「尾崎豊」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
タグ: 手動差し戻し
20行目: 20行目:
|公式サイト = [http://www.ozaki.org/ YUTAKA OZAKI OFFICIAL SITE]
|公式サイト = [http://www.ozaki.org/ YUTAKA OZAKI OFFICIAL SITE]
}}
}}
'''尾崎 豊'''(おざき ゆたか、[[1965年]]〈昭和40年〉[[11月29日]]<ref name="off">{{Cite web |url=http://www.sonymusic.co.jp/artist/YutakaOzaki/profile/ |title=尾崎豊 プロフィール|accessdate=2016-09-09 |work=Sony Music ソニー・ミュージック公式サイト |publisher=Sony Music Entertainment Japan}}</ref> - [[1992年]]〈平成4年〉[[4月25日]]<ref name="off"/>)は、[[日本]]の[[シンガーソングライター]]。[[青山学院中等部・高等部|青山学院高等部]]中退<ref name="off"/>。[[血液型]][[ABO式血液型|B型]]<ref name="kyoso">[[フジテレビ系列]]「尾崎豊 〜作られた教祖〜」平成4年(1992年)6月2日放送分より</ref><ref>「尾崎豊ストーリー 未成年のまんまで」(1985年、落合昇平著、[[ソニー・マガジンズ]]、ISBN 4789701964)</ref><ref>「尾崎豊 青春の叫び BORN TO RUN」(2002年4月21日、[[NHK衛星第2テレビジョン|NHK-BS2]])</ref>。[[身長]]178cm。既婚。息子は歌手の[[尾崎裕哉]]。兄は[[弁護士]]、[[裁判官]]の[[尾崎康]]。
'''尾崎 豊'''(おざき ゆたか、[[1965年]][[11月29日]]<ref name="off">{{Cite web |url=http://www.sonymusic.co.jp/artist/YutakaOzaki/profile/ |title=尾崎豊 プロフィール|accessdate=2016-09-09 |work=Sony Music ソニー・ミュージック公式サイト |publisher=Sony Music Entertainment Japan}}</ref> - [[1992年]][[4月25日]]<ref name="off"/>)は、[[日本]]の[[シンガーソングライター]]。[[青山学院中等部・高等部|青山学院高等部]]中退<ref name="off"/>。[[血液型]][[ABO式血液型|B型]]<ref name="kyoso">[[フジテレビ系列]]「尾崎豊 〜作られた教祖〜」平成4年(1992年)6月2日放送分より</ref><ref>「尾崎豊ストーリー 未成年のまんまで」(1985年、落合昇平著、[[ソニー・マガジンズ]]、ISBN 4789701964)</ref><ref>「尾崎豊 青春の叫び BORN TO RUN」(2002年4月21日、[[NHK衛星第2テレビジョン|NHK-BS2]])</ref>。[[身長]]178cm。既婚。息子は歌手の[[尾崎裕哉]]。兄は[[弁護士]]、[[裁判官]]の[[尾崎康]]。


== 概略 ==
== 概略 ==
206行目: 206行目:
== 死後のエピソード ==
== 死後のエピソード ==
; 死亡直後の影響
; 死亡直後の影響
: 尾崎の死後、尾崎のアルバムが急激に売れる現象が起こり、1992年5月25日付のオリコンアルバムチャートではTOP10中6作を尾崎が占める現象が起こった(1位『[[放熱への証]]』、4位『[[回帰線 (尾崎豊のアルバム)|回帰線]]』、5位『[[十七歳の地図 (アルバム)|十七歳の地図]]』、6位『[[LAST TEENAGE APPEARANCE]]』、7位『[[壊れた扉から]]』、9位『[[誕生 (尾崎豊のアルバム)|誕生]]』。、TOP10外に14位『[[街路樹 (アルバム)|街路樹]]』がある)。また、同年6月16日 - 17日の初の[[日本武道館]]ライブを含む全国コンサートツアーが予定されていたが、尾崎の死によって中止となった。しかし、チケットを手元に置くファンが多かったか、チケットの払い戻しに来る人はほとんどなかった。
: 尾崎の死後、尾崎のアルバムが急激に売れる現象が起こり、1992年5月25日付のオリコンアルバムチャートではTOP10中6作を尾崎が占める現象が起こった(1位『[[放熱への証]]』、4位『[[回帰線 (尾崎豊のアルバム)|回帰線]]』、5位『[[十七歳の地図 (アルバム)|十七歳の地図]]』、6位『[[LAST TEENAGE APPEARANCE]]』、7位『[[壊れた扉から]]』、9位『[[誕生 (尾崎豊のアルバム)|誕生]]』。なお、TOP10外に14位『[[街路樹 (アルバム)|街路樹]]』がある)。また、同年6月16日 - 17日の初の[[日本武道館]]ライブを含む全国コンサートツアーが予定されていたが、尾崎の死によって中止となった。しかし、チケットを手元に置くファンが多かったためか、チケットの払い戻しに来る人はほとんどなかった。
: 尾崎が倒れていた東京都[[足立区]]千住河原町の民家の部屋は1人の女性ファンが毎日訪問したことをきっかけに所有者が意でファンに開放し、「尾崎ハウス」と呼ばれてファンの交流の場になっていたが、2011年10月、改築の為、解体された<ref>{{Cite news|title=尾崎の記憶永遠に|newspaper=[[読売新聞]]|date=2011-10-04|url=http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news2/20111004-OYT8T00284.htm|accessdate=2014-03-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111010050604/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news2/20111004-OYT8T00284.htm|archivedate=2011年10月10日}}※現在は[[インターネットアーカイブ]]に残存(掲載写真画像を除く)</ref>。
: 尾崎が倒れていた東京都[[足立区]]千住河原町の民家の部屋は1人の女性ファンが毎日訪問したことをきっかけに所有者が意でファンに開放し、「尾崎ハウス」と呼ばれてファンの交流の場になっていたが、2011年10月、改築のため解体された<ref>{{Cite news|title=尾崎の記憶永遠に|newspaper=[[読売新聞]]|date=2011-10-04|url=http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news2/20111004-OYT8T00284.htm|accessdate=2014-03-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111010050604/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news2/20111004-OYT8T00284.htm|archivedate=2011年10月10日}}※現在は[[インターネットアーカイブ]]に残存(掲載写真画像を除く)</ref>。


; 教科書への掲載
; 教科書への掲載
: その思想や活動、若者におけるカリスマ的人気から、中学・高校の教育現場で長らくタブー視されてきた。死後10年以上経った現在では評価も変わってきており、高校教科書に顔写真や「15の夜」の歌詞が掲載されている(『高等学校 新倫理 - 人間とは何か 思索の糧に - 』 [[清水書院]]、[[2002年]])。『新[[カリキュラム|課程]]用 倫理用語集』([[山川出版社]]、[[2005年]])には、「尾崎豊」は用語頻度「3」で掲載され<ref group="注釈">現行教科書11種類の内、3種類の本に記述がある。</ref>、「1980年代に活躍し、[[夭折]]したシンガーソングライター」「自ら作詞・作曲した歌の世界に没頭しながら全身全霊をこめて歌い」というように記述されている (ISBN 4634053500)。
: その思想や活動、若者におけるカリスマ的人気から、中学・高校などの教育現場で長らくタブー視されてきた。死後10年以上経った現在では評価も変わってきており、高校教科書に顔写真や「15の夜」の歌詞が掲載されている(『高等学校 新倫理 - 人間とは何か 思索の糧に - 』 [[清水書院]]、[[2002年]])。『新[[カリキュラム|課程]]用 倫理用語集』([[山川出版社]]、[[2005年]])には、「尾崎豊」は用語頻度「3」で掲載され<ref group="注釈">現行教科書11種類のうち3種類の本に記述があること。</ref>、「1980年代に活躍し、[[夭折]]したシンガーソングライター」「自ら作詞・作曲した歌の世界に没頭しながら全身全霊をこめて歌い」というように記述されている (ISBN 4634053500)。


