憲法無効論
憲法無効論(けんぽうむこうろん)とは、草案作成から議会審議まで一貫してGHQの統制がおよんだ日本国憲法の成立過程には重大な瑕疵があり無効である、あるいはサンフランシスコ講和条約締結後に失効しているとする論の総称[1][2][3][4]。後者は憲法失効論とも呼ばれる。今日では「有効性の推定」説や講和条約説などにより、憲法無効論は事実上、日本国憲法を廃棄して、大日本帝国憲法の改正ないし新憲法の制定という形で新たな憲法を作るべきだという主張となっている(後述)。
概要
[編集]日本国憲法の成立過程
[編集]憲法改正の指示とGHQ草案の受け入れ要求
[編集]日本政府が1945年9月2日に、民主主義的傾向の復活・強化と日本国民が自由に表明する意思に従う形での平和的傾向(平和主義)を有する責任ある政府の確立を柱とする日本政府の有条件降伏と日本軍の無条件降伏を求めたポツダム宣言を受諾し、日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の占領下になった[5][6][7]。
また、ポツダム宣言についてバーンズ回答では「天皇及び日本政府はマッカーサーに隷属すること」「マッカーサーは主に降伏条項の実施のための措置をとる」「日本の最終的な統治形態は日本国民の自由に表明する意思により決定される」とした[8]。
1945年11月、GHQはポツダム宣言実行のために必要だとして当時の幣原喜重郎内閣に対し憲法改正を指示した[9]。しかし、ポツダム宣言第10項には「日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべし。言論、宗教及思想の自由並びに基本的人権の尊重は、確立せらるべし。」と書かれている。ここには憲法改正の要求は書かれていない。憲法学者の美濃部達吉や佐々木惣一は大正デモクラシーを復活・強化すれば宣言の要求に答えられるとし、憲法改正に反対した[1][10][11][12]。
初めに日本政府が作成した草案(松本試案)は国体を維持しつつ、議会の権限や国民の権利の保障の拡大を図るなど、全76条中46条以上を修正した大改正案であった。しかし、日本政府がこれをGHQに提出すると、GHQはそれを拒否し、1946年2月、自ら1週間で作ったGHQ草案を受け入れるよう日本政府に厳しく迫った[1][13][14]。産経新聞によると、官邸周辺にB29爆撃機を飛ばし、「われわれは戸外で原子力の起こす暖を楽しんでいるのです」と言って威嚇した[14]。日本政府はこれを受け入れると決定し、日本語訳したものを政府案として公表した[15]。そのため、日本政府としては受諾する以外に選択の余地のないものだった[1]。
日本政府はこれを受け入れると決定し、日本語訳作業を開始した[13]。その過程で、日本側はGHQと交渉して前文を削除するなどの修正を行った[16]。しかし、3月4日の交渉でほとんど差し戻され、日本側の意思は反映されなかった[注釈 1][17]。こうして発表された政府案(3月6日案)はGHQ草案とほとんど変わらないものだった[17]。
統制された議会審議
[編集]政府案が公表されると、衆議院議員総選挙が実施された[11]。この選挙はGHQ草案とほとんど変わらない政府案(3月6日案)に対する国民投票の役割を果たせさせようとして行われたものだったが、国民の第一の関心は当面の生活の安定にあり、憲法問題に対する関心はほとんどなかった[1][10][18]。憲法改正について言及した候補者は全体の1割にすぎなかった[1][10][18]。
なお、1946年1月4日にGHQは公職追放指令を出していた。そのため、この選挙のときは現職議員の83%は公職追放により立候補できなかった。新人として立候補した93名も追放され、立候補できなかった。さらに、5月から7月にかけて議会審議中にも、貴族院議員と衆議院議員で合計200名近くが公職追放された[19]。したがって、議員たちはいつ追放されるか分からないという恐怖の中で憲法改正の審議を行った[2]。
