名古屋アベック殺人事件

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名古屋アベック殺人事件
場所 日本の旗 日本
愛知県名古屋市緑区大高緑地
座標
標的 理容師男性X(当時19歳)と理容師見習い女性Y子(当時20歳)のアベック
日付 1988年昭和63年)
2月23日午前4時30分頃 – 2月25日午前3時頃
攻撃側人数 6人
死亡者 2人
犯人 不良少年グループ6人(少年3人、成人男1人、少女2人)
賠償 殺害実行犯少年2人は無期懲役
他の男2人は懲役13年
少女2人は懲役5年以上10年以下の不定期刑
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名古屋アベック殺人事件(なごやアベックさつじんじけん)とは、1988年昭和63年)2月23日から25日にかけ愛知県名古屋市緑区大高緑地において発生した殺人集団強姦事件。被害者2人が襲撃された場所の名前から「大高緑地公園アベック殺人事件」(おおだかりょくちこうえんアベックさつじんじけん)とも呼ばれる。

2人の命をもてあそび、長時間に渡る暴行の挙句、犯罪の発覚を恐れて殺害するという少年グループの犯行の残虐さが日本社会に衝撃を与え[新聞 1]、少年への死刑適用問題や、ドロップアウトした少年たちの無軌道・非人間的な通り魔的「狂宴的犯罪」として[雑誌・書籍 1][雑誌・書籍 2]、本事件や同年に発生した女子高生コンクリート詰め殺人事件など、凶悪な少年犯罪が多発したことが大きな社会問題となった[新聞 1]

一部マスメディアが犯行当時20歳未満の未成年者である加害者少年らの実名報道に踏み切り、少年法の見直しをはじめとした少年犯罪への対応のあり方がクローズアップされるきっかけとなった[新聞 1]

事件の概要[編集]

この事件の加害者として逮捕・起訴され、刑事裁判で有罪判決が確定したのは以下の計6名(うち5名が犯行当時未成年者)である。

  • 殺害実行犯で主犯格、とび職の少年A
  • 同じく殺害実行犯で準主犯格、とび職の少年B
  • 唯一犯行当時成人の男C
  • 無職少年D
    • 犯行当時19歳、名古屋市港区在住[新聞 8]。『新潮45』2003年10月号記事中では「菅原義夫」と仮名表記されている[雑誌・書籍 9]。1987年4月頃より暴走族「栄噴水族」の幹部メンバーになり、やがてA・B・C・E子らと知り合い、仲間から紹介された山口組系暴力団弘道会内「高山組」の組員となり、高山組幹部の舎弟になった[雑誌・書籍 4]。懲役15年求刑に対し懲役13年判決(控訴せず確定)が言い渡され[新聞 1]、岡山刑務所に服役後、2000年頃に出所した[雑誌・書籍 10]
  • 無職少女E子
  • 無職少女F子
    • 犯行当時18歳、愛知県海部郡甚目寺町在住[新聞 8]。『新潮45』2003年10月号記事中では「寺前恵美」と仮名表記されている[雑誌・書籍 10]。1986年10月8日に母親と口論になって家出し、その直後にDと知り合い、別の暴力団組員と同棲していた[雑誌・書籍 4]。第一審でE子同様、求刑通り懲役5年以上10年以下の不定期刑の判決(確定)が言い渡され、刑務所に服役後1996年4月までに出所した[雑誌・書籍 8]

事件の経緯[編集]

事件で殺害された理容師見習い女性Y子(当時20歳)は、1988年2月22日午後10時頃にいったん勤め先から帰宅し「女友達のところへ行くかもしれない」と家族に言い残し、父親所有の車トヨタ・チェイサーで外出した[新聞 8][新聞 9]。しかしY子はその女友達の家には立ち寄っておらず、同じ理容店に勤務する交際相手の理容師男性X(当時19歳)とともに愛知県営大高緑地公園にドライブに出かけた[新聞 8][新聞 9]。Xは23日午前零時過ぎ、同室の同僚に「デートしてくる」と話して外出していた[新聞 8]

2月23日午前4時30分頃、県営大高緑地公園の第一駐車場でX・Yの男女2人が乗ったチェイサーを、Aを中心とする男女6人の不良少年グループが襲撃した[新聞 2]。6人はAが所有する茶色の日産・グロリアと、Dが暴力団組員から借りたもう一台の茶色いグロリアの計2台で、駐車中のチェイサーを挟み撃ちするように停車した[新聞 4]。その直後、車外から木刀で窓ガラスを割るなどして襲ったところ、逃げようとしたチェイサーがいきなりバックし、Dの車に衝突した[新聞 4]

これに6人は逆上し、チェイサーの屋根の上に乗ったり、X・Y子両名を車外に引きずり出して木刀や鉄パイプなどで2人の頭や顔を殴り、現金1万円余りを奪った[新聞 4][新聞 2]。Aらは当初金を奪おうと襲ったが、2人が激しいリンチの末にぐったり倒れ込んでしまい、夜が明け回りが明るくなったため、放置すればすぐ見つかって大ごとになると恐れ、2台のグロリアに連れ込んだ[新聞 4]。そのまま、X・Y子の両名をグロリア2台の車内に拉致・監禁した上で名古屋市内などを丸一日走り回りつつ[新聞 2]、その途中で「顔も見られている。もう殺してしまえ」と相談した[新聞 4]。Aらは暗くなるのを待つために名古屋市内のカーホテルに2人を監禁し、Cのグロリアはチェイサーに衝突された際にかなり損傷したために修理に出した[新聞 4]

24日午前4時30分頃、愛知県愛知郡長久手町(現・長久手市)長湫卯塚の墓苑「卯塚緑地公園」(東名高速道路名古屋インターチェンジ南西約1.5km)にある、弘道会の本家墓前で[新聞 7]、AとBが、車外に連れ出したXの首にビニールロープを巻き付けて絞殺した[新聞 4][新聞 2]。Xの殺害現場となったこの墓地は弘道会内の組員らが清掃に来ていたほか、元弘道会薗田組組員のAかCも来たことがあった[新聞 7]

Xを殺害したことでいったんひるんだAらは、Xの遺体をAのグロリアの後部トランクに詰め、Y子を生かしたまま乗せ、名古屋市内の6人組の1人の自宅に戻って一泊した[新聞 4]。さらに翌25日にはY子を殺害するため、かつてAが務めたことがある三重県上野市(現・伊賀市)付近に移動し、午前3時頃には三重県阿山郡大山田村(現・伊賀市)阿波の山林内でA・B両名がY子を同様に絞殺し、2人の遺体を近くに掘った穴に埋めた[新聞 4][新聞 2]。2日間も車で連れ回され、X共々木刀で滅多打ちにされた挙句目の前でXを絞殺されたY子は、最後には「もう私を殺して」と訴えたほどやつれ果て、犯人たちはそんなY子を平然とロープで絞殺し、「アベックだから、面白半分でそんな姿にした」(取り調べでの供述)という理由で、穴の中にXの遺体を仰向けで下に、その上に下着1枚のY子の遺体をうつぶせに乗せ、2人とも両腕で互いの体を抱き合っている姿にして埋めた[新聞 10]。Aはかつて遺棄現場に近い上野市に住んでいたことがあり、大山田村の山中に遺棄するよう指示したという[新聞 7]

2人を殺害・遺棄した後、6人は名古屋市内のレストランでいったん別れ、昼には6人のたまり場だった名古屋市港区の市営南汐止荘にあるAの部屋に集結し、逃亡先を相談していたところを午後2時頃、特捜本部の捜査員に見つかり、逮捕されるに至った[新聞 4]

捜査[編集]

2人が拉致された直後の23日午前8時30分頃、フロントガラスやヘッドライトなどが滅茶苦茶に破壊された白いトヨタ・チェイサーが公園北側入口付近の第一駐車場で北向きに駐車してあるのが発見された[新聞 9]。車は窓ガラスが全て叩き割られ、ヘッドライド・テールライト・サイドミラーが破損し、車体も棒状の物で叩かれたと思われる数十か所の跡があり、べこべこに凹んでいた[新聞 9]。車内からはいくつかの血痕が見つかり、また2人の家族からも翌2月24日になって捜索願が出された[新聞 9]愛知県警察捜査一課と緑警察署は24日、2人が何者かに襲撃・拉致された可能性が高いとして捜査本部を設置し、本格的な捜査を開始した[新聞 9]

