女子高生コンクリート詰め殺人事件

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女子高生コンクリート詰め殺人事件
場所 東京都足立区綾瀬
日付 1988年
日本標準時
概要 暴行強姦殺人死体遺棄
攻撃手段 拉致
攻撃側人数 4人+その他複数
死亡者 女子高生(17歳)
損害 死亡
犯人 少年4名

女子高生コンクリート詰め殺人事件(じょしこうせいコンクリートづめさつじんじけん)は、1988年昭和63年)11月から1989年(昭和64年、平成元年)1月の間に東京都足立区綾瀬で起きた猥褻誘拐略取監禁強姦暴行殺人死体遺棄事件の通称である。事件番号平成2う1058

この事件は、加害者が全て少年(未成年者)であったこと、犯罪内容が重大・悪質であったこと、犯行期間も長期におよび、少女が監禁されていることに気づいていた周囲の人間も被害者を救わなかったことなどの点で社会に大きな衝撃を与えた。

事件の概要[編集]

本事件の刑事裁判で犯行への関与が認定されたのはいずれも犯行当時少年のA(犯行当時18歳[1])、B(犯行当時17歳[1])、C(犯行当時15 - 16歳[1])、D(犯行当時16 - 17歳[1])の4名である。以下、判決が認定してきた事実に基づき記載する(出典元の判例については#外部リンク参照)。

事件の背景[編集]

2階の部屋は鍵が掛かっており、不良少年らは近くの電柱を登って出入りしていたという。それを見かねた電力会社は登はん用のフックを外すほどであった。[要出典]

拉致・監禁と強姦・暴行[編集]

