広島タクシー運転手連続殺人事件
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| 広島タクシー運転手連続殺人事件 | |
|---|---|
| 場所 | |
| 日付 | |
| 概要 | 借金返済に追われていたタクシー運転手の男が約5か月間で4人の女性を殺害して遺体を山中に遺棄した。第1の事件の動機は強盗目的だったが、やがて殺人そのものに快楽を見出すようになっていった。 |
| 攻撃手段 | 首を絞める |
| 攻撃側人数 | 1人 |
| 武器 | ネクタイ |
| 死亡者 |
売春目的で知り合った女性4人 |
| 損害 | 現金約24万円(4人から奪った金額)[新聞 16] |
| 犯人 | タクシー運転手の男H(犯行当時34歳)[新聞 1][新聞 17] |
| 動機 | 強盗・快楽殺人 |
| 対処 | 逮捕・起訴 |
| 謝罪 | あり |
| 刑事訴訟 | 死刑(執行済み)[新聞 18][新聞 19] |
| 管轄 | |
広島タクシー運転手連続殺人事件(ひろしま タクシーうんてんしゅ れんぞくさつじんじけん)は、1996年(平成8年)4月から9月の約5か月間、広島県内で女性4人が犯行当時34歳・タクシー運転手の男Hにより相次いで殺害された連続殺人・死体遺棄事件[新聞 1][新聞 18][新聞 19]。
加害者Hは広島市中区の遊郭跡にある歓楽街(流川・新天地・薬研堀)一帯で深夜、売春を通じて被害者女性を次々と誘っては、タクシーの車内で首を絞めて殺害し遺体を山中に遺棄した[雑誌 1]。
作家・丸山佑介は著書『判決から見る猟奇殺人ファイル』(彩図社、2010年)にて[書籍 2]、その凶悪さから広島の繁華街をパニックに陥れた本事件を[書籍 3]、「タクシードライバーによる殺人行脚」「『誰もが利用する交通機関』であるタクシーの運転手が突然襲い掛かる恐ろしい事件」と形容した[書籍 2]。
元死刑囚H[編集]
本事件の加害者の男Hは、1962年(昭和37年)4月に宮崎県宮崎市で[新聞 20]、農家の3人兄弟の末っ子(三男)として生まれた[書籍 4]。2006年(平成18年)12月25日、死刑囚Hは法務省(法務大臣:長勢甚遠)の死刑執行命令により、収監先・広島拘置所にて死刑を執行された(44歳没)[新聞 21]。
事件当時は34歳、広島市安佐南区沼田町吉山在住のタクシー運転手だった[新聞 22]。
宮崎県出身のHは高校時代まで「スポーツ万能の優等生」として地元で名が知られており[書籍 4]、末っ子であるため小遣いは欲しがるだけもらえた[新聞 20]。Hは特に日本史が得意で、高校の同級生は『毎日新聞』の取材に対し「クラスの上位15番以内に入る成績だった。空けても暮れてもテスト・テストの生活を自分とともに乗り越えた仲間だ」と証言した[新聞 20]。
中学時代、野球部の主将を務めたHは[新聞 20]、1978年(昭和53年)4月、県内トップの進学校として知られる県立高校に入学した[新聞 20]。
1981年(昭和56年)3月に高校を卒業したHは[新聞 20]、「教師か公務員になりたい」と大学受験に臨んだが[新聞 20]、志望していた筑波大学の推薦入試に加えて第二志望の福岡教育大学にも不合格と立て続けに失敗した[書籍 4]。
1981年4月[新聞 20]、Hは結局、滑り止めのつもりで受けた私立大学の福岡大学法学部にしか合格できず、同大学に入学した[書籍 4]。
地元は国立大学志向が強く教師の学歴が重視されていたため、Hは高校時代に無名の私立大学出身だった教師を軽蔑していた時期があったが、大学受験に失敗して以降、「私立大学ではたとえ教師になっても尊敬されない」と大きな挫折感を味わった[書籍 4]。福岡大学でも「俺は筑波大学を推薦で受けたほどの人間だ。お前らとは違う」と同級生を見下しつつ、授業にはほとんど出席しなかったHは飲酒・ギャンブルにのめり込んだ[書籍 4]。このころからHは高校時代までの友人たちと音信不通になり、同窓会にも出席しなかった[新聞 20]。
しかしそれが仇となり、4年生になってかつて見下していた同級生たちが国家公務員・都道府県職員へと就職していった一方[書籍 4]、Hは留年が確実となり[書籍 4]、「このままでは市役所職員にもなれない」と強い挫折感を抱えていた[書籍 5]。
福岡大学入学から4年2か月後となる1985年(昭和60年)6月末[新聞 20]、Hは4年生に留年したまま授業料滞納のため[新聞 20]、大学を中途退学した[書籍 5]。
その後、学費を援助していた兄により宮崎市の実家に連れ戻されてからは[新聞 20]、周囲に対し「司法試験に失敗した」と嘘を言い張りつつ、宮崎市役所臨時職員として就職した[書籍 5]。しかし飲酒・女遊びに溺れるなどの荒れた生活は改善せず、オートバイの酒気帯び運転で逮捕された[書籍 5]。
その後もHは遊ぶ金欲しさにひったくりを繰り返し、当時24歳だった1986年(昭和61年)1月25日午後0時過ぎには、会社員宅に侵入してその妻に包丁を突き付け、現金2万円・預金通帳を奪った[書籍 5]。この強盗事件で逮捕・起訴されたHは、懲役2年の実刑判決を受け、刑務所に服役した[書籍 5]。
Hは刑務所を出所後、故郷の宮崎県を離れると[書籍 5]、1989年(平成元年)4月[新聞 20][書籍 5]、叔父を頼って広島県広島市内に移住し[書籍 5]、叔父宅に身を寄せた[新聞 11]。母親によればそれ以降、青年期の挫折体験を思い出したくなかったのか、宮崎の実家には一度も帰らなかった[新聞 20]。
1989年4月[新聞 20]、Hは広島市内のタクシー会社に[新聞 20]、運転手として就職した[新聞 20]。「一からやり直す」決心で働こうとしたが[新聞 20]、大企業のエリート社員を客として乗せて働き続ける毎日のうちに、Hは「俺はタクシーの運転手なんかやっている人間じゃない。筑波大学に合格できていれば今ごろは国家公務員として地位・名誉を約束された生活を送っていけたはずだ」とコンプレックスを募らせ続けていた[書籍 5]。Hはこのころ一人暮らしを始め[新聞 11]、当時の月収は手取りで約30万円だったが、Hはその大半を飲酒・女遊びに浪費した上[新聞 11][書籍 5]、消費者金融(サラ金)から借金を重ね続けていた[新聞 11][書籍 5]。
1992年(平成4年)、当時29歳だったHは叔父の紹介で当時30歳(Hより1歳年上)の女性と結婚した[書籍 5]。1992年初めごろ、サラ金からの借金の総額は500万円に達していたが、Hはこの膨大な借金を「安佐南区の新興住宅地に建てた建売住宅を購入した上で、その住宅ローンを実際の金額より400万円上乗せして組み、妻の貯金100万円と足して合計500万円を作る」ことで[書籍 5]、同年7月に完済した[新聞 11]。
これが転機となって生活が徐々に改善していったHは[書籍 2]、1993年(平成5年)4月に長女が誕生、1児の父親になった[書籍 5]。Hはこのころ「家も持ったし子供もできた。これで世間も認めてくれる」と希望を持ち始めていたが、長女誕生から2日後、産褥期の妻が突然意味不明な言葉をつぶやき続けたり、時折奇声を上げたりなど、精神疾患を発症した[書籍 5]。Hはその後、妻を精神科病院に入院させて娘を妻の実家に預けたが、再び飲酒・ギャンブル・女遊びを繰り返す荒れた生活に戻っていった[書籍 5]。
その後Hは再びサラ金から借金を繰り返し、1994年(平成6年)末には200万円の借金を抱えたため、実家の兄に借金を肩代わりさせた[書籍 5]。妻は一時、病状が改善したために退院したが[書籍 5]、翌1995年(平成7年)10月以降[新聞 23]、再び長期入院するようになった[書籍 5]。
精神疾患を患った妻に回復の兆しが見られなくなったこと、義両親の実家に引き取られた娘と疎遠になったことなどから、Hの生活は荒れていく一方だった[書籍 5]。これに加えて「筑波大学の推薦入試を受けたほどの自分が」、強盗事件の前科で故郷を追われ、借金で首の回らないタクシー運転手にまで「身をやつした」ことについて、激しい劣等感を感じていた[書籍 5]。
最初にA事件を起こした1996年4月当時[新聞 11]、サラ金などから抱えた多額の借金の返済が迫って追い詰められていたHは[新聞 11]、「自殺して生命保険の保険金で返済しよう」とまで考えたが、結局は自殺すらできず「己の不運は全て周囲のせい」にしていた[書籍 5]。
職場の上司・同僚ら関係者によれば、Hは「あまり付き合いは良くないが真面目な奴だった」といい、1日の売り上げは平均約45000円と[新聞 20]、営業成績はトップクラスだった上[新聞 24]、勤務時間は他の運転手たちより1日2時間ほど長かった[新聞 24]。また「Hは妻子とともに買い物に行ったり公園で遊んだりしているなど、家族仲は良好なように見えた」との証言が得られた[新聞 24]。
一方で、被害者を物色していた流川地区ではタクシーの男」として知られており[雑誌 1]、「客にならなくても毎晩のように訪れてくる」ことで有名で[新聞 20]「タクシーを泥酔状態で飲酒運転していたりシートにビールの缶が転がっていることもあった」という証言もなされた[雑誌 1]。
Hは事件の3,4年ほど前から頻繁に歓楽街に姿を見せるようになり、一時は毎週のように遊び歩いていたが、1996年になってからは遊ぶ金が尽きたためか「たまに姿を見せても冷やかしだけで帰っていく」ようになった[新聞 20]。
事件の経緯[編集]
| 年 | 月日 | 事柄 |
|---|---|---|
| 1996年 | 4月18日 | A事件発生。 |
| 5月6日 | 被害者Aの遺体が発見される(A事件発覚、5月14日に身元断定)。 広島県警広島北署が殺人・死体遺棄事件として捜査開始。 | |
| 8月13日 | B事件発生。 | |
| 9月7日 | C事件発生。 | |
| 9月14日 | D事件発生。同日、被害者Dの遺体発見(D事件発覚、9月14日に身元断定)。 広島県警廿日市署が殺人・死体遺棄事件として捜査開始。 | |
| 9月18日 | 広島県警廿日市署捜査本部、D事件の殺人・死体遺棄容疑で被疑者Hの逮捕状を発行。 | |
| 9月21日 | 逃走中だった被疑者H、山口県防府市内で山口県警防府署に自動車盗の窃盗容疑で逮捕される。 | |
| 9月21日 | 被疑者H、広島県警廿日市署捜査本部にD事件の殺人・死体遺棄容疑で逮捕される。 | |
| 10月1日 | 被疑者Hの自供により被害者Cの遺体が発見される(C事件発覚、10月4日に身元断定)。 | |
| 10月5日 | 被疑者Hの自供により被害者Bの遺体が発見される(B事件発覚、10月8日に身元断定)。 | |
| 10月1日 | 被疑者Hが被害者Aの殺害を自供する。 | |