また、当時、プレスコードによりあらゆる出版物がGHQによる事前検閲の対象となった[10][20]。特に「GHQが日本国憲法を起草したことへの言及と成立での役割への批判」を行うことはかたく禁じられた[10][20]。この検閲指針は、実際には「日本国憲法」の成立に対するGHQの関与への言及自体を禁ずるものだった[2]。
このような状況の中で政府案は6月から10月にかけて帝国議会で審議された[11]。議会審議では、細かな点までGHQとの事前協議が必要であり、議員はGHQの意向には逆らえない状況だった[2]。日本側による修正には全てGHQの承認が必要だったほか、議会審議中にもGHQによる修正命令は続けられた[2]。その結果、議員からGHQの事前審査と異なる修正要求が出た場合には言を左右して要求を撥ねつけたり、速記を中断して議事録に残らない形で意見を整理し議事録上は体裁を整えるなど、おおよそ自由な議論とはいいがたい事態が横行した[21]。
帝国議会では主に衆議院憲法改正特別委員会小委員会の審議を通じて若干の修正が行われた[11]。例えば、原案の前文には「ここに国民の総意が至高なものであることを宣言し」とあったが、国民主権を明記せよというGHQの指示があり「ここに主権が国民に存することを宣言し」と修正された[1][11][22][23]。この小委員会の審議は秘密会として開かれ、議事録も1995年まで秘密にされた[24][25]。
衆議院の小委員会で第9条第2項の冒頭に「前項の目的を達するため」を加える芦田修正案が可決されると、自衛戦力が肯定されたと解釈した極東委員会は貴族院帝国憲法改正案特別委員小委員会での審議のさいにGHQを通じて文民条項の追加を指示し、その通りに修正することで芦田修正案が承認された[11][26][27][28]。貴族院の小委員会の審議では議員以外の傍聴は認められず、議事録は1996年まで秘密にされた[15][29]。
このほか普通選挙に関する条文の修正などGHQ側の指示による修正が行われた。こうして改正案は貴族院と衆議院でほとんど無修正のまま採択され、『日本国憲法』として公布・施行された[11]。
このように、日本国憲法の成立過程においては、草案作成から議会審議までGHQの統制下にあり、政府・議会・国民の自由意思が完全に欠如していた[30]。
無効論と失効論
[編集]無効論
[編集]独立国の憲法はその国の議会や政府、国民の自由意思によって作られなければならない(憲法自律性の原則)[31][32][33]。したがって、外国に占領されているような時期にはつくるべきものでない[31][32][33]。それゆえ、戦時国際法は占領軍は被占領地の現行法規を尊重すべきとしている[32][34][35]。このことはハーグ陸戦条約などの戦時国際法に記載されており、これらの規定は占領軍がその国の憲法を変えることを禁止しているとするのが通説である[31][35]。戦時国際法と同じ考えから占領軍がその国の憲法を変えることは国際慣習法で禁止されている[36]。
戦時国際法や国際慣習法と同じ考えからフランスは、1958年制定のフランス憲法第89条第5項で「領土が侵されている場合、改正手続に着手し、またはこれを追求することができない」と規定している[37][38][39]。日本国憲法と同じく占領下にあったドイツでは新憲法ではなくボン基本法を成立させ、第146条で「ドイツ国民が自由な決定によって決議する憲法が施行される日に、その効力を失う。」と規定した[40][41][42][43]。
それゆえ、議会審議まで統制された日本国憲法は成立過程に重大な瑕疵があり、無効だとする[1][2][3][4]。そして、ほとんどの無効論は新たな憲法は大日本帝国憲法を改正して作るべきだとする[1][2][3][4][44]。ただし、一部に自主憲法という形で全く新しい憲法を作るべきとするものもある(創憲)。また、大日本帝国憲法の改正限界を超えているとするものもある。なお、法的安定性の問題については「有効性の推定」説(presumption of validity)と講和条約説がある(後述)[2][3][45][46][44]。
