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市川一家4人殺人事件

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市川一家4人殺人事件
場所 日本の旗 日本
千葉県市川市幸2丁目(行徳地区)
東京湾沿いの高層マンションの一室[報道 1]
座標
標的 以前強姦した女子高生一家5人
日付 1992年(平成4年)3月5日 - 3月6日
午後4時30分頃 – 午前9時頃
概要 当時19歳の少年が、少女を強姦して身分証明書を脅し取った。
その1か月後、その少女が住むマンションの一室に強盗目的で押し入り、住民一家5人のうち、4人を次々に絞殺・刺殺した。
その間、金品を被害者宅・勤務先から奪いつつ、少女を長時間監禁し、さらに強姦した。
攻撃側人数 1人
武器 電気コード、柳刃包丁[判決文 1][判決文 2][判決文 3]
死亡者 会社役員社長一家4人
負傷者 女子高生
犯人 少年S(犯行当時19歳)
動機 窃盗(空き巣)目的で侵入後、居直り強盗
対処 逮捕起訴
刑事訴訟 死刑少年死刑囚執行済み
影響 犯行当時少年に対する死刑確定・執行(少年死刑囚)は、永山則夫以来のことだった[報道 2]
その残忍な犯行から、日本社会を震撼させ[書籍 1]、衝撃を与えたこの事件は[報道 3][報道 4][報道 5]少年法の在り方などに論議を呼んだ[報道 2]
作家・永瀬隼介(祝康成)が、加害者少年と交流し、本事件関連の著書(#関連書籍参照)を出版した。
管轄 千葉県警察葛南警察署(事件当時の所轄署。2017年現在、現場一帯は行徳警察署管内)
千葉地方検察庁
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最高裁判所判例
事件名 市川の一家強盗殺人事件
事件番号 平成8年(あ)第864号
2001年(平成13年)12月3日
判例集 『『最高裁判所裁判集刑事編』(集刑)第280号713頁
裁判要旨
  • 本件上告を棄却する。
  • 動機に酌量の余地がなく、4名の生命を奪ったという結果が極めて重大である上、犯行の態様が冷酷、執ようかつ残虐で、家族を一挙に失い、自らも強盗強姦等の被害に遭った少女の被害感情は非常に厳しく、社会的影響も重大である。
  • その犯行態様、結果ともに悪質であることなどの情状に照らすと、被告人の罪責は誠に重大であり、本件各犯行当時、被告人が18歳から19歳であったことなどの事情を考慮しても、原判決が維持した第1審判決の死刑の科刑は、やむを得ないものとして当裁判所もこれを是認せざるを得ない。
第二小法廷
裁判長 亀山継夫
陪席裁判官 河合伸一福田博北川弘治梶谷玄
意見
多数意見 全員一致
意見 なし
参照法条
強盗殺人殺人強盗強姦恐喝窃盗傷害強姦強姦致傷
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市川一家4人殺人事件(いちかわいっか4にんさつじんじけん)とは、1992年平成4年)3月5日深夜、千葉県市川市2丁目(行徳地区)にあるマンションで、犯行当時19歳の少年が、マンション在住の一家4人を殺害し[報道 1][報道 6][報道 7][報道 8][報道 9]、被害者遺族の少女を強姦した、強盗殺人・強姦事件(少年犯罪[報道 1][判決文 1][判決文 2][判決文 3]

平成の少年犯罪では初の死刑確定事件(少年死刑囚)であり[書籍 2]、10代の少年による底知れぬ残忍な犯行として日本社会を震撼させ[書籍 1]、衝撃を与えたこの事件は[報道 3][報道 4][報道 5]、その重大性から、少年法の在り方などに論議を呼んだ[報道 2]

目次

加害者・被害者[編集]

元死刑囚S(犯行当時19歳少年)[編集]

1973年昭和48年)1月30日生まれ[判決文 1][判決文 2][判決文 3][書籍 3][書籍 4][書籍 5]。事件で逮捕された当時は千葉県船橋市本中山のアパートに在住していた[判決文 1]。刑事裁判で死刑が確定し、2017年(平成29年)12月19日、東京拘置所死刑が執行された(44歳没)[報道 10][報道 11][報道 12][報道 13][報道 14][報道 15][報道 16]

ウナギの加工・販売業を営む母方の祖父Xの長女である母親Y子、Y子と結婚してXの店で働き、市川市内に在住していた元サラリーマンの父親Zの間に長男として千葉市内で生まれたが[判決文 1]、父Zの借金・ドメスティックバイオレンス(DV)・児童虐待などを起因とした両親の離婚、学校でのいじめなど不遇な生育環境で育ち、高校進学後もわずか1年で中退した[判決文 1]。その後は祖父の経営する鰻屋を手伝うが、母や弟への家庭内暴力不良仲間らとの徘徊行為、未成年者にも拘らず飲酒喫煙を行うなど生活は荒れていき、事件直前には本事件の被害者一家宅を知るきっかけとなった強姦事件を含め、多数の傷害・強姦・強姦致傷・恐喝・窃盗などの事件を起こしており、この頃には鰻屋も無断欠勤して辞めており、ほぼ無職の身だった[判決文 1]

#関連書籍で後述するように、本項目の出典となっている書籍・雑誌記事に死刑囚の実名が掲載されているが、本記事中では、死刑囚が初記述からイニシャル表記されている日本における収監中の死刑囚の一覧との表記矛盾の解消を兼ねて、それらの文献で記載されている実名の姓に基づくイニシャル「S」で表記する[新潮 1][新潮 2][書籍 6]。なお、実名・イニシャルを掲載している一部文献で、実名の漢字が誤読され、読みが「S・M」となっている文献があるが、正しくは「S・T」である(#参考文献を参照)。

被害者一家[編集]

被害者一家は、営団地下鉄(現:東京メトロ東西線行徳駅から南東約2kmの[報道 9]東京湾に面した、首都高速湾岸線千鳥町出入口付近に位置する[報道 7]、市川市幸2丁目の新興住宅街に建つ[報道 6][報道 7][報道 8][報道 9]、9階建ての高層マンションに住んでいた[書籍 7]

1990年頃、Aは「ベルギーのペンションを買いたい。ベルギーならドイツにもフランスにもすぐに行ける。(事件の発生した)1992年にEC(欧州諸共同体)統合があるので、あちらに拠点を持って活動したい」と語っていたが、その夢はSの凶行によって、無惨にも断ち切られた[新潮 1][書籍 8]

  • 男性A(死亡)
    • 1950年(昭和24年)8月10日生まれ[判決文 1]、41歳没[報道 6][報道 7][報道 9][報道 8]。事件7年前の1985年、写真週刊誌『Emma』(文藝春秋)記事に掲載された、当時ロス疑惑で注目されていた三浦和義が、スワッピング・パーティーに参加した際のプライベート写真を撮影した、フリーランスのカメラマンであった[書籍 9][新潮 1][新潮 2]。1987年(昭和62年)3月にDと結婚してBを養子として引き取り、同年8月に妻Dとともに、行徳駅前のマンションを事務所に[報道 6]、雑誌の出版・編集などの業務を行う株式会社を設立し、その取締役を務めていた[判決文 1][報道 6]。結婚後は年頃の娘を持つようになったことから、それまでの風俗関連から離れ[新潮 2]、事件直前まで妻Dとともに料理雑誌の仕事を中心にし[新潮 1][報道 6][新潮 2]、フリーランスのカメラマンとして、レストラン・温泉地などの写真を撮影していた[判決文 1]。近隣住民の話によると夫婦揃ってカメラボックスを抱えて事務所に出入りする姿も見られたという[報道 6]。午後9時40分頃に帰宅した直後、背後からSに左肩を刺されて致命傷を負い、翌6日午前零時半頃にSに包丁で背中を再び刺され死亡した[書籍 10][書籍 11]
  • 少女B(負傷)
    • 1976年(昭和51年)3月19日生まれ[判決文 1]、事件当時15歳[報道 6][報道 7][報道 9][報道 8]。Aの長女で、事件当時は船橋市内の県立高校に通学する1年生だった[判決文 1][書籍 12][報道 6][報道 7][報道 9][報道 8]。Aの実子ではなく、母Dが離婚した前夫との間にもうけた連れ子で[書籍 13]、AとはDが再婚した際に養子縁組した養女であった[判決文 1][報道 17][報道 18][報道 19]。共働きの両親に代わって10歳以上離れた妹Eを朝夕、保育園に送迎するなど[報道 20]、優しい性格であり、通学する県立高校では演劇部や美術部などに所属し、クラスの副委員長も務め[報道 17]、将来は美術関係の大学進学を希望するごく普通の女子高生だった[書籍 14]。一連の事件では帰宅直後から、Sが逮捕されるまでの約14時間にわたってSに監禁され[書籍 14][書籍 15][報道 20][報道 6]、その目の前で、既に殺されていた祖母Cを除く家族3人を惨殺された[判決文 1]。また、事件前の2月12日に2回[書籍 16]、母Dを目の前で殺害された直後に1回[書籍 10]、父Aを殺害され、Sにラブホテルに連れ込まれた際に2回と[書籍 15]、計5度にわたってSに強姦される被害を受けた[判決文 1]
    • 事件後、両親の知人の下に身を寄せた後、事件1年後の1993年に熊本県の母方の実家に引き取られた[書籍 17]。高校を卒業後、故郷の熊本を離れ、事件前から夢見ていた美術系大学に進学して2000年春に卒業した[書籍 18]。永瀬の取材に対しては「もう、事件のことは忘れました。でないと前に進めませんから。(犯人のSが)どういう刑を受けようと、まったく関心ありません。でも(極刑は)当然だと思います」と気丈に語っており、知人に対しては「バリバリ働いて私を育ててくれた母のようなキャリアウーマンになりたい」と将来の希望を語っていた[書籍 18]。その後、Sの死刑確定後の2004年(平成16年)春にかねてから交際していた男性と結婚して日本を離れ、生前の両親の夢であったヨーロッパで暮らしているという[書籍 19]。『東京新聞』の取材に対し、事件現場近所の主婦は一人遺されたBについて「心に受けた深い傷は想像を絶する。幸せを願い、そっとしておいてあげたい」と気遣い、現場に駆けつけた当時の捜査幹部は「とにかく酷かった。母親に息子夫婦、幼い子まで…被害者のために、間違いのないようになんとか裁判まで持っていこうと全力を尽くした」と振り返った[報道 21]
  • 女性C(死亡)
  • 女性D(死亡)
    • 1955年(昭和30年)6月19日生まれ[判決文 1]、36歳没[報道 6][報道 7][報道 8][報道 9]。Aの妻で、1987年(昭和62年)3月にAと結婚し、同月にEを出産した[判決文 1]。『読売新聞』報道によれば、前夫との間に生まれたBと一緒に、出身地の熊本県八代市から市川市に転居し、行徳駅前のマンションに部屋を借りて写真の勉強をしていた[報道 6]。その後、フリーカメラマンだったAと知り合って結婚・Eを出産し、1988年8月に現場マンションに引っ越した[報道 7]。同年8月に雑誌の出版・編集などの業務を行う株式会社を夫Aとともに設立し、その代表取締役を務め[判決文 1][報道 6]、「中村小夜子」というペンネームで[新潮 1][新潮 2]、フリーランスのライターとして料理雑誌などのコラム欄などを担当していた[判決文 1]。午後7時頃にBとともに帰宅した直後、Bの目の前でSに包丁で刺され死亡した[書籍 11][書籍 20][書籍 21][書籍 22]
  • 幼女E(死亡)

事件の経緯[編集]

事件に至るまでの経緯[編集]

起訴状によれば、Sは一家殺害事件前年の1991年(平成3年)10月19日午後4時50分頃、愛車のトヨタ・クラウンロイヤルサルーンを運転し、東京都江戸川区上篠崎にある、祖父Xの経営するウナギ料理チェーン店の支店付近の道路を走行中、先行して走っていた当時34歳男性が運転する車両の速度が遅いとして立腹し、男性の車が赤信号に従って停車すると、その車の運転席側に駆け寄って「とろとろ走りやがって、邪魔じゃないか」などと怒鳴りつけ、開いていた窓から手を差し入れて、エンジンキーを回してエンジンを停止させた[判決文 1]。男性が車を降りると、Sはいきなりその顔面を拳で複数回殴りつけ、店の厨房内に置かれていた長さ約112cmの鰻焼台用の鉄筋で、男性の背中・左肘を1回ずつ殴りつけ、男性に全治3週間の頭部・胸部・左肘への打撲、挫創の怪我を負わせた(罪状その1、傷害罪)[判決文 1]

Sは1992年2月6日[書籍 23]、市川市内のスナックバーに勤めるフィリピン人のホステスを連れ出し、店に無断で自宅アパートに泊め[書籍 4]、性的関係を持ち、このホステスをマンション自室に閉じ込め負傷させた[報道 22]。2月8日に店に帰ったホステスが店の関係者にこのことを泣きながら訴え[書籍 4]、激怒した店の関係者は暴力団に「落とし前」を依頼し、それ以降Sは暴力団に追われる身となった[書籍 4]。Sは後述のように暴力団組員から200万円を要求される一方で、一連の犯罪に使ったのは高級セダンの自家用車[報道 20]、時価400万円のクラウンロイヤルサルーンだった[書籍 24][書籍 7][新潮 1][新潮 2]写真週刊誌FOCUS』(新潮社)1992年3月20日号の特集記事では「自分の車を売ればそれなりの金は工面できるとは思わなかったのだろうか。彼の考えは盗み―動機は単純かつ不可解で、その結末が残忍極まりない一家4人惨殺に繋がってしまった」と記された[新潮 2]

2月11日午前4時、Sは高円寺に住むバンド仲間のアパートからクラウンに乗って帰る途中[書籍 25]東京都中野区新井の路上で、当時24歳の会社員女性が1人で左側歩道上を歩いているのを見つけ、鬱屈した気分を晴らそうと女性を殴ろうと思い、道を尋ねるふりをして女性に近づいた[判決文 1]。その直後、Sはいきなり女性の顔を拳で思い切り数回殴りつける暴行を加え、女性に全治3か月半の鼻骨骨折・顔への擦り傷という傷害を負わせ、その女性が意外に若かったことから、Sは女性を強姦しようと考え、その髪の毛をわしづかみにして引っ立てて「車に乗れ」と脅し、無理矢理クラウンの後部座席に押し込んで車を発進させた[判決文 1]。Sは「病院に連れて行く」などと言って午前6時半頃に自宅アパートに女性を連れ込み、衣服をはぎ取って全裸にして強姦した(罪状その2、強姦致傷罪)[判決文 1][書籍 25]。この時、Sは「強姦は性欲の解消以上に優越感と自信を与えてくれる」と思い、同時にそれまでの鬱屈した気分が嘘のようにスカッとし、「セックスと暴力は繋がっている」とも確信したという[書籍 25]。Sは暴力の持つ達成感・陶酔感について、面会人の永瀬隼介に対し「傷害にしろ、強姦にしろ、他人の血を見るということは興奮するものです。とくに、しだいに相手が弱ってきて自分に従うようになり、どうにでも好きなように動かせるとなった時に見るそれは、僕の中では勝利の象徴として溜飲を下げるのに大いに役立ちました」「一度強姦や強烈な傷害事件を成功させ、クリアしたことで、変な方向に自信を持ってしまい、もう一度やってみよう、出来るはずだ、出来るだろう、となっていったのです」と語っている[書籍 26][書籍 27]。また、逮捕後にこの強姦事件について取り調べを受け、その後監獄生活を送るようになっても、しばらくはまったく反省しないどころか「ああ、どうせ捕まるのなら学生の頃、昔から好きだった女の子にしておけばよかったよなぁ」「同じ罪になるならいっそのこと、かねてから憧れだった女性を狙っておけば本望なので納得もできただろう」などという自己中心的な意味の筋違いな後悔しかしておらず、被害者の心情に思いを馳せるようなことなどしていなかったという[書籍 22]。しかしその日の夜、ホステスの件でSの自宅アパートに暴力団組員7人が押し掛け、Sはクラウンに飛び乗って逃げた[書籍 16]

SがOLを強姦してから約22時間後の2月12日午前2時頃[書籍 16]、当時15歳で県立高校1年生の少女Bは[書籍 28]、夜遅くまで勉強していた中でシャープペンシルの替え芯が切れたため、替え芯を買いに自転車で自宅マンション付近のコンビニエンスストアに行き、買い物を終えて帰宅しようとしていた[書籍 16]。帰宅途中でマンション前の狭い路地で背後から走ってきたSの運転するクラウンに追突され、路上に投げ出されて右膝に擦り傷を負った[書籍 16]。SはBに優しく声を掛けて「病院に連れて行く」と車に乗せ、浦安市内の救急病院で治療を受けさせた[書籍 16][書籍 11]。Bは初めは警戒していたが、治療をさせてもらった後、自宅まで送り届けてもらうことを約束されて安心した[書籍 11]。しかし帰り道でSは「このまま帰すのはもったいない、強姦してやろう」という劣情を持ち、突然人気のない路肩に車を停めた[書籍 11]。Sは車内で本性を現してBに折り畳み式ナイフを突き付け、手の指の間に刃をこじ入れた[書籍 16]。SはBの指の間にこじ入れたナイフをぐりぐりとこね回し、抵抗したBの頬を切り付けて「黙って俺の言うことを聞け」と脅した[書籍 11][書籍 16]。Bは突如牙を剥いたSに震えおののき、そのままSのアパートまで拉致されて2度強姦された[書籍 16]。Sはその後Bの手足を縛って抵抗できなくしてから、Bの所持品を改めて現金を奪い、Bが通っていた高校の生徒手帳から住所、氏名を控えていったん外に出た[書籍 11][書籍 16]。その後Sが部屋に戻るとBが自力で逃げ出していたが、Sはそれを特に気に留めなかった[書籍 11]。このようにBには、永瀬隼介曰く「まったくの偶然が招いた、あまりにも悲惨な形」で、Sとの接点があった[書籍 29]。この事件直後、千葉県警察葛南警察署に対し[注釈 1]、Bから被害届が出されたが、顔見知りの犯行ではなかったこともあり、当時Sは捜査線上に上がってこなかった[報道 20]

二晩続けて見ず知らずの女性を強姦し、自分の力に自信を持ったSだったが、ヤクザという暴力のプロには情けないほど無抵抗だった[書籍 16]。同日夜、大手暴力団組織傘下の暴力団組長から呼び出され、東京都港区赤坂の東京全日空ホテル(現・ANAインターコンチネンタルホテル東京)で、組長とその手下(ホステスと関係のある暴力団組員)から散々脅され「お前のやったことは誘拐だ。女(Sが連れ込んだホステス)がこのままフィリピンに帰ったら店の損害は200万円になる。どうしてくれるんだ」と、「けじめ」として現金200万円を要求された[書籍 23][報道 23][報道 22]。金のあてはなく、Sは暴力団の取り立てが怖くて自宅アパートにもありつけず、車の中で寝泊まりする日々が続いた[書籍 23]

この日から一家4人を惨殺するまでの20日間に、「このままだといずれ半殺しにされるか、運が悪ければ殺されてコンクリート詰めにされて東京湾に沈められるかもしれない」と恐れていたSは車絡みで2度の暴力・恐喝沙汰を起こした[書籍 30]。2月25日午前5時、市川市内の国道を走っていたSは後続車から車間距離を詰められて煽られ、憤慨してクラウンを急停車させ、後続車は接触寸前で急停車した[書籍 30]。Sはクラウンを降り、トランクから鉄筋を取り出して右手に握り、1,2回威嚇するように鉄筋を振り回した後、相手の車のドアを開けた[書籍 30]。相手の運転手がにらみつけ「マジでやる気か」と吠えたが、Sはお構いなしに車のキーを抜いて退路を絶ち、運転手の襟首を掴んで車外に引きずり出し、「てめえのおかげでブレーキパッドがすり減ったじゃねえか」と鉄筋で2,3度殴りつけた[書籍 30]。運転手は血まみれになりつつもSをにらみつけたが、Sは怒りに任せて鉄筋を叩きつけ気絶させた[書籍 30]。Sはヤクザを装って運転手を脅し運転免許証を取り上げた[書籍 30]。その2日後の2月27日午前零時半、Sは埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)内を走行していたところ、交差点の脇から突然車が突っ込んできてあわや衝突寸前となった[書籍 30]。大学生が運転していた相手の車は何事もなかったかのように立ち去ろうとし、憤慨したSはクラウンを猛スピードで走らせて車を追いかけた[書籍 30]。相手の車は煽られると観念したかのように停車し、Sはクラウンを降りて懐から折り畳み式ナイフを取り出し、相手の助手席に乗り込んだ[書籍 30]。「俺をヤクザもんと知っててやったのか?」とSは大学生の顔を殴り、ナイフを突きつけた[書籍 30]。「てめえが滅茶苦茶な運転しやがるからタイヤが擦り減った」と大学生を恫喝したが、大学生は「はあ」「ああ」などというだけで手応えがなく、激昂したSはナイフを大学生の太ももに突き立てた[書籍 30]。「親父のとこへ連れて行け」とSは助手席に乗り込んだまま、恐怖する大学生に車を運転させたが、10分程度経過したところで元の場所に戻ったため、今度はナイフで肩を刺した[書籍 30]。自宅に向かおうとしない大学生に業を煮やしたSは「お前の親はいったいどんな教育をしやがったんだ?甘やかす一方で育てたからお前みたいな出来損ないになるんだよ。俺が性根を叩き直してやる」と罵りつつ、ナイフの刃を大学生の背中に食い込ませたが、大学生は「あっちです」「いや、こっちかも」と生返事を繰り返し自宅に向かおうとしなかったため、Sは怒りに任せて大学生を切り付けた[書籍 30]。1時間後、大学生は全身に20か所以上[書籍 30]、全治6週間の切り傷を負い[報道 24]、血まみれになりながらも、命からがらSの隙を見て逃げ出した[書籍 30]。Sは車で大学生を追いかけようとしたが、轢き殺すとまずいと思って断念した[書籍 30]。Sは大学生から取り上げていた運転免許証と、大学生の父親名義の車検証を手に、大学生の車を運転して自車に戻った[書籍 30]。大学生からは後から金を巻き上げるつもりだった[書籍 30]。なお、これらの事件については後述のように、逮捕後の1993年2月18日に追起訴された[報道 24]

14時間の惨劇[編集]

しかし恐喝を繰り返しても200万円は得られず、金の工面に困ったSは「パチンコ店を襲おうか、強盗しようか」などと考えつつ、日増しに膨らむ恐怖と焦燥感を抱えていた[書籍 30]。そして事件当日の3月5日、Sは約1か月前に車で轢いて強姦した際に住所を控えておいたB宅に窃盗に入ることを思いついた[判決文 1][書籍 11]。SはBを強姦した2月の事件以降、同月下旬・3月1日の2度にわたって[判決文 1]、マンション周辺をうろつき[新潮 2]、エレベーターで8階まで上がり、806号室がB宅であること、1階のエレベーターホールには防犯カメラが設置されていることなどを確認していた[判決文 1]。また、この1カ月間にB宅に時間を変えて何度か電話しており[判決文 1]、午後は留守か、老女(殺害されたBの父方の祖母C)が一人でいることを確認していた[書籍 7]