1988年11月25日[2]夕方、AはCとともに通行人からのひったくりか、若い女性を狙って強姦しようとして、それぞれ原付バイクに乗って埼玉県三郷市内を徘徊していた[3]。その中で自転車でアルバイト先から帰宅途中の女子高生を見つけ、CはAから「あの女を蹴飛ばしてこい」と指示を受けたため、女子高生もろとも自転車を蹴倒して側溝に転倒させた[3]。Cがその場を離れた後、Aは何食わぬ顔で少女に近づいて言葉巧みに「今、蹴飛ばしたの(C)は気違いだ。俺もさっきナイフで脅かされた。危ないから送ってやる」などと申し向けて少女を信用させて近くの倉庫内へ連れ込み、一転して「自分はさっきのやつの仲間で、お前を狙っているヤクザだ。俺は幹部だから俺の言うことを聞けば命だけは助けてやる。セックスをさせろ」「声を上げたら殺すぞ」などと少女を脅迫して関係を迫り、同日午後9時50分ころ、タクシーで少女をホテルへ連れ込み強姦した[3]
Aは同日午後11時頃、ホテルからかねて自分たちのたまり場になっていたCの家へ電話し、Bに「狙っていた女を捕まえてセックスした」などと話したが、BがAに対し「女を帰さないでください」などと言ったことからBと待ち合わせることとした[3]。AはBやC(Aとはぐれて帰宅していた)、BのところにいたDの3人が、連れ立って約束の待合わせ場所へ赴き、少女を連れたA、B両名と合流した[3]。AはBらに対し「(少女を)ヤクザの話で脅かしているから、話を合わせろ」などと言い含め、4人は少女を連れて翌26日午前零時半頃公園に移動した[3]。そこでAはジュースを買いに行くという名目で、C、D及び少女のいる所からやや離れた自動販売機の置かれた場所付近にBと共に行き、Bに「あの女どうする」と尋ねると「さらっちゃいましょうよ」などと返されたことから少女を猥褻目的で略取、監禁することとした[3]
4人は少女を拉致しつつ、その公園からCの自宅近くの別の公園に移動する間、CはA、B両名らの意を受けて少女を自室に監禁することを了承、Dもそれまでの成り行きからAらの意図を了解し、4人は少女を猥褻目的で略取、監禁することについて共謀した[3]。Aが少女に対し「お前はヤクザに狙われている。仲間がお前の家の前をうろうろしているから匿ってやる」などと嘘を申し向けて脅迫し、4人で少女をCの自宅の2回の部屋(6畳)へ拉致し、同日からこの日から少女を殺害するまでの間監禁した[3]
少女をCの自室に連れ込んだ後、4人は少女を交替で監視することとしたが、同月28日頃の深夜、4人に加えて不良仲間の2人の少年(E、F)がCの居室にたむろしていた[3]。その際、Aは仲間たちに少女を輪姦させようと企て、Bら3人や、E、Fらと共に代わる代わる覚醒剤を飲んで半狂乱になったように装って少女に襲いかかり、必死に抵抗する少女の口や手足を押さえ付けて馬乗りになるなどの暴行を加え、少女の着衣をはぎ取り、AがBら3人やE、Fにも裸になれと命じ、これを受けてA、B両名以外の4人は着衣を脱ぎ捨て、E、F、Dの順に少女を強姦した[3]。その際、Aは剃刀を持ち出して少女の陰毛を剃り、更にその陰部マッチの軸木を挿入してをつけるなどの凌辱に及び、少女が熱がるのを見て仲間らで面白がるなどした[3]
同年12月上旬頃、少女が逃走しようとした上に警察への通報を図ったことに腹を立て、A、B、Cの3人が少女の顔面を拳で多数回にわたって殴り、Aが少女の足首にライターの火を押し付けて火傷を負わせるなどした[3]。Aらはその後も、時に別の不良仲間を加えるなどして、少女を全裸にしてディスコの曲に合わせて裸踊りさせたり、自慰行為を強要したり、少女の顔にマジックペンで髭を描いて興じたり、少女の陰部に鉄筋を挿入して何回も出し入れしたり、肛門ガラス瓶を挿入するなどの異物挿入をしたり、少女にシンナーを吸引させてウイスキー焼酎などの一気飲みするよう強要し、寒気の厳しい夜中、少女を半裸でベランダに出して牛乳などを多量に飲ませ、たばこを2本一度にくわえさせて吸わせるなど度重なる暴行、凌辱を繰り返した[3]。同月中旬から下旬頃、Aが少女が失禁した尿を踏んだということを口実に、BやCが少女の顔などを拳で何度も殴りつけ、少女の顔面が腫れ上がり変形したのを見て「でけえ顔になった」などと言って笑った[3]。その暴行の場にはAはいなかったが、翌日Cが「あんまり面白いからAにも見てもらおう」などと言い、自慢気にAにEの顔を見せた。Aはその変わりように驚いたものの、これに触発されたように自らも少女を多数回殴打し、少女の太もも、手などに揮発性のを注ぎライターで点火し、火が消えると更に同じような行為を繰り返して火傷を負わせた[3]。この頃、少女は度重なる暴行に耐えかねて「もう殺して」などと哀願することもあった[3]。Aらは同月中旬頃から、主にCの兄Gに少女の監視役をさせるようになったが、その頃から少女は少量の食物しか与えられず、年末頃には牛乳をわずかに与えられる程度になり、栄養失調とAらの度重なる暴行により心身ともに極度の衰弱状態に陥り、食欲は減退して顔面は腫れ上がり、手足などの火傷は膿みただれて異臭を放つなどし、階下のトイレへ行くことも困難で、終日監禁場所であるCの部屋で横たわっていた[3]

殺害・死体遺棄[編集]

