1]。Yは、Sとその弟の親権者となり、女手一つで息子2人を育てていた[新潮 1]

Sは、新築のマンション住まいから、風呂もない古いアパートに移住せざるを得なくなった上、唯一の庇護者だった祖父Xからも見放され、食べるのがやっとの極貧生活に転落した[書籍 62]

Sは、両親の離婚後、改姓していたことから、周囲から好奇の目で見られ、いじめの対象になった[書籍 62]。ランドセル代わりに風呂敷で登校し、一着しかない服を毎日着てきたため、周囲からは「汚い」「臭い」とからかわれた[書籍 62]

担任が、電話連絡網を作るため、クラス全員の前で、電話番号を聞いた際、Sが「そんなもの(電話)、うちにはありません」と答えた[書籍 62]。その時、Sは担任や、クラスメートに大笑いされたという[書籍 62]

Sは、月に1、2回、母Yの財布から、小銭を抜き取っては、電車でかつて住んでいた越中島に行き、その度に劣等感に苛まれた[書籍 62]

この頃Sは、ジミ・ヘンドリックスの音楽を知ってロックにハマり、カセットテープを近所のディスカウントストアから万引きするようになった[書籍 63]

その後Sは、放課後に気分転換のため、ひとりで電車に乗って浅草に通うようになった[書籍 64]。観光客でにぎわう浅草にいると、息が詰まりそうな日常から解放された気がしたが、遊ぶような金はなかったため、当初は空腹の中、ひたすら歩きまわっていただけだった[書籍 64]

しかしある日、Sは公衆電話の横で、現金約6万円の入った財布を見つけ、置き引きした[書籍 64]。これをきっかけに、Sは浅草で、飲食店を次から次へとはしごし、ゲームセンターにも入り浸った[書籍 64]。以降、Sは浅草で、観光客を狙った置き引きスリ、かっぱらいを繰り返すようになり、賽銭泥棒もした[書籍 64]

Sはこの頃、「貧乏を笑う世の中のやつらからはいくら盗ったっていいんだ。世の中、なんだかんだいったってカネなんだ」と、手前勝手な論理に酔いしれ、他人の困る姿を見てほくそ笑むようになった[書籍 64]。一方で「ワルのレッテルを張られると損をする」として、地元ではおとなしい真面目な少年を装い続けた[書籍 65]

葛飾区立立石中学校時代[編集]

Sは1985年(昭和60年)4月[判決文 1]葛飾区立立石中学校に入学した[新潮 2][新潮 1]

それまでいじめられっ子だったSは、体も大きくなり、やられればやり返すようになったが、その際、たいていの場合には、自分の腕力が通用することを知った[判決文 1]

Y一家は、1985年秋になって、京成本線青砥駅から徒歩約10分の、葛飾区内の京成本線高架線沿いで、自宅を改装してアパートを経営していた、大家夫妻の紹介を受け、そのアパートに入居した[書籍 66]。Sの母親Yは、証券関係の会社で、フルタイムで働き、女手一つで、息子2人の面倒を見ていた[書籍 66]

当時、大家夫妻から見た一家の印象は、Yは「しっかりした印象の女性で、子供へのしつけも行き届いている」、当時中学1年生のSは「無駄口をたたくこともない、礼儀正しい子供」「弟思いで、本当にできた長男」、当時小学2年生だった、Sの弟(Yの次男)は、「陽気でおしゃべりで、いつも笑顔を絶やさず、抱きしめたくなるほどかわいい」というものだった[書籍 66]

大家夫妻は、ともにこの母子3人の家庭を、優しく見守っていた[書籍 66]。後述のように、中学3年生だったSが、交通事故で入院した際、夫はSの見舞いに行ったが、Sの礼儀正しい振る舞いに、「自分にもあんな感じの息子がいたらなあ」と思ったこともあったという[書籍 66]。日曜日になると、Sは弟とともに2人で、アパートの階段・玄関を掃除しており、時折、部屋の窓をきれいに磨き上げていたという[書籍 66]

Sはこの頃、少年野球チームに所属し、エース兼4番打者として活躍しており、将来を有望されていた野球少年だった[書籍 66]。当時、母親Yは、大家夫妻に対し、「息子は甲子園を目指している」と、嬉しそうに語っていた[書籍 66]。Sと弟は、時折、アパートから道路の向かいにある、京成線高架下の空き地で、キャッチボールをしていた[書籍 66]

大家の妻は、Sが中学を卒業した日の午後、Sのアパートの前に、「S君のファン」と称する、同級生の女子生徒が数人集まっていた光景を目にしたことがあった[書籍 66]。その光景について、妻は、「あの子なら、女の子にもてて当然ね」と、まるで自分の家族のように、誇らしかったという[書籍 66]

その後、Sが中学1年生だった、1985年冬には、Y一家は、新築のアパートに転居した[書籍 67][書籍 66]。Yはその後、会計事務所に勤めるようになった[判決文 1]

この頃になって、祖父Xも、母親Yと関係を修復した[書籍 67]。Y一家は、Xからの経済的な援助を受けつつ、不自由なく暮らせるようになったが[報道 27]、Sは「一番つらくて寂しい時に俺を裏切って、手を差し伸べてくれなかった」として、以前のように、祖父を尊敬することはできなくなっていた[書籍 67]

もともと、運動神経抜群で、少年野球チームに入団すると、すぐに4番打者になり、エース級投手として活躍したSは、中学生になって、体が急成長し、体格・腕力ともに、同世代の少年を圧倒するようになった[書籍 67]。それまで、地元では真面目な少年を装っていたSだったが、この頃からは、非行の度合いが一気にエスカレートした[書籍 67]。Sは、地元の不良少年たちから、喧嘩の強さを褒められ、仲間に誘われた[書籍 67]

「他人に必要とされていることが、何より心地よかった」というSは、学校ではおとなしくしていたが、放課後には街をうろつき、喧嘩を繰り返した[書籍 67]。Sは、ゲームセンターを根城に、不良仲間とつるんで遊び歩き、喧嘩・恐喝を繰り返していた[書籍 67]。これに加え、バイク盗[新潮 1][書籍 67]、飲酒・喫煙など、さまざまな非行に手を染めたSは、喧嘩用の特殊警棒を持ち、繁華街を練り歩いた[書籍 67]

Sはこの頃から、不良仲間とつるむことを諫める母Yに対し、反抗的な態度を取るようになり[書籍 67]、母Y・弟に対し、本格的な家庭内暴力が始まった[新潮 2][新潮 1][書籍 67]。この頃、家庭崩壊の元凶となった、父親Zが、目の前に現れるようになったことも、Sが荒れる原因となった[書籍 67]。母Yは、「教育のため」と称して、家族4人で食事に行くなどしたが、自分を貧困に追い込んだ張本人が、再び自分の前に姿を現したことに反発したSは、ますます反抗的な態度を取るようになった[書籍 67]

河北新報』1992年3月27日付紙面は、このようにY・Z両名が、離婚後も関係途絶していなかったことに対し、Sが反発していた点について、「別れたはずの両親が今も付き合っているのが、さらに少年の心に屈折感を生んだようだ。祖父の愛情と父親への反発、という点では、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件被告人宮崎勤を思い起こす。2つの事件を同列には論じられないが、複雑な家族関係が事件に与えた影響は大きい」と述べた[報道 196]。これに加え、ノンフィクション作家・佐木隆三は、「1988年、東京都目黒区で当時中学生の少年が起こした両親・祖母の計3人殺害事件もそうだが、父母の愛情が何らかの要因で欠落すると、バランスを失った祖父母の愛情で抑制の効きにくい子を育てることもあるのではないか」と述べた[報道 196]

