女子高生コンクリート詰め殺人事件

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女子高生コンクリート詰め殺人事件
場所 東京都足立区綾瀬
日付 1988年11月25日夕方 - 1989年1月5日
日本標準時
概要 暴行強姦殺人死体遺棄
攻撃手段 拉致
攻撃側人数 4人+その他複数
死亡者 女子高生(17歳)
損害 死亡
犯人 少年4名
対処 懲役刑
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女子高生コンクリート詰め殺人事件(じょしこうせいコンクリートづめさつじんじけん)は、1988年昭和63年)11月から1989年(昭和64年)1月の間に東京都足立区綾瀬で起きた猥褻誘拐略取監禁強姦暴行殺人死体遺棄事件の通称である。東京高等裁判所の控訴審における事件番号平成2う1058

この事件は、加害者が全て少年(未成年者)であったこと、犯罪内容が重大・悪質であったこと、犯行期間も長期におよび、少女が監禁されていることに気づいていた周囲の人間も被害者を救わなかったこと、凶悪事件とは無縁と思われていた閑静な高級住宅街で起きた事件であることなどから、社会に大きな衝撃を与えた。

事件の概要[編集]

本事件の刑事裁判で犯行への関与が認定されたのはいずれも犯行当時少年のA(犯行当時18歳[判決 1]、足立区在住の無職[新聞 1])、B(犯行当時17歳[判決 1]、足立区在住の無職[新聞 1])、C(犯行当時15 - 16歳[判決 1])、D(犯行当時16 - 17歳[判決 1])の4名である。以下、判決が認定してきた事実に基づき記載する(出典元の判例については#判決文参照)。

少年らの先輩には足立区を根城にしている暴力団の組員がおり、Aらはその組の青年部組織を気取って「極青会」と名乗っていた[新聞 2]。Aらは暴力団の花売りをしたり、町でひったくりを繰り返し、少女の監禁中にも十数件のひったくりを重ねていたばかりか、別の婦女暴行事件も起こしていた[新聞 2]

拉致・監禁と強姦・暴行[編集]

1988年11月25日夕方[判決 2]、AはCとともに通行人からのひったくりか、若い女性を狙って強姦しようとして、それぞれ原付バイクに乗って埼玉県三郷市内を徘徊していた[判決 3]。その中で自転車でアルバイト先から帰宅途中の女子高生(当時17歳、埼玉県立八潮南高等学校3年生)を見つけ[新聞 3]、CはAから「あの女を蹴飛ばしてこい」と指示を受けたため、女子高生もろとも自転車を蹴倒して側溝に転倒させた[判決 3]。Cがその場を離れた後、Aは何食わぬ顔で少女に近づいて言葉巧みに「今、蹴飛ばしたの(C)は気違いだ。俺もさっきナイフで脅かされた。危ないから送ってやる」などと申し向けて少女を信用させて近くの倉庫内へ連れ込み、一転して「自分はさっきのやつの仲間で、お前を狙っているヤクザだ。俺は幹部だから俺の言うことを聞けば命だけは助けてやる。セックスをさせろ」「声を上げたら殺すぞ」などと少女を脅迫して関係を迫り、同日午後9時50分ころ、タクシーで少女をホテルへ連れ込み強姦した[判決 3]

Aは同日午後11時頃、ホテルからかねて自分たちのたまり場になっていたCの家へ電話し、Bに「狙っていた女を捕まえてセックスした」などと話したが、BがAに対し「女を帰さないでください」などと言ったことからBと待ち合わせることとした[判決 3]。AはB・Aとはぐれて帰宅していたC・BのところにいたDの3人が、連れ立って約束の待合わせ場所へ赴き、少女を連れたA・B両名と合流した[判決 3]。AはBらに対し「(少女を)ヤクザの話で脅かしているから、話を合わせろ」などと言い含め、4人は少女を連れて翌26日午前零時半頃公園に移動した[判決 3]。そこでAはジュースを買いに行くという名目で、C・D及び少女のいる所からやや離れた自動販売機の置かれた場所付近にBと共に行き、Bに「あの女どうする」と尋ねると「さらっちゃいましょうよ」などと返されたことから少女を猥褻目的で略取、監禁することとした[判決 3]

4人は少女を拉致しつつ、その公園からCの自宅近くの別の公園に移動する間、CはA・B両名らの意を受けて少女を自室に監禁することを了承、Dもそれまでの成り行きからAらの意図を了解し、4人は少女を猥褻目的で略取、監禁することについて共謀した[判決 3]。Aが少女に対し「お前はヤクザに狙われている。仲間がお前の家の前をうろうろしているから匿ってやる」などと嘘を申し向けて脅迫し、4人で少女をCの自宅の2階の部屋(6畳)へ拉致し、同日からこの日から少女を殺害するまでの間監禁した[判決 3]

少女をCの自室に連れ込んだ後、4人は少女を交替で監視することとしたが、同月28日頃の深夜、4人に加えて不良仲間の2人の少年(E・F)がCの居室にたむろしていた[判決 3]。その際、Aは仲間たちに少女を輪姦させようと企て、Bら3人や、E・Fらと共に代わる代わる覚醒剤を飲んで半狂乱になったように装って少女に襲いかかり、必死に抵抗する少女の口や手足を押さえ付けて馬乗りになるなどの暴行を加え、少女の着衣をはぎ取り、AがBら3人やE・Fにも裸になれと命じ、これを受けてA・B両名以外の4人は着衣を脱ぎ捨て、E・F・Dの順に少女を強姦した[判決 3]。その際、Aは剃刀を持ち出して少女の陰毛を剃り、更にその陰部マッチの軸木を挿入してをつけるなどの凌辱に及び、少女が熱がるのを見て仲間らで面白がるなどした[判決 3]

少女は当初、逃げ出そうとしたり、隙を見て自宅に電話しようとしたが、激しい暴行に加え、少年らがヤクザ言葉を使っているのに怯えて抵抗を諦めた[新聞 4]。また、最初に監禁された際にはAが仲間たちの前で「しばらくしたら帰してやる」と話していたため、その言葉を信じた可能性もある[新聞 4]

