日本国憲法

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日本国憲法
日本国政府国章(準)
日本の法令
通称・略称 現行憲法
昭和憲法 など
種類 憲法
効力 現行法
成立 1946年昭和21年)10月29日
枢密院可決、天皇裁可)
公布 1946年(昭和21年)11月3日
施行 1947年(昭和22年)5月3日
主な内容 個人の尊厳
国民主権
基本的人権の尊重
平和主義
国民権利義務
象徴天皇制
日本国政府など
関連法令 大日本帝国憲法
皇室典範
国会法
内閣法
裁判所法
人身保護法
国際法
国籍法
日本国憲法の改正手続に関する法律
公職選挙法
政党助成法
宗教法人法など
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(にほんこくけんぽう、にっぽんこくけんぽう、旧字体:日本國憲󠄁法、: Constitution of Japan)は、現在の日本国家形態および統治組織作用を規定している憲法[1]

「日本の民主的変革の基本原理」を提供する憲法として1946年昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された[1]日本国憲法第10章により、同憲法は日本の体系における最高法規に位置付けられる。

昭和憲法(しょうわけんぽう)、あるいは単に現行憲法(げんこうけんぽう)とも呼ばれる。

概要

日本国憲法原本「上諭」(1ページ目)
日本国憲法原本「御名御璽(ぎょめいぎょじ)と大臣の副署」(2ページ目)
日本国憲法原本「大臣の副署」「前文」(3ページ目)

欽定憲法に対しては民定憲法として分類され[2]、社会主義憲法に対してはブルジョア憲法資本主義憲法)として分類されている[3][4]。他の多くの国の憲法と同じように、硬性憲法であり[5]、人権規定と統治規定を含む。また象徴天皇制や間接民主制、権力分立制、地方自治制度、国務大臣の文民規定が盛り込まれ、加えて戦争の放棄、刑事手続(犯罪捜査・裁判の手続)についての詳細な規定等もなされている。

1945年(昭和20年)に、ポツダム宣言を受諾して連合国に対し降伏した日本政府は、そこに要求された「日本軍無条件降伏」「日本の民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権の尊重」「平和政治」「国民の自由意思による政治形態の決定」などにより、事実上憲法改正の法的義務を負うことになった。[要出典]

GHQは、占領以来半年、日本の天皇制がいかに根強いものであるかを知り尽くしており、もし天皇制を廃止して共和制を実施したら大混乱をきたし、アメリカの占領統治が収拾不能に陥ることは火を観るより明らかであると認識していたが、ソ連1946年2月26日に第一回総会の開会が予定されていた極東委員会において、日本に共和制を布くことを決定させて、日本を大混乱に陥れ、それに乗じて北海道侵入を敢行しようと策動し、ソ連、中国フィリピンオーストラリアニュージーランドなどによって支持されそうな形勢が現れたという情報をつかんだ[要出典]。GHQはこれを阻止するために、先手を打って日本の憲法を早急に改正し、天皇の権能を全面的に剥奪して、極東委員会に対しては、日本の民主化は完全に終わり、あえて共和制を布く必要はないとの了解を求め、他方、日本国民に対しては、象徴天皇の名称を憲法に残すことによって、天皇制は存続され、日本の国体は変革されない、と納得させる以外に手はないとの結論に達した[6]

マッカーサー元帥の命令によってわずか1週間で作成された英文の民政局草案を骨子として、連合国軍占領中連合国軍最高司令官総司令部の監督の下で、徹夜して1日半で「憲法改正草案要綱」を作成した[7]。民政局草案を起草したのは、民政局長のコートニー・ホイットニーと民政局員のマイロ・ラウエルを中心としたアメリカ人スタッフである[8][9]

その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、枢密院10月29日に新憲法案を可決、改正が成立した。

極東委員会は1946年10月17日、「日本の新憲法の再検討に関する規定」の政策決定を採択していたが、吉田内閣及び昭和天皇は1946年(昭和21年)11月3日、公布文の上諭を付したうえで日本国憲法を公布した[10]。上諭文は10月29日の閣議で決定し、10月31日昼に吉田総理が上奏し裁可を得た。

朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。[11]

同憲法は大日本帝国憲法と異なり、内閣は憲法・法律の規定を実施するための施行令(政令)を制定することが規定されていた。

〔内閣の職務権限〕
第七十三条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。…
六 この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。…

新憲法は第100条の規定により、公布から6か月後の翌年1947年(昭和22年)5月3日に施行された[7]

個人の尊厳という日本国憲法の目的を達成するため国民主権の原則を採用し、国民主権に基づいて象徴天皇制を定め、さらに基本的人権の尊重を掲げて各種の憲法上の権利を保障し、戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認という平和主義を定める。また国会内閣裁判所三権分立の国家の統治機構と基本的秩序を定めている。「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つは、日本国憲法を特徴付ける三大要素と呼ばれることもある[12][7]

2017年現在、現行憲法としては世界で最も長い期間改正されていない憲法である[13][注釈 1]。2004年(平成16年)10月3日には、施行期間が20973日に達し大日本帝国憲法の施行期間(20972日)を追い抜いた。日本国憲法は、当用漢字表現代かなづかいの告示より前に公布されたもので、原文の漢字表記は当用漢字以前の旧字体であり、仮名遣いは歴史的仮名遣である。

原本は国立公文書館に保管されており、不定期に公開されている[14]

日本国憲法の理念・基本原理

日本国憲法の理念

日本国憲法の三つの基本原理(詳細後述)の根底には、「個人の尊厳」(第13条)の理念があるとする学説がある[15]

樋口陽一の1992年の著述では、ジョン・ロックの思想(国民の信託による国政)では人権思想の根もとには個人の尊厳があり、ロックの思想によれば日本国憲法の三大原理の根底に個人の尊厳の理念がある、とされている。
また、芦部信喜の2007年の著述では、国民主権と基本的人権はともに「人間の尊厳」という最も根本的な原理に由来する、とされている[16]
宮澤俊義は、個人の尊厳を基本原理として三大原理を示した(詳細後述)。

日本国憲法の三大原理と目的

日本国憲法には基本的人権の尊重・国民主権(民主主義)・平和主義の三つの基本原理[17]日本国憲法の三大原理)があるとする学説がある。この説の起こりは、制定された日本国憲法に対して宮澤が理論的・体系的な基礎づけを考案したことである。宮澤は日本国憲法の基本原理を「個人の尊厳」に求め、そこから導出される原理として、「基本的人権尊重」、「国民主権」、「平和国家」を示した。宮沢のこの考案は、日本のその後の憲法学の礎となった[18]

また宮澤は、日本国憲法の目的についても述べている。宮澤の1947年の著述によると、日本国憲法は、ポツダム宣言の条項を履行し、民主政治の確立および平和国家の建設を行うことを、その目的とする、とされている[19]
宮澤の1959年の著述では、個人の尊厳については、第13条の個人の尊重と同意であり、個人主義の原理を表現しており、基本的人権の概念はこの個人主義に立脚する、とされている[20]

平和主義(戦争放棄)

平和主義は、自由主義と民主主義という二つの重要な理念とともに、日本国憲法の理念を構成する。平和主義は、平和に高い価値をおき、その維持と擁護に最大の努力を払うことをいう。平たくいえば、「平和を大切にすること」である。[要出典]

平和主義の内容は、

  1. 人権 平和的生存権の権利性 - ただし、判例及び有力説は、平和的生存権の権利性を否定する。
  2. 統治
    1. 戦争の放棄 9条
    2. 戦力の不保持 9条
    3. 交戦権の否認 9条
    4. 国務大臣の文民性 66条2項

とされる。[要出典]

平和状態が国民生活基盤において重要であることについてほとんど争いはない。むしろ、その平和な状態を国際秩序においていかにして確保するかという点で、激しい論争がある。平和主義は、多くの国で採用されている国際協調主義の一つと位置づけることができる。深刻な被害をもたらした第一次世界大戦後、自由主義・民主主義と結びつき、国民生活の基盤としての平和主義が理念として発展した。[要出典]

しかし第二次世界大戦後の日本では歴史的経緯をふまえ、日本国憲法前文および9条に強く示されるように、国際協調主義を超えた平和主義がめざされてきたと指摘されることもある。[要出典]

日本国憲法は9条1項で、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と謳っている。さらに同条2項では、1項の目的を達するために「陸海空軍その他の戦力」を保持しないとし、「国の交戦権」を認めないとしている。

憲法9条の解釈について学説には、「国際紛争を解決する手段」ではない戦争というものはありえず憲法9条第1項で全ての戦争が放棄されていると解釈する立場(峻別不能説)[21]、憲法9条第1項の規定は「国際紛争を解決する手段」としての戦争放棄を定めたもので自衛戦争までは放棄されていないが、憲法9条第2項で戦力の不保持と交戦権の否認が定められた結果として全ての戦争が放棄されたと解釈する立場(遂行不能説)[22]、憲法9条第1項の規定は「国際紛争を解決する手段」としての戦争放棄を定めたものであり自衛戦争までは放棄されておらず、憲法9条第2項においても自衛戦争及び自衛のための戦力は放棄されていないとする立場(限定放棄説)[23]がある[24]