| 10月12日 | 広島地検がD事件の強盗殺人・死体遺棄容疑で被疑者Hを広島地裁に起訴。 | |
| 10月15日 | C事件の強盗殺人・死体遺棄容疑で被疑者Hを再逮捕。11月5日に広島地検が追起訴。 | |
| 11月6日 | B事件の強盗殺人・死体遺棄容疑で被疑者Hを再逮捕。11月27日に広島地検が追起訴。 | |
| 12月4日 | A事件の強盗殺人・死体遺棄容疑で被疑者Hを再逮捕。12月24日に広島地検が追起訴。 | |
| 1997年 | 2月10日 | 広島地裁刑事第2部(谷岡武教裁判長)で被告人Hの初公判。 |
| 11月5日 | 広島地裁、第10回公判で被告人Hの精神鑑定開始を決定する。精神鑑定により公判は一時中断。 | |
| 1999年 | 2月24日 | 第11回公判開廷、公判再開。 |
| 10月6日 | 論告求刑公判、検察側が被告人Hに死刑求刑。 | |
| 11月10日 | 最終弁論が行われ結審。 | |
| 2000年 | 2月9日 | 広島地裁刑事第2部(戸倉三郎裁判長)、被告人Hに死刑判決。 |
| 2月24日 | 被告人Hは控訴期限(2000年2月23日)までに広島高裁へ控訴しなかったため同日付で死刑が確定。 | |
| 2006年 | 12月25日 | 広島拘置所で死刑囚Hの死刑執行(44歳没)。 |
A事件(第1の事件)[編集]
被害者:少女A(事件当時16歳の女子高生、広島県賀茂郡黒瀬町在住、広島県立広高等学校定時制1年生)[新聞 12]
1996年4月18日午後8時、勤務中だったHは「西日本一の歓楽街」として知られた、広島市中区の流川・薬研堀一帯をタクシーで流していた[書籍 1]。
その最中、売春・援助交際のメッカとして知られていた新天地公園を通りかかったところ、少女Aを見つけ[書籍 1][書籍 2]、Aに「遊ばないか」と声を掛けた[書籍 1][書籍 2]。
Hは料金2万円で応じた被害者Aを[書籍 2]、タクシーに誘い乗車させると、コンビニエンスストアで缶ビールを買ってラブホテルに入った[書籍 1]。
そのまま2人で缶ビールを飲んだが、Aは嗚咽交じりに「父親の借金を返済するため大阪から働きに来た。あと10万円返せば完済できる」[書籍 1]、「今日はその返済日だから10万円を用意してこれから呉駅(広島県呉市、JR西日本・呉線)に行く」と身の上話をした[新聞 11][書籍 2]。
Hはこの話を聞き、内心「やられた」と思いつつも、「なんか(セックス)するのが悪いね」と言い、お人よしのタクシー運転手を装って呉駅まで送っていくことを約束した[新聞 11][書籍 1]。
被害者Aをタクシーの助手席に乗せ[書籍 2]、広島市中心街から約20km先の呉市方面へタクシーを走らせたHは、「Aの言う通り所持金が10万円なら、自分の渡した2万円を足して計12万円あるはずだ。それだけあれば今月の借金の返済は賄える」と考え[書籍 1]、呉駅に向かう途中、借金返済のためにAの現金を盗もうと考えた[新聞 11]。しかし窃盗を行えば発覚次第、被害届を出されて逮捕されることを恐れたため[新聞 11]、「いっそ殺して奪ってしまおうか」と考えた[書籍 2][書籍 1]。Hは当時、飲酒・女遊びにより約350万円の借金を抱えており、月々15万円を返済していた[書籍 1]。
被害者AはHに対し、「(親族は)大阪に祖母がいるだけ」と話していたが、Hは「身寄りのないよそ者なら、殺して金を奪ってもばれないだろうから好都合だ」と考えた[書籍 1]。
呉市街地の街灯りが見えるようになったころ、Hは人気のない道に乗り入れ、呉市上二河町の広島県道31号呉平谷線沿いの空き地で[新聞 11][新聞 25]、タクシーを停車した[書籍 1]。Hはその上で、タクシーのエンジンの仕組みを知らない被害者Aを油断させる目的で、燃料切り替えスイッチの操作だけでエンジンが自動的に停止するタクシーの仕組みを悪用してエンストを装い、修理を口実に後部座席にいた被害者Aに対し[新聞 26]、「エンジンの調子が悪い。配線をチェックしたいから足元のシートをめくってくれ」と声を掛けた[書籍 1]。
被害者Aが身をかがめ[書籍 1]、後部座席に回ったところ[書籍 2]、Hはネクタイを緩めて運転席を降りた[書籍 1]。
そして午後10時50分[書籍 1]、Hは背後から被害者Aに忍び寄り、ネクタイを首に巻き付けて被害者Aの首を絞め、被害者Aを窒息死させて絞殺した[書籍 1][新聞 11][新聞 25]。
被害者Aを殺害した直後、Hは「咄嗟の判断でやったが、それにしてはうまくいった」と思いつつ[書籍 2]、被害者Aの所持品を改めたが[新聞 11]、被害者Aの所持していた現金はHの予想していた12万円とは異なり、わずか5万円しかなかった[書籍 1]。Hは、「嵌められた」と思いつつ[書籍 1]、その現金約5万円を奪った上で[新聞 11][新聞 25]、タクシーに被害者Aの遺体を乗せたまま殺害現場から約25km離れた広島市内まで戻り[書籍 1]、広島市安佐南区沼田町大塚の雑木林の中に辿り着いた[新聞 11][書籍 1]。その林内を通る林道脇側溝(幅1.5m、深さ1m、水深10cm)に[新聞 2]、田圃脇水路の土管があったため[書籍 1]、Hは被害者Aの遺体を土管内に遺棄した[新聞 11][書籍 1][新聞 25]。
Hは遺体を遺棄した後、タクシー会社に戻って虚偽の運転日報を作り[新聞 11]、奪った金を使って広島市中区内の繁華街で飲酒した上で自分の軽自動車を飲酒運転し、翌1996年4月19日早朝には広島市中区流川の路上に駐車してあった原動機付自転車(原付)に衝突する物損事故を起こした[新聞 26]。同日午前9時ごろ、原付に衝突したまま車内で寝ていたHを、広島県警察広島東警察署への通報を受けた交番の警察官が駆けつけて発見したが、Hは事情聴取できないほどに泥酔していたものの、目撃者がいなかったために飲酒運転が立証できなかったため、立件されなかった[新聞 26]。
結局、交番がHの当時の勤務先だった広島市東区内のタクシー会社に連絡し、上司に連れて帰らせた[新聞 26]。上司は『中国新聞』取材に対し、「この一件について厳しく注意はした。営業中にこのような事故を起こしていたら解雇した」と語った[新聞 26]。
翌1996年4月20日、Hは遺体遺棄現場に2回行き、遺体がうまく隠されていることを確認した[新聞 11]。
前述のように被害者AはHに「大阪在住」と語っていたため、Hは「殺しても(身元は)バレないだろう」と考えていた[書籍 2]。
しかし殺害から18日後の1996年5月6日、少女の遺体が発見され、身元が呉市内の女子高生であることが判明した[書籍 6]。後述のように広島県警察広島北警察署は殺人・死体遺棄事件として捜査を開始した[新聞 2]。
これをニュースで知ったHは「大阪の女じゃなかったのか」[書籍 6]、「同じ県内に住んでいたとなると自分も疑われるかもしれない」と驚いた[書籍 2]。同時に「自分の身辺に捜査の手が迫る気がして」[書籍 6]、それ以降は逮捕されることばかり考えていた[書籍 2]。
しかし、6月・7月と時間が経過して梅雨が明けても[書籍 6]、A事件の報道は数なくなっていた一方[新聞 11]、Hの周囲に警察の動きはなかったため、日が経つにつれてHは「警察の捜査能力にも限界がある。行きずりの売春婦なら自分と接点はない。現に警察は何もわかっていない」と安堵し、逆に自信を深めた[新聞 11][書籍 6]。
B事件(第2の事件)[編集]
被害者:女性B(事件当時23歳、広島市安佐南区八木在住)[新聞 13]
A事件から約3カ月が経過した1996年8月になっても、Hの周囲には捜査の手が及ばなかったため、やがてHは「自分は絶対に警察になど捕まらない、悪運の強い特別な人間だ」という自信、「『他人の死をも支配できる』という一種の満足感・快感」を覚えるようになった[新聞 11]。
しかしその一方、HはA事件後も借金返済に悩んでいたうえ、借金が妻。親類にも発覚したため[新聞 11]、家族は消費者金融に対し貸付の停止を申し入れた[新聞 11][新聞 27]。これにより、Hは金融業界の「ブラックリスト」に載り、借り入れができなくなったため[新聞 27]、不満が募って自暴自棄になっていた[新聞 11]。
1996年8月12日夜、Hは再び新天地に向かい[書籍 2]、繁華街をタクシーで流しながら次の標的を物色した[書籍 2]。新天地公園には当時、男から声を掛けられるのを待つ売春婦が何人もいたため、Hにとっては好都合な場所だった[書籍 2]。
Hは「金でセックスさせる女なら捜索願も出ないだろう」と思いつつ、新天地公園でスナックバー勤めの23歳女性Bを見つけて声を掛けた[書籍 6]。Hは被害者Bに車中で現金3万円を渡し、安心させた上でラブホテルに入った[書籍 6]。
しかし被害者Bは、Hを「素行不良のタクシー運転手」とみなして牽制しようとしたのか、「自分の父親は暴力団組員だ。怒ると何をするかわからない」と話した[書籍 6]。Hは「それは怖いね」と感心したそぶりで頷きながら被害者Bと性行為をした[書籍 6]。その後、2人は翌1996年8月13日になってラブホテルを出た[書籍 6]。
Hはその後コンビニに立ち寄り、缶ビール・軍手を購入した上で山道に入った[書籍 6]。そして1996年8月13日午前0時50分ごろ[新聞 11]、被害者B宅から北にわずか数kmの安佐南区八木の太田川橋付近で[新聞 11][新聞 3][新聞 4]、何の前触れもなく路側帯に突然タクシーを停車した[新聞 11][書籍 6]。そしてA事件の時と同じく、燃料切り替えスイッチの操作だけでエンジンを自動的に停止できる仕組みを悪用してエンストを装い、タクシーのエンジンの仕組みを知らない被害者Bを油断させた[新聞 26]。
Hは「(この車は)よく故障するんだよ」と苦笑いしつつ、被害者Bに床のシートをめくるよう頼んだ[書籍 6]。そして買ったばかりの軍手をはめ後部座席に体を滑り込ませると、被害者Bの背後からネクタイで被害者Bの首を絞めた[書籍 6]。
被害者Bは「さっきの話は嘘だ。父親はヤクザではない。金は返すから許して」と命乞いしたが、Hは気にも留めずに被害者Bの首を絞め続け、被害者Bを窒息死させて絞殺した[新聞 11][書籍 6]。Hはこの時、軍手をはめていたためか「A事件の時よりさらに強い力で」被害者Bの首を絞めていた[書籍 6]。
そしてHは被害者Bの遺体を物色して所持金52,000円を奪った上で[書籍 6]、安佐北区白木町小越の広島県道46号東広島白木線の脇を流れる関川(太田川水系三篠川支流一級河川)沿いの斜面に[新聞 11][新聞 5]、被害者Bの遺体を遺棄した[新聞 11][新聞 24]。被害者Bの遺体は、C事件直前の1996年8月下旬になっても発見されなかったため、Hはさらに殺人への自信を深めていった[書籍 6]。