Sは、中学2年生だった1986年(昭和61年)、シンナー中毒だった、同年齢の少女との初体験を経験した[書籍 67]。この少女は、ほかにも複数の少年と関係を持っていたが、Sは全く意に介さなかった。Sたちにとって、この性行為には、愛情も何もなく、性的快楽を得ることだけが全てだった[書籍 67]

しかし、暴力とセックスだけで生きていたSは、次第に「自分は何のために生きているのだろう」と考えるようになった[書籍 67][書籍 68]。その答えを求めたSは、幼少期に魅了されたキリスト教の教義を思い出し、再びキリスト教の教会に通うようになった[書籍 68]。一方で、不良仲間たちに、教会に通っていることがわかれば、「女々しい、情けない」などと馬鹿にされると内心で恐れた。そのため、不良仲間に見つからないよう地元を避け、細心の注意を払いつつ、1人で教会を訪ねた[書籍 68]

どの教会も、来る者は拒まず、快くSを迎え入れたが、Sが影響を受けたのが、エホバの証人の教義だと知ると、カトリック教会神父プロテスタント牧師らは、その教えに対し、露骨に嫌な顔をし、「あれ(エホバの証人)は異端の邪教だ」とまで明言した[書籍 68]。Sはこれに対し、必死に反論したが、その度に決まって口論になり、椅子を蹴って教会を後にした[書籍 68]

それでも、江戸川区小岩・葛飾区亀有にあった教会は、「まずは日曜日のミサに参加してみなさい」と、誘ってくれたので、通うことにした[書籍 68]。日曜日は、ミサ以外にも、典礼講座・黙想会・バザーにも参加したが、かつてエホバの証人で体験した、鮮烈な感動は、まったく味わえなかった[書籍 68]。この頃Sは、聖書の教えを説かれても、「どうして神に祈るだけで幸せになれるんだ。幸せは金だろう。お前らは大人のくせして、そんな簡単なこともわからないのか」と、内心毒づいていた[書籍 68]。Sは、かつてのような信仰心に篤い少年ではなくなっており、次第に教会に行かなくなった[書籍 68]

Sは、中学3年生だった、1987年(昭和62年)夏、自転車で転び、腕を骨折した[書籍 66]。その際、豊島区内の大塚駅前にある病院に入院し、手術を受けた[書籍 66]

中学3年生だった同年、学校は高校受験一色となっており、Sは学習塾に通いつつ、野球の強豪校で大学進学率も悪くない、中レベルの普通高校を志願していた[書籍 69]

その一方で同級生の女子生徒に、勉強嫌いで、飲酒・喫煙に手を染め、授業も真面目に受けていない、不良ぶっていた少女がいた[書籍 69]。Sは、勉強熱心な同級生たちを「ダサいヤツら」、口うるさい教師を「安月給の地方公務員風情で偉そうにしている」と、内心見下していたが、この少女に対しては、「周囲の声に惑わされず、自分の意思を通している」と、内心、尊敬に似た気持ちを抱いていた[書籍 69]。ある日の放課後、Sはその少女から呼び出され、「付き合ってくれないかな」と告白され、交際を開始した[書籍 69]

Sは当初、真剣な男女交際には興味がなく、シンナー中毒の少女との性行為だけで満足していたため、「女は面倒だ、セックスがあればいいんだよ」と、この少女を内心見下していた[書籍 69]。少女からの「映画に連れて行って」「買い物に付き合って」という申し受けより、不良仲間・先輩の誘いを優先していたため、少女はしばらくして、声を掛けて来なくなった[書籍 69]。しかし、週末のある日、少女は再び、「うちの家族が、みんな田舎に帰っているから、今晩は誰もいない。ひとりになるのが怖いから、一緒にいてほしい」と、Sに電話してきた[書籍 69]。Sは、その少女の願いを受け入れ、少女と一夜を共にした[書籍 69]。それ以降Sは、セックスフレンドには興味がなくなり、少女を「自分だけの彼女」として、愛おしく思うようになった[書籍 69]

堀越高校入学・1年で中退[編集]

Sは高校受験に当たり、野球の強豪校である日本大学第一高校岩倉高校を志望したが、いずれも不合格と、大失敗に終わった[書籍 70]。そのためSは、祖父Xの援助を得て[書籍 70][判決文 1]1988年(昭和63年)4月[判決文 1]、東京都中野区内の[書籍 70]、野球の強豪校として知られる[書籍 70][報道 27]堀越高等学校普通科大学進学コースに入学した[新潮 2]

Sは、甲子園を目指し[報道 27]硬式野球部を志願したが、野球部の練習用グラウンドは[判決文 1]、遠方の八王子市内にあったため[書籍 71]、通いきれないことから、軟式野球部に入らざるを得なかった[判決文 1]

高校1年時、Sはクラス委員を務め、無欠席で、成績も上位をキープしていた[新潮 2][書籍 71]

しかしその一方で、地元では相変わらずの喧嘩三昧で、折り畳み式ナイフも常時携帯するようになった[書籍 71]。Sは当時、未成年者でありながら、飲酒・喫煙を日常的に行い[判決文 1]、家庭内暴力も悪化するようになった[書籍 71]。Sは次第に、前述したように、硬式野球部入部を断念せざるを得なかったことや、学級のレベルが低く感じられたことなどから、次第に高校生活に対する意欲を失い、不良仲間と共に、繁華街を徘徊するなど、不登校状態になっていった[判決文 1]

Sが高校1年だった、1988年冬、Y一家は、大家夫妻の紹介で、3年間住んでいた、2DKのアパートを引き払い、さらに広い3DKのマンションに移住した[書籍 71]。母親Yは、「長男(S)に個室を与えれば、家庭内暴力も収まるはず」と思ったため、Sに一人部屋を与えるため、より広い間取りの部屋に入居した[書籍 71]

しかし、結果的には、その目論見は完全に裏目に出てしまった[書籍 71]。Sは「自分の城」を持ったことで、妙な自信を持ち、家庭内暴力はさらに深刻になった[書籍 71]。Sは、自分をたしなめるYを突き飛ばし、土下座をさせては、「誰か頭を押さえつけるやつがいないと、女はすぐつけあがるだよ」などと、暴言を吐いたことまであった[書籍 71]。家庭内暴力の悪化から、母Yは、Sを連れ、警視庁の少年相談室に、相談に赴くなどした[判決文 1]

2年に進級すると、Sは「こんな程度の低い高校では大学に進めない」と、学校を欠席がちになり[書籍 72]、不良仲間とともに、繁華街を徘徊しては、喧嘩に明け暮れるようになった[書籍 71]

母親Yは、息子がトラブルを起こす度に、怪我をした相手の家に謝りに行き、治療費・見舞金を払うなど、尻拭いを行った[書籍 72]

この頃、祖父Xは、母Yが、離婚した夫Zと会っていることを知ったことで、「カネを出せば、またあのろくでなしに渡るだけだ」と激怒し、Y一家に対し、一切の援助を再び断ち切っていた[書籍 72]