同年12月上旬頃、少女が逃走しようとした上に警察への通報を図ったことに腹を立て、A・B・Cの3人が少女の顔面を拳で多数回にわたって殴り、Aが少女の足首にライターの火を押し付けて火傷を負わせるなどした[判決 3]。Aらはその後も、時に別の不良仲間を加えるなどして、少女を全裸にしてディスコの曲に合わせて裸踊りさせたり、自慰行為を強要したり、少女の顔にマジックペンで髭を描いて興じたり、少女の陰部に鉄筋を挿入して何回も出し入れしたり、肛門ガラス瓶を挿入するなどの異物挿入をしたり、少女にシンナーを吸引させてウイスキー焼酎などの一気飲みするよう強要し、寒気の厳しい夜中、少女を半裸でベランダに出して牛乳などを多量に飲ませ、たばこを2本一度にくわえさせて吸わせるなど度重なる暴行、凌辱を繰り返した[判決 3]。同月中旬から下旬頃、Aは少女が失禁した尿を踏んだということを口実に、BやCが少女の顔などを拳で何度も殴りつけ、少女の顔面が腫れ上がり変形したのを見て「でけえ顔になった」などと言って笑った[判決 3]。その暴行の場にはAはいなかったが、翌日Cが「あんまり面白いからAにも見てもらおう」などと言い、自慢気にAにEの顔を見せた。Aはその変わりように驚いたものの、これに触発されたように自らも少女を多数回殴打し、少女の太もも、手などに揮発性のを注ぎライターで点火し、火が消えると更に同じような行為を繰り返して火傷を負わせた[判決 3]。この頃、少女は度重なる暴行に耐えかねて「もう殺して」などと哀願することもあった[判決 3]。Aらは同月中旬頃から、主にCの兄Gに少女の監視役をさせるようになったが、その頃から少女は少量の食物しか与えられず、年末頃には牛乳をわずかに与えられる程度になり、栄養失調とAらの度重なる暴行により心身ともに極度の衰弱状態に陥り、食欲は減退して顔面は腫れ上がり、手足などの火傷は膿みただれて異臭を放つなどし、階下のトイレへ行くことも困難で、終日監禁場所であるCの部屋で横たわっていた[判決 3]

殺害・死体遺棄[編集]

1989年(昭和64年)1月4日、Aは前日夜から早朝にかけて行った賭け麻雀に大敗した後、Dの家に赴いたところ、B・C両名らがDと共に居合わせていた[判決 3]。4人はそこでファミリーコンピュータなどで遊んだが、麻雀に負けた鬱憤を少女へのいじめによって晴らそうと考えたAは「久し振りに、少女をいじめに行くか」などと言い出し、まずCとDを先にC宅へ行かせ、若干遅れてBと共に自らもC宅へ赴いた[判決 3]。このように4人は相前後して監禁場所のC宅に集まったが、少女はAらの暴行などにより、前述のように顔が変形するほどに腫れ上がり、手足などの一部は焼け爛れて化膿し、栄養失調に陥り、極度の衰弱状態で横たわっていた[判決 3]

A・B・Cの3人は午前8時頃からCの部屋において、少女にBの羊羹を与えて「これは何だ」と問い、少女が「B羊羹」と答えると「なんでBを呼び捨てにするんだ」などと因縁をつけて再び同様の質問をし、「B羊羮さん」と答えると「なんで羊羮にさんをつけるんだ」などと詰め寄って少女へのリンチを開始した[判決 3]。3人で少女の顔などを多数回拳で殴り、背を足で蹴るなどの暴行を加え、AとBが蝋燭(Aがいじめの小道具に買い求めていた)に点火して少女の顔面に溶けたを垂らして顔一面を蝋で覆い尽くし、両に火のついたままの短くなった蝋燭を立てるなどして面白がったが、これに対して少女はほとんど反応を示さず、されるがままになっていた[判決 3]。その暴行が始まった直後、DはGと共に隣室にいたが、この頃Aの指示を受けたCに呼ばれて、部屋へ入りAら3人と合流した[判決 3]。Aは、衰弱して自力で階下のトイレへ行くこともできない少女が飲料パックに排泄した尿についてわざと「やばいよ、そんなものを飲んじゃあ」などと言い、BやCらに対し、暗に少女にその尿を飲ませるよう示唆した[判決 3]。これを受けてBやCらは、少女に「(尿を)飲め」と強く言い、パック内の尿をストローで飲ませた[判決 3]。次いでBとCが少女の顔面を回し蹴りし、少女が倒れると無理やり引き起こして、さらに蹴りつけるなどしたところ、少女は何ら身を守ろうとせず、不意に転倒して室内のステレオにぶつかり痙攣を起こすなどした[判決 3]。Aらは遅くともこの頃までには、このまま暴行を加え続ければ少女が死亡するかも知れないことを認識したが、その後もその危険を認識しながら、BとCが転倒した少女に殴る蹴るなどの暴行を加えたのを始めとして、更に少女に対して後述のような激しい暴行を加え続け、そのために少女は鼻血を出し、崩れた火傷の傷から血膿が出て血が室内に飛び散るなど凄惨な状況となった[判決 3]

Dは、素手では血で手が汚れると考え、ビニール袋で拳を覆い、ガムテープでこれを留めた上、拳で少女の腹部や肩などを力任せに数十回殴りつけ、Aらもこれに倣って拳をビニール袋で包み、次々に少女の顔、腹部、太ももなどを拳で殴りつけて足蹴りするなどし、更に、Aが鉄球を含む総重量約1.74kgのキックボクシング練習器の鉄製脚部を持ち出し、その鉄球部分でゴルフスイングの要領で少女の太もも等を力任せに多数回にわたり殴りつけ、Bらもこれに倣って代わる代わる少女の太ももなどをその鉄球で数十回殴打し、Dは肩の高さから鉄球を少女の腹部めがけて2、3回落下させた[判決 3]。Aは繰り返し揮発性油を少女の太ももなどに注ぎ、ライターで火を点けるなどしたが、少女は最初は手で火を消そうとする仕草をしたものの、やがてほとんど反応を示すこともなくなり、ぐったりとして横たわったままになった[判決 3]

これらの一連の暴行を当日の午前8時頃から10時頃まで、約2時間にわたって休みなく続けた結果、少女は重篤な傷害により、同日午後10時ころまでの間に死亡した[判決 3]

A・B・Cは翌5日、自分たちが出入りしていた暴力団関係者の経営する花屋にいた際、Gから「少女の様子がおかしい」と電話で連絡を受けてCの居室へ赴き、少女が死亡したことを知ったが、犯行の発覚を恐れて同日午後6時頃、Gと共謀して、少女の遺体を遺棄しようと企てた[判決 3]。遺体を毛布で包み、大型の旅行かばんに入れてガムテープを巻きつけ、Aがかつての仕事先からトラックを借り出したり、セメントを貰い受けて近くの建材店からブロックを盗み出し、トラックで遺体と、付近で取ってきたごみ入れ用のドラム缶をC宅前に運び、そこでコンクリートを練り上げて遺体の入ったかばんをドラム缶に入れ、コンクリートをドラム缶に流し込み、更にブロックや煉瓦を入れて固定し、ドラム缶に黒色ビニール製ごみ袋を被せてガムテープで密閉した[判決 3]。その後A・B・Cの3人が同日午後8時頃、トラックでドラム缶を運び[判決 3]東京都江東区若洲の埋め立て地(現在の若洲海浜公園敷地内)に遺棄した。