被害者Bは1985年(昭和60年)3月、安佐南区内の別の地区から事件当時の住居に両親・妹弟計5人とともに転居していた[新聞 3]。後に被害者Bの遺体が自宅からわずか北数kmで発見されたことに対し、近隣住民らからは「こんな近くで殺されたなんて信じられない」と驚きの声が上がった[新聞 3]。
C事件(第3の事件)[編集]
被害者:女性C(事件当時45歳、長崎県諫早市出身、広島市中区宝町在住)[新聞 14]
2人を相次いで殺害したHは、B事件から日数が経過しても被害者Bの遺体が発見されなかったことから、「行方不明になっても誰も不思議に思わないような女性を殺害しても、遺体をうまく隠すなどすれば疑われることはない」と確信した[新聞 11]。その上でHは、1996年8月下旬ごろから遊興費を入手するために女性を物色するようになったが[新聞 26][新聞 11]、このころから「人を殺すこと自体が極めて強い刺激となり、快感を感じるほど」になっていた[新聞 11]。
Hは1996年9月7日深夜[書籍 6]、広島市南区松川町の路上で[新聞 6]、以前から顔見知りだったホステスの45歳女性Cをタクシーに誘い入れた[書籍 6]。
Hはこの時点で既に被害者Cを殺害し、遺体を遺棄する目的でCを尾行していたが[新聞 11]、被害者CはHと顔見知りだったためかすぐにHのタクシーに乗り込んだ[書籍 6]。Hが「どこか遠くで遊ぼうか」と提案し、3万円を渡した上で「タクシーの中でしてもいいかな」と提案すると、被害者Cはこれに応じた[書籍 6]。
事前に缶ビールを飲むのがHの「儀式」だったため、Hはその後コンビニに立ち寄って被害者Cに缶ビールを買わせた[書籍 6]。
その後、広島県山県郡加計町穴(現・広島県山県郡安芸太田町穴)[新聞 11]の国道191号の脇道に辿り着くと[新聞 6]、周囲は真っ暗な山道だった[書籍 6]。Hはそこにタクシーを停車すると、被害者Cに「俺は後ろからするのが好きなんだ。四つん這いになってくれ」と後背位での行為を求めた[書籍 6]。
1996年9月7日午後11時50分ごろ[新聞 11]、被害者Cは承諾し、後部座席で背を向けて下着を脱いで腰を突き出した[書籍 6]。Hはネクタイ・ズボンのベルトを緩めると、唸り声を上げながら被害者Cにのしかかった[書籍 6]。
被害者Cは危険を察知して振り返り、Hに「何をするの」と叫んだが、Hはベルトを引き抜いて被害者Cの首に回して絞め上げた[書籍 6]。被害者Cは激しく抵抗したがHは躊躇せず、被害者Cが白目を剥いて失神するまでベルトで首を絞めつけた[書籍 6]。そしてHは「とどめ」としてネクタイで被害者Cの首を絞めつけ、被害者Cを窒息死させて絞殺した[書籍 6]。
その後Hは現金約82,000円を奪い[新聞 11]、殺害現場から約10km離れた加計町加計の町道脇を流れる滝山川(太田川支流)左岸の法面斜面にある[新聞 7][新聞 8]、コンクリート製の溝の中に[新聞 8]、被害者Cの遺体を遺棄し[新聞 6]、遺体をビニールシートで隠した[新聞 11]。
D事件(第4の事件)[編集]
被害者:主婦D(事件当時32歳、広島市中区在住)[新聞 15]
HはC事件の後、「3人も殺したからには(最高裁判所判例として示された死刑適用基準「永山基準」の観点から見ても)捕まったら間違いなく死刑だ」と、「警察に逮捕されて死刑になること」に恐怖したが、その一方で「人知れず女たちを絞め殺しているが、自分にはまだ警察の捜査の手は及んでいない」という事実を思い出した[書籍 6]。そして、「3人殺しても全く疑われていないし、小遣い稼ぎだってできる。何より殺害行為に一種の快感を感じる」と思いつつ[新聞 11]、「俺は超人じゃないか」「絶対に捕まることはない」と、半ば本気で揺るぎのない自信を持った[書籍 6]。
被害者Aの遺体が発見されたもののその後は続報がなく、B・C両名の殺害に関してはこの時点で発覚すらしていなかった[書籍 6]。Hはこのころには既に殺人に快楽を見出すようになっており[書籍 6]、夕方にタクシーを運転しつつ、湧き上がる殺人衝動を抑えられない自分に直面して恐怖を感じたこともあったため、Hは「いつもと違う自分だったらこの禍々しい殺人衝動も収まるだろう」と、乗務用の白手袋を脱いでハンドルを握ったこともあった[書籍 6]。
しかし夜が迫るにつれ、殺人衝動・女性を絞殺する際の「堪らない快感」に駆られたHは「金さえ渡せば、いつでもどこでもセックスする」売春婦をターゲットに[書籍 6]、4人目の犠牲者を物色しながらタクシー乗務を続けていた[新聞 11]。
C事件から1週間が経過した1996年9月13日午後10時ごろ、Hは「3人殺そうが4人殺そうがそう変わらない」などと考えつつ[新聞 11]、広島市中区内でタクシーに女性客を乗車させた[新聞 26]。その女性客との会話から、Hは「この女性はまとまった現金を持っている」と判断して殺害を決意し、女性が入ったホテル近くにタクシーを駐車して女性が出てくるをの待ち伏せたが、その女性を見失ったため断念した[新聞 26]。
Hはその後、以前に何度か遊んだことがあり「アイちゃん」と呼んで親しくしていた32歳女性Dを偶然見かけたため、殺害相手をDに変更し[新聞 26]、Dに声を掛けた[書籍 7]。
Hは被害者Dをタクシーに乗車させ、停車した車内で10分ほど話をした後、缶ビールを買いにいったん車外に出たが、車に戻ってみたところ被害者Dの姿はなかった[書籍 7]。
Hは「逃げられた」と舌打ちしたが、日付の変わった1996年9月14日午前0時すぎ、1軒のホテルの前で、再び被害者Dと邂逅した[書籍 7]。通常「最高額」の2万円は20歳代の売れっ子に限られており、通常の「相場」は15000円から2万円未満だったため、32歳で人並みの容姿だった被害者Dは、Hから「相場の倍以上」となる4万円を提示されると快諾した[書籍 7]。
Hは上機嫌で「今夜はちょっと遠くに行ってやろう」とタクシーを発進させた[書籍 7]。その途中でHはコンビニに立ち寄って被害者Dに缶ビール・おつまみを買わせた後、広島市郊外の[書籍 7]、広島市佐伯区内のホテルに投宿し[新聞 7]、性行為をした[書籍 7]。
その後、H・Dの2人はホテルを出た[書籍 7]。Hはタクシーの後部座席にDを乗車させて廿日市市方面へ向かい、1996年9月14日午前2時すぎ、人気のない静まり返った田舎道に辿り着いた[書籍 7]。その場所が殺害現場となった広島市佐伯区五日市町大字上河内の広島県道41号五日市筒賀線路上だった[新聞 9]。
Hはこの現場でタクシーを停車した上で[書籍 7]、A・B両事件の時と同じく、燃料切り替えスイッチの操作だけでエンジンを自動的に停止できる仕組みを悪用してエンストを装い、タクシーのエンジンの仕組みを知らない被害者Dを油断させた[新聞 26]。その上で被害者Dに対し「足元のシートをめくってほしい」と申し出た[書籍 7]。Hはそれまでに3人を殺害した際の経験から「プロのタクシードライバーである自分の指示に対し、女性たちが全く疑いを抱くことなく指示に従うこと」を知っていた[書籍 7]。
Hは被害者Dが屈みこんでいる間にネクタイをほどいたが、被害者Dが顔を上げて「なんか怖い」と言った[書籍 7]。これに対しHは被害者Dに笑みを浮かべつつネクタイを座席に掛けたが、被害者Dは「一人で帰る」と言い出してタクシーのドアを開け、車外に出た[書籍 7]。
「警察に駆け込まれたら終わりだ」と思ったHはタクシーを急発進させ[書籍 7]、そのまま徐行しつつ助手席の窓を開け、被害者Dに「ちゃんと(家まで)送るから乗ってくれ」と声を掛けた[書籍 7]。
しかし被害者Dは速足で歩きつつショルダーバッグから、Hからいったん代金として受け取った1万円札4枚を取り出し、「もうお金はいらないから」と叫び、Hに投げつけると[書籍 7]、駆け出してHから逃げようとした[書籍 7]。
これに対しHは「優しく言えば付け上がりやがって」と逆上し、アクセルを踏み込んでタクシーを加速させ、被害者Dを追い越してその前に回り込んだ[書籍 7]。
被害者Dの行く手を塞いで車外に出たHは、立ちすくんでいた被害者Dの襟首を掴み[書籍 7]、持っていた果物ナイフを[新聞 9]、被害者Dの喉元に突き付けた[書籍 7]。
Hは被害者Dを後部座席に連れ込むと右拳を握り締め、被害者Dの顔面を勢い良く計10発近く殴りつけた[書籍 7]。
1996年9月14日午前2時10分ごろ[新聞 9]、被害者Dが失神するとHは被害者Dの首をネクタイで絞め、被害者Dを窒息死させて殺害した[書籍 7]。その上で被害者Dが所持していた現金約56000円を奪った[新聞 9]。
Hは被害者Dを殺害後、「タクシーの座席が、血液や(失禁した)糞尿で汚れてはまずい」と考えたため、Dの遺体の首に巻き付けたネクタイの両端を、天井側部の手すりに結び付け、Dの遺体を、首吊りの格好で固定した[書籍 7]。
Hはそのままタクシーを移動させると10分ほどして[書籍 7]、広島県佐伯郡湯来町葛原(現・広島市佐伯区湯来町大字葛原)の国道433号旧道から1mほど斜面を下った草むらに[新聞 10]、被害者Dの遺体を投げ捨てるように遺棄した[書籍 7]。
初動捜査[編集]
A事件発覚[編集]
1996年5月6日午後4時半ごろ、広島市安佐南区沼田町大塚の雑木林の中の林道脇側溝(幅1.5m、深さ1m、水深10cm)で、山菜取りをしていた近隣住民が、全裸で倒れている腐乱死体を発見して110番通報した[新聞 2][新聞 28]。遺体発見現場は広島駅から北西約10㎞の位置にあり、朝夕に幹線道路の迂回路として使用されていた以外に人・車の通行はほとんどない道だった[新聞 2]。
後に被害者Aと判明したこの遺体は、10歳代後半から20歳代[新聞 29]、身長約155cmの女性で、18金のネックレスを着け、おかっぱぐらいの長さの髪を紅いゴムひもで結んでいた[新聞 2]。遺体は死後約2週間経過しており、広島県警察捜査一課・広島北警察署は殺人・死体遺棄事件として捜査を開始した[新聞 2]。その上で捜査一課は遺体を司法解剖して死因などを調べるとともに[新聞 28]、現場の状況などから「車を使用した犯行」とみて、不審な人物・車両の目撃者などを捜査した[新聞 2]。
1996年5月8日、広島県警は広島北署に女性死体遺棄事件捜査本部を設置して164人態勢で捜査に当たった[新聞 30]。同日、捜査本部による捜査の結果、女性の血液型はO型で、盲腸には手術痕があることが判明した[新聞 30]。また、女性の上下6番目の大臼歯4本に[新聞 29]、治療痕があったことが判明したため、広島県歯科医師会に対し、該当する患者がいるかどうか、情報提供を要請した[新聞 30]。これを受け、広島県歯科医師会は、県内約1280の診療所に対し、女性の歯の状況を記した所見を送った[新聞 30]。また、女性の歯のうち、下側の5番目の小臼歯2本は、乳歯のままで、永久歯が出ない、「先天性欠如歯」だった[新聞 29]。これは、鑑定した歯科医師によれば、「数十人に1人の体質」だったため、広島県警も、大きな手掛かりとして、該当する女性患者がいないか、重点的に調べた[新聞 29]。