1989年(昭和64年)1月4日、Aは前日夜から早朝にかけて行った賭け麻雀に大敗した後、Dの家に赴いたところ、B、C両名らがDと共に居合わせていた[3]。4人はそこでファミリーコンピュータなどで遊んだが、麻雀に負けた鬱憤を少女へのいじめによって晴らそうと考えたAは「久し振りに、少女をいじめに行くか」などと言い出し、まずCとDを先にC宅へ行かせ、若干遅れてBと共に自らもC宅へ赴いた[3]。このように4人は相前後して監禁場所のC宅に集まったが、少女はAらの暴行などにより、前述のように顔が変形するほどに腫れ上がり、手足などの一部は焼け爛れて化膿し、栄養失調に陥り、極度の衰弱状態で横たわっていた[3]
A、B、Cの3人は午前8時頃からCの部屋において、少女にBの羊羹を与えて「これは何だ」と問い、少女が「B羊羹」と答えると「なんでBを呼び捨てにするんだ」などと因縁をつけて再び同様の質問をし、「B羊羮さん」と答えると「なんで羊羮にさんをつけるんだ」などと詰め寄って少女へのリンチを開始した[3]。3人で少女の顔などを多数回拳で殴り、背を足で蹴るなどの暴行を加え、AとBが蝋燭(Aがいじめの小道具に買い求めていた)に点火して少女の顔面に溶けたを垂らして顔一面を蝋で覆い尽くし、両に火のついたままの短くなった蝋燭を立てるなどして面白がったが、これに対して少女はほとんど反応を示さず、されるがままになっていた[3]。その暴行が始まった直後、DはGと共に隣室にいたが、この頃Aの指示を受けたCに呼ばれて、部屋へ入りAら3人と合流した[3]。Aは、衰弱して自力で階下のトイレへ行くこともできない少女が飲料パックに排泄した尿についてわざと「やばいよ、そんなものを飲んじゃあ」などと言い、BやCらに対し、暗に少女にその尿を飲ませるよう示唆した[3]。これを受けてBやCらは、少女に「(尿を)飲め」と強く言い、パック内の尿をストローで飲ませた[3]。次いでBとCが少女の顔面を回し蹴りし、少女が倒れると無理やり引き起こして、さらに蹴りつけるなどしたところ、少女は何ら身を守ろうとせず、不意に転倒して室内のステレオにぶつかり痙攣を起こすなどした[3]。Aらは遅くともこの頃までには、このまま暴行を加え続ければ少女が死亡するかも知れないことを認識したが、その後もその危険を認識しながら、BとCが転倒した少女に殴る蹴るなどの暴行を加えたのを始めとして、更に少女に対して後述のような激しい暴行を加え続け、そのために少女は鼻血を出し、崩れた火傷の傷から血膿が出て血が室内に飛び散るなど凄惨な状況となった[3]
Dは、素手では血で手が汚れると考え、ビニール袋で拳を覆い、ガムテープでこれを留めた上、拳で少女の腹部や肩などを力任せに数十回殴りつけ、Aらもこれに倣って拳をビニール袋で包み、次々に少女の顔、腹部、太ももなどを拳で殴りつけて足蹴りするなどし、更に、Aが鉄球を含む総重量約1.74kgのキックボクシング練習器の鉄製脚部を持ち出し、その鉄球部分でゴルフスイングの要領で少女の太もも等を力任せに多数回にわたり殴りつけ、Bらもこれに倣って代わる代わる少女の太ももなどをその鉄球で数十回殴打し、Dは肩の高さから鉄球を少女の腹部めがけて2、3回落下させた[3]。Aは繰り返し揮発性油を少女の太ももなどに注ぎ、ライターで火を点けるなどしたが、少女は最初は手で火を消そうとする仕草をしたものの、やがてほとんど反応を示すこともなくなり、ぐったりとして横たわったままになった[3]
これらの一連の暴行を当日の午前8時頃から10時頃まで、約2時間にわたって休みなく続けた結果、少女は重篤な傷害により、同日午後10時ころまでの間に死亡した[3]
A、B、Cは翌5日、自分たちが出入りしていた暴力団関係者の経営する花屋にいた際、Gから「少女の様子がおかしい」と電話で連絡を受けてCの居室へ赴き、少女が死亡したことを知ったが、犯行の発覚を恐れて同日午後6時頃、Gと共謀して、少女の遺体を遺棄しようと企てた[3]。遺体を毛布で包み、大型の旅行かばんに入れてガムテープを巻きつけ、Aがかつての仕事先からトラックを借り出したり、セメントを貰い受けて近くの建材店からブロックを盗み出し、トラックで遺体と、付近で取ってきたごみ入れ用のドラム缶をC宅前に運び、そこでコンクリートを練り上げて遺体の入ったかばんをドラム缶に入れ、コンクリートをドラム缶に流し込み、更にブロックや煉瓦を入れて固定し、ドラム缶に黒色ビニール製ごみ袋を被せてガムテープで密閉した[3]。その後A、B、Cの3人が同日午後8時頃、トラックでドラム缶を運び[3]東京都江東区若洲の埋め立て地(現在の若洲海浜公園敷地内)に遺棄した。
女子高生を監禁していた家の両親は、女子高生の存在を認知しており、一度1階で一緒に食事を摂ったりした。その折、女子高生に「早く帰りなさい」と促し、一時は家を出たのだが、加害者の少年の一人が連れ戻したので、結局監禁は続いて行われた。[要出典]
同年(平成元年)3月29日別の事件で逮捕された際の取調中の加害者の供述により[要出典]被害者の遺体が発見された[4]ことから事件が発覚した。