このうち限定放棄説は憲法9条は自衛戦争を放棄しておらず自衛戦争のための「戦力」も保持しうると解釈する[25]。これに対して政府見解は憲法9条第2項は「戦力」の保持を禁止しているという解釈のもと、これは自衛のための必要最小限度の実力を保持することを禁止する趣旨のものではなく、これを超える実力を保持することを禁止する趣旨であると解釈している[26][27][28]。また、政府見解は交戦権を伴う自衛戦争と個別的自衛権に基づく自衛行動とは別概念で後者について憲法上許容されていると解釈しており[29][30]、平成11年の参議院予算委員会において大森政輔内閣法制局長官(当時)は「個別的自衛権に基づく我が国を防衛するために必要最小限度の自衛行動というものは憲法が否定していないということを申し上げたのでございまして、いわゆる戦争の三分類による自衛戦争ができるんだということを申し上げたわけではないと。自衛戦争という場合には当然交戦権が伴うんでしょうけれども、先ほど我が国がなし得ると申し上げましたのは、自衛戦争という意味よりももう少し縮減された、あるいは次元の異なる個別的自衛権に基づく自衛行動というふうにお聞き取りいただきたいと思います」[31]と述べている。また、平成11年の参議院外交防衛委員会において秋山收内閣法制局第一部長(当時)は「自衛戦争の際の交戦権というのも、自衛戦争におけるこのような意味の交戦権というふうに考えています。このような交戦権は、憲法九条二項で認めないものと書かれているところでございます。一方、自衛行動と申しますのは、我が国が憲法九条のもとで許容される自衛権の行使として行う武力の行使をその内容とするものでございまして、これは外国からの急迫不正の武力攻撃に対して、ほかに有効、適切な手段がない場合に、これを排除するために必要最小限の範囲内で行われる実力行使でございます」[32]と述べている。

平和主義という言葉は多義的である。法を離れた個人の信条などの文脈における平和主義は(一切の)争いを好まない態度を意味することが多い。一方で、憲法理念としての平和主義は、平和に価値をおき、その維持と擁護に政府が努力を払うことを意味することが多い。日本国憲法における平和主義は、通常の憲法理念としての平和主義に加えて、戦力の放棄が平和につながるとする絶対平和主義として理解されることがある。これは、第二次世界大戦での敗戦と疲弊の記憶、終戦後の平和を求める国内世論、形式文理上、憲法前文と第9条が一切の戦力・武力行使を放棄したと解釈できること、第二次世界大戦以降日本が武力紛争に直接巻き込まれることがなかったことによって支えられた、世界的にも希有な平和主義だとされる。この絶対平和主義については、安全保障の観点がないのではないかという意見がある一方で、世界に先んじて日本が絶対平和主義の旗振り役となり、率先して世界を非武装の方向に変えていこうと努力することが、より持続可能な安全保障であるとの意見がある。なお、これらとは別に自衛権は自明の理であり、自衛権の行使は戦争には当たらないとする意見がある。[要出典]

上記の議論から日本政府が編成する防衛組織である自衛隊は海外からは軍隊とみなされており憲法違反とする学説もあるが、日本政府の見解では自衛隊は戦力には該当せず憲法上許容されているとしている[33]。2017年5月現在、最高裁判所による憲法判断は下されていない

大日本帝国憲法との比較

天皇

大日本帝国憲法では、天皇は「国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)」する存在(第4条)であって、神聖不可侵な存在とされた(第3条)。しかしこれらの権限は国務大臣による輔弼(advice、助言)に基づき、国務大臣による副署がなければ法的効力を有しない(第55条)。

日本国憲法(現行憲法)では、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(象徴天皇制第1条)であり、「主権の存する日本国民の総意に基く」地位とされた(国民主権、同条)。また、天皇は憲法に定める国事行為のみを行い、国政に関する権能を有しないものとされた(第4条第1項)。これらの権限は内閣の助言(advice)に基づき行使され、内閣の承認を必要とする(第3条)。なお、現行憲法には日本の元首に関する規定はない。

天皇の持つ権限について新旧憲法で共通している点は、天皇が独断で命令を出したりすることは出来ず内閣の構成員である大臣のアドバイスに基づく点、大臣の了承がなければならない点である。

一方異なる点は、アドバイスと了承を伴う天皇の行為が国政に関わる行為かどうかである。どの大臣がどのようなことを天皇にアドバイスするのかという要素は新旧憲法両方において書かれていないが、新憲法では国政に関わる行為に天皇がかかわらない為に問題にならないこの曖昧さが、旧憲法では極めて重大な大臣同士の権限の衝突を引き起こす上に、誰が国政に責任を追うのかしばしば曖昧になることがあった。これらの権限の衝突を調停する仕組みは憲法の外に置かれた機関(憲法外機関、内大臣枢密院など)に委ねられ、憲法外の調停機関を少数の人間が牛耳ることにより思うままに独裁的な国政を行うことさえ出来た[34]

立法府

帝国憲法においては、天皇の立法権協賛機関として、衆議院貴族院からなる帝国議会が置かれていた。

現行憲法では「国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関」たる国会が設置されている。

行政府

旧憲法には内閣および内閣総理大臣の規定は置かれず、これらは勅令である内閣官制に基づいて設置された。憲法では国務各大臣が天皇を輔弼(ほひつ)し、天皇に対してのみ責任を負うものとされた(第55条第1項)。内閣総理大臣および国務大臣は天皇が任免するものとされたが(第10条)、実際には元老重臣内大臣など、憲法外の機関が人選した。

現憲法では、内閣(第65条等)および内閣総理大臣(第6条第1項等)の規定が置かれた。天皇は国会の指名に基づいて国会議員の中から内閣総理大臣を任命し(第6条第1項)、内閣総理大臣が国務大臣を任免して内閣を組織し(第68条、第66条第1項)、内閣は行政権の行使について国会に対し連帯して責任を負う(第66条第3項)。内閣と国会(衆議院および参議院)との関係については様々に説明されるものの、議院内閣制を採用しているものと理解されている[35](第66条3項、第67条1項、第68条1項、第69条第70条第63条)。また内閣が外交を処理する権限等を持つことから、学説の多くは内閣あるいは内閣総理大臣を元首とする[36]

国務大臣の任命資格

旧憲法では、国務大臣に任命される資格(任命資格)については規定されていない(第55条第1項第10条参照)。なお、時期により変遷があるものの、勅令により、軍部大臣(陸軍大臣海軍大臣)の任命資格は現役または予備役の武官(軍人)に限られた(軍部大臣現役武官制を参照)。

現憲法では、国務大臣を「文民」に限った(第66条第2項)。「文民」の解釈については諸説あるものの、「旧職業軍人の経歴を有する者であって、軍国主義思想に深く染まっていると考えられるものは、文民ではない」と解されている[37]。この趣旨は、軍部大臣現役武官制が軍による政治への介入を招き、軍の統制を困難にした反省から、文民統制を明文化することにある。なお、現職自衛官は文民に含まれないものの、元自衛官は文民に含まれると解されている[38]。また、国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばなければならないとされた(第68条第1項但し書き)。

司法府

旧憲法では、裁判所は天皇の名により裁判を行うものとされ、裁判所構成法などにより最高の司法機関として位置付けられた大審院が存在した。

現憲法においては司法権の独立および裁判官の身分保障が明記され、憲法により設置される機関としてあらたに最高裁判所がもうけられた。

日本国憲法の構成

日本国憲法の本文は、11章103条からなる。大別して、人権規定、統治規定、憲法保障の三つからなる。人権規定とは、国民の権利などを定めた規定であり、主に「第3章 国民の権利及び義務」にまとめられている。このことから、第3章は、別名「人権カタログ」と呼ばれている。統治規定とは、国家の統治組織などを定めた規定であり、「第1章 天皇」「第4章 国会」「第5章 内閣」「第6章 司法」「第7章 財政」「第8章 地方自治」など多岐にわたる。憲法保障とは、憲法秩序の存続や安定を保つことであり、そのための規定や制度としては、憲法の最高法規性が宣言され(98条)、公務員に憲法尊重擁護義務が課され(99条)、憲法改正の要件を定めて硬性憲法とする(96条)ほか、司法審査制(81条)や権力分立制なども挙げられる。

日本国憲法は、本文の他に、上諭と前文が備わっている。

上諭とは、単なる公布文であって憲法の構成内容ではない。しかし、制定法理との関係で問題となり、注目される。この上諭には、「日本国民の総意に基いて」という国民主権的文言と、天皇主権の帝国憲法の改正手続が並列して記されているからである(下記「制定法理」参照)。

前文とは、法令の条項に先立っておかれる文章であって、その法令の趣旨・目的・理念などを明示するものである。日本国憲法の前文には、国民主権基本的人権の尊重、平和主義という日本国憲法の三大原理が示されている。特に、大戦直後という歴史的背景から、平和主義が強調され、これを根拠に個人の人権として平和的生存権を導く見解もある。もっとも、権利の内容と主体がはっきりしないため、理念的な権利としてはともかく、裁判で主張できるような具体的な法的権利性を前文から直接に導き出すことは困難であると一般的に考えられている(参照:恵庭事件)。

条章構成は以下の通り。全文はウィキソースを参照のこと。各条章の詳細については条章別の記事を参照のこと。

日本国憲法下の統治機構図

人権規定

人権規定は、主に第3章にまとめられている。人権は、包括的自由権、法の下の平等、精神的自由、経済的自由、人身の自由、受益権、社会権、参政権などに大別される。

包括的自由権と法の下の平等

まず包括的な人権規定、包括的自由権である生命・自由・幸福追求権13条)がある。プライバシーの権利、自己決定権などの新しい人権は、同条により保障される。また、14条では法の下の平等が定められる。同条2項は貴族制度の禁止と栄典に伴う特権付与の禁止を定める。同条のほか、24条では両性の平等が、44条では選挙人資格などの平等が定められている。