暴力団から多額の金銭を要求されて追い詰められ、自宅アパートにも近づけず、所持金も底を尽きたため、車中泊を続けていたSだったが、この日は朝からパチンコとゲームセンターで時間を潰した[書籍 7]。午後遅く、Sは中華そば屋でラーメン1杯を食べ、4時頃に「Bの自宅から有り金をごっそり奪うつもりで」市川市に向かった[書籍 7]。そして、「ついでに」Bを再び強姦すれば鬱屈した気持ちも晴れるだろうとも考えていた[書籍 7]。 Sは事件現場の行徳一帯の近くに自らの母方の祖父母の家があり、幼少期によく祖父母宅に泊まりに来ては、マンションが建つ以前の空き地だった現場一帯で凧揚げや自転車を乗り回して遊んだ記憶があったため、その後の開発により典型的な東京のベッドタウンになってはいたが、現場一帯には土地勘があった[書籍 7][書籍 31]。付近にはさらに新しい高級マンションもあったが、Sはこのマンションで金を得ようと考え[書籍 31]、マンション近くのタバコ屋の前にクラウンを駐車し、公衆電話でBの自宅に電話を入れた[書籍 7]。電話に誰も出なかったためSは留守だと思い、クラウンを児童公園の横に回して駐車し、午後4時30分頃、当初は窃盗目的で[判決文 1]、目の前にあるBの自宅マンション8階の一室(806号室)に入った[書籍 7][報道 19][報道 7][報道 9][報道 6][報道 8]

Sは防犯カメラが設置されているエントランスを避けてマンションの外階段で2階まで上がり、そこから806号室がある8階までエレベーターで上がった[書籍 7][判決文 1]。平日の夕方近くという時間だったが、この日の市川市内は雨が降っていたためか[書籍 7]、誰ともすれ違うことはなかったという[書籍 22]。Sは806号室の玄関でチャイムを鳴らしたが応答はなく、ドアノブを回すとドアが開いた[書籍 7][判決文 1]。そのため「誰かがいる」と焦ってすぐその場を離れ、エレベーター横の階段に座って20分ほど様子を見た[書籍 7]。その後、ドアの鍵はかかっていなかったが、家人の気配はなく、照明も点いていなかったため、Sは留守だと思い[書籍 7]、「仮に誰かがいたとしてもB以外なら、彼女の知人のふりでもしておけばいい」と考えつつ[書籍 22]、再びドアを開けて忍び入った[書籍 7][判決文 1]。Sは後に永瀬への手紙の中で「どう考えても執拗に被害者一家にこだわり、自分の一生を捨ててまで、預金通帳ならまだしも、この普通のマンションからほんのわずかな現金を奪うという犯行を成し遂げる価値があったとは思えません」と送っており[書籍 32]、実際、普通のマンションに200万円もの現金があるとは思っておらず、貴金属類か預金通帳を見つけたら、気付かれないうちに早めに現場から逃走するつもりだった[書籍 7]

空き巣に入ったSが、玄関の突き当たりにある居間で金品を物色し始めたところ、玄関脇の北側の洋間から音がした[書籍 11][書籍 7][判決文 1]。その部屋の扉を開けると、一人で留守番をしていたCがテレビをつけたまま寝ていた[書籍 7]。Sは自分の靴をベランダに隠し、突き当たり奥の居間に行って室内を物色したが、目当ての現金や預金通帳、貴金属類は出てこなかった[書籍 11][判決文 1]。Sは自分で探すのが面倒になり[書籍 11]、Cを脅迫し、預金通帳のありかを聞き出して強奪しようと考え[判決文 1]、洋間に踏み込み[書籍 11]、「年寄り一人ぐらいなら、まずどんなことがあったって、力で負けることなどないはず」という過信と短絡的思考から[書籍 22]、Cの足を蹴り上げて起こした[書籍 7][判決文 1]。目を覚ましたCは見ず知らずの男がいるのに驚いた[書籍 11]。居直り強盗に転じたSは[判決文 1]、Cに危害を加える気勢を示しながら[判決文 1]、預金通帳や現金を出すようすごんだが[書籍 7][書籍 22]、CはSにおびえることもなく「ここにあるだけならくれてやる」と[書籍 22]、毅然とした態度で、自分の財布の中にあった現金8万円を渡して帰るように諭し[書籍 20]、部屋から出ていこうとした[書籍 11][判決文 1]。しかしSは「バカにされた」と怒りに打ち震え、Cの襟首につかみかかって引き戻し[書籍 11]、通帳を出すよう要求したが、Cは頑なに応じなかった[書籍 20][判決文 1]。Sは緊張して尿意を覚えたため、Cに「通帳を探しておけ」と言い置いて一時トイレに行った後で戻ると[書籍 20]、隙を見てCが居間で電話の受話器を取り上げて110番通報しようとしていた[書籍 20][判決文 1]。Sは「少し痛い目に遭わせて力関係を分からせてやろう」とCを突き倒し、殴り掛かろうとしたが、CはSに唾を吐きかけた[書籍 20][書籍 22][書籍 11][判決文 1]。Sは激昂し、Cを頭ごと激しく床に叩きつけたが、Cはなお果敢に抵抗してSに爪を立ててひっかいた[書籍 20][書籍 22]。逆上したSは近くにあった電気コードを抜き取り、コードでCの首を数分間絞めて殺害した[書籍 11][書籍 20][判決文 1]。Cが絶命したことを確認すると、SはCの遺体を引きずって北側の洋間に戻し[書籍 11]、布団に寝かせた[判決文 1]。他人と一緒に箸を使う鍋料理を口にできないほどの潔癖症だったSは老女の唾液を汚らしく思い、洗面所で頭、顔、首、手を何度も洗った[書籍 20][書籍 22]。当時のSには生まれて初めて人を殺めてしまったという実感は乏しく、唾液を吐きつけたCに対する怒りや「こんな汚いところにいられるか」という嫌悪感の方が強かったという[書籍 22]。その後、Sはいったん外に出て自動販売機でたばこと、「長期戦を覚悟して」予備の缶ジュースを買い[書籍 22][書籍 11]、外で30分ほど過ごしてからまた部屋に戻り[書籍 20][判決文 1]、さらに室内を物色して、北側洋間内の出入り口にある棚に置かれていたCのバッグ内にあった財布から現金約10万円を奪った[判決文 1]。Bはこの時、学校帰りに父Aの会社に寄り、母親Dと買い物をして家路に向かっていた[新潮 2]

Sが部屋に戻って再び金品を物色していた途中[判決文 1]、午後7時頃にB・Dが買い物から帰宅した[書籍 21]。Sは台所にあった包丁何本かを、台所の流し台の下からあらかじめ冷蔵庫の上に隠しており、そのうちの1本である刃渡り22.5cmの柳刃包丁(平成5年押収第52号の1)を手に取り[判決文 1]、台所の戸棚の陰に身を潜めた[書籍 11]。何も気付かずそのまま居間に向かおうとした2人を待ち伏せて台所から飛び出し[書籍 11]、包丁を突き付けたが[判決文 1][判決文 3][書籍 20][書籍 22]、怯えることもなく「どうしてここにいるの」と厳しく問い詰めてきたDの「頭の切れそうな」態度に半ば恐れを感じて「騒ぐと殺す」と怒鳴りつけた[書籍 21][書籍 22]。「女とはいえ2人を一度に相手にするのは無理だ。別々の方向に走って逃げられたらどちらか1人は確実に逃げる」「走って逃げ出し、大声でも上げられたら終わりだ」と考えたSは2人を脅してうつぶせにさせた上で、ポケットの中に入っていた所持品をすべて出させた[書籍 21][書籍 22][書籍 11]。母子2人を無抵抗にした上で、Sは(鑑定書より)「頭が働くずる賢そうな人というか、そういうタイプだったので、それだけ伊達に年取っていないですからそれだけ知恵が働くんじゃないかと思って」Dのみを左腰部から、背中を柳刃包丁で計5回突き刺した[判決文 1][書籍 11][書籍 20][書籍 21][書籍 22]。致命傷を負わされてもなお、苦悶に顔を歪めつつ足で床を蹴り、自身のダウンジャケットにしがみつくDを、Sは「あーあ、血が付いちまうだろう」と言いつつ脇腹を蹴って遠ざけた[書籍 20]。Dは間もなく失血死し[判決文 1]、SはそのままBを脅し、Dの遺体を「帰って来る家人に見られてはまずい」と、2人がかりで南側の奥にある洋間に運び入れ[書籍 11]、Bにタオルで、床に残ったDの大量の血・失禁の跡を拭わせた[書籍 11][書籍 21]

その後SはBを監禁し、Dを殺害してから15分後に保育園児のE(Bの妹でAの次女、当時4歳)が保母に連れられて帰って来た[新潮 2]。この際、Bがドアを開けてEを部屋に入れた[新潮 2]。SはBに夕食の準備をさせ、3人で食事を摂った[書籍 10]。食後、SはEを絞殺された祖母Cの部屋に追いやってテレビを観せた[書籍 10]。その後Eが寝付くと[書籍 11]、少女を前に欲望で全身が火照っていたSは「父親は午後11時過ぎに帰って来る」とBから聞いていたことから[判決文 1][書籍 10]、その間Bを強姦して気を紛らわそうと考えた[判決文 1]。午後9時20分頃にBを前述包丁で脅して寝室に連れ込み、強姦しようと「服を脱げ」と脅すが[書籍 10]、目の前で母親を惨殺され恐怖に震えるBは服を脱ごうとしなかったため、いらついたSはBをベッドに突き倒し、強引に服を剥ぎ取り、自分も素早く全裸になって再び強姦した[判決文 1][書籍 10][書籍 11]。家族の死体が横たわる傍らでBを強姦するという想像を絶する凄惨な場面について、当時のSは精神鑑定時にその心境を「自分としては、時間潰しというか、気分転換というか」と[書籍 11]、またその言葉の意味について「盗みに入ってすぐに出ていくつもりが、金品を物色している中で2人帰ってきて、まだ慌てている割には目的は達成されていない。何をやっているのかな、というような気持になった。その間にBから家族構成や、父親が何時頃帰って来るということも聞いていたので『じゃあ(父親の帰宅を)待とう』ということもあった」と語っていた[書籍 22]

しかし、強姦の最中の午後9時40分頃に予想より早くAが帰宅した[書籍 10]。Sは慌ててBの身体から離れて服を着て[判決文 1]、カウンター付き食器棚の上にいったん隠した、Dを刺殺した柳刃包丁を手に取り[判決文 1]、台所の食器棚の陰に隠れた[書籍 10]。Aがベッドで横になっている娘を見て「寝てたのか」と声を掛けたところ、SがAの左肩を、背後から柳刃包丁で刺した[判決文 1][書籍 11][書籍 10]。この時のSの心境は「一度刺しておけば力関係もはっきりするだろう。歩いている道の上に石が転がっていて邪魔だから蹴飛ばすようなもの」程度の感覚であり[書籍 10]、また永瀬への手紙の中では「『人間の体なんて思ったよりすうっと力が入っていくものだな』と考えたりしたものです。もっと骨とか筋肉とか、刃応えを感じることがあって、手に力が必要なのだろうと思っていたら、全然そんなことはなくて、あれならウナギを捌く時の方がよっぽど力がいるんじゃないかと思うほど、ケーキに包丁を入れるような感じしか手に残りませんでした」と綴っていた[書籍 22]。Sは動けなくなったAに暴力団組員の名刺を突き付け[判決文 1][書籍 11]、組員を装って「お前が取材して書いた記事で組が迷惑している」と嘘で脅して[判決文 1]、床に座り込んで立てなくなったAに金目の物200万円を出すよう要求した[書籍 10]。まだ妻Dと母Cが殺されたことを知らず、家族を守ろうと必死だったAはSに母親の通帳のありかを教えてしまい[書籍 10]、娘に指示し、家にある現金16万円・預金通帳2冊を集めさせた[書籍 11]。Sは額面257万6055円の郵便貯金総合通帳と、同103万1737円の銀行総合口座通帳を手に入れたが[判決文 1]、まだ満足せず[報道 25]、Aの職場の事務所にも通帳と印鑑があると聞き出し[判決文 1]、Bに電話を入れさせ、職場に残っていた社員にこれから通帳を取りに行くと伝えさせた[報道 26][判決文 1][書籍 11][書籍 10]。その後Sは、従わないと父親まで殺されると恐怖したBを連れ[書籍 11]、翌3月6日午前零時半に外に出た[報道 25][書籍 10]。Sはエレベーターでいったん1階まで下りたが、Bを1階に残して即座に引き返し[書籍 11]、刺されてから約3時間悶絶しつつ、台所のテーブルにつかまって立ち上がっていたAを、「警察に通報されるのを防ぐため」という理由で、包丁で背中を一突きして刺殺した[判決文 1][書籍 10][書籍 11]。その後、SはBをクラウンに乗せて道案内させ、行徳駅前の事務所に向かった[判決文 1]

3月6日午前1時頃[報道 25]、Sは事務所付近にクラウンを駐車すると、Bに「人がいるんじゃヤバい。俺はここで待っているから、お前が行って来い」と命じて事務所に向かわせた[報道 26][書籍 15][新潮 2]。Bが駅前のマンション2階にある事務所に行っている間[新潮 2]、空腹を覚えたSは近くのコンビニエンスストアで菓子パンを買って食べた[報道 26][書籍 15][新潮 2]。当時残業中で、後に警察に通報した男性社員に[書籍 15]、まだ父親が殺されたことを知らないBは「ヤクザがお父さんの記事が悪いとお金を取りに来ている」と告げたが[報道 26][報道 25][書籍 15][書籍 11][報道 27]、助けは特に求めず[報道 25]、額面合計63万5620円の両親名義の預金通帳7冊と[判決文 1][書籍 15]印鑑7個を受け取った[報道 25][書籍 15][書籍 11]。Bが来た約20分後にはSも現れ[報道 27][報道 26]、他人の目を欺くつもりか[報道 26]、Bに「おい、行くぞ」と親しげに声を掛け[新潮 2]、2人で印鑑と通帳を持って行ったという[報道 27]。不審に思った社員は派出所に連絡し、直後の午前1時半頃に葛南署員とともにA宅に出向き[報道 28]、ドアをたたいたり[報道 26][新潮 2]、電話をかけたりしたが[新潮 2]、その時は電気が消えており応答もなかった(この時点でBの両親・祖母Cは殺害されていたが寝かしつけられていたEはまだ生存していた)ため[報道 26][報道 25]、署員は不在と思って引き揚げた[報道 26][報道 25]。その間SはBをクラウンに乗せて市川市内の東京湾沿いのラブホテルに連れ込み、30分ほどかけて通帳の額面を調べ、印鑑と通帳の印影を確認した[書籍 15][判決文 1]。Sはここでも再びBを強姦し、大胆不敵にも4時間近く熟睡した後、再びBを強姦した[書籍 11][書籍 15]

翌6日午前6時30分頃、SはBとともに、既に一家3人が死亡していたマンションに戻ってきた[判決文 1][書籍 11]。Sがしばらく部屋でくつろいでいたところ[書籍 11]、一旦は寝かせたEが目を覚まして泣き始めていた[書籍 15]。Eが両親・祖母の死を知って泣き叫び、その声が隣近所に聞こえてはまずいと考えたSはEを殺害することを決意し[判決文 1]、午前6時45分頃[判決文 1]、祖母Cの部屋で布団の上に座り、背中を向けて泣いていたEを、顎のあたりを押さえつけながら[判決文 1]、カウンター付き食器棚の上に置いてあった包丁で、背中から突き刺した[判決文 1][判決文 3][書籍 15][書籍 11]。包丁は体を貫通し、刃先は胸まで突き抜けた[書籍 15][書籍 11]。「痛い、痛い」と弱々しく声を出し、苦しみもがく妹を前にしてSは「妹を楽にさせてやれよ。首を絞めるとか方法があるだろう」と平然と言い放ったが[判決文 1]、Bは全身が凍ったように動けず、Sは激痛で泣き叫ぶEの首を絞め上げ殺した[判決文 1][書籍 15][書籍 11]。家族を皆殺しにされ、5度にわたって凌辱されるという、想像を絶する恐怖と絶望で、心身ともに打ちのめされていたBだったが、妹Eが殺された直後「どうして妹まで刺したの!」とSに食って掛かった[判決文 1][書籍 11]。しかしSは突然のBの反抗に逆上し、包丁を振りかざして左上腕と背中を切り付け全治2週間の怪我を負わせた[判決文 1][書籍 15][書籍 11]。あろうことか、SはEを刺殺する前後に一家4人が惨殺された凄惨な現場から友人に電話を入れ、取り留めもない話に興じていた[書籍 22]。Bはこの時、近所に住む、高校で同じクラブに入っている同級生の少女宅に「今日は休む。部室の鍵を持っていけなくてごめんね」と電話していた[報道 29]。Sに強奪された被害総額は、現金合計約34万円、預金通帳計9冊(額面合計424万円3412円)、印鑑7個に上った[判決文 1]

捜査[編集]

午前8時過ぎ、再びBから自宅の電話に金の工面を求める電話を受けたAの会社に勤める社員(関連書籍によれば、Bが深夜に訪問してきたことを不審に思った事務所の男性社員)が[書籍 15]、「社長宅の様子がおかしい」と不審に思い、同日午前9時過ぎにマンションに電話を入れた[報道 30][書籍 15][報道 26]。しかしBは「おはよう」と言ったきり黙ってしまい[新潮 2]、社員が「脅している奴が部屋にいるのか」と聞くと尋ね、Bはうなずいたが[新潮 2][報道 26]、Bはそのまま電話口で押し黙ってしまったため[報道 26]、その不自然な対応や[報道 28]、部屋を訪ねてもドアの鍵がかかっており、呼んでも返事がないことを不審に思った社員は[報道 6][報道 7][報道 8][報道 9][書籍 11]、「知り合いの社長の娘から不自然な電話があった。家族が刺されたらしい」と[報道 1]、近隣の葛南署行徳駅前交番に通報した[報道 6][報道 7][報道 8][報道 9]

部屋の玄関の鍵がかかっており、呼んでも返事がないため、社員とともに駆け付けた同派出所の警察官が隣の部屋からベランダを伝って窓から侵入したところ[書籍 15][報道 1]、Aは居間、Dは6畳の和室、EはDが死んでいた和室の隣の6畳の洋室、CはEとは別の7畳の洋室と、4人がそれぞれ別の部屋で死亡しており[報道 6][報道 1]、室内の壁などに血が飛び散り[報道 8]、部屋の中でSとBが呆然と立ち尽くしていた[報道 7][報道 9][報道 6][報道 1]。警察官が現場に駆けつけるまでの十数時間、Bを監禁していたSは[報道 20][報道 6]、Bに「俺に殺されたいか、それとも一緒についてくるか」と脅し迫ったが[書籍 15]、ドアの外で息を殺して動き回る複数の人間の気配を感じ、放心状態のBに、家族3人を刺殺した包丁を握らせ、それでも動かないBにイラついて怒鳴りつけたところ、ドアが開いて怒号とともに警官たちが突入した[書籍 14][書籍 11]

Bは警察によって14時間ぶりに保護され[書籍 14][書籍 15]、警察官は現場から逃走しようとしたSを追跡して取り押さえ、葛南署に連行した[報道 9]。関連書籍によればSはなだれ込んだ警官隊に取り押さえられており[書籍 14]、また『読売新聞』の報道によれば、Sは署員らが部屋に入った時に玄関から逃走を図るも、追跡した署員との格闘の末に取り押さえられ、その際「おれはやっていない」と叫んだが[報道 6]、ナイフを所持していたため、銃刀法違反容疑で現行犯逮捕された[報道 28][報道 26]。千葉県警がSを参考人として事情聴取したところ[報道 1][報道 7]、深夜になってSが「金が欲しくてやった」と犯行を認めたため[報道 1][報道 28]、一旦釈放の手続きを取った上で[報道 28]、3月7日午前零時半頃、強盗殺人容疑で逮捕状を請求し、Sを同容疑で逮捕した[報道 1][報道 6][報道 7][報道 8][書籍 15][報道 9]

Sは身長178cm、体重80kgと大柄で、警察により身柄を拘束された際にはBに包丁を持たせ、自分を脅しているように見せかけて、罪を逃れようとしており[書籍 14]、また逮捕前の取り調べでは「先月Bと知り合い、A宅の住所と電話番号を聞き出した」「Bとは一緒にコンサートに行った」などと虚偽の供述をした[報道 17][報道 9]。これを千葉県警および県警発表を通じて知ったマスメディア関係者も鵜呑みにしたことが後述の#報道被害につながった一方、被害者のBはショックのため調べに対して何も話すことができず、それがSの供述に捜査本部が引きずられる結果となったが[報道 17][報道 9]、捜査本部は真偽を丹念に調べ、虚言と突き止めた[報道 7][報道 20]

千葉県警の取り調べに対し、Sは犯行を認めた上で、犯行の具体的な動機について「付き合っている女性のことで暴力団組員から脅され、200万円ぐらいの金が欲しかった。盗みに入り、見つかったので次々と殺し、Bを監禁していた」[報道 31][報道 32][報道 9][新潮 2]、「マンションの近くまで行ったことがある。あの家ならやりやすいと思った」と供述した[報道 33]。捜査本部は、Sが金に困った挙句、標的を絞り下見をした計画的な犯行ではないかと見て追及した[報道 33]。現場の806号室の真下の住民は「昨夜11時半頃、上の部屋でドスンと大きな音がした」と話した[報道 8]

逮捕後、7日午前9時半頃から行われた現場検証で、現場から血の付いた包丁が見つかった[報道 32][報道 31]。捜査本部は包丁の柄などから、採取した指紋を鑑定するなどの裏付け捜査を行い[報道 32][報道 31]、翌3月8日午前[報道 34]、Sを千葉地方検察庁送検した[報道 35][報道 34][報道 20][報道 36]。また、同日までにSが住んでいたマンションを家宅捜索し、書類など数点を押収した[報道 35][報道 34]

千葉県警が殺害された4人の遺体を司法解剖した結果、絞殺された祖母C以外(刺殺されたA・D・Eの3人)の遺体には背後から肺まで達する刺し傷があった[報道 37][報道 17]。死因はAら3人は胸を刺されたことによる失血死、Cは首を絞められたことによる窒息死だった[報道 37][報道 26][報道 27]

3月12日に殺害された4人の葬儀が市川市本行徳徳願寺で営まれ[報道 29][報道 38]、最後に喪主のBに代わり、親類代表としてAのいとこは「平和な家庭を一夜にして奈落の底に突き落とした信じがたい出来事。悪魔の所業だ。このような犯罪が二度と起こらないよう、犯罪防止に努めてほしい」[報道 38]、「学識者、マスコミが中心になってこんな惨劇が二度と起こらないように努めてほしい」と挨拶し、その言葉は後述の#報道被害をBに与えたマスコミに厳しい課題を課した[報道 18]。当時葬儀を仕切った住職によれば、4人の遺骨はAの親族と、Dの親族にそれぞれ引き取られたという[報道 21]