Sは、2年生進級直後[新潮 2]、他校生徒への恐喝事件への関与が発覚し[判決文 1][新潮 2]、停学処分になった[判決文 1][新潮 2]。しかしSは、これ幸いとばかりに、中学時代の同級生だった少女と遊び回るようになった[書籍 72]。Sは、自宅に待機していなければならない時間帯に不在だったり、無断外泊を繰り返していたため、母Yから「退学させてほしい」と、高校側に申し入れがあった[新潮 2]

Sがこの頃、交際を再開した、中学同級生の少女は、高校に進学せず、スーパーマーケットのレジ打ち・コンビニエンスストア店員など、アルバイト生活を送っていた[書籍 72]。Sは、ロック熱が高じたことから、ギターの練習を始めたり、楽器ショップを見たビラがきっかけで、ロック少年たちと知り合い、自らリードギターを務める、ロックバンドを結成したりした[書籍 72]

暴力沙汰を繰り返しながらも、反省の色を見せないSは、第2学年進級2か月後[書籍 72]1989年(平成元年)5月31日付で[新潮 2][書籍 72]、高校を自主退学した[新潮 2][書籍 72][報道 27][報道 44]

Sは高校を退学後、交際相手の少女と共に夜遊びをしたり、夏になると、神奈川県の湘南海岸や、自宅付近の京成青砥駅から電車一本で行ける三浦海岸などに、海水浴に行ったりと、デートを続けていた[書籍 73]。しかし、互いに、夜遅くまで出歩いていたり、親の財布から金を抜き取るなどしていたため、高校中退後の秋になって、少女の両親が、Sの母Yに対し、「Sにたぶらかされたせいで、うちの娘は悪くなった」「警察に訴えてやる」と、苦情を入れてきた[書籍 73]。これに対し、母Yも、「こちらこそ被害者だ。あなた方の娘こそ、自分の息子に近づけないでほしい」と反論し、互いに罵り合い、怒鳴り合うなど、収拾がつかなくなった。そのようなトラブルが、何度も続いた後、互いの親同士が協力して、Sと少女を別れさせることとなった[書籍 73]

しかしSは、親たちの反対を、全く意に介していなかった[書籍 73]。少女の方も、自分の父親に対し、Sについて「真剣に付き合っている」「彼はそんな悪い人じゃない」と、必死に弁明した[書籍 73]。しかしやがて、父親の度重なる説得に、根負けしたためか、やがて少女は、Sを遠ざけるようになり、Sから呼び出されても、無視するようになった[書籍 73]

Sは激怒し、少女の家に押し掛け、少女の家族を脅したが、これに怯えた家族は、少女を東北地方の親戚の家に預けた[書籍 73]。Sは、少女の父親を脅迫し、ナイフを手に、少女を連れてくるよう迫ったことから、軽犯罪法違反に問われ、家庭裁判所に書類送致された[書籍 73]

高校中退後[編集]

Sは高校中退後、レンタルビデオ店の店員[判決文 1]、警備員や、トラック運転手など[報道 42][新潮 2]、さまざまなアルバイトをするが[判決文 1]、どれも1週間と続かなかった[報道 42][報道 27]

1989年11月頃から、Sは、祖父Xが経営していた、市川市内のウナギ加工・販売などの、仕事の手伝いをするようになった[判決文 1]

しかしSは、店の仕事は時々手伝う程度で[報道 28]、親類曰く「手伝いの真似事」程度でしかなかったという[新潮 1]、その上、「タレを扱う仕事は汚い」と嫌がったり[報道 19]。夕方過ぎからの出勤・無断欠勤も多かった[報道 27]。Sは、おとなしそうな反面[報道 27]、店の備品を足蹴にすることや[報道 19]、猫を放り投げたりすることもあり[報道 19]、ギャンブルなどの遊び・飲酒に明け暮れる生活だったという[新潮 2][報道 27][報道 44]

親類によればSは、真面目に働かないばかりか、店の売上金を、勝手に持ち出すこともしばしばあった[新潮 2]。その際は、各支店から集まってくる、売上金の袋の中でも、二十数万円と入った、一番大きな袋を持って行ったという[新潮 2]

事件の約2年前、Sは夜中、店のドアを破って侵入し、売上金の現金120万円を盗んだ[書籍 74][新潮 1]

その1か月後、1990年(平成2年)1月17日[判決文 1]、店の金庫から現金6万円がなくなったため、祖父Xは、娘Yに対し、その旨を伝えた[書籍 74]。しかしYは、自分の息子(S)が、父親から疑われたと思い、頭に来たためか、このことをSに話した[書籍 74]

同日、午後10時頃[判決文 1]、盗みの疑いをかけられ、立腹したSは、祖父Xの下を訪れた[判決文 1]。Xは、早朝からの重労働で疲れ切り[書籍 74]、就寝中だったが[判決文 1]、Sは祖父に対し、「俺のこと、疑いやがって」と怒鳴りつけ、顔面を蹴り上げた[書籍 74]

Sの足の親指が左目に突き刺さった[書籍 74]祖父Xは、左眼球破裂を起こし[報道 20]失明した[書籍 74]。また、水晶体脱臼・硝子体出血などの負傷により[判決文 1]千葉大学附属病院に約2カ月間入院[報道 20]。その後、糖尿病によって残った右目も視力が低下したため、ほとんど見えなくなったという[書籍 74]

Sは、1990年9月、母Yから、80万円で購入してもらったオートバイに乗っていた[判決文 1]。その途中、交通事故を起こしたSは、肋骨8本を骨折したが、その治療が長引くうちに、怠け癖がつき、仕事を休みがちになった[判決文 1]

働き始めた動機も、将来を真剣に考えた末の決断ではなく、祖父Xの猛烈な働きっぷりを見て、「仕事ってそんなに面白いものなのか」と、興味を覚えたからに過ぎなかった[書籍 75]

祖父Xは、頑固で、仕事一筋な一方、人情家として、地元で知られていた[書籍 75]。そのため、Xは、親交のある、信用金庫職員・商工会関係者から、「面倒を見てほしい」と頼まれると、鑑別所・少年院から出てきたばかりのような者や、現役の暴走族メンバー、暴力団事務所に出入りするようなチンピラも含め、どんな不良でも引き受けていた[書籍 75]

そのような事情から、鰻屋の仕事仲間には、不良崩れが多かったため、「高校中退」の学歴を持っていたSは、「真っ当ないい家のお坊っちゃん」に過ぎなかった[書籍 75]。Sは、休憩時間中、仕事の先輩たちから、長距離トラックの荷抜きの方法、自動販売機荒らしのテクニック、盗んだバイクの転売先、高価な輸入アルミホイール・タイヤの外し方・買取先、変造ナンバープレートを請け負う板金工の紹介、シンナーの売人の連絡先などなど、様々な悪事のノウハウを習った[書籍 75]。Sも、それらの知識を利用し、さまざまな非行に手を染め、小遣い稼ぎをした[書籍 75]

これに加え、Sは、「本物の喧嘩のやり方」として、「ナイフやビール瓶など何でも使って、こっちの顔も見たくなくなるくらい、徹底的に相手をぶちのめさないと、必ず復讐される」とも習った[書籍 75]。このことから、Sは、「腕力に任せた素手での喧嘩など、子供の自己満足にすぎない」と悟った[書籍 75]

