10世紀

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千年紀: 1千年紀
世紀: 9世紀 - 10世紀 - 11世紀
十年紀: 900年代 910年代 920年代 930年代 940年代
950年代 960年代 970年代 980年代 990年代
顧閎中が描いた「韓煕載夜宴図(北京故宮博物館蔵)」。五代十国南唐の後主李煜時代の宮廷の優雅な様子がしのばれる。
スペインのコルドバメスキータの円柱の森。10世紀末までに歴代の後ウマイヤ朝カリフによって改築が続けられ今ある姿となった。

10世紀(じっせいき)とは、西暦901年から西暦1000年までの100年間を指す世紀1千年紀における最後の世紀である。この項目では、国際的な視点に基づいた10世紀について記載する。

できごと

昌泰の変で大宰府に流された菅原道真は怨霊として恐れられ北野天満宮の祭神となった(「北野天神縁起絵巻」)。
かな文字の誕生。日本独特の美意識の発展とともにかな文字が成立し、和様の書が生まれた。画像は万葉仮名から平仮名へと移行する段階の「草仮名」で書かれた「秋萩帖」で小野道風によるものと伝わる。
キリストから加冠される皇帝コンスタンティノス7世の象牙彫刻。この皇帝の治世に東ローマ帝国はマケドニア朝ルネサンスと呼ばれる文芸復興の時代を迎えた。
聖公ウラディーミル1世の洗礼。東ローマ皇女アンナとの結婚を期に洗礼を受けキリスト教(東方正教会)に改宗しロシア・ウクライナ史に大きな影響を与えた。
神聖ローマ皇帝の帝冠(ウィーンホーフブルク宮殿蔵)。オットー1世が皇帝となり以後代々のドイツ王が神聖ローマ皇帝位を占めることになった。
紀元1000年のヨーロッパ。新しい世紀の到来は期待と不安が混じったものだった。画像は950年代に描かれたスペインのサン・ミジャン修道院のベアトゥス『黙示録注解』写本エル・エスコリアル修道院蔵)。
マジャール人の定着。遊牧民族マジャール人もパンノニア平原に定着し、紀元1000年にはキリスト教を受容してハンガリー王国を成立させている。画像はハンガリー初代国王イシュトヴァーン1世がジュラの街を制圧したことを描く14世紀の年代記の挿絵。
アズハル大学。ファーティマ朝時代にカイロのアズハル・モスク付属大学として設置された世界で最も古い大学である。
サーマーン朝の発展。この王朝の時代に東方イスラム世界でのペルシア文化の復興が進んだ。画像はブハラにある中央アジア最古の建造物イスマーイール・サーマーニー廟
イェリング墳墓群。デンマークのハーラル青歯王がキリスト教への改宗したことを記念してルーン文字で刻まれた石碑である。
チョーラ朝芸術の最盛期。画像はこの時代を代表する「舞踏の王」ナタラージャとしてのシヴァ神像(ロサンゼルス・カウンティ美術館蔵)。

900年代

910年代

920年代

930年代

940年代

950年代

960年代

970年代

980年代

990年代

1000年代

フィクションのできごと

人物

東アジア

  • 崔胤(? - 904年) - 唐末の宰相・李茂貞から皇帝昭宗奪還のため朱全忠と結び宦官勢力を殲滅・後年朱全忠に殺される
  • 裴枢(841年 - 905年) - 唐末の宰相・朱全忠により他の高官とともに白馬で虐殺される(白馬の禍)
  • 李振(? - 923年) - 唐末五代の政治家・朱全忠の腹心・唐の昭宗を弑逆し朱全忠に白馬での高官殺害を進言する
  • 李茂貞856年 - 924年) - 唐末五代の節度使・皇帝昭宗を擁して鳳翔遷都を企てるも挫折・唐滅亡後は独立

五代十国

北宋

契丹

朝鮮

日本

イスラム世界

サーマーン朝

カラハン朝

ガズナ朝

ブワイフ朝

ファーティマ朝

後ウマイヤ朝

学者・詩人

南アジア

キリスト教世界

フランス王国

神聖ローマ帝国

イタリア

東ローマ帝国

東欧

北欧

アイスランド

脚注

注釈

出典

関連項目