捜査本部はこのほか、家出人の調査・女性が身に着けていたネックレス・ピアスの入手先などを調べた[新聞 30]。その結果、家出人に関する情報は県内外から58件寄せられた上[新聞 29]、ネックレス・ピアスは大手宝石店で売買されていたものであることが判明したため、捜査本部から広島市内などの店舗に照会がなされたが、遺体発見から1週間となる1996年5月13日までに購入先は判明しなかった[新聞 29]。現場周辺では1996年5月8日、捜査員80人が遺留品を捜索したり、近隣住民らへの聞き込みを行ったが、遺体の身元確認につながる有力な情報は得られなかった[新聞 30]。
1996年5月13日、Aの母親と名乗る女性の声で、広島北署捜査本部に対し、「娘がいなくなっている」と電話があった[新聞 31]。これを受けて調べたところ、O型の血液型、遺体が身に着けていたネックレス・ピアスなどが、Aの特徴と酷似し、身長も一致したことから、遺体の身元はAである可能性が高まった[新聞 31]。そのため、捜査本部が広島県歯科医師会に依頼し[新聞 31]、歯科医院のカルテなどを調査した上で[新聞 12]、歯の治療痕を確認した[新聞 31]。これに加え、被害者A宅に残された髪などと遺体の毛髪を照合したり[新聞 31]、虫垂炎の手術痕・胸のX線写真などを照合するなどして[新聞 12]、身元特定作業を実施した[新聞 31]。
その結果、翌1996年5月14日になって遺体の身元が被害者Aと断定された[新聞 12][新聞 32]。捜査本部の調べや[新聞 12]、被害者Aが在学していた広高校定時制によれば[新聞 32]、被害者Aは1996年4月9日に入学式に出席した[新聞 32]。その後、高校の新入生歓迎会があった1996年4月16日までは[新聞 12]、Aは学校に姿を見せていたが[新聞 32]、同日に登校後はそのまま帰宅せず、翌17日に広島県安芸郡音戸町(現・呉市)内から自宅に電話したのを最後に、消息が途絶えていた[新聞 12]。欠席が続いたため、担任教諭が被害者A宅に何度か問い合わせの電話をしたが、家族は「どこに行っているのかわからない」と話していた[新聞 32]。なお、被害者Aの家族からは警察への捜索願は出ていなかった[新聞 32]。なお被害者Aは昼間、呉市内のファミリーレストランでアルバイトの研修を受けていた[新聞 12]。
広島北署捜査本部は1996年5月31日、被害者Aの写真が入ったチラシ6000枚を製作した[新聞 33]。捜査本部はこのチラシを、呉警察署・広警察署・海田警察署・西条警察署の各管内、広島市内の交番の掲示板などに貼り出して情報提供を求めた[新聞 33]。しかしその後は有力な情報提供がないまま未解決事件となっており、後に被疑者Hが自供した時点では迷宮入り寸前だった[雑誌 1]。
D事件発覚[編集]
被害者Dが殺害されてから5時間後となる[書籍 7]1996年9月14日午前7時ごろ、広島県佐伯郡湯来町葛原(現・広島市佐伯区湯来町大字葛原)の国道433号旧道から1mほど斜面を下った草むらで、若い女性が仰向けに倒れて死亡しているのを[新聞 10][新聞 34]、犬の散歩中だった散歩中の近隣住民女性が発見した[新聞 35]。発見者女性は近所の男性に連絡し、その男性が119番通報した上で[新聞 35]広島県警廿日市警察署に通報した[新聞 10][新聞 34]。
広島県警捜査一課は遺体の状況などから「女性が絞殺された」と判断した上で、殺人・死体遺棄事件として廿日市署に捜査本部を設置して捜査を開始した[新聞 10][新聞 34]。遺体発見現場は広島駅から北西約25㎞の山間部で周囲には民家が点在していたが[新聞 10]、現場付近の旧道は付近の住民が散歩で通る以外[新聞 35]、車や人の通りは少ない道だった[新聞 10]。現場周辺は日ごろ静かな山間の集落だけに、近隣住民らに対し「殺人事件なんて他人事だと思っていた」と大きな衝撃を与えた[新聞 35]。
捜査本部は同日、広島大学医学部で遺体を司法解剖して詳しい死因・身元などを調べた[新聞 10]。廿日市署の調べによれば「女性は20歳代から30歳代、身長約160cm、やや太り気味」だった[新聞 10]。遺体に目立った外傷はなかったが[新聞 10][新聞 34]、顔がうっ血しており「14日未明に絞殺された後、現場に運ばれて遺棄された」と推定された[新聞 34]。遺体の服装はベージュのタートルネック長そでセーター・えんじ色のスラックス姿で、髪は肩ほどまでの長さで緩いパーマをかけ[新聞 10]、靴は焦げ茶色の革靴を片側だけ履いていた[新聞 10]。遺体の左耳には十字架の形をした銀色のピアスが装着されており、右薬指には指輪をはめていた[新聞 10]。
1996年9月14日午後8時ごろ、被害者Dの長女から「母親と連絡が取れない」と広島県警に110番通報があった[新聞 15]。これを受けて広島県警がD宅マンションで指紋を採取した上で遺体と照合した結果、遺体の身元は13日に外出してからそのまま行方不明となっていた広島市中区内の32歳女性Dと判明した[新聞 15][新聞 36]。それまでの捜査では「Dは事件6年前(1990年)に前夫と離婚したが、その間に生まれた娘2人とマンションで暮らしており、事件当時はナイジェリア人の男性と再婚していた」ことが判明していた[新聞 15]。身元確認を受けて捜査本部は、被害者Dの13日夜から14日未明にかけての足取り・交友関係について捜査を開始した[新聞 36]。
また捜査本部は1996年9月15日午前9時半から、遺体発見現場周辺を約100人態勢で遺留品などがないか捜索したが[新聞 36]、被害者Dが普段持ち歩いていたセカンドバッグは遺体周辺では発見されなかった[新聞 15]。
逮捕・起訴[編集]
逮捕されるまでの行動[編集]
Hは犯行を重ねるにつれて次第に金を奪うことよりも人を殺す快楽に惹かれるようになっており[新聞 11][書籍 2]、一連の4件の殺人は事件を重ねるごとに間隔が短くなっていたが[書籍 2]、4人目の被害者Dの遺体が発見されたことで事態は急展開した[新聞 11][書籍 2]。
遺体の身元が確認された直後に「被害者Dが男Hのタクシーに乗り込む姿を目撃した」という証言が[書籍 2]捜査本部に寄せられた[書籍 7][書籍 2]。これに加えて捜査本部によるホテルへの聞き込み捜査の結果[新聞 1]「被害者Dが1996年9月14日未明に事件2,3年前から親しくしていた知人のHとともに佐伯区内のホテルに投宿した後[新聞 7]、Hのタクシーでホテルを出ていたこと」が判明した[新聞 1]。
広島県警廿日市警察署捜査本部はDが行方不明になる直前に知人のHに会っていたことから[新聞 17]D殺害を被疑者Hの犯行と断定し[書籍 7]、1996年9月18日になって殺人・死体遺棄容疑で被疑者Hの逮捕状を請求して[新聞 37][新聞 38][新聞 39]その行方を追った[新聞 17]。捜査が間近に迫ったことを察知して[新聞 20]追い詰められたHは自殺を考えたが結局は死にきれず[書籍 2]、1996年9月16日には九州方面への逃走を開始した[新聞 11]。
Hは1996年9月20日にはいったん広島市内の自宅に帰ろうとしたが、そこで警察官が張り込みをしていたために断念して再び九州への逃亡を目論んだ[新聞 11]。同日早朝、山口県防府市内の国道2号で、当時「秋の全国交通安全運動」の一環などで夜間・早朝の取り締まり強化のための交通検問が行われていたが、不審な乗用車がこの検問を無視して突破しようとしたことから山口県警察は車を行き止まりに追い詰め運転していた男を防府警察署に任意同行した[新聞 39]。事情を調べた結果「車は同日未明に広島市中区幟町の路上で盗まれた盗難車であること」「運転していた男が本事件の被疑者Hであること」が判明したため、山口県警防府警察署は窃盗容疑で被疑者Hを逮捕した[新聞 39]。この逮捕後、被疑者Hは妻と離婚した[新聞 24][雑誌 1]。
連続殺人の全容発覚[編集]
被疑者Hは1996年9月21日、取り調べに対し「被害者Dとは2,3年前から知り合いだった。金銭上トラブルから遺体遺棄現場付近で首を絞めて殺した」と供述したため[新聞 39]、広島県警廿日市署捜査本部は同日に殺人・死体遺棄容疑で被疑者Hを逮捕した[新聞 17][新聞 39][新聞 1]。
被疑者Hは捜査本部の取り調べに対し「1996年8月中旬の夜、仕事中に広島市中区流川の路上で被害者Dとは別の女性をタクシーに乗せた。その後、約30km離れた山県郡加計町(現・安芸太田町)加計までその女性を連れて行き、首を絞めて殺害し山中に遺体を遺棄した」と自供した[新聞 7][新聞 8]。
これを受けて捜査本部が1996年10月1日、加計町加計の山中にて滝山川(太田川支流)左岸の法面を捜索したところ[新聞 7]、正午過ぎになって[新聞 7][新聞 8]コンクリート製の溝の中で女性の白骨死体が発見された[新聞 8]。遺体発見現場はJR広島駅から北北西約30km・被害者Dの遺体発見現場から北約20kmに位置する[新聞 8]「山間部を縫うように流れる滝山川の東岸法面」で、夜間はほとんど人通りがない町道の脇だった[新聞 40]。女性の身元は「40歳代、身長約155cm、中肉中背、肩ほどまでの茶髪」で、遺体はブレスレット・指輪をつけておりTシャツ・靴下が残っていた[新聞 7]。司法解剖の結果「女性の右上・右下の歯にはそれぞれ1本ずつ治療痕が確認されたこと」「歯垢が溜まっていたこと」から「被害者女性は生前に喫煙習慣があった」と推測された[新聞 40]。
なお被疑者Hは動機などについて以下のように自供した[新聞 7]。
- 「被害者女性は生前、九州訛りがあった」[新聞 7]
- 「女性を街で見かけて顔を知っていた」[新聞 7][新聞 40]
- 「金銭上のトラブルがあり、被害者女性から金を奪う目的もあった」[新聞 7]
- 「住所・氏名は知らない」[新聞 7][新聞 40]。
このことから捜査本部は「被疑者Hは『広島市繁華街で顔見知りの女性をタクシーに乗せて人気のない郊外で首を絞める』という手口で2人を殺害した」との見方を強め[新聞 40]、被疑者Hを殺人・死体遺棄容疑で再逮捕した上で[新聞 40]本格的に追及する方針を固めた[新聞 7]。また被疑者Hは自分に不利な供述にも拘らず「もう1人殺して捨てています。ご案内します」と現場の地図を丁寧に描いたばかりか、被害者の似顔絵づくりも手伝っていた[雑誌 1]。捜査本部はその供述をもとに作成した女性の似顔絵・身に着けていた白い半袖Tシャツなどを公開し[新聞 40]、行方不明者名簿などから遺体の身元特定を進めた[新聞 7]。