捜査本部は25日までに、直前に名古屋市港区名古屋港金城ふ頭で発生したアベック連続襲撃事件(後述)同様に「犯行現場が同じ金城ふ頭である」「犯人グループは木刀をふるっている」「被害者が『シンナー臭をさせている』と証言している」ことから、名古屋市中区久屋大通公園にある噴水周辺に深夜たむろし、シンナー遊びをし、車で暴走を楽しむ暴走族グループの「噴水族」が関係しているとの見方を強め、「噴水族」一味が手口をエスカレートさせて同様の犯行に及んだ可能性が強いとみて、名古屋水上警察署との連携の上で襲撃犯の割り出しに全力を挙げた[新聞 11]。「噴水族」は1987年夏に栄のセントラルパーク噴水塔付近にたむろし、シンナーを吸いながら車を無謀に乗り回す不良少年たちが自称したのがはじまりで、逃避的なシンナー族と攻撃的な暴走族が合体した奇妙な存在ではあったが、競争社会から落ちこぼれた少年たちの居場所だったという[新聞 6]。吸引のためのシンナーが一般塗料店で少年に販売されなくなっていたが、そこに暴力団が目を付け、1リットル当たり約220円で塗料店から仕入れたシンナーを40 - 50倍もの値で密売して資金源とするようになった[新聞 6]。その手口は金城ふ頭へドライブに来たアベックに因縁を付け、男性を引きずり出して木刀・竹刀で殴り、車内から金品を奪うというものだったが、9月下旬のグループ検挙以降は拉致殺害事件直前まで被害届はなくなっていた[新聞 11]。この解体されたグループのうち逮捕・補導された数人はこの時点で既に釈放されており、シンナーを吸って木刀で殴るなどの手口が似ている点を重視し、周辺の洗い出しを急いだ[新聞 11]。その仲間らのうち、金城ふ頭で前年の1987年7月初めから9月にかけて5件続発したアベック恐喝事件で、名古屋水上署が成人2人・少年少女9人の計11人のグループを特定し、このうち逃走し指名手配された主犯格の暴力団組員を除く10人を恐喝や傷害容疑で逮捕・補導してグループを解体し[新聞 11]、同年5月には組ぐるみでシンナー密売を行っていた山口組系暴力団組長が初めて摘発され、組員や少年ら計294人が検挙・補導され、「噴水族」の存在がクローズアップされた[新聞 6]。10月には地元の暴力団組長も逮捕され、それ以降は姿を消したが、噴水等より北の名古屋テレビ塔付近にたむろする「テレビ塔族」が事件直前から出現していた[新聞 6]

2月26日までに、県警捜査一課・緑署・水上署の捜査本部は、犯人グループを金城ふ頭の2件の事件と同一犯によるものと断定した上で、グループが乗車していた2台の乗用車のうち日産・セドリック(後の報道では日産・グロリア)について、ブラウンメタリック色の1979年(昭和54年)7月 - 1981年(同56年)6月製造の旧型4ドア車(430型)に絞り込んだ[新聞 12]。この色はあまり人気がなく、430型販売期間途中の1981年4月には製造終了しており、販売台数が限られていた[新聞 12]。また、このセドリックは4ドア(セダンもしくはハードトップ)であり[新聞 12]、もう1台の車である白いトヨタ・クラウン同様[新聞 9]、窓ガラスには車内が見えないように黒色フィルムが貼られていたため、台数はさらに絞られるとして、捜査本部はシンナー常習の暴走族を中心に所有者の洗い出しを進めた[新聞 12]。同日には名古屋市港区内でよく似たブラウンメタリック色のセドリックが発見され、損壊状況や旧型4ドアの形式、窓の黒色フィルムなどが金城ふ頭の被害者らの証言と一致し、現場に近い港区内で発見されたため、犯行に使われた車と断定した[新聞 13]。車は盗難車ではなく、所有者とその周辺の人物が犯行に関与したとみて、犯人たちに直結する有力な証拠として所有者・周辺人物の割り出しを急いだ[新聞 13]

その後、捜査本部は容疑者として名古屋市及び近郊在住の少年3人(A・B・D)、少女2人(E子・F子)の計5人を特定した[新聞 8]。26日夕方に名古屋市内のホテルから捜査本部に寄せられた「犯行当日の23日昼、若い男女6人連れが来た」という通報を受け、6人連れの車の色や形が犯行車両に似ていたため、そのホテル付近を中心に集中で捜索をしていたところ、名古屋市港区野跡3丁目の公園西側路上に、大高緑地に残されたY子のチェイサーに付着していた塗膜片と色が一致し、車体前部が壊れている上、同一犯グループによる金城ふ頭のアベック連続襲撃事件で目撃された形式と合致する日産・グロリアが駐車されているのを発見した[新聞 8]。5人が付近の市営南汐止荘にあるAの部屋にいたところを発見し[新聞 4]、緑署に任意同行して取り調べたところ「2人を殺して三重県阿山郡大山田村の山中に埋めた」「金を奪う目的で襲ったが、連れ回しているうちに発覚するのが怖くなり殺した」と自供したため、27日午前3時過ぎに5人を強盗致傷・殺人・死体遺棄容疑で逮捕した[新聞 8]。Aを遺体遺棄現場に同行させたところ、2人の頭の一部が土中からはみ出しているのを発見した[新聞 8]。少年3人は窃盗・恐喝で最大4回検挙歴が、家出や喫煙・退学などの補導歴もあり、少女1人も家出で1回補導されていた[新聞 8]

県警捜査一課、緑署・名古屋水上署による特別捜査本部は27日午後から逮捕した少年少女5人の本格的な取り調べを開始し、5人の自供から、事件後行方をくらましていたCを特定し、28日未明にAら5人同様に殺人・死体遺棄などの容疑で逮捕した[新聞 5]。シンナー遊びについては、2人の男女だけがすったことを認めた以外は否認もしくは黙秘したが、グループのたまり場だったA宅にはシンナー臭が立ち込めており「栄噴水族二代目リーダー」と書き込まれたカレンダーも見つかったことから[新聞 6]、6人は「噴水族」であると特捜本部は見た[新聞 5]。犯行グループは特に共通のつながりはない遊び仲間で、2,3か月程度の付き合いしかない者もいた一方、A宅には山口組系暴力団の代紋入りの鏡や灰皿があり、グロリアの所有者も山口組系暴力団関係者であり、組員のCが逮捕されたことから、グループと暴力団の関係も浮上した[新聞 5]。同日、遺体発見現場で2人の遺体の発掘作業を行い、27日午後4時前に収容し家族が確認した[新聞 5]

特捜本部は28日までに、大高緑地でのX・Y子両名の殺害には関与しなかったものの、それ以前の金城ふ頭の2事件に関与した仲間の少年2人を割り出し、強盗致傷容疑で行方を追った[新聞 6]。大高緑地での事件の犯行グループはすでに逮捕した6人のみと断定した一方、金城ふ頭事件の被害者が「犯人は8人組だった」と証言したため、6人を追及したところ「別の2人も金城ふ頭の事件に加わっていた。しかし大高緑地に行く途中で2人は栄で車を降りて別れた」と自供したため、一連の事件解明にはこの2人も欠かせないとみた[新聞 6]。X・Y子両名の遺体を司法解剖した結果、死因は首を絞められたことによる窒息死であり、顔・頭・胸・手足など全身に多数の打撲傷もあったため「2人を木刀で滅多打ちにし、ロープで絞殺した」という6人の自供を裏付けた[新聞 6]。特捜本部は同日、先に逮捕したAら5人を名古屋地方検察庁に送検した[新聞 6]。6人は取り調べに対しては比較的素直には応じていたが、時折薄ら笑いを浮かべるなど一様にあっけらかんとした様子で、反省の色はほとんどうかがえなかった[新聞 10]

