「明治」の版間の差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
編集の要約なし
'''明治'''(めいじ)は、[[日本]]の[[元号]]の一つ。
 
[[慶応]]の後、[[大正]]の前。<!--日本における最初の元号である-->[[大化]]以降244番目の元号。また、日本において'''[[一世一元の制]]([[一世一元の詔]])'''による最初の元号'''である。
 
[[西暦]][[1868年]][[10月23日]]([[明治元年]][[9月8日 (旧暦)|9月8日]])から[[1912年]](明治45年)[[7月30日]]までの期間を指し([[改元]]の[[詔|詔書]]による開始時期については[[#改元|後節]]参照)、'''第122代[[明治天皇]]'''の[[践祚]]から2年後に[[即位]]に伴って改元されたので、明治天皇の在位期間とは、最初の2年が一致しない。
 
'''明治時代'''(めいじじだい)とも呼ばれ、[[日本史時代区分表|時代区分]]の「〇〇時代」における「〇〇」に、「[[江戸時代]]」まで(最後の元号: 慶応)と異なり、そのまま元号が使用されており、それ以前のような[[政権]]の所在地に基づく「[[東京]]時代」などとは呼ばれていない。
[[画像:武州六郷船渡図 Bushu Rokugo funawatashi no zu.jpg|thumb|right|230px|明治天皇の東京行幸]]
[[画像:Magokoro10-1-4.jpg|thumb|right|230px|廃藩置県]]
人心を一新するため同年9月8日(1868年10月23日)には[[年号]]を「'''明治'''」(読み:めいじ)と改めて、'''天皇一代の間に一年号'''とする「'''[[一世一元の制]]'''」を立てた。4月11日の江戸開城後の関東農民一揆を抑えるため、[[東征大総督府]]軍監・[[江藤新平]]は、閏4月1日に「江戸を東京と改め天皇を迎えたい」と[[岩倉具視]]に建言。これに前[[内大臣]]・[[久我建通]]ら京都守旧派の公卿が相次いで反発したため、[[大久保利通]]が「'''[[大坂遷都論]]'''」を建言し、閏3月11日に天皇が関東親征のため、[[大坂]]に行幸するという形で部分的に遷都の準備に取り掛かった<ref>毛利敏著 『大久保利通』 <維新前夜の群像-5> 中央公論新社 1969年 134ページ</ref>。これに、京都市民や[[神道家]]が反発し、[[伊勢神宮]]祠官・[[山田大路陸奥守親彦]]が天皇東行の中止を朝廷に申し入れたが、7月17日に江戸は[[東京]]と改称され、[[鎮将府]]、[[東京府]]設置の政府決定が発表され、鎮将府参与に任ぜられた大久保と鎮将の[[三条実美]]が[[駿河]]以東の13ヶ国を管轄し、[[京都]]と[[東京]]に2つの政府が並立する形となった<ref>毛利敏著 『大久保利通』 <維新前夜の群像-5> 中央公論新社 1969年 142ページ</ref>。
 
江戸の東京への改称後、[[即位の礼#明治天皇の即位の礼・大嘗祭|8月27日に即位式]]を挙げた[[明治天皇]]が[[京都]]から東京に移った(9月20日京都出発、10月13日東京着)ことを始め、10月13日江戸城を[[皇居]]とし、東京城と改称した。天皇は12月8日に、東京を発って京都に帰ったが、同年11月、[[姫路藩]]主[[酒井忠邦]]が「藩の名称を改め、すべて府県と一般同軌にして、中興の盛業を遂げられたい」<ref group="注釈">藩が持っているものを全部朝廷に返し、それをうまく利用して新しい国家作りに役立てて貰いたい</ref>という案を出してきた他、木戸孝允が此の案を取り上げた<ref>半藤一利著 『幕末史』 新潮社 2008年 373ページ</ref>。12月22日京都[[還幸]](翌明治2年3月、再度東幸、事実上の東京遷都)。翌年1869年(明治2年)2月には政府の諸機関も東京に移された。これら一連の動きは当時'''御一新'''と呼ばれた。<ref group="注釈">1869年(明治2年)春には、議定は16人、参与は14人に増加したが後に整理が行われた。当時の狂歌に「上からは明治だなどといふけれど、治まるめい(明)と下からは読む」と謳われ、非常に惨憺たる調子で明治政府は始まった</ref><ref>半藤一利著 『幕末史』 新潮社 2008年 370-371ページ</ref>

案内メニュー