少女を自宅に監禁していたCの父親は12月初め、Cの部屋で奇声が聞こえたので注意しようと2階に上がった[新聞 5]。Cの父親は「うるさいぞ」と注意して部屋に入ろうとしたが中に入れてもらえず、その際に女性の声がしたため「女の子が遊びに来ている」と思ったという[新聞 5]。12月末のある日には被害者少女とみられる女性が2階にいることを知ったため[新聞 5]、両親は少女にドアの外から「食事を挙げるから出てきなさい」と説得して1階のリビングに降りて来させ[新聞 4]、一緒に和室で夕食を摂り、その際に「家に帰りなさい」と注意したという[新聞 4]。夕食にはCと仲間の少年も同席していたが、少女はほとんど話をしなかったという[新聞 3]。両親はその後「女の子が1人だけ一階に残った隙に『帰りなさい』と声を掛け、玄関から送り出した」が、Cが間もなく逃走を知って追いかけ、連れ戻していた[新聞 4]。Cらが両親から注意を受けたのはこの1度きりで[新聞 6]、少年らから常に激しい暴行を受けていたため、怯えきっていた少女はその後、逃げ出したり助けを求めるそぶりさえできなかったとみられる[新聞 4]

捜査[編集]

同年(平成元年)3月29日、被害者の遺体が発見されたことから[判決 4]、事件が発覚した。警視庁綾瀬警察署と同庁少年二課は、前年12月に発生した別の婦女暴行事件及び、さらに別の婦女暴行1件・ひったくり20件の容疑で逮捕されていたA・B両名を少年鑑別所で余罪について取り調べたところ、供述通り江東区若洲の埋め立て地で発見したドラム缶の中から遺体を発見したため、翌30日に2人を殺人・死体遺棄容疑で逮捕した[新聞 1]。遺体の衣服は少年らが監禁中に与えたものらしく、失踪当時に着ていたものとは違った上[新聞 7]、腐敗が進んでおり、少女の家族も身元を確認できなかったため、遺体の指紋を少女の所持品の指紋と照合するなどして身元確認を進め[新聞 1]、少女と断定した[新聞 7]。少年二課と綾瀬署は同日、犯行現場となった足立区綾瀬のC宅を現場検証し、この家に住む兄弟ら少年3人(C・D・G)らが殺害に関与し、他2人の少年らが監禁・連れ去りに関与しているとみて、この5人を取り調べる方針を決めた[新聞 7]。遺体が入ったコンクリート詰めのドラム缶は重さ計305kgあり、2, 3人で持ち運べる重さではなかったため、綾瀬署は多人数でワゴン車トラックなどの車を用いて遺棄したとみて捜査した[新聞 7]。近隣住民によれば、前年末頃まで夜中にバイクの音がしたり、現場宅の2階で騒ぐ声が聞こえたりした[新聞 7]。玄関脇の電柱をよじ登って2階の部屋に出入りする少年の姿や、ベランダに脚立が置いてあるのが目撃されており、近所の主婦は「玄関を通らずに出入りしていて、両親も気づかなかったのではないか」と話していたため[新聞 7]、少年二課は少年らが、Cの家族の留守中を狙って出入りしたり、電柱を伝って部屋を出入りすることで、Cの家族と顔を合わせないようにしていたとみている[新聞 6]

警視庁少年二課・綾瀬署は4月1日付で、A・B両名を東京地方検察庁に送検し、盗みなどの容疑で少年院に収容されていた当時17歳の無職少年ら3人も犯行に加わっていたとみて、3人の逮捕状を請求して取り調べ、うち1人を逮捕した[新聞 6]

40日間も被害者を監禁した理由について、取り調べの中で少年らは「警察に捕まるのが怖かったから」としか供述しておらず、捜査員から「怖いだけなのか」と聞かれると、少年の1人は「それ以外に理由があるんですか」と問い返したという[新聞 4]

警視庁少年二課・綾瀬署は6月5日、加害少年ら4人を、前年12月23日から4日間にかけて深夜まで銀座数寄屋橋交差点近くの路上で花を売らせていたとして、足立区舎人3丁目在住の暴力団準構成員の男(当時43歳)を児童福祉法違反容疑で書類送検した[新聞 8]

刑事裁判[編集]

東京地方検察庁は最初に逮捕されたAら3人を、4月20日付で「刑事処分相当」の意見書付きで、殺人、わいせつ目的誘拐・略取、逮捕・監禁・強姦、死体遺棄の各罪で東京家庭裁判所に送致した[新聞 2]

警視庁少年二課・綾瀬署は4月24日、監禁現場となった家の長男であるCの兄G(当時17歳、都立高校3年生)を殺人、死体遺棄容疑で、同家に出入りして被害者に乱暴を働いたとして足立区内の当時16歳有職少年2人を婦女暴行容疑で、それぞれ東京地検に書類送検した[新聞 9]。3人は、先に逮捕されたAら4人に比べて犯行への関与が軽く、在宅のまま任意で取り調べられていた[新聞 9]。同26日付で東京地検は、足立区内の当時17歳少年を殺人、わいせつ目的誘拐など5つの罪で身柄を東京家裁に送致し、Gも殺人、死体遺棄容疑で東京家裁に書類送致した[新聞 10]

その後、東京家裁は5月18日までに、送致されていたA・B・C・Dの4名を、少年審判の結果「刑事処分が相当」として東京地検に逆送致した[新聞 11]

5月25日、東京地検はAら4人の少年を殺人、わいせつ目的略取・誘拐、逮捕・監禁、強姦などの罪で東京地方裁判所に起訴した[新聞 12]

第一審(東京地裁)[編集]

1989年7月31日に、東京地方裁判所刑事第4部(松本光雄裁判長)にて初公判が開かれた[新聞 13]。罪状認否で加害少年らの認否を代弁した弁護人らは、Aが未必の故意による殺人を認め、他の3人は殺意を否認し、傷害致死に留まると主張した[新聞 13]。検察側は冒頭陳述で、加害少年らは監禁から約1か月後の12月下旬頃から、少女の扱いに困り「コンクリート詰めにして海に捨てよう」などと話し合っていたと指摘した[新聞 13]。うち1人は「ドラム缶の中に、少女の好きなビデオや花束ぐらい入れてやるか」と提案したのに対して、別の2人は「そんなことをしたら、ドラム缶が見つかった際に誰かを決める手掛かりになる」と反論したと主張した[新聞 13]。殺害に至るリンチの動機について「Aが1月3日深夜から4日朝までにJR綾瀬駅付近の麻雀屋で、賭け麻雀で10万円くらい負け、その鬱憤晴らしとして、少女に八つ当たりしようと言い出したのをきっかけに行われたものだった」などと述べた[新聞 13]。4人は、本事件以外にも別の女性2人への婦女暴行、後輩へのリンチ、被害総額約220万円に上る店舗荒らし・ひったくりなどでも起訴されていた[新聞 13]。閉廷と同時に、被告人のうち1人が気を失って倒れた[新聞 13]

