ウォーレン・クロマティ

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ウォーレン・クロマティ
Warren Cromartie
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 フロリダ州
生年月日 (1953-09-29) 1953年9月29日(70歳)
身長
体重
183 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手一塁手
プロ入り 1973年 ドラフト1巡目
初出場 MLB / 1974年9月6日
NPB / 1984年4月6日
最終出場 MLB / 1991年9月15日
NPB / 1990年10月24日(1990年日本シリーズ)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ウォーレン・リビングストン・クロマティWarren Livingston Cromartie1953年9月29日 - )は、アメリカフロリダ州出身の元プロ野球選手。左投げ左打ちの外野手一塁手。愛称は「クロウ」。

来歴・人物

1972年の第1回日米大学野球選手権大会に出場した。1974年、マイアミ・デイド短大からアメリカ・メジャーリーグモントリオール・エクスポズに入団。4年目頃からレギュラーに定着した。1983年のシーズンオフ時にFAとなって読売ジャイアンツへ移籍。入団1年目からいきなり35本塁打をマークするなど、日本でもレギュラーの一人としてチームを牽引した。1989年には打率3割7分8厘で首位打者、また4割4分9厘で最高出塁率のタイトルを獲得。20勝を挙げたチームメートの斎藤雅樹を抑えてMVPも受賞した。

1989年、4割を打って引退すると宣言。開幕から長打を捨ててヒットを量産し、シーズン規定打席の403打席(当時は130試合制、規定打席数は試合数×3.1)に到達した時点で打率4割を超えていた(この時点で残り試合を休めば4割打者が誕生していたことになる)。最終的な打率は.378まで下がり、4割打者誕生はならなかったが、96試合まで4割を維持したのは広瀬叔功の89試合を抜くプロ野球最長記録であり、.378は巨人の球団歴代最高打率である。 シーズン打率.360以上を2回(1986年、1989年)記録している。これは他にイチロー(1994年、2000年)と落合博満(1985年、1986年)しか達成していない記録である。1986年には打率.363を記録したが、この年は阪神ランディ・バースが日本プロ野球記録である打率.389を記録したため、首位打者を獲得できなかった。シーズン打率が.360以上を記録しながらも、首位打者になれなかったのは、現在までクロマティただ1人である。

1990年は開幕から低調で7月まで.252、5本という成績ながらオールスターにファン投票で選出された。その後、8月以降は136打数53安打で打率.390、9本塁打と打ちまくったものの、この年限りで巨人を退団。直後に「さらばサムライ野球」を出版する。中畑清王貞治監督のことを陰で「ワン公」と呼んでいたなど、暴露本の様相を呈していたため話題となった。1991年はメジャーリーグ(カンザスシティ・ロイヤルズ)に復帰するも1年で退団。

2002年プロ野球マスターズリーグ札幌アンビシャスに加入。2005年には、セミプロ野球ゴールデンベースボールリーグに参加する「ジャパン・サムライ・ベアーズ」初代監督に就任したが、ファンへの暴言や度重なる退場を理由に解雇された。

2007年6月1日プロレスラーとしてデビューすることを、プロレスイベント「ハッスル」を主催するハッスルエンターテインメントが発表。6月17日に「ハッスル・エイド2007」(さいたまスーパーアリーナ)でタイガー・ジェット・シンと対戦し勝利を飾った。この試合ではかつて試合中に殴打した宮下昌己が来場し、クロマティを応援した。

  • 1988年、「Climb」(クライム)というバンドでドラムを担当、シングル「ガール・ライク・ユー」とアルバム「テイク・ア・チャンス」をリリースしている[1]。アルバム「テイク・ア・チャンス」にはバックコーラスにカナダのベテランバンド「ラッシュ」のゲディー・リーが参加しているが、ゲディーとは昔から親交が深く、1982年発売のラッシュのアルバム「Signals」の裏ジャケットにはクロマティの名前がある。なお、「テイク・ア・チャンス」にはこの他にもコーラスでフォリナールー・グラム、キーボードで元レインボーのデヴィッド・ローゼンサルがゲスト参加している。
  • 2005年、不良の集まる「東京都立クロマティ高等学校」を舞台とする映画魁!!クロマティ高校』公開を知り、「パブリシティ権の侵害だ」と主張し、公開中止を求め提訴。字幕でクロマティとは無関係であると表示するという条件で仮処分申請を取り下げた。しかし、名前の使用を許諾していないという理由で今後正式な民事訴訟を起こして争うとしている[2]。後に公開差し止め申請を取りやめたが、民事訴訟は取りやめない方針。他に名前を使われているランディ・バースオレステス・デストラーデはクロマティから訴えようと持ちかけられたが断っている。
  • 現在はスポーツグッズ販売会社に勤務。2012年10月23日放送の『ありえへん∞世界』ではラジオのDJをやっていると紹介された。