精神的自由

精神的自由のうち、内面の自由としては、思想・良心の自由19条)、信教の自由20条)、学問の自由23条)がある。20条1項(後段)及び3項は89条と共に、政教分離原則を定める。学問の自由からは、大学の自治および学校の自治が導き出される。表現の自由21条に定められる。同条では、明文にある集会の自由結社の自由・出版の自由や言論の自由のほか、知る権利報道の自由・取材の自由、選挙運動の自由など、重要な人権が保障されている。また、同条2項では、検閲の禁止と通信の秘密が保障されている。

経済的自由

経済的自由としては、まず22条1項では、職業選択の自由を保障している。ここからは営業の自由が導き出される。また2項と共に、居住移転の自由、外国移住の自由、海外渡航の自由、国籍離脱の自由も保障されている。29条では、財産権が保障されている。

人身の自由

人身の自由は、まず18条で、奴隷的拘束からの自由が定められる。31条では適正手続の保障が規定される。刑事手続に関する詳細な規定は、日本国憲法の特徴とされる。これには、不当な身柄拘束からの自由(34条)、住居等への不可侵(35条)など被疑者の権利と、公務員による拷問及び残虐な刑罰の禁止(36条)、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利、証人審問権・喚問権、弁護人依頼権37条)、自己負罪拒否特権38条黙秘権)、刑罰不遡及39条)、二重の危険の禁止(一事不再理39条)など被告人の権利がある。

大日本帝国憲法体制からの経験則として、英米法の経験則が導入された経緯がある。大日本帝国憲法では、法律によらなければ、逮捕・監禁・審問・処罰を受けないと定めていたが、実際には警察による拷問などが行われ、人身の自由の保障は不十分だった。

なお、人身の自由に関する憲法直接付属法は人身保護法(昭和23年法律第199号)である。この人身保護法に関する細則は、最高裁判所規則である、* 人身保護規則 (昭和23年最高裁判所規則第22号)に定められる。同法及び同規則によれば、人身保護事件の審理は、原則として民事訴訟の手続で扱われる(規則33条、46条)。人身保護法は、人身の自由を拘束(人身の自由を奪ったり制限すること) をする者を、公務員・公的機関だけに限定していない。

受益権

受益権とは国務請求権ともいう。国民が国家に対し、行為や給付、制度の整備などを要求する権利である。受益権には、請願権16条)、裁判を受ける権利32条)、国家賠償請求権(17条)、刑事補償請求権(40条)などがある。

社会権

社会権とは、個人の生存・教育・維持発展などに関する給付を、国家に対し要求する権利である。社会権には、生存権25条)、教育を受ける権利26条)、勤労の権利、労働基本権27条28条労働三権)などがある。

参政権

参政権とは、国民が政治に参与する権利である。15条で、選挙権被選挙権国民投票権などの参政権を保障している。選挙権は、普通選挙平等選挙自由選挙秘密選挙直接選挙の五つの要件(原則)を備えなければならない。普通選挙とは財力・教育などを選挙権の要件としない選挙をいい、15条3項44条で保障される。平等選挙とは選挙権の価値は平等として一人一票を原則とする選挙をいい、14条1項44条で保障され、投票価値の平等も保障されると解釈される。自由選挙とは投票を罰則などの制裁によって義務づけない選挙をいい、15条1項などにより保障されると解されている。秘密選挙とは投票内容を秘密にする選挙をいい、15条4項で保障される。直接選挙とは選挙人が公務員を直接に選ぶ選挙をいい、国政選挙では直接これを保障する条項はないが、地方選挙では93条2項で保障する。国民投票権は、憲法改正についてのみ認めている(96条1項)。地方自治特別法に関する住民投票権や、最高裁判所裁判官国民審査もこの権利の一種とされる。

統治規定

日本国憲法は権力分立制(三権分立制)を採る。権力分立とは、国家の諸作用を性質に応じて区別し、それを異なる機関に分離し、相互に抑制均衡を保つことで権力の一極集中と恣意的な行使を防止するものである。権力分立制は、自由主義をその背後の原理とする。通常、立法権行政権司法権の権力に区別する。日本国憲法では、立法権は国会(41条)に、行政権は内閣(65条)に、司法権は裁判所(76条)に配される。

日本国憲法は、第1章に天皇に関する事項を定める。天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と規定される(1条)。天皇は、内閣の助言と承認により、国民のため、憲法改正、法律、政令及び条約の公布(7条1号)、国会の召集(2号)、衆議院の解散(3号)、官吏の任免の認証(5号)、栄典の授与(7号)、外交文書の認証(8号)などの国事行為を行う(7条)。また、国会の指名に基づいて内閣総理大臣を任命(6条1項)し、内閣の指名に基づいて最高裁判所長官を任命する(同条2項)(6条)。

国会

国会は国権の最高機関とされ、唯一の立法機関とされる(41条)。国会は衆議院参議院の二院からなる(42条)。二院のうちでは、衆議院の優越が定められている(予算先議権:60条1項、内閣不信任決議権:69条、決議の優越:59条2項60条2項61条67条2項)。それ以外は対等であり、法律案は、両議院で可決したときに法律となり(59条1項)、予算案・条約の承認も国会の権能である(60条61条)。また、両議院には各々、内部規律に関する規則制定権がある(58条2項)。

他の二権との関係では、まず、内閣に対しては、国会に内閣総理大臣の指名権があり(67条)、衆議院には内閣不信任決議権がある(69条)。また、院の権能である国政調査権62条)を行使して、内閣の行う行政事項に関して調査監視する。裁判所に対しては、裁判官弾劾裁判所を設置して、非行のあった裁判官を弾劾する(64条)。もっとも、裁判官弾劾裁判所自体は国会から独立した機関である。また、裁判官は国会が作った法律に当然に拘束される(76条3項)。

内閣

内閣は行政権を担う(65条)。内閣は、内閣総理大臣国務大臣からなる合議制の機関である(66条)。内閣の首長たる内閣総理大臣は国会議員の中から国会により指名され(67条1項)、天皇に任命される(6条1項)。国務大臣は内閣総理大臣が任命するが、その過半数を国会議員の中から選ばなければならない(68条1項)。内閣は、一般行政事務を行うほか、条約を締結し、予算案を作成し、政令を制定するなどの権限を行使する(73条)。また、内閣は、天皇の国事行為に対し、助言と承認を行う(7条)。

内閣は、天皇への助言と承認を通して衆議院を解散することができる(7条3号)。内閣は、最高裁判所長官を指名し(6条2項)、その他の下級裁判所裁判官を最高裁判所が作成した名簿より任命する(79条1項)。

裁判所

全て司法権は、裁判所に属する。裁判所は最高裁判所および下級裁判所からなる。特別裁判所の設置は禁じられている。最高裁判所長官は内閣の指名に基づき、天皇が任命する。その他の裁判官は、内閣が任命する。特に、下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿により、内閣が任命する。最高裁判所の裁判官は、任命後初めて行われる衆議院議員総選挙とその後10年ごとの衆議院議員総選挙において、国民審査を受ける。下級裁判所の裁判官は、任期を10年とし、再任されることができる。裁判所には、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則制定権がある(77条1項)。

裁判所は、法令審査権(違憲立法審査権、違憲審査権)を行使する(81条)。同条は、最高裁判所を「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所」と規定するが、これは下級裁判所も法令審査権を行使しうることを示している(判例もそれを示している。「警察予備隊違憲訴訟」昭和27年10月8日大法廷判決昭和27年(マ)第23号日本国憲法に違反する行政処分取消訴訟)。この法令審査権は、裁判所が裁判を行うにあたって適用する法令が違憲であるか否か判断する権限とされる(附随的違憲審査制)。ドイツの憲法裁判所やイタリア、オーストリア等の裁判所に見られる、具体的な事件から離れて抽象的にある法令が違憲であるか否か審査する権限(抽象的違憲審査制)は、日本国憲法に定められていない。

財政・地方自治

第7章は財政に関する事項を定める。国の財政を処理する権限は、国会の議決に基づいて行使される(財政国会中心主義、83条)。また、租税法律主義84条)、内閣の予算案作成権(86条)、国の収入支出の決算と会計検査院に関する事項などが定められる(90条)。なお、皇室経済に関しては、皇室費用の予算計上(88条)は第7章に、皇室への財産譲り渡し、皇室の財産譲り受け、もしくは賜与に関する国会の議決は第1章の8条に定める。

第8章は地方自治に関する事項を定める。地方自治は、住民自治と団体自治をその本旨とする(92条)。地方公共団体には、その長(首長)と議会が置かれ、住民は首長と議員を直接選挙で選出する(93条)。地方公共団体は、その財産を管理し、行政を執行する権能を有するほか、法律の範囲内で条例を制定する権限を有する(94条)。また、一の地方公共団体のみに適用される特別法(地方自治特別法)は、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は制定することができない(95条)。

憲法保障

憲法保障とは、憲法秩序の存続や安定を保つことである。そのための規定・制度としては、まず憲法の最高法規性が挙げられる。98条は、明文で憲法の最高法規性を定める。この形式的な最高法規性の定めを、97条の最高法規性の実質的根拠と、96条の硬性憲法の定めが支える。また、99条は公務員に憲法尊重擁護義務を課している。さらに、権力分立制や違憲審査制も憲法保障を図る制度である。

憲法改正

憲法改正手続は、96条で定められている。まず、憲法改正案は、「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」により「国会」が発議する。この発議された憲法改正案を国民に提案し、国民の承認を経なければならない。この承認には、「特別の国民投票又は国会の定める選挙」の際に行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。この憲法改正案が、国民の承認を経た後、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