Sは、店のワゴン車で、ウナギの配達に向かう途中、トラブルを起こしたこともあった[書籍 75]。商店街の狭い道中で、一目でワルとわかるような、4人の男が乗った、前方を走る車が、道をふさぐように低速で走行していたため、腹を立てたSは、クラクションを鳴らすなど、煽り運転をした[書籍 75]。その男たちと揉め、喧嘩になったSは、ウナギの焼き台で使う、長さ110cmほどの鉄筋を、鰻屋から持ち出し、相手を殴りつけて負傷させ、警察に連行された[書籍 76]。それも出Sは、罪悪感など全く感じなかったばかりか、4人の男を相手に、一歩も引かず、圧倒したことに酔いしれていた[書籍 75]

これに加えてSは、最も年齢が近かった、店の同僚とも、トラブルを起こした[書籍 75]。その同僚から挑発され、腹を立てたSは、同僚を店の裏庭に呼び出し、頭をスパナで殴打して負傷させた[書籍 75]。この事件以降、その同僚は、店に来なくなった[書籍 76]。祖父Xは、暴力沙汰を繰り返す、孫の将来を心配したため、Sに対し、「お前は、顔も声も、父親(Z)に近くなってきた。ほっといたら、お前もああなっちまうぞ」と諫めた[書籍 75]。しかし、Sはその忠告も、全く意に介さなかった[書籍 76]

実際、『週刊文春』(文藝春秋社)に対しては、「Sの部屋にも、仕事場の鰻屋にも、何度も警察官が訪れていた」という証言があった[報道 20]

この頃Sは、無断欠勤により[書籍 76][判決文 1]、事件発生年の1992年1月には鰻屋を辞め[報道 74]、事件直前は、無職同然の身だった[判決文 1]

1991年以降[編集]

『週刊新潮』1992年3月19日号は、Sが住んでいたマンションの近隣住民の話として、「Sは、髪にパーマをかけ、身長180cmもある、大柄ながっちりした男だった。毎日、夕方どこかに出掛けては、真夜中の2時、3時頃に帰ってきて、力いっぱいドアをバタンと閉めて、近所迷惑を顧みない人だった。3000ccのクラウンを乗り回し、肩で風を切って歩いていた。歩き方も与太った雰囲気で、その姿はとても19歳とは思えない。25、26歳ぐらいだと思っていた」と報道した[新潮 2]。1991年の秋、Sは違法駐車により、近隣住民とトラブルを起こし、警察が出動する騒ぎとなっていた[新潮 2]

Sは、ウナギ店を辞めた後、ギタースクールに通うようになった[書籍 76]。これに加え、バンドの練習や、ファッションヘルスの店員、ラブホテルのルームボーイなど、アルバイトに明け暮れていた一方で[書籍 76]、職を転々とし、定職には就いていなかった[報道 44]

やがてSは、バンド仲間や、貸しスタジオで知り合った仲間たちとともに、ハルシオンブロンLSDなど、さまざまな薬物乱用にも、手を染めるようになった[書籍 77]。薬物に手を染めた動機は、Sが幼少期に憧れたジミ・ヘンドリックスをはじめ、ロックのスーパースタたちが、「みんな、クスリと共に生きていた」ことから、「音楽で成功するには、ドラッグが必須アイテムだ。ギターの腕が彼らに及ばないなら、せめてライフスタイルだけでも真似してみたい」というものだった[書籍 76]

薬物仲間の多くは、中学から不登校状態で、街で様々な非行を働いていた、札付きの不良ばかりだった[書籍 76]。そのうちの1人は、「両親や妹を、木刀で殴り倒し、歯を全部折り、顎の骨を粉々に砕いた。恐れをなした家族が、揃って家から逃げ出すと、父親の職場に押しかけて暴れ回った。、その結果、父親は職を失い、家族を路頭に迷わせた」という、S以上に激しい家庭内暴力をふるっていたという[書籍 77]

また、「敵対するグループのメンバーの家に放火を繰り返していた者」、「自分の交際していた女性を、ピンサロに売り飛ばし、昼間からパチンコや競馬に没頭している者」ばかりか、「覚醒剤の打ちすぎで、精神科病院に入院させられたが、そこから逃げ出して街を徘徊している、廃人寸前の覚醒剤中毒者」までいた[書籍 77]

Sは、このような非行に手を染めている者たちとつるむようになっても、「こういう荒んだ連中に比べれば、自分はまだずっとましだ」と思っていた[書籍 77]

事件1年前の1991年2月、Sは自動車学校の合宿講習で、運転免許証を取得した[判決文 1]。翌3月には、母親の援助で、433万円余りの、トヨタ・クラウンロイヤルサルーンを、自動車ローンを組んで購入した[判決文 1]。ローンは、4年間48回払いで、頭金50万円は、それまで乗っていた400ccのバイクを売った上で、アルバイトで貯めた金を足して払った[書籍 26]。ローンの支払いが遅れると、母親Yが代わりに払っていた[書籍 26]。クラウンのトランクには常に、前述の暴力事件で、凶器として使用した鉄筋を、柄に滑り止めのテープを巻いた上で、3、4本隠し持っていた[書籍 78]

Sは、1991年6月、母親Yから、契約金58万円余りを出してもらい、船橋市本中山にある[判決文 1]、2階建ての新築アパートで、一人暮らしを始めた[書籍 26]。そのアパートは[書籍 26]中山競馬場が近くにあり[報道 27]JR総武本線下総中山駅から徒歩5分、京成本線京成中山駅から徒歩7分の立地だった[書籍 26]

家賃は7万円[書籍 26]、共益費込みで約10万1000円で[報道 28]、1991年秋に家賃を滞納して以降は、母親が代わりに振り込んでいた[報道 44]

『中日新聞』報道によれば、母親Y・弟に対し、家庭内暴力が激しくなったため、耐えかねた母親Yが、前述の部屋を与え、Sを別居させたという[報道 27]

Sはこの頃、身長・体重ともに、同じ18歳男性の平均を、はるかに凌駕するまでに成長していた[判決文 1]。また、高校生の時に始まった、飲酒・喫煙が、生活習慣となっていた[判決文 1]。たばこは、1日にラーク5箱程度を常用し、酒はウイスキーを特に好み、ボトル半分程度を適量としていた[判決文 1]

その一方で、幼少期に自分たちを見捨てた父親Zが、母・弟の暮らすマンション付近に現れることが度々あった[書籍 78]。Zは、幼少期のSに対し、苛烈な虐待を加えた挙句、見捨てた身でありながら、元妻・次男へ激しい暴力をふるう長男に対し厳しくたしなめたが、Sは憎悪をたぎらせて反発し、毎回のように口論になるばかりか、壮絶な殴り合いになった[書籍 78]。この時、Sが包丁を持ち出して暴れたため、救急車が出動したことまであった[書籍 78]

Sは、美容師・フリーターの女性と、同棲を経験したが、暴力が原因で、いずれも1、2か月で別れている[書籍 79]