捜査本部は1996年10月3日、遺体の身元を「広島市中区在住の40歳代女性」とほぼ断定した[新聞 41][新聞 42]。その上で歯の治療痕・被疑者Hの供述などから裏付け捜査を進めた[新聞 41][新聞 42]。そして1996年10月4日、遺体の身元は被疑者Hと顔見知りだった45歳被害者無職女性C(長崎県諫早市出身、広島市中区宝町在住)と断定された[新聞 14]。被害者Cは事件の10年前から宝町のマンションに住んでいたが、付近の繁華街で店員を務めていた同居相手の男性は県警の捜査に対し「1996年9月上旬ごろから帰宅していなかった」と証言した[新聞 14]。近隣住民によれば被害者Bは「挨拶をきちんとするさっぱりした性格」で夜間に出掛けることが多かった[新聞 14]。
さらに被疑者Hは1996年10月5日までに、以下のように新たに3件目の殺人を供述する供述をした[新聞 43][新聞 4][新聞 44][新聞 24]。。
- 「今年7月中旬か8月中旬、広島市中区の繁華街で初めて会った女性に声をかけてタクシーに乗せた」[新聞 4][新聞 44]
- 「その女性を安佐南区内の太田川近くに停車したタクシー車内で首を絞めて殺し、午後8時ごろに遺体を道路沿いの川に遺棄した」[新聞 4]
- 「(動機について)金が欲しかった。被害者の名前は知らない」[新聞 44]
1996年10月5日夜、この供述を受けて捜査本部が広島市安佐北区白木町小越の山中道路脇を捜索したところ、午後8時50分ごろになって広島県道46号東広島白木線の脇を流れる関川(太田川水系三篠川支流一級河川)沿いの斜面から[新聞 5]、新たに女性の白骨遺体を発見した[新聞 4][新聞 44]。遺体は20歳代から30歳代で、身長152cmから160cm、茶髪、半袖の青色ツーピース姿で[新聞 4]、遺体付近には18金の指輪が落ちていた[新聞 4]。
これに加えて被疑者Hは1996年10月6日までに、「1996年4月18日ごろ、20歳前後の女性を殺害して広島市西区己斐峠周辺に遺体を遺棄した」と供述した[新聞 44]。被疑者Hはこの被害者女性について「名前は知らなかったが(遺体発見が報道された)前述のA事件も自分がやったと思う」と供述した[新聞 45]。A事件では、被害者の16歳女子高生Aが1996年4月18日から行方不明になっていたことに加え、被害者Aの遺体発見現場は己斐峠と約2kmしか離れておらず、地形的にも被疑者Hの供述と一致した[新聞 44]。また、道路脇に遺体を遺棄するなどの手口がそれまでに判明した3事件と共通することから[新聞 4]、捜査本部は「A事件も被疑者Hの犯行である可能性が高い」とみて、さらに追及を進めた[新聞 44]。このように被疑者Hが新たに2件の殺人を自供したことから、一連の事件は過去にあまり例のなかった「女性を狙った連続殺人事件」の様相が濃厚となった[新聞 24][注釈 1]。このことから、1人目の遺体発見当時は100人体制だった捜査本部は、新たに50人を追加動員して150人体制となったが[新聞 5]、事件を担当した捜査員からは、「事件の広がりは予測がつかない」という声も出た[新聞 24]。
なお、被害者Cの遺体発見現場の加計町山中から北西約30kmに位置し、同現場から国道191号で結ばれた島根県美濃郡美都町宇津川(現・益田市美都町宇津川)の山中では[新聞 43]、1996年8月27日[新聞 24]、国道191号沿いのガードレール下で[新聞 24]、30歳代から40歳代の身元不明女性の腐乱した他殺体が発見されていた[新聞 43]。島根県警察益田警察署捜査本部が当時、殺人・死体遺棄事件として捜索していたこの事件についても[新聞 24]、同じ国道191号沿いの斜面に遺棄されるなど、被疑者Hの一連の事件と共通点が見られたため[新聞 43]、広島県警廿日市署捜査本部は「被疑者Hによる連続殺人事件と何らかの関連性がないか」として関心を寄せた[新聞 43]。しかし被疑者Hはこの事件について「その事件は知っているが、やっていない」と供述して関与を否定した[新聞 24]。結局、島根の事件については立件されなかった。
1996年10月7日、被疑者HがA・C両事件を自白した経緯が判明した[新聞 45]。そのきっかけはD事件の取り調べ中に捜査員に対し「D事件とは関係ない地名・日時」を自ら語ったことだった[新聞 45]。捜査員が突然出てきた言葉を追及したところ、次第に話の辻褄が合わなくなったため、さらに追及された被疑者Hは新たに別の被害者3人の殺害を自供し、その自供が遺体発見につながった[新聞 45]。捜査本部は「被疑者Hは短期間に犯行を重ねたため、場所・時間の記憶が混乱して証言に矛盾をきたした」として、被疑者Hをさらに追及した[新聞 45]。捜査本部は同日、5日夜に遺体で発見された女性について似顔絵を公開した[新聞 45]。司法解剖の結果、「遺体の推定年齢は20歳代から40歳代」「血液型はA型」「生前には喫煙の習慣があった」という点がそれぞれ判明した[新聞 45]。
被疑者Hは取り調べに対し、「C・D事件は金銭関係のトラブルが動機だった」[新聞 24]、「5日に遺体が発見された女性については金が動機だった」と[新聞 27]、それぞれ供述した上で[新聞 24]、「被害者の女性にはすまないことをした。(自分の)人生にはもう夢も希望もない」と語った[新聞 24]。しかし被害者から金を奪ったとはいえ、奪った金額は合計しても24万円程度であったため[新聞 16]、週刊誌『AERA』1996年10月21日号(朝日新聞社出版本部)では「『金目当てというより諍いのうちに殺害し、金はついでに奪った』という方が正確なようだ」と報道された[雑誌 1]。
1996年10月8日、同月5日に発見された白骨遺体の身元が「安佐南区八木在住の23歳女性B」と判明した[新聞 13][新聞 3]。捜査本部が着衣・似顔絵を公開したところ、Bの知人から情報が提供されたことが身元特定のきっかけとなった[新聞 13]。歯の治療痕を安佐南区内の歯科医が鑑定したところ、Bの治療痕と一致したため、Bの家族に確認した上で着衣も含めて本人と断定した[新聞 13]。また捜査本部の取り調べの結果、被疑者Hが血痕の付着したタクシー後部座席のカバーを自家用車内に隠していたことが判明した[新聞 27]。
広島地方検察庁は1996年10月12日、D事件で逮捕された被疑者Hを強盗殺人・死体遺棄罪で広島地方裁判所に起訴した[新聞 9]。
広島県警捜査本部は1996年10月15日、「被害者Cを殺害して現金を奪った」として、D事件で起訴されていた被告人HをC事件における強盗殺人・死体遺棄容疑で再逮捕した[新聞 6]。
広島地検は1996年11月5日、被疑者・被告人HをC事件における強盗殺人・死体遺棄罪で広島地裁に追起訴した[新聞 46]。被疑者・被告人Hはこのころまでに全面的に容疑を認めたが、取り調べで「どうせ、俺なんか」と投げやりな発言をしていた[新聞 20]。この言葉は『毎日新聞』1996年11月5日大阪朝刊社会面記事で、「大学入試など人生での挫折経験を自分で乗り越えることができず、『何をやってもダメ』という自己否定的な観念を、心の奥底に引きずって生きてきたことを表しているのだろう」と綴られた[新聞 20]。
広島県警捜査本部は1996年11月6日、「被害者Bを殺害して現金を奪った」として、B事件における被疑者・被告人Hを強盗殺人・死体遺棄容疑で再逮捕した[新聞 47]。広島地検は1996年11月27日、被疑者・被告人HをB事件における強盗殺人・死体遺棄罪で広島地裁に追起訴した[新聞 48]。
捜査本部はHの供述に基づき、被害者Aの遺体が発見された水路から南に数km離れた山林内で、Aのバッグ・化粧品などの遺留品を発見した[新聞 49]。広島県警捜査本部は1996年12月4日、「被害者Aを殺害して現金を奪い遺体を遺棄した」として、被疑者・被告人HをA事件における強盗殺人・死体遺棄容疑で再逮捕した[新聞 25]。1996年12月14日、広島県警はHの供述に基づき、被害者Aの遺体を遺棄したとされる安佐南区沼田町大塚の現場を検証した[新聞 50]。
広島地検は1996年12月24日、被疑者・被告人HをA事件における強盗殺人・死体遺棄容疑で広島地裁に追起訴した[新聞 51]。これにより、被告人Hが自供した4件の殺人事件はすべて起訴された[新聞 51]。
刑事裁判(広島地裁)[編集]
初公判から証拠調べまで[編集]
1997年(平成9年)2月10日、広島地方裁判所刑事第2部(谷岡武教裁判長)で被告人Hの初公判が開かれた[新聞 52][新聞 53][新聞 54][新聞 11][新聞 26][新聞 55][新聞 56][新聞 22][新聞 57][新聞 58]。
検察側は冒頭陳述で事件の経緯などを詳述した上で[新聞 52][新聞 54][新聞 11]、以下のように各犯罪事実を主張した。
- 被告人Hは「妻に消費者金融からの借金を知られたくない」と思う一方で「夜の繁華街で遊びたい」という相反する欲望から約350万円もの借金を抱え[新聞 22]、遊ぶ金欲しさに繁華街で知り合った女性を狙った[新聞 57]。
- 被告人Hが約5カ月間に4人の女性を次々と大胆に殺害した連続殺人の心理については以下のように主張した[新聞 52]。
- (A・B・D各事件の手口について)燃料切り替えスイッチを操作するだけでエンジンが自動的に停止するタクシーの仕組みを利用し、修理を口実に後部座席に移動した[新聞 26]。その上で後部座席にいた被害者に「足元の配線を見てほしい」と言い、エンジンの仕組みを知らない被害者を油断させ、無防備な前かがみの姿勢になったところを背後から首を絞めるなど、巧妙な手口を使って犯行に及んだ[新聞 26]。
また検察側は、被害者Dの2人の娘が「今でも涙が出てくる。母を返してほしい」と語っていたことや[新聞 22]、Dを殺害する直前には別の女性1人の殺害も計画し、広島市中心部でその女性を待ち伏せたことも明らかにした[新聞 54][新聞 11]。
被告人Hは罪状認否で谷岡裁判長から起訴事実に関する間違い・反論について聞かれると「間違いはありません」と答え[新聞 52]、4件の強盗殺人・起訴事実について全面的に認めた[新聞 52][新聞 53][新聞 54][新聞 55][新聞 56][新聞 57][新聞 58][書籍 2]。
被告人Hが犯罪事実認定を争わなかったため[新聞 53][書籍 2]、弁護人には刑法第39条に基づき心神喪失・心神耗弱による無罪・死刑回避を狙う以外に手段は残されなかった[書籍 2]。
弁護人は「被告人Hは事件当時、完全な責任能力を有していたか疑問だ」と主張して被告人調書を証拠採用することを留保した上で[新聞 22]、精神鑑定申請も視野に入れて責任能力の所在を争う姿勢を示した[新聞 22]。