この改正手続を定める国民投票法(正式名称・日本国憲法の改正手続に関する法律)が、2007年5月14日、可決・成立した。その他の論点については、憲法改正論議の項目を参照のこと。

制定史

大日本帝国憲法

明治維新により近世の幕藩体制・封建制社会から復古的な天皇制・国民国家へと脱皮した日本国は、1889年(明治22年)大日本帝国憲法の制定により、近代市民国家へと変貌した。大日本帝国憲法は神権的な天皇制と古典的自由主義・民主主義理念が共存し、国家の統治権が天皇にあることとともに国民(臣民)の権利が定められ、議会政治の道が開かれた。

大正時代には、都市中間層の政治的自覚を背景に、明治以来の藩閥・官僚政治に反対して護憲運動・普通選挙運動が展開された。民主主義(民本主義)、自由主義、社会主義の思想が高揚、帝国議会に基礎を持つ政党内閣誕生に結実した。政党内閣は、制限選挙における投票条件を徐々に緩和、1925年(大正14年)に25歳以上の男子による普通選挙を実現させた。この時期、大日本帝国憲法は民主的に運用され、日本は実質的に議会制民主主義国であったと指摘される(「大正デモクラシー」も参照)。

大日本帝国憲法の第11条に、天皇の大権として陸海軍の統帥権を定めた規定があった。この規定は、天皇の直接的な軍の統帥を念頭においた規定ではない。実質的には、軍の統帥を政府の管轄から独立させ、陸海軍当局の管轄としたところに意味があった。しかしこの条項の解釈をめぐり、ロンドン海軍軍縮会議締結の際にいわゆる統帥権干犯問題が起き、政府の介入が天皇の大権を侵すものとの主張がなされた。この後、政府・議会の軍管理が徹底されず、民主的基盤を持たない軍が国政に強く関与することになる。1937年(昭和12年)には盧溝橋での部隊衝突をきっかけとする日中戦争支那事変)が勃発し、1941年(昭和16年)には太平洋戦争大東亜戦争)に突入、戦時体制下において軍部主導の国家運営がなされた。

大日本帝国憲法を、日本降伏の頃、アメリカ政府は「プロシアの専制政治を父に、イギリスの議会政治を母にもつ、両性具有の生き物」と評している[39]。法体系は、その成立の歴史によって、ドイツ・フランスに代表される(ヨーロッパ)大陸法と、イギリス・アメリカに代表されるコモン・ローとも呼ばれる英米法に二大別するのが、一般的だからである[40][41]

日本国憲法の制定

ポツダム宣言の受諾と占領統治

1945年(昭和20年)7月、米英ソ三国首脳(アメリカのトルーマン大統領・イギリスのチャーチル首相・ソ連スターリン共産党書記長)は、第二次世界大戦の戦後処理について協議するため、ドイツベルリン郊外・ポツダムで会談を行った(ポツダム会談)。この席で三者は、「日本に降伏の機会を与える」ための降伏条件を定め、中華民国蔣介石国民政府主席の同意を得て、同月26日、米英中の三国首脳の名でこれを発表した(「ポツダム宣言」)[42]。この「ポツダム宣言」のうち、特に憲法に関する点は次の点である。

  • 軍国主義を排除すること。
六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ
十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ

日本政府は、先ずこれを「黙殺」すると発表し、態度を留保した。アメリカ軍は翌8月6日に広島同9日に長崎原爆を投下し、ソ連軍は8月8日に対日参戦した。ここに至って日本政府は戦争終結を決意し、8月10日に連合国にポツダム宣言を受諾すると伝達した。日本政府はこの際、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾」するとの条件を付した(8月10日付「三国宣言受諾ニ関スル件」[43])。これは、受諾はするものの、天皇を中心とする政治体制は維持する、いわゆる国体護持を条件とすることを意味した。

連合国は、この申し入れに対して、翌11日に回答を伝えた。この回答は、アメリカの国務長官であったジェームズ・F・バーンズの名を取って「バーンズ回答」と呼ばれる。この「バーンズ回答」で連合国は、次の2点を明示した。[44]

  1. 降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のためその必要と認める措置を執る「連合国軍最高司令官」 (SCAP) に従属する (subject to)。
    From the moment of surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.
  2. 日本の最終的な統治形態は、ポツダム宣言に遵い日本国国民の自由に表明する意思に依り決定される。
    The ultimate form of Government of Japan shall in accordance with the Potsdam Declaration be established by the freely expressed will of the Japanese people.

日本政府はこの回答を受け取り、御前会議により協議を続けた結果、8月14日にポツダム宣言の受諾を決定し、連合国に通告した。ポツダム宣言の受諾は、日本国民に対しては、翌15日正午からのラジオを通じて昭和天皇が「大東亜戦争終結ノ詔書」を読み上げる「玉音放送」で知らせた。この詔書の中では、「国体ヲ護持シ得」たとしている。9月2日、日本の政府全権が、横浜港のアメリカ戦艦ミズーリ号上で、降伏文書に署名した。

降伏により、日本は独立国としての主権を事実上失い、その統治権は連合国軍最高司令官の制約の下に置かれた。連合国軍最高司令官は、「ポツダム宣言」を実施するために必要な措置を執ることができるものとされた。8月28日、連合国軍先遣部隊が厚木飛行場に到着し、同30日には連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に到着した。マッカーサーは、直ちに総司令部 (GHQ) を設置し、日本に対する占領統治を開始した。この占領統治は、原則として、日本の既存統治機構を通じて間接的に統治する方式を採り、例外的に特に必要な場合にのみ、直接統治を行うものとした。

日本政府および日本国民の憲法改正動向

降伏直後から、日本政府部内では、いずれ連合国側から、大日本帝国憲法の改正が求められるであろうことを予想していた。しかし、憲法改正は緊急の課題であるとは考えられていなかった[45]

日本政府によって、それが緊急の課題であると捉えられたのは、1945年(昭和20年)10月4日のことである。この日、マッカーサーは、東久邇宮内閣国務大臣であった近衛文麿に、憲法改正を示唆した[46]

なお、この日、総司令部は、治安維持法の廃止、政治犯の即時釈放、天皇制批判の自由化、思想警察の全廃など、いわゆる「自由の指令」の実施を日本政府に命じた。翌5日、東久邇宮内閣は、この指令を実行できないとして総辞職し、9日に幣原喜重郎内閣が成立する。

同11日、幣原首相が新任の挨拶のためマッカーサーを訪ねた際にも、マッカーサーから口頭で「憲法ノ自由主義化」の必要を指摘された[47][注釈 2]

先にマッカーサーから憲法改正の示唆を受けた近衛(東久邇宮内閣の総辞職後は内大臣府御用掛)は、政治学者の高木八尺、憲法学者の佐々木惣一(10月13日内大臣府御用掛に任命)、ジャーナリストの松本重治らとともに、憲法改正の調査を開始した。10月8日には、近衛は高木らとともに総司令部政治顧問のジョージ・アチソンと会談して助言を請い、「個人的で非公式なコメント」として12項目に及ぶ憲法の問題点の指摘や改正の指示を受けた。また、近衛らの作業と並行して、幣原内閣は、松本烝治・国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置して、憲法改正の調査研究を開始した[48]

こうして、内閣と内大臣府の双方で、それぞれ憲法改正の調査活動が進められることとなった。このうち、近衛らの調査に対しては、近衛自身の戦争責任や、閣外であり憲法外の機関である内大臣府で憲法改正作業を行うことに対する憲法上の疑義などが問題視されて、批判が高まった[誰?]。11月1日、総司令部は「近衛は憲法改正のために選任されたのではない」として、マッカーサーが近衛に伝えた憲法改正作業の指示は、近衛個人に対してではなく、日本政府に対して行ったものであるとの声明を発表した。これにより、近衛らの調査活動は頓挫した。それでも近衛らは作業をつづけ、11月22日に近衛案(「帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要綱」[49])、11月24日に佐々木案(「帝国憲法改正ノ必要」[50])をそれぞれ天皇に奉答した(なお、総司令部の指示により、11月24日に内大臣府は廃止された)。

憲法問題調査委員会(松本委員会)のメンバー[51]
 委員長  松本烝治(国務大臣)
顧問 清水澄(学士院会員)、美濃部達吉(学士院会員)、野村淳治(東大名誉教授)
委員 宮澤俊義(東大教授)、清宮四郎(東北大教授)、河村又介(九大教授)、石黑武重(枢密院書記官長→法制局長官)、楢橋渡(法制局長官→内閣書記官長)、入江俊郎(法制局第一部長)、佐藤達夫(法制局第二部長)
後に、小林次郎(貴族院書記官長)、大池眞(衆議院書記官)、奥野健一(司法省民事局長)、中村健城(大蔵省主計局長、後に後任の野田卯一へ交替)、諸橋襄(枢密院書記官長、石黑の後任)らが加わった。
補助員 刑部莊(東大助教授)、佐藤功(東大講師)、窪谷直光(大蔵書記官)
嘱託 古井喜実(元内務次官)

かかる経緯をたどって、憲法改正作業は、内閣の下に設置された松本委員会に一本化されることになる。松本委員会は、美濃部達吉清水澄野村淳治を顧問とし、憲法学者の宮沢俊義東京帝国大学教授、河村又介九州帝国大学教授、清宮四郎東北帝国大学教授や、法制局幹部である入江俊郎佐藤達夫らを委員として組織された。松本委員会は、10月27日に第1回総会を行い、同30日に第1回調査会を行った。以後、総会は1946年(昭和21年)2月2日まで7回、調査会(小委員会)は同1月26日まで15回開催された。