後にSとの文通をするようになった『東京新聞』(中日新聞社)社会部記者の瀬口晴義も、この犯行の状況について「凶悪、凄惨という形容詞が陳腐に思えるほど残酷な場面の連続に、検察の冒頭陳述を呼んで吐き気を催したほどだ」と記した[報道 39]。また、当時Bが外部の人間と1人で接触する機会が2度あったにもかかわらず、助けを求められなかった理由について、東京家政大学平井富雄・精神医学教授は「極端な異常事態に置かれて自律神経が『喪失』し、相手の言いなりになってしまうことはあり得る」と、『千葉日報』1992年3月13日朝刊の記事で解説した[報道 38]

報道被害[編集]

前述のように、Sは「自分はBの知人である」などのような虚偽の供述をしたため、それを鵜呑みにした千葉県警捜査本部も6日夕方(午後5時)[報道 19]の記者会見までは「SはBの男友達で、ともに参考人として事情聴取している」「警官が現場に駆けつけた時、SとBは室内で呆然と立っていた」と説明し、Sが金を奪うため連れ出したAの会社では、留守番をしていた知人もSがBの名前を呼ぶ声から「2人は友人」と思い込み、その時点では疑いを持たなかったという[報道 18]。その結果、『朝日新聞』など各報道機関でも6日夕方まで「長女・友人から聴取」「長女・男友達から事情聴く」など、まるでBが加害者であると疑われるような報道がなされた[報道 18][報道 17][報道 19]。県警が報道陣に「Sの単独犯行であり、Bは全くの被害者」という事実を発表したのは6日午後9時半だった[報道 19][報道 17][報道 9]

『朝日新聞』1992年3月10日付朝刊千葉県版に掲載された報道内容検証記事によれば、千葉県警本支部の記者クラブに「午前9時頃、市川市内のマンション一室で、家族4人が死亡しているのが発見された」との第一報が伝えられたのは事件発生翌日の3月6日午前10時半だった[報道 19]朝日新聞社は無理心中と殺人事件の両方の可能性を考えた上で、京葉支局と千葉支局から記者3人を現場に向かわせ、支局に残った記者も電話取材を開始した[報道 19]。その結果、「葛南署に通報したのは死亡したAの知人である」「家族のうち長女は生存している」という2つの事実を確認した[報道 19]。千葉県警は被害者一家の名前を発表、朝日新聞社では千葉県南部・北東部に配達される夕刊早版用の記事を制作した[報道 19]。正午過ぎになって県警クラブの記者から千葉支局に「現場には生き残った長女(B)のほか、長女の『友人』の若い男(S)がいた。千葉県警は2人から参考人として事情聴取しているようだ」との連絡と、長女(B)はAの養女であることが伝えられた[報道 19]。長女(B)が事件の加害者であった場合、未成年者の人権に配慮して一家の名前も匿名にせざるを得ないため[報道 19][注釈 2]、千葉支局デスクは朝日新聞社本社社会部と連絡を取り、その可能性がある以上、千葉市・東葛地域・東京都内に配達される夕刊からは一家の名前を匿名にすることを決めた[報道 19]。千葉県内版の見出しは(いずれも『朝日新聞』1992年3月6日付朝刊)「一家4人殺される 市川」、東京都内版では「一家4人刺殺される 長女・友人から聴取」となった[報道 19][報道 7]。なお、第一報で「Bの男友達」と報じられたSは前述のようにこの時点で既に銃刀法違反容疑で現行犯逮捕されていたが、その事実を3月6日付夕刊及び翌3月7日付朝刊で報じた全国紙はなく、『読売新聞』『千葉日報』が事件解決後の3月11日朝刊で報じたのみであった[報道 28][報道 26]

午後から『朝日新聞』記者は現場取材を始めたが、「長女(B)も事件に関与か」という予断を持ったまま、現場マンションの上下階の7階・9階(事件現場の8階は当時、立ち入り禁止となっていた)の各住民に対し聞き取り取材を開始した[報道 19]。7階の住民は「前の晩、どしんどしんと音がした」と話し、記者が「前にもありませんでしたか」と聞くと、「何か月も前から音がしていた」と答えた[報道 19]。その後8階住民の主婦に記者が取材したところ、「夫婦仲は良かった」「長女(B)は普通の女の子」という、予断とは異なる内容の回答が返ってきた[報道 19]。それでも、『朝日新聞』以外の他社記者らも加わり「長女(B)の男女関係はどうか、素行はどうだったのか」という、予断に基づいた質問に終始した[報道 19]。「少年は長女(B)の友人」という千葉県警発表に基づく情報にこだわった記者は予断を捨てきれず、「現場にいた長女(B)と自称19歳の男友達(S)から参考人として事情聴取している」「警官が現場に駆けつけた時、SとBは室内で呆然と立っていた」「これは極めて特異な事件」という午後5時の千葉県警による記者会見での説明も現場の記者の予断に追い打ちをかけた上、記者のみならず千葉支局デスクも、本事件と同じ3月5日に高知市内で発生した、当時高校1年生の少女が中学1年生の妹を刺殺した事件(こちらは事件当日に発覚している)[報道 40]などを連想し、その結果予断に基づいた読者に誤解を与えかねない記事ができるきっかけとなった[報道 19]。予断に囚われたまま、千葉県南部・北東部に翌日(3月7日)配達される朝刊早版の締め切りが迫る中、午後9時半になって捜査本部が「事件はSの単独犯」と発表した[報道 19]。この結果、社会面では「19歳の少年逮捕へ」との見出しになったが、千葉県版では(いずれも『朝日新聞』1992年3月7日付朝刊)「数カ月間深夜に物音」「詳しい事情聴取 長女と男友達から」という見出しになり[報道 7]、また『朝日新聞』の一部では前述の少年(S)の虚偽の供述を鵜呑みにした結果、SがBの知り合いだったかのような記述も入り、結果的にBが加害者であるかのような誤解を読者に与えかねない内容になり、紙面も整合性を欠いた[報道 19]。翌3月7日付朝刊の社会面・千葉県版双方で「事件はSの単独犯」という事実を報じることができたのは千葉市以西の新聞からであった[報道 19]。千葉県内でも千葉支局と京葉支局で締め切りの時間差があるとはいえ、読者に誤解を与えかねない内容となってしまった[報道 19]

そもそも、予断を持っていたのはマスメディア側だけでなく、千葉県警側もそうであった[報道 19]。前述のように取り調べの当初、Sが「Bとは昔からの友人」と供述したのに対し、Bはショックのためか何も話さなかったため、千葉県警はSの虚偽の供述を鵜呑みにし、2人を友人と判断し、そのまま記者会見でマスメディアに発表した[報道 19]。ある捜査幹部は『朝日新聞』取材に対し、「2人が無関係と分かってからは逮捕前に発表を行うなど、報道陣に誤解を与えないように努めたが、県警にも予断があったことは認めざるを得ない」と述べた[報道 19]

Bに対する報道被害はこれだけでは終わらなかった。事件発覚翌日(Sが逮捕された日)の3月7日朝刊で、『日本経済新聞』と『中日新聞』が(被害者遺族であり、自らもSによる複数回の強姦被害者である)Bを含め一家5人全員を実名報道してしまった[報道 40][報道 8][報道 9]。そのため、Bは自らが加害者であると疑われたばかりか、『日本経済新聞』と『中日新聞』によるセカンドレイプの被害者にもなってしまった(ただし、出典元である各新聞記事には「BがSにより強姦された」という記述はなく、その事実は#関連リンクの最高裁判決文および#関連書籍に基づくものである)。一方で『読売新聞』、『朝日新聞』、『毎日新聞』、『東京新聞』(『中日新聞』と同じ中日新聞社発行)は殺害された4人を実名、Bについては匿名で報道し、『産経新聞』は「両親の名前を書けば、結果として生き残った長女(B)が誰かも特定されてしまう」として一家5人全員を匿名で報道した[報道 40]。Bを実名報道した『日本経済新聞』は、「第一報では警察が長女(B)に疑いを持っている状況だったので匿名にしたが、7日の朝刊段階では長女(B)が完全な被害者であることが判明し、そのことをはっきり示すためにも実名報道の方がいいと判断した。しかし陰惨で気の毒な事件であり、被害者は一刻も事件を忘れたいことだろう。今後の報道の仕方は考えたい」とした[報道 40]。また、事件3日後の3月9日朝にTBSテレビで放送されたワイドショー番組「モーニングEYE」ではBの同級生へのインタビューの中でリポーターがBの実名を口にした[報道 41]。質問に答える同級生もBの実名を何度か言い、それがそのまま放送された[報道 41]。同番組プロデューサーの島崎忠雄は「当然匿名でいくべきケースだったが、VTRの編集で消し忘れた。突発事件の場合には、VTRの仕上がりが放送直前になるから、そういう単純なミスが起きることもある」(同番組ではその後もこの事件について繰り返し取り上げられたが、この「ミス」についての言及はなく)「社内では反省する話し合いの場をもった。ケースによっては番組内でケアすることもあるが、(この時点では)まだ具体的な予定はない」と語ったのに対し、他局のあるプロデューサーは「この場面をハラハラしながら見た」といい、その上で「編集の時間が足りないことはままある。インタビューを撮る前に『こちらはBちゃんと呼びますので、実名を言わないようにしてください』と念を押すなどの工夫が必要だ」と釘を刺した[報道 41]

またスポーツ新聞の中には、事件の主旨とは特に関係ないにも関わらず、長女(B)が養女である点に注目したり、裏付けを取らないまま被害者一家の生活ぶりを報じたものもあった[報道 19]

「Bが最大の被害者だった」(捜査を担当した当時の千葉県警刑事部長の言葉)ことが判明した6日夜、事件直後には『日本経済新聞』『千葉日報』の取材に対し「学校に出てきても慰めの言葉もない」と話していた[報道 8][報道 31]、Bが通う県立高校の担任は「昼間、警察の発表があったにせよ、マスコミの取材はBを犯人扱いしていた」と憤った[報道 18]。また、『朝日新聞』1992年3月10日付朝刊千葉県版に掲載された報道内容検証記事でも、「殺された家族の痛ましさは筆舌に尽くしがたいが、事件を通じて、最大の被害者は1人残された長女(B)だったかもしれない」と締めくくっている[報道 19]

刑事裁判[編集]

過去にSが傷害、強姦、強姦致傷、恐喝、窃盗などの事件を繰り返していた点、Bの目の前でその肉親を殺害し、恐怖と絶望に打ちのめされるBを何度も強姦した残虐性、警察が踏み込んだ際にBに包丁を持たせ、自分が被害者を演じ、取り調べでも「Bと親しい間柄だった」などと虚偽の供述をして容疑を否認した計画性などが、刑事裁判で重く見られた[判決文 1]

起訴前の精神鑑定(1992年3月25日 - 9月上旬)[編集]

送検後の3月25日、千葉地検は「Sの精神状態に異常があるとは考えていないが、慎重を期した」として[報道 42]、3月27日の勾留期限満期を前に[報道 43]、精神鑑定のために3月26日から90日間、Sを鑑定留置することを、千葉地方裁判所に申請し、認められた[報道 43][報道 42][報道 44]

当初の鑑定留置期限は、同年6月25日までの予定だったが[報道 45]、千葉地検はその後、同年9月上旬まで、精神鑑定を延長することを、千葉地裁に申請し、同年6月16日までに認められた[報道 45]

家裁送致(1992年10月1日)[編集]

筑波大学教授(当時)・小田晋が、半年間にわたって精神鑑定を行った[報道 46][報道 47][報道 48]

千葉地検はその結果を踏まえ、10月1日、強盗殺人、傷害など5つの容疑で、「刑事処分相当」との意見書付きで、Sを千葉家庭裁判所に送致した[報道 3][報道 49][報道 50]

逆送致(1992年10月28日)[編集]

4回にわたる少年審判を経て、10月27日、千葉家裁(宮平隆介裁判官)は「事件は社会を震撼させ、世間に多大な影響を与えた」、「Sは成人に近い年長者である」などの理由で、「刑事罰を加えることにより規範意識を覚醒させることが必要」として、Sを千葉地検に逆送致した[報道 3][報道 51]

強盗殺人罪などで起訴(1992年11月5日)[編集]

逮捕直後から半年間にわたる精神鑑定の結果、千葉地検は「カッとなると歯止めが効かなくなるが、完全な責任能力があった」と結論を出した[報道 3][報道 23]。そのため、千葉地検は11月5日、Sを強盗殺人、傷害など5つの罪で千葉地裁に起訴した[報道 3][書籍 11][報道 23][報道 52][報道 5][報道 53]

同日、千葉地検はこれに加え、Sが1991年10月に東京都江戸川区内で起こした別の傷害事件についても、Sを起訴した[報道 5]

余罪の追起訴(1993年2月17日までに)[編集]

千葉地検は、翌1993年(平成5年)2月17日までに、一家殺害事件前の余罪3件(いずれも前述)について、Sを傷害、恐喝、窃盗、強姦致傷の、計4つの罪で追起訴した[報道 54][報道 24]。起訴内容は以下の通り。

  • 1992年2月11日午前4時半頃、Sが東京都内の路上での女性に折り畳みナイフを突き付け、殴るなどの暴行を加えた上、手を切り付けて脅迫し、自宅に連れ込み強姦した、強姦致傷容疑[報道 54]
  • 2月25日、Sが市川市内で通りすがりの会社員男性に因縁をつけて、鉄の棒で頭を殴り、自動車運転免許証を奪い金を要求した、恐喝容疑[報道 54][報道 24]
  • 2月27日、埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)内で通りすがりの大学生の顔を殴り、ナイフで全身数十箇所を刺すなどして全治6週間の怪我を負わせ、運転免許証や車検証などを奪った、傷害・窃盗容疑[報道 54][報道 24]

第一審・千葉地裁[編集]

刑事裁判でSは強盗殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗、傷害、強姦、強姦致傷の7つの罪に問われ[注釈 3]、1991年10月から一家殺害事件直後に逮捕されるまでの約5ヶ月間に、計14の犯罪を繰り返したと認定された[報道 55]

第1回公判(罪状認否、1992年12月25日)[編集]

初公判は1992年12月25日、千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)で開かれた[報道 4][報道 56][報道 57]

被告人Sは、この日行われた罪状認否で、B宅を知るきっかけとなった、強姦事件などについては、全面的に認めた[報道 4][報道 56]

一方、強盗殺人罪の成立を認めたのは、Bの祖母Cに対してのみで、Dは「逃げ出されると思い刺した」と傷害致死、Aは「金は奪ったが殺すつもりはなかった」と強盗致死、Eは「朝起きて騒ぎ始めたので驚いて刺した」と単純殺人を、それぞれ主張した[報道 4][報道 56]

また、C・Eについてはそれぞれ、「死ぬかもしれないと思ったが、確定的な殺意はなかった」として、未必の殺意を主張した[報道 4][報道 56]

公判後の記者会見で、弁護側は「千葉地検に逆送致される際、千葉家裁は我々の主張にほぼ沿う判断をした。検察側が殺意を確定的と主張すれば、全面的に争う」と話し、Sについては「『被害者に何とかお詫びをしたい』といつも言っている」と話した[報道 56]

前述のように、この時点では余罪の追起訴が未完了だったため、検察側はこの日の冒頭陳述は見送り、次回公判の翌年3月3日までに、余罪について追起訴した上で、改めて冒頭陳述を行うことになった[報道 4]

第2回公判(冒頭陳述、1993年3月3日)[編集]

事件から1年を前にした1993年3月3日、千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)で、第2回公判が開かれた[報道 58][報道 59][報道 60]

冒頭陳述で検察側は、Sが常にナイフを持ち歩き、暴力団を装っては金を脅し取るなど、次々と犯罪を重ねていたこと[報道 58]、事件の引き金となった、暴力団員とのトラブルなどについて明らかにした[報道 58][報道 59]

その上で、検察側は「Sは、暴力団員から要求されていた金以外にも、遊興費など欲しさから、一家4人を次々に殺害し、現金約34万円と、残高約420万円の預金通帳を奪った」などと主張した[報道 58][報道 59][報道 60]

また、「Sは事件前、現場マンションを2回下見しており、侵入時には、マンション1階に設置された防犯カメラを避け、外階段で2階に登ってから、エレベーターに乗った」など、計画的な事件だったことを指摘した[報道 59]

その上で、Sが唾を吐きかけられたことに逆上し、Cを絞殺したことや、近所に犯行が発覚しないように、泣き出したEを殺害した際、Bに「妹を楽にさせてやれよ。首を絞めるとか方法があるだろう」と平然と言い放ったこと、Bに血の付いた包丁を握らせたことなど、残忍な事件の様相も明らかにした[報道 59]

この時点では、弁護側は「検察側による精神鑑定の結果には疑問がある」としつつも、再度の精神鑑定は求めず、Sの責任能力は争わない考えを示し[報道 58][報道 60]、その上で「今後は被害者に対する反省の態度など、情状面での立証に全力を挙げたい」と表明していた[報道 58][報道 59]

千葉地裁は当初、次回公判(第3回公判・5月19日)に証拠調べ・被告人質問[報道 58]、第4回公判(5月26日)で弁護側の情状立証[報道 58]、6月21日に検察側の論告求刑公判を行い[報道 47]、6月中に結審することを予定していた[報道 58]

第3回公判(精神鑑定の採用、1993年5月19日)[編集]

1993年5月19日、第3回公判が開かれた[報道 61][報道 62][報道 47]

同日までに[報道 61][報道 62][報道 47]、それまでの方針と一転して弁護側は、「同年2月18日に追起訴された、傷害や恐喝など、別事件については、いずれも常人の理解を超えている」と主張し[報道 62]、「捜査段階での精神鑑定は精神的な面が主だったが、犯罪心理面からの鑑定が必要である」として、精神鑑定の結果に対し、異議を唱えた[報道 47]。その上で、上智大学心理学教授(当時)・福島章に委嘱した上で、約半年間、再度の精神鑑定を実施することを、千葉地裁に請求した[報道 62][報道 47]

検察側は、「起訴前に半年間にわたって、詳細な精神鑑定を実施しており、再鑑定の必要性はない」と、反対意見を述べたが[報道 61][報道 62][報道 47]、いったん休廷し、3人の裁判官が合議を行った[報道 61]

その結果、神作裁判長は「これまでに精神医学的観点から鑑定は十分に時間をかけて行ってきたが、犯罪心理学から見たSの精神状態を見る意味でも鑑定を実施する」として[報道 61]、弁護側の請求を認める決定をした[報道 61][報道 62][報道 47]

千葉地検は、残虐な少年犯罪として、捜査段階で、約8か月に及ぶ精神鑑定を実施し、慎重を期した上で起訴したが、結審間近の公判中に、別の角度から再度の精神鑑定が行われる、異例の展開となった[報道 61]。また、この決定により、再鑑定に半年を要することとなり、6月21日に予定されていた論告求刑公判期日も取り消され、公判の長期化は必至となった[報道 47]

同日の公判では、続いて被告人質問が行われた[報道 47]

Sは、C・E両名に対する殺意について、それぞれ認める供述をした[報道 62]。一方で、A・D両名への殺意については「その時は殺すつもりはなかった。背中を刺して死ぬとは思わなかった」と否認した[報道 47]。その一方で、Sは「なぜこんな事件を起こしたのか」と問いかけられたのに対し、「短絡的でした」と、反省の言葉も述べた[報道 47]。検察側・弁護側双方による被告人質問の中では、「Sは、最初にCを絞殺した直後、一旦マンションを出て、自販機でジュースを買って飲んだ」、「その後現場に戻り、帰宅したDを、Bの目の前で刺殺し、2人の遺体が転がるマンション内で、Bと食事をした」など、事件の異常さを明らかにする、新事実も明らかになった[報道 47]

弁護側はこの日、情状証拠として、Sが被害者遺族の関係者宛てに書いた謝罪の手紙、またA一家とは別の事件被害者に対して支払った、50万円近い被害弁償を証明する領収書などを、それぞれ証拠申請した[報道 47]

2度目の精神鑑定(1993年5月 - 11月)[編集]

福島により、5月から11月までの約半年間にわたって、2度目の精神鑑定が行われた[報道 48]

その結果、1993年11月20日までに、新たな鑑定結果が、千葉地裁に提出された[報道 48]。「Sの母親Y子が、妊娠中に流産予防のため、黄体ホルモンを約2カ月間服用した。その胎児に対する男性化作用により、出生したSは攻撃的な性格になり、突然感情を爆発させる『間欠性爆発性精神病質』で、周期性気分変調と診断される。軽度の脳器質障害も見られ、興奮状態になる精神的な不安定さを有しているが、こうした心理・精神状態は中高年、30歳代で矯正可能」などという内容だった[報道 48]

起訴前、検察側の依頼で行われた小田の鑑定と異なり、福島の鑑定はSの矯正可能性に重点を置いた点が特徴だった[報道 48]

第4回公判(鑑定結果取調べ、1993年11月22日)[編集]

1993年11月22日、前回公判から約半年ぶりに公判が再開され、第4回公判が開かれた[報道 46]

同日、証拠調べが行われ[報道 46]、福島による再鑑定の結果に加え、検察側が提出した被害者遺族の尋問調書などが、証拠として取り調べられた[報道 46][報道 63][報道 64]

再鑑定の内容は、検察側の依頼により、起訴前に鑑定を行った小田の鑑定と同様、「Sは精神疾患ではなく刑事責任は問える」とした一方で、「心身成熟過程にあり精神的に不安定な性格異常だが、19歳は心身の成熟過程にあり、今後人格の改善の可能性がある」というもので、弁護側はこれを「情状面で有利な資料」と見た[報道 46][報道 63]。鑑定を担当した福島は、Sと直接面接した際の印象を、「率直で正直な態度で、素朴な好青年と感じた」とし、また「Sは事件について強い後悔と羞恥心を持ち、被害者に対する哀悼の気持ちを抱いていると感じた」と述べた[報道 63]

一方、検察側が同年8月、Bに対して行った尋問調書も、この日証拠採用されたが、関係者によれば「Bはこの中で、量刑などについてSに極めて厳しい意見を述べている」という[報道 63]

この日の公判後、弁護人は記者会見で、「Sは、通常時・犯行当時ともに、精神的には正常であり、性格に偏りがあるにすぎないが、尿酸値が高いという体質的要素から、自分の感情をコントロールする能力と、刺激に寄って我を忘れやすくなる性格が結びついている」と述べた[報道 64]。その上で、弁護側は「これまでの司法判断で言えば刑事責任能力は取れるが、今回は体質的な要素や、その要素は年をとるにつれて改善されるものであることを考慮して犯行当時未成年であったSの情状酌量をすべきである」と主張した[報道 64]

次回の第5回公判(翌1994年1月31日)で情状証人尋問を行い[報道 46]、Sの母親Y子が弁護側の情状証人として出廷すること[報道 64]、第6回公判(2月23日)で論告求刑を行い、3月に最終弁論を行った上で、4月に判決公判を開く予定が決定した[報道 46]

