潮崎哲也

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潮崎 哲也
埼玉西武ライオンズ 1軍ヘッドコーチ #86
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 徳島県鳴門市
生年月日 (1968-11-26) 1968年11月26日(55歳)
身長
体重
177 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1989年 ドラフト1位
初出場 1990年4月14日
最終出場 2004年9月21日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

  • 西武ライオンズ
    埼玉西武ライオンズ (2007 - 2010、2013 - )
オリンピック
男子 野球
1988 野球

潮崎 哲也(しおざき てつや、1968年11月26日 - )は、徳島県鳴門市出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。

現役時代は西武ライオンズに所属。魔球と呼ばれた[1]シンカーを駆使する投球術で、同球団の黄金期を支えた。2013年から西武二軍監督へ就任。

経歴

アマチュア時代

鳴門高校ではストレートカーブを持ち球としていたが決め球がなく[2]、控え投手外野手という時期が続いた[3]。このためフォークボールパームを習得しようとしたが、うまく行かなかったという[4]。3年生の春に高松西高と練習試合を行なった際に同じサイドスローの相手投手がシンカーを投げており、監督の勧めもあって習得に挑戦したという[2]。握りと手首の角度をカーブの逆にしてみたところ1球目から驚くほど落ちるシンカーが投げられ、楽に三振が取れるようになり、同年夏の徳島県大会でチームが決勝まで進む原動力となった[5]。なお、決勝では池田高校に敗れて甲子園出場はならなかった。

卒業後は松下電器へ入社し、同社保有の社会人野球チーム松下電器野球部へ入部。勤務先の月給は11万円強と高額ではなかったものの好きな野球ができて嬉しかったという[3]。監督の鍛治舎巧に素質を評価されて[6]1年目から先発を務め、1987年都市対抗野球大会に初出場。1988年都市対抗では1回戦で日立製作所を破って勝利投手となったが、2回戦では同大会の久慈賞を受賞したNTT東海上原勝男と投げ合って敗戦投手となっている。

同年のソウルオリンピック(以下、五輪)では19歳という最年少で日本代表に選ばれ、同じメンバーで参加した五輪直前のIBAFワールドカップで好投。特に対オランダ戦では6回1/3を投げて12個の三振を奪うなど、シンカーが威力を発揮した[7]。五輪では野茂英雄石井丈裕と共に先発ローテーションを構成し、予選リーグ第3戦の対オランダ戦で先発して5回を2安打8奪三振の内容で勝利投手となった。また、同大会では予選リーグ第1戦以外の4試合全てに登板して8回2/3を投げ1失点と、影のMVPと呼ばれるほどの活躍[8]で銀メダル獲得に貢献した。なお、決勝の対アメリカ戦では6回から2イニングを完璧に抑えたが、監督の鈴木義信が迷いながら続投させた[9]8回にティノ・マルティネスに外角低めの直球を打たれ、左翼席上段まで届く本塁打にされている[10]

1989年都市対抗では大阪府予選の第一代表決定戦で野茂と投げ合い[6]、この試合は12三振を奪いながら敗れたものの本大会に出場。準決勝でプリンスホテルと対戦し、10回1/3を投げ抜いた末に敗戦投手となった。同年は野茂や与田剛とともに社会人三羽ガラスと並び称され[11]この年のプロ野球ドラフト会議西武に1位指名されて入団。契約金、年俸はそれぞれ7,800万円、840万円(いずれも推定)で、担当スカウトは浦田直治鈴木照雄だった[12]。また、背番号松沼雅之が着けていた16になっている。社会人時代に野茂や与田、佐々岡真司らの投球を目の当たりにしていた事で、プロ入り後に気持ちの余裕が生まれたという[13]

プロ野球選手時代

入団1年目の1990年は、西武のドラフト1位投手としては森繁和以来の11年ぶりとなる開幕一軍入りを果たした[14]4月14日平和台での対ダイエー戦で初登板し、ブルペンでの投球練習がわずか10球だったにも関わらず[15]2回1/3を2安打無失点、4奪三振に抑えている[16]。2回目の登板となった4月24日西宮での対オリックス戦では山越吉洋本塁打を打たれるも、2回1/3をこの1失点に抑えてプロ初勝利を挙げた[16]。さらに7月5日の西宮での対オリックス戦では、同日2本塁打を放っていた門田博光を含むブルーサンダー打線を相手に、新人としては1962年尾崎行雄以来となる8連続奪三振を記録した。7回に9人目の代打・柴原実にレフト前ヒットを許して日本タイ記録はならなかったが、翌日のスポーツ紙などで大きく報じられた。