1946年(昭和21年)1月9日の第10回調査会(小委員会)に、松本委員長は「憲法改正私案」を提出した。[52]この「私案」は、前年12月8日の衆議院予算委員会で、松本委員長が示した「憲法改正四原則」をその内容としており、委員会の立案の基礎とされた。「憲法改正四原則」の概要は次の通り。[53]

  1. 天皇が統治権を総攬するという大日本帝国憲法の基本原則は変更しないこと。
    天皇ガ統治権ヲ総攬セラルルト云フ大原則ハ、是ハ何等変更スル必要モナイシ、又変更スル考ヘモナイト云フコト
  2. 議会の権限を拡大し、その反射として天皇大権に関わる事項をある程度制限すること。
    議会ノ協賛トカ、或ハ承諾ト云フヤウナ、議会ノ決議ヲ必要トスル事項ハ、之ヲ拡充スルコトガ必要デアラウ、即チ言葉ヲ換ヘテ申セバ、従来ノ所謂大権事項ナルモノハ、其ノ結果トシテ或ル程度ニ於テ制限セラルルコトガ至当
  3. 国務大臣の責任を国政全般に及ぼし、国務大臣は議会に対して責任を負うこと。
    国務大臣ノ責任ガ国政全般ニ亙リマシテ、而シテ国務大臣ハ帝国議会ニ対シ、即チ言葉ヲ換ヘテ申セバ、間接ニハ国民ニ対シテ責任ヲ負フト云フコト
  4. 人民の自由および権利の保護を拡大し、十分な救済の方法を講じること。
    民権ト申シマスカ、人民ノ自由、権利ト云フヤウナモノニ対スル保護、確保ヲ強化スルコトガ必要デアラウ

委員会は、この「憲法改正四原則」に基づいて憲法を逐条的に検討した。宮沢委員が「私案」を要綱化して松本がこれに手を加え、「憲法改正要綱」とした。1月26日の第15回調査会では、この「憲法改正要綱」(甲案)と「憲法改正案」(乙案)を議論した。[54]内閣は1月30日から2月4日にかけて連日臨時閣議を開催して、「私案」「甲案」「乙案」を審議。2月7日、松本は「憲法改正要綱」(松本試案)を天皇に奏上し、翌8日に説明資料とともに総司令部へ提出した。この「憲法改正要綱」は内閣の正式決定を経たものではなく、まず総司令部に提示して意見を聞いた上で、正式な憲法草案の作成に着手する予定であった。

他方、近衛や松本委員会による憲法改正の調査活動が進むにつれ、国民の間にも憲法問題への関心が高まった。近衛や松本委員会の動き、各界各層の人々の憲法に関する意見なども広く報道され、政党や知識人のグループなどを中心に、多種多様な民間憲法改正案が発表された。しかし、その多くは大日本帝国憲法に若干手を加えたものであって、大改正に及ぶものは少数であった。

政党その他の団体による憲法改正試案[51]
表題 作成団体(構成員等) 概要・特徴 発表日
憲法草案要綱[55] 憲法研究会
高野岩三郎鈴木安藏室伏高信杉森孝次郎森戸辰男岩淵辰雄ら)
象徴的な天皇制を残しつつ国民主権の原則と直接民主制的諸制度を採用。 1945年(昭和20年)12月26日
日本共和国憲法私案要綱[56]
(改正憲法私案要綱)
高野岩三郎 憲法研究会の主軸であったにもかかわらず天皇制を残したことに関して不満を表明し、単独で高野が構想した。大統領を元首とする共和制を提示。 同年12月28日
自由黨 憲法改正要綱[57] 日本自由党
鳩山一郎総裁)
同党憲法改正特別調査会の浅井清(慶大教授)と金森徳次郎が中心となって作成。 1946年(昭和21年)1月21日
進歩黨 憲法改正要綱[57] 日本進歩党
町田忠治総裁)
天皇大権の一部を削除・廃止するが、天皇は「臣民の輔翼に依り憲法の条規に従ひ統治権を行ふ」。 同年2月14日
社会黨 憲法改正要綱[57] 日本社会党
片山哲書記長)
高野岩三郎、森戸辰男らが起草委員となる。「主権は国家(天皇を含む国民協同体)に在り」。統治権は分割し、主要部を議会に、一部を天皇に帰属(天皇大権大幅制限)。生存権の保障、死刑の廃止等。 同年2月14日
日本國憲法草案[58] 憲法懇話会
尾崎行雄岩波茂雄渡辺幾治郎石田秀人稻田正次海野晋吉
立法権を天皇と議会に認め、地方議会議員、職能代表、学識経験者からなる参議院を設置する。司法裁判所に違憲審査権を付与する。 同年3月5日
 日本人民共和國憲法(草案)[57] 日本共産党
德田球一書記長)
天皇制を廃止して人民主権の原則を採用。自由権・生活権等について、社会主義の原則に基づいて保障。 同年6月29日
(骨子は前年11月11日発表)

なお、内閣情報局世論調査課が共同通信社調査部に委嘱して行った「憲法改正に関する輿論調査報告」(1945年(昭和20年)12月19日付、報告総数287件)では、全体の75%(216件)が「憲法改正を要する」としている[59]

憲法草案要綱

憲法研究会は1945年の10月から12月にかけて活動し、憲法草案要綱を作成して、12月26日に首相官邸に提出した。GHQは直ちにこれを英訳し、翌月の1月2日には、その内容に注目するとの書簡を作成した。米国では国民主権が軽視されていたため、この「要綱」に基づき国民主権がGHQ案に盛り込まれたとされる。一方で、象徴天皇制という案は、これ以前に存在した。しかし、「要綱」とは別に、より早い時期に憲法研究会のメンバーがGHQの要人に接触しているため、憲法研究会が象徴天皇制を発案し、GHQ要人を介してGHQ案に反映させたのだと、小西豊治は主張している[60]

マッカーサー草案

総司令部は、当初、憲法改正については過度の干渉をしない方針であった。しかし総司令部は、1946年(昭和21年)の年明け頃から、民間の憲法改正草案、特に憲法研究会の「憲法草案要綱」に注目しながら、憲法に関する動きを活発化させた。それでも、同年1月中は、日本政府による憲法改正案の提出を待つ姿勢をとり続けた。

マッカーサーの憲法改正権限(ホイットニー・メモ)

この1月時点で、マッカーサーが日本の憲法改正について、いかなる権限を持つのかという法的根拠、法的論点が総司令部内で問題となっていた。この点につき、総司令部の民政局長であったコートニー・ホイットニーは1946年2月1日に「現在閣下は、日本の憲法構造に対して閣下が適当と考える変革を実現するためにいかなる措置をもとりうるという、無制限の権限を有しておられる」と結論づけるリポートを提出した[注釈 3]。ただしこのレポートでは、2月26日に迫った極東委員会の発足後は、マッカーサーの権限が無制限でなくなることも併せて指摘している。

毎日新聞によるスクープ報道の波紋

同2月1日、毎日新聞が「松本委員会案」なるスクープ記事を掲載したが[61]、この記事に載った「松本委員会案」とは、宮沢委員が提出した「宮澤甲案」であった[注釈 4]。この「宮澤甲案」の内容は、松本委員会に提出された草案の中では比較的リベラルなもので、内閣の審議に供された「乙案」に近かった。政府は直ちに、このスクープ記事の「松本委員会案」は実際の松本委員会案とは全く無関係であるとの談話を発表した。

しかし、この記事を分析したホイットニー民政局長は、それが真の松本委員長私案であると判断し[62]、また、この案について「極めて保守的な性格のもの」と批判し、世論の支持を得ていないとも分析した。

総司令部による意思決定

そこで総司令部は、このまま日本政府に任せておいては、極東委員会の国際世論(特にソ連オーストラリア)から天皇制の廃止を要求されるおそれがあると判断し、自ら草案を作成することを決定した。その際、日本政府が総司令部の「受け容れ難い案」を提出された後に、その作り直しを「強制する」より、その提出を受ける前に総司令部から「指針を与える」方が、戦略的に優れているとも分析した。

2月3日、マッカーサーは、総司令部が憲法草案を起草するに際して守るべき三原則を、憲法草案起草の責任者とされたホイットニー民政局長に示した(「マッカーサー・ノート」)。三原則の内容は以下の通り。[63][64]

  1. 天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。
    Emperor is at the head of the state. His succession is dynastic. His duties and powers will be exercised in accordance with the Constitution and responsive to the basic will of the people as provided therein.
  2. 国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
    War as a sovereign right of the nation is abolished. Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security. It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection. No Japanese Army, Navy, or Air Force will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon any Japanese force.
  3. 日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は、イギリスの制度に倣うこと。
    The feudal system of Japan will cease. No rights of peerage except those of the Imperial family will extend beyond the lives of those now existent. No patent of nobility will from this time forth embody within itself any National or Civic power of government.Pattern budget after British system.