特捜本部は3月1日までに、主犯格の少年Aが1986年10月から事件前年の1987年暮れまで広域暴力団山口組系弘道会薗田組に暴力団組員として所属していたことが明らかになった[新聞 7]。Aは薗田組で新入りとして使い走りや電話番などをしており、所属中の1987年2月には中川区内で空き巣に入り逮捕されたこともあったが、前年12月にとび職として働き始めたのを機に、両親の強い勧めもあって暴力団を脱退することを決意し、刑事の立ち合いの下で母親とともに組幹部に会い、薗田組と手を切ることを確認し合っていたという[新聞 7]。Cは1987年7月に薗田組に加わっており、年下のAが暴力団組員としては兄貴分だった[新聞 7]。Aは名目上暴力団から離脱後もCらとの交際は続けており、グループの他の少年も薗田組事務所に出入りしていたという情報があった[新聞 7]。その後の調べで、A同様殺害実行犯のBも同じく薗田組の元組員で、Dも他の暴力団に出入りしていたことから、男は全員が暴力団関係者だったことが判明した[新聞 4]

グループらによる他のアベック襲撃事件[編集]

X・Y両名が拉致・殺害される直前にも連続して金城ふ頭でアベック襲撃事件が発生していた[新聞 9]。これはAら6人がX・Yを拉致する前日の2月22日午後10時ごろ、名古屋市中区栄のセントラルパークで顔を合わせて遊んでいるうち、少年の1人が「小遣い稼ぎに行こう」と提案したために起きたものだった[新聞 4]。この時は被害者の怪我も軽く、周囲も暗くて顔もはっきり見られなかったのでそのままセントラルパークに戻ったが「もっと金が欲しい」と、別のアベックのたまり場になっていた大高緑地に向かい、惨劇につながった[新聞 4]

2月23日午後2時30分頃、金城ふ頭82番岸壁に駐車中の、若いアベックが乗車した車が木刀を持った不良少年グループに襲撃され、車の後部ガラスなどを粉々に叩き割られた[新聞 9]。この事件では被害者がすぐに車を発進させて逃げた[新聞 9]
約1時間後の3時25分頃、直近の81番岸壁で別のアベックが乗車した車が襲撃された[新聞 9]。この事件ではアベックは車のガラスを割られ、グループに「カネを出せ」と脅され、現金8万6000円入りのセカンドバッグや腕時計などを奪われ、木刀などで殴られ、足腰にかなりの打撲傷を負った[新聞 9][新聞 11]。名古屋水上署は強盗致傷事件として捜査した[新聞 9]

名古屋水上署によれば、襲撃グループは男6人、女2人の計8人組で、いずれも暴走族風で20歳前後であり、シンナー臭がしたという[新聞 9]。グループは白いクラウンと茶色の日産・セドリックの2台に分乗しており、車のナンバープレートはガムテープで隠されていた[新聞 9]

刑事裁判[編集]

6人は殺人罪死体遺棄罪強盗致傷罪などの容疑に問われ[新聞 2]、Aら少年少女5人は1988年3月19日に名古屋地方検察庁から「刑事処分相当」との意見書付きで名古屋家庭裁判所に送致され、唯一成人だったCは同日付で直接名古屋地裁に起訴された[新聞 14][新聞 3]。その後Aら5人は名古屋家裁での約1か月にわたる、家庭環境の調査などの少年審判を経て[新聞 15]、1988年4月14日に名古屋家裁から「刑事処分相当」として名古屋地検に逆送致され[新聞 16]、4月22日に名古屋地検から殺人・死体遺棄などの罪で名古屋地方裁判所起訴された[新聞 15][新聞 3]。逮捕後、少年鑑別所に収容されたAは「少年だから大した罪にならない」と嘯いており[雑誌・書籍 14]、また「少年なので死刑判決を受けるはずはない」とまで発言していたという[雑誌・書籍 1][雑誌・書籍 2]

本事件の刑事裁判では主犯格とされた少年2人の無期懲役(うち1人は一審死刑)が、その他起訴された4人は最大で懲役13年(求刑無期懲役)の有罪判決確定した。

第一審(名古屋地裁)[編集]