第5回公判(情状証人、1994年1月31日)[編集]

翌1994年(平成6年)1月31日、第5回公判が開かれた[報道 65]

同日、証人尋問が行われ、Sの母親Y子が、弁護側の情状証人として出廷した[報道 65]

Y子は、前回公判で弁護側が提出した、精神鑑定の結果について、「妊娠中に常用していた黄体ホルモンが影響し、Sの性格が攻撃的なものになったと聞いて驚いた。家庭の事情による度重なる転校で、学校でのいじめもあったようだ」と証言した[報道 65]

この後、被告人質問が行われ、Sは「犯行当時は自分の行動が理解できなかった。今は(当時Sが収監されていた)千葉刑務所拘置区内で聖書を読むなど、心を落ち着かせている」と語った[報道 65]

次回公判(2月23日、第6回公判)は、論告求刑を予定していたが、予定を変更し、同日にそれぞれ最後の被告人質問・証拠調べを行った上で、3月14日に、改めて検察側の論告求刑を行うこととなった[報道 65]

第7回公判(被告人質問、1994年3月14日)[編集]

1994年3月14日、第7回公判が開かれた[報道 66]

同日の公判では、当初の論告求刑の予定を変更し、被告人質問が行われた[報道 66]

Sは、犯行に至った経緯や心境、取り調べ状況などについて質問を受け、「事件当初は空き巣目的で、計画的な強盗ではなかった」などと強調した[報道 66]

この日の公判で、証拠調べが終了し、次回公判(第8回公判、4月4日)で、検察側の論告求刑を行うこととなった[報道 66]

前述した通り、論告求刑公判は当初の予定では1993年6月21日だったが[報道 47]、1994年2月23日[報道 46]、同年3月14日[報道 65]、そして同年4月4日と、結果的に3度にわたり予定が変更された[報道 66]

論告求刑まで[編集]

検察側は論告求刑を前に、自己中心的かつ短絡的な動機、現場マンションを事前に下見するなどの計画性、事情が分からないまま、ベッドの上で泣き出したEを、Bの目の前で刺殺するなど、残虐極まりない犯行の態様などを踏まえ、「犯行に斟酌すべき点はなく、残虐な犯行により4人の生命を奪った刑事責任は重大だ」と考え、計7回の公判で立証は十分になされたとした上で、被害者遺族であるBの心情を踏まえ、上級庁である東京高等検察庁とも慎重に協議を済ませ、後述の死刑求刑に臨んだ[報道 67]

一方の弁護側は、起訴事実に対して「被害者が外に逃げ出したり、声を出したりするのを恐れて刺した」として確定的殺意を否定し、強盗殺人罪の成立はCのみで、Aは強盗致死罪・Dは傷害致死罪・Eは単純殺人罪の適用が相当だと訴え、また前述の精神鑑定の結果や、不遇な生育環境によりSの暴力的性格が形成されたことなどを主張し、その上で被害者への永代供養料支払いや別事件被害者らへの示談成立などの情状を訴えた[報道 67]

第8回公判(論告求刑、1994年4月4日)[編集]

1994年4月4日、千葉地裁(神作良二裁判長)で、第8回公判となる論告求刑公判が開かれた[報道 68][報道 69]。検察側はSに対し、死刑を求刑した[報道 69][報道 70][報道 71][報道 72][報道 73][報道 74]。少年犯罪に対する死刑求刑は異例で[報道 74]、1989年1月・名古屋アベック殺人事件の第一審(名古屋地裁)以来だった[報道 69][報道 68]

検察側は論告で、まず他事件の事実関係について述べ、次いで一家殺害事件の詳細に入り、「Cの首を、舌骨などが折れるほど、電気コードで絞めつけたり、刃渡り22.5cmの包丁で、Dの背中を5回も刺し、A・Eも深さ十数cmの傷で刺殺していることから、極めて強い攻撃を加えたと断定できる。Eを殺害する際にも、Bに『妹を楽にさせてやれ』などと言い放ったことから、未必の故意ではない」として、被害者4人全員への確定的な殺意・強盗殺人罪の成立を主張した[報道 73]

また、Sの責任能力についても、「2度の精神鑑定から、弁護側が主張するような精神疾患の兆候は全く認められない」として、Sの完全責任能力を認めた[報道 73]

その上で、犯行動機・態様について「Sは金欲しさから手段を選ばない、自己中心的な動機から、下見をするなどした上で計画的に被害者宅に押し入り、何ら落ち度のない4人を、虫けらを殺すかのように殺し、わずか半日でマンションの一室を死屍累々の地獄にした」と主張した[報道 69][報道 73]

そして検察官は、被害者の断末魔の苦痛を代弁し、「一家4人が非業の死を余儀なくされ、特に妻Dは娘2人の生命を気遣い、まさに死に切れぬ思いでこの世を去った。Aも可愛い娘たちを守ることができず、その恐怖・驚愕・断腸無念の思いは筆舌に尽くしがたい」と犯行を厳しく非難し[報道 73]、尋問調書でBが述べた、「今でも両親らとの楽しかった思い出を夢に見る。私から大切なものをすべて奪ったSが憎くてたまらない。Sをこの手で殺してやりたい、この世に生きていてほしくない。許されていいはずがない」「優しかった父母や祖母、自分に『お姉ちゃん』と甘えてかわいかったEをなぜ殺した。家族を返せ」などという言葉も読み上げた[書籍 1][報道 73][報道 71]

そして、約1時間に及んだ論告の最後に、検察官は「一連の犯行は全てSの単独犯行であり、少年犯罪にありがちな集団を形成し、相互に同調し合って重大事件を引き起こした場合とは、性格が異なる」と断言した上で、警察が駆け付けた際にBに包丁を持たせて逃走しようとし、Bが犯人であるかのように装おうとした悪質さも指弾した[報道 74]

その上で、「本件は計画強盗事件の凄惨な結果であり、犯行は残忍、冷酷、卑劣の極みであって誠に悪質[報道 70]。少年に対する極刑の適用はとりわけ慎重になされるべきであることを考慮しても[報道 73][報道 70]、被害感情や動機、犯行態様、被害者数など、永山基準で示された死刑適用基準をすべて満たしていることから明らかなように、Sの刑事責任は誠に重大で[報道 73]、情状酌量などにより罪一等を減ずる余地は一片も見出すことはできない[報道 73][報道 70]。罪刑の均衡と犯罪予防の見地から、命をもって罪を償わせ、今後このような凶悪犯罪が起きないようにすることが司法に課せられた責務だ」とした[報道 73][報道 71][報道 74]

公判後に記者会見した、主任弁護人・奥田保弁護士は、「生育環境など同情すべき事情や矯正の可能性を評価せず、意外な求刑だ。少年法の精神にも、死刑廃止の動きにも逆行する」と述べ[報道 69][報道 71][報道 73]、『日本経済新聞』『千葉日報』の紙面にも「最近の死刑廃止の動きに逆行する求刑だ。被害者や遺族には申し訳ないと思うが、当時少年のSには矯正の可能性があり、少年法の精神からして厳しすぎる」という奥田の談話が掲載された[報道 69][報道 72]

第9回公判(追加の証拠調べ、1994年4月27日)[編集]

1994年4月27日、第9回公判が開かれた[報道 75][報道 76][報道 77]

同日、弁護側の最終弁論が行われる予定だったが、弁護側はこの日の公判で、「事件当時少年の被告人に対して行われた死刑求刑に対し、死刑制度の是非という大局的な見地での判断を仰ぎたい」との考えから、「死刑制度のありかたそのものについて」問いかける内容の、弁護側立証を行うことを、同月15日までに決めた[報道 75]。千葉地裁もこれを認めたため、最終弁論は延期されることとなった[報道 75]

この日の公判では、弁護側が新たに証拠調べを要求し、被告人質問・証拠調べを行った[報道 77][報道 76]。その結果、Sの死刑求刑後の心情などについて、追加で被告人質問が実施されたほか、死刑廃止を求める動きを報じる新聞記事などが証拠採用された[報道 76]

被告人質問でSは、死刑求刑に対し「自分の犯してしまった罪の重さを痛切に感じている」と心境を述べた[報道 77]。また、Sは死刑求刑以降、拘置所で監房を変えられ、シーツの使用やタオル、鉛筆の所持など、以前より生活に制限があることを明らかにしたが、検察側の「変わったことは、あなたのことを思っているのですよね」との質問に、「理解できます」と答えた[報道 77]

証拠提出で、弁護側は「検察側が起訴前に精神鑑定を依頼した小田晋教授は、鑑定前から週刊誌の記事上で『死刑を適用すべき』と言及するなど偏見があり、信憑性がない」と反論した[報道 77][報道 76]

さらに、死刑廃止に向けた超党派の国会議員の連盟「死刑廃止推進議員連盟」の結成など、死刑制度の在り方を問う、社会的な流れがあることを主張した上で[報道 77][報道 76]、Sの母Y子からの、情状酌量を求める上申書2通などを含めて証拠申請し、いずれも証拠採用された[報道 77][報道 76]

第10回公判(弁論、1994年6月1日)[編集]

1994年6月1日、第10回公判が開かれた[報道 78][報道 68]。同日は改めて、弁護側の最終弁論が行われた[報道 78][報道 68]

弁護側は、「Cに対する殺意は、未必の故意である。A・Dについては、殺意はなく強盗致死である。E殺害は、未必の故意による単純殺人である」と主張し、被害者4人への確定的殺意・C以外3人への強盗殺人罪の成立を、いずれも否認した[報道 78][報道 79]

また、責任能力については、福島の精神鑑定に基づき「Sは爆発型精神病質・類転換病質で、犯行当時は心神耗弱状態だった」と主張した[報道 78][報道 79]

その上で、情状面についても「各被害者への示談成立・供養をしている」、「死刑廃止は先進国際社会の常識で、死刑制度がある先進国は日本以外ではアメリカ合衆国の一部州のみである」[報道 78][報道 79]、「少年法で18歳未満の少年への死刑適用は禁じられているが、Sは犯行当時19歳で、わずか1年1か月しか違わない」[報道 78][報道 79]、「事件は計画的なものでなく、Sは当時精神未発達の少年だった」「(実際には前述の通りBはSによって監禁されていたにも拘らず)被害者はSの犯行の合間に警察に通報する機会があった」「少年時代Sは不幸な生育環境にあった」「Sは深く反省し矯正する可能性が高い」などとして[報道 80]、死刑回避・情状酌量による無期懲役の適用を求めた[報道 78][報道 80][報道 79]

最後にSは、神作裁判長から「何か言いたいことはあるか」と問われ、「大変な事件を起こして申し訳ない。私が命を奪った方々は戻ってこないけれど、私はこれから生きていく中で少しでも償うように過ごしていきたいと思っている」と涙声で述べ、結審した[報道 78][報道 80][報道 79]

第11回公判(判決、1994年8月8日)[編集]

1994年8月8日に判決公判が開かれ、千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)は検察側の求刑通り、Sに死刑判決を言い渡した[判決文 1][書籍 1][書籍 11][報道 81][報道 82][報道 83][報道 84][報道 85][報道 86]

犯行当時少年への死刑判決は、永山則夫連続射殺事件に対する1990年の最高裁判所・第二次上告審判決(差し戻し控訴審の死刑判決を支持し、永山則夫被告人の上告を棄却)以来であり、第一審では1989年の名古屋地裁名古屋アベック殺人事件判決(控訴審で破棄・無期懲役が確定)以来であった[報道 85][報道 83][報道 82][報道 84][報道 86]

判決の事実認定では、Eに対する殺害行為のみ「既に強盗行為はこの時点までに終わっていた」として強盗殺人罪ではなく、Sの弁護人の主張を認め単純殺人罪と認定したが[報道 81][報道 83][報道 82][報道 85]、それ以外の事実認定は検察側の主張にほぼ沿った内容で、Bの両親については「公判での証言などからAへの殺意は明白。Dの死も予見が可能だったのに、何ら救命措置を行わず金品強奪を企てた」などとして、C同様強盗殺人罪を認定した上で[報道 81][報道 83][報道 82][報道 85]、弁護側の「殺意は未必の故意もしくは不確定」という主張を退け、4人全員に対しいずれも確定的な殺意があったと認定した[報道 81][報道 85][報道 83][報道 82][報道 84]

弁護側は、「Sの胎児期に、母親が流産予防薬として服用した黄体ホルモンの影響で、Sは『爆発的精神病質者』であり、犯行当時は心神耗弱状態だった」と主張していたが[書籍 1]、これに対して千葉地裁は「2度の精神鑑定から、心神耗弱だったと断言するのは困難。また『爆発的精神病質者』との鑑定があるが、責任能力に支障をきたすほどではなかった」として退け、責任能力は問題なくあったと結論付けた[報道 81][報道 82]

次に、量刑の理由の中では「国際的にみると、それぞれの国の歴史的・政治的・文化的その他の事情から、現在死刑制度を採用していない国が多く、我が国においても一部に根強い死刑反対論がある」として、死刑事件では初めて死刑制度を巡る国内外の議論について言及し、国内外の死刑廃止論の高まりを認めた一方で「死刑制度が存置している現法制下で、死刑は極めて抑制的に適用されており、生命は尊いものであるからこそ、自己の命で償わなければならないケースもある。少年犯罪についても異なることではない」と述べられた[報道 81][報道 85]。その上で、千葉地裁は死刑適用に当たり、永山則夫連続射殺事件における1983年の最高裁判所判例「永山基準」を引用した上で[報道 85][報道 84]、「何の落ち度もない一家4人の命を奪った犯行は、意に沿わないものは人の命でも奪うという自己中心的、反社会的なもの。殺害ぶりも終始冷静、冷酷非道で、社会に与えた衝撃は計り知れない」[報道 83][報道 85]「犯行は残虐、冷酷で身勝手[報道 82]。国内外でも死刑廃止の声が根強いが、いくら人を殺しても本人の命は保証される結果になる死刑廃止には多くの国民が疑問を抱いている[報道 84]。犯行当時少年とはいえ、Sは犯行当時は民法上成年とみなされる19歳の年長少年であり、Sは肉体的にも十分成熟して社会経験も積んでおり、知能も中位で、酒やたばこを常用するなど生活習慣も成年と変わらない[報道 84][報道 82][報道 83][報道 85]。少年に対する極刑の適用は慎重に行われるべきだが、多数の命を奪った責任を命をもって償うしかない場合もある[報道 84]。深く反省していることや、事件当時精神的に未熟な少年だったこと、不遇な家庭環境など、Sに有利な情状を考慮しても、罪刑均衡と一般予防の見地から極刑をもって臨まざるを得ない」などと、判決理由で述べた[報道 82][報道 84][報道 85]。「Sは深く反省し被害者の冥福を祈るなど、更生の余地がないとは言えないが、目の前で家族を次々に殺され、一人遺されたBの被害感情は峻烈で被害は回復不可能だ」とした[報道 81][報道 83]。死刑廃止を求める議論が活発になっていた当時、世論の注目の中での犯行当時少年に対する死刑判決は、その後の刑事裁判にも影響を与えるものだった[書籍 33]

この死刑判決について、中央大学教授(当時)の渥美東洋は「自己目的の完遂に他人の犠牲をいとわぬ犯行で、19歳への死刑適用は合法であり当然。家族すべてを失い、ただ一人生き残った長女Bが『あんな男は生きていてほしくない』と語ったように、Sを死刑にしなければ被害者遺族は更に苦しむことになる」として、被害者の立場からこの判決を評価した[報道 81]。事件発生時にSを実名報道した『週刊新潮』の副編集長(当時)・宮沢章友は「無辜の人を冷酷に殺していく犯罪に、少年だからという理由で保護すべき要素は微塵もない」と振り返った[報道 81]。一方、アムネスティ・インターナショナル日本支部の岩井信は「死刑廃止論が高まる中、あえて少年に死刑を科するなら、裁判所はその理由を積極的に示すべきだ」と述べ、名古屋アベック殺人事件の主任弁護人を務めた安田好弘も「死刑判決を出すのは被害者感情からもかんたんだ。しかしそこから社会が学ぶものは何もない。大人社会が少年を絞首刑にするのに、10回の公判で何ができたのか。法廷で少年が心を開いたとは思えない。犯行へ至る心のひだを解明すべきだ」と、死刑の是非以前に裁判そのものに疑問を呈した[報道 81]

控訴[編集]

Sと弁護人は、判決を不服として、閉廷後の同日午後、東京高等裁判所に即日控訴した[報道 81][報道 87][報道 88][報道 89]

控訴審・東京高裁[編集]

控訴審における弁護側主張[編集]

東京高等裁判所での控訴審で、弁護側は「未必の故意だったり、Sには殺意がないのに、原判決は確定的な故意があると認定している」として、殺意の面で第一審判決には事実誤認があると主張した[報道 90][報道 91]

また、第一審における「爆発的精神病質者」という主張については、更にアメリカ合衆国の心理学者の論文を添えて補強し、完全責任能力を否定した[書籍 1][報道 91]

その上で弁護側は、世界的な死刑廃止運動や、18歳未満への死刑適用を禁じた少年法の趣旨を強調した上で、「Sは犯行当時、精神年齢は18歳未満で、少年法の精神に照らせば死刑を適用することはできない[報道 92][報道 91]。『爆発的精神病質者』であるという精神鑑定結果や、深い反省の意を示していることなどから、死刑判決を破棄して無期懲役とするのが相当」と主張していた[報道 93][報道 90]

控訴審判決公判(1996年7月2日)[編集]

1996年(平成8年)7月2日の控訴審判決公判で、東京高裁(神田忠治裁判長)は、第一審の死刑判決を支持し、Sの控訴を棄却する判決を言い渡した[判決文 2][報道 94][報道 92][報道 93][報道 90][報道 95][報道 91]

東京高裁は「犯行当時は少年であり、年齢を重ねれば教育によって改善の可能性はある」と、Sに対して有利な情状も認めたが[報道 93][報道 95][報道 91]、その一方で「動機、殺害方法、殺害された被害者数に照らして責任は誠に重大である。特に、幼くして命を奪われた幼女(E)には深い哀れみを禁じ得ない」[書籍 11]「弁護側の主張する『黄体ホルモンの影響による心神耗弱』の根拠である学者の研究は、あくまで性格的な傾向を見るにとどまり、攻撃性の異常な増加を示してはいない」[報道 91]「被害者の傷の深さや、犯行後に救命措置を考えていないことなどから原審の殺意の認定は正当である」[報道 90]「(Sが犯行当時『爆発的精神病質者』であったとする主張に対しては)犯行当時Sは異常な心理状態にあったとは考えられず、自分より強い者には衝動を抑制し、弱い者には抑制しないなど自己の攻撃行動を区別している[報道 90][報道 91]。一家殺害の際もむしろ状況に応じた冷静な行動を取っており、行動制御能力に著しい減退はなかった[報道 92][報道 90][報道 93][報道 91]。Sは粗暴な犯行を重ねており、自己の衝動や攻撃性を抑制しようとしない危険な傾向が顕著である[報道 95]」「犯行当時19歳の少年だったこと、深い反省をしているなど、被告人の有利な事情を十分に考慮し、死刑が究極の刑罰であることを考えても、犯した罪の重大性を見ると犯行は卑劣で残虐であり、生命に対する畏敬の念を見い出せない。その罪の重大性から死刑に処すのはやむを得ない」など、判決理由を述べた[報道 92][報道 90][報道 93][報道 95][報道 91]

Sの弁護側は判決を不服として、即日最高裁判所上告した[報道 94][報道 92][報道 90][報道 93][報道 91]

上告審・最高裁第二小法廷[編集]

上告審口頭弁論公判期日指定(2001年3月5日まで)[編集]

最高裁判所第二小法廷(亀山継夫裁判長)は、事件発生から丸9年となる2001年(平成13年)3月5日までに、上告審口頭弁論公判開廷期日を4月13日に指定し、関係者に通知した[報道 96][報道 97][報道 98][報道 99]

上告審口頭弁論公判(2001年4月13日)[編集]

2001年4月13日、最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれた[報道 100][報道 100][報道 101][報道 102][報道 103][報道 104][報道 105]。控訴審で死刑判決を言い渡された犯行当時少年の被告人に対する最高裁での審理は、永山則夫の第二次上告審以来だった[報道 100][報道 103]

弁護側は、精神科医の鑑定結果から、「幼児期に父親から受けた激しい虐待が心的外傷となり、人格の同一性が混乱する解離性障害となり犯行に繋がった」として、新たな主張を展開した[書籍 34]。その上で、「胎児期に流産予防のために投与された黄体ホルモンの影響など、複合的要因が重なり、行動制御能力が著しく劣った、心神耗弱状態であった」と強調し、「死刑は残虐な刑を禁じた日本国憲法第36条に違反し、とりわけ少年への適用は許されない」、「少年の成熟の度合いは個人差がある。Sは犯行当時19歳だったが、18歳を1年超えているからといって死刑を科すべきではない。矯正可能性がある少年への量刑は、慎重かつ抑制的であるべきだ」として[書籍 34]、死刑判決を破棄するよう求めた上で、無期懲役への減軽・もしくは審理の差し戻しが妥当だと主張した[報道 100][報道 101][報道 102][報道 103][報道 105][報道 104][書籍 34]

一方、検察側は「量刑不当は単なる事実誤認であり、とても上告理由とは認められない。自分より弱い者に向けられた、冷酷で残虐な行為は、とても許されるものではない。被害者に全く落ち度はなく、生き残った少女(B)も被告人(S)の極刑を望んでいる。一・二審の死刑判決は正当であり、上告は棄却されるべきである」として、被告人S・弁護人の上告棄却を求めた[報道 100][報道 101][報道 102][報道 103][報道 105][書籍 34][報道 106]

公判を傍聴した永瀬隼介によれば、弁護側の「脳科学の知識を踏まえた上で改めて審理すべきである。また、Sは4人の被害者に対して、『どんなに謝っても取り返しのつかないことをしてしまった』と悔いている」という主張はさして耳目をひくような事柄ではなく、「全く説得力のない弁護の連続」に、法廷内は「白けた空気が充満した」という[書籍 34]。その中で、唯一傍聴席が反応した場面は、女性弁護人が虐待の場面を述べた場面であったといい[書籍 34]、その弁護人は熱っぽい口調で、「父親からまるでマイク・タイソンのラッシュ攻撃のように殴られ、全身が痣によって赤紫色の世界地図のようになってしまった。これでは大好きなプールにも行けない、と泣いたこともあった」と語ったが、「芝居っ気たっぷりに語られた、タイソンと世界地図の比喩が妙におかしく、傍聴席からは失笑が沸いた」という[書籍 34]

上告審判決公判期日指定(2001年11月13日まで)[編集]

当初は同年夏までに判決が言い渡される見通しだと思われたが[報道 100][報道 103][報道 104]、最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)は、同年11月13日までに、上告審判決公判開廷期日を、12月3日に指定し、関係者に通知した[報道 107][報道 106]

上告審判決公判(2001年12月3日)[編集]