この三原則を受けて、総司令部民政局には、憲法草案作成のため、立法権行政権などの分野ごとに、条文の起草を担当する八つの委員会と全体の監督と調整を担当する運営委員会が設置された。2月4日の会議で、ホイットニーは、全ての仕事に優先して極秘裏に起草作業を進めるよう民政局員に指示した。以下はその会議における議事録である。 Summary Report on Meeting of the Government Section, 4 February 1946, Alfred Hussey Papers; Constitution File No. 1, Doc. No. 4

that the only possibility of retaining the Emperor and the remnants of their owm power is by their acceptance and approval of a Constitution that will force a decisive swing to left. General Whitney hopes to reace this decision by persuasive arugument; if this is not possible, General MacArthur has empowered him to use not merely the threat of force, but force itself.[65][66][67]

ホイットニー准将は憲法起草チーム全員に対して「天皇とその権限を維持する唯一の可能性はGHQ草案の受諾以外にない」という恫喝を用いる権限、恫喝のみでなく実際に強制力を行使する権限がマッカーサー元帥から付与されていることを伝えた。

起草にあたったホイットニー局長以下25人のうち、ホイットニーを含む4人には弁護士経験があった。しかし、憲法学を専攻した者は一人もいなかったため、日本の民間憲法草案(特に憲法研究会の「憲法草案要綱」)や、[要出典]世界各国の憲法が参考にされた。民政局での昼夜を徹した作業により、各委員会の試案は、2月7日以降、次々と出来上がった。これらの試案をもとに、運営委員会との協議に付された上で原案が作成され、さらに修正の手が加えられた。2月10日、最終的に全92条の草案にまとめられ、マッカーサーに提出された。マッカーサーは、一部修正を指示した上でこの草案を了承し、最終的な調整作業を経た上で、2月12日に草案は完成した。マッカーサーの承認を経て、2月13日、いわゆる「マッカーサー草案」(GHQ原案)[68]が日本政府に提示された。 2月4日に憲法起草チームの前で説明された恫喝は実際に2月13日のGHQ憲法草案提示時に実行された。

As you may or may not know, the Supreme Commander has been unyielding in his defense of your Emperor against increasing pressure from the outside to render him subject to war criminal investigation.[69]

It has been asserted that those who recorded Whitney's remarks "were ashamed of the methods employed" by Whitney, in particular, his "threats against the Emperor - against the man - not just the institution - which Hussey in 1958 still wanted Kades and Rowell to conceal from the Japanese Commission on the Constitution."[70][71]

日本政府案の作成と議会審議

2月13日に日本政府に提示された「マッカーサー草案」は、先に日本政府が2月8日に提出していた「憲法改正要綱」(松本試案)に対する回答という形で示されたものであった。提示を受けた日本側、松本国務大臣と吉田茂外務大臣、通訳の白洲次郎は、総司令部による草案の起草作業を知らず、この全く初見の「マッカーサー草案」の手交に驚いた。[72]

この日マッカーサー草案を手交された場において「案を飲まなければ天皇を軍事裁判にかける」「我々は原子力の日光浴をしている」などの恫喝的言動がなされた。

「マッカーサー草案」を受け取った日本政府は、2月18日に、松本の「憲法改正案説明補充」[73]を添えて再考するよう求めた。これに対してホイットニー民政局長は、松本の「説明補充」を拒絶し、「マッカーサー草案」の受け入れにつき、48時間以内の回答を迫った。2月21日に幣原首相がマッカーサーと会見し、「マッカーサー草案」の意向について確認。翌22日の閣議で、「マッカーサー草案」の受け入れを決定し、幣原首相は天皇に事情説明の奏上を行った。

2月26日の閣議で、「マッカーサー草案」に基づく日本政府案の起草を決定し、作業を開始した。松本国務大臣は、法制局の佐藤達夫・第一部長を助手に指名し、入江俊郎・次長とともに、日本政府案を執筆した。3人の極秘作業により、草案は3月2日に完成した(「3月2日案」[74])。3月4日午前10時、松本国務大臣は、草案に「説明書」を添えて、ホイットニー民政局長に提示した。総司令部は、日本側係官と手分けして、直ちに草案と説明書の英訳を開始した[注釈 5]。英訳が進むにつれ、総司令部側は、「マッカーサー草案」と「3月2日案」の相違点に気づき、松本とケーディス・民政局行政課長の間で激しい口論となった。午後になり、松本は、経済閣僚懇談会への出席を理由に、総司令部を退出した。夕刻になり、英訳作業が一段落すると、総司令部は、続いて確定案を作成する方針を示した。午後8時半頃から、佐藤・法制局第一部長ら日本側とともに、徹夜の逐条折衝が開始された。成案を得た案文は、次々に首相官邸に届けられ、3月5日の閣議に付議された。5日午後4時頃、総司令部における折衝は全て終了し、確定案が整った。閣議は、確定案の採択を決定して「3月5日案」[75]が成立、午後5時頃に幣原首相と松本国務大臣は宮中に参内して、天皇に草案の内容を奏上した。翌3月6日、日本政府は「3月5日案」の字句を整理した「憲法改正草案要綱」(「3月6日案」[76])を発表し、マッカーサーも直ちにこれを支持・了承する声明を発表した。日本国民は、翌7日の新聞各紙で「3月6日案」の内容を知ることとなった。国民にとっては突然の発表であり、またその内容が予想外に「急進的」であったことから衝撃を受けたものの、おおむね好評であった[注釈 6][注釈 7]

3月26日、国語学者の安藤正次博士を代表とする「国民の国語運動」が、「法令の書き方についての建議」という意見書を幣原首相に提出した。これを主たる契機として、憲法の口語化に向けて動き出した。4月2日、憲法の口語化について、総司令部の了承を得て、閣議了解が行われ、翌3日から口語化作業が開始された。まず、作家の山本有三に前文の口語化を依頼し、作成された素案を参考にして、入江・法制局長官、佐藤・法制局次長、渡辺佳英・法制局事務官らの手により、5日に口語化第1次案が閣議で承認された。[77]4月16日に幣原首相が天皇に内奏し、まず憲法を口語化した後、憲法の施行後には順次他の法令も口語化することを伝えた。

4月10日衆議院議員総選挙が行われた。総司令部は、この選挙をもって、「3月6日案」に対する国民投票の役割を果たさせようと考えた。しかし、国民の第一の関心は当面の生活の安定にあり、憲法問題に対する関心は第二義的なものであった。選挙を終えた4月17日、政府は、正式に条文化した「憲法改正草案」[78]を公表し、枢密院に諮詢した。4月22日、枢密院で、憲法改正草案第1回審査委員会が開催された(5月15日まで、8回開催)。同日に幣原内閣が総辞職し、5月22日に第1次吉田内閣が発足したため、枢密院への諮詢は一旦撤回され、若干修正の上、5月27日に再諮詢された。5月29日、枢密院は草案審査委員会を再開(6月3日まで、3回開催)。この席上、吉田首相は、議会での修正は可能と言明した。6月8日、枢密院の本会議は、天皇臨席の下、第二読会以下を省略して直ちに憲法改正案の採決に入り、美濃部達吉・顧問官を除く起立者多数で可決した。

これを受けて政府は、6月20日、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、憲法改正案を衆議院に提出した。衆議院6月25日から審議を開始し、8月24日GHQの指示なく追加した国家賠償請求権刑事補償請求権生存権納税の義務などの若干の修正を加えて[注釈 8] [79] 圧倒的多数(投票総数429票、賛成421票、反対8票[80][81])で可決した。

続いて、貴族院は8月26日に審議を開始し、10月6日、若干の修正を加えて[注釈 9]可決した。翌7日、衆議院は貴族院回付案を可決し、帝国議会における憲法改正手続は全て終了した。

只今貴族院の修正に對し本院の可決を得、帝國憲法改正案はここに確定を見るに至りました(拍手)此の機會に政府を代表致しまして、一言御挨拶を申したいと思ひます、本案は三箇月有餘に亙り、衆議院及び貴族院の熱心愼重なる審議を經まして、適切なる修正をも加へられ、ここに新日本建設の礎たるべき憲法改正案の確定を見るに至りましたことは、國民諸君と共に洵に欣びに堪へない所であります(拍手)惟ふに新日本建設の大目的を達成し、此の憲法の理想とする所を實現致しますることは、今後國民を擧げての絕大なる努力に俟たなければならないのであります、政府は眞に國諸君と一體となり、此の大目的の達成に邁進致す覺悟でございます、ここに諸君の多日に亙る御心勞に對し感謝の意を表明致しますると共に、所懷を述べて御挨拶と致します(拍手) — 1946年(昭和21年)10月7日衆議院本会議、吉田茂内閣総理大臣による政府所信

芦田修正について

なお、憲法改正草案の衆議院における審議の過程では、芦田修正と呼ばれる修正が行われた[82]。芦田修正とは、憲法議会となった第90回帝国議会の衆議院に設置された、衆議院帝国憲法改正小委員会による修正である[注釈 10]。特に憲法9条に関する修正は委員長である芦田均の名を冠して芦田修正と呼ばれ、9条をめぐる議論ではひとつの論点となっている。

まず、帝国議会に提出された憲法改正草案第9条の内容は、次のようなものであった。

第9条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては永久にこれを抛棄する。
陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は認められない。

衆議院における審議の過程で、この原案の表現は、いかにも日本がやむを得ず戦争を放棄するような印象を与え、自主性に乏しいとの批判があったため、このような印象を払拭し、格調高い文章とする意見が支配的であった。そこで、各派から、様々な文案が示され、これらを踏まえて、芦田委員長が次のような試案(芦田試案)を提示した。

日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず、国の交戦権を否認することを声明する。
前項の目的を達するため国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

芦田試案について、委員会で懇談が進められ、1項の文末の修正や1項と2項の入れ替えなどについて、原案をもとにすることなどがまとまった。芦田委員長は、これらの議論をまとめて案文を調整し、最終的に次のように修正することを決定した。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この修正について、総司令部側からは何ら異議もなく、成立に至った[注釈 11]。芦田修正では、「前項の目的を達するため」という一文が、後に9条解釈をめぐる重要な争点の一つとなり、芦田の意図などについても論議の的となった。