; 海外でのカバー化
; 海外でのカバー化
216行目: 216行目:


; 遺書の公開
; 遺書の公開
: 2011年11月9日、翌10日発行の[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]に「遺書」全文が公開されるが報じられた。文藝春秋の記事はジャーナリストの加賀孝英が執筆した。「遺書」と言われる文書の存在は1994年の月刊誌で報じられたが、全文掲載は初めてとなる。加賀が同年に入手していたが、尾崎の妻から「長男の[[尾崎裕哉]]が物心つくまで公表しないでほしい」と要請され、全文公開を控えていた。裕哉が成人してアーティストとしてCMで歌声を披露したや、上述の「尾崎ハウス」が解体されたを契機として、公開に至ったとしている<ref>{{Cite news |title=尾崎豊さんの“遺書”あった 10日発売の「文藝春秋」に掲載 「先日からずっと死にたいと…」|newspaper=[[産経新聞]] |date=2011-11-09 |url=http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/111109/ent11110914340014-n1.htm |accessdate=2014-03-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131001042327/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/111109/ent11110914340014-n1.htm |archivedate=2013-10-01}}<br />
: 2011年11月9日、翌10日発行の[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]に「遺書」全文が公開されることが報じられた。文藝春秋の記事はジャーナリストの加賀孝英が執筆した。「遺書」と言われる文書の存在は1994年の月刊誌で報じられたが、全文掲載は初めてとなる。加賀が同年に入手していたが、尾崎の妻から「長男の[[尾崎裕哉]]が物心つくまで公表しないでほしい」と要請され、全文公開を控えていた。裕哉が成人してアーティストとしてCMで歌声を披露したことや、上述の「尾崎ハウス」が解体されたことを契機として、公開に至ったとしている<ref>{{Cite news |title=尾崎豊さんの“遺書”あった 10日発売の「文藝春秋」に掲載 「先日からずっと死にたいと…」|newspaper=[[産経新聞]] |date=2011-11-09 |url=http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/111109/ent11110914340014-n1.htm |accessdate=2014-03-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131001042327/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/111109/ent11110914340014-n1.htm |archivedate=2013-10-01}}<br />
※全2頁構成《上記リンクは第1頁を表示;[https://web.archive.org/web/20130718234531/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/111109/ent11110914340014-n2.htm →第2頁]》。いずれも現在はテキスト部分のみインターネットアーカイブに残存</ref>。
※全2頁構成《上記リンクは第1頁を表示;[https://web.archive.org/web/20130718234531/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/111109/ent11110914340014-n2.htm →第2頁]》。いずれも現在はテキスト部分のみインターネットアーカイブに残存</ref>。
: 一方、NEWSポストセブンによると、1994年に本来なら未公開であるの「死体検案書」が一部のマスコミに流出して他殺説が噂されたり、当時尾崎の父親が署名を集め警察に再捜査を要請したの経緯もあるから、父親は遺書の公開についても真偽について疑念を抱いており、「いまとなっては、他殺だとは思ってないけど、あれは自殺ではない。豊じゃないからわからないけど、なんで死んだんだって…いまでも思ってます」と自殺であるを否定した<ref>{{Cite news |title=尾崎豊の遺書公開に実父 「本当の遺書?」「自殺じゃない」|newspaper=NEWSポストセブン |date=2011-11-18 |url=http://www.news-postseven.com/archives/20111118_71059.html |accessdate=2014-03-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131023230343/http://www.news-postseven.com/archives/20111118_71059.html |archivedate=2013-10-23}}《》</ref>。
: 一方、NEWSポストセブンによると、1994年に本来なら未公開であるはずの「死体検案書」が一部のマスコミに流出して他殺説が噂されたり、当時尾崎の父親が署名を集め警察に再捜査を要請したなどの経緯もあることから、父親は遺書の公開についても真偽について疑念を抱いており、「いまとなっては、他殺だとは思ってないけど、あれは自殺ではない。豊じゃないからわからないけど、なんで死んだんだって…いまでも思ってます」と自殺であることを否定した<ref>{{Cite news |title=尾崎豊の遺書公開に実父 「本当の遺書?」「自殺じゃない」|newspaper=NEWSポストセブン |date=2011-11-18 |url=http://www.news-postseven.com/archives/20111118_71059.html |accessdate=2014-03-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131023230343/http://www.news-postseven.com/archives/20111118_71059.html |archivedate=2013-10-23}}《》</ref>。


== ファンクラブ ==
== ファンクラブ ==

2021年4月26日 (月) 15:01時点における版

尾崎 豊
渋谷クロスタワーテラスにある記念レリーフ
基本情報
生誕 (1965-11-29) 1965年11月29日
日本の旗 日本 東京都世田谷区
自衛隊中央病院
出身地 日本の旗 日本 東京都練馬区
死没 (1992-04-25) 1992年4月25日(26歳没)
日本の旗 日本 東京都文京区
日本医科大学付属病院
学歴 青山学院高等部中退
ジャンル ロック
フォーク
職業 歌手
作詞家
作曲家
編曲家
詩人
実業家
担当楽器 ボーカル
ギター
ピアノ
ハーモニカ
カスタネット
活動期間 1983年 - 1992年
レーベル CBSソニー
(1983年 - 1986年)
MOTHER&CHILDREN
(1987年 - 1988年)
CBSソニー
(1990年)
ソニー・ミュージックレコーズ
(1991年 - 1992年)
事務所 マザー・エンタープライズ
(1983年 - 1989年)
ROAD AND SKY
(1990年)
アイソトープ(1991年 - 1992年)
共同作業者 須藤晃
西本明
田島照久
町支寛二
福田信[注釈 1]
佐藤輝
公式サイト YUTAKA OZAKI OFFICIAL SITE

尾崎 豊(おざき ゆたか、1965年11月29日[1] - 1992年4月25日[1])は、日本シンガーソングライター青山学院高等部中退[1]血液型B型[2][3][4]身長178cm。既婚。息子は歌手の尾崎裕哉。兄は弁護士裁判官尾崎康

概略

1983年12月シングル15の夜」とアルバム十七歳の地図』で高校在学中にデビュー[1][5]

ライブでのパフォーマンスや、夢や愛、生きる意味をストレートに表現した赤裸々な歌詞、楽曲には、自身が社会や学校の中で感じた葛藤や心の叫びを表現され、1980年代から1990年代初頭にかけての若者を中心に人気が高まる[5][6][7]。その作品と活動は高く評価され、作品に迸るメッセージは死去から25年以上経過した現在でも多くのファンやミュージシャンに支持されている[8]

1992年、26歳にて死去し、メディアにて連日報道がされた[注釈 2]。死後20年を過ぎてもなお尾崎は幅広く支持され、楽曲は多くのアーティストにカバーされている[5][8]

ジャクソン・ブラウンブルース・スプリングスティーンビリー・ジョエル浜田省吾佐野元春井上陽水アナーキー甲斐バンドさだまさしなどから強い影響を受けている[9][10][11]

生涯

幼少 - 学生時代

1965年昭和40年)11月29日東京都世田谷区自衛隊中央病院にて、陸上自衛隊防衛事務官の尾崎健一と妻の絹枝の次男として生まれる[1]。兄弟は5歳年上の兄尾崎康がいる。練馬区で育ち、練馬区立田柄第二保育園から練馬区立田柄第二小学校に入学した[1]が、1976年(昭和51年)8月、尾崎が小学5年生の時に埼玉県朝霞市へ転居し[12]、朝霞市内の公立小学校へ通う[1]。しかし、転校先の学校に馴染めず、毎朝登校するふりをして家を出たあと1時間ほどして家に帰り、実際には登校していない日々が続くようになった[12]。尾崎が音楽に触れるきっかけとなったのは、兄が購入して使用されていなかったクラシック・ギターを手に取り始めたことであった[12]。あらゆるフォークソングシンガーソングライターの曲に興味を持っていた尾崎は、特に井上陽水が描き出す詞の世界観に強く惹かれていた[12]。小学校6年生になると半年に渡り登校拒否を続けており、その間、井上陽水やさだまさしイルカの曲をギターを弾きながら歌う日々が続いていた[13]

