足利銀行

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株式会社足利銀行
The Ashikaga Bank, Ltd.
Ashigin.jpg
足利銀行本店(宇都宮市)
2005年(平成17年)4月18日撮影)
種類 株式会社
市場情報 非上場
本社所在地 日本の旗 日本
栃木県宇都宮市桜四丁目1番25号
設立 1895年(明治28年)9月25日
業種 銀行業
金融機関コード 0129
SWIFTコード ASIKJPJT
事業内容 預金業務、貸出業務、有価証券売買業務・投資業務、為替業務など
代表者 代表執行役頭取 藤澤 智
資本金 135,000百万円
発行済株式総数 1,340,520千株
純資産 200,828百万円(単体)
総資産 5,141,531百万円(単体)
決算期 3月31日
主要株主 足利ホールディングス 100%
主要子会社 足利信用保証株式会社
株式会社あしぎん事務センター
あしぎんビジネスサポート株式会社
あしぎんシステム開発株式会社
株式会社あしぎん総合研究所
株式会社あしぎんディーシーカード
外部リンク 足利銀行
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足利銀行のデータ
店舗数 147
貸出金残高 3,473,289百万円
預金残高 4,539,546百万円
特記事項:
2011年3月31日現在
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東京事務所・東京支店が入居する八重洲龍名館ビル

株式会社足利銀行(あしかがぎんこう、英称The Ashikaga Bank, Ltd.)は、栃木県宇都宮市に本店を置く地方銀行。「あしぎん」の愛称で親しまれる。

目次

[編集] 概要

栃木県と県内全30市町の指定金融機関である(真岡市常陽銀行と2年毎の輪番制)。本拠地の栃木県を含む北関東地域一帯に98の本支店と49の出張所があり、同銀行の貸出金シェアは栃木県内で約5割、中小企業向けでは約8割に達する"ガリバー銀行"である。栃木県に次ぐ拠点数の埼玉県内については北部(秩父鉄道線沿線)と南部(中山道日光街道沿い)に集中して出店している。

バブル経済期に北海道拓殖銀行などと同じく地場でのリゾート開発や、本拠地外である東京での法人融資を拡大し、不良債権が増加。拓銀・山一長銀など大手金融機関の破綻が相次いだ1998年(平成10年)前後の金融不況は乗り越えたものの、その後の金融再生プログラム監査法人との対立によって2003年(平成15年)4月に引き起こされたりそなショックが当行に波及。同年11月に特別危機管理銀行に指定され事実上の経営破綻となり、預金保険機構が全株式を強制取得し一時国有化となった。

産業再生機構と連携した企業再生支援などによる不良債権処理の進捗や、栃木県内の一部の支店をリテール業務に特化した出張所への格下げ転換などによる経営のスリム化を進め、2008年(平成20年)7月に、預金保険機構が足利ホールディングスへ売却し、一時国有化が解消され、破綻処理は完了した。

[編集] 歴史

「地銀の雄」から経営破綻

[編集] 逃げの足銀

1895年(明治28年)9月25日、24歳の荻野万太郎が初代頭取として、当時の足利町(現足利市)の繊維業者を中心に創設された。以後、両毛地区を基盤に発展する。

当時より地元密着・堅実経営で知られ、地元の繊維産業に対する融資は手形割引を中心とする短期貸出により行われた。また融資に際しては、不動産担保は忌避され、担保物権の現金化が迅速に行える棚卸資産担保が好まれた。不渡手形が生じた貸出先があると、行員が昼夜交代で会社の前に張り込み、棚卸資産を手に入れようとする他の債権者を追い払い、素早く処分したため、他行からは「逃げの足銀」「石橋をたたいても渡らない」と言われた。

川崎銀行から派遣された亀山甚が実質的に経営の指揮をとり地方銀行としては最初に1914年(大正3年)5月には東京支店を開設して情報収集機能を強化した。また、東京川崎財閥との提携では大不況の到来を察知し、1920年(大正9年)、融資額の実に3分の1を回収し、その後の昭和金融恐慌のによる貸倒被害を最少限に押えた。

1944年(昭和19年)までの戦時統合にて、県内6行を合併・12行を営業譲受し、一県一行となる現在の足銀が発足した。これ以降、歴代頭取は日本銀行出身の遠田淳藤松正憲関根太郎日本興業銀行出身の岡一雄と、4代続けて東京財界出身者によって占められたが、彼らは、東京にて昭和金融恐慌を直接経験した世代であり、漫然たる融資を常に諌め足銀伝統の「地元密着・堅実経営」の姿勢を崩さなかった。1967年(昭和42年)、本店を県都・宇都宮市に移転し、現在に至る。