裁判[編集]

加害者4名が刑事処分相当として東京家庭裁判所から検察庁へ送致(逆送)され、刑事裁判にかけられた。

1990年(平成2年)7月20日に開かれた東京地裁刑事四部の判決は、主犯格のAは懲役17年(求刑無期懲役)とした。他の少年3人には準主犯格と見られるBに懲役5年以上10年以下(求刑懲役13年)、監禁場所に自室を提供したCに懲役4年以上6年以下(求刑懲役5年以上10年以下)、最も関与が薄いと見られたDに懲役3年以上4年以下(求刑懲役5年以上10年以下)の不定期刑を言い渡した。

本件では殺意の有無について争われたが松本光雄裁判長は判決で「未必の故意」を認めて殺意を認定した。一方で検察側の求刑より軽い理由として少年らが家庭内暴力を受けていたこと、犯行が計画的でなかったこと、Aの両親が遺族に5000万円を支払っていること、少年らが裁判中に人間性に目覚めていることなど情状酌量の事情を取り入れた。なお、D以外は殺人の他に婦女暴行、窃盗、傷害なども有罪と認定された。検察側はA、B、C、Dに関する量刑不当を、Bの弁護人は量刑不当を、Cの弁護人は同少年の殺意の有無に関する事実誤認及び量刑不当を主張し、それぞれ控訴した。

1991年(平成3年)7月12日東京高等裁判所柳瀬隆次裁判長[5])は、少年A、C、Dに関する検察側の主張を認め一審判決を破棄、主犯格の少年Aに懲役20年、少年Cに懲役5年以上9年以下、少年Dに懲役5年以上7年以下をそれぞれ言い渡した。一方で少年Bに関しては懲役5年以上10年以下とした一審判決を支持、双方の控訴を棄却した。その他3人の少年が少年院に送致された。

少年たちのその後[編集]

少年Dは少年院を退院後、自宅に引きこもるようになったという。また少年Bは、仮出所後、保護観察関係者の女性と養子縁組を結び姓を変えていたが、2004年(平成16年)5月19日に再び同じ足立区や三郷市で男性に言いがかりをつけ監禁致傷事件を起こし、しかも当事件を脅し文句に使うなど更生した様子を見せず、6月4日に逮捕され、懲役4年が確定した。当時服役中だった少年Aは模範囚だったことから仮釈放の予定だったが、この事件の影響で取消になったという。主犯格少年A以外の少年たちは、出所あるいは退院後、それぞれマスコミのインタビューを受けている。

2013年(平成25年)1月に、元少年Aは振り込め詐欺で逮捕された[6]。Aは池袋の銀行で金をおろす「受け子(出し子)」をしていたが、完全黙秘を貫いたため、詐欺グループの解明が出来ないまま、1月31日に不起訴で釈放された。その後のAの足取りは不明だという[6]