京都大学の憲法学者の佐々木惣一は1946年の憲法起草の時点で手続きに瑕疵があるとして異議を唱えていた[47]。その弟子の憲法学者の大石義雄も「政治が民主政治であるためには、まず憲法そのものがその国の自由な意思にもとづいて制定されなかればならない」として憲法改正の必要性を唱えた[48]。改正手続きに関する論点としては、ポツダム宣言の受諾により帝国憲法は停止ないし失効しているため、帝国憲法73条による改正は行うことが出来ず[49]、あるいは当時の学説はほぼ全てが同条は天皇の改正案の発議に対して議会は賛否を表明できるだけで修正を加えることは出来ない(帝国議会に修正が認められないのは、仮にこれを許せば天皇の発議権に容喙あるいはこれを簒奪することになるため)と解釈しており[50]、実際の改正手続きでは議会で修正を加えており、これを理由に将来「憲法改正の無効」を主張されるのではないかとする、衆議院における野坂参三の演説がある[51]。
失効論
[編集]このような成立過程は1946年に公布され翌1947年に施行された日本国憲法が占領管理のための一時的な基本法であることを示しており、サンフランシスコ講和条約発効後に失効しているとする[52][53]。
憲法無効論に対する反論
[編集]法的安定性
[編集]まず、無効論への反論としては、日本国憲法の下に成立した法令や判決の効力がどうなるのかという法的安定性の問題がある。法的安定性については「有効性の推定」説と講和条約説がある(後述)[2][3][45][46][44]。
大日本帝国憲法の復活への懸念
[編集]日本国憲法有効論の中には大日本帝国憲法を外見的立憲主義を表明したものにすぎないと捉え、その復原を人権保護や国民主権の観点から懸念する向きもある。しかし、日本国憲法無効論は日本国憲法に近い一時的な国家管理基本法を暫定的に制定する措置を取ったり、大日本帝国憲法のうち、徴兵制度などの時代にそぐわない部分を直ちに修正したりすることで十分対応できるとしている[2]。
戦時国際法
[編集]国際慣習法や戦時国際法では占領軍が憲法のような重要な法律を変えることは禁止されているが、「(ハーグ陸戦条約附属書)は交戦中に適用され、休戦後の占領には適用されず、当時の日本と関係が無い」との批判がある[32]。
しかし、仮にハーグ陸戦条約の「交戦」が法的な戦争状態ではなく戦闘を意味するとしても、現地の現行法規を尊重すべきとする第43条に「占領者ハ絶対的ノ支障ナキ限占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ」と明記されており、第一款の「交戦者」が43条の「占領者」となった場合、交戦中にとどまらず、休戦後にも43条が適用されることは明白である[54]。40条にあるように休戦は即時に交戦状態に戻りうるからである。
特別法(ポツダム宣言とバーンズ回答)は一般法(戦時国際法と国際慣習法)に優越するため、戦時国際法や国際慣習法は無視して良いという主張もあるが、特別法が明確に要求しない事項については一般法が適用されるため、ポツダム宣言もバーンズ回答も憲法改正を明確に要求していない以上は、戦時国際法と国際慣習法が適用される[31]。また、無条件降伏だから占領者は国際法を無視して何を実施しても良いという説は明確に否定されている[31]。
さらに、ポツダム宣言は第12項で「平和的傾向(平和主義)を有する責任ある政府の確立」に「日本国民の自由に表明する意思」に従うこと、バーンズ回答第5項は「日本の最終的な統治形態は…日本国国民の自由に表明する意思」により決定とされるとしている[31][55][56][57]。このような事実から、連合国側も日本側も、日本国の自由意志によって憲法が制定されなければならないと考えていたのは明らかであるという。
また、1952年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約は日本と連合国との戦争状態を終わらせるために締結されたもので、第1条で「日本国と各連合国との戦争状態は...終了する」と規定している[58][59]ことが、交戦中の占領である証拠であるという主張もある。