2001年12月3日、上告審判決公判が開かれ、最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)は「Sは暴力団関係者から要求された金銭を工面するために強盗殺人を犯し、動機に酌量の余地はない。犯行は冷酷かつ残虐で、自らも被害者となった遺族(B)の被害感情も非常に厳しい」「4人の生命を奪った刑事責任は極めて重大で、Sの犯行当時の年齢などを考慮しても死刑はやむを得ない。弁護側の主張は適切な上告理由に当たらない」として、一・二審の死刑判決を支持し、Sの上告を棄却する判決を言い渡した[判決文 3][報道 108][報道 109][報道 21][報道 110][報道 55][報道 68][報道 111][報道 112][書籍 11][書籍 35]。これにより、Sの死刑が確定することとなった[報道 108][報道 109][報道 21][報道 110][報道 55][報道 68][報道 111][報道 112]

犯行当時少年だった被告人に言い渡された死刑判決が確定するのは、1990年に最高裁で死刑が確定した、永山則夫連続射殺事件の永山則夫以来、最高裁が統計を取り始めた1966年以降では9人目で[報道 108][報道 109][報道 21][報道 110][報道 55][報道 68][報道 111][報道 112]、平成に入って発生した少年犯罪では初めてであった[書籍 2]。事件当時19歳の少年だったSは28歳になっていた[報道 108][報道 109][報道 21][報道 110][報道 55][報道 68][報道 111][報道 112]

死刑判決確定(判決訂正申し立て棄却、2001年12月)[編集]

Sは判決を不服として、最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)に対し、判決訂正申し立てを行ったが、この申し立ては、同小法廷が2001年12月21日までに下した決定により、棄却された[報道 113][報道 114][報道 115][報道 116][報道 117]

これにより、犯行当時少年としては永山以来となる死刑判決が確定した[報道 113][報道 114][報道 115][報道 116][報道 117]

死刑確定前後から死刑執行まで[編集]

最高裁判決期日の2001年12月3日までに、Sは中日新聞社に手記を寄せ、判決を伝える『中日新聞』・『東京新聞』両紙それぞれの、2001年12月4日朝刊記事で、その内容が掲載された[報道 109][報道 21][報道 118][報道 119]。手記の中で、Sは「二度の死刑判決を受け、生き恥を晒し続けて、自分の家族にさえ迷惑をかけるより、とっとと死んで消えてなくなりたい、それで早く生まれ変わって新しくやり直す方がどんなにか楽だろうと、安易な自暴自棄に陥っていた頃もあった」、「そんな僕を見た多くの人から『死んでおしまいなどというのはずるい』『生きて償うべきだ』と言われ、生きていなければ感じられない苦しみを最後の瞬間まで味わい続けようと改めて決意した。何もできないまでも、最後まで生き抜いて罪を贖える方法を模索したい」、「僕の経験を反面教師として役立ててもらえば、この世に生まれてきたことに少しでも意味があったと言えるかもしれません」などと、当時の心境を吐露していた[報道 21][報道 118][報道 119]。関係者によれば、Sは死刑確定を覚悟しつつも、判決までの数日間は落ち着かない様子だったという[報道 21]。なお、この手記は最高裁判決から9年後の2010年11月28日、裁判員裁判で初めて犯行当時少年の被告人に死刑判決が出た(石巻3人殺傷事件。2016年判決確定)ことについて触れた『中日新聞』朝刊のコラム「中日春秋」および、『東京新聞』朝刊のコラム「筆洗」でも引用された[報道 120]

なお、「死刑廃止の会」(2006年当時)による[書籍 5][注釈 4]、1993年3月26日以降の死刑囚についての調査(2006年9月15日付)によれば、東京拘置所収監されていたSは[書籍 37]、2005年8月1日から2006年9月15日までに、再審請求を起こした[注釈 5][書籍 5]。後述のように、死刑執行時点でSは、犯行当時の責任能力の有無を争い[報道 121]、第三次再審請求中だったが[報道 122]、具体的な請求内容・時期などの詳細は不明のままである。

Sは死刑執行まで、弁護人を務めていた一場順子弁護士と、2カ月に1回ほど面会していた[報道 123][報道 124]。生前、Sと一場が最後に面会したのは、2017年10月末で、Sは死刑執行まで、新聞をよく読んでいたといい、一場はSに対し、小説『ハリー・ポッターシリーズ』や、雑誌を差し入れていたという[報道 123][報道 124]。面会時、Sは一場と、気候・体調など、たわいもない話をすることが多く、本人も落ち着いていた様子だったが、一場曰く、以前は「事件の情景が四六時中よみがえる。(殺害された被害者)4人がいつも自分にくっついていて、『おまえのことを許せない』と言っているようで苦しい」と打ち明けたこともあったという[報道 121][報道 123][報道 124]

死刑執行[編集]

2017年(平成29年)12月19日、法務省法務大臣上川陽子、同年12月15日付署名)の死刑執行命令により[声明 1]、収監先の東京拘置所[声明 1]、当時第三次再審請求中だった死刑囚S(44歳没)に対し[報道 122]死刑が執行された[声明 1][報道 2][報道 16][報道 122][報道 125][報道 119][報道 126][報道 10][報道 11][報道 12][報道 13][報道 14][報道 15][報道 16][報道 124][報道 127][報道 128]

同日には、同じく東京拘置所にて、1994年に群馬県安中市で3人を殺害し、死刑が確定した殺人事件の死刑囚に対しても、死刑が執行された[報道 10]

犯行当時少年だった死刑囚(少年死刑囚)に対し、死刑が執行されたのは、1997年に死刑が執行された永山則夫以来、20年ぶりのことで[報道 129][報道 130][報道 131][報道 121]、法務省が死刑執行について、事案の概要などを公表するようになった2007年12月以降では、これが初の事例だった[声明 1]

また、再審請求中の死刑執行は、避けられる傾向が強く、近年では、1999年12月(長崎雨宿り殺人事件の死刑囚を死刑執行)以来なかったが、同年7月にスナックママ連続殺人事件の死刑囚に対し、金田勝年法務大臣の命令で死刑が執行されて以来、2回連続で、再審請求中の死刑囚が執行されたケースとなった[報道 121]

法務省関係者によれば、Sは第三次再審請求中で[報道 122]、弁護人の一場順子弁護士曰く、「解離性障害の可能性から、犯行当時の刑事責任能力の有無を争って」再審を請求していたというが[報道 121]、法務省関係者によれば「実質的に同じ理由で再審請求を繰り返していた」という[報道 122]

同日、執行を発表する記者会見の際、上川は「再審請求中だからといって、(死刑を)執行しないという考え方はとっていない」と述べた上で、犯行時少年に対する死刑執行については、「個々の死刑執行の判断に関わるため、個人的な考え方については発言を控える」と述べた[声明 1][報道 122]

死刑執行に対する反応[編集]

事件当時少年で、再審請求中だったSの死刑執行を受け、さまざまな反応が示された。

否定的な反応[編集]

  • 「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(フォーラム90)は同日、「まだ成長過程にあり更生の可能性のある少年への死刑執行は許されてはならない」、「再審請求中の死刑執行は、けっして許されてはならない」などの抗議声明を発表した[声明 2]
  • 日本弁護士連合会(日弁連)も、中本和洋会長名義で同日、「死刑執行に強く抗議し、改めて死刑執行を停止し、2020年までに死刑制度の廃止を目指すべきであることを求める会長声明」を発表した[声明 3]
    • 日弁連死刑廃止検討委員会事務局長・小川原優之は、「犯行当時少年の場合、判断能力が成人より劣っている上、家庭環境や、社会の影響も強く受けている。事件の責任を個人に負わせるのは相当ではなく、死刑を執行すべきではない」「死刑確定者も、犯人性への疑いだけでなく、責任能力に問題があったり、死刑が相当かどうかだったりと、さまざまな論点で再審を請求している。そうした人々から、裁判で争う機会を奪うのも問題だ」として、少年死刑囚・再審請求中の死刑囚に対し、死刑を執行することに反対する意見を述べた[報道 132]
    • 千葉県弁護士会(会長:及川智志)も、翌12月20日付で、同じく死刑執行に抗議する声明を発表した[声明 4]
  • 駐日欧州連合(EU)代表部も同日、東京に大使館を置く26加盟国、アイスランドノルウェー大使館と共同で、「死刑は残酷かつ非人間的で、犯罪抑止効果は全く証明されていない。(裁判の)誤審も免れない」として、日本政府に対し、死刑執行停止を促す声明を発表した[報道 121]

肯定的な反応[編集]

  • 犯罪被害者支援弁護士フォーラム(VSフォーラム)は同日、共同代表の杉本吉史山田廣両弁護士名義で、「死刑制度は最高裁判例でも合憲とされている制度」、「法律に従い、執行されるのは当然のことであり、執行に反対することは法律を遵守しなくても良いと述べていることと同じこと。法治国家である以上、今後も法務大臣において、法律が遵守されることは当然のこと」とした上で、「再審請求中であっても、執行を停止しなければならないとの法の規定はなく、再審請求を延命のため濫用している事例があるとしたら、被害者遺族にとっては耐え難いことであり、二次被害を与えるものである。加害者が犯行当時、少年であっても、被害者からすれば、大切な人を失った悲しみ、苦しみや無念さは変わりなく、少年だからと言って、死刑執行を回避すべきではない」、「被害者遺族からすれば、歓迎すべき執行であり、当フォーラムでも、これを強く支持する」とする声明を発表した[声明 5]
  • 常磐大学元学長・諸沢英道(被害者学)は、「少年の更生可能性という、非科学的・曖昧な基準で、死刑執行を回避するのは相当ではない。事件の重大性や、遺族らの被害者感情、社会への影響を考えると、執行は当然だ」、「執行の先送りを目的とした再審請求も多く、再審請求中だからと言って、死刑執行対象から除外すべきではない」として、死刑執行を支持した上で、「冤罪の可能性がないことを、法務省が具体的に説明する必要はあるだろう」という見解を示した[報道 133]
  • 16歳の少年による暴行で長男を失った、「少年犯罪被害当事者の会」代表・武るり子は、時事通信社の取材に対し、「被害者4人の大切な将来を奪ったのだから、少年であっても罪に合った罰を受けるべきだ。それが抑止力につながると信じている」と話した[報道 134]
  • 産経新聞』(産業経済新聞社)は、2017年12月20日付で「死刑執行により、更生の機会が完全に失われたとの批判があるが、その可能性を争うのが裁判であり、法相に確定判決の是非を判断する職責はない」、「上川陽子法相の執行命令は当然の職務を果たしたもので、批判は当たらない。法相の個人的信条で執行の有無が決まるなら『法の下の平等』に著しく抵触する。刑の確定は16年前であり、むしろ遅すぎた執行ともいえる」、「死刑が確定した少年犯罪は、『いずれも身勝手で、凄惨な犯行であり、死刑以外の選択はできない』と、刑事裁判で判断された。法相は粛々と、刑の執行を命じるべきである」した上で、「元少年に対する死刑の執行を、国民一人一人が、少年法改正についての問題を考える契機とすべきだ」とするコラムを発表した[報道 135][報道 136]

実名報道[編集]

『週刊新潮』などによる実名報道・顔写真掲載[編集]

事件直後、いずれも新潮社から発売された、週刊誌週刊新潮』・写真週刊誌FOCUS』は、それぞれSを実名報道した[新潮 1][新潮 2][報道 137][報道 138]

  • 当時、『週刊新潮』編集部次長であった宮沢章友は、『産経新聞』『朝日新聞』などの取材に対し「少年法が制定された当時とは、肉体的・精神的ともに、社会からの刺激が多いという点で、『少年』の概念が変わっているのに、旧態依然とした少年法に従って、20歳以下なら一様に実名を伏せることは好ましくない。犯行そのものも、帰宅した家族を次々と殺害するなど凶悪で、少年法でくくれる内容ではない」[報道 137]、「今回の犯行は未熟な少年が弾みで起こしたようなものではなく、少年法で保護しなければならない『少年』の枠を超えている。加害者の人権に比べて被害者の人権が軽視されている。少年による凶悪事件が増加している今、20歳未満ならばどんな犯罪を犯しても守られる現行の少年法は時代遅れ。問題提起する意味で実名報道した」と述べた[報道 40][報道 138][報道 137]。また、宮沢は「(ライバル誌の『週刊文春』(文藝春秋)が加害少年らを実名報道した)女子高生コンクリート詰め殺人事件の際は、犯人グループのうち、誰がどう手を下したのか、はっきりしない部分があったため、実名報道は見送ったが、今回は犯人がはっきりしているからこそ、(実名報道という形で)問題提起をしやすかった」と述べた[報道 137]。その上で、「実名報道するかどうかの判断はケース・バイ・ケースであり、少年犯罪をすべて実名報道するわけではない」とした[報道 137][報道 40]。これに対しては東京弁護士会小堀樹会長)が3月25日、「少年法の趣旨に反し、人権を損なう行為だ」として「良識と節度を持った少年報道」を求める要望書を新潮社に郵送し[報道 139]、「マスコミが少年を裁くようなことをしていいのか」と問題を提起した[報道 138]
    • 『週刊新潮』は、1992年3月19日号(3月12日発売)にて、「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」というタイトルの特集記事を組み、記事中でSの実名を掲載した上で、Sの中学時代の顔写真、事件当時在住していた船橋市内のマンションの写真を掲載した[新潮 1][報道 137][報道 40][報道 138]
    • 『FOCUS』は、1992年3月20日号で、Sの実名に加え、当時『FOCUS』記者だった清水潔が撮影した、Sが送検される際の写真を掲載した[新潮 2]
    • 『週刊新潮』は、2001年12月13日号(同年12月6日発売)でも、Sの死刑が確定することとなった最高裁判決を、永瀬隼介(当時・本名の「祝康成」名義)のインタビューを交えて報じたが、この際もSの実名・顔写真を掲載した[新潮 3]
  • 過去に女子高生コンクリート詰め殺人事件の加害者少年4人を実名報道して物議を醸した『週刊文春』は、今回は実名報道は見送り、匿名報道とした[報道 137][報道 138]。同事件の際に実名報道を決定した編集長・花田紀凱は、「編集段階で、編集部内部から『今回も実名報道すべきではないか』という意見が上がったが、最終的に自分の判断で、実名報道は見送った。以前の実名報道の動機である『少年法への問題提起』は、以前の報道・それによって起こった論議から、既になされたためだ。しかし、今回も少年法に対して問題があるという姿勢は崩していない」とコメントした[報道 137][報道 138]。3月19日号・3月26日号と、2週連続で組まれた同誌特集記事では、Sを「牧和雄」という仮名で報じた上で、その生い立ち・少年時代の自画像、中学時代の卒業文集などを掲載した[報道 140][報道 141]
  • また、上告中の2000年(平成12年)9月に出版された、永瀬隼介の著書『19歳の結末 一家4人惨殺事件』(新潮社、当時・本名の「祝康成」名義)および、死刑確定後の2004年(平成16年)8月、『19歳の結末』を加筆・改題の上で再出版した『19歳 一家四人惨殺犯の告白』(角川文庫)でも、Sの実名が記載されている(#関連書籍参照)[書籍 6]

死刑執行を受けた新聞・テレビ各局の実名報道[編集]

その一方で、最高裁判決による死刑確定時点でも、新聞各紙はSを実名報道せず、匿名で報じた[報道 142][報道 143]

なおその後、少年犯罪で死刑が確定する場合については、死刑執行前の判決確定段階で「更生可能性が消えた」として、実名報道に切り替える例が主流になりつつある[報道 143]。確認できる限りでは、『朝日新聞』が、本事件の死刑判決確定から3年後の2004年、少年死刑囚の実名報道を是認する方針を決め[報道 144]、2011年3月10日の大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件最高裁判決を受けての報道が、その方針の初適用例となった[報道 145]。その際、『読売新聞』・『産経新聞』・『日本経済新聞』の3紙、各テレビ局も、『朝日新聞』と同様の対応を取った一方で、『毎日新聞』は全国メディアで唯一、死刑確定時点でも匿名報道を継続した[報道 143]。それ以降の少年死刑事件である、光市母子殺害事件石巻3人殺傷事件両事件でも、各メディアは各々の対応を踏襲した[報道 143]

新聞・テレビの報道では、2017年12月19日の死刑執行まで、Sの実名報道はなされていなかったが[注釈 6]、死刑執行を受け、マスメディアは「死刑が執行され、更生や社会復帰の可能性がなくなった」、「国家によって人命が奪われる死刑の対象は明らかにされるべき」、「事件の重大性を考慮」などの理由から、少年事件で死刑確定時も匿名報道を維持した『毎日新聞』を含め、それぞれ実名報道に切り替えた[報道 10][報道 11][報道 12][報道 13][報道 14][報道 15][報道 16][報道 143]

  • 日本放送協会(NHK)は、2017年12月19日正午のNHKニュースで、Sの死刑執行についてのニュースを伝える際、Sの実名を含めて報道した[報道 146]。これに関して、NHKのウェブサイト「NHK NEWS WEB」では、「NHKは少年事件について、立ち直りを重視する少年法の趣旨に沿って原則匿名で報道しています」とした上で、「この事件が一家4人の命を奪った凶悪で重大な犯罪で社会の関心が高いことや、死刑が執行され社会復帰して更生する可能性がなくなったことから、実名で報道しました」としている[報道 146]
  • 読売新聞』(読売新聞社)は、「国家が人の命を奪う死刑が執行された対象が誰なのかは重大な社会的関心事であるため」と説明した[報道 122][報道 126]
  • 朝日新聞』(朝日新聞社)は、「国家によって生命を奪われる刑の対象者は明らかにされているべきだとの判断から」と説明した[報道 10]
  • 毎日新聞』(毎日新聞社)は、少年死刑囚について、死刑確定時点でも匿名で報道してきたが、「再審や恩赦による社会復帰の可能性などが残されていたことから、健全育成を目的とする少年法の理念を尊重し匿名で報道してきました。しかし、死刑執行により更生の機会が失われたことに加え、国家による処罰で命を奪われた対象が誰であるかは明らかにすべきであると判断」と説明した上で、実名報道した[報道 147][報道 148][報道 149]
  • 産経新聞』(産業経済新聞社)は、「死刑が執行され、更生の機会が失われたことから」と説明した[報道 13]
  • 日本経済新聞』(日本経済新聞社)は、「事件の重大性や死刑が執行されたことを踏まえ、実名に切り替えます」と説明した[報道 150]
  • 中日新聞』・『東京新聞』(中日新聞社)は、『毎日新聞』同様、少年死刑囚について、死刑確定時点でも匿名で報道してきたが、「刑の執行により更生の可能性がなくなったことに加え、国家が人の命を奪う究極の刑罰である死刑の対象者の氏名は明らかにするべきだと考え、実名に切り替えます」と説明した上で、実名報道を行った[報道 125][報道 151][報道 143][報道 152][報道 153][報道 118]

永瀬隼介と死刑囚Sの交流[編集]

1998年(平成10年)10月から、作家の永瀬隼介は、本事件についての書籍出版を目的に、当時最高裁上告中で、既に東京拘置所に収監されていたSと、面会・文通を重ね[書籍 6]、死刑が確定するまでの約3年間、事件の様々な関係者(Sの家族や被害者遺族、Sと結婚したフィリピン人女性の家族ら)への取材活動も含め、Sの内面や事件の深層に迫った。

永瀬への手紙の中で、Sは「残された彼女(B)のために毎日祈り、お詫びの言葉をつぶやいてみても、何にもならないどころか、考えてみればこれ以上、自分勝手でひとりよがりな行為もありません」「加害者の側の僕がいくら熱心に経文を唱えようとも、それは結局自分自身が自己満足するための儀式でしかないように思えてきます」などと綴っていた[書籍 42]

2000年(平成12年)春、永瀬は面会中にSに対し「ならば、あなたにとって本当の意味での反省は何なのか」と尋ね、Sは「今でも、反省して何にもならないと思っています。本当に謝るべき人々を殺しておいて、いったい何やってんだ、という気持ちはあります。どうやって反省していいのか分からないのです」と[書籍 43]、また「次こそは、絶対に、真っ当な人間に生まれ変わりたいと願う次第です」とも書いてあったが[書籍 44]、それについて「あなたは本当に生まれ変われると信じているのですか?」という永瀬の質問に、Sは「信じています。信じていないと目標がなくなります。僕の場合、判決は目標にならないから……でも、自分がもっともっと深いところまで下りて行かないと……またダメかもしれませんね」と答えた[書籍 43]

永瀬は、手紙の殺害場面が記された箇所で、それまで整然としていたSの筆跡が、まるで別人が書いたかのように突然大きく乱れていたことから[書籍 22]、その心の揺れについて「殺害現場を書くことが怖かったのですか」「当時の自分を直視するのが怖いのですか」などと尋ねたが[書籍 43]、Sは「みっともないんです」と答え、その言葉の意味については「誰に対してという訳ではありません」(「ああいう事件を引き起こした自分が人間としてみっともない、ということですか」という永瀬の問いに対し)「そうじゃありません。ただ、みっともないと…」とちぐはぐな返答をした[書籍 43]。永瀬の感想は「そうなると、みっともないことをした自分を直視するのが嫌だということになる。みっともない自分を正面から捉えないで、反省しても仕方ないと思います」というものだった[書籍 43]。さらに永瀬が「自分の人生を振り返って、何か言いたいことはありますか」と問うと、Sは「チャラというか、すべてがなかったことにしてほしいんです。Sという人間はこの世にいなかったということになれば一番いい」「自分という存在そのものをゼロにしたい」と答えた[書籍 43]。永瀬はSの「全てがなかったことになればいい」という言葉について「この言葉を耳にした時、私は面会室の床にへたり込んでしまいたいような脱力感に襲われた。この期に及んで、自分の人生の全てをなかったことにしたい、と口にするSの真意は、もはや理解不能だった。Sが抱える心の闇は、私の想像をはるかに超えて、冥く、深く、広がっていった」と綴った[書籍 43]

永瀬は、著書出版準備を進めていた2000年初夏、慢性的な精神的ストレスから、自律神経失調症を発症し、満員電車での帰宅途中に気分が悪くなり、途中駅で下車した際に意識を失い、プラットホームの上にうつ伏せに転倒した[書籍 45]。その際に顎を強打して歯が砕け、後日病院で検査をした際に転倒の衝撃で顎の骨が割れていることが判明し、その治療のため3週間入院した[書籍 45]。それ以前から永瀬は「Sというモンスターと付き合うようになり、じきに心のどこかで、このままでは済まないな、と感じるようになった。手痛い代償を払わされるに違いない、との確信めいた思いもあった。口では『切腹でもして死にたい』『潔く終わりたい』と殊勝に語るSは、実は底知れぬ生命力の塊である。わたしは面会を重ねるたびに、一夜にして4人を殺しながら、生への欲望が全く枯れない男(S)のエネルギーに翻弄され、心身ともに削られていく気がした」という[書籍 45]。また、Sについても「Sは、わたしが過去、取材したどの殺人者よりも遥かに深い、桁外れの闇を抱えている(中略。広島タクシー運転手連続殺人事件の死刑囚の例を挙げ)少なくとも(その死刑囚は)分かり易い。だが、Sは分かりにくい。分からないから、取材者はより接近を試み、その黒々とした邪悪な渦に巻き込まれていく。無事で済むはずがない」と綴っている[書籍 45]