第2回公判は9月4日に開かれ、加害少年らが非行に走った背景として、弁護側は「複雑な家庭環境や学校でのいじめ・体罰などがあった」と指摘した上で「被告人らは、集団的なヒステリー状態とでもいうべき異常な心理状態の中で犯行をエスカレートさせた」と主張し、うち年少の2人については保護処分家庭裁判所への送致を求めた[新聞 14]

1990年(平成2年)4月23日に第23回公判が開かれ、被告人4人に対する証拠調べが終わった[新聞 15]。この日は「被告人らが逮捕された当時、『自分が犯人に何をするかわからない』『この手で殺してやりたい』といった心境だったが、それは現在も変わらない」という被害少女の父親の証言の要約が読み上げられた[新聞 15]

1990年5月21日に論告求刑公判が開かれ、東京地検は「稀に見る重大・凶悪な犯罪で、犯行の態様も極めて残虐・冷酷である。人の仮面をかぶった鬼畜の所業であり、被告人らが犯行当時少年で、うち3人は家庭環境が良好とは言い難いことを考慮しても、厳しい刑をもって臨む以外にない」として、それぞれ以下のように求刑した[新聞 16]

  • Aに対しては「一連の犯行の首謀者」として無期懲役を求刑した[新聞 16]
    • Aは福島章上智大学教授)による精神鑑定の結果「軽微な脳障害」が指摘されたが、この点について検察側は「素行不良化の位置遠因にすぎず、本件犯行との直接の因果関係は認められない」とした[新聞 16]
  • Bに対しては「Aの片腕的存在」として懲役13年を求刑した[新聞 16]
  • C・D両名に対しては「被害者に対する加害行為には積極的だったが、CはA・Bの指揮下にあり、DもAらに追従していた」として、それぞれ懲役5年以上10年以下の不定期刑を求刑した[新聞 16]

この後、6月25日・翌26日の2日間に弁護側の最終弁論が行われ、第一審は結審した[新聞 15][新聞 16]

1990年7月20日に東京地裁刑事第4部(松本光雄裁判長)で判決公判が開かれ、東京地裁は「被害者をなぶり殺しにした非人道的な犯行で刑事責任は重いが、少年による集団犯罪の特殊性などを考慮すると、精神的に未熟な少年らが事態を打開できないまま、不幸な結末に陥った側面もある。拘置中、被告人らはそれぞれ人間性に目覚めた成長が著しいなどの情状も考慮すべきである」として、以下のように判決を言い渡した[新聞 17]。情状としては、Aの両親が被害者遺族に慰謝料5000万円を支払ったこと、B・C・Dの3人は恵まれない家庭環境にあり、学校でいじめにあったことなどを考慮し、「家裁や少年鑑別所・弁護人・両親や鑑定人の接触によって人間性に目覚め、罪の重大性を認識し、その責任の自覚を深めている」ことなどから、検察側の求刑に対しいずれも酌量減軽をした[新聞 17]

  • 主犯格のAに対しては「犯行の発端を作り、主導的地位にいた。犯行の由来はAに由来するところが大きく、その刑事責任は最も重い」として、懲役17年(求刑無期懲役)を言い渡した[新聞 17]
  • 準主犯格とされるBに対しては「Aに次ぐ地位で、Aの指示を受けずに自ら被害者に暴行を加えたこともあった」として、懲役5年以上10年以下の不定期刑(求刑懲役13年)を言い渡した[新聞 17]
  • 監禁場所に自室を提供したCに対しては懲役4年以上6年以下の不定期刑(求刑懲役5年以上10年以下の不定期刑)を言い渡した[新聞 17]
  • 最も関与が薄いとされたDに対しては「終始Aらに従属的ではあったが、過激な暴行は被害者に深刻な打撃を与えた」として、懲役3年以上4年以下の不定期刑(求刑懲役5年以上10年以下の不定期刑)を言い渡した[新聞 17]

なお、A・B・Cの3人は本事件以外にも、別の女性への婦女暴行・傷害・窃盗などで起訴され、この日併せて有罪判決を受けた[新聞 17]。争点となっていた殺意の有無については「Aら4人は、極端に衰弱している被害者の処置について話し合っており、殺害当日の暴行も著しく強く、執拗だった」などとして「未必の故意」による殺意を認定した[新聞 17]

検察側はA・B・C・D全員に関する量刑不当を主張し、8月2日付で東京高等裁判所控訴した[書籍 1]。当時、少年犯罪の刑事裁判において検察側が量刑不当を理由に控訴するのは極めて異例だった。一方、Bの弁護人は量刑不当を、Cの弁護人は同少年の殺意の有無に関する事実誤認及び量刑不当を主張し、それぞれ控訴した。

控訴審(東京高裁)[編集]

1991年(平成3年)3月12日、東京高等裁判所で控訴審初公判が開かれ、同日は検察側・弁護側の双方が控訴趣意書を陳述した[新聞 18]。検察側は「犯行の悪質さとAらの非行性の根深さを考えると。第一審判決は寛大に過ぎる」と指摘し、検察庁・裁判所に判決を批判する投書・電話が多数寄せられたことなどを引きながら、「犯した罪の責任に応じ、社会一般の感情を納得させる量刑が求められる」とした[新聞 18]。一方で弁護側は[新聞 18]、B・C両名について「少年法の理念を踏まえて、少年の社会復帰を手助けするという観点から処分を考えるべきだ」などと述べた[新聞 18][新聞 19]

同年7月12日に判決公判が開かれ、東京高裁(柳瀬隆次裁判長)は、少年A・C・Dの3名に関して、検察側の「被告人らの反省や、その後の人間的成長などの情状を酌んでも、原判決の量刑は軽すぎる」とする主張を認めて、第一審判決を「著しく軽すぎて不当」と破棄、それぞれ以下の判決を言い渡した。

  • 主犯格の少年Aに対しては「主犯格で罪責は極めて重大」として懲役20年の判決を言い渡した[新聞 19]
  • 少年Cに対しては「被害者を自宅に監禁し、手加減なく強度の暴行を加えた」として懲役5年以上9年以下の不定期刑の判決を言い渡した[新聞 19]