時効説
[編集]成立過程に問題があったとしても70年以上経過しているから有効であるとする時効説(追認説)に対しては、憲法学者や公民教育は、「日本国憲法」を正当化するために、国民が支持したとか、議員が自由に審議し修正をしたとか、嘘をつきつづけており、正確な情報が国民一般に明らかにされていないわけだから、時効・追認・定着のための期間は進行しようがないとの厳しい批判がある[60]。
国民の支持の有無
[編集]日本国憲法を支持する者の中には、成立過程に疑義があったとしても、最終的に国民が憲法を支持したから良いのではないかという主張がある。しかし、前述の通り、成立過程に関する正確な情報は1995年まで明らかにされず、公教育においても言及がないため、到底、国民の支持があったとは言えないという批判がある。また、日本国憲法の成立当時、GHQの日本人検閲官として手紙の検閲を任されていた甲斐弦は、1995年の自著にて次のように書き残している[61]。
読んだ手紙の八割から九割までが悲惨極まりないものであった。憲法への反響には特に注意せよ、と指示されていたのだが、私の読んだ限りでは、新憲法万歳と記した手紙などお目にかかった記憶はないし、 日記にも全く記載はない。繰り返して言うが、どうして生き延びるかが当時は皆の最大の関心事であった。憲法改正だなんて、当時の一般庶民には別世界の出来事だったのである。……戦争の悲惨をこの身で味わい、多くの肉親や友人を失った私など、平和を念じる点においては誰にも負けないと思うのだけれども、あの憲法が当時の国民の総意によって、自由意思によって、成立したなどというのはやはり詭弁だと断ぜずにはおれない。はっきり言ってアメリカの押しつけ憲法である。……戦時中は国賊のように言われ、右翼の銃弾まで受けた美濃部達吉博士が、『これでは独立国とは言えぬ』と新憲法に最後まで反対したこと、枢密院議長の清水澄博士が責めを負って入水自殺を遂げたこと、衆議院での採決に当たって反対票を投じたのは野坂参三を始めとする共産党員であったことなど、今の多くの政治家(いや、政治屋か)や文化人たちは果して知っているのだろうか。(甲斐 弦『GHQ検閲官』葦書房、1995年8月1日)
「真の法的安定性」
[編集]小山常実は、日本国憲法を維持し続けるデメリットとして、①日本国憲法が一度でも改正されてしまえば、日本国民は強制された日本国憲法を憲法として認めたことになり、再び外国に占領された際に憲法押し付けを拒否することができなくなる、②日本国憲法の正当性を脅かす成立過程を隠蔽するため、例えば、議会審議は自由だった、GHQ草案は押しつけではなかった、国民が『自由に』日本国憲法を支持した、大日本帝国憲法体制は封建主義で日本国憲法によって「解放」されたんだから押し付けられてもしょうがない、ポツダム宣言で無条件降伏したんだから押し付けられてもしょうがないなどの嘘を公民教育や歴史教育を通じて国民に教え込み続けなければならない事などを挙げている[60]。
また、暴力革命やクーデターで新たな憲法が制定されたとしても、それが日本人によるものであれば、外国人が書いた『日本国憲法』よりは正当性があるということになり、無法な暴力に道を開くことも懸念され[60]、日本国憲法を一度でも改正すれば、①のデメリットに加えて、占領者による強制憲法さえも有効となってしまう以上、それがたとえクーデター政権によるものであっても、どんなものでも有効となってしまうという問題も起こる点を挙げる[60]。これらは日本国憲法無効論を取らない限り回避できない問題であり、一時の法的安定性を追求することで「真の法的安定性」が脅かされるという。
日本以外での無効例