しかし、Sは1991年7月頃[判決文 1]、ウナギ屋の同僚たちに連れて行かれた、市川市内のフィリピンパブで[書籍 80]フィリピン国籍[判決文 1]マニラ出身[書籍 80]、1970年10月29日生まれの[判決文 1]、ホステスの女性(当時21歳)と出会った[書籍 80]。Sは、この女性とやがて恋に落ち、時折店外デートをするようになった[書籍 81]。やがて、その女性から結婚を持ちかけられると、Sは当初こそ、「長期滞在が目的だろう」とみて断っていたが、女性の必死の懇願は続いた[書籍 80]。やがてSは、「彼女は料理も掃除も得意だし、何より自分に尽くしてくれる。一緒に生活したら楽しいかな」と考えるようになり、結婚を決意した[書籍 80]

Sは、母親Yに対し、その女性のことを話したが、母は「日本人かせめて白人にしろ、フィリピン人は絶対にダメだ」と反対した[書籍 80]。これに対し、Sは激怒したが、しまいには父親Zまでやってきた[書籍 80]。両親は、改めてSを説得したが、父親が出てきたことは、Sの怒りに対し、火に油を注ぐだけだった[書籍 80]

結局、家族との話し合いは決裂したため、Sは1人で、女性との結婚の手続きをとった[書籍 80]

同年10月9日、半年間の就労ビザが満了するのを受け、女性がフィリピンに帰国した[書籍 82]。Sもその10日後、女性の家族への挨拶・結婚手続きのため、フィリピンに渡航した[書籍 82]

女性の実家は、「東南アジア最大のスラム街」といわれる、マニラ近郊の地区トンドにあったが[書籍 83]、極端な潔癖症であるSも、この時ばかりは特に意に介さず、のんびりとリラックスした[書籍 83]

翌朝からSは、現地の日本領事館・マニラ市役所に通い、10月25日にマニラ市役所で結婚の宣誓を行った[書籍 83]。10月30日、S夫婦は、日本領事館に結婚の書類を届け出[書籍 83]、1991年10月31日、正式に婚姻した[判決文 1]

そして、女性が洗礼を受けたカトリック教会での講習を経て、同年11月には、マニラで結婚式を挙げた[書籍 83]

しかし、千葉地裁の判決文によれば、翌1992年1月22日頃、妻となった女性は、故郷の姉の病気を心配し、フィリピンに帰国し、そのまま日本に帰国しなかった[判決文 1]

永瀬隼介の著書『19歳』によれば、1992年1月頃、女性の妊娠が判明したが、女性は言葉が通じにくい日本の産婦人科を嫌がり、マニラの母親の下で産みたいと訴えた[書籍 4]。Sはこれを了承し、女性は1992年1月26日、フィリピンに帰国した[書籍 4]

1992年1月30日、Sは19歳の誕生日を迎えたが、妻がいなくなったことで鬱屈した気分になったことから、新しい女性を引っ張り込もうと考え、それが凶行の遠因となった[書籍 4]

加害者親族のその後[編集]

Sの祖父Xの反応[編集]

永瀬隼介の取材に対し、祖父Xは、「俺はもう死にたい。生きていても苦しい事ばかりで何もいいことはない。なぜ、(4人を殺害した凶悪事件を起こした)あいつ(S)が今でも生きていられるか、不思議でならない。俺だったら(そのような事件を起こしたら)自殺する」と述べた[書籍 74]

その上で、事件当時の心境について、「Sが逮捕された日に突然、家に新聞記者が来て、あいつ(S)が人を殺したと聞かされた。(Sは)バカのろくでなしだとは承知していたが、まさか人様を、それも4人も殺めるとは思っていなかったから、何が何だか分からず、血の気が引いたし、腰が抜けそうだった」と述べた[書籍 74]

そしてSについて、「それ以来、すべてがあのバカ(S)のせいで滅茶苦茶になった」「あいつにはもう関わりたくない。あれだけのことをやったんだから、もう生きちゃいられないだろう。法に従えばいいんだ」と吐き捨てた[書籍 74]

これに加え、Sの父親である娘婿Zについて、「俺はZのことを初めから気に食わなかった。人相が良くなかったし、真面目に働くような顔ではなかったから、娘Yと結婚させたくなかった。Yが俺の言うことをちゃんと聞いていれば、あんなろくでなしの孫なんか生まれていない。いっそのこと離婚するとき、Sを向こう(Z)にくれてやればよかったんだ」などと述べた[書籍 74]

なお、伴侶としてXと苦楽を共にし[書籍 74]、Sを最もかわいがっていたという祖母(Xの妻)は、Sが控訴中の1995年に他界している[報道 119]

事件当時のXについての報道[編集]

しかしその一方で、『中日新聞』1992年3月10日朝刊[報道 27]・『河北新報』1992年3月27日付紙面は[報道 196]、それぞれ本事件について特集記事を組んだ際、は、Sについて、「祖父Xから、ギター・オーディオ購入費などの遊興費や、一人暮らしをしていた船橋市内のマンションの家賃、犯行に用いた高級車(トヨタ・クラウン)など、さまざまな代金の援助を受け続けていた」、「中山競馬場での競馬開催日には、競馬場でSの姿がよく見られた」と報道している[報道 27][報道 196]

『朝日新聞』の報道によれば、Sは中学入学頃から、祖父・母親に多額の現金をせびっていたという[報道 28]。また、『朝日新聞』・『週刊新潮』の報道によれば、祖父Xは、従業員の前で「また夜遊びか」と笑いながら、Sに1万円札数枚を手渡すこともよくあったという[報道 28][新潮 2]

中学時代からSを知る、水産加工品店(ウナギ料理店)の同僚は、事件直後、『中日新聞』の取材に対し、「やりたいことはなんでもやった。中学時代から飲酒、喫煙をしていたし、ギャンブルも好き。野球も結構やっていたけど、適当にサボってバンドなどもやっていた。最近は女ばかり追いかけまわしていた。金で思うようにならないと暴力で、というパターンだった」と証言した[報道 27]

その一方で、「店でも年上の従業員などにはいつもペコペコ頭を下げて従順だった。中学時代もつっぱり連中とは適度に距離を置いて目を付けられないようにしていた。結局、優しい人や弱いものに徹底的につけ込む性格」として、Sの気弱な一面も明かした[報道 27]

こうした証言から『中日新聞』1992年3月10日朝刊記事は、Sの素顔について、「他人への思いやりを知らない、本能むき出しの人間像であり、その人格形成には、複雑な家庭環境が影を落としている、と伺えた」と述べた[報道 27]

また、「祖父に甘やかされ気ままに育ってきた」というSについて[報道 27]、親類の1人は事件直後、『朝日新聞』の取材に対し、「あいつはやりたいようにやってきたからなあ」と冷たい言葉で語った[報道 28]

鰻屋のその後[編集]

また事件当時、千葉県在住で、船橋市市川市境に実家がある山口敏太郎によれば、祖父Xが営んでいた鰻屋は、山口の地元の駅前などを香ばしい匂いで充満させていた、評判の名店だった[書籍 84][書籍 85]

しかし、鰻屋は事件後、「あの店に金を出したら殺人鬼の弁護士費用になる」という噂から、やがて客が来なくなり、閉店に追い込まれたという[書籍 84][書籍 85]

また、被害者3人が背中から刺されて殺されたことから、近所の人々は「Sはウナギを背開きにするかのように人間を切り裂いた」と恐れ、「この事件はウナギの祟りではないか」という噂まで飛んだという[書籍 84][書籍 85]