日本国憲法の公布と施行

1946年(昭和21年)10月29日、「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。

帝国議会における審議を通過して、10月12日、政府は「修正帝国憲法改正案」を枢密院に諮詢(19日と21日に審査委員会)。10月29日、枢密院の本会議は、天皇臨席の下で、「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した(美濃部顧問官など2名は欠席)。同日、天皇は、憲法改正を裁可した。11月3日、日本国憲法が公布された。同日、貴族院議場では「日本国憲法公布記念式典」が挙行され、宮城前では天皇皇后が臨席して「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」が開催された。

 本日、日本国憲法を公布せしめた。 
この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであつて、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によつて確定されたものである。即ち、日本国民は、みづから進んで戦争放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたものである。
 朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任を重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。 — 昭和天皇による日本国憲法公布の勅語、1946年(昭和21年)11月3日

1947年(昭和22年)5月3日に、日本国憲法は施行された。同日には、天皇臨席の下、皇居前広場で「日本国憲法施行記念式典」が開催された。1948年(昭和23年)には、5月3日は憲法記念日とされ、「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。」趣旨の国民の祝日とされている。

占領下における日本国憲法の効力

日本国憲法が1947年5月3日施行されたものの、日本が独立を回復する1952年4月28日まで、占領下であったことから完全な効力を有していなかった。最高裁は、1953年4月8日の大法廷判決(刑集7巻4号775ページ)において、日本国の統治の権限は、一般には憲法によって行われているが、連合国最高司令官が降伏条項を実施するためには適当と認める措置をとる関係においては、その権力によって制限を受ける法律状態におかれているとして、連合国司令官は、日本国憲法にかかわることなく法律上全く自由に自ら適当な措置をとり、日本官庁の職員に対し指令を発してこれを遵守実施することができるようにあったと判断している。そして、いわゆるポツダム命令の根拠となった「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(昭和20年勅令第542号)について、憲法の外で効力を有したものと判断している。

その意味で、日本国憲法が完全に効力を有するようになったのは、1952年4月28日サンフランシスコ平和条約の発効により、日本に対する占領が終了した時ということができる。

さらに、主権回復時に米軍の占領下にあった地域(すなわち奄美群島小笠原諸島沖縄)について、憲法の効力が完全に及ぶまではさらに時間を要し、その返還の時、すなわち奄美(1953年12月25日)、小笠原(1968年6月26日)、沖縄(1972年5月15日)となった。そして、日本政府が実効支配していない北方領土及び竹島については、憲法の効力はいまだ完全に及んではいない。

議論

成立の法理

日本国憲法の制定過程において瑕疵があるか否か、また、その瑕疵があるとして、これがため憲法自体が無効とされるか否かについても議論がある。関連項目一覧や記事中リンクなども別途参照されたい。

大日本帝国憲法の改正の限界

日本国憲法は、大日本帝国憲法に定める改正手続(第73条[注釈 12])を経て成立している。しかし、憲法改正には一定の限界があるとする立場(憲法改正限界説)からは、主権(統治権)が「天皇」から「国民」へ移っているため、日本国憲法は大日本帝国憲法の改正憲法ではなく、全く新しい別個の憲法であり、また国民自らが制定した民定憲法であるとする。

この点について、憲法改正限界説に立ちつつ、これを整合的に無難に説明する見解としては、八月革命説がある。これは、天皇及び日本政府が1945年(昭和20年)8月にポツダム宣言を受諾したことで、国民の憲法制定権力を認めて主権の所在が変更し、法学的意味での革命が行われたとする説である。大日本帝国憲法は、改正条項も含めて、ポツダム宣言の受託で失効したと考える。その上で、大日本帝国憲法の改正手続を用いて新憲法を制定したのは、新旧両憲法の間に法的連続性の外観を与えることにより、急激な価値転換による混乱予防という政策的意図に基づく、と説明する[83]

一方、憲法改正“無”限界説によれば、改正手続きが正しく行われれば主権の所在を変更することも可能で、日本国憲法への改正も問題ない。さらに、全部改正説では、日本国憲法は新憲法の制定ではなく、制定過程から見て大日本帝国憲法の全部改正で、欽定憲法であって民定憲法ではないとする見解もある[84]

この点について、日本政府は、憲法改正限界説・無限界説のいずれに立つか明示することなく、「日本国憲法は、大日本帝国憲法の改正手続によって有効に成立したものであって、その間の経緯については、法理的に何ら問題はないものと考える。」と表明している[注釈 13]

占領軍の関与

日本国憲法は、アメリカ合衆国軍を中心とする連合国軍が日本を間接統治していた1946年(昭和21年)に公布され、翌1947年(昭和22年)に施行されている。さらに、その立案・制定過程においても、連合国軍総司令部が大きく関与している。このため、改正作業が行われている最中から、占領軍による憲法改正作業への介入に異議が唱えられ、日本国憲法の成立後も、同憲法は国際法上無効ではないかという押し付け憲法論が唱えられた。この立場には、日本国憲法はその制定手続と内容から無効であるとする説、または、日本国憲法は占領下では効力を有するとしても、占領終結によって失効すべきものであるとする説がある。この点については、ハーグ陸戦条約43条との整合性が問題とされている。

ハーグ陸戦条約第43条は、次のように定めている。

国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法規を尊重して、成るべく公共の秩序及び生活を回復確保するため、施し得べき一切の手段を尽くすべし。(原文は旧字体、カタカナ書き)

この定めによれば、日本国憲法は、占領という異常事態の下で、しかも、占領軍の圧力に屈して制定されたものであるから、同条に違反し、日本国憲法は無効であるとする[85]。こうした主張に対しては、ハーグ陸戦条約は交戦中の占領軍にのみ適用されること、日本の場合は交戦後の占領であり、したがって、原則としてその適用を受けないこと、仮に適用されるとしても、ポツダム宣言・降伏文書という休戦協定が成立しているので、特別法は一般法に優先するという原則に従い、休戦条約(特別法)が陸戦条約(一般法)よりも優先的に適用されることなどが指摘されている[86]

なお、日本政府は、この点について、「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則中の占領に関する規定は、本来交戦国の一方が戦闘継続中他方の領土を事実上占領した場合のことを予想しているものであって、連合国による我が国の占領のような場合について定めたものではないと解される。」と答弁している[注釈 14]

制定過程に外国人(強いていうならば占領軍)が関与した点については、議論が今もなお続いている。もっとも、新憲法成立後多くの国民がそれを支持し、朝鮮戦争時に改正を打診された政府も「その必要なし」と回答、さらに新憲法下で数十年にわたって無数の法令の運用がなされた今、憲法は無効だという主張は少数となった。憲法は慣習として成立したと説明されることもある。一方で憲法改正におおいに関与したアメリカは、1956年6月14日の上院外交委員会秘密会において国務次官補ロバートソンがハンド議員の質問への答えとして、アメリカが押しつけたものだと証言した。また、駐日大使を務めた、エドウィン・O・ライシャワーは著書の中で「日本人自身によって制定されたものではなかったのだ。」としている。現行憲法は定着しているとしながらも、憲法制定行為はマッカーサーの越権行為であり、違法とする説は根強い[87]アメリカ合衆国副大統領ジョー・バイデンは、「私たちが(日本を)核武装させないための日本国憲法を書いた」としており、日本国憲法の起草者がアメリカであることを明言している[88]

なお、極端なものだが、マッカーサーを事実上天皇の摂政であったとし、(当時は有効であった)大日本帝國憲法第七十五條の摂政をおいた期間での憲法・皇室典範変更を禁じる条文に反する[注釈 15]ので、現在の憲法は当時の憲法に違憲であり無効ではないかという意見がある[89]。だが、一般にマッカーサーは摂政とはみなされていない。摂政及び国事行為臨時代行は、成年に達した皇族が1.皇太子、皇太孫2.親王及び王3.皇后4.皇太后5.太皇太后6.内親王及び女王の順位で就任する。

外務事務次官、駐米大使、駐独大使等を歴任した村田良平は日本国憲法前文第三項は日本文化への侮辱であると述べている[90]

憲法改正手続

日本国憲法の改正のための要件は、第96条に規定されており、通常の立法のための要件よりも加重されたものとなっている(硬性憲法)。それによれば「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」に基づき国会が憲法の改正を発議し、国民投票による「その過半数の賛成」による承認を必要とするものとされている。当該国民投票を実施するための細則については新たに法令によりこれを定める必要がある(2007年日本国憲法の改正手続に関する法律が制定された)。

改正されない理由

日本国憲法は、現行憲法で最長、歴史上でも廃止されたイタリア王国憲法(80年)に次いで2番目という長期間にわたって改正されていない[13]。東京大学のケネス・盛・マッケルウェイン准教授は、長期間改正されない理由としては、議員定数や選挙制度などの政治制度を他の法律で定めているため、各法の改正で対応できたことを挙げる[13]。日本国憲法は、基本的な事項のみが記載された簡素な構成であり、英訳した文を他国の憲法と比較すると単語数が4998と比較的短いとする(対照的にインド憲法は極端に量が多い)[13]。また国民の権利に関する記載が多く制定当時の憲法としては先進的とし、これらを後に追加する必要がなかったことも改正されない要因とする[13]

各種の議論

憲法典に述べられていない問題

日本の憲法の主たる法源は、日本国憲法(形式的意味の憲法)である。ここでは、日本国憲法には述べられていない憲法上の問題について述べる。

領土

ゲオルク・イェリネックのいう国家の三要素のうち、国民 (Staatsvolk) ・国家権力 (Staatsgewalt) に関して日本国憲法は論じているが、国家領土 (Staatsgebiet) に関しては、日本国憲法は沈黙している(これは比較憲法的には異例に属する)。日本国の領土を決定する法規範は、主として条約にある。