名古屋地方裁判所で開かれた刑事裁判では、冒頭陳述の中で、Aら6人が木刀ハイヒールのかかとでX・Y子両名を袋叩きにする凄絶なリンチを加えた挙句「ばれないためにはやる(殺す)しかない」と、犯行を隠滅するために2人を絞殺した状況が生々しく述べられた[新聞 2]
1988年7月18日に開かれた名古屋地裁刑事第4部(小島裕史裁判長)での初公判では、冒頭陳述後の罪状認否でAら5人は容疑を大筋で認めた一方、CはX殺害の謀議など一部を否認した[新聞 17][新聞 3]。公判は検察側・弁護側合同の証拠調べが2,3回、個別の本人への被告人質問が1回行われたのみで結審した[雑誌・書籍 15]
1989年(平成元年)1月30日に名古屋地裁(小島裕史裁判長)で論告求刑公判が開かれ、検察側(名古屋地方検察庁)は「稀に見る悪質重大犯罪でまさに鬼畜の所業。少年の犯罪であることを考える必要はない」と厳しく論告し、それぞれ以下のように求刑した[新聞 2][新聞 18]
  • 主犯格とされた少年Aに対しては「一連の犯行を思いついた首謀者であり、2人の殺害・死体遺棄の実行者でもある。このようなものを社会に戻すのは野獣を世に放つも同然である」と断罪し[新聞 19]、その上で「遊ぶ金欲しさと、思い切り暴れたいという反社会的な動機で、何ら落ち度のない若い2人をなぶり殺しにした稀に見る冷酷非道な犯行。当時未成年だったとはいえ、他の5人を先導した責任は重く、被害者遺族らの強烈な被害感情を考慮すると極刑以外に科す刑罰はない」[新聞 18]「終始犯行を主導し、暴力的性格の矯正は不可能。犯行当時少年だったことは考慮する余地はない」として死刑を求刑した[新聞 2]
  • A同様殺害の実行犯だった少年Bに対しては犯行当時18歳未満の少年への死刑適用を禁止した少年法第51条の規定を踏まえた上で「悪質さではAに勝るとも劣らない。仮に18歳以上ならば死刑を科すべきである」として、17歳の少年に対しては実質的な死刑として無期懲役を求刑した[新聞 2]
  • 唯一犯行当時成人であった暴力団組員の男C(犯行当時21歳、名古屋市中村区)と、少年Dに対しては「殺害行為の実行には加わっていないが冷酷な性格は顕著である」として、Cに無期懲役を、Dに懲役5年以上10年以下の不定期刑(Dは判決までに成年する場合、懲役15年求刑)をそれぞれ求刑した[新聞 2]
  • E子・F子に対しては「同性の被害者に対しても言語に絶する犯行を加え、反省の色もない」として、ともに懲役5年以上10年以下の不定期刑を求刑した[新聞 2]
弁護側が「6人は家庭環境に恵まれなかった」と情状酌量を求めたのに対しては「被告人らと同様、あるいはそれ以上に劣悪な家庭環境に置かれていても、立派に成人した者は多数いる。被害者のX・Y子とも、Aらとさして変わらない家庭環境にいながら真剣に生きていた。家庭環境で酌量に値すると判断するのでは、2人は死んでも死にきれない」と反論した[新聞 2]。公判後の記者会見で、X・Y子それぞれの父親は「全員死刑でなければ納得できない」「犯人を皆殺しにしたぐらいだ」などと、残虐な犯行に対する怒りを露わにした[新聞 18]
同年3月3日に名古屋地裁で弁護側による最終弁論が開かれ、弁護側は「事件の性質は、精神的に未熟な6人が遊興的に始めた犯行であり、集団心理により重大な犯罪に発展した」として計画性のなさを主張し、犯行がエスカレートしていったのは「金銭欲ではなく、買ったばかりの車を逃げようとする被害者らにぶつけられてカッとなったのが原因であり、被告人らの幼稚さを示している。殺害の謀議も、Aが冗談で持ち掛けたのが独り歩きしたために惨劇に発展した」「Aに前科はなく、非行歴も軽微であり、生来の粗暴者と決めつけた論告は非難に値する」「4人が犠牲となった永山則夫連続射殺事件と比べて殺害人数は2人と少なく、論告が永山基準を判例として引用したのは不当である」と主張した[新聞 19]。そして「結果の重大性ばかりに目を奪われ、少年法の趣旨と死刑制度適用に対する世界的な情勢に反している」と検察側の論告求刑を批判し[新聞 20]、その上で「論告には誇張が多く、死刑は失当だ」としてAを有期懲役に留めるよう訴え、Aの公判は結審した[新聞 19][新聞 20]。Aは頭を垂れて弁論を聞き、小島裁判長から「最後に何か言いたいことはあるか」と問われ「被害者2人には申し訳のないことをしました」と小声で答えた[新聞 19]
同年3月22日に最後の被告人であるCの最終弁論が開かれ、弁護側は「Cは殺害謀議を本気とは思っておらず、他の被告人らに比べて犯行の度合いは低い」と情状酌量を求め、6人全員についての公判が全て結審した[新聞 21]
同年6月28日に判決公判が名古屋地裁(小島裕史裁判長)で開かれ、名古屋地裁は検察側の主張通りに犯罪事実を認定し、被告人らの犯行を「冷酷極まりない」とした上で「遊ぶ金欲しさから何ら落ち度のない男女を襲って殺した犯行は、計画的で、模倣性が強く反社会的・自己中心的だ」と断じた。その上で「稀に見る残虐・冷酷な犯罪で、被害者遺族の被害感情を考えると、Aを死刑に処すのもやむを得ない」として、以下の通り判決を言い渡した[新聞 1][新聞 22][新聞 23]
  • Aに対しては「事件の首謀者であり殺人の実行行為者でもある。責任は重く、その犯罪性も根深く、反省の態度も足りない。未成年であることを考慮しても死刑はやむを得ない」として[新聞 22]、求刑通り死刑判決(控訴)[新聞 1]
  • Bに対しては「本来ならば死刑を選択すべき」としながらも、犯行当時18歳未満の少年への死刑適用を禁じた少年法第51条の規定により、求刑通り無期懲役判決(確定)[新聞 1]
  • Cに対し懲役17年の判決(求刑無期懲役、控訴)[新聞 1]
  • 判決までに成年したDに対し懲役13年の判決(求刑懲役15年、確定)[新聞 1]
  • E子・F子両名に対し、それぞれ求刑通り懲役5年以上10年以下の不定期刑の判決(確定)[新聞 1]
判決では起訴事実をほぼ全面的に認定し、CがX殺害については「謀議に参加していない」として争っていたのに対しては「X・Y子両名を大高緑地で襲撃した後、連れて行った愛知県海部郡弥富町(現・弥富市)内の飲食店で、Aが『Xを殺害し、Yはどこかに売り飛ばす』と提案し、Cを含め5人全員が賛成した」としてCの主張を退けた[新聞 1]
その上で、量刑理由における一般的情状としては「被害者を全裸にし、たばこの火を押し付けるなどの屈辱的な暴行を加え、死の恐怖に長時間晒しながら殺害した犯行は執拗で、冷酷極まりない」と断罪し、犯行動機も「強盗は遊興費欲しさで、2人を殺害したのは大高緑地での犯行を隠すためであり、自己保身目的、自己中心的だ」と指摘した[新聞 1]。特に、Y子の殺害については「A・B両名がふざけながら『綱引き』と称してたばこを吸い終わるまで両方から絞め続けて殺すという残虐非道なものであり、情状酌量の余地はない」と非難した[雑誌・書籍 1][雑誌・書籍 2]。また「何の落ち度もない被害者を通り魔的に襲った犯行で社会的影響は大きい。被害者遺族も極刑を望んでいる」と述べた[新聞 1]
一方で「精神的に未熟な少年が集団で犯した犯行という一面がある」とした上で「A・B両名はとび職の仕事を持ち、無為徒食の身ではなかった。C・E・F子は殺人謀議に頷いただけで、涙して罪を反省している者もいる」として有利な事情も認定し「以上の有利、不利な状況をすべて考慮する」として、死刑・無期懲役を含む厳しい刑を宣告した[新聞 1]
少年犯罪に対する死刑判決は1987年の永山則夫連続射殺事件差し戻し控訴審(東京高裁、翌1990年に上告棄却で死刑確定)以来で[新聞 1]、昭和の少年犯罪としては本件が最後だったが、この判決は後述の通り破棄されたため、永山則夫以来の少年死刑囚は1992年に発生した市川一家4人殺人事件(2001年確定)の犯人となった。
A・C両名は判決を不服として、Aは7月7日付で名古屋高等裁判所控訴[新聞 24][新聞 25]、Cも控訴理由として「X殺害の共謀を否認したのに認められず、量刑も重すぎて不当である」として7月11日付で名古屋高裁に控訴した[新聞 26]。検察側もCの量刑不当を理由に翌7月12日付で控訴した一方で、B・D・E子・F子の4人は控訴せず最大で無期懲役の有罪判決が確定した[新聞 3]
Aは死刑判決を受けた瞬間、驚いたような様子で「えっ」と声を上げたことが、判決を伝えた『朝日新聞』1989年6月28日夕刊で報じられている[新聞 27]
Aに死刑、Bにも「死刑相当」とした上での無期懲役といった極刑が下されたことは、最高でも懲役17年(求刑無期懲役)だった女子高生コンクリート詰め殺人事件の第一審・東京地裁判決(1990年7月10日付、控訴審で破棄され懲役20年に加重されて確定。裁判長は本事件控訴審判決を担当した松本光雄)との対比でも注目された[新聞 28]。その決定的な違いについて、当時・日本大学法学部教授板倉宏は「名古屋では殺害被害者が2人、コンクリート事件は1人という殺害人数の違いがある。殺害被害者数1人では(永山基準の影響もあり)死刑判決はほとんど出ない」「確定的殺意と『未必の故意』の差が大きい。名古屋の事件では『殺してしまえ』という明確な殺意があり、事前に殺害用のロープを購入するなどの計画性もあった。それに対してコンクリート事件は『死ぬかもしれない』という未必の故意だった」と『週刊文春』1990年8月2日号の特集記事で解説した[雑誌・書籍 15]

控訴審(名古屋高裁)[編集]