小学校を卒業すると、本人の希望で[14]練馬区立練馬東中学校越境入学[1]生徒会副会長、文化祭実行委員長を務めたが、喫煙により停学処分が下る[15]。高校受験では、第一志望であった慶應義塾志木高等学校には不合格だったものの、青山学院高等部に合格。さらに、陸上自衛隊少年工科学校の1次試験にも20倍の競争率を突破して合格した[16][17]。しかし髪を短くしなくてはいけないと言う理由で、すでに合格していた青山学院高等部に進学することになった[17]。高校在学中には喫煙やオートバイでの事故などで停学、さらに、高校3年生のときには渋谷で同級生らと飲酒した挙句、同じクラスの女子生徒が一気飲みをし急性アルコール中毒で搬送、大学生のグループとパトカーが出動するほどの乱闘騒ぎを起こし、無期限停学処分を下される[18]。これがオーディションを受ける契機となる。のちに停学処分は解けたが、出席日数が足りず留年となり、自主退学した。高校在学時には新聞配達[注釈 3]と飲食店でのアルバイトをしていた[20]。また、高校時代は剣道部に所属していた[21]

その後、ジャケットを見ただけで何となく購入したジャクソン・ブラウンの「ランニング・オン・エンプティ」を聴いて衝撃を受ける[22]。その影響で「街の風景」や「ダンスホール」などの曲が製作された[22]

デビュー - 10代全盛期

高校2年生の秋、音楽で生計を立てていくことを決意した尾崎はCBSソニーが主催した『CBS SONY Sound Development Audition 1982』、ビクター主催のオーディションにそれぞれ応募し[23]、CBSソニーのオーディションに合格する[1][24]

尾崎は浜田省吾の音楽が好きで[11]、プロデューサーの須藤晃も作品の匂いに浜田との共通点を感じて[11]、デビューアルバム『十七歳の地図』のレコーディングには浜田省吾と佐野元春のツアーバンドを半々起用した[11][25]。『十七歳の地図』は初回プレスが2,000枚ほどであり[26][27]、事務所やレコード会社も積極的なプロモーションも行わなかったためにセールスは伸び悩んだ。

その後口コミにより人気が出て、3rdシングル「卒業」の中の過激な歌詞が話題となり[28]、2ndアルバム『回帰線』は大手音楽チャート1位を記録[29]、尾崎の名は瞬く間に全国へと広がっていった[5]

特に10代のころは「社会への反抗・疑問」や「反支配」をテーマにした歌を多く歌い、マスメディアからは「10代の教祖」などと呼ばれた[7][30]校内暴力や学生による飲酒・喫煙が横行し、偏差値教育や受験戦争のひずみが露呈していた時代世相と相まって一部の若者の間で社会現象となる[7][注釈 4]。10代最後の日に3rdアルバム『壊れた扉から』を発売しヒット、同時期に行われていたツアーも満員となるなど人気は絶頂を迎える。

無期限活動休止 - 完全復活 - 再び精神的な低迷へ

一世を風靡した尾崎は、20歳になり方向性を見失い突然無期限活動休止を宣言し単身渡米する[1][5]。当時曲を生み出せないことに苦悩していた尾崎は、何の収穫もないままその年の末に帰国する[31]。そんな中で所属事務所が立ち上げたレコード会社への移籍が決定[1][5]、プロデューサーの須藤ら懇意にしていた音楽スタッフとも離れてしまい、新しいアルバムの制作は何度も中断された[31]。その後、新曲の発売がないまま1年半ぶりのライヴツアーが始まるも、9月に肉体的な疲労から倒れ、残りのツアーは中止となる[1][16]。その年の暮れには覚醒剤取締法違反で逮捕され精神的に低迷[32]、バックバンド「Heart Of Klaxon」のメンバーとも関係が悪化する[32]。復帰後にリリースした「太陽の破片」がヒット、フジテレビ系列の『夜のヒットスタジオ』に最初で最後のテレビ出演を行い、東京ドームにて復活ライブを行うが、同時期に制作していたアルバム『街路樹』は発売延期を繰り返し、シングル「核 (CORE)」の完成度を含め満足のいく活動からは程遠かった。

一方プライベートでは一般人女性と結婚、長男が生まれ、新たな価値観を見出した尾崎は1990年平成2年)、レコード会社を古巣のCBSソニーに復帰、2枚組アルバム『誕生』をリリースし、オリコン1位を記録。さらに個人事務所「ISOTOPE」(アイソトープ)を設立し、翌年には大規模ツアーを行うなど、尾崎は完全復活を遂げる。しかし同時に事務所やマスコミへの猜疑心は止むことはなく[33]、尊敬する浜田省吾の個人事務所であるロードアンドスカイも短期間で契約を解除した[33]。個人事務所を立ち上げるも経営面の管理のほかにプロモートからライヴスケジュール自ら取り仕切らなければならず、多忙な日々を送る中で、再び精神的に追い詰められた尾崎は自殺を図るなど混迷を深めていった[34]。その後、遺作となる『放熱への証』の制作に取りかかるが、1991年末に母親が急死。交友関係も狭くなっていき、精神的状況はさらに悪い方向へ向かっていた。

20代になってからの尾崎は、かつての「自由」「反支配」といったものとは違い、「真実の愛」「贖罪」「罪」といったものを主題にした歌を多く作っていった。

26歳での突然死

1992年(平成4年)4月25日(土)早朝、当時の尾崎の自宅であるマンションから約500メートル離れた、足立区千住河原町の民家の軒先に全裸で傷だらけで倒れていたところを住人に発見された[35]。5時45分ごろ、通報で墨田区内の白鬚橋病院に運び込まれる[36]。診察した医師は「生命に関わることも考えられるので、専門医に診てもらった方がいい」と診断したが[37]、尾崎は妻と兄とともに自宅マンションに戻る[37]。しかし、10時頃になって容体が急変、呼吸が止まっているのに気がついた家族が約1時間後の11時9分に119番通報。日本医科大学付属病院で手当てを受けるも、午後0時6分に死亡した[1][38][39][40]。死因は肺水腫[41](詳細は後述)。

後日、雨の降る中4月30日(木)東京都文京区護国寺にて葬儀・追悼式が行われ、参列者は4万人近く[注釈 5]に上り、規模は美空ひばり吉田茂に匹敵するものとなった[注釈 6]。密葬は日蓮正宗にて営まれた。戒名は「頌弦院智心碩豊居士」[43]、墓所は埼玉県所沢市の狭山湖畔霊園にある[注釈 7][44]

略歴

生前、活動期の詳しい経歴はHeart Of Klaxonも参照。

人物

クールで尖ったイメージのある尾崎だが、プライベートの尾崎は明るい好青年であった。

当時はロックバンド「OZONE」でボーカルとして活躍し、尾崎と同じCBSソニーに所属していた俳優の坂上忍は、インタビューで「尾崎はいつも暗い顔して写真に写ってたけど、プライベートはホントに明るくて。こっちのほうがよっぽど暗かったですから。『忍ちゃーん!』とか言って登場して来るぐらいですからね」と語っている[53]。別の対談では、坂上は尾崎のファーストアルバムを聴いて「クドくない?」と思ったという。坂上は一度だけ尾崎と2人きりで飲む機会があったが、そこで尾崎から「もう曲が書けない」という本音を聞いた。それでも尾崎が(吉川晃司本田恭章を含めた)4人の中では最後まで歌い続けるだろうと思ったが、26歳の若さで誰よりも先に亡くなるとは信じられなかったと語っている[54]

