ノート:尾崎豊

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プロフィールについての疑問[編集]

春日町に暮らしていた時の最寄駅が東武東上線東武練馬駅、となっていますが、 尾崎自身の著書や尾崎の小学生時代からの親友などの談話には、 東武東上線「下赤塚駅」が最寄で実際に乗り降りも下赤塚駅でしていたと頻出しており、東武練馬駅の文字は私の散見した尾崎資料の中では見かけた事がありません。 現在手元に尾崎資料が有らず、確認出来ないのですが、どなたか資料をお持ちの方で 出典を明記出来る方、今一度尾崎の春日町時代の最寄駅について精査をお願い致します。 --以上の署名の無いコメントは、210.194.128.177会話投稿記録)さんによるものです。2008年09月14日 (日) 03:33 (UTC)[返信]


尾崎家が春日町に住んでいたときの最寄り駅についてですが、当時は『「西武池袋線・豊島園駅」を一番多く利用していた』となっています。豊島園駅から西武バスか国際興業バスを利用して、最寄のバス停で下車をしていたそうですし、そう考えるのが自然かと思います。やや時間は要しますが徒歩でも歩けない距離ではありません。 『「東武東上線・下赤塚駅」を最寄り駅として利用していた』というくだりについては、尾崎家が埼玉県朝霞市溝沼に居を移した後に、豊少年が練馬東中学校に越境通学をしていたためです。 なので、『下赤塚駅を最寄りの駅としていた』というのは少々違うように思います。『通学の際利用していた駅』とするほうが宜しいように思います。 朝霞市の尾崎家から朝霞駅に移動し、東武東上線の上り電車に乗った場合、東武練馬駅よりも下赤塚駅のほうが手前になります。また、下車した駅から学校までの移動を考えると、当時の道路事情や渋滞などを考慮した場合、下赤塚駅から豊島園通りを利用するほうが、東武練馬駅を利用するより動線的にスムーズであったと考えます。 春日町に住んでいたころも含めて、東武練馬駅を多少利用することはあっても、『最寄り駅』としていたとは考え難いです。 また、尾崎豊に関する著書やインタビューなどでも、目にしたことも、聞いたこともありません。 (余談になるかもしれませんが、昭和58年に有楽町線・平和台駅が開業、平成3年に都営12号線(現・大江戸線)・練馬春日町駅が開業しましたので、練馬東中学校の最寄り駅は現在ではこの2駅です) 参考になるでしょうか。。。http://www.ozaki.co.jp/   --211.3.149.93 2009年11月7日 (土) 02:45 (UTC) [返信]

「(朝霞に居を移してから)朝霞駅から東武東上線上り電車に乗った場合、東武練馬駅よりも下赤塚駅のほうが手前・・・下赤塚駅から豊島園通りを利用するほうが、東武練馬駅を利用するより動線的にスムーズ」
割り込み失礼します。自転車だと、豊島園通りではなく都道442を使ったほうが練東中まで近いし、豊島園通りだと迂回するので遠回りです。ただ自転車を使うとは考えにくいし(下赤の駅でどこに置くのか)、バスだと春日町バス停から下赤塚・成増方面行に乗っていたかも知れません。ただ下赤塚駅は何にもないところです。西武池袋線の豊島園駅、練馬駅、中村橋駅も同様で、今でこそ練馬駅周辺は賑わってますが当時は何もありませんでした。東武練馬のほうが尾崎少年が中学生の頃には既に駅前にゲーセンもあったし、トーホーボール(現トーホーレジャープラザ、ボーリング、ビリヤード、ゲーム等)など遊び場も多くありました。朝霞に越してからは「東武練馬駅を多少利用することはあった」程度だったかも知れません。ただし春日町に住んでいた頃は、自転車などで東武練馬駅近くの北一商店街(東上線最長)、駅周辺のスーパー(東武ストア、西友、三徳)などに母親と買い物に来ていたかも知れません。春日町や豊島園駅・練馬駅周辺は当時は何もない場所でしたから。--110.66.35.131 2018年4月12日 (木) 13:24 (UTC)[返信]