名古屋高等裁判所刑事第2部(本吉邦夫裁判長)での控訴審初公判は1990年9月12日午後に開かれた[新聞 28][新聞 29][新聞 30][新聞 31]。初公判では本吉邦夫裁判長がA・C両被告に人定質問をした後、Aの弁護人が「殺害の共謀成立は襲撃から丸一日後で、互いに虚勢を張り、迎合し合った末に思わぬ展開になって殺害に至った」として計画性や残虐性を否定したり、「第一審判決は、事件の原因である少年の未熟な人格と集団心理への理解や検討が不十分であり、未熟な少年を保護する少年法の趣旨を判決に生かすべき」などと主張する300ページ余りに及ぶ控訴趣意書を朗読した[新聞 29][新聞 31]
第2回公判は11月5日に開かれ、前回の初公判で陳述されたAの控訴趣意書に対し、検察側が「アベック2人を殺害する謀議が成立したのは明らか。少年犯罪に対しても未熟さ、幼稚さなどの理由で寛刑に処すべきではない」とする答弁書を朗読し、Aの控訴を棄却(第一審の死刑判決の支持)すべきと主張した[新聞 32]。その後、双方が控訴したCについて弁護側・検察側がそれぞれ控訴趣意書を朗読し、弁護側はX殺害について「殺害の共謀成立は第一審判決の認定よりも後で、アベック2人のうち男性Xの殺害に合意した際はCは別行動をとっていた」として無罪を主張した一方、検察側は「犯行は自己中心的で悪質な上、CはA同様に年齢相応以上に実社会の表裏を経験しており、精神的に未成熟とは言い難い」として改めて求刑通り無期懲役を求めた[新聞 32]
1991年10月21日に控訴審第10回公判が開かれ[新聞 33]、A・C両名への情状面からの被告人質問が行われた[新聞 34]。それまでの公判の中でAの弁護側から「立証の重要ポイント」として出されていた共犯者の証人申請と、犯行メンバー6人について「第一審判決は事件の原因となった少年の未熟な人格と集団心理への理解、検討が不十分だった」とする心理鑑定の請求を、本吉邦夫裁判長が「必要はない」と却下した[新聞 33]。これに対し弁護側から異議申し立てがあったがこれも退けられたため、弁護側は反発して「裁判官のおざなりな姿勢は受け入れられない」と裁判官忌避を申し立て、公判が紛糾していた[新聞 33]。本吉裁判長はこれもすぐに却下したため、弁護側は名古屋高裁に対して却下に対する即時抗告を行う方針を決めた[新聞 33]。第一審で死刑判決を受けたAの控訴審だが、実質審理はほとんど行われないままこの日で終了し[新聞 34]、名古屋高裁刑事第2部(本吉邦夫裁判長)は次回公判の1992年1月21日・第11回公判最終弁論をもって控訴審を結審する方針を決めた[新聞 33]。Aの主任弁護人の水谷博昭弁護士は「死刑という重大な事件にも拘らず、控訴審は被告人質問だけで実質審理が1つも行われていない。裁判官は最初から結果を決めていたとしか言いようがない」と憤った[新聞 33]
Aの弁護団は10月23日、公判を担当している裁判官3人の忌避申し立てが名古屋高裁に却下されたことに対して異議申し立てを行った[新聞 35]。しかしこの申し立ては10月25日付で[新聞 36]、名古屋高裁刑事第1部(柴田孝夫裁判長)から「訴訟遅延を目的とするもので、刑事第2部の決定は正当」として棄却された[新聞 37]
1992年、名古屋高裁は弁護団との交渉の上で当初の予定を変更し、最終弁論の前にAの母の証人尋問などを行った上で[新聞 38]、2月下旬に最終弁論を行い控訴審を結審することが予定されていた[新聞 39]。しかし、裁判長の訴訟指揮に抗議する意図のためか、1月9日にAが弁護団5人全員の解任届を名古屋高裁に提出した[新聞 39]刑事訴訟法では、法定刑が死刑などにあたる重大事件被告人の審理は弁護人がいなければ開廷できないことが定められているため、Aが新たに弁護人を指名するか、国選弁護人が選任されるまで公判を開廷できなくなり、1月21日に予定していた次回公判は事実上開廷不可能となった上[新聞 38]、2月下旬に予定されていた結審も大幅に遅れることとなった[新聞 39]。Aは前年末に弁護人らに解任の連絡をした後、弁護人の1人である白浜重人と面会した際に「共犯者を証人として調べるなど、裁判所は審理を尽くしてほしい。このままでは納得いかない」と語っており、白浜は「彼(A)が1人で決めたようだ。彼の気持ちを裁判所に示す、彼に残された唯一の手立てで、弁護団としてはやむを得ないと思う。私たちは今後、弁護にあたる人には協力を惜しまない」と語った[新聞 39]
これを受け、1992年1月20日に名古屋高裁は、併合して審理されているCの公判を含めて予定していた翌21日の第11回公判の延期を決めた[新聞 40]
翌21日までにはAが弁護人選任届を名古屋高裁に提出し、私選弁護人として、第二東京弁護士会所属の安田好弘弁護士が選出された[新聞 41][新聞 42]
1992年4月28日、名古屋高裁は次回公判を7月28日に開くことを決めた[新聞 43]。Aはそれまでに安田を含め2人の弁護人を選任しており、次回公判で新弁護団から控訴趣意補充書が提出される見込みとなった[新聞 43]
その後さらに3人の弁護団が新たに選出され、弁護団は計5人となったが、1994年12月下旬には再びAによりっ全員が解任され、翌1995年3月30日から第3の弁護団として[新聞 3]、再任された安田を含む3人の弁護人が選出された。
1996年9月26日から2日間にわたって最終弁論が名古屋高裁(松本光雄裁判長)で開かれ、第一審初公判から8年ぶり、控訴審初公判から6年ぶりに結審することとなった[新聞 44][新聞 45]。同日の第33回公判ではCの弁護側が「専門家鑑定や共犯4人の供述などから、殺害など一連の犯行の共謀が成立したのは、第一審で認定された弥富町内の喫茶店ではなく、その19時間後に寄った名古屋市内のファミリーレストランであるが、その場にはCはいなかった。その間、被害者2人を拉致したのは襲撃した際に壊れた共犯者の車の修理の話を付けるためで、拉致監禁する意思はなかった[新聞 44]。当初は冗談で出た「男は殺し、女は売る」という話が、2人を連れ回すうちに少年らが粋がり合う微妙な心理状態に追い込まれ、急に決まったのであり、計画性はない[新聞 46]」などの260ページにわたる最終弁論要旨の陳述を進めた[新聞 44]
その後、同日から2日間にわたってAの最終弁論も開かれ、Aの弁護側は『共謀場所はCの主張同様、名古屋市内のファミリーレストランである」「この事件の犯人は大半が少年であり、少年犯罪としてとらえるべき。第一審判決は、少年法の精神からも事実認定に重大な誤りがあり、量刑は不当である」とした上で、犯罪事実についてほとんど争わず、情状面を重視した第一審の弁護活動についても反省点があったことを認めた[新聞 46]。翌27日に弁護側による残りの弁論と、検察側の陳述が開かれ、弁護側は被害者らを殺害するまでの経緯について「共犯の少年らが希薄な人間関係の中で弱みを見せられない、という虚勢を張り続けた結果、当初は冗談で口走った2人の殺害を実行するまでに追い込まれた」とする専門家の心理鑑定などに基づく、改めて計画性を否定した上で、第一審の死刑判決について「少年法の理念から量刑判断は一般成人事件以上に重視されるべきなのに、第一審では殺害に至った経緯や事実認定などの洞察がなされていない」と不満を示し、Aの矯正可能性について「人間的成長が見られる」とした上で「与えられた生命を生き続けて被害者らに対する償いをさせたいと強く希望する」と結び、死刑判決の破棄と寛大な判決を求め結審した[新聞 46][新聞 45]。一方で検察側は「稀に見る凶悪・重大な犯行で、Aは事件の首謀者であり、冷酷無比な言動に生来的な性格の一面を認められる」として、第一審の死刑判決を支持して控訴を棄却するようもとめ、Cについても第一審を破棄した上で求刑通り無期懲役を適用するよう求めた[新聞 45]
1996年12月16日に開かれた控訴審判決公判で名古屋高裁(松本光雄裁判長)は第一審判決を破棄し、死刑判決だったAは「犯行の動機に酌むべきものは全く見当たらず。犯行の態様も残虐で、結果の重大性は言うまでもない。被害者遺族の被害感情には今なお厳しいものがあるなど、極刑をもって臨むべきとの見解には相当の根拠がある」としながらも「矯正可能性が遺されていること、精神的に未熟な少年による無軌道で場当たり的な一連の集団犯罪であり、Aも控訴審で反省の度を深めている。そのため、矯正による罪の償いを長期にわたり続けさせる余地がある」として、既に確定したB同様、Aは無期懲役(求刑死刑)に減軽する判決を言い渡した[新聞 3]。懲役17年だったCも「X殺害の共謀に加わっておらず、その件に関しては無罪。Y子殺害の共謀に加担したにとどまる」として弁護側主張をほぼ認め、懲役13年(求刑無期懲役)に減軽する判決を言い渡した[新聞 3]
この判決は社会感情からあまりにもかけ離れたものであり[雑誌・書籍 16]、各方面からは「少年なら何でも許される風潮を生みかねない」などの反発や批判・抗議の声が相次いだ[新聞 47]。当時筑波大学教授の土本武司は「成人に近い少年の集団犯罪で、死刑か無期懲役か微妙な場合、死刑にはしないという布石になる。少年が安易に集団暴力に走るのではないだろうか」とこの判決の悪影響を懸念した[新聞 47][注 2]
検察側の上告を期待する声も聞かれたが[雑誌・書籍 16]名古屋高等検察庁は「Aについては動機の悪質さ、犯行態様の残虐性、結果の重大性、被害者遺族の被害感情、Aが果たした役割からすれば死刑が相当であり、無期懲役とした控訴審判決は不当である」としながらも、正当な上告理由である日本国憲法や判例などに明確に違反する点が見出しにくく、事実認定上の問題であることから12月26日に最高裁判所への上告を断念し、またCについても「被害者2人のうち1人について無罪となった点では事実認定上の問題である」として同じく上告を断念した[新聞 48]。その後、上告期限となる翌1997年1月7日までに検察側・弁護側双方ともに控訴せず、戦後有数の凶悪事件を起こしたAの無期懲役判決(求刑死刑)Cの懲役13年判決(求刑無期懲役)がともに確定した[新聞 49][雑誌・書籍 16]
上告審は法律審であるという性格上、事実誤認や量刑不当を理由とした上告は棄却される可能性が高いために名古屋高検は最高裁への上告を断念せざるを得なかったが[雑誌・書籍 16]、高検に対しても抗議の声が相次いだ[新聞 47]