1997年4月23日に第4回公判が開かれた[新聞 59][新聞 60][新聞 61]。検察側は「被告人Hは、『殺害した被害者4人・待ち伏せした女性1人とは別の女性2人の殺害も考えていた』と供述している」とする検察調書を明らかにした[新聞 60][新聞 61]。その検察調書によると被告人Hは、逮捕直前の1996年8月 - 9月ごろにかけ、被害者4人・及びD事件直前に待ち伏せされた女性1人とは別に[新聞 59]、広島市内の繁華街にいた顔見知りの女性2人を強盗殺人の対象として考えていたが[新聞 61]、途中で見失うなどしたために断念した旨を供述した[新聞 60]。この検察調書では被告人HがD事件で逮捕された際、まだ遺体が発見されていなかったB・C両被害者について遺体を遺棄した場所などを自供した理由も新たに判明した[新聞 61]。調書によれば、被告人Hは自供した理由について「刑事から『他に隠していることはないか』と訊かれたので警察が既に遺体の在処を把握していると思った。自分の情状のために、自分から言うのを待っているのだと思った」「(被害者が)4人になることを話すのはあまりにもセンセーショナルなので、自分なりに自供する時期について迷った」と供述していた[新聞 61]。被告人Hのこの供述が結果的に早期の事件解決のきっかけとなったが、事件を取材した作家・祝康成(現・永瀬隼介)は「この動機は被告人Hの何ともお粗末な勘違いだ。被告人Hの『卑しい自己本位の性根』が透けて見える言葉だ」と非難した[書籍 7]。また検察調書の中で、被告人Hは「被害者遺族は一刻も早く死刑になることを望んでいると思うが、自分も当然だと思う。潔く裁判を受け、刑に服することが唯一の償いだと思う」と供述していたことも判明した[新聞 60]。同日から被告人質問も始まり、弁護人が被告人Hに対し、生い立ちなどについて質問した[新聞 59]。
1997年5月21日に第5回公判が開かれ、被告人質問が行われた[新聞 23]。弁護人側が被告人Hに対し、犯行に至るまでの経緯などを質問したところ、被告人Hは「検察側主張においては妻の病気・借金によるストレスなどが動機とされているが、そうではなく『自分が前向きな人間ではなかったから』だ。1995年10月に妻が入院し、その後も病気がちだったために自分は酒に溺れ、サラ金に手を出した。その結果積み重なった借金がさらにストレスの源となり、更に酒浸りになる悪循環に陥った」と証言した[新聞 23]。その上で、最初のA事件当時について「当時は借金が350万円に膨れ上がり、『自分の行動が周囲を不幸にしている。人生の生き地獄だ』と思い、自殺も考えた。殺人を犯した当時は正常な判断ができず、『自分ではない』ような感じがした」と述べた[新聞 23]。
第6回公判は1997年6月18日に開かれた[新聞 23]。
精神鑑定実施[編集]
弁護人側は1997年10月30日付で[新聞 62]以下のように「動機がはっきりとしないため責任能力の有無を問いたい」として広島地裁に対し被告人Hの精神鑑定を行うよう請求した[新聞 63][新聞 64][新聞 62]。
これを受けて1997年11月5日の第10回公判で[新聞 65][新聞 66]広島地裁(谷岡武教裁判長)は弁護人側による精神鑑定請求を認める決定をした[新聞 67][新聞 65][新聞 66][新聞 63][新聞 64][新聞 62]。広島地裁はこの理由について以下のように説明した。
弁護人側による申請に対して検察側は犯行動機について「遊興費など借金返済に窮した末の自暴自棄な犯行であることは明白だ」と異議を唱えたものの、精神鑑定の決定には異議を唱えなかった[新聞 65]。この決定により審理は一時中断し[書籍 2]広島地裁が精神科医・山上皓(当時・東京医科歯科大学教授)に依頼して精神鑑定を実施した[新聞 68][新聞 69]。精神鑑定では「被告人Hの事件当時の精神状態」に加え「被告人Hが殺人に至った動機」についても解明が試みられ[書籍 2]、精神鑑定を担当した山上は結果的に以下のように結論を出した[新聞 68][新聞 69]。
- 被告人Hは「男性としての自身に欠けた」とする挫折感を抱き「暴力犯罪の空想などで強い男性像を示したい」という性癖があり、犯行はこの空想を実行に移したものである[新聞 70]。
- 被告人Hの挫折感は『青春時代に経験した大学受験の失敗などの挫折』に端を発しており、そこで自分自身に失望した反面で絶えず「自分はこんなものではない」という自負心を抱き続けており「自分の力を証明する方法」として女性を殺害することを思いついた[書籍 2]。
- 被告人Hは一時期「神経症的な葛藤が高まったり、気分の高揚した状態で刹那的な行動を繰り返す」など「通常とは異なる精神状態」だった可能性がある[新聞 71]。その人格には著しい偏りがあるが「責任能力に影響を及ぼしうるような病的なもの」とはみなされない[新聞 71][新聞 68][新聞 69]。
1999年(平成11年)2月24日に広島地裁(谷岡武教裁判長)で第11回公判が開かれ[新聞 71][新聞 70][新聞 68]、約1年3か月ぶりに公判が再開された[新聞 71][新聞 70][新聞 69]。同日の公判で精神鑑定の結果が報告・提出され証拠採用されたが[新聞 71][新聞 70][新聞 68][新聞 69]、その鑑定結果は弁護人側の狙いとは裏腹に[書籍 2]前述の「責任能力が認められる」というものだった[新聞 71][新聞 70][新聞 69]。検察側・弁護人側とも鑑定書の証拠採用に同意したが[新聞 71]、弁護人側は同日「鑑定書には疑問点や確認したい点がある」として[新聞 68]山上の証人申請をした[新聞 71][新聞 68]。
検察側が被告人Hに死刑求刑[編集]
1999年10月6日に広島地裁(戸倉三郎裁判長)で論告求刑公判が開かれ、検察側は被告人Hに死刑を求刑した[新聞 72][新聞 73][新聞 74][新聞 75][新聞 76][新聞 77][新聞 78]。
広島地検・地裁管内における刑事裁判で死刑が求刑されたのは福山市女性強盗殺人事件(1992年3月発生、1994年6月求刑)以来約5年半ぶり、中国地方全体では1998年12月(岡山県赤磐郡山陽町の団地で発生した4人殺傷事件)以来だった[新聞 73]。同地検次席検事・片山博仁は『中国新聞』の取材に対し「法定刑が死刑か無期懲役しかない強盗殺人罪が適用される本事件において、全ての事情を考慮しても死刑以外に選択の余地はない」と明言した[新聞 73]。
論告で検察側は以下のように主張して被告人Hの犯行を非難した。
- 被告人HはA事件以降も金銭強奪などを目的に犯行を重ねるうち、自分に捜査の手が及ばなかったことから「俺は警察に捕まらない悪運の強い特別な人間だ」と無根拠な自信を深め、「他人の死をも支配する一種の満足感・快感」を抱くようになった[新聞 73]。その上で遊興費などを得ようとさらに女性を物色して次々に3人を殺害・遺棄した[新聞 78]。
- 落ち度のない被害者4人を次々に殺害した自己中心的な犯罪だ[新聞 76]。犯罪史上稀に見る残虐な事件で、被告人に矯正の見込みはない[新聞 76]。
- わずか5か月間に4人もの被害者女性を殺害した凶悪な犯行で[新聞 73][新聞 74]社会的影響・被害者遺族の精神的打撃は大きく、犯行動機の悪質さ・殺害方法の残虐性などを考慮すると[新聞 73]自らの生命をもって償うしかない[新聞 73][新聞 74]。
被告人Hは公判閉廷後に収監先・広島拘置所内で行われた職権面接において「死刑求刑は当然だ」などと述べた[判決文 1]。
弁護人側が最終弁論、結審[編集]
1999年11月10日の公判で弁護人による最終弁論が行われて結審した[新聞 79][新聞 80][新聞 81]。
弁護人側は以下のように主張して情状酌量による死刑回避を訴えた[新聞 79][新聞 80][新聞 81]。しかしこの弁護人側主張は自ら死刑を望んでいた被告人Hの希望に反するものだった[書籍 2]。
- 被告人Hは最初の犯行の際、妻の病気・消費者金融からの借金の返済などで精神的に極度に追い詰められ自暴自棄の心理状態にあった[新聞 79][新聞 81]。完全責任能力を認めた精神鑑定結果・検察側主張には疑問がある[新聞 79]。
- 被告人Hは幼少期の家庭環境にも恵まれておらず被告人1人の責任とは言えない[新聞 79]。
- 被告人Hは捜査・公判とも誠実に協力しており、求刑通りの死刑判決は重すぎて量刑不当であり、情状酌量により死刑適用を回避するのが相当である[新聞 79][新聞 82][新聞 83]。
最終弁論後に[書籍 8]最終意見陳述が行われ[新聞 80][新聞 81][書籍 8]、その陳述の場で「連続殺人鬼」として法廷に立った被告人Hは[書籍 3]涙を流しながら以下のように懺悔の言葉を述べ[書籍 3][書籍 8]、自ら死刑を希望する意思を示した[書籍 2][新聞 79][新聞 81][新聞 84][新聞 82][新聞 83]。
- 自己中心的な考え・困難に立ち向かう勇気のなさ・命の尊さへの無理解から引き起こした犯行で[新聞 79]、一切弁解の余地はない[新聞 79][書籍 8][書籍 2][新聞 81][新聞 80]。今すぐ命を絶って詫びたいが、それでも被害者・遺族から許されるとは思っていない[書籍 8][新聞 81]。
- (求刑通り死刑判決を受けることで)一日も早く被害者のところへ行ってお詫びしたい[新聞 79][書籍 8][新聞 81][新聞 84][新聞 82][新聞 83]。被害者に深く謝罪し冥福を祈るしか術がない[新聞 79]。
- (死刑判決の)確定で、執行まで死の恐怖と向かい合うことで「被害者の恐怖・苦痛の何分の一か」を味わいたい[新聞 79][書籍 8][新聞 81]。
- 「自分はいったい何のためにこの世に生まれてきたのか」「どのような生き方をしてきたのか」を考えると辛く悲しい気持ちでいっぱいだ[書籍 8]。
祝康成(現・永瀬隼介)の評価[編集]
本事件の刑事裁判を取材していた作家・祝康成(現・永瀬隼介)は同日の公判で開かれた最終弁論・最終意見陳述を傍聴しており、その後には広島拘置所に収監されていた被告人Hから手紙を受け取った[書籍 8]。
被告人Hは一貫して弁護人以外との面会を拒否しており、永瀬に手紙を送ったのはこの1度だけだったが[書籍 8]、その手紙には以下のような心境がつづられていた[書籍 8]。
- 「(逮捕されてから)これまでの3年間は何百回と想い悩み苦しみ、眠れない夜もたくさんあったが、今はもう何も申し上げることはない」[書籍 8][書籍 3]
- 「これまでは担当の弁護士以外の誰とも面会・文通などの交流はしておらず、今後もお願いするつもりはない」[書籍 8]
永瀬は後に市川一家4人殺人事件の犯行当時少年の死刑囚を取材したノンフィクション小説『19歳 一家四人惨殺犯の告白』の中で「市川一家4人殺人事件の死刑囚は分かりにくい奴だが、Hは分かりやすい男だった」と述べている[書籍 3]。