世田谷区出身とあるが、母親が入院した自衛隊中央病院が世田谷区内にあったというだけの話で、生家は練馬区です。世田谷区出身では誤解を与えかねず、生家は練馬区と付け加えるべきでは。プロフィール欄も田柄保育園・田柄第二小とだけあるが、練馬区立田柄保育園、練馬区立田柄第二小とすべきではないか。何で練馬区を捨象するのだろうか。--以上の署名の無いコメントは、203.135.225.238会話投稿記録)さんによるものです。2006年10月7日 (土) 18:33 (UTC)[返信]

正確な表記は大切だと思います。しかし、出典や脚注を示していただけると有難く存じます。--遡雨祈胡 2008年3月9日 (日) 01:26 (UTC)[返信]
基本情報の中に「出身地:世田谷区」とあります。母親が出産した病院が世田谷区だった以上、戸籍法上は正確(?)なのかもしれません。ですが、出身地:世田谷区(生家:練馬区)とすべきと思います。==生涯==で「練馬区で生まれた」と触れられているのでそこまで書く必要はないのかもしれませんが。--218.33.184.131 2008年4月7日 (月) 02:46 (UTC)[返信]


・尾崎豊氏と中学時代同級生だった方数人とお話をする機会がありました。その折に「中学へ越境通学する際、どの駅を利用していたか知っているか?」と尋ねてみたところ『東武東上線・下赤塚駅を利用していた』と仰っていました。先に本編に記述されている『東武練馬駅』を通学に使う機会は殆ど無かったそうです。ごく稀に下校途中に友人と連れ立って、川越街道沿いにあったトーホーボール(トーホープラザビル)のゲームコーナーで遊んだ後、近くの東武練馬駅を利用していたかもしれない…との事でした。また、当時池袋の楽器店に良く出かけていたそうです。その際は、西武池袋線の豊島園駅から池袋駅までいくか、東武東上線・東武練馬駅(下赤塚駅より一駅分、池袋寄り)を たまに利用して池袋駅まで行っていたかもしれない、と仰っていました。 いずれにしても、基本的に東武練馬駅は頻繁に使う駅ではなかったとのことでした。

・また、出身地についてですが、尾崎氏本人は「世田谷の病院で生まれたが記憶に無い場所。子供の頃から今の自分まで育てたのは、少し都心に近くて、少し垢抜けない練馬の空気」と幼少期を過ごした場所をとても気に入っていたそうです。もし記述し直すのであれば、「世田谷の病院で出生。幼少期から練馬で成長…云々~」が宜しいのではないでしょうか。

以上の二点、及び下記にある別項目「校内暴力と尾崎氏の曲の時代背景の誤差」について記させていただきました。御意見を賜りたく存じます。--61.209.182.125 2010年7月11日 (日) 20:57 (UTC)[返信]

プロフィールについての疑問[編集]

田柄保育園とあるが、春日町第二保育園が正しい。1歳6ヶ月から春日町第二保育園に入園していた。--以上の署名のないコメントは、219.198.135.152会話/Whois)さんが 2007年9月12日 (水) 11:05 (UTC) に投稿したものです。[返信]

15の夜についての疑問[編集]

「中学時代に実際に家出をしたエピソードを元に作られた曲。良くも悪くも、尾崎豊のイメージを決定づけた曲である。」と記述されているがそれは間違いであり、実際は尾崎豊が高校1年生の時に家出をしたエピソードである。--以上の署名の無いコメントは、60.41.26.215会話投稿記録)さんによるものです。2006年8月22日 (火) 11:27 (UTC) ライブで15の夜MCで15歳の頃の家出の話を中学時代と喋っているので中学時代は確実と思われます。[返信]

十五の夜は中学時代のエピソードである。 尾崎にとって兄弟のような親友が家出をしたのは中学2年の11月。 バイクを頻繁に盗んでいた時期は中学1年のときだけ。 校舎の裏には、決まった喫煙エリアが1箇所あったが、そこは1年~3年まで使用していた。 練馬東中(通称:ネリトウ)の向かって右側の教室4階からは、サンシャイン60と新宿高層ビル、 及び谷原のガスタンクが鮮明に見えた。 なので、十五の夜は家出という強烈な思い出に加え中学時代を全部とおしてモチーフにした曲と思う。