被害者遺族たちのその後[編集]

理容師男性Xの遺族のその後[編集]

新潮452003年10月号に掲載された記事「反省し『シャバ』に戻った少年少女のそれから」によると、Xの父は1993年頃に名古屋市中村区内のマンションの一室で誰にも看取られることなく、机に突っ伏したまま息を引き取っていたという[雑誌・書籍 17]

理容師見習い女性Y子の遺族のその後[編集]

『新潮45』2003年10月号に掲載された記事「反省し『シャバ』に戻った少年少女のそれから」によると、Y子の父は他の子供たち一家と暮らしているが、母は事件から9年後の1997年11月、59歳の若さで他界している[雑誌・書籍 17]

少年たちのその後[編集]

主犯Aの近況[編集]

主犯Aの近況については何度か報道されている。『月刊現代2006年7月号などに掲載された元弁護人の話や『共同通信社』の2008年11月29日の報道によれば、Aは1989年に名古屋地裁で死刑判決を受けてから、2人の被害者の遺族へ謝罪の手紙を書き始めた[新聞 50]。また、岡山刑務所収監された1997年以降は作業賞与金(刑務作業に支払われる給与)も添えて送るようになり、2005年3月にY子の父親から「頑張りなさいよ」と書かれた手紙を受け取り、それ以降も文通を行っていると報道された[新聞 50]。殺人事件の被害者と加害者の文通は極めて異例であり、修復的司法の試みとされた[新聞 50]。Xの遺族からの返信はないが、手紙を受け取ってもらえていることは分かっていると報道された[新聞 51]。ただしその「遺族」の、Xとの続柄についての記述はなく[新聞 51]、Xとどのような関係の人物なのかは2017年現在全く不明である。

なお、『新潮45』2016年9月号に掲載された記事「『名古屋アベック殺人事件』無期懲役少年のいま」では共同通信記者の佐藤大介が岡山刑務所でAと面会し現状を取材した[雑誌・書籍 5]。同記事によれば、「模範囚」として刑務所生活を送るAは佐藤から「なぜ絶望することなく日々を生きることができるのか」と問いかけられたのに対し「(仮釈放による)社会復帰という目標があるからです」と答えた一方で、無期懲役囚の仮釈放件数の減少や獄中死の増加・平均収容期間の長期化により、無期懲役が「事実上の終身刑」(佐藤が取材した元刑務官の話)と化している現状についても理解しており、その上で「(仮釈放の)審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います。(略)状況は厳しいのですが、必ず出られる日が来ると信じて、毎日を頑張っていこうと思っています」と佐藤に語った[雑誌・書籍 5]。佐藤は「Aは仮釈放を現実のものとして望みをつなげる数少ない無期懲役囚だが、その困難さを知らないわけではない」と記している[雑誌・書籍 5]。また、Aは2015年8月26日にくも膜下出血で運動中に倒れ、一時は生死の境をさまよい、9か月後の2016年5月まで刑務所外部の病院に入院していたことを佐藤に明かし、その上で「それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」と語っている[雑誌・書籍 5]

共犯者たちの出所後[編集]

新潮45』2003年10月号記事によると、無期懲役が確定したA・B両名を除き、C・2000年頃に岡山刑務所から出所したD・E子・F子の4人は、『新潮45』記者がDを取材した2003年8月中旬時点でいずれも既に刑期を終え出所していたが[雑誌・書籍 18]、逮捕後に反省の弁を述べていた本人もその親たちも、誰1人として被害者遺族の元を訪れ謝罪していないという[雑誌・書籍 17][雑誌・書籍 12]

1988年11月下旬、被害者らの互いの遺族は名古屋簡易裁判所に、加害者やその家族らへの損害賠償請求調停申し立てを行い、Xの両親には4926万3459円(調停総額は3551万円)は、Y子の遺族には5218万3026円(同5551万円)を支払うことが取り決められたが、事件から15年後の2003年8月時点で実際に支払われたのはXの両親には約半分の798万6500円、Y子の遺族には3分の1未満の1572万9000円しか支払われていない[雑誌・書籍 8]

  • A・Bは無期懲役が確定し仮釈放の目途が立たないため、本人分は調停不調に終わった[雑誌・書籍 8]
    • Aの両親はその後の調停に従って、事件前に離婚していたXの両親に1640万円(調停額500万円)、Y子の遺族に1071万円(同1000万円)をそれぞれ1999年5月までに完済した[雑誌・書籍 8]
    • 一方、Bの両親は息子の公判に顔を出さないばかりか、加害者家族らの集まりなどにも一度も参加せず、賠償金に関しても支払う意志さえ見せず調停不調となった[雑誌・書籍 8]
  • 犯行当時唯一成年だったCも出所直後に行方をくらまし、Yの遺族との調停に応じたはずの2000万円の賠償金を全く払わず、Xの遺族とは調停不調となっており、その両親も親権放棄を決め込んで調停の席にすらつかないという有様だった[雑誌・書籍 8]
  • DはXの両親に各500万円、Y子の遺族に1000万円を出所6か月後から支払うことで調停に至っていたが、少なくとも2003年8月時点まで全く支払いに応じておらず、現住所なども秘したまま結婚して妻子をもうけ、平穏な生活を送っていた[雑誌・書籍 8]。Dの両親も調停不調となっていた[雑誌・書籍 8]
  • 「被害者遺族に土下座して詫びたい」と口にしていたE子は、本人分としてXの両親に各250万円、Y子遺族への500万円を支払うことで調停に至ったが、出所後の1996年4月以降、2003年8月時点までに支払われたのはX両親に各12万4000円、Y子遺族に22万4000円で、初めの数回を支払っただけで住所を変更し、被害者側にはその通告をしていない[雑誌・書籍 8]。E子は出所後に知り合った男性と2000年に結婚して子供をもうけ、愛知県春日井市内に移住するが翌2001年2月に離婚し、その後は名古屋市内に移住し、2003年8月現在は水商売で働いているという[雑誌・書籍 19]
  • F子は事件後、賠償の意志を明らかにしていたが、本人分の調停額であるX両親への300万円、Y子遺族への600万円のうち、出所後の1996年5月までに支払われたのは母親を通じて分割払いされた一部のみで、2003年8月時点では「ここ数か月未払いのまま」であった[雑誌・書籍 8]。E子の両親は支払い分(X両親への115万5000円、Y子遺族への231万円)を既に完済したが[雑誌・書籍 8]、F子本人は住居を変更し、被害者遺族やその代理人ら人も通告していないという[雑誌・書籍 8]。F子は出所後の1996年12月に知り合った男性と結婚したがその翌1997年に離婚し、さらに3年後の2000年に別の男性と再婚し、2人の夫との間に男児を1人ずつもうけ、2003年8月現在は共働きで暮らしているという[雑誌・書籍 19]