死刑判決[編集]
2000年(平成12年)2月9日に判決公判が開かれ[新聞 84]、広島地裁(戸倉三郎裁判長)は検察側の求刑通り被告人Hに死刑判決を言い渡した[新聞 18][新聞 85][新聞 86][新聞 87][新聞 88][新聞 89][新聞 90][新聞 82][新聞 83][新聞 91][新聞 16][新聞 92][新聞 93][新聞 94][書籍 2]。
死刑判決を言い渡す際は判決主文を後回しにして判決理由から先に読み上げる場合が多いが、戸倉裁判長は異例の冒頭主文宣告を行った[新聞 89][新聞 90][新聞 91]。広島地裁は主文言い渡し後に朗読した判決理由にて以下のように厳しく各情状を指摘した[新聞 91]
- 「教師を目指していた被告人が『大学受験の失敗・結婚後の妻の病気へのストレス』から『行き場のない挫折感』を募らせていった境遇には同情の余地があるが、わずかな金を奪うため人の生命を奪ったのはあまりにも短絡的で最大限の非難に値する」[新聞 91]
- 「犯行は冷酷非情で被害者の無念さは想像を絶する」[新聞 82][新聞 83]
- 「短期間に4人の命を奪った稀に見る凶悪事案だ。計画性は明白で酌量の余地はない」[新聞 16]
その上で量刑について以下のように結論づけた[新聞 91][新聞 16]。
- 「被告人Hは反省の情を示しているが刑事責任は極めて重い」[新聞 82][新聞 83][新聞 16]
- 「死刑が人の命を奪う究極の刑罰であることを十二分に考慮しても、もはや極刑で臨むしかない」[新聞 91][新聞 16]
判決を言い渡した後、戸倉は被告人Hに対し、以下のような言葉を掛けた。
判決を傍聴した被害者遺族からは「死刑は当然。絶対に許せない」「被告人Hは法廷で謝罪したが、もっと早く謝ってほしかった。死刑判決が出たことで娘の墓前に報告できる」など、犯行への憤り・判決を評価する声が相次いだ[新聞 91][新聞 90]。また被告人Hの元同僚であるタクシー運転手は『読売新聞』の取材に対し「度々公判を傍聴したが、被告人Hが自ら死刑を望む発言を繰り返していたのが印象的だった。死刑はやむを得ないだろう」と述べた[新聞 90]。
甲斐克則・広島大学法学部教授(刑法)は『読売新聞』2000年2月10日大阪朝刊広西北版記事中にて「『最高裁が死刑適用に慎重になっている流れ』に逆行するものだ。確かに犯行は悪質で被害者側の感情は察するに余りあるが、この判決は自首の成立・犯行後の改悛の情を認めており、『永山基準』などそれまでの判例が示した死刑適用基準をすべて満たしているかどうか疑問だ」と述べ、判決に疑問を呈した[新聞 90]。
一方、藤田浩・広島経済大学経済学部教授(比較憲法)は同記事中にて「死刑は不可逆的な刑罰ではあるが、今回の事件では被告人の自供もあり冤罪の可能性は低い。犯行の悪質さ・被害者感情などを考えると死刑はやむを得ないのではないか」と評価した[新聞 90]。
被告人Hは同日、収監先・広島拘置所に戻った直後に行われた職権面接において「判決を聞いたら足が震えた」「本日、こうして無事に判決の言い渡しを受けることができたのも、ひとえに(広島拘置所)職員の皆様のおかげであり、深く感謝しております」「控訴はせずに(死刑確定)判決を受け入れることになりますが、職員さんには絶対に迷惑をおかけするようなことはいたしません。死刑執行までの長い間お世話になりますが、今後ともよろしくお願いいたします」などと述べた[判決文 1]。
控訴せず死刑確定[編集]
情状酌量による死刑回避を求めていた弁護人は判決後に『朝日新聞』の取材に対し「予想されたとはいえ厳しい判決だ。控訴するかどうかは被告人Hと早急に接見して決めたい」とコメントした[新聞 91]。被告人Hは公判後に収監先・広島拘置所で弁護人・二国則昭弁護士らと面会したが[新聞 95]、その際に広島高等裁判所への控訴をしない意思を伝えたため、弁護人らは控訴を断念する方針を決めた[新聞 95]。
被告人Hは控訴期限の2000年2月24日午前0時までに広島高裁に控訴する手続きを取らなかったためにそのまま死刑判決が確定した[新聞 96][新聞 97][新聞 98][新聞 99][新聞 100][新聞 101]。この時点で最高裁判所広報課が調査した結果によれば、1989年から1999年までの11年間で第一審・地裁段階にて言い渡された死刑判決は全国で約50件だったが、そのうち被告人が控訴せずに死刑が確定した事例は確認できる限りで3件しかなかった[新聞 96][新聞 97]。
死刑執行まで[編集]
死刑判決が正式に確定した直後の2000年2月25日、死刑囚Hは収監先・広島拘置所にて同日から「未決者処遇」より「死刑確定者処遇」に移行することなどを拘置所職員から告げられると、直立不動の姿勢から一礼して「今後とも、よろしくお願いします」などと述べた[判決文 1]。その直後の2000年3月3日に「心情などの把握」などを目的に行われた拘置所長との所長面接において、死刑囚Hは以下のように述べた[判決文 1]。その態度は終始冷静で、後に足立修一弁護士が起こした#国家賠償請求訴訟判決では「礼儀をわきまえて明るく振る舞っていたが、涙を流す場面もあった」と事実認定された[判決文 1]。
- 「自殺などで(拘置所職員の皆さんに)迷惑をかけるようなことは絶対にしません。本音を言うと、本番(死刑執行の時)で今のような冷静な気持ちでいられるか心配です。『ぐでんぐでんになるのではないか』とも思いますがよろしくお願いします」[判決文 1]
- 「(残された)娘のためにも下手なことはできません。きっぱりと逝くのが娘のためとも思っています。去年(1999年)の中頃までは“むすめ”の“む”の字を言われただけでも涙が出ていたが、今ではそんなことはありません。(娘は)『少し大人になったのかも』と思います。娘のことを考えると、気が狂いそうになったこともありましたが…。(娘は)小学校1年生になりますが、将来、父親を意識し出した時、誰かが『父はきっぱりと立派に旅立った』と言ってもらえるのではないかと思ってます」[判決文 1]
- 「民間人との新たな人間関係は持ちたくありません。自分は頑固なところがあります」[判決文 1]
- 「判決の時、キンタマが縮み上がりました」[判決文 1]
前述の所長面接から丸1週間後の2000年3月10日、死刑囚Hの元国選弁護人だった弁護士2人が広島拘置所に赴き、死刑囚Hとの接見を申し入れた[判決文 1]。これに対し広島拘置所長は「死刑判決が確定したため、弁護士2人と死刑囚Hは既に何の関係もなくなっているが、死刑囚Hが長期にわたり世話になった弁護士であれば心情安定につながり処遇上有益であろう」と判断し、死刑囚Hに接見の意思確認を行った上で同日午前9時22分から8分間、拘置所職員の立ち合いの下で特別面会として接見をさせた[判決文 1]。この接見の際、死刑囚Hは弁護士2人に対し「これでお会いすることはご遠慮願います。お世話になりました」と述べており、その後は2006年12月14日に国賠訴訟の原告・足立修一(広島弁護士会所属の弁護士)が接見を拒否されるまでの間、死刑囚Hは弁護士との接見・信書の授受をしたことはなかった[判決文 1]。なお2002年(平成14年)2月9日、別の弁護士が死刑囚Hに来信を行ったが、これは拘置所長により「親族以外のものからの来診」として不許可とされたため、その信書は死刑囚Hには届かなかった[判決文 1]。
死刑囚Hは2005年(平成17年)8月18日、広島拘置所長宛てに「今後、書信およびパンフレットなどは、親族からのもの以外は全て受け取りを拒否する」との願箋を提出した[判決文 1]。また、死刑執行2か月前の2006年(平成18年)10月16日には、担当者に「心の悩み」として「居室が変更になってから何もやる気がしない。請願作業にも身が入らないし教誨も休みたい」などと申し述べた[判決文 1]。
死刑執行11日前の2006年12月14日、後述のように弁護士・足立修一が「死刑囚Hに再審請求・恩赦出願を行う意思があるかどうかを確認するため」として収監先・広島拘置所に接見を申し入れたが拒否された(#国家賠償請求訴訟の節を参照)[判決文 1]。その5日後の2006年12月19日(死刑執行6日前)、広島拘置所処遇部上席統括矯正処遇官(第二担当)の刑務官(以下「第二統括」)は「死刑囚Hの心情を把握する目的」で面接を実施した[判決文 1]。この際、死刑囚Hは「10月16日に『何もやる気がしない』などと悩みを吐露したこと」について、『現在はずいぶんよくなりましたが、自分でいったんは『頑張ります』と公言した以上、弱音は言いません」と述べた[判決文 1]。また、「2005年8月に『親族以外からの親書受け取りを拒否する』旨の願箋を提出した後、気持ちに変わりはないか?」と尋ねられると死刑囚Hは「その後も自分の気持ちに変化はありません。たとえ弁護士が面会に訪れても一切会いませんし、弁護士から手紙が来ても受け取りを辞退します。弁護士からの再審請求および恩赦に関することについての問い合わせも拒否します」などと述べた[判決文 1]。
足立との接見拒否から11日後の2006年12月25日、法務省(法務大臣:長勢甚遠)の発した死刑執行命令により収監先・広島拘置所で死刑囚H(44歳没)の死刑が執行された[新聞 19][新聞 21][新聞 102][新聞 103][新聞 104]。同日には東京拘置所でも死刑囚2人・大阪拘置所でも1人と、死刑囚Hを含めて死刑囚計4人の死刑が執行された[新聞 19][新聞 21][新聞 102][新聞 103][新聞 104]。死刑囚4人に対する同時執行は1997年8月1日、法務大臣(当時)・松浦功の死刑執行命令により永山則夫(永山則夫連続射殺事件)・夕張保険金殺人事件の死刑囚2名ら計4人の死刑が執行されて以来、9年4カ月ぶりだった[新聞 19][新聞 21]。共同通信記者・西條高生は「今回の死刑執行で1日の死刑執行人数が4人と多くなった背景には、前法務大臣・杉浦正健が1年近く死刑執行命令書にサインしなかったことが関係しているだろう」と指摘した[新聞 19]。
国家賠償請求訴訟[編集]
広島弁護士会所属の弁護士・足立修一は後述の接見拒否当時は「死刑囚Hを含む弁護人選任依頼者から再審請求の弁護人に選任されたり、その依頼を受けていたわけではなく、死刑囚Hとの接見依頼も受けていなかった」状態だった[判決文 1]。
2006年12月1日、足立は死刑廃止運動を行う市民団体に所属していた知人から「年末に死刑囚Hの死刑が執行されそうだから、死刑囚Hの元国選弁護人の氏名を教えてほしい」と依頼された[判決文 1]。足立はこれに対し「自分も『元国選弁護人のうち弁護士1人に連絡を取り、死刑囚Hと面会して恩赦・再審を申請できないか』と考えている」と伝えた上で、その元国選弁護人に対し「死刑囚Hと面会してほしい」と依頼した[判決文 1]。