退院後、永瀬は東京拘置所に再び通い、最初の面会でSに対し怪我と入院で面会に来られなかった旨を説明すると、Sは心配そうな表情で「身体には気を付けてください。人間、健康が一番ですから」と言った[書籍 45]。永瀬は単行本『19歳の結末 一家4人惨殺事件』のあとがきで「面会を重ね、本を差し入れ、手紙をかわすうちに、いつしか私はSに対し、悔恨と反省に満ちた『まっとうな心』を期待していた。人間的な感情が迸る場面や、滂沱の涙とともに発せられる懺悔の言葉と言った瞬間をどこかで望んでいた」「4歳の幼女まで刺殺した悪鬼の所業の前では、もはやどのような悔恨も反省も虚しい」「この本を書き終え、虚脱感と徒労感に支配されている自分がいる」と綴った[書籍 46]

2000年9月、永瀬はそれまでの取材結果をまとめて単行本『19歳の結末』を出版し[報道 154]、同書をSに差し入れた[書籍 47]。しかしSは「『1991年10月、当時フィリピン滞在中で結婚相手の女性の兄とともにマニラのカラオケスナックに来ていたSが、そこで現地の警察官を殴って拳銃を突き付けられた』という記述[書籍 48]は出鱈目だ。警官にあんなことをしたら、自分は今頃向こうの刑務所に入っている。マニラには街中で金をせびってくるやつがいて、あの警官もそうだった。だからうるさい、と腕で払ったら拳銃を突き付けられた」と主張した[書籍 47]。永瀬が「フィリピンで取材した事実を帰国後面会の席でSに直接確認した」と指摘したが、Sは「向こうの兄貴(女性の兄)が言ってるだけ。彼とは一緒に仲良く遊んだのに、恨んでいるのか。だとしたらあなた(永瀬)のことを僕の身内の者だと思っていたんじゃないか」と的外れな子供っぽい言い分を返した[書籍 47]。永瀬はこの時の心境を「許されるなら『お前が言うべきはそういうことじゃないだろう』と胸倉を掴んで揺さぶり、諭してやりたかった」と記した[書籍 47]。しかしSが怒った理由は弁護士から「『お前、あんなこともやってたのか。どうして隠してたんだ、けしからんじゃないか』と責められた」からであった[書籍 47]。永瀬が「あなたが今言うべきはそういうことじゃないと思う。拳銃云々は些末なことだ。あの本にはあなたに殺された被害者の遺族の悲しみとか怒りがいっぱい詰まっていたでしょう。あなたはそれについてどう感じたのか、まず語らなければならない」と指摘したが、Sは「そんなの、わかってますよ」と子供のように拗ねてそっぽを向くだけであった[書籍 47]。永瀬は「愛する娘と4歳の孫を刺し殺された祖母[注釈 7]の地獄の日々に思いを馳せることのできないこいつ(S)は、やっぱり救いようのないクズだ」と唾棄した[書籍 47]

その後も永瀬はSと面会や手紙のやり取りを続けたが、翌10月にSは永瀬との面会の中で、自らが強姦し、事件でひとり生き残ったBについて、唇をねじ曲げ、薄笑いを浮かべて、ヘラヘラと挑発するように「あの子は僕のことがわかっている。すべてを知っている。なのに、本当のことを言わない。おかしいですよ」「あなた(永瀬)の取材にもまともに答えない。とんでもない人間だと思いませんか」などと口を極めて罵った[書籍 47]。永瀬は「とんでもないのはお前だろう」と怒鳴ろうとしたのを辛うじて堪え、Sの聞くに堪えない罵詈を咎めると、Sはがらりと態度を変え、肩をすぼめて俯き「もっと早くあなた(永瀬)に出会っていればよかった。塀の外で会っていれば僕も変わっていたと思うんです。僕にはそうやって叱ってくれる人間がいなかった」と言った[書籍 47]。永瀬はこのSの言葉について「同情を買おうとしたのだろうか、それとも本音なのか、わたしにはわからなかった。分かったのはただひとつ。この男(S)は反省していない、ということだけだ」と切り捨てた[書籍 47]

2001年(平成13年)1月下旬、永瀬はSと2か月ぶり(前年12月以来)に面会し、Sは永瀬に「面会できることは世間との接点があってうれしい。これからもどんどん本を読みたいし、あなた(永瀬)とも会いたい」(面会できなかった場合を含め、永瀬から本を差し入れてもらっていることについて)「いつも本の差し入れをしていただき、有り難く思っております」と言い、永瀬がどんな本が読みたいか問うと『永遠の仔』を読みたいと答え、永瀬はSに次回の面会時に差し入れると約束したが、結果的にこれが最後の面会となった[書籍 34]

上告審口頭弁論公判から約8か月後の11月下旬、Sから永瀬宛に最後の手紙が届き、上告審判決公判の日程が12月3日に決定したこと、またそれ(死刑確定)により、死刑囚となったSに対する親族でない永瀬からの書籍の差し入れや、永瀬との文通ができなくなることなどが記され、最後に永瀬への気遣いの言葉で締めくくられていた[書籍 35]

そして12月3日、Sの上告棄却を言い渡した、上告審判決公判を傍聴した永瀬は、閉廷後、最高裁の中庭から熊本県に住むBの母方の祖母宅に電話を入れ、母方の祖母はSの死刑が確定した旨を永瀬から伝えられると「やっと死刑になっとですか。よかった、本当によかった」と嗚咽した[書籍 35]。その後Bの叔父(Bの母の弟)が電話を代わり、「死刑が決まりましたか。あれ(事件発生)から9年ですか、長かった」と語った[書籍 35]。Sの死刑確定の知らせを聞いたBはじっと押し黙ったままだったという[書籍 35]

死刑囚の生い立ち[編集]

  • Sの母方の祖父Xは、第二次世界大戦終戦直後の青年時代、荒川の土手沿いに位置する、東京都江戸川区松島で、ウナギの卸売業を興した[書籍 49]。Xは「自分は生まれつき視力が弱かったために兵役を免除され、命拾いした身だ。徴兵されて戦死した幼馴染たちに比べれば、はるかに恵まれている」と文字通り死んだ気になって、寸暇を惜しんで働き続けた[書籍 49]。「仕事の鬼」と周囲から一目置かれた彼は、自分にも他人にも厳しく、あまりの厳しさについていけず、辞める従業員も続出したが、その猛烈な働きっぷりから事業を順調に拡大し、市川市・東京23区東部を中心に10軒近くの鰻屋を構えるウナギ料理チェーン店のオーナーとなった成功者だった[書籍 49]
  • そんな祖父の長女として生まれたSの母親Y子は短期大学卒業後の1967年(当時24歳)、江戸川区役所のダンス教室で東芝関連会社勤務のサラリーマンだったSの父親Z(当時25歳)と知り合い、交際を始めた[書籍 49]。Y子はデートで手腕を発揮する父親に惹かれていったが、コネ・カネ・学歴何一つない身一つで己の努力と才覚だけでのし上がってきたXにしてみれば、半端なサラリーマンのZは「そこら辺りのチンピラと一緒」であり、初めて挨拶に訪れた日から「こいつはろくでもない遊び人だ」「仕事に対する熱意がうかがえない」と快く思っていなかった[書籍 49]。その日の夜、Y子が「Zを家に泊める」と言ったが、Xは「結婚前の自分の娘が、こんなろくでもない男と俺の家でひとつ屋根の下にいる」と思った途端憤慨し、仁王立ちになって怒鳴りZを叩き出した[書籍 49]。しかし2人は駆け落ち同然で結婚し、千葉県松戸市内のZの実家に新婚所帯を構えた[書籍 49]。なおXは結婚に反対していたが、1973年1月30日に夫婦の長男としてSが生まれ、Y子が父に初孫の顔を見せに行くと、祖父となったXは渋々ながらも結婚を認めた[書籍 49]。ほどなくして一家は松戸市内の公団住宅に移住し、教育熱心なSの母親は息子が歩けるようになるとすぐスイミングスクールに通わせ、小学校入学後からはピアノ、英会話も習わせ始めた[書籍 49][判決文 1]。Sが生まれた5年後の1978年には次男(Sの弟)も生まれたが、生活が落ち着いてくるや否やZの「ろくでもない遊び人」な本性が現れ始め、仕事よりギャンブルや酒、女遊びを優先するようになり、Y子との夫婦喧嘩も日常茶飯事になった[書籍 49]
  • Sは1976年(昭和52年)に幼稚園に入園し、2年後の1978年(昭和54年)4月に転居先の千葉県松戸市内の[判決文 1]松戸市立和名ヶ谷小学校に入学した[報道 140]。さらに1980年(昭和55年)9月[判決文 1]、Sが小学2年生の時、S一家は母方の祖父の援助で買った東京都江東区越中島の高級マンションに移住し[書籍 49]、Sは同区内の[判決文 1]江東区立越中島小学校に転校した[報道 140]。このマンションには、有名企業の社員や医者、実業家などの高額所得者が多数在住しており、S一家の部屋のすぐ上の階には、当時日本中を席巻した漫才ブームで、一、二の人気を争った漫才コンビの一人が、家族とともに住んでおり、その息子がSの弟と同い年だったため、Sは自然とお互いの家を行き来するようになったという[書籍 49]。時折その漫才師と出会うと、彼はテレビに出ている時と同じ笑顔で「どや、元気か」と声を掛けてくれ、息子も父親と同じように屈託のない大阪弁で話しかけてくれることから、Sはこの陽気な漫才師一家を気に入っていた[書籍 49]。一方で自分の一家は高級マンションに住んでいるとはいえ、祖父の援助と借金によるものであり、Zは会社勤めを辞めてから義父Xから鰻屋を1軒任されるようになったが、日銭が入るようになったために遊びにますます拍車がかかり、愛人の家での外泊を繰り返し、時折帰ると浮気を責めてくる母Y子に対して殴る蹴るなどのドメスティック・バイオレンスや、S自身や5歳年下の弟に対して何時間も正座をさせる、食事抜き、徹底した無視、真冬の夜中に外に放り出すなどの苛烈な児童虐待を繰り返していた[書籍 49]
  • 自宅を居場所と感じられなくなっていったSは毎週末、自分で着替えと勉強道具をリュックサックに詰め込んで、一人で電車に乗って市川市内の祖父X宅に寝泊まりするようになり、特に夏休み・冬休みの長期休暇はほとんど祖父宅に泊まり込んでいた[書籍 49]。Xは常に孫Sを笑顔で出迎え、一緒に風呂に入り、祖母が作ってくれる手作りの夕食を食べた[書籍 49]。祖父は晩酌のビールを飲みつつ、普段いかつい表情をした顔をほころばせつつ、Sの話を嬉しそうに聞いていた[書籍 49]。そんな祖父Xは従業員にしてみれば「一切の妥協を許さない厳しい人」ではあったが、彼らから見れば一見単調な生活にすら見えた、Xや鰻屋の従業員たちと過ごす毎日は、Sにとっては至福の時であり、当時のSは「いつも怖いだけの父親とは違う、お金持ちで頼りになる働き者」として祖父Xを心から尊敬しており「自分も祖父のように強くて立派な大人になりたい」と思っていた[書籍 49]
  • やがて、ストレスを溜め込んだ母親も、Sを虐待するようになり[書籍 49]、敬虔なエホバの証人の信者であった親友に勧められ、聖書の勉強をするようになったが[書籍 50]、9歳の時、Sが熱心に読んでいた聖書を「こんなくだらないものばかり読みやがって」と父親が破り捨て、Sは初めて恐れていた父親に対して歯向かっている[書籍 51]。父親Zのギャンブル好きによる約3億円の借金が原因で[報道 20]、暴力団組員による厳しい取り立てに遭ったことから[判決文 1]、1982年(昭和57年)12月にSは母親に連れられて弟とともに夜逃げ同然に家を出て、しばらく祖父Z宅に身を寄せたが、Sを溺愛しており、Sからも慕われていた母方の祖父からも、Sの父親の多額の借金が原因で見放された[書籍 52]。そのため、Sらは青砥駅付近にある、葛飾区立石のアパートに移住し[書籍 52][判決文 1]、当時小学5年生だったSは[報道 141]、1983年(昭和58年)1月から[判決文 1]葛飾区立清和小学校に通学した[報道 140]
  • 1983年3月、母Y子は父Zと調停離婚し、S姓に復氏し、Sとその弟の親権者となり、女手一つで息子2人を育てていた[新潮 2]。ランドセル代わりに風呂敷で登校し、一着しかない服を毎日着てくるSは周囲からはいじめの対象になり、担任が電話連絡網を作るためにクラス全員の前で電話番号を聞いた際、Sが「そんなもの(電話)、うちにはありません」と答えたところ、担任やクラスメートに大笑いされたという[書籍 53]。Sは月に1、2回、母Y子の財布から小銭を抜き取っては電車でかつて住んでいた越中島に行き、その度に劣等感に苛まれた[書籍 53]。この頃、ジミ・ヘンドリックスの音楽を知ってロックにハマり、カセットテープを近所のディスカウントストアから万引きするようになった[書籍 54]。その後放課後に気分転換のためひとりで電車に乗って浅草に通うようになり、公衆電話の横で現金約6万円の入った財布を置き引きしたのをきっかけに浅草で観光客を狙った置き引きスリ、かっぱらいを繰り返すようになり、賽銭泥棒もしたSはこの頃、「貧乏を笑う世の中のやつらからはいくら盗ったっていいんだ。世の中、なんだかんだいったってカネなんだ」と手前勝手な論理に酔いしれるようになった[書籍 55]。一方で「ワルのレッテルを張られると損をする」として、地元ではおとなしい真面目な少年を装い続けた[書籍 56]
  • その後S一家は、葛飾区内でアパートを経営する大家夫妻の紹介を受け[書籍 57]、新築のアパートに転居した[書籍 58]。この頃祖父Xも母親Y子と関係を修復し[書籍 58]、Y子は会計事務所に勤めるようになった[判決文 1]。SたちはXからの経済的な援助を受けつつ不自由なく暮らせるようになったが[報道 22]、Sは「一番つらくて寂しい時に俺を裏切って、手を差し伸べてくれなかった」として、以前のように祖父を尊敬することはできなくなっていた[書籍 58]。Sは1985年(昭和60年)4月[判決文 1]葛飾区立立石中学校入学後[新潮 1][新潮 2]、体も大きくなり、やられればやり返すようになり、たいていの場合に自分の腕力が通用することを知った[判決文 1]
  • この頃Sは少年野球チームに所属してエース兼4番打者として活躍する一方で、非行の度合いが一気にエスカレートし、地元の不良少年たちから喧嘩の強さを褒められて仲間に誘われ、放課後には街をうろついて喧嘩を繰り返し、ゲームセンターを根城に不良仲間とつるんで遊び歩き、恐喝を繰り返していた[書籍 58]。バイク盗[新潮 2]、飲酒や喫煙などの非行もするようになった[書籍 58]。この頃からSによる母親Y子や弟への家庭内暴力が始まり[新潮 1][新潮 2]、また家庭崩壊の元凶となった父親Zが現れるようになったこともSが荒れる原因となった[書籍 58]。Sは中学2年の時、シンナー中毒の女性との初体験を経験している[書籍 59]。次第に「自分は何のために生きているのだろう」と考えるようになり、再びキリスト教の教会に通うようになるが、すぐにやめた[書籍 60]。中学3年の頃に同級生の女子生徒と交際し始めたが[書籍 61]、高校中退後にその少女の両親が苦情を入れてきて、その後少女を東北地方の親戚の家に連れ帰ったため、Sは少女の父親を脅迫し、ナイフを手に少女を連れてくるよう迫ったことから軽犯罪法違反に問われ、家庭裁判所に書類送致された[書籍 62]
  • Sは志望校の日本大学第一高校岩倉高校を受験するも不合格に終わったため、祖父Xの援助を得て[書籍 63]、1988年(昭和63年)4月に中学卒業後野球の強豪校として知られる中野区内の私立高校(堀越高等学校普通科大学進学コース)に入学した[新潮 1][書籍 63][報道 22][判決文 1]甲子園を目指して硬式野球部を志願したが、野球部の練習用グラウンドは遠方の八王子市内にあったため、通いきれないことから軟式野球部に入らざるを得なかった[判決文 1]。高校1年時はクラス委員を務めて無欠席で成績も上位をキープしていたが[新潮 1]、その一方で地元では相変わらずの喧嘩三昧で、折り畳み式ナイフも常時携帯するようになり[書籍 64]、未成年者でありながら飲酒・喫煙を日常的に行い[判決文 1]、家庭内暴力も悪化するようになった[書籍 64]。その後、Sが高校1年の冬にS一家は大家夫妻の紹介したアパートからさらに広いマンションに移住し、母親Y子が「長男(S)に個室を与えれば家庭内暴力も収まるはず」と思ったためにSは一人部屋を与えられたが、結果は裏目に出、自分の城を持ったことで妙な自信を持ったSによる家庭内暴力はさらに深刻になった[書籍 64]。2年に進級すると、Sは「こんな程度の低い高校では大学に進めない」と[書籍 65]、学級のレベルを低く感じたことや、前述のように硬式野球部に入れなかったことなどから、高校生活に対する意欲を失っていき、登校せずに不良仲間らと繁華街を徘徊し[判決文 1]、喧嘩に明け暮れるようになり、母親Y子はその度に怪我をした相手の家に謝りに行き、治療費や見舞金を払った[書籍 65]。この頃、祖父Xは母Y子が離婚した夫Zと会っていることを知って激怒し「カネを出せば、またあのろくでなしに渡るだけだ」としてS一家への一切の援助を再び断ち切っていた[書籍 65]。Sは2年生進級直後[新潮 1]、他校生徒への恐喝事件への関与が発覚し[判決文 1][新潮 1]、停学処分になるが、自宅に待機していなければならない時間帯に不在だったり、無断外泊を繰り返していたため、母親から退学させてほしいと申し入れがあった[新潮 1]。暴力沙汰を繰り返しながらも反省の色を見せないSは進級2か月後の1989年(平成元年)5月31日付で高校を自主退学した[新潮 1][書籍 65][報道 22][報道 33]。家庭内暴力の悪化から、母Y子はSを連れて警視庁の少年相談室に相談に赴くなどした[判決文 1]
  • 高校中退後、Sは警備員や、トラック運転手などのアルバイトをするが[報道 31][新潮 1]、どれも1週間と続かず[報道 31][報道 22]、1989年11月頃からは、祖父Xが経営していたウナギ料理のチェーン店を、時々手伝う程度で[判決文 1][報道 31][報道 22][新潮 2]、その上に「タレを扱う仕事は汚い」と嫌がり[報道 140]、夕方過ぎからの出勤や無断欠勤も多く、おとなしそうな反面、レジを足蹴にすることや[新潮 1]、猫を放り投げたりすることもあり[報道 140]、ギャンブルなどの遊びや飲酒に明け暮れる生活だったという[新潮 1][報道 22][報道 20][報道 33]。働き始めた動機も真剣に将来を考えた末の決断ではなく、祖父Xの猛烈な働きっぷりに「仕事ってそんなに面白いものなのか」と興味を覚えたから、ということに過ぎなかった[書籍 66]。頑固で仕事一筋な一方、人情家として地元で知られていた祖父Xは付き合いのある信用金庫職員や商工会関係者から「面倒を見てほしい」と頼まれると、鑑別所や少年院から出てきたばかりのような者や現役の暴走族メンバー、暴力団事務所に出入りするようなチンピラも含め、どんな不良でも引き受けていたために仕事仲間には不良崩れが多く[書籍 66]、長距離トラックの荷抜きの方法、自動販売機荒らしのテクニック、盗んだバイクの転売先、高価な輸入アルミホイールとタイヤの外し方や買取先、変造ナンバープレートを請け負う板金工の紹介、シンナーの売人の連絡先などなど、休憩時間に先輩たちから様々な悪事のノウハウを習った[書籍 66]。「本物の喧嘩のやり方」として、「ナイフやビール瓶など何でも使って、こっちの顔も見たくなくなるくらい徹底的に相手をぶちのめさないと必ず復讐される」とも習い、このことから、腕力に任せた素手での喧嘩など子供の自己満足にすぎないとSは悟ったという[書籍 66]。店のワゴン車でウナギの配達に向かう途中、前方を走る車の運転手たち(一目でワルとわかるような4人の男)と揉めて喧嘩になり、焼き台で使う長さ110cmほどの鉄筋で相手を殴りつけて負傷させ、警察に連行されたこともあった[書籍 67]。最も年齢が近い店の仕事仲間から挑発され、スパナで殴打して負傷させ、その仕事仲間が以降店に来なくなるという事件も起こした[書籍 67]。祖父Xは孫の将来を心配し、Sに「お前は顔も声も父親に近くなってきた。ほっといたら、お前もああなっちまうぞ」と諫めたが、Sは全く意に介さなかった[書籍 67]。実際、『週刊文春』に対しては、「Sの部屋にも、仕事場の鰻屋にも、何度も警察官が訪れていた」という証言があったという[報道 141]
    • なお、親類の一人によれば、Sは真面目に働かないばかりか、店の売り上げを勝手に持ち出すこともしばしばで、その際は各支店から集まってくる売上金の袋の中でも、二十数万円と入った一番大きな袋を持って行ったという[新潮 1]。事件の約2年前、Sは夜中に店のドアを破って侵入し、売上金の現金120万円を盗んだ[書籍 68][新潮 2]。その1か月後の1990年(平成2年)1月17日[判決文 1]、店の金庫から現金6万円がなくなり「娘(Sの母親Y子)にそのことをそれとなく伝えたが、娘は自分の息子(S)が疑われたと思って頭に来たんだろうな。あいつに言っちゃったんだ(Sの母方の祖父X談)」[書籍 68]。その日午後10時頃[判決文 1]、祖父Xは早朝からの重労働で疲れ切って寝ていたが、そこにSが突然訪ねてきて「俺のこと、疑いやがって」と怒鳴りつけ、祖父Xの顔を蹴り上げた[書籍 68]。Sの足の親指が祖父の左目に突き刺さり、祖父Xは眼球破裂で失明し入院し[書籍 68]、水晶体脱臼・硝子体出血などの傷害を負った[判決文 1]。その後、祖父Xは、糖尿病により、残った右目も視力が低下し、ほとんど見えなくなったという[書籍 68]。同年9月、SはY子から80万円で購入してもらったオートバイに乗っていた途中で交通事故を起こし、肋骨8本を骨折して入院したが、その治療が長引くうちに怠け癖がついて休みがちになった[判決文 1]。事件直前の1992年1月下旬にも、Sは親類の家に出かけ[報道 22]、親類が子供(従兄弟)の高校受験用に用意していた、現金110万円を盗んでいた[新潮 2]。さらに、Bに対する強姦事件を起こした頃の、同年2月上旬にSは、Xの鰻屋のドアを破って侵入し、売上金120万円を盗んだ[報道 141]。被害を受けたXが、弁護士帯同の上で、市川警察署に「Sが犯人だ」と刑事告訴したが、警察にも取り合ってもらえなかったという[報道 141]。この頃Sは、無断欠勤により[書籍 67][判決文 1]、事件発生年の1992年1月には鰻屋を辞め[報道 59]。事件直前は無職同然の身だった[判決文 1]
      • 祖父Xは永瀬の取材に対し、Sについて「俺はもう、死にたい。一日も早く死にたいんだよ。生きていても、なんにもいいことはない。苦しい事ばっかりだ。なぜ、あいつが今でも生きていられるか。不思議でならねえんだ。俺だったら死んでるよ。自殺して死んでる」「あの日(Sが逮捕された日)は、突然新聞記者がきたんだ。何が何だか分からなくてな。あいつが人を殺したとかなんとか。(Sは)バカのろくでなしだとは承知していたが、まさか人様を殺めるとは…それも4人も…俺はもう、血の気が引いたよ。腰が抜けそうだった。それ以来、すべてがあのバカ(S)のおかげで滅茶苦茶になっちまった」「あいつにはもう、関わりたくない。あれだけのことをやったんだ。もう生きちゃいられねえだろう。法に従えばいいんだ」「(Sの父親である娘婿Zは)俺は初めっから気に食わなかった。第一、人相が良くなかった。真面目に働く顔じゃなかった。だから結婚させたくなかったんだ。娘が俺の言うことをちゃんと聞いていりゃあ、あんなろくでなしの孫なんか生まれていない。いっそのこと、離婚するとき、向こうにくれてやりゃあよかったんだ」となど吐き捨てた[書籍 68]。なお、Sを最もかわいがっていたという祖母(Xの妻)は、Sが控訴中の1995年に他界している[報道 92]
      • その一方で、Sは祖父からギターやオーディオ購入費などの遊興費や、一人暮らしをしていた船橋市内のマンションの家賃、犯行に用いた高級車(トヨタ・クラウン)などの代金の援助を受け続け、中山競馬場での競馬開催日には競馬場でSの姿もよく見られた、という報道がなされている[報道 22]。中学入学頃からSは祖父や母親に多額の現金をせびっていたとも報道されており、その報道によれば祖父は従業員の前で「また夜遊びか」と笑いながらSに1万円札数枚を手渡すこともよくあったという[新潮 1][報道 20]。『週刊新潮』1992年3月19日号によれば、Sが住んでいたマンションの近隣住民によれば「Sは髪にはパーマをかけ、身長180cmもある大柄ながっちりした男だった。毎日、夕方どこかに出掛けては真夜中の2時、3時頃に帰ってきて、力いっぱいドアをバタンと閉めて近所迷惑を顧みない人だった。3000ccのクラウンを乗り回し、肩で風を切って歩いていた。歩き方も与太った雰囲気で、その姿はとても19歳とは思えない。25、26歳ぐらいだと思っていた」といい、前年の秋には近隣住民と違法駐車によるトラブルを起こして警察が出動する騒ぎとなっていた[新潮 1]
    • 中学時代からSを知る水産加工品店(ウナギ料理店)の同僚は事件直後、『中日新聞』の取材に対し「やりたいことはなんでもやった。中学時代から飲酒、喫煙をしていたし、ギャンブルも好き。野球も結構やっていたけど、適当にサボってバンドなどもやっていた。最近は女ばかり追いかけまわしていた。金で思うようにならないと暴力で、というパターンだった」と証言する一方、「店でも年上の従業員などにはいつもペコペコ頭を下げて従順だった。中学時代もつっぱり連中とは適度に距離を置いて目を付けられないようにしていた。結局、優しい人や弱いものに徹底的につけ込む性格」というSの気弱な一面も明かした[報道 22]。こうした証言からSの素顔は、他人への思いやりを知らない本能むき出しの人間像であり、その人格形成には複雑な家庭環境が影を落としていると伺えた、と1992年3月10日付の『中日新聞』は述べている[報道 22]
    • 「祖父に甘やかされ気ままに育ってきた」というSについて[報道 22]、親類は事件直後『朝日新聞』の取材に対し「あいつはやりたいようにやってきたからなあ」と冷たい言葉で語った[報道 20]。逮捕当時Sの自宅マンションの部屋には家具はほとんどなかったが、男1人暮らしの割にはきれいに片付き[報道 35]、部屋にはギター4本、オーディオ機器があり、ラックにぎっしりと詰められたCDがあった[報道 35][報道 20]。Sは英字新聞を購読しており、取り調べに対し「英語とタガログ語は日常会話程度はできる」と話しており、海外旅行もフィリピンなどに数回行ったことがあったという[報道 35][報道 20]
  • ウナギ店を辞めた後、Sはギタースクールに通い、バンドの練習や、ファッションヘルスの店員、ラブホテルのルームボーイなどのアルバイトに明け暮れ[書籍 67]、職を転々とし定職に就いていなかった[報道 33]。やがてSはバンド仲間や貸しスタジオで知り合った仲間たちとともにハルシオンブロンLSDなどの薬物乱用にも手を染めるようになった[書籍 69]。その仲間のうち、ある少年は木刀で家族を殴り倒して歯を全部折り、顎の骨を粉々に砕き、恐れをなした家族がそろって家から逃げ出すと父親の職場に押しかけて暴れ回り、家族を路頭に迷わせたという、自分以上に激しい家庭内暴力をふるっており、また敵対するグループのメンバーの家に放火を繰り返していた者、自分の交際していた女性をピンサロに売り飛ばして昼間からパチンコや競馬に没頭している者ばかりか、覚醒剤の打ちすぎで精神科病院に入院させられ、そこから逃げ出して街を徘徊している廃人寸前の覚醒剤中毒者までいるなど、非行に手を染めている者たちともつるむようになっていたが、Sは「こういう荒んだ連中に比べれば自分はまだずっとましだ」と思っていたという[書籍 69]
  • 事件1年前の1991年2月、Sは自動車学校の合宿講習で運転免許を取得した[判決文 1]。翌3月、Sは家を出て中山競馬場近くの、船橋市本中山[判決文 1]JR総武本線下総中山駅および京成本線京成中山駅から徒歩圏内の[書籍 24]、高級ワンルームマンションで一人暮らしを始めた[書籍 24]。マンションは契約金58万円余り[判決文 1]、家賃は7万円[書籍 24]、共益費込みで約10万1000円で[報道 20]、1991年秋に家賃を滞納し、その後は母親が振り込んでいた[報道 33]。『中日新聞』報道では同年10月頃に弟や母親への家庭内暴力のため、母親が前述のマンションの部屋を与えて別居させたと報道されている[報道 22]
  • その2か月後の1991年5月、Sは犯行に用いたトヨタ・クラウンロイヤルサルーンを自ら自動車ローンを組んで購入した[書籍 24]。クラウンは価格433万円余り[判決文 1]、4年間48回払いで購入し、頭金50万円はそれまで乗っていた400ccのバイクを売った上で、アルバイトで貯めた金を足して払い、ローンの支払いが遅れると母親が代わりに払った[書籍 24]。クラウンのトランクには常に前述の暴力事件で凶器として使用した鉄筋を3、4本隠し持っていた[書籍 70]。この頃Sは身長・体重ともに同じ18歳男性の平均をはるかに凌駕するまでに成長し、高校生の時に始まった飲酒・喫煙が生活習慣となっており、たばこは1日にラーク5箱程度を常用し、酒はウイスキーを特に好み、ボトル半分程度を適量としていた[判決文 1]。その一方で幼少期に自分たちを捨てた父親Zへの憎悪や、制御できない暴力、荒んだ不安定な生活からSの苛立ちは募る一方だった[書籍 70]。母親Y子のマンションでたびたび父親Zと出くわす度に父親Zと口論となり、父親ZはSを幼少期に苛烈な虐待の挙句見捨てた身でありながらSに対して母Y子や弟への家庭内暴力などを注意したが、Sは憎悪をたぎらせて反発し喧嘩となり、Sが包丁を持ち出して暴れたため救急車が出動したこともあった[書籍 70]
  • Sは美容師やフリーターの女性との同棲も経験したが、暴力が原因でいずれも1、2か月で別れている[書籍 71]。しかし1991年4月、Sはウナギ屋の同僚たちに連れて行かれた市川市内のフィリピンパブでマニラ出身のホステスの女性(当時21歳)と出会って恋に落ち、時折店外デートをするようになった[書籍 72]。やがてその女性から結婚を持ちかけられ、Sは初めは長期滞在が目的だとみて断っていたが、女性の必死の懇願は続き、「彼女は料理も掃除も得意だし、何より自分に尽くしてくれる。一緒に生活したら楽しいかな」と考えるようになり結婚を決意した[書籍 73]。母親にその女性のことを話すが、母は「日本人かせめて白人にしろ、フィリピン人は絶対にダメだ」と反対したためSは激怒、しまいには父親までやってきてSを説得するがSの火に油を注ぎ、家族との話し合いは決裂し、Sは一人で結婚の手続きをとった[書籍 73]。同年10月9日に女性がフィリピンに帰国し、Sもその10日後に女性の家族への挨拶と結婚手続きのためにフィリピンに渡った[書籍 74]。女性の実家は東南アジア最大のスラム街と言われるマニラ近郊の地区トンドにあったが[書籍 75]、極端な潔癖症であるSもこの時ばかりは特に意に介さず、のんびりとリラックスした[書籍 75]。翌朝から日本領事館やマニラ市役所に通い、10月25日にマニラ市役所で結婚の宣誓を行い、10月30日には日本領事館に結婚の書類を届け、女性が洗礼を受けたカトリック教会での講習を経て、11月にはマニラで結婚式を挙げた[書籍 75]。翌1992年1月に女性の妊娠が判明したが、女性は言葉が通じにくい日本の産婦人科を嫌がり、マニラの母親の下で産みたいと訴えた[書籍 4]。Sは了承し、女性は1月26日にフィリピンに帰国した[書籍 4]。その4日後の1月30日にSは19歳の誕生日を迎えたが、妻がいなくなったことで鬱屈した気分になったSは新しい女性を引っ張り込もうと考え、それが凶行の遠因となった[書籍 4]