2013年12月1日にWOWOWで放送された『尾崎豊デビュー30周年記念日-THE DAY』で、尾崎の曲のアレンジャーも務めたギタリストの町支寛二は「話を交わすときはいつも純真な青年ってイメージで。だから初めてライブを観に行ったとき、スイッチがひとつ入っちゃう感じに鳥肌が立ちましたね」と述べた。また、RED WARRIORSの小川清史は「リハーサルの間に「実は尾崎、俺『Bow!』って曲凄く好きなんだ」って言ったら、顔をくしゃくしゃにして『本当?』って喜んでくれて」と語っている[55]

1991年の「1991 BIRTH TOUR」のサポート・ベーシストを務めた渡辺茂は「初対面のときに、それまでいろんな仲間から変わってる奴だと散々聞いてたが、普段は礼儀正しくて大人しかった。でもステージの上では破壊的で、跳ぶわ、ピアノの上に寝るわでびっくりしました」と述べた。サクソフォンを担当した関誠一郎は「服装は派手だけど、普通の人で、気さくな感じだ」と、パーカッションの里村美和は「熊本(熊本県・阿蘇で行われたロックイベントBEAT CHILDのこと)で僕が佐野元春とやってるときに初めてあったんだけど、真面目で礼儀正しいやつだと思った」と語っている[56]

また、10代のころは尾崎自身のカリスマ性やイメージを保つために、写真はすべてモノクロームで掲載され、笑顔の写真も自粛された。

バックバンド

尾崎のバックバンドは、ツアーやライブごとに名称やメンバーが異なっている。

尾崎の交友関係

尾崎の友人の一人として、デビューが同期の吉川晃司が挙げられる。2人は1984年8月5日に日比谷野外音楽堂で開催予定だった「TOKYO ROCK FEELING FESTIVAL」で共演しようとしたが、尾崎が前日の「アトミック・カフェ」出演中に足を骨折してしまい、実現しなかった[注釈 23]。その後、無期限活動休止中の1986年1月31日にHOUND DOGの日本武道館での公演で吉川と共演している[57]

吉川のほか、岡村靖幸[注釈 24]金山一彦RED WARRIORS渡辺美里川上麻衣子白井貴子中村あゆみ南野陽子白竜村上龍坂本龍一米米CLUB石井竜也チェッカーズ藤井フミヤ沢木耕太郎筑紫哲也、元横綱の北勝海[注釈 25]との交流もあり、大友康平泉谷しげるキラー・カーン本田恭章坂上忍横山蒼空とんねるず石橋貴明中山秀征加藤登紀子桜井和寿福山雅治小田和正なども素の尾崎を懐かしむコメントを出している[注釈 26]光GENJIとしてデビューする以前の大沢樹生とも、よく夜の六本木で遊んでいた。また、俳優・歌手の高橋克典は青山学院高等部の1年先輩で、さらにバレーボール全日本女子元代表・ロサンゼルス五輪銅メダリスト中田久美は練馬東中学校の同級生で、1年生の時同じクラスメートだったという。

オーディション受賞が同じだった辻仁成とはニューヨーク滞在時にも会っており、自身の悩みを相談していた関係であった[59]

死因について

当初の公表と死体検案書との乖離
初めは事件性がないとして行政解剖が行われる予定だった。しかし千住署、警視庁、検察庁が前日夜に協議した結果、全身にすり傷があり右目の上にコブもあることから司法解剖に切り替えられ、午前10時から東京監察医務院の医師らによって検視、その後解剖が行われた[60]。その結果、死因は肺に水がたまる肺水腫であると発表され、極度の飲酒によるものだと考えられた[60][61]。しかし1994年、司法解剖時に尾崎の体内から覚醒剤が検出されていたことが明らかとなった。覚醒剤について記された「死体検案書」がマスコミに流出すると、尾崎の死因について様々な憶測を呼んだ[61]
司法解剖医による見解
検死を担当した支倉逸人によれば、尾崎の死因は肺水腫であることのみを発表し、肺水腫の原因が覚醒剤中毒であることは伏せられていた。中毒は経時的な悪化によるものではなく、大量の覚醒剤服用(オーバードース、薬の多量摂取)による急性メタンフェタミン中毒が引き起こした肺水腫と結論づけられている。内臓も覚醒剤を経口摂取した形跡があり、肺にも覚醒剤中毒の症状が見られたという[62]
他殺の疑惑
尾崎の遺体には全身のほとんどに多数の傷やあざがあり、亡くなった当初は傷害致死の可能性も指摘された。しかし警察は状況捜査や司法解剖を行った結果から「事件性なし」として調査を終結している。検死をした支倉逸人の著書によれば、擦過傷と打撲傷をじっくり調べた結果、他者からの暴行によって生じるものとは異なる状態であったとの記述がある。またそれを裏付けるように尾崎が転倒したり暴れて転げ回っていたという証言を警官が確認しており、このような異常行動は覚醒剤中毒者によく見られるものである。なお、支倉によれば頭部に小さな外傷性くも膜下出血も確認されているが極めて微量の出血であり、死に至るほどの重症ではなかったという[62]
1994年にはテレビ朝日が、流出した「死体検案書」のコピーやジャーナリストが取材した結果を元に妻と知人が覚醒剤を飲ませて殺害したとする説を主張、尾崎の死を検証する番組を製作した。ところが尾崎の妻がテレビ朝日と記事を執筆したジャーナリストを相手取り訴訟を起こしたため、番組はお蔵入りとなり放送されることはなかった[63]。結果は原告の尾崎の妻が一審・二審・最高裁すべてで勝訴した[62]。(テレビ朝日は一審判決後原告と和解)。
7年後の1999年には週刊誌『フライデー』に蘇生措置を施されている尾崎の写真と死体検案書が掲載された。しかし、この記事は検死を行った支倉に対して一切の取材を行わずに書かれたものであったことが著書で述べられている。支倉は著書内で覚醒剤の致死量は個人差が大きく、薬殺の手段として用いるには酒と同じくらい不確実性が高いと述べている[62]

死後のエピソード

死亡直後の影響
尾崎の死後、尾崎のアルバムが急激に売れる現象が起こり、1992年5月25日付のオリコンアルバムチャートではTOP10中6作を尾崎が占める現象が起こった(1位『放熱への証』、4位『回帰線』、5位『十七歳の地図』、6位『LAST TEENAGE APPEARANCE』、7位『壊れた扉から』、9位『誕生』。なお、TOP10外に14位『街路樹』がある)。また、同年6月16日 - 17日の初の日本武道館ライブを含む全国コンサートツアーが予定されていたが、尾崎の死によって中止となった。しかし、チケットを手元に置くファンが多かったためか、チケットの払い戻しに来る人はほとんどなかった。
尾崎が倒れていた東京都足立区千住河原町の民家の部屋は1人の女性ファンが毎日訪問したことをきっかけに所有者が好意でファンに開放し、「尾崎ハウス」と呼ばれてファンの交流の場になっていたが、2011年10月、改築のため解体された[64]
教科書への掲載
その思想や活動、若者におけるカリスマ的人気から、中学・高校などの教育現場で長らくタブー視されてきた。死後10年以上経った現在では評価も変わってきており、高校教科書に顔写真や「15の夜」の歌詞が掲載されている(『高等学校 新倫理 - 人間とは何か 思索の糧に - 』 清水書院2002年)。『新課程用 倫理用語集』(山川出版社2005年)には、「尾崎豊」は用語頻度「3」で掲載され[注釈 27]、「1980年代に活躍し、夭折したシンガーソングライター」「自ら作詞・作曲した歌の世界に没頭しながら全身全霊をこめて歌い」というように記述されている (ISBN 4634053500)。
海外でのカバー化
尾崎の代表曲である「I LOVE YOU」はアジアのみならず世界各国の歌手にカバーされ、カバー曲を含めた総売上は全世界で1,000万枚に達する。
遺書の公開
2011年11月9日、翌10日発行の文藝春秋に「遺書」全文が公開されることが報じられた。文藝春秋の記事はジャーナリストの加賀孝英が執筆した。「遺書」と言われる文書の存在は1994年の月刊誌で報じられたが、全文掲載は初めてとなる。加賀が同年に入手していたが、尾崎の妻から「長男の尾崎裕哉が物心つくまで公表しないでほしい」と要請され、全文公開を控えていた。裕哉が成人してアーティストとしてCMで歌声を披露したことや、上述の「尾崎ハウス」が解体されたことを契機として、公開に至ったとしている[65]
一方、NEWSポストセブンによると、1994年に本来なら未公開であるはずの「死体検案書」が一部のマスコミに流出して他殺説が噂されたり、当時尾崎の父親が署名を集め警察に再捜査を要請したなどの経緯もあることから、父親は遺書の公開についても真偽について疑念を抱いており、「いまとなっては、他殺だとは思ってないけど、あれは自殺ではない。豊じゃないからわからないけど、なんで死んだんだって…いまでも思ってます」と自殺であることを否定した[66]