同記事によると、Dはインタビューに対し「事件にばかり引きずられていてもアレでしょう、前に進めないと思う」[雑誌・書籍 20]「娘が同じ目にあったら許さないと思う。許さないんじゃないでしょうか」[雑誌・書籍 21]「賠償金については親が示談したが、親とも連絡をとらなくなって、忘れてるというかそれで終わってる」[雑誌・書籍 21]「被害者の墓参り?行く時間がないので難しいね」[雑誌・書籍 22]などと答え、事件への懺悔や賠償の意思を示さず、自己主張のみを前面に出した回答を行っている。

その他[編集]

参考文献[編集]

刑事裁判の参考判決文[編集]

  • 名古屋地方裁判所刑事第4部判決 1989年(平成元年)6月28日 判例時報1332号36頁、判例タイムズ711号266号、D1-Law.com(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:27911223、昭和63年(わ)486号/昭和63年(わ)876号/昭和63年(わ)908号、『強盗致傷殺人死体遺棄強盗未遂強盗強姦道路交通法違反被告事件』。
    • 判決内容:Aを死刑(求刑同・控訴)、Bを無期懲役(求刑同・確定)、Cを懲役17年(求刑無期懲役・控訴)など
    • 裁判官:小島裕史(裁判長)・伊藤新一郎・柴﨑哲夫
  • 名古屋高等裁判所刑事第2部判決 1996年(平成8年)12月16日 判例時報1595号38頁、高等裁判所刑事裁判速報集(平8)148頁、D1-Law.com(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28020812、平成1年(う)262号、『強盗致傷殺人死体遺棄強盗未遂強盗強姦被告事件』。
    • 判決内容:破棄自判。Aを無期懲役(求刑死刑)、Cを懲役13年(求刑13年)
    • 裁判官:松本光雄(裁判長)・志田洋・川口政明

雑誌掲載記事[編集]

  • オール讀物』(文藝春秋社)1989年8月号「惨殺の構図」
    • 検察による冒頭陳述書を収録した記事。加害者6人及び被害者2人の経歴、本件の前に起こした2件の恐喝未遂及び恐喝事件、及び本件の犯行内容が記述されている。

関連書籍[編集]

  • 新潮45』編集部 『殺戮者は二度わらう - 放たれし業、跳梁跋扈の9事件』 新潮文庫2004年6月1日、271-322頁。ISBN 978-4101239163
    • 取り上げられている9事件中の1話として『新潮45』2003年10月号の本事件についての記事「反省し『シャバ』に戻った少年少女のそれから」が収録されている。本件の犯行内容及び、Y子の被害者遺族、D本人、Aの母親へのインタビューなどで構成されている。
  • 丸山佑介 『判決から見る猟奇殺人ファイル』 彩図社2010年1月20日、132-141頁。ISBN 978-4883927180
    • 本事件概要、裁判の経過、加害者らのその後が収録された。

漫画化作品[編集]

下記の単行本、雑誌において、この事件の短編漫画が掲載された。

コンビニ販売の実話コミック本。取り上げられている5事件中の1話として、この事件が収録された。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 当初の報道では犯行当時21歳、名古屋市北区在住[新聞 5]
  2. ^ しかし、2006年の光市母子殺害事件(本件同様2人殺害の少年犯罪)上告審判決では「特に酌量すべき事情がない限り死刑の選択をするほかない」として一・二審の無期懲役判決を破棄して審理を高裁に差し戻し、少年犯罪においても特別な情状酌量の余地がない場合『原則・死刑適用、例外・死刑回避』という新たな判断の枠組みを示した。光市事件はその後死刑判決が言い渡され確定した。

出典[編集]