同年は鹿取義隆とともにダブルストッパーを務め、主にセットアッパーとして鹿取の最多セーブ投手獲得を支えた。リーグ優勝を決めた9月23日西武球場での対日本ハム戦では、最後に鹿取が登板する予定だったが、1死1、2塁の場面で田中幸雄をゲッツーに打ち取ったため潮崎が胴上げ投手となっている[17]同年の日本シリーズでは、第2戦で4回途中から2番手として登板し、4回2/3を投げて被安打2、自責点2の内容で勝利投手となった[18]。第4戦でも7回から3イニングを無失点に抑え、シリーズ初セーブを挙げるとともに胴上げ投手になっている[19]。なお、レギュラーシーズンと日本シリーズ双方で胴上げ投手となった新人は1975年山口高志以来、史上2人目だった。[20]。同年は最優秀新人の選考は野茂に敗れたものの、102回2/3を投げて123奪三振、防御率1.84の活躍でパシフィック・リーグ会長特別賞を受賞した。

1991年は、疲れさえ残さなければ前年並の成績を残せると自信を持って[21]鹿取とともに自主トレを行ない、所沢キャンプでは体力向上に努めている[22]。しかしキャンプに入ると納得の行くストレートが投げられず、2月26日の紅白戦初登板では辻発彦奈良原浩安部理に3連続盗塁を喫するなど、3回4失点の不本意な内容に終わった[22]。前年の投球フォームをビデオで確認するなど修正に務めたが、シーズンの防御率は4.48と大幅に悪化した。同年の日本シリーズでは第2戦で1回を無失点に抑えた。第4戦では2回を投げ3連打を含む4安打3失点で決勝点を奪われたものの、敗戦投手にはなっていない[23]。同年の契約更改では中継ぎだけでなく先発ローテーションの谷間も埋めたフル回転の働きが評価され[24]、年俸は1,300万円増の4,100万円(推定)となった。

1992年はシンカーのキレが今ひとつだった[25]が、初の二桁セーブを挙げた。同年の日本シリーズでは抑えの切り札として第4戦までのうち3試合に登板し、シンカーの復調もあっていずれも無失点に抑えて2セーブを挙げている[25]。しかし、大宮龍男と組んだ第5戦では連投の疲れから球威が落ちたストレートを狙われ[25]、3イニング目に入った延長10回に池山隆寛に決勝点となる本塁打を浴びて敗戦投手となった。続く第6戦でも延長10回に秦真司にサヨナラ本塁打を打たれている[26]。オフには年俸6,500万円(推定)で契約を更改した[27]

1993年には杉山賢人が入団し、鹿取と3人で勝ち試合の終盤を任されるようになり、サンフレッチェと呼ばれた。森監督の起用法にも支えられて安定感の高い救援トリオを形成し[28]、自身はいずれもキャリアハイとなる53試合登板、防御率1.18の成績を残している。なお、優勝がかかった10月6日の対近鉄戦では延長10回にラルフ・ブライアントを迎えた場面で一時左翼手の守備に就くという珍しい経験をしている[29]この年の日本シリーズは第3戦から第7戦まで5試合連続で登板し、そのうち第4戦から第6戦まではサンフレッチェが揃って登板した。シリーズでは計6回2/3を投げ自責点2、2セーブの内容で優秀選手賞を受賞している。またオフには身体障害者などを招待する「潮崎シート」を西武球場に新設し、所沢市に運用を委託した[30]

1994年は2年連続で50試合に登板し、防御率2.39と安定した成績を残している。同年の日本シリーズは3試合で3回2/3を投げ自責点1で、勝敗やセーブはつかなかった。オフには1,000万円増の年俸1億円(推定)で契約を更改し[31]清原和博と並ぶ球団史上最速の6年目で1億円の大台に達した。

1995年オールスターゲームに初出場を果たし、第2戦で1イニングを投げている。シーズン通算では5勝6敗12Sと負け越したものの、防御率が2年振りに1点台となり、奪三振率も9.73と高かった。