ファンクラブ

尾崎の公式ファンクラブは「Edge Of Street」と呼ばれており、1991年3月に設立された。

ファンクラブでは同名の会報も発行されており、0℃から3℃[注釈 28]までは尾崎自身が手がけていた[注釈 29]。尾崎の死後も会報は発行されていたが、57℃をもって、発行を休止している。

ファンクラブは尾崎の死後も活動を続けていたが、2005年末をもって、一旦休止している。公式サイトでは『2006年春以降に新しい形態でスタートする予定』と発表されているが、現在は新規入会を受け付けていない[67]

「Edge Of Street」という名称については、会報の創刊号である「Edge Of Street 0℃」において、『浜田省吾が「ROAD[注釈 30]」なら、自分は「Edge」だ[注釈 31]。』と書かれている。

死後の特集番組

尾崎の死後には様々な特集番組が放送されている。

テレビ

NHK

BS2」・「BSプレミアム」では尾崎の特集番組[注釈 32]1999年からほぼ毎年放送されている。

NHK総合
  • 1993年(平成5年)4月25日「I LOVE YOU 真実の証」
  • 1998年(平成10年)9月15日「僕が僕であるために」- リハーサル中の映像などが初公開となる。
  • 2012年(平成24年)4月28日「SONGS」- 尾崎のライブ映像で構成。出演は尾崎の他に須藤晃ら。
  • 2019年(令和元年)12月19日「SONGS 第519回 令和の時代に響く 尾崎豊」 - 眉村ちあき、石崎ひゅーい、秋山黄色らが尾崎のカバーを披露。秋元才加、Mattがコメントを寄せた。
BS2
  • 1994年(平成6年)4月4日 BSヤングナイト 真夜中の王国「尾崎豊の世界1 疾走の軌跡」
  • 1994年4月5日 BSヤングナイト 真夜中の王国「尾崎豊の世界2 青春の聖痕」
  • 1994年4月6日 BSヤングナイト 真夜中の王国「尾崎豊の世界3 優しさの迷路へ」- 『復活 尾崎豊 YOKOHAMA ARENA 1991.5.20』にも収録されなかった、横浜アリーナの「音のない部屋」「禁漁区」などの公演を放送。
  • 1998年(平成10年)4月24日 「ありがとう尾崎豊 リクエストで甦る永遠の詩」- 電話でリクエストを募集。リクエストランキング総合1位は「シェリー」。
  • 1999年(平成11年)12月9日「21歳の夏」- 1987年8月29日、30日に行われた有明コロシアムでの舞台裏での様子やライブ映像を放送。「TREES LINING A STREET TOUR」のライブ映像は初公開となった。後にこの番組の映像に未公開映像を加えたライブ・ビデオ「OZAKI FILM ALIVE AT ARIAKE COLOSSEUM IN 1987 THE TWENTY-FIRST SUMMER」が発売。
  • 2000年(平成12年)4月20日「永遠の詩」- 電話でリクエストを募集。リクエストランキング総合1位は「卒業」。
  • 2001年(平成13年)4月20日「尾崎豊への伝言 10th Anniversary」-「Rock」・「BALLAD」・「MESSAGE」の分野別にリクエストを募集。リクエストランキング総合1位は「 I LOVE YOU 」。
  • 2002年(平成14年)4月21日「尾崎豊 青春の叫び BORN TO RUN」- 初公開となる1985年8月25日の大阪球場でのライブ映像を中心に構成。「BORN TO RUN」は尾崎に大きな影響を与えたブルース・スプリングスティーンの曲[注釈 33]
  • 2003年(平成15年)4月26日「永遠の肖像」- 1987年8月22日に開催されたロックイベント「BEAT CHILD」の「Driving All Night」、「Bow!」などのライブ映像が初公開となる。出演は白井貴子加藤登紀子島田紳助ら。
  • 2003年11月29日「迷宮美術館」- 尾崎が描写したパステル画「動脈静脈」を紹介。
  • 2004年(平成16年)4月24日「尾崎豊 十代の素顔」- サブタイトルは「不滅の名曲・その原点に帰る」。1988年9月12日に東京ドームで行われた「LIVE CORE」のリハーサル映像が初公開される。
  • 2005年(平成17年)4月23日「尾崎豊に会える日」- サブタイトルは「帰らざる青春の光と風」。1987年8月29日の有明コロシアムでの「誰かのクラクション」や1985年11月15日に代々木オリンピックプールで歌われた「米軍キャンプ」などが初公開となる。
  • 2007年(平成19年)4月28日「尾崎豊15年目のアイラブユー」- 1988年9月12日に東京ドームで開催された「LIVE CORE」での「遠い空」や1987年8月22日の「BEAT CHILD」での「街角の風の中」などが初公開となる。
BSプレミアム
  • 2010年(平成22年)4月24日「歌伝説 尾崎豊 〜少年のように駆け抜けた男〜」- 主に尾崎の同級生らの話で構成されている。
  • 2012年(平成24年)11月10日「ヒーローたちの壮絶人生 おとなになった君たちへ 尾崎豊 20年目の真実」- 1984年8月4日に開かれた反核イベント「アトミック・カフェ」で「Scrambling Rock'n'Roll」の間奏の際に高さ7mの照明器具から飛び降りる映像がテレビ初公開となる[注釈 34]
NHKハイビジョン

テレビ東京系列

テレビ東京
  • 2002年(平成14年)7月7日「そして音楽が始まる」- 尾崎の父親である尾崎健一や兄の尾崎康、須藤晃らが出演。I LOVE YOUを特集。
  • 2002年(平成14年)12月8日「そして音楽が始まる」- 十七歳の地図を特集。大阪で初めて行ったバナナホールでのライブの紹介。
BSジャパン

フジテレビ系列

フジテレビ
  • 1992年(平成4年)6月2日「尾崎豊 〜作られた教祖〜」
  • 1993年(平成5年)5月5日「絆の証」
  • 2019年(平成31年)4月25日「直撃!シンソウ坂上」

日本テレビ系列

日本テレビ

テレビ朝日系列

テレビ朝日
  • 1999年(平成11年)12月31日「今夜蘇るカリスマ尾崎豊の光と影」
ABCテレビ
  • 1993年(平成5年)11月5日「驚きももの木 20世紀」- 尾崎が友人の結婚式で「I LOVE YOU」を歌う映像が初公開となる。
  • 1999年(平成11年)11月19日「ターニングポイント」-「知られざる尾崎豊の神話」と題し尾崎の生涯を放送。出演はユースケ・サンタマリア優香ら。