[編集]第二次世界大戦の占領を経て憲法を無効化した例は、日本以外にも例がある。オーストリア第二共和国は、ナチス・ドイツからの独立に当たって1933年時点でのオーストリア憲法を復活させる主旨の立法(憲法調整法)を制定し新憲法までのつなぎとし、エンゲルベルト・ドルフース政権下の1934年改正についてはこれを無効とした。ナチス・ドイツのフランス侵攻に敗北したフランスでは国会議決により、フィリップ・ペタン元帥の政府に憲法改正の全権をゆだねた(1940年7月10日の憲法的法律)。ペタンの政府は翌日第三共和政の憲法を廃止する憲法行為を発した。ヴィシー政権期を通じて新憲法は事実上制定されず、時折制定される憲法行為が憲法の代替をしていたが、1944年8月9日、フランス共和国臨時政府はヴィシー政権下で成立した憲法的法律を含む諸法令について無効を宣言した(本国における共和国の法律回復を宣言する1944年8月9日布告)。さらに、1958年制定のフランス憲法第89条第5項で「領土が侵されている場合、改正手続に着手し、またはこれを追求することができない」と規定した。
法実践に関する主張
[編集]無効論に対する法的安定性の観点からの批判
[編集]日本国憲法有効論は「無効論は日本国憲法の下で(国会で)成立した法令や判決が全て無効になる」と批判してきた[2]。そのため、一般的には『無効論は「実効性をまったく無視した議論」であって「効果的な法実践」は不可能』とされている[62]。
有効性の推定説
[編集]これに対し、ほとんどの無効論は、無効論を提案した当時から、公法学の考え方である「有効性の推定」説(presumption of validity)を主張している[2][3][45][46]。
「有効性の推定」とは、公布された規範には公定力があり、理論的に無効なものとして確認決議がなされるまで、一応は有効であるとする考え[2][3][45][46][63]で、無効確認決議がなされるまでは「有効の推定」を受けるとする。主流の無効論においては、「有効の推定」を受けるのは日本国憲法自身であり、その推定が無効確認決議により否定されたとしても、日本国憲法の下に制定された法令や判決は依然として有効であるとされている。
民法における無効と取り消しの違いに着目して、善意の第三者の行為は取り消すことができるとする場合もある[2][3][45][46]。これは日本国憲法自体が実質有効のようにも見えるので、「有効性の推定」の一部と考えられている[2][3][45][46]。しかし、日本国憲法自体が有効なわけではなく、あくまでその下の行為が取り消すことのできる状態(=直ちに無効とはいえない)である[2][3][45][46]。
講和条約説
[編集]「有効性の推定」説(いわゆる旧無効説)に対する批判的な説。南出喜久治氏による理論。これは旧無効説が主張するように、権威ある国会等により1946年憲法を無効確認した結果として、1946年憲法を採択した以降のすべての立法行為、あるいは法律上の行為(行政、司法など)がすべて無効とならず「有効と推定」されるのが説明が付かないと批判するものである[64][65]。あるいは「旧無効論」とは『日本国憲法』に基づく行為の全てを遡って無効にするのだと主張する。しかし、「有効性の推定」説では有効の推定を受けるのは日本国憲法自身であり、その推定が無効確認決議により否定されたとしても、日本国憲法の下に制定された法令や判決は依然として有効であるとされている。南出喜久治は「旧無効論は法的安定性を無視したものだ」と主張するが、実際にはいわゆる旧無効論においても「有効性の推定」説などにより法的安定性を担保する工夫がなされている。
南出喜久治による新無効論は、1946年に採択された『日本国憲法』は大日本帝国憲法第14条に基づく講和条約だと主張する[44][66]。日本国憲法をサンフランシスコ講和条約を締結するための条件(講和条件)とみなす[44][66]。これは歴史的経緯を詳細に評価したうえで1946年「憲法」と呼称されるものが実質的意味において国際条約であると結論するものである。この場合、国家の基本法として存在するのは効力が停止中の大日本帝国憲法か、あるいは同法が失効したため日本国には基本法が存在しないとの理論である。なお、この説の一部には「条約としての『日本国憲法』」を当時の連合国に破棄通告をすべきだとの主張も見られるが、内政干渉を招くのではないかとの批判もある。
大日本帝国憲法復原説