プレースタイル

打撃スタイル

極端なクラウチングスタイルのバッティングフォームが大きな特徴であった。日本でのキャリアを重ねたキャリア後期には通常のフォームに変化している。

パフォーマンス

常に風船ガムを噛み、ぷうっとふくらませて破裂させ、ひょうきんな印象を与えた。しばしば観客席の巨人ファンに向かって、「万歳三唱」をするようにと促すパフォーマンスを見せ、選手生活晩年には『バンザイコール』はおなじみのものとなった。テキサスヒットを打って出塁した際の塁上でしばしば、「ココが違う」とばかりに自分の頭部を指さすパフォーマンスを見せ、打たれたバッテリーの怒りを買った。

頭部死球退場の翌日に決勝本塁打

広島と優勝を争っていた1986年10月2日ヤクルトスワローズ戦(神宮球場)で、高野光から頭部に死球を受けて倒れ慶應義塾大学病院へ運ばれた。巨人は原辰徳も骨折で離脱しており優勝は絶望的と思われたが、病院を抜け出し、翌日の同ヤクルト戦にベンチ入りする。尾花高夫から代打満塁ホームランを放ち、ホームに到達した際泣きながら監督の王貞治[3]と抱き合い、中畑清は感激のあまりクロマティにキスをした[4]。ただしこの年の巨人は最終的に優勝を逃している。

乱闘事件

1987年6月11日の対中日ドラゴンズ戦(熊本藤崎台県営野球場)で、投手の宮下昌己から背中に死球を受けた際、帽子を取って謝るようジェスチャーも交えて要求したものの宮下が応じなかったため、マウンド上の宮下に駆け寄るやいなやその顔面に綺麗に右ストレートを入れる等暴行を加えたことにより、両軍入り乱れての大乱闘となった(クロマティは退場処分)。翌日のスポーツ新聞の一面を飾るなど現在でも有名な乱闘劇となっている。

クロマティと宮下はその後も数回程度会う機会はあったが会話をすることはなかった。その後、2007年6月17日に開催されたプロレス興行『ハッスル』にクロマティが参戦。上述の一件の縁から宮下も来場し、クロマティを応援した。

2013年1月21日に日本テレビ系で放送された「深イイ話&しゃべくり007 合体2時間SP」にゲスト出演。ここで宮下に会って謝罪したいとの意向を示し、番組内で宮下との再会が実現。お互いに笑顔で握手を交わし、四半世紀の時を経て"和解"となった[5]

2015年には3月14日にTBS系で放送された炎の体育会TVスペシャルの企画で「マスク・ド・ピッチャー」に扮した宮下と1打席勝負を行った。

敬遠の球をサヨナラ適時打

1990年6月2日の対広島東洋カープ戦で、二死二塁の場面で、金石昭人敬遠を図った投球を1ストライク1ボールのカウントから右中間に打ち外野手西田真二の頭上を越えるサヨナラ安打にした[1].

集中力と守備

晩年は加齢による衰えもあって、狭い守備範囲と緩慢な返球が問題視され、しばしばメディアにもとりあげられた。1987年の日本シリーズ第6戦では、2回裏にフライを捕球した後の返球が逸れ、二塁からタッグアップした清原和博のホームインを許している。また8回裏の秋山幸二のセンター前ヒットではヒットエンドランはかかっていなかったにもかかわらず、守備位置が深かったことや返球が緩かったこと、巨人の遊撃手は全員このような場面での中継プレーで打者走者の方を見るクセがあること(そのときは川相昌弘)も重なり、一塁走者の辻発彦をホームインさせている[6]。また、1989年にも、有田修三の投げた二塁への悪送球を緩慢にバックアップしていたら一塁走者の屋鋪要が一気にホームインした、というプレーがあった。