WOWOW

  • 2001年(平成13年)8月19日「尾崎豊 もうひとつのリアリティ “Live + Documentary”」- 尾崎のライブツアー『1991 BIRTH TOUR』から1991年8月27日の郡山市民文化センターでのライブ映像や須藤晃による尾崎のインタビュー映像を放送。のちに、未公開映像3曲を加えてこの番組を再編集したライブビデオ『もうひとつのリアリティ “LIVE + DOCUMENTARY”』が発売されている。
  • 2013年(平成25年)12月1日「尾崎豊30周年記念日-THE DAY∼prologue∼」、「尾崎豊30周年記念日-THE DAY-」、「復活 尾崎豊 YOKOHAMA ARENA 1991.5.20」- デビュー30周年を記念して3つの番組で計3時間以上にわたって特集された。1982年秋にCBSソニーにデモテープが届いてからデビューアルバム『十七歳の地図』が出来上がるまでのストーリーを描いた『尾崎豊デビュー30周年記念日-THE DAY- 〜prologue〜』[注釈 35]、デビューから1992年4月25日に26歳の若さで夭折するまでの約9年間を特集した『尾崎豊デビュー30周年記念日-THE DAY-』が放送されている。出演は須藤晃田島照久藤井フミヤら。また、昨年、期間限定で劇場公開された尾崎の生前最後のツアーとなった「1991 BIRTH TOUR」の横浜アリーナでの初日公演の模様を収録した『復活 尾崎豊 YOKOHAMA ARENA 1991.5.20』が放映されている[68]

SKY PerfecTV!

1998年(平成10年)「19651129-19920425」

ラジオ

NHK-FM
  • 2011年(平成23年)5月5日「今日は一日“尾崎豊”三昧」- 正午から10時間生放送。コメンテーターは落合昇平。
ニッポン放送
  • 1992年(平成4年)6月22日「15の夜 ラストナイト」- サブタイトルは「尾崎豊 FINAL TOUR 92 ON THE RADIO」。尾崎が高校生のときに組んでいたバンド「NOA」時代に歌った「町の風景」が初公開された。
  • 2009年(平成21年)4月20日「オールナイトニッポンGOLD」- パーソナリティーは早乙女太一
TOKYO-FM
  • 2003年(平成15年)5月4日「Hits from the Radio〜感動へのトリビュート」- 西本明氏が「I LOVE YOU」の誕生秘話を語る。出演は他に須藤晃氏。
  • 2004年(平成16年)4月29日「僕が僕であるために 26歳のメッセージ」- リスナーからのリクエスト番組。リクエストのベスト5は一位から順に「I LOVE YOU」、「卒業」、「僕が僕であるために」、「15の夜」、「シェリー」。
  • 2009年(平成21年)4月25日「KDDI presents 尾崎豊メモリアルスペシャル BIRTH 〜From 1991 to 2009〜」- 1991年5月20日に横浜アリーナで行われたツアー初日の初公開音源に加え、須藤晃によるエピソードで構成された。
東海ラジオ
  • 1997年(平成9年)11月29日「だから僕には君のクラクションが聞こえる」- 1985年11月20日に放送された「誰かのクラクション[注釈 36]」の再放送。
  • 2006年(平成18年)3月18日「誰かのクラクション Again」- 「誰かのクラクション」の再放送。 パーソナリティーは須藤が務める。
北日本放送
  • 2003年(平成15年)4月26日「おかしな惑星」- 須藤晃が「Scrambling Rock'n'Roll」について語っている。
  • 2004年(平成16年)2月7日「続・おかしな惑星」
TBSラジオ
  • 2009年(平成21年)3月30日「kakiiin尾崎豊」- プロデビュー前の1980年に原宿音楽祭で歌った「町の風景」や1984年6月の札幌ペニーレインでの「OH MY LITTLE GIRL」が初公開される。
InterFM
  • 2010年(平成22年)10月2日「CONCERNED GENERATION」- この番組で尾崎の長男・尾崎裕哉がDJデビュー。

作品

公演

同じツアー内でも、ライブ会場によってセットリストは一部異なっていた。

形態 タイトル 公演規模・会場・セットリスト 収録作品
1984年 単発コンサート LIVE HOUSE APPEARANCE ビデオ『OZAKI・18』
コンサートツアー 六大都市ライブハウス・ツアー -
単発コンサート - -
単発コンサート アトミック・カフェ・ミュージック・フェスティバル'84 -
1984年 - 1985年 コンサートツアー FIRST LIVE CONCERT TOUR ビデオ『OZAKI・19』
1985年 コンサートツアー TROPIC OF GRADUATION TOUR アルバム『MISSING BOY』
アルバム『OSAKA STADIUM on August 25th in 1985 Vol.1』
アルバム『OSAKA STADIUM on August 25th in 1985 Vol.2』
DVD『625 DAYS』
1985年 - 1986年 コンサートツアー LAST TEENAGE APPEARANCE TOUR アルバム『LAST TEENAGE APPEARANCE』
アルバム『MISSING BOY』
ビデオ『LAST TEENAGE APPEARANCE』
DVD『625 DAYS』
1987年 - 1988年 コンサートツアー TREES LINING A STREET TOUR[注釈 41] アルバム『MISSING BOY』
DVD『OZAKI FILM ALIVE AT ARIAKE COLOSSEUM IN 1987 THE TWENTY-FIRST SUMMER』
1987年 単発コンサート 広島平和コンサート「ALIVE HIROSHIMA '87」 アルバム『Alive! HIROSHIMA 1987』
単発コンサート 熊本BEAT-CHILD 映画『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD1987』
1988年 単発コンサート LIVE CORE ビデオ『LIVE CORE』
アルバム『MISSING BOY』
Blu-ray & DVD『LIVE CORE 完全版〜YUTAKA OZAKI LIVE IN TOKYO DOME 1988・9・12』
アルバム『LIVE CORE LIMITED VERSION YUTAKA OZAKI IN TOKYO DOME 1988/9/12』
1991年 コンサートツアー TOUR 1991 BIRTH ビデオ『TOUR 1991 BIRTH』
アルバム『MISSING BOY』
DVD『AFTER THE BIRTH』
DVD『もうひとつのリアリティ “LIVE + DOCUMENTARY”』
映画『復活 尾崎豊 YOKOHAMA ARENA 1991.5.20』[注釈 47]
コンサートツアー TOUR 1991 BIRTH ARENA TOUR 約束の日 THE DAY ビデオ『TOUR 1991 BIRTH』
アルバム『約束の日 Vol.1』
アルバム『約束の日 Vol.2』
ビデオ『約束の日 LAST APPEARANCE』
DVD『約束の日 LAST APPEARANCE 完全版』
1992年 コンサートツアー TOUR 1992 “放熱への証” Confession for Exist[注釈 48] -