1996年は、東尾の方針で鹿取に代わるクローザーに指名された[32]。しかし肩痛による調整遅れやプレッシャーなどもあり、シーズン序盤は18試合に登板して1勝4敗6セーブ、防御率6.00と不振に苦しみ、6月2日には自身初となるケガ以外での二軍落ちを経験している[32]。二軍での調整を経て6月13日に一軍に復帰すると翌日の福岡ドームでの対ダイエー戦で3回2/3を1安打無失点に抑え、続く6月16日の対ダイエー戦でも1回を零封した[32]。この試合の後に先発転向を命じられ、6月21日の西武球場での対日本ハム戦で8回を2安打無失点に抑える好投を見せている。7月10日の対日本ハム戦では7回2/3まで完全試合の内容で投げるなど先発として一定の成果を残したが、8月からはリリーフに戻った。

1997年は前年オフに台湾プロ野球で最多セーブを記録したロバートを獲得、また同じく前年に石井貴がリリーフとして台頭してきたこともあり、東尾監督の勧めと本人の希望から本格的に先発に転向した。4月15日の対日本ハム戦では7回2/3を投げて4安打無失点で初勝利を挙げ、順調なスタートを切っている[33]5月18日の西武球場での対ロッテ戦では被安打2で初の完封勝利を記録するなど白星を重ね、8月28日の対ダイエー戦は9回途中まで1失点に抑える内容で先発のみで初の二桁勝利を達成した。同年は自己最多の12勝を挙げ、防御率はリーグ3位の2.90を記録した[34]同年の日本シリーズは第2戦に先発し、1失点ながら6安打を浴びて3回で降板。第4戦では新谷博の後を受けて2番手として登板し、2/3回を投げて2安打1死球で満塁となったが、杉山が後続を断った。また、オフには翌年のアジア大会の日本代表合宿に参加し、立石尚行にシンカーを教授している[35]

1998年西口文也に次ぐ先発2番手として期待されたが[36]、前年を下回る7勝となった。日本シリーズでは2連敗で迎えた第3戦に先発し、緩急や高めの球をうまく使って[37]横浜ベイスターズマシンガン打線を抑えた。オフには、同年取得したFA権を行使した上でチームに残留している[38]

1999年は高速シンカーを習得し、4月18日の対日本ハム戦では8回を投げて4安打1失点の好投を見せた[35]が、高速シンカーを覚えたことにより本来投げていたシンカーのキレが悪くなり痛打が目立ちシーズン通算では5勝に終わっている。

2000年4月30日の西武球場での対ロッテ戦で、1000投球回を達成。2001年頃からは投球の計算が立ちにくくなり、不安を抱えながら投げることが多くなったという[13]。また、点差をつけられた場面などでの起用が増えていった[39]2002年石井貴の故障などから[40]13試合に先発し、4月27日の対日本ハム戦では1年半ぶりに先発勝利を上げた。

2004年は9月上旬に球団から引退を打診され、力の衰えを実感していた事もあってあっさり受け入れた[13]9月21日の西武ドームでの対ロッテ戦が引退試合となった。この試合は1打席限定の登板で先発し、同じく引退打席の佐藤幸彦にシンカーとストレートを投げて右飛に打ち取り、試合後に胴上げされている[13]

現役引退後

引退後、西武の編成部調査担当に就任した。2005年には西武ジュニアの監督を務めている。

2007年グッドウィル(西武二軍)の投手コーチへ就任した。2008年、一軍投手コーチ(ブルペン)に昇格。5月24日の対巨人戦の始球式では巨人打撃コーチの篠塚和典と対決し、左中間へのヒットを打たれた。2010年は一軍投手コーチ(ベンチ)を務めた。2009年はパシフィック・リーグワースト記録となる14回のサヨナラ負けを喫するなど中継ぎ陣の弱さが目立った。2010年はチーム防御率が前身のクラウンライターライオンズ時代以来33年ぶりの最下位に低迷した。救援防御率は4.15、5.31、5.08と低迷し3年連続でチーム救援防御率リーグ最下位に終わっている。

2011年から2012年までは、西武の編成部にプロ担当として在籍。2013年からは、同球団の二軍監督として、3シーズン振りに現場へ復帰する[41]

プレースタイル

サイドスローから投げる150km/h近い速球[22]と100km/h前後の球速で50cm近くも沈むシンカー[22]、130km/h台のスライダーを武器にリリーフおよび先発で活躍した。プロでの先発転向後、1999年には120km/h台の高速シンカーも習得した[35]。サイドスローのフォームは鹿取義隆斎藤雅樹を参考にしており[39]、横から投げるためシンカーが浮き上がるようなイメージを作り出していた[42]