その他[編集]

  • 事件当時千葉県に住み、船橋市市川市境に実家がある山口敏太郎によれば、Sの祖父Xが営んでいた鰻屋は、山口の地元の駅前などを香ばしい匂いで充満させていた評判の名店だったが、事件後「あの店に金を出したら殺人鬼の弁護費用になる」という噂から客が来なくなり、やがて閉店に追い込まれたという[書籍 76][書籍 77]。また、被害者3人が背中から刺されて殺されたことから、近所の人々は「Sはウナギを背開きにするかのように人間を切り裂いた」と恐れ、「この事件はウナギの祟りではないか」という噂まで飛んだという[書籍 76][書籍 77]
  • 強盗目的で一晩のうちに一家4人を惨殺し、遺された少女を血の海の中で強姦するという凶行に及んだSだが、少年犯罪なら少年法により処罰は軽くなると考えており、逮捕当時は「これで俺も少年院行きか」「未成年ならどんな凶悪犯罪を犯しても少年鑑別所に送られて、そこから少年院に入れられるだけだろう」程度にしか考えておらず[書籍 29][書籍 78]、その上「死刑なんてものは自分とはおよそ縁遠いもの。一度殺人を犯しておきながら、刑期を終えてから、あるいは仮釈放中に再犯するような者ぐらいしか死刑にならない[注釈 8]。だから自分には関係ない、違う世界のもの」だと確信していた[書籍 78]。その理由の一つには〈1989年1月にSの住んでいた東京都葛飾区青戸の近隣、足立区綾瀬で発生した〉「女子高生コンクリート詰め殺人事件の犯人の少年たちでさえ、あれだけのことをやっておきながら死刑どころか無期懲役にすらなっていない[注釈 9]。それなら俺の方が犯行は長期間ではないし、犯行にあたって凶器一つ用意していないからまだ頭の中身もまともだ」という不遜な考えもあった[書籍 78]。そのためSは逮捕後、出所後の生活設計のために母親に教科書や参考書、辞書類を差し入れさせ、勉学に励んでいた[書籍 29][書籍 78]。しかしその考えも虚しく、第一審の論告求刑で死刑が求刑され、Sは後の死刑判決宣告以上にこの論告求刑で大きなショックを受けたという[書籍 42]。その期に及んでもSはなお死刑求刑とともに論告で自らの行為を糾弾した検察官を逆恨みするような感情を抱いていたが、第一審・控訴審と相次いで死刑判決を受けたことでその罪の重さを思い知らされ、犠牲者の苦痛と身も凍る恐怖を知ることとなった[書籍 42]。その後もSは永瀬への手紙の中で、幼少期に苛烈な虐待を加えた父親ばかりか、身を粉にして働き、自分や弟の生活を支えていた母親や、一代でウナギ料理チェーン店を興し、孫の自分を可愛がってくれた祖父に対しても逆恨みする上に罵詈雑言を書き連ねた挙句[書籍 79][書籍 80][書籍 44]、前述のように面会中に反省のない態度まで見せるという有様だったが、ついに上告審に至るまで一度たりとも減軽されることなく一貫して死刑判決が支持されて確定し[注釈 10]、戦後日本で37人目(永山則夫連続射殺事件の最高裁判決以降、および平成の少年事件では初)の少年死刑囚となった。
    • その一方で、Sが最高裁上告中の2000年、中日新聞社に送った手記が同年7月29日付の『中日新聞』『東京新聞』夕刊に掲載された[報道 39]。収監先の東京拘置所では「570番」と呼ばれ「狭い独房で壁に向き合う孤独な日々を過ごしていた」Sは、3年前の1997年から同社『東京新聞』社会部記者の瀬口晴義と文通をしていたが、その手記の中では「いちいち『少年法』とか『死刑にならない』とか考えながら事件を起こすなら、もう少し頭を使って、指紋が残らないように軍手の1つもはめますよ。高校も満足に行っていないようなものに、少年法の中身を丁寧に教えてくれる人がいると思いますか」と記し、犯行当時は少年法については熟知しておらず、法律など眼中になく衝動的な犯行だったと主張した[報道 39]。また、1997年に発生した神戸連続児童殺傷事件を受け、少年法改正論議が沸騰した頃には「大人と同じように処分することにして、いじめや恐喝、リンチ殺人がなくなると思いますか。きっと変わらない。それどころか、これまで以上に陰湿なやり方が増えることになるだけだと思います」として、少年法改正により凶悪少年犯罪が減少することはないという考えを示していた[報道 39]。その一方で、手記の中では精神鑑定や、教誨師として面会に訪れてくれた修道会関係者との関わりなどを機に、罪を正面から受け止められるようになったと明かし「己の罪深さを恥じ、真に償いを求めるならば、私は自分の将来を求めてはいけないと思えます」と記し、恵まれない家庭環境や、小学生時代のいじめの経験も赤裸々に曝け出し「義務教育の9年間、一度も無邪気にはしゃいだ記憶がない。尊敬できる先生には一人も出会えませんでした」「(小学校の高学年は)痣だらけにされて過ごしたつらい時期だった。人生をやり直すなら、これより前まで戻らないと、何度やり直しても同じことをしてしまうと思う」と述べた[報道 39]。また、凶悪な少年犯罪を生む素地は大多数の「負け組」の上に一握りの「勝ち組」が君臨する社会構造にあるとして「現代は金か能力のある者だけが正義ともてはやされ、勝ち誇る社会。一部の裕福で恵まれた人間以外は、子供でさえ夢も、希望も見ることもできない」という心境も記した[報道 39]
  • Sは東京拘置所からの手紙を初めて永瀬に送った際その手紙に香水を付けていたが、永瀬は「独房で書き上がった手紙に香水を振りかけている大量殺人犯―どこか歪んでいる」と記した[書籍 47]
  • Sは永瀬との文通の中で、死刑の恐怖について「もう一度、死刑判決(上告棄却)を受けて、確定囚となっても、当分は生かされていることになります。文字通り死ぬことで刑になるわけですから、その時までは刑務所の懲役とも違って仕事をするわけでもなく、償うこともできずに、ただ鉄格子の中で過ごすだけの毎日が待ち受けているのです。そして何年か過ぎて、平静を取り戻したころ、ある朝複数の刑務官の靴音が響きわたり、近づいてきたと思ったら、自分の房の前で立ち止まる。独房の錠をまわす金属音がしたところで『本日刑の執行だ』と言われて連れて行かれる。いつか必ず来るそんな日のために、首を吊るされることが決まっているのに、毎日今日か明日かと、死の足音に怖えながら暮らさなくてはなりません。想像するのも嫌な生活です」[書籍 81]「これから先何年も、死んでいくためだけにどうやって生きていけばいいのかもわかりません。外界から一切遮断されたコンクリートむきだしの監獄の中で、一年中誰とも会話をせず、希望を抱くことも許されず、何年も何十年も狂わずにやっていく自信も持てないのです。死ぬことが怖くない、と言えば嘘になりますが、それ以上に、先のない毎日を怯えながら生きていかねばならないことの方が怖いです」と記した[書籍 82]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 事件当時、現場一帯の所轄警察署だった。その後、1995年に浦安警察署(葛南警察署から改称)から、現場一帯を管轄する行徳警察署が分離発足し、2017年現在の現場一帯は行徳署が管轄している。
  2. ^ 少年法第61条「第4章雑則:記事等の掲載の禁止」が法的根拠である。もっとも、Bは全くの被害者であるに留まらず、Sによる複数回の強姦被害者でもあるため、いずれにせよマスメディアはそれに配慮してBを匿名にせねばならなかった。
  3. ^ 確定判決では後述のように、4人のうちBの妹Eに対する殺害を強盗殺人罪ではなく単純殺人罪と認定した[判決文 3]
  4. ^ 2016年時点では「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(フォーラム90)が実施している[書籍 36]
  5. ^ Sの死刑確定以降、2002年5月10日[書籍 38]、2003年5月末[書籍 39]、2004年7月末[書籍 40]、2005年7月31日と[書籍 41]、「死刑廃止の会」が計4回、確定死刑囚について調査を行ったが、いずれもSが再審請求をした旨の記述はない。
  6. ^ 2017年10月2日時点では、『ヨミダス歴史館』(読売新聞)・『聞蔵』(朝日新聞)など、全国紙5紙の記事データベースおよび『中日新聞・東京新聞データベース』にて、Sの実名を検索しても、この事件についての記事は1件もヒットしなかった。
  7. ^ 本事件で殺害されたBの父方の祖母Cとは別人の、事件後Bを引き取った熊本県在住のBの母方の祖母のこと。
  8. ^ Sに限らず、麻原彰晃などオウム真理教事件の死刑囚や永山、秋葉原通り魔事件の加藤智大、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件宮崎勤など、実際には過去に殺人前科のない初犯で死刑が確定した死刑囚は多数存在する。
  9. ^ 女子高生コンクリート詰め殺人事件と同年に発生した名古屋アベック殺人事件では、第一審で死刑や無期懲役という極刑が当時少年2人に下されているが、そのことについては言及していない[書籍 78]
  10. ^ 永山則夫連続射殺事件大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件光市母子殺害事件といった死刑が確定した少年事件でさえ下級審は無期懲役判決だった[報道 155]。永山事件以降(および平成)に発生した少年犯罪では、第一審から上告審まで一貫して死刑判決が支持されたのは2016年(平成28年)に石巻3人殺傷事件の最高裁判決(一・二審の死刑判決を支持)が出るまでの間、長らく本事件のみであった[報道 155]

出典[編集]