書籍

著書

写真集

関連書籍

  • 尾崎豊ストーリー 未成年のまんまで(1985年、落合昇平著、ソニー・マガジンズISBN 4789701964
  • 失くした1/2 尾崎豊にアンサー・コール(1986年、ソニー・マガジンズ)ISBN 4789702464
    ファンからのメッセージ集
  • 尾崎豊「誕生」想い出の幼少年時代(1993年、尾崎健一著、リム出版新社)ISBN 9784898000083
    尾崎の父による著作
  • 放熱の行方(1993年、吉岡忍著、講談社ISBN 978-4062063593
    ノンフィクション作家によるドキュメンタリー
  • 弟尾崎豊の愛と死と(1994年、尾崎康著、講談社)ISBN 4062070049
    尾崎の兄による尾崎伝
  • 尾崎豊が伝えたかったこと(1995年、須藤晃著、主婦と生活社ISBN 439111741X
  • 尾崎豊覚え書き(1998年、須藤晃著、ソニーマガジンズ、小学館ISBN 4094021019
    尾崎を育てたプロデューサーによる尾崎伝
  • 親愛なる遥(とお)いあなたへ 尾崎豊と分けあった日々(1998年、尾崎繁美著、東京書籍) ISBN 4487754089
    尾崎の妻の著作
  • 尾崎豊物語(ヤング・ジャンプ・コミックス愛蔵版)(1998年、堀口純男著、集英社ISBN 4087825582
  • KAWADE夢ムック 尾崎豊(2001年、河出書房新社ISBN 4309976069
  • 尾崎豊 目覚めゆく魂 - 母と子の物語(2001年、尾崎健一著、春秋社ISBN 4-393-33196-6
    尾崎の父による著作
  • 尾崎豊物語(KCデラックス)(2002年、長緒隆也著、講談社)ISBN 4063346048
  • 愛すること、それがすべて 尾崎豊との永遠の絆(2003年、鬼頭明嗣著、扶桑社ISBN 4594041930
    尾崎の元マネージャーによる著作
  • 誰が尾崎豊を殺したか(1993年、大楽光太郎著、ユニオンプレス)ISBN 4-946485-01-5
  • 新 誰が尾崎豊を殺したか(1995年、大楽光太郎著、松文館)ISBN 978-4790100898
  • 尾崎豊 7年目の真実(1997年、大楽光太郎著、ジャパンミックス)ISBN 978-4883214358
  • 最後のひとかけら - 誰が尾崎豊を殺したか 最終章(2003年、大楽光太郎著、サウンドシャワーパブリッシャー)ISBN 978-4860620134
    尾崎の最後のマネージャーであり、死を看取った一人による著作