少年Dに対しては「終始犯行に加わり、すさまじい暴行に及んだ」として懲役5年以上7年以下の不定期刑の判決を言い渡した[新聞 19]

  • 一方で少年Bに関しては懲役5年以上10年以下の不定期刑とした第一審判決を支持、双方の控訴を棄却した[新聞 19]

東京高裁は、少年に対する刑事処罰の在り方について「少年法が少年の健全な育成を図ることを目的とし、種々の配慮をしていることなどを慎重に考慮しなければならない」とする一方で「成人に比べて、常に一律に軽い量刑をもって臨めば足りるわけではなく、犯罪内容が悪質で、被害者の処罰感情が強いような場合には、それに応じた刑を科すことが社会正義を実現することになる」との判断を示した[新聞 19]。その上で、被害者に対する犯行について「人間としての尊厳に対する一片の配慮もうかがうことができず、同情すべき点も認められない」「被告人らが犯行当時いずれも少年だったことや生育環境などを考えても、責任を大幅に現実ことは相当とは言えない」とした[新聞 19]

A・B・Cの3名は上告せず、そのまま判決が確定した一方、Dのみ判決を不服として最高裁判所上告した[新聞 20]

上告審(最高裁)[編集]

1992年(平成4年)7月18日までに、最高裁判所第三小法廷(可部恒雄裁判長)はDの上告を棄却する決定をした[新聞 20]

少年たちのその後[編集]

少年Dは少年院を退院後、自宅に引きこもるようになったという。

少年Bは1999年に仮出所後、保護観察関係者の女性と養子縁組を結び姓を変えていたが、2004年(平成16年)5月19日に再び同じ足立区や三郷市で男性に言いがかりをつけ監禁し負傷させた事件(三郷市逮捕監禁致傷事件)を起こし、しかも当事件を脅し文句に使うなど更生した様子を見せず、6月4日に逮捕され、懲役4年が確定した。当時服役中だった少年Aは模範囚だったことから仮釈放の予定だったが、この事件の影響で取消になったという。主犯格少年A以外の少年たちは、出所あるいは退院後、それぞれマスコミのインタビューを受けている。

2013年(平成25年)1月に、元少年Aは振り込め詐欺で逮捕された[雑誌 1]。Aは池袋の銀行で金をおろす「受け子(出し子)」をしていたが、完全黙秘を貫いたため、詐欺グループの解明が出来ないまま、1月31日に不起訴処分となり釈放され、その後のAの足取りは不明だという[雑誌 1]

反響・影響[編集]

マスメディアの反応[編集]

この事件の加害者が4名とも未成年者であったことなどから、大々的に報道された。しかし、刑事裁判で事実関係が明らかになるまで、新聞や週刊誌、テレビなどの報道は、被害少女も不良グループの一員であり、被害少女にも非があったという論調が主流で[書籍 2]、少女の実名・顔写真が報道される報道被害が発生したばかりか、以下のようなセカンドレイプ同然の記事が掲載されていた[書籍 2]大道万里子はこれを「こうした下品で、低劣な想像力によって生み出された『断言』、もしくは巧妙なレトリックまやかしで、少女にも非がある、少女の育て方にも問題があり、両親にも責任の一端はある=被害者であった少女やその家族に、世間から逆に白い目を向けられるようなマイナスのイメージが付与されてしまっている。こんなパラドックスが許されていいはずがない」、「本音はこの事件を単なる『材料』として扱っているだけなのだ」「少女を『モノ』としていたぶり続けた少年たちと、自分たちの『はじめに死刑ありき』の目論見のための格好の材料として、やはり『モノ』として被害者を利用するだけのこれらのマスコミは、全く同質だ」と非難した[書籍 2]

  • 週刊ポスト』1989年4月21日号は、大島渚が「(少女は)決して、少年たちの反対側にいた子ではなかった」と断言した[書籍 2]
  • 女性自身』1989年4月25日号は、事件の主旨と関係ない少女のホットパンツ姿や水着姿のスナップ写真を掲載した[書籍 2]。大道はこれを「読み手の下品な好奇心と嫉妬心に迎合した、雑誌の「ウランかな主義」の最たるものだ。美人で、『男心をそそる』少女のイメージを醸し出し、死んだ後にも少女の人格を貶めている。死者に肖像権はないというのだろうか。死者に名誉毀損はないというのだろうか」と強く非難した[書籍 2]
  • 朝日新聞』1989年4月4日朝刊の「ニュース三面鏡」は、「少女は無断外泊もままある非行少女」と書き、見出しに「女高生殺人事件数々の疑問」「助け求められなかったか」と掲げた[書籍 2]。また、1990年4月19日から25日にかけて連載された「なぜ、彼らは」では「強姦」を「関係を持つ」という言葉に置き換え、そこにあたかも少女の同意があったかのようにほのめかし、「(Cの母親が)いったんは少女を送り出した」と掲載した[書籍 2]。大道万里子はこれを「この記事を読んだ人は、自ずと『少女も遊び感覚で(加害者らの家に)留まっていたのではないか……』という印象を受けるように仕向けられている」と批判した[書籍 2]
  • また、大道は加害少年らを実名報道した『週刊文春』1989年4月20日号をはじめ、『週刊新潮』1989年4月13日号、『サンデー毎日』1990年6月10日号、『女性セブン』1989年7月20日号など、加害少年に厳罰を求める論調の記事に対しても「死刑先導型報道を貼り、様々な人々にインタビューをして、少年たちを死刑にと叫ぶことこそ時流です、とばかりに論陣を張った。あらかじめ、そういう考えの持ち主にしかインタビューしないのだから、そうしたコメントが出てくるのは当たり前だ。ここにあるのは、一見正義の味方として少女や、少女の家族に同情し、犯人たちを糾弾するポーズを装いながら、実は少女を単なる素材、つまり『モノ』として扱っているという、本当にいやらしく、許しがたい態度だ」と非難した[書籍 2]

