憲法学
憲法学(けんぽうがく)は、憲法の解釈や適用および憲法上の諸現象を研究する学問[1]。法学の一分野として、国家の組織及び作用に関する基礎法を研究することを目的とする[2]。
なお、日本以外の国々では憲法学を独立の領域とはしない。[要出典]
目次
各国の憲法学[編集]
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日本の憲法学[編集]
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歴史[編集]
幕末[編集]
尾佐竹猛によれば、議会制度を日本国内に紹介したのは1827年の青地林宗の著述が最初であり、その後のアヘン戦争により、日本国内で欧米への注目が高まり、1860年台までには、複数の翻訳によって日本国内に議会制度や憲法が紹介された、とされる[3]。 公議政体論の中でも、1867年に土佐藩から提言された議会制度がこの時代の代表とされているが、一方の徳川幕府側においては、西周助が同年にまさに憲法草案と言えるものを書いた、とされる[4]。 なお、これらは今で言う民主主義と異なり庶民を参加させる制度ではないが、当時としてはやむを得なかったと考えられている[5]。 これに対し、赤松小三郎は、同年に普通選挙による議会政治を提言しており、その内容には、天皇が拒否しても議会が再審議を行えば決定できる仕組みが盛り込まれている。
明治初期[編集]
民撰議院設立建白書による要望の翌年、1875年(明治8年)に立憲政体の詔書が布告され、憲法を制定する方向への政治改革が宣言された。 伊藤博文は1882年(明治15年)から一年余り、欧州諸国に制度の調査のため渡航し、グナイストやシュタインなどの学者から説を聞き、また諸国の政治を視察した。伊藤はイギリスの民主政治よりもドイツの官僚政治が国情に適すると考えた。帰国後、伊藤が中心となり、秘密の内に大日本帝国憲法が起草された[6]。
学者の誕生[編集]
鈴木安蔵によれば、日本憲法学が生まれたのは、大日本帝国憲法の発布後、穂積八束の功績による[7]。穂積は、日本の憲法の特質として、「主権は万世一系の皇位にあること」、「立法機関が権力を掌握するのではなく、君主の大権を主とする」などと主張した[8](日本の憲法学の第一期[9])。 これに対し、一木喜徳郎の学説を受け継いだ美濃部達吉が立憲主義的憲法学を確立した[10](第二期[9])。
天皇機関説[編集]
美濃部らの提唱した天皇機関説は、一時は憲法学の通説とされたが、1935年、天皇機関説事件において軍部と野党の攻撃を受けた。美濃部は失脚し、天皇機関説は排除された。美濃部の弟子である宮澤俊義も激しく攻撃されている。
鈴木安蔵によれば、1934年当時において、憲法学者と称する者のほとんどは、現実の喫緊の問題の科学的分析ではなく、ただ憲法の概念論的講義や条文解釈を行うか、形式論的な考え方の操作をしているだけに見える、とされている[7]。
占領下の日本[編集]
美濃部は占領下での憲法改正に反対したが、占領下の報道機関からも批判され、その主張は通らなかった。宮澤は、八月革命説を創り、その後も制定された日本国憲法に対して、理論的・体系的な基礎づけを積み重ね、日本のその後の憲法学の礎石を築いた[9]。
占領の終了後[編集]
高見勝利の2000年の著書によれば、美濃部以降の憲法学の学説展開については、それを書くことが、学者にとって「信条告白」になるため難しさがある、とされている[11]。 高見は第二次世界大戦以降の日本の学界の主な論争をまとめている。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 高見勝利 『宮沢俊義の憲法学史的研究』 有斐閣、2000年。ISBN 4-641-12867-7。
- 美濃部達吉 『憲法撮要』 有斐閣、1926年。
- 鈴木安蔵 『日本憲法学の生誕と発展』 叢文閣、1934年。
- 尾佐竹猛 『維新前後に於ける立憲思想の研究』 中文館書店、1934年。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 高見勝利著「講座担任者から見た憲法学説の諸相-日本憲法学史序説」、北大法学論集, 52(3): 1-38、2001年。