反響・影響[編集]

マスメディアの反応[編集]

この事件の加害者が4名とも未成年者であったことなどから、大々的に報道された。しかし、裁判で事実関係が明らかになるまで、新聞や週刊誌、テレビなどの報道は、被害少女も不良グループの一員であり、被害少女にも非があったという論調が主流で、写真や実名も掲載されていた。

少年法では、家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、第61条の規定により本人の類推に資する全ての情報(関係者全員の名前、学校名、地名等)を報道することを禁止しているが、当時、一部の報道機関が少年らの実名を報道した。実名報道した『週刊文春』(担当記者:勝谷誠彦、編集長:花田紀凱。1989年4月13日号にて「女子高生監禁・殺人の惨―彼らに少年法が必要か」、1989年4月20日号にて「女子高生惨殺事件 第2弾 加害者の名前も公表せよ」という特集を組み、後者で実名を公表した)は理由として、「事件があまりに凶悪であるため」「野獣に人権は無い」と説明している。この報道をきっかけに「週刊文春」は売上部数ナンバー1になり、犯罪の低年齢化に伴う少年法論議に火をつけた。

監禁場所を提供した少年の両親について「日本共産党員だという話もある」と「週刊新潮」が報道すると[7]、日本共産党は機関紙『しんぶん赤旗』で、同両親が党員であったことを認めた上で「同事件は暴力団との関係も指摘されている、許すことのできない残虐な事件であり、もちろん日本共産党とはいっさい関係ありません」との記事を掲載した[8]。その1ヵ月半後には同両親の対応を検証した特集記事が『しんぶん赤旗』に連載された[9]

識者の反応[編集]

評論家の赤塚行雄もこの事件を「狂宴犯罪」と呼んだ。

一般の反応[編集]

犯人が少年であったことから、同年代の子供を持つ親に計り知れない衝撃を与えた。発覚当初から死刑を求める声があり、主犯への無期懲役求刑後東京地方検察庁には「(求刑が)軽すぎる」という抗議の投書があった[10]

他事件への影響[編集]

  • 新潟青陵大学大学院の碓井真史教授も、この事件の女性監禁に関する報道が翌1990年に起きた(事件発覚は2000年)新潟少女監禁事件の犯人に刺激を与えた可能性があると指摘している[11]
  • お笑いタレントのスマイリーキクチもこの事件に関与したといういわれなき誹謗中傷をネット上で10年間に渡って受け続けた[12]スマイリーキクチ中傷被害事件)。
  • この事件の3年後(1992年)、犯行当時19歳の少年により千葉県市川市で一家4人が殺害され、残る一人も強姦される事件が発生(市川一家4人殺人事件)。この少年は本事件を引き合いに出し「(本事件の)犯人の少年たちでさえ、あれだけのことをやっておきながら死刑どころか無期懲役にすらなっていない。それなら俺の方が犯行は長期間ではないし、犯行にあたって凶器一つ用意していないからまだ頭の中身もまともだ」「これで俺も少年院行きか」程度にしか考えていなかった[13]がその考えも虚しく、この少年は第一審判決から最高裁判決に至るまで一度たりとも減軽されることなく死刑判決を言い渡されて確定し、戦後日本で37人目(永山則夫連続射殺事件の最高裁判決以降、及び平成の少年犯罪では初)の少年死刑囚となった。

書籍・映画化[編集]