これを受けて死刑囚Hの元国選弁護人だった弁護士2人は2006年12月14日、「安否伺い」を理由に収監先・広島拘置所にて死刑囚Hとの接見を申し入れたが許可されなかった[判決文 1]。その話を聞かされた足立は「死刑囚Hへの死刑執行が近い時期に迫っている」と感じたため「再審請求を行う必要性が強い。死刑囚Hと接見して再審請求・恩赦出願の権利行使を促すべきだろう」と強く感じた[判決文 1]。
これを受けて足立は死刑執行11日前の2006年12月14日午後3時10分ごろ、「再審請求についての説明・意思確認を行おう」と収監先・広島拘置所に出向き、「再審請求の弁護人となろうとする者」として死刑囚Hとの接見を申し入れた[判決文 1]。午後3時20分ごろ、広島拘置所第二統括の刑務官は「足立が死刑囚Hとの接見を申し入れている」ことを聞き、午後3時40分ごろになって接見係の副看守長からその要件を確認した上、首席に「原告の接見申し入れ内容は『再審請求の件』である」ことを報告した[判決文 1]。
同日午後3時55分ごろ、首席は第二統括に対し「死刑囚Hは再審請求をしているわけではないため、足立は面会の相手方として該当しないため、面会を断るように」と指示した。これを受けて第二統括は足立に対し、「死刑囚Hは再審請求を提起していないため、面会はできません」と伝えた[判決文 1]。足立はこれに対し「責任者を呼んでほしい」などと求めた上で、職員応接室で対応した職員に「死刑囚H本人に自分が面会を希望していることを伝えてほしい。再審請求の意思があるかを確認するためにここに来たのだから面会をさせてほしい」「面会させないにしても『再審請求を起こす意思があるかどうか』について自筆で回答をもらって書面による意思確認をしてほしい」などと依頼したが、そのような対応は取られず[判決文 1]、職員は「これ以上話はできない」などとして足立の面会要請を拒否した[新聞 105][新聞 106]。
職員のこの対応を「不当」と訴えた足立は国を相手取り、2007年8月2日付で慰謝料など約180万円の支払いを求めて広島地裁に国家賠償請求訴訟を起こした[新聞 107][新聞 105][新聞 106]。足立は提訴後に記者会見で「死刑確定者の接見・再審の機会は阻害されている。闇から闇へと死刑が執行されている現実に光を当てたい」とコメントした[新聞 105]。
広島地方裁判所(金村敏彦裁判長)は2009年12月24日、原告・足立の請求を棄却する判決を言い渡した[判決文 1] [新聞 108][新聞 109]。広島地裁は判決理由で「死刑確定者は刑事訴訟法で規定された『身体拘束を受けている被告人または被疑者』には該当しない」と指摘した上で、「元死刑囚Hは再審請求をしていない上、足立は再審請求の弁護人に選任されておらず、元死刑囚Hから依頼を受けていたわけでもない。足立には元死刑囚Hに対する接見交通権はなく、請求には理由がない」と結論付けた[判決文 1] [新聞 109]。足立は判決を不服として広島高等裁判所に即日控訴した[新聞 108][新聞 109]。
広島高裁(小林正明裁判長)は2010年12月21日、第一審判決を支持して原告・足立の控訴を棄却する判決を言い渡した[新聞 110]。広島高裁は判決理由で「元死刑囚Hは死刑判決を自ら受け入れていたことが認められる。原告は元死刑囚Hから再審請求の依頼を受けていないので接見交通権は保証されていない。一方的に死刑確定者(死刑囚)との接見を希望する弁護士には接見交通権を補償すべきではなく、拘置所側の裁量権に逸脱は見られない」と認定した[新聞 110]。原告・足立は判決を不服として2010年12月24日付で最高裁判所に上告した[新聞 111]。
最高裁第一小法廷(桜井龍子裁判長)は2011年10月13日付で原告・足立の上告を棄却する決定を出したため、足立の敗訴が確定した[新聞 112][新聞 113]。
事件の影響[編集]
かつてHが被害者らを物色した新天地公園に立っていた若い売春婦たちは事件後、携帯電話で馴染みの常連客と連絡を取り合うようになったため、事件から4年が経過した2000年時点では滅多に公園に立たなくなった[書籍 8]。
廿日市警察署の対応[編集]
捜査本部が設置された広島県警廿日市警察署(署長:吉村一彦、署員115人)では1996年9月14日に管内の湯来町内でDの遺体が発見されたことを受けて150人態勢の捜査本部が設置された[新聞 114]。この際、同署からも刑事課を中心に、多くの捜査員が本部入りした[新聞 114]。
当時、管内での殺人事件の発生は1993年8月以来だった上、署が保有していた1897年(明治30年)以来の資料では「(管内で)連続殺人事件が発生した」とされる記録はなかったため、1874年(明治7年)の設立以来前代未聞の大事件となった[新聞 114]。
それだけでなく1996年10月12日に開幕を控えた秋の国民体育大会(国体)会場のうち柔道・剣道・山岳の各競技会場が廿日市署管内にあった[新聞 114]。廿日市市スポーツセンターで行われた柔道競技には、天皇・皇后が見学に訪れたため、24時間体制の会場警備・40人態勢の通行経路付近警備などを行った[新聞 114]。
また、新制度下における初の国政選挙となった第41回衆議院議員総選挙(1996年10月20日投開票)では、激戦の広島県第2区にて刑事課17人中3人が、選挙違反の監視を専従で行っていた[新聞 114]。
このようにかつてない忙しさに見舞われた廿日市署では署員から「目が回る」と悲鳴が上がった[新聞 114]。吉村署長は「事件では、捜査一課との連携も上手くいっている。いろいろと重なりきついのは確かだが、署員の士気も上がっており今後も最善を尽くす」と語った[新聞 114]。
広島県タクシー協会の対応・風評被害[編集]
事件を受けて広島県タクシー協会(会長:濱田修)は、1996年10月11日に広島市西区内のホテルで緊急会議を開いた[新聞 115]。
濱田会長は広島市内60社のタクシー会社の経営者ら約100人が出席した会議で「今回の事件で市民に大変迷惑をかけた。タクシー業界の信頼を回復するために協会が一段となって努力していこう」と話した[新聞 115]。会議に出席した経営者からは「最近、乗務員の接客態度が悪いという苦情が多く寄せられる。事件を機に乗務員の再教育を徹底すべきだ」といった意見などが出された[新聞 115]。緊急会議の最後に「協会に加盟する広島市内の全タクシーにお詫びの文章を車内掲示する」ことが決められ、協会はその後も他の地域でも会議を開き信頼回復を呼び掛けた[新聞 115]。
警察発表・新聞報道などではHの勤務先だった車両数約30台のタクシー会社について詳細な住所は発表されなかったが、電話帳の情報・会社の建物写真などからすぐに特定されてしまった[新聞 116]。
ある運転手は事件後、客から「湯来町まで行ってくれ」と遺体が遺棄された現場に行くよう指示されたが、これは嫌がらせで本来の目的地は別だった[新聞 116]。この他にも無言電話・嫌がらせ電話などがかかるなどしたため、社員が退職したり休みを取ったりした[新聞 116]。
Hの元上司は『朝日新聞』広島総局の取材に「彼(H)の起こした事件に責任は感じているが、他の社員やその家族のことを考えて会社を潰さないようにするだけでも必死だった」と振り返った[新聞 116]。また「1996年12月時点では事件に関する電話は少なくなり、売り上げは落ちたが社内の結束は強くなった」と証言した[新聞 116]。
取材結果を振り返り『朝日新聞』記者・樫山晃生は「新聞・テレビの報道では会社は匿名で報道されたが、結果的には会社がダメージを受けることとなってしまった。報道では真実を伝えなければならないが、何気なく書いたことでも思わぬ影響を与えることがある。『たとえ数行の記事でもおろそかにできない』と身が引き締まる思いがした」と振り返った[新聞 116]。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 本事件以前には富山・長野連続女性誘拐殺人事件(1980年2月 - 3月)、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(1988年8月 - 1989年6月、「宮崎勤事件」とも)、スナックママ連続殺人事件(1991年12月)などがあった[新聞 44]。
出典[編集]
民事裁判の判決文[編集]
新聞記事出典[編集]
- ※出典見出し中のうち元死刑囚・被害者の実名部分はそれぞれ、元死刑囚は姓イニシャル「H」、被害者はそれぞれ、本文中で使われている仮名(A・B・C・D)に置き換えている。
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雑誌記事出典[編集]
書籍出典[編集]
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参考文献[編集]
国家賠償請求訴訟の判決文[編集]
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関連書籍[編集]
- 丸山佑介 『判決から見る猟奇殺人ファイル』 彩図社、2010年1月20日、52-61頁。ISBN 978-4883927180。「6【連続殺人】広島タクシー運転手連続殺人事件」
- 『新潮45』編集部 『殺人者はそこにいる 逃げ切れない狂気、非情の13事件』 新潮社、2002年3月1日、287-308頁。ISBN 978-4101239132。
- 祝康成(現・永瀬隼介)が『新潮45』2001年1月号に寄稿した本事件の記事「『売春婦』ばかりを狙った飽くなき性欲の次の獲物―広島『タクシー運転手』連続4人殺人事件」を再録している。
- 永瀬隼介(祝康成からペンネーム変更) 『19歳 一家四人惨殺犯の告白』 角川文庫、2004年8月25日、217-218頁。ISBN 978-4043759019。
- 市川一家4人殺人事件の少年死刑囚について取り扱ったノンフィクション。該当ページ文中にて著者が本事件の死刑囚Hについて言及している。
関連項目[編集]
- 女性を標的とした主な連続殺人事件
- 小平事件(1945年5月 - 1946年8月)
- 大久保清事件(1971年3月 - 5月)
- 富山・長野連続女性誘拐殺人事件(1980年2月・3月)
- 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(1988年8月 - 1989年6月、「宮崎勤事件」)
- スナックママ連続殺人事件(1991年12月)
- 大阪連続バラバラ殺人事件(1985年5月 - 1994年3月)
- 座間9遺体事件(2017年8月 - 10月)