少年法では、家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、第61条の規定により本人の類推に資する全ての情報(関係者全員の名前、学校名、地名等)を報道することを禁止しているが、事件直後に発売された『週刊文春』(文藝春秋、担当記者:勝谷誠彦、編集長:花田紀凱)が加害少年らを実名報道した[雑誌 2]。『週刊文春』は2週連続で、1989年4月13日号にて「女子高生監禁・殺人の惨 彼らに少年法が必要か」[雑誌 3]、次号の1989年4月20日号にて「女子高生惨殺事件 第2弾 加害者の名前も公表せよ!」と銘打った特集記事を組み[雑誌 2]、後者で実名を掲載した[雑誌 2]。その理由として、花田は『朝日新聞』1989年4月30日朝刊に掲載されたインタビュー記事中で「第1弾の記事では匿名表記したが、第2弾の取材をしているうちに事件の凄惨さがわかってきたため、編集部内部で『これは実名報道すべきでは』という声が出てきた」「野獣に人権は無い」と説明し、反響については「正直言って反発の方が強いかなと予想していたが、意外にも抗議の声は2件程度と少なく、逆に『よくやってくれた』と称賛する投書が何十通も来た。人権云々を言う人たちには『それじゃあ、殺された被害者の親御さんの前でそのセリフが吐けますか』と問いたい気持ちです」と答えた[新聞 21]。この報道をきっかけに『週刊文春』は当時売上部数ナンバー1になり、同年に発生した名古屋アベック殺人事件や、後に発生した市川一家4人殺人事件大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件神戸連続児童殺傷事件堺市通り魔事件光市母子殺害事件などの凶悪少年犯罪が発生する度に、同誌やライバル誌の『週刊新潮』(新潮社)など週刊誌各誌が次々と加害少年を実名報道し、少年法改正論議に火をつけた。

『週刊文春』による実名報道を受け、日本弁護士連合会(日弁連)の藤井英男会長は6月23日に「立ち直り援助という少年法の原則を無視した実名報道は極めて遺憾である。また、マスコミは被害者の実名などを必要以上に報道しているが、死者の名誉、家族のプライバシーなども尊重されるべきだ」との談話を出した[その他 1][新聞 22]

『週刊文春』のライバル誌である『週刊新潮』は事件当時は少年たちの実名報道は見送ったが、1989年4月13日号にて監禁場所を提供したCの両親について「日本共産党員だという話もある」と報道した[雑誌 4]。これに対し、日本共産党は機関紙『しんぶん赤旗』で、同両親が党員であったことを認めた上で「同事件は暴力団との関係も指摘されている、許すことのできない残虐な事件であり、もちろん日本共産党とはいっさい関係ありません」との記事を掲載した[新聞 23]。その1ヵ月半後には同両親の対応を検証した特集記事が『しんぶん赤旗』に連載された[新聞 24]

識者の反応[編集]

評論家の赤塚行雄もこの事件を「狂宴的犯罪」と呼んだ[書籍 3][書籍 4]

小田晋(当時・筑波大学精神衛生学教授)は、『朝日新聞』1989年4月21日夕刊記事の中で「少年らの成熟が早まってきている。少年犯罪を未然に防ぐためにも扱いを変えるべきで、重大事件では厳しく処罰すべきだ。今回の事件は、親も含めて(加害者らを)すべて実名で報道すべきだろう」とコメントした[新聞 25]

一般の反応[編集]

犯人が全員当時少年であったことから、同年代の子供を持つ親に計り知れない衝撃を与えた。『朝日新聞』1989年4月8日朝刊投書欄には「同じ未成年でも、被害者は実名・顔写真・住所まで新聞で報道されたのに対し、加害者は実名も顔写真も少年法を理由に掲載されない。これでは殺された方の人権が無視されている一方、殺した方の人権ばかりが尊重されている」「同じ少年犯罪でも窃盗・傷害などの衝動的な物ならば、本人の将来を考え匿名とすることもやむを得ないだろうが、今回のような凶悪犯罪に限っては成人も未成年も関係ない。少年A・Bなどのような匿名ではなく、実名を掲載すべきだ」という投書が掲載された[新聞 26][雑誌 2]

発覚当初から少年らへの死刑などの厳罰を求める声があり、事件を捜査した警視庁には「加害少年らの実名を公表せよ」「極刑に処せ」などの投書や電話が相次いだ[新聞 25]。また、東京地方検察庁が第一審の論告求刑で、主犯Aへに無期懲役などを求刑してからは、東京地検に「刑が軽すぎる」「『公益の代表』としてあえて死刑を求刑し、その威嚇効果によって、少年の集団による凶悪事件が相次いでいる[注釈 1]、昨今の風潮に歯止めをかけるべきだ」など、量刑の軽さを批判するかなりの数の投書・電話が寄せられた[新聞 27]。また検察庁のみならず、東京地裁に対しても「判決の量刑が軽すぎる」などの批判の投書・電話が多数寄せられた[新聞 28]

一方で、同年に発生した名古屋アベック殺人事件の刑事裁判では第一審・名古屋地裁の1989年6月28日・判決公判で主犯格の当時19歳少年に死刑、準主犯格の当時17歳少年にも「死刑相当」とした上での無期懲役といった極刑が下された[注釈 2][新聞 29]。このことから、最高でも懲役17年(求刑無期懲役)だった本事件の第一審判決との対比でも注目された[新聞 30]。その決定的な違いについて、当時・日本大学法学部教授板倉宏は「名古屋では殺害被害者が2人、本事件は1人という殺害人数の違いがある。殺害被害者数1人では(永山基準の影響もあり)死刑判決はほとんど出ない」「確定的殺意と『未必の故意』の差が大きい。名古屋の事件では『殺してしまえ』という明確な殺意があり、事前に殺害用のロープを購入するなどの計画性もあった。それに対して本事件は『死ぬかもしれない』という未必の故意だった」と『週刊文春』1990年8月2日号の特集記事で解説した[雑誌 5]

他事件への影響[編集]

  • 新潟青陵大学大学院の碓井真史教授も、この事件の女性監禁に関する報道が翌1990年に起きた(事件発覚は2000年)新潟少女監禁事件の犯人に刺激を与えた可能性があると指摘している[書籍 5]
  • お笑いタレントのスマイリーキクチは、「この事件に関与した」とするネット上のデマが原因でいわれなき誹謗中傷を長年受け、悪質な中傷犯数十名が一斉摘発を受ける事態にまで発展した[書籍 6]スマイリーキクチ中傷被害事件)。
  • この事件の3年後(1992年)、犯行当時19歳の少年により千葉県市川市で一家5人中4人が殺害され、残る1人も強姦された市川一家4人殺人事件が発生した。この事件の加害少年は本事件を引き合いに出し「(本事件の)犯人の少年たちでさえ、あれだけのことをやっておきながら死刑どころか無期懲役にすらなっていない。それなら俺の方が犯行は長期間ではないし、犯行にあたって凶器一つ用意していないからまだ頭の中身もまともだ」、「これで俺も少年院行きか」程度にしか考えていなかった[書籍 7]。しかしその考えも虚しく、こちらの少年は第一審判決から最高裁判決に至るまで一度たりとも減軽されることなく死刑判決を言い渡されて確定し、戦後日本で37人目(永山則夫連続射殺事件の最高裁判決以降、及び平成の少年犯罪では初)の少年死刑囚となった。