  • 2003年、事件を元にしたノンフィクション・ノベル『十七歳、悪の履歴書』(作品社)が出版された。
  • 翌2004年、映画『コンクリート』が『十七歳、悪の履歴書』を原作にこの事件を“モチーフとして”映画化された[14]。この映画の公開をめぐっては、事件の残虐性、そもそも映画にする必要があるのか?などの意見がインターネットを中心に多数湧き上がり、劇場にも上映反対意見が多数届いた。その影響で5月29日から予定されていた公開は中止されたが、その後、別の劇場で7月3日から9日の一週間だけ公開された。製作者側によれば、大手レンタルチェーン店にもこの映画のビデオ・DVDを取り扱わないよう意見が多数寄せられた[15]。なお、この映画のビデオ・DVDはレンタル用としてはR-15に指定されている。
  • 2004年にオークラ出版から発売された氏賀Y太の単行本『真・現代猟奇伝』に、この事件を漫画化したものが収録されている。
  • 事件を題材とした漫画作品として、樹村みのりによる「彼らの犯罪」(『ROSA』(少年画報社)1992年12月号掲載、単行本『彼らの犯罪』(朝日新聞出版、2009年)所収)がある。
  • この事件を題材とした漫画に円山みやこの作品「蟲笛」がある。
  • 天樹征丸さとうふみやの漫画「金田一少年の事件簿」の作品内に、この事件とよく似た事件がきっかけとなって起こる事件を描いた「剣持警部の殺人」という話がある。
  • 今野敏の「隠蔽捜査」では、被害者のうち2人が「1980年代末に足立区で発生した誘拐・監禁・強姦・殺人・死体遺棄事件」の犯行グループである設定。
  • 女子高生コンクリート詰め殺人事件 -壊れたセブンティーンたち
  • 17歳。

参考文献[編集]

  • 渥美饒兒『十七歳、悪の履歴書-女子高生コンクリート詰め殺人事件』作品社、2003年。ISBN 4878935723
  • 門野晴子『女子高生コンクリート詰め殺人事件―彼女のくやしさがわかりますか?』おんな通信社編、社会評論社、1990年。
  • 佐瀬稔『うちの子が、なぜ!―女子高生コンクリート詰め殺人事件』草思社、1990年。ISBN 479420390X
  • 蜂巣敦『殺人現場を歩く』ミリオン出版、2003年。ISBN 4813010814
  • 藤井誠二『少年の街』教育史料出版会、1992年。ISBN 4876522308
  • 古村龍也・雀部俊毅『犯罪心理分析マニュアル』同文書院、2000年。
  • 横川和夫・保坂渉『かげろうの家 女子高生監禁殺人事件』共同通信社、1990年。ISBN 476410251X

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 東京高裁判決(1991年7月12日付)p.14
  2. ^ 東京高裁判決(1991年7月12日付)p.10
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 東京高裁判決(1991年7月12日付)p.11-13
  4. ^ 東京高裁判決(1991年7月12日付)p.16
  5. ^ 東京高裁判決(1991年7月12日付)p.20
  6. ^ a b 「25年目の末路――綾瀬コンクリ詰め殺人「主犯」が振り込め詐欺で逮捕された!」(週刊文春 2013年4月24日号)
  7. ^ “父は薬剤師、母は看護婦という「女高生虐殺」の家”. 週刊新潮 (新潮社): p. 132. (1989年4月13日) 
  8. ^ しんぶん赤旗. (1989年4月7日) 
  9. ^ “追跡女子高生監禁殺害事件―甘かった親の“認識”―魔の40日間”. しんぶん赤旗. (1989年5月20日) 
  10. ^ “歯止めなき攻撃を生んだもの(社説)”. 朝日新聞. (1990年7月20日) 
  11. ^ 碓井真史『少女はなぜ逃げなかったか』(小学館文庫)129-130頁
  12. ^ スマイリーキクチ『突然、僕は殺人犯にされた - ネット中傷被害を受けた10年間』(竹書房
  13. ^ 『19歳 一家四人惨殺犯の告白』永瀬隼介・著(角川文庫2004年8月出版 ISBN 978-4043759019 p.14、p.181-184
  14. ^ コンクリート OFFICIAL SITE 2004/5 銀座シネパトスでの公開中止にあたって
  15. ^ コンクリート OFFICIAL SITE 2004/6/1 UPLINK FACTORYでの公開にあたって

関連項目[編集]

外部リンク[編集]