第42回NHK紅白歌合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。124.99.20.151 (会話) による 2016年2月17日 (水) 11:36個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎概要)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

第42回NHK紅白歌合戦
会場のNHKホール
ジャンル 大型音楽番組
製作
制作 NHK
放送
放送国・地域日本の旗 日本
放送期間1991年平成3年)12月31日
回数NHK紅白歌合戦第42
NHK紅白歌合戦 公式サイト
テンプレートを表示
第42回NHK紅白歌合戦
ジャンル 大型音楽番組
放送方式 生放送
放送期間 1991年平成3年)12月31日
放送局 NHKラジオ第1
制作 日本放送協会(NHK)
公式サイト 公式サイト
テンプレートを表示

第42回NHK紅白歌合戦』(だいよんじゅうにかいエヌエイチケーこうはくうたがっせん)は、1991年平成3年)12月31日NHKホールで行われた、通算42回目のNHK紅白歌合戦。19時20分 - 20時55分および21時から23時45分にNHK生放送された。

概要

  • 紅組司会の人選では、当初は小泉今日子に打診が行われたという。この年ミリオンセラーの大ヒットとなった「あなたに会えてよかった」を披露させるという条件付きであったが、小泉との交渉は暗礁に乗り上げ、結局小泉の紅組司会はおろか、出場歌手としての選出も白紙撤回となる。
  • その後、紅組司会は急遽浅野ゆう子が抜擢された。浅野は当時トレンディ女優として人気を博しており、その人気を背景としての抜擢となった(浅野は当時NHKドラマへの出演が少なく、異例の抜擢でもあった)。浅野は歌手時代に出場歌手に選ばれなかったため、紅組司会に選ばれたことを大変喜び、「こんな形で紅白に出られるとは。嬉しいです」と語った[1]。なお、紅白本番時の浅野は鼻を骨折する怪我を負っていたが、その痛みに耐えながら気丈に司会を務めていたという。
  • 浅野に対抗する白組司会には、過去6回出場歌手としての出演歴があり、司会経験も豊富(且つ前回を含め以前より白組司会の候補に挙がっていたとされる)な堺正章が満を持して登場。出場歌手としての選出はなく、司会に徹する形となった。司会発表会見で記者団から「えっ!(紅白の司会が)初めてなんですか?」と驚かれる一幕もあった[2]
  • 総合司会には、この年NHK会長に就任し、かつて紅白の制作にも長く関わっていた経験のある川口幹夫らの強い意向もあり、第23回1972年) - 第33回1982年)にかけて総合司会→白組司会として紅白を牽引してきた山川静夫(この時点では、厳密にはアナウンサーではなく「理事待遇」の肩書であったが、テレビ出演時には引き続き「アナウンサー」を名乗っていた)を起用。山川にとってはこれが9年ぶりの司会復帰となり、随所で浅野・堺のアシスタントをするなど、例年以上に重厚な司会陣が抜擢された。
  • その他、『週刊女性』(1991年10月29日号、28頁)が「紅組司会は吉永小百合福島敦子(当時NHK契約アナウンサー)で大激突」と報じたり、『ザテレビジョン』が誌上で「紅組司会:山田邦子、白組司会:逸見政孝」と両軍司会の人選予想を行ったりした。山田については司会発表の前日に一部新聞で「本紅白の紅組司会起用が決定」と誤って報じられるという出来事もあった。
  • 番組内で山川が堺に「あなたどなたです?」と尋ね、堺が「私、堺です」、山川が「私、司会です」とそれぞれ返すやり取りがあった(この演出は翌年の第43回でも行われた)。
  • 審査員である若花田勝(現:花田虎上)・貴花田光司(現:貴乃花親方)の「若貴」兄弟がセリ上がりで登場して開会を宣言。この年以降、オープニングに趣向を凝らした大掛かりな構成・演出が採られるようになった。
  • 雨の西麻布」(1985年)以来、「出たい」と公言し紅白を狙って歌謡曲をリリースし続けたとんねるずが、日本歌謡大賞受賞曲「情けねえ」を引っ下げて、遂に紅白に初登場。歌唱時には、石橋貴明が白、木梨憲武が紅のかつらと足袋、それにビキニパンツ(1枚400円、2人計で800円[3])のみをつけ、それ以外はボディーペインティングという出で立ちで登場。背中には、2人が並ぶと「受信料を払おう」と読めるメッセージが書かれていた[4]。会場に爆笑と歓声が起こり、視聴者は度肝を抜かれた。