書籍・映画化[編集]

  • 2003年、事件を元にしたノンフィクション・ノベル『十七歳、悪の履歴書』(作品社)が出版された。
  • 翌2004年、映画『コンクリート』が『十七歳、悪の履歴書』を原作にこの事件を“モチーフとして”映画化された[その他 2]。この映画の公開をめぐっては、事件の残虐性や「そもそも映画にする必要があるのか」などの意見がインターネットを中心に多数湧き上がり、劇場にも上映反対意見が多数届いた。その影響で5月29日から予定されていた公開は中止されたが、その後、別の劇場で7月3日から9日の一週間だけ公開された。製作者側によれば、大手レンタルチェーン店にもこの映画のビデオ・DVDを取り扱わないよう意見が多数寄せられた[その他 3]。なお、この映画のビデオ・DVDはレンタル用としてはR-15に指定されている。
  • 2004年にオークラ出版から発売された氏賀Y太の単行本『真・現代猟奇伝』に、この事件を漫画化したものが収録されている。
  • 事件を題材とした漫画作品として、樹村みのりによる『彼らの犯罪』(『ROSA』(少年画報社)1992年12月号掲載、単行本『彼らの犯罪』(朝日新聞出版、2009年)所収)がある。
  • この事件を題材とした漫画に円山みやこの作品『蟲笛』がある。
  • 天樹征丸さとうふみやの漫画『金田一少年の事件簿』の作品内に、この事件とよく似た事件がきっかけとなって起こる事件を描いた「剣持警部の殺人」という話がある。
  • 今野敏の「隠蔽捜査」では、被害者のうち2人が「1980年代末に足立区で発生した誘拐・監禁・強姦・殺人・死体遺棄事件」の犯行グループである設定。
  • 女子高生コンクリート詰め殺人事件 -壊れたセブンティーンたち
  • 17歳。

参考文献[編集]

判決文[編集]

  • 東京高等裁判所刑事第10部判決 1991年(平成3年)7月12日 高等裁判所刑事裁判例集第44巻2号123頁、平成2年(う)1058、『猥褻誘拐・略取監禁強姦殺人等被告事件』「少年法が少年の刑事事件について定める特則と量刑判断」、”少年の刑事事件の量刑に当たっては、少年法が定める特則の趣旨を考慮しなければならないが、犯罪の内容が重大、悪質で、社会秩序維持の見地や健全な正義感情等の面から厳しい処罰が要請され、被害者の処罰感情の強さを首肯できるような場合(判文参照)には、少年の未熟性、可塑性等にも適切な考慮を加えつつ、事案の程度、内容等と均衡のとれた科刑をし、少年を改善更生に努めさせることが、同法の理念に合致する。”。
    • 控訴審判決文 (PDF)”. 東京高等裁判所刑事第10部 (1991年7月12日). 2017年8月27日閲覧。

雑誌記事[編集]

  • 週刊文春』(文藝春秋)1989年4月13日号(1989年4月6日発売)p.202-205「女子高生監禁・殺人の惨 彼らに少年法が必要か」
  • 『週刊文春』(文藝春秋)1989年4月20日号(1989年4月13日発売)p.190-193「女子高生惨殺事件 第2弾 加害者の名前も公表せよ!」
    • 加害少年として逮捕されたA・B・C・Dの4人の実名が掲載された。
  • 『週刊文春』(文藝春秋)1990年8月2日号p.40-42「大特集 肝心なことを書かない新聞」『名古屋アベック殺人と女子高生コンクリート詰め殺人 「死刑と17年の落差」』」p.43-44「名古屋アベック殺人被害女性の両親が激怒 十七年でも死刑でも彼らは絶対に許せない!」
  • 『週刊文春』(文藝春秋)2013年4月24日号「25年目の末路――綾瀬コンクリ詰め殺人「主犯」が振り込め詐欺で逮捕された!」
  • 週刊新潮』(新潮社)1989年4月13日号p.132「父は薬剤師、母は看護婦という『女高生虐殺』の家」

関連書籍[編集]

論文[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この事件に前後して、名古屋アベック殺人事件(主犯格2人に第一審で死刑・無期懲役判決)や、福岡県で少年5人が車を貸さなかった工員をガソリンで焼き殺した事件(主犯格に第一審で無期懲役判決)などの事件があった[新聞 27]
  2. ^ 後に19歳少年は控訴し、名古屋高裁で破棄され無期懲役判決が確定した。17歳少年は控訴せずそのまま無期懲役が確定した。

判決文出典[編集]

  1. ^ a b c d 東京高裁判決(1991年7月12日付)p.14
  2. ^ 東京高裁判決(1991年7月12日付)p.10
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 東京高裁判決(1991年7月12日付)p.11-13
  4. ^ 東京高裁判決(1991年7月12日付)p.16

新聞報道出典[編集]