なお、大日本帝国憲法も、国家領土については沈黙していた。このため、帝国憲法施行後に獲得された領土については、憲法の場所的適用範囲が問題となった。これについては、肯定説・否定説・折衷説が対立した。

国家の自己表現

いわゆる国家の自己表現(Selbstdarstellung des Staates)について、日本国憲法は規定していないが、比較憲法的には珍しいケースである。主な法源として、次のようなものがある。

日本国憲法の解釈

日本国憲法は硬性憲法(改正のための要件が法律に比して厳しい)であるため、裁判所の判断(判例)のもつ重要性はより高いといわれる。

発行物

日本国憲法施行記念切手

切手

記念切手として1947年5月3日、日本国憲法施行記念として50銭、1円、2種の切手と憲法の前文が印刷された額面の2倍の売価3円の無目打小型シートが発行された。図案は懸賞募集されたもので、1946年10月に募集が受け付けられ1万2000点の応募作から一等1点、二等3点などが選ばれた。しかし一等作品が国会議事堂を描いていたことから、当時の通常葉書の印面に酷似しているとして不採用になり、二等作品のうち2点が採用された。なお、応募の意匠は「憲法施行にふさわしいもの」とされ、「軍国主義、国家主義的、神道を象徴するもの、風景は不可」とされていた[91]。なお、募集時には記念切手の題名は「改正憲法施行記念」であったが、発行時には「日本国憲法施行記念」に変更された。小型シートであるが2月になって追加されたもので、当初はB7サイズで予定であったが、憲法普及会から余白に憲法条文を入れるように要望が寄せられ、B6サイズという大型サイズになった。

1946年12月27日に官製記念絵葉書が額面15銭で3種発行されている。取り上げられた題材は当時の著名な日本人画家の作品で、川端龍子の「不二」、石井柏亭の「平和」、藤田嗣治の「迎日」が裏面にオフセット印刷されていた。もともと外貨獲得の手段として著名画家を起用して日本国内の観光地を描く「日本絵葉書」の企画を急遽日本国憲法公布記念として題材をふさわしいものに入れ替えて発行した[92]。当初第二弾の発行も計画されていたが、3枚セットで売価3円と高価であったため、売れ行きが悪く結局第一弾のみで、官製絵葉書は暑中見舞いや年賀葉書をのぞけば数十年間発行されなかった。

脚注

注釈

  1. ^ 出典元記事の記載では、施行されてから一度も改正されていないという立場であるが、日本国憲法が一度も改正されていないか否かは、行われた改正手続き通り、大日本帝国憲法の全面改正として日本国憲法を捉えるか、事実上大日本帝国憲法を破棄して制定された新憲法と捉えるかで異論がある。
  2. ^ なお、席上マッカーサーから要求されたいわゆる「五大改革要求」は以下の通り。(1)選挙権賦与による婦人の解放、(2)労働の組合化促進、(3)自由主義的教育を行うための諸学校の開設、(4)検察・警察制度の改革、(5)経済機構の民主主義化。
  3. ^ 1946年2月1日付「憲法改正権限に関するホイットニー・メモ」。同、1946年2月1日付「憲法改正権限に関するホイットニー・メモ」。なお、訳文は「高柳賢三ほか編著『日本国憲法制定の過程:連合国総司令部側の記録による I』有斐閣、1972年、79ページ」参照。
  4. ^ 宮沢委員が委員会での議論を踏まえて試みに作成し、1月4日の第8回調査会に提出した
  5. ^ なお、GHQ草案の作成に関与したGHQ民政局チャールズ・ケーディスはのちのインタビュー(インタビュー日時・場所、インタビュアー等は不明。)で、日本側は文語体で書くことを頑なに主張したが、文語体で書かれれば日本側が内容を巧妙にすり替えることができ、検閲で身落とすかもしれないと危惧したため日本側の主張を退けた、と語ったとされる(『戦後日本の高等教育改革政策: 「教養教育」の構築』土持ゲーリー法一、玉川大学出版部, 2006 )。もっとも、このとき作成された確定案(「3月5日案」)および「憲法改正草案要綱」(「3月6日案」)は文語体である。
  6. ^ なお、アメリカ国務省およびその出先機関である総司令部政治顧問部は、「3月6日案」の内容を事前に知らされていなかった。国務省は草案を批判的に検討し、起草作業にあたったアルフレッド・ハッシー中佐が反論している(「憲法改正草案要綱」に対する国務省の反応)。
  7. ^ 3月20日には極東委員会が、マッカーサーに対し、憲法草案に対する極東委員会の最終審査権の留保と、国民に考えるための時間を与えるため総選挙を延期することなどを要求している。これに対して3月29日、マッカーサーは、極東委員会の総選挙延期要求を拒否する返電を打った。さらに5月13日、極東委員会は、3点からなる「新憲法採択の諸原則」を決定した。その原則とは、 (1) 審議のための充分な時間と機会を与えられること、 (2) 大日本帝国憲法との法的連続性をはかること、 (3) 国民の自由意思を明確に表す方法により新憲法を採択することの3点。
  8. ^ 衆議院における修正点のうち、重要なものは次の通り。 (1) 前文、1条の国民主権の趣旨を明確化、 (2) 44条但書きに「教育、財産又は収入」を加えて普通選挙の趣旨を徹底、 (3) 67条、68条に関して、内閣総理大臣は国会議員の中から指名すること、国務大臣の過半数は国会議員の中から選ぶものとし、その選任についての国会の承認を削ったこと、 (4) 9条1項の冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の文言を加え、2項冒頭に「前項の目的を達するため」の文言を加えたこと、 (5) 第3章に関して、10条の「国民の要件」、17条の「国家賠償」、30条の「納税の義務」、40条の「刑事補償」の規定を新設し、25条に「全て国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」との規定を加えたこと、 (6) 98条に国際法規遵守に関する2項を追加したこと。このうち、 (1) (2) (3) は総司令部の要請によって修正された点であり、 (4) (5) (6) は衆議院の自発的な修正である。この点につき、「野中俊彦ほか著『憲法 I』有斐閣、2006年、59ページ」を参照。
  9. ^ 貴族院における修正点のうち、重要なものは次の通り。 (1) 15条に、公務員の選挙について、成年者による普通選挙を保障する規定を加えたこと、 (2) 66条に、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならないとの規定を加えたこと、 (3) 59条に、法律案について両院協議会の規定を追加したこと。このうち、 (1) (2) は総司令部の要請によって修正された点、特に (2) は総司令部が極東委員会の要請を受けて日本政府に追加修正を求めた点であり、 (3) は貴族院の自発的な修正である。この点につき、「野中ほか『憲法 I』60ページ」を参照。
  10. ^ 小委員会で修正された条項は憲法9条だけではなく、現存する華族一代に限って身分の保障を定めた97条の削除等を行っている。小田部雄次『華族』(中公新書
  11. ^ 総司令部や極東委員会の内部では、芦田修正により「日本が defence force を保持しうる」とする見解が有力であった。
  12. ^ 大日本帝国憲法 - 第七十三條:将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ。此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス
  13. ^ 1985年(昭和60年)9月27日提出、「森清議員提出日本国憲法制定に関する質問主意書」に対する答弁書。本答弁書は、自由民主党に所属する衆議院議員森清が提出した質問主意書に対して、中曽根内閣が決定したものである。質問の内容は「明治憲法の根幹は『天皇統治』であり、新憲法は、『国民主権』となっている。このように、憲法体制の根幹の改変は、その憲法の改正手続によってはできないのではないか。」というもの。
  14. ^ 上掲、1985年(昭和60年)9月27日提出、「森清議員提出日本国憲法制定に関する質問主意書」に対する答弁書。この答弁書は、森清議員の「陸戦の法規慣例に関する条約(ハーグ条約)第43条は、次の如く規定している。(条文省略)憲法改正について占領軍総司令官のとった行為は、この条項に違反しているのではないか。」という質問に対して決定された。
  15. ^ 大日本帝国憲法 - 第七十五條: 憲法及皇室典範ハ摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス

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  24. ^ それぞれの学説について野中俊彦・高橋和之・中村睦男・高見勝利『憲法(1) 第4版』(2006年)有斐閣、164-166ページ参照
  25. ^ 大石義雄『日本憲法論(増補第2刷)』(1974年)嵯峨野書院、274-279ページ
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  80. ^ 反対の青票を投じたのは、日本共産党柄沢とし子志賀義雄高倉輝徳田球一中西伊之助野坂参三新政会穂積七郎無所属クラブ細迫兼光の8名。
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  82. ^ この節、「野中俊彦ほか著『憲法 I』有斐閣、2006年、150ページ」を参照。
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  86. ^ 芦部信喜『憲法学I 憲法総論』有斐閣、1992年。187ページ。
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  89. ^ 渡部昇一・南出喜久治「日本国憲法無効宣言」(ビジネス社)[要ページ番号]
  90. ^ * 村田良平 『村田良平回想録 上巻』 ミネルヴァ書房、2008年、56頁。
  91. ^ 内藤陽介『濫造・濫発の時代』日本郵趣出版、21ページ
  92. ^ 島田健造著、友岡正孝編『日本記念絵葉書総図鑑』日本郵趣出版、51ページ

参考文献

関連項目

用語

制度・組織

法律・条約

その他

外部リンク