母親・弟のその後[編集]

Sの母Yは、1999年時点で、次男(5歳年下のSの弟、当時大学生)とともに、息を潜めて暮らしていた[書籍 86]。Yは、外回りの営業の仕事に従事しつつ、週1回の割合で、長男Sのいた東京拘置所を訪れ、面会を続けていた[書籍 86]

Yは、面会のたびに、季節ごとの衣類・嗜好品・書籍などを差し入れをし、息子の健康を気遣っていた[書籍 86]

永瀬隼介は、1998年から2000年にかけての冬のある夜、Sの母Y・Sの弟が暮らしていた家を取材した[書籍 87]。弟は、顔・体格ともに、兄Sとそっくりだったが、S自身が「自分とは正反対の人間」というように、穏やかで礼儀正しい性格だったという[書籍 87]。母Yは、永瀬の取材に対し、「もうそっとしておいてください。あの子も今は反省しているんですから」と、嗚咽交じりの消え入るような声で取材を断った[書籍 87]

参考文献[編集]

参考判決文[編集]

D1-Law.com(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28019082
  1. 3名に対する強盗殺人罪、1名に対する殺人罪のほか、強盗強姦、強姦、傷害、恐喝、窃盗等の犯罪を連続して敢行した犯行当時19歳の少年の被告人に対し死刑が言い渡された事例。
  2. 犯行当時、被告人に是非を弁別する能力及び是非の弁別に従って行動を抑制する能力が著しく減退し、心神耗弱の状態にあったことを疑わせる事情はないとして、被告人に完全な責任能力を認めた事例。
  3. 被告人が殴打暴行を加えて傷害を負わせた後、俄に欲情を催して被害者と強いて姦淫したものであるときは、強姦の犯意を生ずる以前の傷害罪とその後の強姦罪の2罪が成立する。
  4. 強盗殺人行為終了後、新たな決意で別の機会に他人を殺害したときは、たとえ時間的に先の強盗殺人に接近しその犯跡を隠蔽する意図の下に行われた場合であっても、別個独立の殺人罪が成立する。
  5. 運転免許証及び自動車検査証も、刑法235条の財物である。
  6. 被告人の隙を見て逃げ出した被害者の車両内から各別名義の物件を一括窃取する行為は1個の窃盗罪に当たる。
  7. 暴力団員を装い金員及び免許証の交付を要求し、応じなければ、更に身体に危害を加えるべき勢威を示して畏怖させ、自動車運転免許証の交付を受けた場合は、恐喝罪が成立する。
TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット) 文献番号:28019082
  1. 犯行当時少年であった被告人が、およそ5カ月間に、3名に対する強盗殺人、1名に対する殺人のほか、強盗強姦、強姦致傷、強姦、傷害、恐喝、窃盗を連続して行った事案において、犯行当時の被告人に完全責任能力を認めて、いずれの犯罪についても有罪とし、死刑を言い渡した事例。
判例タイムズ』第858号107号
  1. 3名に対する強盗殺人罪、1名に対する殺人罪のほか、強盗強姦、強姦、傷害、恐喝、窃盗等の犯罪を連続して敢行した、犯行当時少年の被告人に対し死刑が言い渡された事例。
  2. 被告人の尿酸血中濃度や胎児期における大量の黄体ホルモンの投与あるいは被告人の脳波の微細な異常等と被告人の過度の攻撃性との関連性を否定し被告人に完全責任能力を認めた事例。
  3. いったん強盗殺人の行為を終了したあと、新たな決意に基づいて別の機会に他人を殺害したときは、右殺人の行為は、たとえ時間的に先の強盗殺人の行為に接近し、その犯跡を隠蔽する意図の下に行われた場合であっても別個独立の殺人罪を構成するとされた事例。
    • 裁判官神作良二裁判長)・井上豊・見目明夫
    • 判決内容:死刑・折り畳み式ナイフ1丁(平成5年押収第52号の2)を没収(検察側求刑同、被告人・弁護人側控訴)
  • 東京高等裁判所刑事第2部判決 1996年(平成8年)7月2日 『判例時報』第1595号53頁、『判例タイムズ』第924号283頁、『東京高等裁判所(刑事)判決時報』第47巻1 - 12号76頁、『高等裁判所刑事裁判速報集』(平8)78頁、平成6年(う)第1630号、『傷害、強姦致傷、強盗殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗被告事件(著名事件名:市川の一家四人殺害事件控訴審判決)』。
D1-Law.com(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28025020
  1. 3名に対する強盗殺人罪、1名に対する殺人罪等を連続して犯した少年に対して死刑を言い渡した第一審判決に対する控訴が棄却された事例。
TKCローライブラリー(LEX/DBインターネット) 文献番号:28025020
  1. 傷害・強姦致傷・強盗殺人・強盗強姦・恐喝・窃盗被告事件について、犯行当時少年の被告人につき死刑を言い渡した原判決に対し、被告人は、爆発型精神病質者、類てんかん病質者であって、胎児期に施用を受けた多量の黄体ホルモンの影響等により生来的に脳を過剰に男性化され攻撃的になっていたことを総合して考慮すると、各犯行当時に心神耗弱状態にあったとして、控訴をした事案において、被告人のために酌むべき事情を総合して十分に考慮し、死刑がやむを得ない場合における究極の刑罰であることに思いをいたしても、その犯した罪の重大性に鑑みると、被告人を死刑に処するのは誠にやむを得ないと判断するから、被告人を死刑に処した原判決の量刑が重すぎて不当であるとは言えないとして、控訴を棄却した事例。
『東京高等裁判所(刑事)判決時報』第47巻1 - 12号76頁
  1. 胎児期に流産防止のため黄体ホルモンの投与を受けた結果、脳の男性化を生じたことなどを理由とする心神耗弱の主張を排斥した原判決が維持された事例。
『判例タイムズ』第924号283頁
  1. 3名に対する強盗殺人罪、1名に対する殺人罪等を連続して犯した犯行時少年の被告人につき死刑を言渡した第1審判決に対する控訴が棄却された事例。
    • 裁判官:神田忠治(裁判長)・小出錞一・飯田喜信(判決前に転補のため、飯田は署名押印できず)
    • 判決内容:被告人・弁護人側控訴棄却(死刑判決支持、被告人・弁護人側上告)
    • 検察官弁護人
      • 東京高等検察庁検察官:梅村裕司(弁護人側控訴趣意書に対する答弁書提出)
      • 弁護人:奥田保・中村治郎(控訴趣意書を連名作成)
  • 最高裁判所第二小法廷判決 2001年(平成13年)12月3日 『最高裁判所裁判集刑事編』(集刑)第280号713頁、平成8年(あ)第864号、『傷害、強姦、強姦致傷、強盗殺人、殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗被告事件』。
裁判所ウェブサイト
  1. 死刑の量刑が維持された事例(市川の一家強盗殺人事件)
TKCローライブラリー(LEX/DBインターネット) 文献番号:28075105
  1. 被告人が、B方に赴き、在宅していたBの祖母を殺害し、その後帰宅したBの母と父を順次柳刃包丁で殺害した上、現金、預金通帳等を強取するなどした事案で、被告人は、上記強盗の最中、Bを強姦するなどしたほか、傷害、強姦、強姦致傷、恐喝、窃盗を繰り返しているところ、その犯行態様、結果ともに悪質であることなどの情状に照らすと、被告人の罪責はまことに重大であり、本件各犯行当時、被告人が18歳から19歳であったことなどの事情を考慮しても、原判決が維持した第1審判決の死刑の科刑は、やむを得ないとし、上告を棄却した事例。