  1. ^ a b c d 朝日新聞』1989年3月31日朝刊第一社会面31面「女子校生をコンクリート詰め 少年ら数人で殺す 東京・綾瀬」
  2. ^ a b c 『朝日新聞』1989年4月21日朝刊第一社会面31面「○○さんに火も 女子高生コンクリ詰め殺人事件、3少年を家裁送致」
  3. ^ a b 『朝日新聞』1989年4月3日夕刊第一社会面15面「『帰宅説得で食事に呼んだ』 女高生殺人、監禁少年の父」
  4. ^ a b c d e f g 『朝日新聞』1989年4月17日朝刊第一社会面31面「○○さん、一度は外へ 少年の両親が逃がす 女高生殺し」
  5. ^ a b c 『朝日新聞』1989年4月2日朝刊第一社会面31面「父親、監禁の少女と会っていた 少年たちの埼玉の女高生殺人」
  6. ^ a b c 『朝日新聞』1989年4月1日夕刊第一社会面17面「一度だけ注意、監禁少年宅の父 女子高生殺しまた1人逮捕」
  7. ^ a b c d e f 『朝日新聞』1989年3月31日夕刊第一社会面23面「少年、計7人が関与 埼玉の女子高生殺し」
  8. ^ 『朝日新聞』1989年6月6日朝刊東京面「女子高生殺しの少年らに花売らせた暴力団員を書類送検 東京・足立」
  9. ^ a b 『朝日新聞』1989年4月24日夕刊第一社会面15面「犯行の仲間3人、新たに書類送検 足立区の女高生殺人」
  10. ^ 『朝日新聞』1989年4月27日朝刊第一社会面31面「少年2人を家裁送り 女子高生コンクリ詰め殺人事件」
  11. ^ 『朝日新聞』1989年5月19日朝刊第一社会面31面「『刑事処分相当』と少年ら地検に逆送 女子高生コンクリート詰め殺人事件」
  12. ^ 『朝日新聞』1989年5月26日朝刊第一社会面31面「4少年を起訴 東京・足立区の女子高生コンクリート殺人」
  13. ^ a b c d e f g 『朝日新聞』1989年8月1日朝刊第一社会面31面「マージャン負けた腹いせに、死のリンチ 女高生殺害事件で検察側が主張」
  14. ^ 『朝日新聞』1989年9月5日朝刊第一社会面31面「弁護側、2少年の保護処分や家裁送り求める 女高生コンクリート殺人」
  15. ^ a b c 『朝日新聞』1990年4月24日朝刊第二社会面30面「証拠調べ終え5月21日求刑 東京地裁 女高生コンクリ詰め殺人」
  16. ^ a b c d e f 『朝日新聞』1990年5月22日朝刊第一社会面31面「主犯に無期懲役求刑 女子高生コンクリート詰め殺人」
  17. ^ a b c d e f g h 『朝日新聞』1990年7月20日朝刊1面「主犯に懲役17年の判決 女子高生コンクリート詰め殺人事件」
  18. ^ a b c d 『朝日新聞』1991年3月12日夕刊第一社会面23面「『寛大に過ぎる1審』控訴審で検察陳述 女子高校生コンクリ殺人」
  19. ^ a b c d e f g 『朝日新聞』1991年7月12日1面「主犯格に懲役20年 コンクリート詰め殺人控訴審判決」
  20. ^ a b 『朝日新聞』1992年7月19日朝刊第二社会面30面「少年側の上告棄却 女子高校生コンクリ殺人事件」
  21. ^ 『朝日新聞]』1989年4月30日朝刊時事評論4面「花田紀凱さん 『週刊文春』編集長・46歳 少年凶悪犯を実名報道(メディアの顔)」
  22. ^ 『朝日新聞』1989年6月24日朝刊第二社会面30面「女子高校生監禁殺人事件、『実名報道は遺憾』 日弁連が談話」
  23. ^ 『しんぶん赤旗』 (日本共産党). (1989年4月7日) 
  24. ^ “追跡女子高生監禁殺害事件―甘かった親の“認識”―魔の40日間”. 『しんぶん赤旗』 (日本共産党). (1989年5月20日) 
  25. ^ a b 『朝日新聞』1989年4月21日夕刊第一社会面19面「波紋広がる女高生殺人 少年法改正の論議が活発に」
  26. ^ 『朝日新聞』1989年4月8日朝刊投書欄
  27. ^ a b 『朝日新聞』1990年7月13日夕刊らうんじ3面「犯行軌跡・量刑どう判断 女子高生コンクリート詰め殺人、19日判決」「『求刑軽い』の声も 法曹界は『妥当』が大勢」
  28. ^ 『朝日新聞』1991年3月12日夕刊第一社会面23面「『寛大に過ぎる1審』 控訴審で検察陳述 女子高校生コンクリ殺人」
  29. ^ 中日新聞』1989年6月28日夕刊1面「大高緑地アベック殺人 主犯少年(当時)に死刑 『残虐、冷酷な犯罪』 共犯の5被告、無期 - 不定期刑に 名地裁判決」
  30. ^ 『中日新聞』1990年9月12日朝刊30面「名古屋のアベック殺人 きょうから控訴審 名高裁」

雑誌報道出典[編集]

  1. ^ a b 『週刊文春』2013年4月24日号「25年目の末路――綾瀬コンクリ詰め殺人「主犯」が振り込め詐欺で逮捕された!」
  2. ^ a b c d 『週刊文春』(文藝春秋)1989年4月20日号(1989年4月13日発売)p.190-193「女子高生惨殺事件 第2弾 加害者の名前も公表せよ!」
  3. ^ 『週刊文春』(文藝春秋)1989年4月13日号(1989年4月6日発売)p.202-205「女子高生監禁・殺人の惨 彼らに少年法が必要か」
  4. ^ “父は薬剤師、母は看護婦という「女高生虐殺」の家”. 週刊新潮 (新潮社): p. 132. (1989年4月13日) 
  5. ^ 『週刊文春』(文藝春秋)1990年8月2日号p.40-42「大特集 肝心なことを書かない新聞」『名古屋アベック殺人と女子高生コンクリート詰め殺人 「死刑と17年の落差」』」
    『週刊文春』(文藝春秋)1990年8月2日号p.43-44「名古屋アベック殺人被害女性の両親が激怒 十七年でも死刑でも彼らは絶対に許せない!」

書籍出典[編集]

  1. ^ 死刑をなくす女の会 2004, p. 21
  2. ^ a b c d e f g h i j 死刑をなくす女の会 2004, pp. 128-131
  3. ^ 福田洋 『20世紀にっぽん殺人事典』 社会思想社2001年8月15日、642-643頁。ISBN 978-4390502122「名古屋・非行少年グループ、アベック殺人」
  4. ^ 村野薫(編集)、事件・犯罪研究会 (編集) 『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』 東京法経学院2002年7月5日、612頁。ISBN 978-4808940034「名古屋“噴水族”アベック殺人事件」(前坂俊之
  5. ^ 碓井真史『少女はなぜ逃げなかったか』(小学館文庫)129-130頁
  6. ^ スマイリーキクチ『突然、僕は殺人犯にされた - ネット中傷被害を受けた10年間』(竹書房
  7. ^ 永瀬隼介 『19歳 一家四人惨殺犯の告白』 角川文庫2004年8月25日、14,181-184。ISBN 978-4043759019(※市川一家4人殺人事件の死刑囚を題材にしたノンフィクション)

その他出典[編集]

  1. ^ 一連の少年事件報道等について”. 日本弁護士連合会(日弁連)会長 藤井英男 (1989年6月23日). 2017年7月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年7月13日閲覧。
  2. ^ 小田泰之(企画・製作)、倉谷宣緒(エグゼクティブプロデューサー)、菅乃廣(脚本家) (2004年5月). “『コンクリート』OFFICIAL SITE 「銀座シネパトスでの公開中止にあたって」”. ベンテンエンタテインメント. 2017年6月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年6月13日閲覧。
  3. ^ 小田泰之(企画・製作)、倉谷宣緒(エグゼクティブプロデューサー) (2004年6月1日). “『コンクリート』OFFICIAL SITE 「UPLINK FACTORYでの公開にあたって」”. ベンテンエンタテインメント. 2017年6月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年6月13日閲覧。

関連項目[編集]

  1. ^ 死刑をなくす女の会 2004.