遅いシンカーはカーブと逆の握りで逆に手首をひねって中指と薬指から抜くバルカンチェンジのような独特の投げ方[35]で、軌道もスライダーのようにスッと沈むオーソドックスなものではなく、一度浮かんで沈むようなカーブに近い軌道だった[4]。右に沈むため自身ではシンカーと呼んでいたが、一般的なシンカーとは別の球種だと指摘されることもあった[4]松沼雅之は、パームボールのように揺れながら浮き上がりフォークボールのようなスピードで落ちる球、と表現している[43]。国際試合などでは2巡目からシンカーにタイミングを合わされる事がしばしばあり、リリーフとしての短いイニングの起用で威力がより発揮された面もあったという[4]。なお、高速シンカーはストレートに近い握りで、リリースの瞬間に手首を被せるように投げていた[35]

リリーフの時は打球を前に飛ばさない事を第一に考え、カウントを取る球も勝負球もシンカーで、見逃されて四球になるリスクと隣合わせの投球スタイルだった[4]。一方で先発の時は走者を貯めないことを先決にし、投球の組み立てにおけるシンカーの比重が相対的に小さくなった[4]。リリーフの心構えについては鹿取から教えられたことが役立ったといい、打たれても落ち込まない姿勢や投球に対するシンプルな考え方を学んでいる[39]

人物

身長176cm、体重68kg(入団1年目)の細身の体[22]に加えジャニーズ系の甘いルックス[14]で、新人時代は1週間に40通のファンレターが届き、スポーツタオルなどのプレゼントも大量に贈られた[44]

握力が30kgしかなく[22]、1年目のキャンプではバーベルを上げられなかったという逸話もある。

私生活では2人の息子がおり、現役引退時に少年野球をしていた長男には力の衰えを理解してもらえなかったという[13]

打たれても悔やんで引きずることはなく[45]、抑えたら自分の力だと思うほど開き直りの良い性格だった[46]。また、森祇晶からも精神力の強さはチームで一番と評されていた[47]。ホームランバッターをそれほど苦にしなかった一方で、空振りが取れなかった新井宏昌は対戦したプロ選手の中で印象に残っているという[45]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1990 西武 43 1 0 0 0 7 4 8 -- .636 416 102.2 70 4 40 4 7 123 0 0 25 21 1.84 1.07
1991 45 3 1 0 0 10 3 5 -- .769 390 92.1 90 12 30 3 2 60 3 0 47 46 4.48 1.30
1992 47 3 0 0 0 6 2 10 -- .750 430 107.0 89 8 26 3 4 95 1 0 41 35 2.94 1.07
1993 53 0 0 0 0 6 3 8 -- .667 332 83.2 63 2 24 6 3 64 2 0 14 11 1.18 1.04
1994 50 1 0 0 0 4 2 1 -- .667 309 75.1 65 5 26 4 5 56 2 0 20 20 2.39 1.21
1995 45 0 0 0 0 5 6 12 -- .455 277 70.1 48 1 21 6 1 76 4 0 18 15 1.92 0.98
1996 43 4 0 0 0 8 6 11 -- .571 337 85.2 61 10 24 4 7 72 0 1 28 27 2.84 0.99
1997 27 26 5 1 1 12 7 0 -- .632 720 174.0 157 18 49 2 10 108 1 0 60 56 2.90 1.18
1998 27 17 2 1 0 7 5 0 -- .583 519 122.1 130 13 35 0 4 76 1 2 59 55 4.05 1.35
1999 20 9 1 0 0 5 3 0 -- .625 322 74.1 92 10 16 0 4 54 0 0 40 38 4.60 1.45
2000 24 13 0 0 0 3 6 0 -- .333 334 82.0 77 5 14 0 5 52 0 0 36 26 2.85 1.11
2001 21 2 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 154 36.1 43 3 8 1 1 29 0 0 18 18 4.46 1.40
2002 28 13 0 0 0 6 5 0 -- .545 319 81.0 62 7 12 1 1 59 0 0 40 35 3.89 0.91
2003 37 4 0 0 0 1 3 0 -- .250 222 50.0 55 6 18 1 6 29 1 0 28 27 4.86 1.46
2004 13 1 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 60 12.1 20 2 5 1 0 14 1 0 10 9 6.57 2.03
通算:15年 523 97 9 2 1 82 55 55 -- .599 5141 1249.1 1122 106 348 36 60 967 16 3 484 439 3.16 1.18
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 1000投球回数:2000年4月30日、対千葉ロッテマリーンズ5回戦(西武ドーム) ※史上282人目
  • 500試合登板:2003年8月10日、対千葉ロッテマリーンズ21回戦(千葉マリンスタジアム)、9回裏に3番手として救援登板・完了、1回無失点 ※史上72人目
その他の記録
  • 8連続奪三振:1990年7月5日、対オリックス・ブレーブス12回戦(西宮球場)
  • オールスター出場:1回(1995年)