  • 和田アキ子はこの年12月初期に肋骨を骨折するアクシデントで入院。その後に紅白選出が決まったが、回復が間に合うかどうかが懸念されていた。その後退院して無事に本番に間に合った。そして、15回出場を果たした今回紅組トリを務める。「あの鐘を鳴らすのはあなた」(この年CMソングに使用され再び話題を集めた。紅白初披露でもあった)の歌唱終了後、無事歌い終えたことに安堵したのか和田の目には思わず涙が滲んでいた。
  • 白組トリおよび大トリには、世界的名曲であるとの理由で谷村新司(5年連続出場達成)の「昴-すばる-」が選曲された。
  • 愛は勝つ」がヒットし、初出場したKANはこの年モーツァルト没年200年ということもあって、モーツァルトに扮した衣装で登場した。サビの部分から子どものコーラス隊(音羽ゆりかご会)が参加し、華やかなステージとなった。
  • 第1部最後にこの年発生した雲仙普賢岳噴火災害の被災者へのメッセージソングとして出場者の1人であるさだまさし(雲仙のある長崎県出身)が作詞・作曲を手掛けた「Smile Again」を出場歌手で大合唱するというコーナーが設けられた。以後、番組内でオリジナルソング・テーマソングを歌唱する演出が恒例的に行われるようになる。
  • 歌手紹介のテロップに装飾がなされるようになる。紅組の歌手紹介はオレンジ色のバー、白組は青色のバーに歌手名とイニシャル(グループ名がアルファベット表記の場合はカタカナ表記)が表示される。
  • SMAPが歌唱中に表示されるはずであった歌詞テロップがトラブルにより曲の最後まで表示されなかった。
  • 石川さゆりはこの年の連続テレビ小説君の名は』(『連続テレビ小説』開始30周年記念で1年放映。同作出演者の田中好子が審査員を担当)の主題歌「君の名は」を担当していたが、本紅白ではそちら楽曲ではなく当時最新曲であった「港唄」を歌唱[5]
  • 今回はゲスト審査員のほか、無作為抽出による全国600世帯の視聴者モニター、会場の観客も審査に参加。なお、観客審査員の得点集計は例年のうちわやボードといった手法ではなく、観客席の真上に浮いているUFO型の模型に内蔵されたマイクにより観客の歓声を拾い集め、どちらの組により多くの歓声が集まったかをデシベルの単位で数値化し、その数値の高かったチームに会場審査員票を加算するというユニークな方式が採られた。
  • 優勝は紅組。通算成績は紅組23勝19敗、白組19勝23敗。
  • 今回から「蛍の光」演奏後、クラッカーを発射して締めるのが恒例となった。
  • 今回は21時前のニュースによる中断までを第1部、21:00 - 22:30(森山良子アンディ・ウィリアムスの対戦カードまで)までを第2部、22:30 - 終了までを第3部とする計3部構成が採られた。ただし、第2部から第3部への移行時には中断が挿入されなかったため、ビデオリサーチ社による視聴率調査では第2部・第3部を併せて”第2部”として取り扱う形が採られており、後の紅白関連資料(NHKによる公式資料を含む)もこのビデオリサーチ社による区割りに則って今回の出場歌手・曲順が紹介されている。
  • 今回の司会トリオは大好評を博し、翌年の第43回もこの3人の司会続投を望む声が多く寄せられた。最終的に堺と山川は続投したが、「3人共去年(今回)と一緒では新鮮味に欠ける、せめて紅だけでも変えたい」との番組側の方針により、紅組司会は浅野から石田ひかり(同年下期の連続テレビ小説『ひらり』のヒロイン)に交代となった[6]。浅野の司会担当は今回1度限りとなっている[7]
  • フジテレビ系ドラマ『北の国から'92巣立ち』において、劇中の大晦日のシーンでカーラジオから流れる音声として、本紅白がNHKから許諾を得て使用された。この時、ラジオ実況を担当していた当時NHKアナウンサーの大塚範一の声がそのまま同作で流れている。僅か数秒であるために本人も気付かず、後年になって関係者から「大塚の声では無いか?」と本人に確認したところ、「間違い無い」と回答を得られ明らかになった。