署名をしていただけると有難く存じます。内容から察するに個人意見が多いように思いますが、事実内容については出典や脚注を付けながら書けると良いかと思います。--遡雨祈胡 2008年3月9日 (日) 01:26 (UTC)[返信]
校内暴力が吹き荒れていた、という曲の時代背景は70年代のことだと思います。80年代(特に前・中半以降)に入ると校内暴力という言葉は(一部を除き)死語になり、いじめや不登校の時代へと移っていました。15の夜を含め、尾崎が世に広く知られるようになったのは80年代中・後半。時代背景の説明がずれていると思います。--218.33.184.131 2008年4月7日 (月) 02:17 (UTC)[返信]
校内暴力が70年代が全盛で、80年代に入ると息を潜めたような御意見ですが、不良生徒が増加し、社会問題にまで発展したのは、70年代は本当に後半、78、79年頃から80年代半ば位までが所謂「不良」「スケバン」「校内暴力」「暴走族」「いじめ」「不登校」等が酷く猛威を振るっていたピークではなかったでしょうか。(例えば「3年B組金八先生・第二シリーズ」のテーマに取り上げられたり、「積木くずし」など然り。ファンシー小物でさえ「なめ猫」や不良をモチーフにデザインされた物が人気を呼んでいました。また、当時の新聞紙面でも日を置かずして、中高生の激しい不良行為が数多く取り上げられていました)。
>尾崎が世に広く知られるようになったのは80年代中・後半。時代背景の説明がずれている… との御意見ですが、確かに尾崎氏が世に名を知らしめたのは80年代半ば以降と言えなくもありません。ただ、そのトリガーとなった曲(「十五の夜」「十七歳の地図」「卒業」「OH MY LITTLE GIRL」「I LOVE YOU」など)の多くは、尾崎氏が中高生時代を送った80年代前半に作られたものです(83年発売のアルバムに収められている曲も多い)。80年代半ば以降の時代背景とすべて一致するはずも無く、誤差が生じるのは至極当然ではないでしょうか。
また、余談になりますが、尾崎氏は83年暮れのデビューからすぐに中高生が好んで聴いていた深夜のラジオ番組などでいち早く注目され知名度を上げていました。そして84・85年のシングルリリースでその知名度は一気に明確になり、特に85年1月の「卒業」のシングル発売以降、卒業式や謝恩会の答辞としてこの曲を歌いたいと申し出る生徒たちと悶着が起きた学校が多々あった程です。--61.209.182.125 2010年7月11日 (日) 20:57 (UTC)[返信]
少し間違っています。大雑把にいうと70年代後半~80年代初頭が校内暴力の時代です。それとほぼ同時か少し後れていじめが脚光を浴びます。そしてほんの少し後れて80年代後半頃から不登校です。これは校内暴力からいじめに移行して、校内暴力の問題が全くなくなったことを意味しません。不登校(当時は登校拒否)も70年代にはありました。新聞が教育問題として取り上げたのが70年代~80年代初頭が校内暴力、80年代前半~半ばがいじめ、80年代後半が不登校ということです。70年代後半以降、同時並行的にそれらの問題は噴出していたと思います。またそれとスクールウォーズや積木くずし、スケバン刑事など、娯楽としてのメディアでの注目のされ方とは少し違うと思います。
「十五の夜、十七歳の地図などの多くは、尾崎氏が中高生時代を送った80年代前半に作られたものです」について。彼の作詞のモチーフは彼のみぞしか知り得ません。ただ尾崎氏が中学生だったのは78年~81年3月。15の夜は中1~中2の時のことを書いたとの説があります。そうだとするとそれは78~79年、即ち70年代ことです。またそれ以前を含め彼の幼少期の70年代の記憶や体験が作詞に反映していないとは言い切れません。
「尾崎氏は83年暮れのデビューからすぐに中高生が好んで聴いていた深夜のラジオ番組などでいち早く注目され知名度を上げ、84・85年のシングルリリースでその知名度は一気に明確になり」について。それは否定しません。しかしその頃はもうテレビが主役の時代です。ラジオ面は少し後の80年代中後半頃には新聞の中面に追いやられました。また音楽の中心はアイドル・歌謡曲で、ロックといえば10年前のヒップホップ同様、まだ偏見を持たれていて主役にはなっていません。一部には彼の熱狂的なファンはいましたが、彼の存在が同世代の若者に知られたのは彼が他界してからです。--121.103.29.191 2013年6月7日 (金) 19:44 (UTC)[返信]