日本ではほとんどセンターを守っていたが、1000試合以上出場したメジャーリーグでは、一度もセンターでの起用はなかった(レフトが最多)。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1974 MON 8 20 17 2 3 0 0 0 3 0 1 0 0 0 3 0 0 3 0 .176 .300 .176 .476
1976 33 82 81 8 17 1 0 0 18 2 1 2 0 0 1 0 0 5 2 .210 .220 .222 .442
1977 155 662 620 64 175 41 7 5 245 50 10 3 2 3 33 4 3 40 15 .282 .320 .395 .715
1978 159 655 607 77 180 32 6 10 254 56 8 8 2 6 33 7 5 60 15 .297 .335 .418 .753
1979 158 710 659 84 181 46 5 8 261 46 8 7 6 6 38 1 19 78 11 .275 .330 .396 .726
1980 162 657 597 74 172 33 5 14 257 70 8 8 4 3 51 2 24 64 24 .288 .366 .430 .796
1981 99 400 358 41 109 19 2 6 150 42 2 3 0 3 39 0 12 27 8 .304 .388 .419 .807
1982 144 574 497 59 126 24 3 14 198 62 3 0 1 4 69 3 15 60 10 .254 .359 .398 .757
1983 120 410 360 37 100 26 2 3 139 43 8 3 1 5 43 1 7 48 11 .278 .361 .386 .748
1984 巨人 122 488 457 68 128 23 1 35 258 93 4 4 0 2 25 8 4 68 11 .280 .323 .565 .888
1985 119 524 482 77 149 34 1 32 281 112 4 2 0 8 33 1 1 51 18 .309 .349 .583 .932
1986 124 524 471 99 171 29 3 37 317 98 6 3 0 3 43 4 7 58 14 .363 .422 .673 1.095
1987 124 505 476 65 143 20 2 28 251 92 2 1 0 4 22 1 3 76 7 .300 .333 .527 .860
1988 49 201 186 31 62 8 0 10 100 36 1 1 0 2 11 2 2 21 5 .333 .373 .538 .911
1989 124 501 439 70 166 33 1 15 246 72 7 3 0 3 49 17 10 44 11 .378 .449 .560 1.009
1990 117 495 450 68 132 23 1 14 199 55 2 2 0 1 43 2 1 52 5 .293 .356 .442 .798
1991 KC 69 148 131 13 41 7 2 1 55 20 1 3 1 1 15 0 0 18 3 .313 .381 .420 .801
MLB:10年 1107 4318 3927 459 1104 229 32 61 1580 391 50 37 17 31 325 18 85 403 99 .281 .347 .402 .749
NPB:7年 779 3238 2961 478 951 170 9 171 1652 558 26 16 0 23 116 35 28 370 71 .321 .350 .558 .908
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

NPB

表彰

NPB

記録

NPB初記録
NPB節目の記録
  • 100本塁打:1986年9月26日、対中日ドラゴンズ24回戦(後楽園球場)、4回裏に小松辰雄から左中間へ逆転2ラン ※史上146人目
  • 150本塁打:1989年7月19日、対中日ドラゴンズ17回戦(ナゴヤ球場)、5回表に陳義信からソロ ※史上89人目

背番号

  • 49 (1974年 - 1991年)

脚注、出典

  1. ^ a b 巨人軍5000勝の記憶』p.66~67 ほか
  2. ^ クロマティ差し止め申請取り下げ http://www.zakzak.co.jp/gei/2005_07/g2005071609.html
  3. ^ 1984年から1988年まで巨人の監督であった王貞治を尊敬し、息子のミドルネームを「オー」と名付けている。
  4. ^ 当日のテレビ放送では、満塁になった時点で「王監督は試合前、きょうの試合で満塁になったら、クロウを代打で出して満塁ホームランを打ってもらうと言っていた」という予告ホームランめいた話題をアナウンサーが紹介し、そのとおりの結果となったことから、野球ファンにはより強烈な印象を与えるものとなった。
  5. ^ “大乱闘のクロマティ氏、宮下氏が“和解” 謝罪の来日で25年ぶりに会話”. 報知新聞. (2013年1月13日). http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20130113-OHT1T00006.htm 2013年1月13日閲覧。 
  6. ^ 巨人軍5000勝の記憶』では、「集中力が切れてしまうと、三流選手以下になる。もともと守備ではその傾向があったが、現実のものとなったのが(1987年の日本シリーズ#第6戦)である」と評されている(p.66~)。

参考文献

クロマティとロバート・ホワイティングの共著。

巨人軍5000勝の記憶読売新聞社ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。p.66~67

関連項目

外部リンク