関連書籍[編集]

雑誌記事[編集]

  • 週刊誌週刊新潮』(新潮社)1992年3月19日号(1992年3月12日発売)ISSN 0488-7484NDLJP:3378720全国書誌番号:00010852 p.145-149掲載 特集記事「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」
    • Sの実名・中学卒業時の顔写真、Sが事件当時住んでいた船橋市内のマンションの写真が掲載された。
    • 記事中では、板倉宏・当時日本大学法学部教授が「この事件は死刑に値する犯行」と述べた。これに加え、小田晋・当時筑波大学教授は、「もし死刑にできないようならば保安処分にすべき」とする識者意見を述べた。
    • その一方で、少年法に詳しい秋山昭八弁護士の、「(当時)死刑が廃止に向かっている時代の趨勢の中[注釈 11]、少年の場合は殺人が行われやすい環境だったかがどうかが争点になるため、この事件でも求刑段階で死刑は難しい」という意見も掲載された。
    • その上で、元法務大臣奥野誠亮の、「今の時代、20歳未満だからと言って甘やかしておれる時代ではないでしょう。運転免許だって18歳で取得できるわけですから、凶悪な犯罪を犯した少年が5歳や10歳の子どもと同じ扱いにされるというのはおかしな話ですよ」という意見を載せ、少年法の改正を訴える論調の記事となっている。
  • 写真週刊誌FOCUS』(新潮社)1992年3月20日号(1992年3月13日発売)全国書誌番号:00036138 p.68-73「『待伏せ刺殺』『溶解炉』『伯母撲殺』『妹殺し』 続発『残酷殺人』若者の動機」○○一家4人を待伏せして殺した「19歳のワル」
    • Sの実名、送検されるSの写真、被害者一家のうち、男性A・妻Dの顔写真を掲載した。送検時のSの写真は、当時『FOCUS』記者の清水潔が撮影した。
  • 新潮45』(新潮社)1999年6月号(1999年5月発売)NDLJP:3374836全国書誌番号:00043183 p.195-231「特別ノンフィクション 一家四人惨殺『十九歳』犯人の現在(いま)」祝康成
    • Sの実名を掲載した。内容は後述の永瀬の著書『19歳の結末』『19歳』の大元となっている。
  • 週刊誌週刊新潮』(新潮社)2001年12月13日号(2001年12月6日発売)ISSN 0488-7484全国書誌番号:00010852 p.34掲載 「インシデントTEMPO『死刑が確定した一家惨殺「19歳の結末」』」
    • Sの実名・中学卒業時の顔写真、Sと接見を重ねた永瀬(当時・「祝康成」名義)のコメントが掲載された。

永瀬隼介による書籍[編集]

  • 祝康成(永瀬隼介) 『19歳の結末 一家4人惨殺事件』 新潮社2000年9月15日ISBN 978-4104398010
    • 著者の永瀬がSとの面会やSの家族、Sと結婚したフィリピン人女性の家族、熊本県在住の被害者遺族ら事件当事者たちへの取材などを重ね、Sの最高裁上告中に出版したノンフィクション。Sは実名で登場するが、その他の事件関連人物は全て仮名である。
  • 永瀬隼介 『19歳 一家四人惨殺犯の告白』 角川文庫2004年8月25日ISBN 978-4043759019
    • Sの死刑が確定した3年後の2004年、『19歳の結末』を新たに第9章「死刑」(2000年の『19歳の結末』刊行から2001年の最高裁判決まで)を描き下ろしとして加えた上で文庫化した書籍。前者同様、Sは実名で登場するが、その他の事件関連人物は全て仮名である。

その他書籍[編集]

  • 丸山佑介 「13【少年犯罪】市川一家殺人事件」『判決から見る猟奇殺人ファイル』 彩図社2010年1月20日、122-131頁。ISBN 978-4883927180
    • Sの実名を掲載した。
  • 犯罪事件研究倶楽部 「市川一家4人殺人事件」『日本凶悪犯罪大全SPECIAL』 イーストプレス2011年12月16日ISBN 978-4781606637
    • Sの実名を掲載した。なお、ルビはイニシャルで「S・M」となっているが、正しくは「S・T」である。
  • 蜂巣敦山本真人 「市川市一家四人殺害事件―人間が暴発する直前に見た『意味』と『無意味』のパノラマ」『殺人現場を歩く』 ちくま文庫2008年2月6日、59-73頁。ISBN 978-4480424006
    • Sの実名を掲載した。
  • 福田洋 「「千葉・十九歳少年、一家四人殺し」」『20世紀にっぽん殺人事典』 社会思想社2001年8月15日、687-688頁。ISBN 978-4390502122
    • この文献では「事件当日午後にSが路上でBと出会い、脅してB宅に案内するよう命じた」とあるが、これは誤りである。
  • 村野薫(編集)、事件・犯罪研究会 (編集)、鎌田正文 「市川の一家4人殺害事件」『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』 東京法経学院2002年7月5日、45-46頁。ISBN 978-4808940034
  • 山口敏太郎 「十五…うなぎ」『恐怖・呪い面~実話都市伝説』 TO文庫2013年6月1日ISBN 978-4864721271
  • 山口敏太郎 「うなぎ(1992)」『秘・テレビでは言えなかった! 山口敏太郎の怖すぎる都市伝説』 TOブックス2016年12月25日ISBN 978-4864725392
  • 鈴木ユーリ 「昭和・平成「少年犯罪」狂気の系譜 変わりゆく"少年A"と"少女A"の実像 「ヤンキー型犯罪」と「理由なき殺人」の果てに」『昭和・平成 日本の凶悪犯罪100』 宝島社2017年7月26日、182-183頁。ISBN 978-4800273413
  • 年報・死刑廃止編集委員会 『世界のなかの日本の死刑 年報・死刑廃止2002』 インパクト出版会2002年7月15日、234,238。ISBN 978-4755401237
  • 年報・死刑廃止編集委員会 『死刑廃止法案 年報・死刑廃止2003』 インパクト出版会、2003年7月15日、360,365。ISBN 978-4755401312
  • 年報・死刑廃止編集委員会 『無実の死刑囚たち 年報・死刑廃止2004』 インパクト出版会、2004年9月20日、292,299。ISBN 978-4755401442
  • 年報・死刑廃止編集委員会 『オウム事件10年 年報・死刑廃止2005』 インパクト出版会、2005年10月8日、196,204。ISBN 978-4755401572
  • 年報・死刑廃止編集委員会 『光市裁判 年報・死刑廃止2006』 インパクト出版会、2006年10月7日、278,287。ISBN 978-4755401695
  • 年報・死刑廃止編集委員会 『死刑と憲法 年報・死刑廃止2016』 インパクト出版会、2016年10月10日、220頁。ISBN 978-4755402692
  • 年報・死刑廃止編集委員会 『ポピュリズムと死刑 年報・死刑廃止2017』 インパクト出版会、2017年10月15日、188,205。ISBN 978-4755402807
    • 2006年版ではSの実名を掲載したが、2016年版、2017年版では「犯行当時少年で、実名掲載の了承が得られていない」としてイニシャル表記「S・M」(正しくは「S・T」)されている。