判決文
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv bw bx by bz ca cb cc cd ce cf cg ch ci cj ck cl cm cn co cp cq cr cs ct cu cv cw cx cy cz da db dc dd de df dg 千葉地裁刑事第4部、1994年8月8日判決(出典:『判例時報』第1520号56頁・『判例タイムズ』第858号107号)、事件番号:平成4年(わ)第1355号/平成5年(わ)150号
  2. ^ a b c d 東京高裁刑事第2部、1996年7月2日判決(出典:『判例時報』第1595号53頁、『判例タイムズ』第924号283頁、『東京高等裁判所〈刑事〉判決時報』第47巻1 - 12号76頁、『高等裁判所刑事裁判速報集』〈平8〉78頁)事件番号:平成6年(う)第1630号
  3. ^ a b c d e f g 最高裁判所第二小法廷、2001年12月3日判決(出典:最高裁判所裁判集刑事編〈集刑〉第280号713頁)事件番号:平成8年(あ)第864号
書籍出典
  1. ^ a b c d e f 永瀬 2004, pp. 92-93
  2. ^ a b 宝島社 2017, pp. 182-183
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『週刊新潮』1992年3月19日号p.145-149、『FOCUS』1992年3月20日号p.68-73の出典
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『週刊新潮』(新潮社)1992年3月19日号p.145-149 特集「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 『FOCUS』(新潮社)1992年3月20日号p.68-73「『待伏せ刺殺』『溶解炉』『伯母撲殺』『妹殺し』 続発『残酷殺人』若者の動機」○○一家4人を待伏せして殺した「19歳のワル」
  3. ^ 『週刊新潮』(新潮社)2001年12月13日号p.34「インシデントTEMPO『死刑が確定した一家惨殺「19歳の結末」』」
報道出典(※見出し部分に死刑囚の実名が含まれる場合、その箇所を姓のイニシャル「S」に置き換えている。)
  1. ^ a b c d e f g h i j k 千葉日報』1992年3月7日朝刊1面「一家4人殺される 市川 店員の少年を逮捕『金欲しさに強盗』と自供」
    『千葉日報』1992年3月7日朝刊社会面19面「凶行におびえる住民 市川の一家4人殺害事件 『こんな身近な所で…』 新興住宅地に衝撃」「涙浮かべ言葉なく 長女の通う保育園の保母」
  2. ^ a b c d 『千葉日報』2017年12月20日朝刊1面「市川一家4人殺害 元少年の死刑執行 永山元死刑囚以来20年ぶり 再審請求中、群馬3人殺害も」
  3. ^ a b c d e f 『千葉日報』1992年11月6日朝刊社会面19面「市川の一家4人殺害 強盗殺人で少年起訴 公開の法廷で裁判へ」
  4. ^ a b c d e f g 『千葉日報』1992年12月26日朝刊社会面19面「少年、殺意の一部を否認 市川・一家4人殺し初公判 弁護側 未必の故意主張」「大きな体、小さな声…少年の心の叫び聞こえず」
  5. ^ a b c d 日本経済新聞』1992年11月6日朝刊社会面39面「公開の法廷へ 社長一家殺人の19歳少年 『強盗殺人』で起訴」
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 読売新聞』1992年3月6日東京夕刊社会面19面「一家4人殺される 市川のマンション 部屋に高一の養女 男友達も、事情聴く」
    『読売新聞』1992年3月7日東京朝刊社会面31面「19歳店員を逮捕 市川の一家4人殺し 犯行ほぼ自供 帰宅親子を次々 前日から強盗目的で侵入 一家とは面識なし」
    『読売新聞』1992年3月7日東京夕刊社会面15面「千葉・市川の一家4人殺し容疑者 計画的犯行か」
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 朝日新聞』1992年3月6日夕刊社会面19面「一家4人刺殺される 長女・友人から聴取 市川」
    『朝日新聞』1992年3月7日朝刊社会面31面「19歳の少年を逮捕 カネ目当て、次々襲う 市川の家族4人殺人容疑」
    『朝日新聞』1992年3月7日朝刊千葉版27面「残忍な犯行『なぜ』 市川の一家4人殺人、強殺容疑で少年逮捕へ 金奪い次々と殺す 長女も背中に刺し傷」
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 日本経済新聞』1992年3月6日夕刊社会面19面「一家4人殺される? 千葉・市川のマンション」
    『日本経済新聞』1992年3月7日朝刊社会面31面「金欲しさ、帰宅待ち凶行 市川の一家4人殺害 19歳少年を逮捕 祖母絞殺後、次々と 長女も監禁 金工面の電話させる」「残忍な犯行 大きな衝撃」「少年犯罪、凶悪化の一途」
    『日本経済新聞』1992年3月7日夕刊社会面11面「市川の一家4人殺害 少年を本格追及 千葉県警」「『園児には話せない』二女の保育園」
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 中日新聞』1992年3月6日夕刊社会面19面「一家4人刺殺される 長女と男友達から聴取 千葉のマンション」
    『中日新聞』1992年3月7日朝刊社会面31面「千葉の一家4人殺し 少年が自供、逮捕 家人帰宅待ち次々凶行『金が欲しかった』長女も刺し監禁」「低年齢・凶悪化 相次ぐ少年犯罪」
  10. ^ a b c d e “市川一家殺害など2人の死刑執行 1人は犯行時に未成年”. 朝日新聞 (朝日新聞社). (2017年12月19日). オリジナル2017年12月19日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20171219122915/https://www.asahi.com/articles/ASKDM3JXQKDMUTIL011.html 2017年12月19日閲覧。 
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  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 『朝日新聞』1992年3月10日朝刊千葉版22面「重い課題(衝撃の刃・報道検証 市川の一家4人殺人)千葉 長女『参考人』に予断 実は最大の被害者 『単独犯』に記者席騒然」
  20. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『朝日新聞』1992年3月8日朝刊千葉版29面「残忍な手口(衝撃の刃 市川の一家4人殺人:上)計画性も浮き彫りに 多くの人の心に傷」
    『朝日新聞』1992年3月9日朝刊千葉版27面「甘えた生活(衝撃の刃 市川の一家4人殺人:下) 部屋代10万母親支払い 無断欠勤たびたび」
  21. ^ a b c d e f g h i 『東京新聞』2001年12月4日朝刊1面「犯行時19歳の死刑確定へ 市川の一家4人殺害 最高裁が上告棄却」
    『東京新聞』2001年12月4日朝刊社会面27面「早く消えたい…自暴自棄にも 今は生き抜き罪あがないたい 僕の経験が反面教師になれば 『死刑確定』の当時19歳、心境赤裸々に 市川4人殺害 本紙に告白手記 今なおいえぬ遺族の心の傷」
  22. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『中日新聞』1992年3月10日夕刊ワイド面右8面「特報ワイド/千葉の一家4人殺害容疑者 19歳少年、犯行の背景 影落とす複雑家庭環境 人への思いやり育たず 一時は甲子園を目指す」
  23. ^ a b c 『朝日新聞』1992年11月6日朝刊第二社会面30面「強盗殺人罪などで少年を起訴 市川の一家4人殺害事件」
    『朝日新聞』1992年11月6日朝刊千葉版27面「市川の一家4人殺人で少年起訴 刑事処分妥当と判断」
  24. ^ a b c d e 『朝日新聞』1993年2月18日朝刊千葉版23面「傷害・恐喝などの被告を追起訴 市川の四人殺害事件/千葉」
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  27. ^ a b c d 『日本経済新聞』1992年3月11日朝刊社会面39面「長女使い通帳奪う 千葉の一家殺害の少年」
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  29. ^ a b 『千葉日報』1992年3月12日朝刊社会面19面「悲しみ誘う養女の姿 市川の一家4人殺害 近所の人たちで通夜」
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  31. ^ a b c d e f g 『千葉日報』1992年3月8日朝刊社会面19面「市川・一家4人殺害の少年 『暴力団に脅され』 取り調べで容疑認める 被害者宅から凶器の包丁」「一夜明け悲しみ新た」「凶悪化を象徴 相次ぐ少年犯罪」「子供たちには話しません 衝撃隠せぬ長女の保育園」
  32. ^ a b c 『日本経済新聞』1992年3月8日朝刊社会面31面「『200万円欲しくて』 市川の一家殺害 逮捕の少年供述」
  33. ^ a b c d e f 『読売新聞』1992年3月8日東京朝刊社会面31面「一家4人殺害 『200万円欲しかった』 容疑者の少年供述『ヤクザに脅されて』」
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  35. ^ a b c d e 『千葉日報』1992年3月9日朝刊社会面19面「音楽好き、英語も得意… 残忍さの裏に意外性 市川の一家4人殺害 少年を送検」
  36. ^ 『読売新聞』1992年3月9日東京朝刊第二社会面30面「千葉・市川の一家4人殺害事件 19歳の少年を送検」
  37. ^ a b 『千葉日報』1992年3月10日朝刊社会面18面「背中の傷、肺まで 一家4人殺害で解剖」
  38. ^ a b c 『千葉日報』1992年3月13日朝刊社会面19面「惨劇の記憶生々しく 市川の4人殺害事件から1週間 欲しい物は欲しい 容疑者の少年 幼児のような人間性」「遺影に最後の別れ 悲しみの中、4人の葬儀 養女を気遣う住民も」
  39. ^ a b c d e f 『東京新聞』2000年7月29日夕刊11面「前線日記 19歳で一家4人殺害 拘置所からの手紙 『凶悪犯罪生む勝ち組社会』『夢も希望もない』 少年法厳罰化『きっと変わらない』」
    『中日新聞』2000年7月29日夕刊11面「死刑判決元少年からの手紙 『少年法考えなかった』『私は将来を求めない』 あの日がフラッシュバック 法改正しても『変わらぬ』 『勝ち組』社会に不平等感」
  40. ^ a b c d e f g 『朝日新聞』1992年3月19日朝刊第三社会面29面「原則実名から広がる匿名 2つの殺人事件報道―新聞編(メディア)」(※本事件と、前月に発生した飯塚事件における犯罪被害者の実名報道のあり方についての記事)
  41. ^ a b c 『朝日新聞』1992年3月18日朝刊29面「『匿名』『実名』分かれる判断 2つの殺人事件報道―テレビ編(メディア)」(※本事件と、前月に発生した飯塚事件における犯罪被害者の実名報道のあり方についての記事)
  42. ^ a b 『日本経済新聞』1992年3月26日朝刊社会面39面「19歳少年精神鑑定へ 千葉の一家4人殺し」
  43. ^ a b 『千葉日報』1992年11月6日朝刊社会面19面「少年を精神鑑定へ 市川の一家4人殺し 責任能力など分析」「実名報道で要望書」
  44. ^ 『読売新聞』1992年3月26日東京朝刊社会面31面「千葉・市川の一家4人殺し 少年を鑑定留置」
  45. ^ a b 『千葉日報』1992年6月17日朝刊社会面19面「市川・一家4人殺害の少年 9月上旬まで鑑定延長 『責任能力』さらに詳しく」
  46. ^ a b c d e f g h 『千葉日報』1993年11月23日朝刊社会面19面「『責任問えるが性格異常』弁護側鑑定を採用 市川の一家4人殺し 千葉地裁4回公判 情状面で有利な資料」
  47. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『読売新聞』1993年5月20日千葉県版朝刊京葉面26面「再度、被告の精神鑑定へ 市川の一家4人殺害 公判の長期化必至」
  48. ^ a b c d e 『読売新聞』1993年11月21日千葉県版朝刊京葉面26面「市川の一家4人殺し 『被告の病質は矯正可能』 新たな鑑定出る 上智大の福島教授 小田鑑定とは異なる結果」
  49. ^ 『中日新聞』1992年10月2日朝刊社会面27面「4人殺害の少年『刑事処分相当』 千葉地検が家裁送致」
  50. ^ 『朝日新聞』1992年10月3日朝刊千葉版27面「『刑事処分相当』と少年を家裁に送付 市川の家族4人殺害」
  51. ^ 『朝日新聞』1992年10月28日朝刊千葉版27面「少年を地検へ逆送致 家裁で4回審判 市川の一家4人殺人」
  52. ^ 『中日新聞』1992年11月6日朝刊社会面31面「一家4人殺害の19歳少年を起訴 千葉、公開法廷へ」
  53. ^ 『読売新聞』1992年11月6日東京朝刊社会面31面「千葉・市川の一家4人殺し 19歳少年を起訴」
  54. ^ a b c d 『千葉日報』1993年2月18日朝刊社会面19面「事件前にも数々の犯行 市川の一家4人殺害の少年 千葉地検 4つの罪で追起訴」
  55. ^ a b c d e 『朝日新聞』2001年12月4日朝刊1面「上告棄却で犯行時19歳の死刑確定 千葉・市川の一家殺傷事件」
    『朝日新聞』2001年12月4日朝刊社会面33面「『適用基準』改めて確認 市川の殺人、未成年の死刑確定<解説>」
  56. ^ a b c d e 『朝日新聞』1992年12月26日朝刊千葉版19面「少年、強盗殺人の一部否認 家族4人殺人事件の初公判 千葉」
    『朝日新聞』1992年12月26日朝刊社会面23面「2人について殺意を否認 市川市の『4人殺害』事件公判」
  57. ^ 『産経新聞』1992年12月26日東京朝刊社会面「2人について殺意否認 千葉の4人殺し少年の初公判」
  58. ^ a b c d e f g h i 『千葉日報』1993年3月4日朝刊社会面19面「残虐な連続犯行を詳述 市川一家4人殺し 第2回公判で検察側」「血に染まった凶器に驚く被告」
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    『千葉日報』1994年8月9日朝刊社会面19面「『冷酷、非道』と断罪 市川市の一家4人殺害判決 被告、判決にも表情変えず 一瞬、静まり返る廷内」「千葉地裁前 傍聴券を求め長い列 異常な犯罪に強い関心」「判決に失望 死刑廃止議員連盟が声明」「解説 死刑存廃論議に波紋 少年犯罪に厳しい姿勢」
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    『産経新聞』2000年11月6日大阪朝刊「【BOOK・本】『19歳の結末―一家4人惨殺事件』 祝康成著」(文化部記者:梶山龍介)
  155. ^ a b 『朝日新聞』2010年11月26日朝刊宮城全県版第一地方面29面「向き合った極刑の重み 石巻・3人殺傷に死刑判決 ドキュメント/宮城県」(※石巻3人殺傷事件裁判員裁判により死刑判決が言い渡されたことを伝える記事)
各種声明出典
  1. ^ a b c d e “法務大臣臨時記者会見の概要” (プレスリリース), 法務省法務大臣上川陽子), (2017年12月19日), オリジナル2017年12月23日時点によるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20171223152255/http://www.moj.go.jp/hisho/kouhou/hisho08_00961.html 2017年12月23日閲覧。 
  2. ^ “【抗議声明】2017年12月19日 ××さん(東京拘置所)、Sさん (東京拘置所)死刑執行に対する抗議声明”. 死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90. (2017年12月19日). オリジナル2017年12月21日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20171221120807/http://forum90.net/info/archives/5 2017年12月21日閲覧。 (※「××」は、Sと同日に死刑執行された死刑囚の実名。)
  3. ^ “死刑執行に強く抗議し、改めて死刑執行を停止し、2020年までに死刑制度の廃止を目指すべきであることを求める会長声明”. 日本弁護士連合会(日弁連、会長:中本和洋). (2017年12月19日). オリジナル2017年12月21日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20171221121119/https://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2017/171219.html 2017年12月21日閲覧。 
  4. ^ “死刑執行に対する会長談話” (PDF). 千葉県弁護士会(会長:及川智志). (2017年12月20日). オリジナル2018年2月22日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180222160636/https://www.chiba-ben.or.jp/opinion/pdf/voicelist/364825ed781021aa7f3850681625082c.pdf 2018年2月22日閲覧。 
  5. ^ “死刑執行に関する声明” (PDF). 犯罪被害者支援弁護士フォーラム(VSフォーラム、共同代表:杉本吉史・山田廣). (2017年12月19日). オリジナル2017年12月21日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20171221121948/https://www.vs-forum.jp/wp-content/uploads/2017/12/171219.pdf 2017年12月21日閲覧。 

参考文献[編集]

参考判決文[編集]

  • 千葉地方裁判所刑事第4部判決 1994年(平成6年)8月8日 『判例時報』第1520号56頁・『判例タイムズ』第858号107号、平成4年(わ)第1355号/平成5年(わ)第150号、『傷害強姦致傷強盗殺人強盗強姦恐喝窃盗被告事件』、”
    1.3名に対する強盗殺人罪、1名に対する殺人罪のほか、強盗強姦、強姦、傷害、恐喝、窃盗等の犯罪を連続して敢行した犯行当時19歳の少年の被告人に対し死刑が言い渡された事例。
    2.犯行当時、被告人に是非を弁別する能力及び是非の弁別に従って行動を抑制する能力が著しく減退し、心神耗弱の状態にあったことを疑わせる事情はないとして、被告人に完全な責任能力を認めた事例。
    3.被告人が殴打暴行を加えて傷害を負わせた後、俄に欲情を催して被害者と強いて姦淫したものであるときは、強姦の犯意を生ずる以前の傷害罪とその後の強姦罪の2罪が成立する。
    4.強盗殺人行為終了後、新たな決意で別の機会に他人を殺害したときは、たとえ時間的に先の強盗殺人に接近しその犯跡を隠蔽する意図の下に行われた場合であっても、別個独立の殺人罪が成立する。
    5.運転免許証及び自動車検査証も、刑法235条の財物である。
    6.被告人の隙を見て逃げ出した被害者の車両内から各別名義の物件を一括窃取する行為は1個の窃盗罪に当たる。
    7.暴力団員を装い金員及び免許証の交付を要求し、応じなければ、更に身体に危害を加えるべき勢威を示して畏怖させ、自動車運転免許証の交付を受けた場合は、恐喝罪が成立する。
    ”。
    • D1-Law.com(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28019082
    • 裁判官神作良二裁判長)・井上豊・見目明夫
    • 判決内容:死刑(検察側求刑同、被告人・弁護人側控訴)
  • 東京高等裁判所刑事第2部判決 1996年(平成8年)7月2日 『判例時報』第1595号53頁、『判例タイムズ』第924号283頁、『東京高等裁判所(刑事)判決時報』第47巻1 - 12号76頁、『高等裁判所刑事裁判速報集』(平8)78頁、平成6年(う)第1630号、『傷害、強姦致傷、強盗殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗被告事件(著名事件名:市川の一家四人殺害事件控訴審判決)』、”1.3名に対する強盗殺人罪、1名に対する殺人罪等を連続して犯した少年に対して死刑を言い渡した第一審判決に対する控訴が棄却された事例。”。
    • D1-Law.com(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28025020
    • 裁判官:神田忠治(裁判長)・小出錞一・飯田喜信
    • 判決内容:被告人・弁護人側控訴棄却(死刑判決支持、被告人・弁護人側上告)
  • 最高裁判所第二小法廷判決 2001年(平成13年)12月3日 『最高裁判所裁判集刑事編』(集刑)第280号713頁、平成8年(あ)第864号、『傷害、強姦、強姦致傷、強盗殺人、殺人、強盗強姦、恐喝、窃盗被告事件』「死刑の量刑が維持された事例(市川の一家強盗殺人事件)」。

関連書籍[編集]

雑誌記事[編集]

  • 週刊誌週刊新潮』(新潮社)1992年3月19日号(1992年3月12日発売)ISSN 0488-7484NDLJP:3378720全国書誌番号:00010852 p.145-149掲載 特集記事「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」
    • Sの実名・中学卒業時の顔写真、Sが事件当時住んでいた船橋市内のマンションの写真が掲載された。この中では「この事件は死刑に値する犯行」(板倉宏・当時日本大学法学部教授)「もし死刑にできないようならば保安処分にすべき」(小田晋・当時筑波大学教授)という識者の意見の一方で「(当時)死刑が廃止に向かっている時代の趨勢の中、少年の場合は殺人が行われやすい環境だったかがどうかが争点になるため、この事件でも求刑段階で死刑は難しい」(少年法に詳しい秋山昭八弁護士)という意見も載せ、その上で元法務大臣奥野誠亮の「今の時代、20歳未満だからと言って甘やかしておれる時代ではないでしょう。運転免許だって18歳で取得できるわけですから、凶悪な犯罪を犯した少年が5歳や10歳の子どもと同じ扱いにされるというのはおかしな話ですよ」などの識者意見を載せ、少年法の改正を訴える内容となっている。
  • 写真週刊誌FOCUS』(新潮社)1992年3月20日号(1992年3月13日発売)全国書誌番号:00036138 p.68-73「『待伏せ刺殺』『溶解炉』『伯母撲殺』『妹殺し』 続発『残酷殺人』若者の動機」○○一家4人を待伏せして殺した「19歳のワル」
    • Sの実名、当時『FOCUS』記者の清水潔が撮影した送検されるSの写真、被害者一家のうち男性Aと妻Dの顔写真を掲載した。
  • 新潮45』(新潮社)1999年6月号(1999年5月発売)NDLJP:3374836全国書誌番号:00043183 p.195-231「特別ノンフィクション 一家四人惨殺『十九歳』犯人の現在(いま)」祝康成
    • Sの実名を掲載した。内容は後述の永瀬の著書『19歳の結末』『19歳』の大元となっている。
  • 週刊誌週刊新潮』(新潮社)2001年12月13日号(2001年12月6日発売)ISSN 0488-7484全国書誌番号:00010852 p.34掲載 「インシデントTEMPO『死刑が確定した一家惨殺「19歳の結末」』」
    • Sの実名・中学卒業時の顔写真、Sと接見を重ねた永瀬(当時・「祝康成」名義)のコメントが掲載された。

永瀬隼介による書籍[編集]

  • 祝康成(永瀬隼介) 『19歳の結末 一家4人惨殺事件』 新潮社2000年9月15日ISBN 978-4104398010
    • 著者の永瀬がSとの面会やSの家族、Sと結婚したフィリピン人女性の家族、熊本県在住の被害者遺族ら事件当事者たちへの取材などを重ね、Sの最高裁上告中に出版したノンフィクション。Sは実名で登場するが、その他の事件関連人物は全て仮名である。
  • 永瀬隼介 『19歳 一家四人惨殺犯の告白』 角川文庫2004年8月25日ISBN 978-4043759019
    • Sの死刑が確定した3年後の2004年、『19歳の結末』を新たに第9章「死刑」(2000年の『19歳の結末』刊行から2001年の最高裁判決まで)を描き下ろしとして加えた上で文庫化した書籍。前者同様、Sは実名で登場するが、その他の事件関連人物は全て仮名である。

その他書籍[編集]

  • 丸山佑介 「13【少年犯罪】市川一家殺人事件」『判決から見る猟奇殺人ファイル』 彩図社2010年1月20日、122-131頁。ISBN 978-4883927180
    • Sの実名を掲載した。
  • 犯罪事件研究倶楽部 「市川一家4人殺人事件」『日本凶悪犯罪大全SPECIAL』 イーストプレス2011年12月16日ISBN 978-4781606637
    • Sの実名を掲載した。なお、ルビはイニシャルで「S・M」となっているが、正しくは「S・T」である。
  • 蜂巣敦山本真人 「市川市一家四人殺害事件―人間が暴発する直前に見た『意味』と『無意味』のパノラマ」『殺人現場を歩く』 ちくま文庫2008年2月6日、59-73頁。ISBN 978-4480424006
    • Sの実名を掲載した。
  • 福田洋 「「千葉・十九歳少年、一家四人殺し」」『20世紀にっぽん殺人事典』 社会思想社2001年8月15日、687-688頁。ISBN 978-4390502122
    • この文献では「事件当日午後にSが路上でBと出会い、脅してB宅に案内するよう命じた」とあるが、これは誤りである。
  • 村野薫(編集)、事件・犯罪研究会 (編集)、鎌田正文 「市川の一家4人殺害事件」『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』 東京法経学院2002年7月5日、45-46頁。ISBN 978-4808940034
  • 山口敏太郎 「十五…うなぎ」『恐怖・呪い面~実話都市伝説』 TO文庫2013年6月1日ISBN 978-4864721271
  • 山口敏太郎 「うなぎ(1992)」『秘・テレビでは言えなかった! 山口敏太郎の怖すぎる都市伝説』 TOブックス2016年12月25日ISBN 978-4864725392
  • 鈴木ユーリ 「昭和・平成「少年犯罪」狂気の系譜 変わりゆく"少年A"と"少女A"の実像 「ヤンキー型犯罪」と「理由なき殺人」の果てに」『昭和・平成 日本の凶悪犯罪100』 宝島社2017年7月26日、182-183頁。ISBN 978-4800273413
  • 年報・死刊廃止編集委員会 『世界のなかの日本の死刑 年報・死刑廃止2002』 インパクト出版会2002年7月15日、234,238。ISBN 978-4755401237
  • 年報・死刊廃止編集委員会 『死刑廃止法案 年報・死刑廃止2003』 インパクト出版会、2003年7月15日、360,365。ISBN 978-4755401312
  • 年報・死刊廃止編集委員会 『無実の死刑囚たち 年報・死刑廃止2004』 インパクト出版会、2004年9月20日、292,299。ISBN 978-4755401442
  • 年報・死刊廃止編集委員会 『オウム事件10年 年報・死刑廃止2005』 インパクト出版会、2005年10月8日、196,204。ISBN 978-4755401572
  • 年報・死刊廃止編集委員会 『光市裁判 年報・死刑廃止2006』 インパクト出版会、2006年10月7日、278,287。ISBN 978-4755401695
  • 年報・死刊廃止編集委員会 『死刑と憲法 年報・死刑廃止2016』 インパクト出版会、2016年10月10日、220頁。ISBN 978-4755402692
  • 年報・死刊廃止編集委員会 『ポピュリズムと死刑 年報・死刑廃止2017』 インパクト出版会、2017年10月15日、188,205。ISBN 978-4755402807
    • 2006年版ではSの実名を掲載したが、2016年版、2017年版では「犯行当時少年で、実名掲載の了承が得られていない」としてイニシャル表記「S・M」(正しくは「S・T」)されている。

関連論文[編集]

関連項目[編集]

  1. ^ 永瀬 2004.
  2. ^ 丸山 2010.
  3. ^ 犯罪事件研究倶楽部 2011.
  4. ^ 蜂巣 2008.
  5. ^ 山口 2013.
  6. ^ 山口 2016.
  7. ^ 宝島社 2017.
  8. ^ インパクト出版会 2002.
  9. ^ インパクト出版会 2003.
  10. ^ インパクト出版会 2004.
  11. ^ インパクト出版会 2005.
  12. ^ インパクト出版会 2006.
  13. ^ インパクト出版会 2016.
  14. ^ インパクト出版会 2017.