収容機関の正式名称[編集]

死亡時の記述に「日本医科大学の緊急病棟に収容された。」とありますが、正しくは「日本医科大学附属病院高度救命救急センター」です。「緊急病棟」というものはこの病院には存在しません。枝葉ですが、一応百科事典として正式名称のほうが宜しいかと思います。--以上の署名の無いコメントは、220.157.134.50会話投稿記録)さんによるものです。2006年11月13日 (月) 16:19 (UTC)[返信]

(賛成)正確な表記は必要だと思います。--遡雨祈胡 2008年3月9日 (日) 01:26 (UTC)[返信]
収容機関ではありませんが、死期直前、大泉病院にも入退院を繰り返していました。ただ、大泉病院は精神病院ですし、百科辞典に精神病院への通院歴を記述するのは疑問の余地があります。また精神病院ということからか、根拠となるものが本などに記載されておらず、出典を示せないという難しさもあります。オーバードーズも、大泉病院で処方された薬が原因とまでは断定できません。別の病院の可能性もあります。--218.33.184.131 2008年4月7日 (月) 02:25 (UTC)[返信]

死因について[編集]

コチラ又はコチラに詳しい死因が載ってます。--Ayapon 2007年5月3日 (木) 03:48 (UTC)[返信]

1992年5月25日付けのオリコンチャート[編集]

1位、4位、5位、6位、7位、9位、14位で尾崎のアルバムがチャートインしていました。--経済準学士 2007年6月9日 (土) 16:45 (UTC)[返信]

血液型についての疑問[編集]

尾崎豊の死後約3~4年にO型だったことが発覚した(例として松田優作(1989年11月6日に死去)はAB型と言われていたがA型だったことが発覚した)。

脚注などによって証明できれば、確認等も出来て良いかと思います。あと、署名の方もよろしくお願いいたします。--遡雨祈胡 2008年3月9日 (日) 01:26 (UTC)[返信]

関連書籍について[編集]

今までの経緯が見えないので失礼とは存じますが、大楽光太郎氏の著作については触れないのでしょうか? 内容には異論反論あろうかとは思いますが、最期を看取った人の著作です。 確かにこの本の内容は特定の人たちを批難する内容になっていますが、 その内容には触れず、関連書籍として提示するぐらいはよいのではないでしょうか? --Andyyyyyyyy 2008年3月4日 (火) 11:47 (UTC)[返信]

(賛成)尾崎氏に関連のある書物なら問題はないかと存じます。--遡雨祈胡 2008年3月9日 (日) 01:26 (UTC)[返信]

2010年7月13日に『なぜ尾崎豊なのか ~明日が見えない今日を生きるために~』という本がバジリコという出版社から刊行されています。 掲載に値する内容だと思います。(yamapiro)--以上の署名のないコメントは、Yamapiro会話投稿記録)さんが 2010-08-01T01:36:50 (UTC) に投稿したものです(iwaimによる付記)。

練東の通称”ネリトン”について[編集]

本文の中に練馬東中学(通称ネリトン)と書かれいます。ですが、私が現役の80年代は「ネリトウ」と呼ばれていました。今の現役の同校生徒の間ではネリトンと呼ばれているのかどうか分りませんが(90年代以降のいつからか変わったのかも知れませんが証拠がありません)、当時の通称(多分今も)のネリトウを記載べきだと思います。--218.33.182.75 2008年4月13日 (日) 14:38 (UTC)[返信]