背番号

  • 16 (1990年 - 2004年)
  • 86 (2007年 - 2010年、2013年 - )

脚注

  1. ^ 週刊ベースボール、2004年11月29日号、P.55
  2. ^ a b 週刊ベースボール、1997年7月14日号、P.55
  3. ^ a b Number、2004年11月11日号、P.70
  4. ^ a b c d e f 週刊ベースボール、1999年6月14日号、P.12
  5. ^ 週刊ベースボール、1997年7月14日号、P.56
  6. ^ a b 毎日新聞、1999年7月5日付夕刊、P.3
  7. ^ 別冊宝島1545号、宝島社、P.66
  8. ^ 別冊宝島1545号、宝島社、P.70
  9. ^ 別冊宝島1545号、宝島社、P.68
  10. ^ 別冊宝島1545号、宝島社、P.71
  11. ^ 週刊ベースボール、1990年5月7日号、P.128
  12. ^ 読売新聞、1989年12月5日付朝刊、P.19
  13. ^ a b c d e 週刊ベースボール、2004年11月29日号、P.56
  14. ^ a b 週刊ベースボール、1990年5月7日号、P.129
  15. ^ 週刊ベースボール、1990年5月7日号、P.130
  16. ^ a b 週刊ベースボール、1990年5月21日号、P.22
  17. ^ Number、1991年1月20日号、P.30
  18. ^ NPB日本シリーズ記録 1990年 第2戦
  19. ^ NPB日本シリーズ記録 1990年 第4戦
  20. ^ スポニチ 日めくりプロ野球08年10月
  21. ^ Number、1991年1月20日号、P.29
  22. ^ a b c d e f Number、1991年4月5日号、P.50
  23. ^ NPB日本シリーズ記録 1991年 第4戦
  24. ^ 読売新聞、1991年12月11日付朝刊、P.19
  25. ^ a b c Number、1992年11月20日号、P.36
  26. ^ NPB日本シリーズ記録 1992年 第6戦
  27. ^ 毎日新聞、1992年12月13日付朝刊、P.19
  28. ^ 週刊ベースボール、2000年3月26日号、P.112
  29. ^ 毎日新聞社・編『西武ライオンズファンブック 1994年度版』、P.60
  30. ^ 毎日新聞社・編『西武ライオンズファンブック 1994年度版』、P.61
  31. ^ 読売新聞、1994年12月11日付朝刊、P.27
  32. ^ a b c 週刊ベースボール、1996年7月15日号、P.56
  33. ^ 週刊ベースボール、1997年5月19日号、P.115
  34. ^ パ・リーグ1997年成績
  35. ^ a b c d e 週刊ベースボール、1999年6月14日号、P.13
  36. ^ 毎日新聞、1998年5月9日付朝刊、P.21
  37. ^ 週刊ベースボール、1998年11月9日号、P.28
  38. ^ 毎日新聞、1998年11月5日付朝刊、P.20
  39. ^ a b c 週刊ベースボール、2004年11月29日号、P.58
  40. ^ 毎日新聞、2002年4月28日付朝刊、P.23
  41. ^ 埼玉西武ライオンズ公式サイト 2013年度コーチングスタッフ発表
  42. ^ Number、2004年11月11日号、P.69
  43. ^ 週刊ベースボール、1990年5月21日号、P.20
  44. ^ 週刊ベースボール、1990年5月21日号、P.23
  45. ^ a b 週刊ベースボール、2004年11月29日号、P.57
  46. ^ 毎日新聞社・編『西武ライオンズファンブック 1994年度版』、P.58
  47. ^ 読売新聞、1991年1月17日付朝刊、P.19

関連項目