司会者

演奏

  • この回よりビッグ・バンドの演奏は奈落で行なうようになった

審査員

大会委員長

  • 中村和夫・NHK放送総局長

出場歌手

紅組 白組
歌手 歌手
第1部
西田ひかる(初) ときめいて バブルガム・ブラザーズ(初) WON'T BE LONG
工藤静香(4) メタモルフォーゼ SMAP(初) Can't Stop!!-LOVING-
中山美穂(4) Rosa 吉田栄作(2) もしも君じゃなきゃ
森口博子(初) ETERNAL WIND〜ほほえみは光る風の中〜 スモーキー・マウンテン英語版(初) TAYO NA(COME ON)
欧陽菲菲(3) ラヴ・イズ・オーヴァー ザ・ベンチャーズ(初) 10番街の殺人-ダイアモンド・ヘッド-パイプライン
ライマ・バイクレロシア語版英語版(初) VERNISAGE〜ELIZABET〜 前川清(初) そして、神戸
伍代夏子(2) 恋挽(ばん)歌 冠二郎(初) 酒場
大月みやこ(5) 冬の華 吉幾三(6) 女のかぞえ唄
永井真理子(初) ZUTTO チェッカーズ(8) ミセス・マーメイド
都はるみ(23) 王将一代小春しぐれ 河島英五(初) 時代おくれ
第2部
山本リンダ(5) どうにもとまらない狙いうち とんねるず(初) 情けねえ
Mi-Ke(初) 想い出の九十九里浜 美川憲一(8) さそり座の女
DREAMS COME TRUE(2) Eyes to me 光GENJI(4) WINNING RUN
原由子(初) 花咲く旅路 X(初) Silent Jealousy
南沙織(8) 色づく街 KAN(初) 愛は勝つ
サラ・ブライトマン(初) オペラ座の怪人 少年隊(6) MASK'91
香西かおり(初) 流恋草 鳥羽一郎(5) 師匠
松原のぶえ(6) 離愁…秋から冬へ 喜納昌吉(&チャンプルーズ)(初) 花〜すべての人の心に花を〜
森山良子(6) PEOPLE アンディ・ウィリアムス(初) ムーン・リバー
第3部
八代亜紀(18) 舟唄 堀内孝雄(4) 愛しき日々
テレサ・テン(3) 時の流れに身をまかせ さだまさし(4) 奇跡 〜大きな愛のように〜
小林幸子(13) 冬化粧 槇原敬之(初) どんなときも。
沢田知可子(初) 会いたい 鈴木雅之(初) ガラス越しに消えた夏
川中美幸(9) 炎情歌 細川たかし(17) 応援歌、いきます
ケー・ウンスク(4) 悲しみの訪問者 森進一(24) 泣かせ雨
坂本冬美(4) 火の国の女 五木ひろし(21) おしどり
石川さゆり(14) 港唄 北島三郎(28) 北の大地
和田アキ子(15) あの鐘を鳴らすのはあなた 谷村新司(5) 昴-すばる-

選考を巡って

前回に引き続き「21世紀に伝える歌」というテーマに基づいたアンケート調査、歌唱力、今年の活躍度に加え、新たにこの年4月にスタートした『歌謡リクエストショー』への反響やカラオケへのリクエスト状況が選出基準として加味された[8]。その結果、今回も懐かしい名曲・歌手が、この年のヒット曲や当代の人気歌手に混じって数多く紹介された[8]

初出場組はとんねるずXSMAP森口博子西田ひかる、海外からはショービジネス界の重鎮・アンディ・ウィリアムスや、日本におけるグループサウンズブームの火付け役であり根強い人気を誇るザ・ベンチャーズら計23組。この23組という初出場歌手数は番組史上最多である。

この年も前回同様12月5日に紅組28組、白組27組の出場歌手を先ず発表。最終決定は12月12日までずれ込む。最後に決まった出場歌手はフィリピン人の音楽グループ、スモーキー・マウンテンだった[10]

HOUND DOG12月19日に歌唱曲が「ff (フォルティシモ)」と発表されたが、24日に「BRIDGE〜あの橋をわたるとき〜」(当時発売前の新曲)への変更を要請した。歌唱曲の発表後に変更を要請したことから、NHKが認めず、もめた末にHOUND DOGは出場を辞退し、代わりにバブルガム・ブラザーズが初出場を決めた[11]。当日メンバーのBro.KORN(現:Bro.KONE)は歌い終わりで「Thanks to HOUND DOG!」と叫んだ。HOUND DOGはその後出場機会がなく幻の出場となっている。

このほか、先述の小泉今日子への紅組司会就任の打診の件も含め、出演者交渉につき前回に続いて難航を極めた紅白であったものの、その苦境をバネに注目を集める人選が数多くためされた紅白でもあった。

この年「ラブ・ストーリーは突然に」がヒットした小田和正、「SAY YES」がヒットしたCHAGE and ASKAへの出演オファーを行ったが、両者共「大晦日はテレビ出演をしない」という理由で断られた[8]

前回出場した宮沢りえは、この年「目立った歌手活動がなかった」ことを理由に落選した[8]

出場歌手の選考以前の段階で、ディック・リーが出場候補として挙がっていると報道された[12]

ゲスト出演者

演奏ゲスト

脚注

  1. ^ 合田道人『紅白歌合戦の真実』、299頁。
  2. ^ 合田『紅白歌合戦の真実』、299頁。
  3. ^ 出場歌手発表日刊スポーツ、1999年12月2日付。(インターネット・アーカイブのキャッシュ)
  4. ^ 本番、日刊スポーツ、2000年1月1日。(インターネット・アーカイブのキャッシュ)
  5. ^ なお、同作は当時の朝ドラ史上最低平均視聴率を記録した。
  6. ^ 合田『紅白歌合戦の真実』
  7. ^ ただし、第54回2003年)に審査員として出演した。
  8. ^ a b c d 読売新聞』1991年12月9日付東京夕刊、11頁。
  9. ^ 和田弘とマヒナスターズ以来2例目且つ女性では初の紅白両組からの出場経験者となった。
  10. ^ 朝日新聞』1991年12月13日付朝刊、26頁。
  11. ^ 毎日新聞』1991年12月27日付東京朝刊、22頁
  12. ^ 『朝日新聞』1991年10月22日付夕刊、13頁。

参考文献・出典

  • NHK『テレビ50年 あの日あの時、そして未来へ』(NHKサービスセンター 2003年2月)

関連項目

外部リンク