関連項目について[編集]

Wikipedia:関連項目に「多少の関連性が有るに留まる項目を紹介する一覧表ではありません。」とあるので[[アイソトープ (事務所) ]]以外削除したいのですがよろしいでしょうか。--チンドレ・マンドレ 2010年12月15日 (水) 16:14 (UTC)[返信]

良いと思います。他に残すとしても影響を受けたアーティストぐらいでしょうか。まあ、そんなのは出典付きで本文に入れてしまえばいいだけだとも思いますけど。--iwaim 2010年12月15日 (水) 21:11 (UTC)[返信]
特に影響を受けたアーティストはTemplate:Infobox Musicianに加筆、親友は「尾崎の友人」に加筆してそれ以外は削除しておきます。--チンドレ・マンドレ 2010年12月17日 (金) 11:09 (UTC)[返信]

改名提案[編集]

以下の記事の一括改名を提案します。プロジェクト:音楽に反するためです。

1週間経過して、異論・反論が無ければ改名します。--MiraModreno 2011年4月10日 (日) 06:05 (UTC)[返信]

コメント 僕が僕であるために (楽曲)僕が僕であるために (曲)も追加します。--MiraModreno 2011年4月10日 (日) 06:37 (UTC)[返信]
賛成 チェック をつけた4件は別のユーザーによって移動されています。なお、街路樹 (尾崎豊)街路樹 (尾崎豊のアルバム)に移動されています。--ナカムーラ 2011年4月12日 (火) 14:07 (UTC)[返信]
プロジェクト:音楽より、回帰線 (アルバム)十七歳の地図 (アルバム) が適切に思えます。--MSSM 2011年4月15日 (金) 15:54 (UTC)[返信]

改名提案2[編集]

以下のアルバムの一括改名を提案します。他アーティストに競合する作品はなく、かつ無断で移動したJailJailJailJail0氏への抗議も兼ねての改名です。

1週間様子を見て、異論・反論がなければ改名します。--MiraModreno 2011年9月10日 (土) 06:13 (UTC)[返信]

『回帰線』は南正人ジャパハリネット、『街路樹』はYOUNGIの同名アルバムがあります。--モンゴルの白い虎 2011年9月10日 (土) 07:27 (UTC)[返信]
『回帰線』と『街路樹』から改名提案のテンプレートを外しました。--MiraModreno 2011年9月11日 (日) 04:55 (UTC)[返信]
コメント モンゴルの白い虎さんへ、YOUNGIって、日本語版の記事がないので、やはり『街路樹』は『街路樹 (アルバム)』でいいと思います。--MiraModreno 2011年9月11日 (日) 16:37 (UTC)[返信]
『街路樹』に再度改名提案のテンプレートを貼付し、『回帰線』に横線を引きました。--MiraModreno 2011年9月11日 (日) 16:47 (UTC)[返信]
チェック これ以上意見はありませんでしたので、改名を行い、提案のテンプレートを外しました。--MiraModreno 2011年9月17日 (土) 07:12 (UTC)[返信]

遺書の公開について[編集]

産経出典の後に追記された文章と、「死後のエピソード」から「死因について」へ移動され「自殺の疑惑」に項目名が変更された件ですが、何か独自研究臭いのと、何か意図的な主張臭さを感じた為、追記に関しては要出典タグを貼り付け、これに出典が出てくれば「死因に付いて」への移動と「自殺の疑惑」への項目名変更に同意しますが、出典が出て来るまでは「客観事実だけを淡々と書く」を維持したいと思いますが、いかがでしょうか。--Toshi999 2011年11月17日 (木) 16:01 (UTC)[返信]

とりあえず出典を追加し、文章を一部訂正しました。また要出典についてはわかるのですが「死後のエピソード」から「死因について」に移動し、項目名を「自殺の疑惑」にしたことに関しては「独自研究臭さ」「意図的な主張臭さ」は無いと思うのですがどうでしょう。--高田新次郎 2011年11月19日 (土) 03:43 (UTC)[返信]