脚注

注釈

  1. ^ 尾崎の所か属事務所『マザー・エンタープライズ』およびレーベル『MOTHER&CHILDREN』の社長。
  2. ^ 当時、1ヶ月にも及んで、民放のみならずNHKも含めたテレビ各局は連日のように尾崎の特集を組んだ。
  3. ^ 月給は2万円で、尾崎の担当区域は180部だった[19]
  4. ^ 実際に当時は「卒業」の歌詞に影響されて、学校の校舎の窓ガラスを割るといった事件が発生した[7]
  5. ^ 参列者数は3万8000人、4万人、5万人、5万3000人などと言われている。
  6. ^ それぞれ、美空ひばり、忌野清志郎の追悼式は4万2000人、坂井泉水の追悼式は4万100人、吉田茂の国葬は4万人という規模であった[42]
  7. ^ 防犯上、警備上の理由のため、実際にはこの墓地には尾崎の遺骨は納骨されていない。
  8. ^ のちに、Mr.Childrenらを生んだ小林武史が優勝している。
  9. ^ a b ファーストアルバム『十七歳の地図』に収録されている『街の風景』の原曲。
  10. ^ 原宿音楽祭での「町の風景」は平成21年(2009年)3月30日に放送されたTBSラジオのラジオ番組「kakiiin尾崎豊」にて公開されている。
  11. ^ 十七歳の地図」の原曲。尾崎がつけたタイトルは「野良犬の道」。
  12. ^ オーディションは前日の10月10日に行われたが、尾崎はオーディションを受けなかった。翌日、CBSソニーのプロデューサーである丸沢和宏に説得され、オーディションを受けた[46]
  13. ^ 正確には「Scrambling Rock'n'Roll」の間奏中。
  14. ^ その後もなんとかスタッフに支えられステージに這いつくばりながらセットリストのすべての曲を歌い切った
  15. ^ 大阪球場でのライブはライブツアー「Tropic of Graduation Tour」時に開催されたものであるが当時のツアーパンフレットには日程が記載されておらず、大阪球場での公演2日前の8月23日でツアーは終了する予定であったがツアー開始初日の5月6日に関係者の間で会見を行い公表した。チケットは発売後に即日完売したことからも当時、尾崎の人気が一気に高まっていたことが伺える。
  16. ^ 最初にニューヨークへ渡ったのは1月で、その後は行ったり帰ったりを繰り返し、6月から長期滞在していた。
  17. ^ 同社はのちにアルファ・ムーンと合併しエム・エム・ジーとなり、その後イーストウエスト・ジャパンとなる。
  18. ^ 日本武道館でのライブは尾崎の夢だったが、同じく日本武道館での公演がプログラムされた「放熱への証」ツアーも尾崎の急死によって中止に終わり、結局叶うことはなかった。
  19. ^ 裁判官は尾崎に対して「人気歌手として社会に与えた影響は大きい。仕事上のスランプは理解できないわけではないが、法律が厳禁している覚せい剤の使用は決して許されるべきではない。両親が歌手生命が絶たれても警察に通報して救おうとした熱意などもあり、もう一度更生の機会を与える。一日も早く立ち直るように」と話した。また尾崎は判決が下されるまで実刑を信じていたという。[49]
  20. ^ 釈放時、右手には手垢が滲みた村上春樹の「羊をめぐる冒険」を持っていた[50]。またファンらが彼の出所を祝うかのように「存在」や「卒業」を歌ったという[51]
  21. ^ 2013年現在、シングルではこのCDの売り上げが尾崎史上最高となっている。
  22. ^ このライブの模様は映像作品『OZAKI・19』に収録
  23. ^ 結局「TOKYO ROCKFEELING FESTIVAL」は尾崎以外の出演者で行われた。
  24. ^ 岡村とは1987年8月6日の広島平和コンサート「ALIVE HIROSHIMA '87」で共演し、岡村の楽曲「Young Oh! Oh!」を岡村とともに歌っている。
  25. ^ 北勝海とは亡くなる前々日の1992年4月23日に東京・六本木スナックで知り合っている。その際に尾崎は北勝海に「次の僕のコンサート必ずきてくださいよ。チケット送りますから。」と話したという[58]
  26. ^ RED WARRIORSや大友康平(HOUND DOG)らは尾崎と同じ事務所であるマザーエンタープライズに所属していた。
  27. ^ 現行教科書11種類のうち3種類の本に記述があること。
  28. ^ 巻数は『〜℃』で表されていた。
  29. ^ 3℃は1992年4月に発行され、その直後の4月25日に尾崎は急死した。
  30. ^ 浜田は事務所の名や曲名などに「ROAD」を多用している。
  31. ^ 尾崎は自分のイメージを鋭く尖ったナイフのような『Egde』だと解釈していたことによる。
  32. ^ 主にライブ映像を中心として構成されている。
  33. ^ 今番組内で放送された「ハイスクールRock'n'Roll」のMCでブルース・スプリングスティーンに関する話をしている。
  34. ^ 既に2010年に開催された音楽イベント「フジロック」において公開されていた。
  35. ^ この番組は無料放送として放送された。
  36. ^ 「誰かのクラクション」は尾崎がパーソナリティを務めた唯一のレギュラー番組で、1985年10月から1986年3月、1986年10月から1987年3月にオンエアされていた。番組ディレクターは加藤与佐雄。
  37. ^ アマチュアバンドの前座として参加。
  38. ^ 核 (CORE)」の原曲。
  39. ^ 白井貴子の前座として参加。
  40. ^ 一部の関連本で、大阪球場での「Scrambling Rock'n'Roll」はプログラムからカットされた、とあるのは誤り。
  41. ^ ツアー途中に尾崎本人の急病により、ツアーが中断している。
  42. ^ 4日後の9月28日に公演会場である新潟県民会館へ入るも、ライブ前に倒れ、ツアーは中断されたため、結果的にこの日が本ツアーの最後の公演となった。
  43. ^ 多数の関連書では「15の夜」がプログラムされておらず、「十七歳の地図」となっているが、両曲ともに演奏されている。
  44. ^ 「・ism」が演奏された公演もあり
  45. ^ 6日の出演は予定になく、急遽出演したため「シェリー」、「僕が僕であるために」のみを演奏している。
  46. ^ 一部の関連本では、アンコールに「15の夜」がプログラムされているが誤り。
  47. ^ 2012年12月1日公開。
  48. ^ 尾崎本人が急死したため全公演中止となった。
  49. ^ 後に、未収録写真を76点を追加して「FREEZE MOON+」として再発売されている《2009年、春日出版、ISBN 4863211546》。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay 尾崎豊 プロフィール”. Sony Music ソニー・ミュージック公式サイト. Sony Music Entertainment Japan. 2016年9月9日閲覧。
  2. ^ フジテレビ系列「尾崎豊 〜作られた教祖〜」平成4年(1992年)6月2日放送分より
  3. ^ 「尾崎豊ストーリー 未成年のまんまで」(1985年、落合昇平著、ソニー・マガジンズISBN 4789701964
  4. ^ 「尾崎豊 青春の叫び BORN TO RUN」(2002年4月21日、NHK-BS2
  5. ^ a b c d e f 尾崎 豊 プロフィール”. ワーナーミュージックジャパン公式ホームページ. Warner Music Japan. 2016年9月9日閲覧。
  6. ^ 尾崎豊 プロフィール”. ローチケHMV公式ホームページ. Lawson HMV Entertainment, Inc.. 2016年9月9日閲覧。
  7. ^ a b c d 山根由起子、編集委員・小泉信一 (2015年11月28日). “尾崎豊さん、生誕50周年 同世代が描く「地図」とは”. 朝日新聞digital. http://digital.asahi.com/articles/ASHCH5HHLHCHUCVL00B.html?_requesturl=articles/ASHCH5HHLHCHUCVL00B.html 2016年9月9日閲覧。 
  8. ^ a b BEATCHILD(ビートチャイルド)出演者”. 2013映画『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD ビートチャイルド1987』製作委員会. 2013年10月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月9日閲覧。
  9. ^ 永井雄一 1992, p. 45
  10. ^ 「尾崎豊ストーリー 未成年のまんまで」(1985年、落合昇平著、ソニー・マガジンズISBN 4789701964
  11. ^ a b c d 西口 & 須藤 2001, p. 16-33
  12. ^ a b c d 須藤 et al. 1999, p. 23.
  13. ^ 須藤 et al. 1999, p. 24.
  14. ^ 永井雄一 1992, p. 54
  15. ^ 永井雄一 1992, p. 60
  16. ^ a b 須藤 et al. 1999, p. 25.
  17. ^ a b マイナビ学生の窓口 (2014年4月29日). “尾崎豊、忌野清志郎。和製ロックスター伝説”. アメーバニュース. http://news.ameba.jp/20140429-307/ 2016年9月9日閲覧。 
  18. ^ 永井雄一 1992, p. 61
  19. ^ 永井雄一 1992, p. 67
  20. ^ 永井雄一 1992, p. 67-68
  21. ^ 永井雄一 1992, p. 68
  22. ^ a b 須藤 et al. 1999, p. 26.
  23. ^ 須藤 et al. 1999, p. 28.
  24. ^ 須藤 et al. 1999, p. 29.
  25. ^ talk & interview - _... moment ...._西本 明 / Akira Nishimoto
  26. ^ 永井雄一 1992, p. 101
  27. ^ 須藤 et al. 1999, p. 31.
  28. ^ 須藤 et al. 1999, p. 39.
  29. ^ 須藤 et al. 1999, p. 40.
  30. ^ 永井雄一 1992, p. 107,156
  31. ^ a b 須藤 et al. 1999, p. 52.
  32. ^ a b 須藤 et al. 1999, p. 155.
  33. ^ a b 須藤 et al. 1999, p. 157.
  34. ^ 須藤 et al. 1999, p. 158.
  35. ^ 永井雄一 1992, p. 123
  36. ^ 永井雄一 1992, p. 183
  37. ^ a b 永井雄一 1992, p. 184
  38. ^ 永井雄一 1992, p. 185
  39. ^ 読売新聞 1992年4月26日朝刊
  40. ^ 朝日新聞 1992年4月26日朝刊
  41. ^ 支倉逸人『検死秘録―法医学者の「司法解剖ファイル」から』光文社、2002年、98頁。ISBN 978-4334973520 
  42. ^ “ひばりさん4.2万/著名人葬儀参列者数”. 日刊スポーツ. (2009年7月5日). オリジナルの2014年3月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140301225745/http://www.nikkansports.com/battle/news/p-bt-tp0-20090705-514400.html 2014年3月14日閲覧。 《(テキスト部分のみ)》
  43. ^ 永井雄一 1992, p. 190
  44. ^ 永井雄一 1992, p. 196
  45. ^ 須藤晃『尾崎豊 覚え書き』(1998年、小学館、ISBN 4094021019)P147より
  46. ^ a b 永井雄一 1992, p. 72
  47. ^ 永井雄一 1992, p. 75
  48. ^ 永井雄一 1992, p. 168
  49. ^ 永井雄一「第4章 神話崩壊」『尾崎伝説 愛の伝道師』株式会社データハウス、1992年6月25日、168頁。ISBN 4-88718-117-5 
  50. ^ 永井雄一 1992, p. 169
  51. ^ 永井雄一 1992, p. 167
  52. ^ アイソトープ公式サイト「OZAKI20」
  53. ^ “吉田豪×坂上忍の衝撃トーク いまだから語れる素顔の尾崎豊”. NEWSポストセブン. (2012年6月13日). オリジナルの2014年3月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140314202115/http://www.news-postseven.com/archives/20120613_118048.html 2014年3月15日閲覧。 《》
  54. ^ “2人で飲み明かし…坂上忍、「尾崎豊のライバル」時代のお宝エピソード!”. アサ芸プラス. (2012年6月13日). http://www.asagei.com/32213 2015年3月15日閲覧。 
  55. ^ WOWOWで尾崎豊デビュー30周年記念番組 - EMTG.JP
  56. ^ 須藤晃「真夏の記念日」『尾崎豊 覚え書き』小学館、1998年1月1日、180-181頁。ISBN 4-09-402101-9 
  57. ^ 「forever OZAKI」(1999年4月25日発行、ルー出版)
  58. ^ 永井雄一 1992, p. 19
  59. ^ “辻仁成 尾崎豊さんから悩みを聞いた”. デイリースポーツ. http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2014/07/24/0007175475.shtml 2014年7月25日閲覧。 
  60. ^ a b 復刻・尾崎豊さん肺水腫だった”. nikkansports.com. 2014年5月24日閲覧。
  61. ^ a b 尾崎豊さん「遺書」月刊誌に全文掲載”. nikkansports.com. 2014年5月24日閲覧。
  62. ^ a b c d 支倉逸人『検死秘録』 ISBN 4-334-97352-3
  63. ^ 朝日新聞1999年10月7日号
  64. ^ “尾崎の記憶永遠に”. 読売新聞. (2011年10月4日). オリジナルの2011年10月10日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20111010050604/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news2/20111004-OYT8T00284.htm 2014年3月15日閲覧。 ※現在はインターネットアーカイブに残存(掲載写真画像を除く)
  65. ^ “尾崎豊さんの“遺書”あった 10日発売の「文藝春秋」に掲載 「先日からずっと死にたいと…」”. 産経新聞. (2011年11月9日). オリジナルの2013年10月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131001042327/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/111109/ent11110914340014-n1.htm 2014年3月15日閲覧。 
    ※全2頁構成《上記リンクは第1頁を表示;→第2頁》。いずれも現在はテキスト部分のみインターネットアーカイブに残存
  66. ^ “尾崎豊の遺書公開に実父 「本当の遺書?」「自殺じゃない」”. NEWSポストセブン. (2011年11月18日). オリジナルの2013年10月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131023230343/http://www.news-postseven.com/archives/20111118_71059.html 2014年3月15日閲覧。 《》
  67. ^ アイソトープによる公式サイト
  68. ^ 尾崎豊 デビュー30周年記念日 -THE DAY- | WOWOWオンライン

参考文献

関連項目

外部リンク