[編集]これら無効論に共通するのは、占領下における日本国憲法の成立を原則的に無効とし、憲法を占領下の暫定法令と考え、講和独立後の最高法規を、大日本帝国憲法とする[67]点にある。この立論はいわゆる憲法無効・失効論の主要な文献のすべてが主張するところであるとされる[68]。
憲法不存在説
[編集]法哲学者の山下威士は[69]いわゆる大日本帝国憲法復原論[70][71]を検討し、この論がわが国の憲法は何かという問題にもっとも包括的かつ理論的に一貫して答えていると評価したうえで[72]、復原の種子として大日本帝国憲法(1889年憲法)がなお存続していると解することができるか否かについて、8月革命説や10月革命説[73][74]、天皇の人間宣言など1889年憲法の根幹が1945年以降の戦後の変革の中で否定されたことを考量し、1952年の講和独立後は制定憲法は存在しないというほうが筋が通ったものとなろうと論じる[75][76]。
文献情報
[編集]- 『憲法無効論に関する報告書』憲法調査会(憲法調査会報告書附属文書第十号 昭和39年7月 憲法調査会特別部会)国立国会図書館デジタルコレクション(送信サービスで閲覧可能)
- 細川哲「日本国憲法の法源 : 憲法学習の問題点として」『鳥取大学教育学部研究報告. 教育科学』第13巻第2号、鳥取大学教育学部、1971年12月、1-24頁、CRID 1050015354551335680、ISSN 0287-8011。
- 小山常実「戦後教育と日本国憲法」日本図書センター、1993年
- 小山常実「日本国憲法無効論」草思社、2002年
- 小山常実「憲法無効論とは何か」展転社、2006年
- 渡辺昇一・南出喜久治『日本国憲法無効宣言』ビジネス社、2007年
- 南出喜久治『占領憲法の正體』国書刊行会、2009年
- 篠田英郎『ほんとうの憲法』筑摩書房〈ちくま新庫〉、2022年5月25日。
関連項目
[編集]主な論者
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ このとき唯一差し戻しを免れた国民主権については、その後、帝国議会での審議中にGHQの指示により差し戻された。
出典
[編集]- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 『日本国憲法無効論』草思社、2002年11月1日。
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- ↑ 小山常実『日本国憲法無効論』草思社、2002年11月1日。
- ↑ 『マッカーサーと吉田茂を斬る』憲法史研究会、1972年1月1日。
- ↑ 『日本国憲法無効宣言―改憲・護憲派の諸君!この事実を直視せよ』ビジネス社、2007年4月19日。
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- ↑ “陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約”. 2024年5月3日閲覧。
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- ↑ 『日本国憲法無効宣言―改憲・護憲派の諸君!この事実を直視せよ』ビジネス社、2007年4月19日。
- ↑ 同、日本国憲法の誕生 資料と解説・第1章 戦争終結と憲法改正の始動 1-6 ポツダム宣言受諾に関する交渉記録 - 国立国会図書館
- ↑ “サンフランシスコ平和条約と日本の領土”. 内閣官房. 2024年3月15日閲覧。
- ↑ “日本国との平和条約”. 外務省. 2024年3月7日閲覧。
- 1 2 3 4 小山常実『憲法無効論とは何か: 占領憲法からの脱却』展転社、2006年2月1日。
- ↑ 甲斐弦『GHQ検閲官』葦書房、1995年8月1日。
- ↑ 『注釈 日本国憲法 上巻』樋口陽一・佐藤幸治・中村睦夫・浦部法恵 青林書院ISBN 4-417-00525-7