関連論文[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 事件当時、現場一帯の所轄警察署だった。その後、1995年に浦安警察署(葛南警察署から改称)から、現場一帯を管轄する行徳警察署が分離発足し、2017年現在、現場一帯は行徳署が管轄している。
  2. ^ 少年法第61条「第4章雑則:記事等の掲載の禁止」が法的根拠である。もっとも、Bは全くの被害者であるに留まらず、Sによる複数回の強姦被害者でもあるため、いずれにせよマスメディアはそれに配慮してBを匿名にせねばならなかった。
  3. ^ 実際にはSに限らず、麻原彰晃などオウム真理教事件の死刑囚や、永山則夫東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件宮崎勤附属池田小事件の宅間守、秋葉原通り魔事件の加藤智大など、過去に殺人前科のない初犯で死刑が確定した死刑囚は多数存在する。「永山基準」が示されて以降、殺害された被害者が1人で、かつ無期懲役刑に処された前科がない場合でも、三島女子短大生焼殺事件(殺人前科なし)・JT女性社員逆恨み殺人事件(殺人前科はあるが有期懲役)など、最高裁で死刑が確定したケースが存在する。
  4. ^ 女子高生コンクリート詰め殺人事件とほぼ同時期、1988年に発生した名古屋アベック殺人事件では、第一審で死刑・無期懲役という極刑が、それぞれ当時少年だった被告人2人に言い渡されたが、Sは同事件について言及していない[書籍 35]
  5. ^ 確定判決では後述のように、4人のうちBの妹Eに対する殺害を強盗殺人罪ではなく単純殺人罪と認定した[判決文 3]
  6. ^ 永山則夫連続射殺事件大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件光市母子殺害事件といった、死刑が確定した少年事件でさえ、下級審は無期懲役判決だった[報道 153]。永山事件以降(および平成)に発生した少年犯罪では、第一審から上告審まで、一貫して死刑判決が支持され、確定した事件は、2016年(平成28年)に石巻3人殺傷事件の最高裁判決(一・二審の死刑判決を支持)が出るまでの間、長らく本事件のみであった[報道 153]
  7. ^ 2016年時点では「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(フォーラム90)が実施している[書籍 40]
  8. ^ Sの死刑確定以降、2002年5月10日[書籍 42]、2003年5月末[書籍 43]、2004年7月末[書籍 44]、2005年7月31日と[書籍 45]、「死刑廃止の会」が計4回、確定死刑囚について調査を行ったが、いずれもSが再審請求をした旨の記述はない。
  9. ^ 2017年10月2日時点では、『ヨミダス歴史館』(読売新聞)・『聞蔵』(朝日新聞)など、全国紙5紙の記事データベースおよび『中日新聞・東京新聞データベース』にて、Sの実名を検索しても、この事件についての記事は1件もヒットしなかった。
  10. ^ 本事件で殺害されたBの父方の祖母Cとは別人の、事件後Bを引き取った熊本県在住のBの母方の祖母のこと。
  11. ^ 1990年代初期当時、死刑執行モラトリアム(死刑執行一時停止)期にあり、長谷川信梶山静六左藤恵田原隆と、4代にわたり、法務大臣による死刑執行命令が出されなかった。1993年3月26日、後藤田正晴(警察官僚出身)が、「法秩序、国家の基本が揺らぐ」(国会答弁)として、死刑執行命令を発したことにより、3人の死刑が執行され、このモラトリアムは終わった。

出典[編集]

判決文
書籍出典
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『週刊新潮』1992年3月19日号p.145-149、『FOCUS』1992年3月20日号p.68-73の出典
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 『FOCUS』(新潮社)1992年3月20日号p.68-73「『待伏せ刺殺』『溶解炉』『伯母撲殺』『妹殺し』 続発『残酷殺人』若者の動機」○○一家4人を待伏せして殺した「19歳のワル」
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 『週刊新潮』(新潮社)1992年3月19日号p.145-149 特集「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」
  3. ^ 『週刊新潮』(新潮社)2001年12月13日号p.34「インシデントTEMPO『死刑が確定した一家惨殺「19歳の結末」』」
報道出典(※見出し部分に死刑囚の実名が含まれる場合、その箇所を姓のイニシャル「S」に置き換えている。)
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 千葉日報』1992年3月7日朝刊1面「一家4人殺される 市川 店員の少年を逮捕『金欲しさに強盗』と自供」
  2. ^ a b c 『千葉日報』2017年12月20日朝刊1面「市川一家4人殺害 元少年の死刑執行 永山元死刑囚以来20年ぶり 再審請求中、群馬3人殺害も」
  3. ^ a b c d e f 『千葉日報』1992年11月6日朝刊社会面19面「市川の一家4人殺害 強盗殺人で少年起訴 公開の法廷で裁判へ」
  4. ^ a b c d e f g h i j 『千葉日報』1992年12月26日朝刊社会面19面「少年、殺意の一部を否認 市川・一家4人殺し初公判 弁護側 未必の故意主張」「大きな体、小さな声…少年の心の叫び聞こえず」
  5. ^ a b c d 日本経済新聞』1992年11月6日朝刊社会面39面「公開の法廷へ 社長一家殺人の19歳少年 『強盗殺人』で起訴」
  6. ^ a b c d 『千葉日報』2017年12月20日朝刊第一社会面19面「市川一家4人殺害 元少年死刑執行 重大性、少年法に波紋 県弁護士会『極めて遺憾』」
  7. ^ a b 『千葉日報』1992年3月7日朝刊社会面19面「凶行におびえる住民 市川の一家4人殺害事件 『こんな身近な所で…』 新興住宅地に衝撃」「涙浮かべ言葉なく 長女の通う保育園の保母」
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 読売新聞』1992年3月7日東京朝刊社会面31面「19歳店員を逮捕 市川の一家4人殺し 犯行ほぼ自供 帰宅親子を次々 前日から強盗目的で侵入 一家とは面識なし」
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n 朝日新聞』1992年3月7日朝刊社会面31面「19歳の少年を逮捕 カネ目当て、次々襲う 市川の家族4人殺人容疑」
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n 日本経済新聞』1992年3月7日朝刊社会面31面「金欲しさ、帰宅待ち凶行 市川の一家4人殺害 19歳少年を逮捕 祖母絞殺後、次々と 長女も監禁 金工面の電話させる」「残忍な犯行 大きな衝撃」「少年犯罪、凶悪化の一途」
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  100. ^ 『読売新聞』1994年8月8日千葉県版朝刊京葉面24面「市川の一家4人殺しあす注目の判決 少年事件と死刑の是非 検察側『極刑を』弁護側『無期』主張」
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  102. ^ a b c d e f 『千葉日報』1994年8月9日朝刊社会面19面「『冷酷、非道』と断罪 市川市の一家4人殺害判決 被告、判決にも表情変えず 一瞬、静まり返る廷内」「千葉地裁前 傍聴券を求め長い列 異常な犯罪に強い関心」「判決に失望 死刑廃止議員連盟が声明」「解説 死刑存廃論議に波紋 少年犯罪に厳しい姿勢」
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その他出典
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関連項目[編集]