出典追加及び修正ご苦労様です。「独自研究臭さ」と「意図的な主張臭さ」についてですが、言葉通り私見的に「なんとなく」そう感じると言うレベルです。(断定する程では無いと言う意味で)
一つは、節の移動ですが、「死後のエピソード」であれば、死後のエピソードの一つとして純粋にNPOV(中立)です。しかし、これが「自殺の疑惑」となると「疑惑が有るんだ」と言うPOV(独自観点)になりますよね。言うなれば、遺書の公開と言う単なるオブジェクトを「疑惑クラス」に組み込んでしまい、遺書も疑惑に組み入れる様なイメージが有ります。
そして一つはWikipedia:避けたい言葉#しかしながら・しかし (However) などを使ってるので、尚更POV臭さを感じてます。
確かに、通常遺書となると「自殺」を連想させますので、単に遺書の公開だけの記述を持って読者に判断を仰ぐのは難しいかも知れませんが、何か、もう少しNPOVな書き方が有る様な気がします。
ちょっと試しに少しいじってみますね。こんな感じはどうでしょうか?
--Toshi999 2011年11月19日 (土) 05:14 (UTC)[返信]
良いですね。中立的になっていると思います。熟練の方の腕は違いますね(笑 --高田新次郎 2011年11月20日 (日) 13:04 (UTC)[返信]

御検討願います…[編集]

「幼少〜学生時代」項 >東武東上線の東武練馬駅が当時としては最寄りの・・・ >東上線の朝霞駅最寄りの・・・  とありますが、最寄り駅を記載する必要性を感じません。 また、情報としても間違っています。 父上が練馬駐屯地に勤めていた関係で家族で区内に居住していた際に住んでいた家は練馬区春日町2丁目(現在の大江戸線の練馬春日町駅から徒歩3~4分)の木造平屋建ての集合住宅の一つでした(現在は区画整理されたために住居も取り壊され、道路の位置関係も変わっています)。最寄り駅は東武東上線の練馬駅ではなく、同線の下赤塚駅。ですが、御両親ともに、自宅から徒歩1分程度に設置されていたバス停から西武バスか国際興業バスを利用して、西武池袋線の豊島園駅を多く利用していらっしゃいました。時々東武東上線も利用していらっしゃいましたが、多くはなかったと記憶しています。 「概略」項 >代表曲は「I LOVE YOU」「OH MY LITTLE GIRL」「15の夜」「十七歳の地図」「僕が僕であるために」「卒業」は、一般に良く知られた曲として記載しても宜しいと思いますが、「Forget-me-not」に関しては追記された方の個人的なお好みが反映されているように存じます。良い曲だと思いますが、特に尾崎ファンではない一般の方々が耳にしたことがあるのかというと…やや疑問に存じます。--F999会話2012年9月6日 (木) 10:43 (UTC)[返信]

地名「尾崎」との関係について[編集]

尾崎豊が幼少期を過ごした練馬区の春日町 (練馬区)。その地名は昔、「武蔵国豊島郡上練馬村字尾崎」などと呼ばれていました(他に、中ノ宮、海老ケ谷戸)。(北)豊島群の「豊」と地名の「尾崎」が、尾崎豊の苗字/名前と共通しているのは偶然なのでしょうか。尾崎家は地元の上練馬村の盟主だったのでしょうか。豊は豊島氏(北豊島群)から付けられたのでしょうか。分かる方いたら宜しくお願いします。--110.66.35.12 2019年2月16日 (土) 21:16 (UTC)[返信]

改名提案3[編集]

2011年の「#改名提案」「#改名提案2」にてMiraModrenoさんが実施された改名の件ですが、「十七歳の地図 (アルバム)」がその後無断で「十七歳の地図 (尾崎豊のアルバム)」に戻されています。この件は「十七歳の地図 (アルバム)」にFIXした方がよいと思いますので、ノート:十七歳の地図 (尾崎豊のアルバム)にて改名提案を行っています。--Nickeldime会話2019年9月14日 (土) 06:35 (UTC)[返信]