- ↑ たとえ行政行為が違法であっても、それが権限のある行政機関や裁判所によって取り消されるまで、一応は有効なものとして扱われる効力のこと。国民は取り消されるまではその行為に従う必要がある。しかし重大かつ明白な瑕疵がある場合は公定力は及ばず、認められない。ブリタニカ国際大百科事典「公定力」。
- ↑ 南出喜久治,H19.7.1
- ↑ この批判については法技術的には憲法の無効確認決議ののち必要な法令等について有権有効決議をすれば何の問題もない。
- 1 2 “日本誠真会の主張する憲法論(真正護憲論)について | 日本誠真会” (2025年5月7日). 2025年11月30日閲覧。
- ↑ 山下威士「8月革命説と4月制定説-日本国憲法の誕生日はいつか-」『帝京法学』第25巻第2号、八王子 : 帝京大学法学会、2008年3月、1-30頁、CRID 1050564287929908608、hdl:10682/165、ISSN 0288-1659。 p.26(内容を一部要約)
- ↑ 山下威士 2008, p. 28脚注56およびp.22脚注38
- ↑ 以下、(山下威士 2008)
- ↑ 占領下における日本国憲法の制定を、原則的に無効とし、憲法を占領下の暫定法令と考え、講和独立後の最高法規を、大日本帝国憲法とする立論のこと。(山下威士 2008, p. 26(内容を一部要約))
- ↑ この立論はいわゆる憲法無効・失効論の主要な文献のすべてが主張するところであるとする。山下威士2008、p.28脚注56およびp.22脚注38
- ↑ 山下威士2008、p.26、15-16行目。
- ↑ 1945年8月のポツダム宣言の受諾は1889年憲法の主要部分とりわけ天皇主権の部分の停止をもたらしたが、国民主権の原理の確立した時点は1946年10月7日から10月29日までの期間(日本国憲法草案が帝国議会衆議院において再可決された10月7日から、衆議院による貴族院改正案の可決、枢密院の議決、および天皇の裁可のあった10月7日までの期間)をもって主権が天皇から国民に移動し改革が完成したとする説。蓮沼啓介「八月政変と10月革命」神戸法学雑誌34巻2号1984年、302頁
- ↑ 直接の参照先は山下威士2008、p.9(内容は要約した)
- ↑ 山下威士2008、p.27(内容は要約した)
- ↑ なお山下は最終的な検討として1946年憲法は占領下では「準憲法的地位」にあり1952年4月28日に「国民の承認説」にもとづいて憲法として誕生したと論じる。(山下威士 2008, p. 29(内容を一部要約))
- ↑ 『文藝春秋』1999年9月号
- ↑ 産経新聞 (2020年5月4日). “【新しい憲法の話(3)】現行憲法の「無効」から出発せよ 弁護士 南出喜久治氏”. 産経新聞:産経ニュース. 2025年11月30日閲覧。
- ↑ 東京都議会・本会議ネットリポート、平成24年第2回定例会、土屋たかゆきに対する答弁1「憲法なる怪しげな法律体系の非常に矛盾に満ちたといいますか、ゆがんだ成立の過程に対するあなたのご指摘は全く正しいと思います。...この憲法が、占領軍が占領している地域というものを支配するための一つの基本法でありまして、それ以外の何物でもない。...今の憲法というものを私たちは何でここまで墨守してきたか、私には本当に許せないし、考えられない。これは法律の歴史学者に聞いてみても、こういう事例は全く世界にない。...私は全く今の憲法を評価しませんし、評価するしないじゃなしに、非常に害があると思う...こんな憲法を拝受している国家というのは、今まで見たことない。ですから、私たちは、この憲法と手を切って別れればよろしい。それだけの価値しかない。」
- ↑ 憲法「改正」無効論として、官報号外昭和21年6月29日PDF-P.11、金森徳次郎による回答はPDF-P.15
- ↑ “反日の条文は是正せよ 改憲不能に規定したGHQ【連載】日本の憲法改正―論客に問う(1) 元衆院議員 西村真悟氏に聞く(上) - 世界日報DIGITAL” (2024年5月1日). 2025年11月30日閲覧。
- ↑ 倉山満 (2009年11月27日). “日本国憲法の正統性(1)―無効論 | 倉山満公式サイト”. 2025年11月30日閲覧。