以下の出典において、記事名に本事件当事者の実名が使われている場合、この箇所を本項目で用いているその人物の仮名及び伏字とする。

新聞報道出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『中日新聞』1989年6月28日夕刊1面「大高緑地アベック殺人 主犯少年(当時)に死刑 『残虐、冷酷な犯罪』 共犯の5被告、無期 - 不定期刑に 名地裁判決」
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 中日新聞』1989年1月31日朝刊1面「名古屋・大高緑地のアベック殺人 主犯少年に死刑求刑 名古屋地検『まれに見る悪質さ』と論告 残る5人も無期 - 5年」
  3. ^ a b c d e f g h i 『中日新聞』1996年12月16日夕刊1面「主犯格19歳(当時)に無期 アベック殺人控訴審 死刑破棄し減軽 名古屋高裁 C被告も13年に」
    『中日新聞』1996年12月16日夕刊2面「アベック殺人 死刑判決破棄 少年への極刑に慎重 集団心理などを考慮」【アベック殺人事件の訴訟経過】
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『中日新聞』1988年3月2日朝刊31面「アベック襲撃殺害事件 全容を自供 殺害決意はら致直後 夜が明け発覚恐れ」
  5. ^ a b c d e f 『中日新聞』1988年2月28日朝刊1面「名古屋・大高緑地公園アベック襲撃殺人事件 新たに暴力団組員逮捕 他にも共犯の可能性」
  6. ^ a b c d e f g h i j 『中日新聞』1988年2月29日朝刊26面「名古屋・大高緑地公園アベックら致殺害事件 新たに2少年浮かぶ 金城ふ頭事件に加担 愛知県警行方追及」
  7. ^ a b c d e f g h 『中日新聞』1988年3月1日夕刊9面「名古屋・大高緑地公園アベック襲撃殺人事件 主犯格少年は元組員 暴力団の本家墓前でXさんを殺害」
  8. ^ a b c d e f g h i j k 『中日新聞』1988年2月27日夕刊1面「名古屋・大高緑地公園ら致事件 アベック殺されていた 三重・大山田村の山に遺体 男女5少年を逮捕 愛知県警」
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『中日新聞』1988年2月25日朝刊27面「アベックら致?不明2日 窓ガラス割られた車放置 名古屋・大高緑地公園」
  10. ^ a b 『中日新聞』1988年3月1日朝刊22面「名古屋・大高緑地公園アベック殺害事件 『もう私を殺して』衰弱し、Y子さん訴える 少年らが自供」
  11. ^ a b c d e 『中日新聞』1988年2月25日夕刊13面「名古屋・大高緑地公園アベック不明事件 “噴水族”が襲う? 金城ふ頭で昨夏にも類似事件」
  12. ^ a b c d 『中日新聞』1988年2月26日夕刊11面「名古屋・大高緑地公園アベックら致事件 犯行車のセドリック 54-56年製、旧型4ドア 窓には黒色フィルム 愛知県警、絞り込む」
  13. ^ a b 『中日新聞』1988年2月27日朝刊27面「名古屋・大高緑地公園アベックら致事件 犯人の車を発見」
  14. ^ 日本経済新聞』1988年3月20日朝刊31面「少年5人を送致 名古屋アベック殺人」
  15. ^ a b 『日本経済新聞』1988年4月23日名古屋朝刊21面「少年ら5人も起訴 名古屋のアベック殺人」
  16. ^ 『日本経済新聞』1988年4月15日名古屋朝刊21面「少年ら五人を地検に逆送致 アベック殺人で名古屋家裁」
  17. ^ 『日本経済新聞』1988年7月19日名古屋朝刊21面「未成年の5人は起訴事実認める アベック殺人初公判」
  18. ^ a b c 『日本経済新聞』1989年1月31日朝刊31面「当時少年に死刑求刑 愛知・名古屋のアベック殺し」
    『日本経済新聞』1989年1月31日名古屋朝刊21面「主犯少年(当時)に死刑求刑 愛知アベック殺人『まれに見る非道』」
  19. ^ a b c d 『中日新聞』1989年3月3日夕刊11面「大高緑地のアベック殺人 有期刑への減軽訴え 元少年の最終弁論 名古屋地裁」
  20. ^ a b 『日本経済新聞』1989年3月3日名古屋朝刊21面「『有期刑が相当』少年側が主張 名古屋市緑区のアベック殺人」
  21. ^ 『中日新聞』1989年3月22日夕刊12面「名古屋・大高のアベック殺人事件で全員結審」
  22. ^ a b 『日本経済新聞』1988年6月28日夕刊1面「アベック殺人事件の主犯少年に死刑判決 名古屋地裁」
    『日本経済新聞』1989年6月28日夕刊19面「『凶悪犯は極刑』踏襲 アベック殺人少年に死刑判決 社会への影響認める」
  23. ^ “アベック殺人事件の「少年死刑」判決理由<要旨>”. 朝日新聞. (1989年6月28日) 
  24. ^ 『中日新聞』1989年7月8日朝刊30面「死刑判決の少年控訴」
  25. ^ 『日本経済新聞』1989年7月8日朝刊35面「死刑判決の少年控訴 名古屋のアベック殺人」
    『日本経済新聞』1989年7月8日西部朝刊17面「死刑判決の少年控訴 名古屋のアベック殺人」
  26. ^ 『中日新聞』1989年7月12日朝刊30面「アベック殺人の共犯控訴」
  27. ^ 朝日新聞』1989年6月28日夕刊19面「残虐な暴走に極刑 宣告に少年『えっ』 名古屋のアベック殺人判決」
  28. ^ a b 『中日新聞』1990年9月12日朝刊30面「名古屋のアベック殺人 きょうから控訴審 名高裁」
  29. ^ a b 『中日新聞』1990年9月12日夕刊12面「計画、残虐性を否定 『虚勢張った』と被告側 アベック殺人控訴審初公判」
  30. ^ 『日本経済新聞』1990年9月10日名古屋朝刊21面「12日に控訴審初公判 『アベック殺人事件』 少年犯の死刑で攻防」
  31. ^ a b 『日本経済新聞』1990年9月12日名古屋夕刊36面「死刑不当と主張 『殺害は偶発的』 アベック殺人控訴審初公判 名古屋高裁」
  32. ^ a b 『中日新聞』1990年11月5日朝刊30面「C被告の一部無罪主張 アベック殺人控訴審」
  33. ^ a b c d e f 『中日新聞』1991年10月22日朝刊26面「裁判官忌避で紛糾 アベック殺人控訴審 来年1月結審」
  34. ^ a b 『日本経済新聞』1991年10月22日名古屋朝刊21面「主犯格の情状鑑定行わず 実質審理なく判決へ アベック殺人控訴審公判」
  35. ^ 『中日新聞』1991年10月24日朝刊30面「裁判官忌避却下で異議申し立て アベック殺人控訴審」
  36. ^ 『中日新聞』1991年10月26日朝刊30面「弁護側の異議を棄却」
  37. ^ 『日本経済新聞』1991年10月26日名古屋朝刊21面「異議申し立て棄却 アベック殺人で名高裁」
  38. ^ a b 『日本経済新聞』1992年1月10日朝刊39面「『アベック殺人』の被告が弁護団解任 名古屋高裁で公判中」
    『日本経済新聞』1992年1月10日名古屋朝刊21面「弁護団全員を解任 名高裁で公判中、『アベック殺人』の被告」
  39. ^ a b c d 『中日新聞』1992年1月10日朝刊30面「アベック殺害で死刑判決の被告 裁判手続きに抗議 弁護団全員を解任」
  40. ^ 『中日新聞』1992年1月21日朝刊26面「アベック殺人公判延期」
  41. ^ 『中日新聞』1992年1月22日朝刊26面「後任弁護士に安田氏」
  42. ^ 『日本経済新聞』1992年1月22日名古屋朝刊21面「新弁護人を選任 『アベック殺人』被告」
  43. ^ a b 『日本経済新聞』1992年4月28日名古屋夕刊36面「審理再開へ 7月28日公判『アベック殺人』控訴審」
  44. ^ a b c 『中日新聞』1996年9月26日夕刊12面「アベック殺人 『殺害共謀なかった』 控訴審最終弁論 C被告側が供述」
  45. ^ a b c 『日本経済新聞』1996年9月27日名古屋朝刊21面「控訴審最終弁論始まる 名高裁 名古屋『アベック殺人事件』」
    『日本経済新聞』1996年9月28日名古屋朝刊21面「アベック殺人控訴審が結審 名古屋高裁」
  46. ^ a b c 『中日新聞』1996年9月27日朝刊34面「アベック殺人 控訴審最終弁論 殺害に計画性ない 当時少年の弁護側主張」
    『中日新聞』1996年9月28日朝刊34面「判決は12月16日 アベック殺人 控訴審が結審」
  47. ^ a b c 朝日新聞』1997年1月29日朝刊4面「死刑で少年犯罪は減るか 久保田正(コラム・私の見方)」
  48. ^ 『中日新聞』1996年12月27日朝刊1面「アベック殺人事件 検察側が上告断念 死刑破棄 元少年の『無期』確定へ」
  49. ^ 『中日新聞』1997年1月7日夕刊10面「2被告の刑確定 アベック殺人事件」
  50. ^ a b c “娘殺した無期囚と文通 父親「許せぬが人として接す」” (日本語). 共同通信. (2008年11月29日). オリジナル2017年4月10日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20081201084222/http://www.47news.jp/CN/200811/CN2008112901000138.html 
  51. ^ a b “矯正 生きて償う意味知る 命日に遺族へ謝罪文―連載” (日本語). 西日本新聞. (2009年7月6日) 
  52. ^ 『中日新聞』1994年10月17日朝刊社会面27面「長良・木曽川リンチ殺人 接点は『シンナー』だけ 犯行グループ 名前知らぬ人物も」

雑誌報道・書籍出典[編集]

  1. ^ a b c d 福田洋 『20世紀にっぽん殺人事典』 社会思想社2001年8月15日、642-643頁。ISBN 978-4390502122「名古屋・非行少年グループ、アベック殺人」
  2. ^ a b c d 村野薫(編集)、事件・犯罪研究会 (編集) 『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』 東京法経学院2002年7月5日、612頁。ISBN 978-4808940034「名古屋“噴水族”アベック殺人事件」(前坂俊之
  3. ^ a b c 新潮45 2004, p. 274
  4. ^ a b c d e f g 新潮45 2004, p. 279-288
  5. ^ a b c d e f 佐藤大介 (2016-08-18). “「名古屋アベック殺人事件」無期懲役少年のいま”. 『新潮45』 (新潮社) (2016年9月号): 248-255. 
    “デート中の男女を暴行、強姦…「名古屋アベック殺人」無期懲役少年が語る“社会復帰”(1/2ページ)”. 『デイリー新潮』. (2016年9月5日). オリジナル2017年6月1日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20161019175910/https://www.dailyshincho.jp/article/2016/09051045/?all=1 2017年6月1日閲覧。 
    “デート中の男女を暴行、強姦…「名古屋アベック殺人」無期懲役少年が語る“社会復帰”(2/2ページ)”. 『デイリー新潮』. (2016年9月5日). オリジナル2017年6月1日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20161019175910/https://www.dailyshincho.jp/article/2016/09051045/?all=1 2017年6月1日閲覧。 
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  10. ^ a b 新潮45 2004, p. 272
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  12. ^ a b 新潮45 2004, p. 302
  13. ^ 新潮45 2004, p. 318
  14. ^ 新潮45 2004, p. 274
  15. ^ a b 週刊文春』(文藝春秋)1990年8月2日号p.40-42「大特集 肝心なことを書かない新聞」『名古屋アベック殺人と女子高生コンクリート詰め殺人 「死刑と17年の落差」』」
    『週刊文春』(文藝春秋)1990年8月2日号p.43-44「名古屋アベック殺人被害女性の両親が激怒 十七年でも死刑でも彼らは絶対に許せない!」
  16. ^ a b c d 丸山 2010, p. 138-139
  17. ^ a b c 新潮45 2004, p. 306-308
  18. ^ 新潮45 2004, p. 272-275
  19. ^ a b 新潮45 2004, p. 311-316
  20. ^ 新潮45 2004, p. 276
  21. ^ a b 新潮45 2004, p. 308-311
  22. ^ 新潮45 2004, p. 321-322

関連項目[編集]