[編集] 生抜き頭取

しかし、プロパー行員からは"生抜き頭取"を望む声はかねてから強く、そんな中で衆目を集めていたのが向江久夫であった。

向江は、もともと鹿児島県出身、陸軍幼年学校から陸軍士官学校卒で終戦時には陸軍大尉。その後、東京大学法学部に入学し、在学中に高等文官試験司法科に合格したが、終戦時に陸軍将校であったため公職追放により法曹界には入れなかった。1947年(昭和22年)、27歳の時に日銀理事の紹介で足銀に入行し、陸軍士官・東大卒・司法試験合格という華麗なる経歴は、1948年(昭和23年)に全国銀行協会懸賞論文で一位入選したことで、「足銀に向江あり」と全国に知れ渡り、将来の頭取候補と言わしめられるようになる。

その後、入行10年目の37歳で大阪支店長、39歳で東京支店長、1965年(昭和40年)には43歳の若さで取締役に就任(ちなみに、自宅は東京都内に構え役員就任以後は本店のある宇都宮に単身赴任をしていた)、1978年(昭和53年)には満を持して、初の生抜き頭取(当時の呼称は社長、その3年後に頭取へ変更)に就任し、1997年(平成9年)に会長を退くまで19年に渡りワンマン経営者として足銀に君臨する。

1970年代に北朝鮮に対するコルレスバンクとなり、同国と日本の銀行間での海外送金業務を取り扱いを開始。

[編集] バブル経済

バブル経済に差し掛かると向江頭取の号令により、当時の足銀は行内で「鶴翼作戦」(鶴の胴体が栃木、頭は仙台・郡山、右翼が茨城、左翼は群馬・埼玉、そして尾は、東京・名古屋・大阪を指したという)と呼ばれる融資拡大路線を展開する。後に、"融資効率化"と称して審査部門と新規営業部門を統合する本部機構改革を行い、野放図な融資姿勢を鮮明にする。

1975年(昭和50年)に93ヶ店だった店舗数は、20年後には212ヶ店と二倍以上に増加し、1985年(昭和60年)に2兆3000億円だった貸出金は1995年(平成7年)には4兆8000億円となった。当時の中曽根民活によるリゾート法の追い風もうけ、鬼怒川温泉那須高原ゴルフ場といった地元観光業、地場パチンコ店などにも過剰融資を行った。地元で賄い切れない融資額は東京に流れ、一時、東京支店の貸出残高が本店営業部を抜き、都内5ヶ店の貸出金総額は1兆円を超えた。つまり、地銀でありながら、地元で集めた資金を東京他県外で運用していたことになる。さらに、足銀本体以外にも系列ノンバンクである北関東リース足銀リースを通じて不動産融資を積極的に行った。当時、これに疑問を呈する向きは少なく、逆に「地銀の雄」「地銀の住友銀行」などと賞賛された。1989年(平成元年)7月、向江は全国地方銀行協会副会長に就任、翌年には足銀の預金順位は地銀第5位となり栄華を極めていた。

1990年の入行式で向江は「当行には自由な空気があり自由闊達にものが言え、下からの盛り上がりもある。」と挨拶していたが、実際、向江頭取の周囲はその意を酌み積極融資で実績をあげる幹部が重用され、結果的にイエスマンで固められることになる。向江のワンマン振りを語る次のエピソードがある。向江の社長(後に頭取)昇格3ヶ月前の1978年3月、日本橋にあった東京支店が、丸の内郵船ビルへ移転となった。このビルは前月2月に完成したばかりで、賃料も当時国内最高部類といわれた(現在はゆうちょ銀行本店などが入居)。他地銀の東京支店が、地銀村と呼ばれる日銀を中心とした日本橋一帯に軒を連ねる中、あえてこの一等地に支店を移した理由として、当時内外では"東京支店二階頭取室より皇居前広場が一望できた"からだと囁かれた。[要出典]東京支店はその後再び日本橋(丸善ビル)に移転、2009年(平成21年)に八重洲呉服橋交差点近くに建替竣工した八重洲龍名館ビルへ移転している。

[編集] 経営危機と地元の支援

バブル崩壊後に、この無理な拡大路線が災いし不良債権が増加。1994年3月期決算では、破綻先債権額は632億円にも上った。こうした経営不安から1997年(平成9年)秋には取り付け騒ぎが発生、親密であった東京三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行)から1,000億円にのぼる資金調達やリストラ策公表、地元取引先の支援などで沈静化するまでに同年9月末の総預金は5兆3,740億円は、1年後には5兆856億円に急減し3,000億円近くもの預金が流出した。

  • 1999年(平成11年)から翌年にかけ計3回にわたり総額1350億円の公的資金投入を受け、同年11月には自己資本の増強をめざし6000万株の優先株(1株額面500円、計300億円)を発行。
  • 2001年(平成13年)8月には地元財界人を中心に行内に経営諮問委員会を設置したが、景気低迷もあって健全化計画は思うように進まなかった。さらに翌年1月は約300億円の普通株増資を行った(1株114円)。なお、一連の増資で栃木県および県内12市が総額10億2000万円の株を公的資金で引き受けた。

2002年(平成14年)に『北朝鮮による日本人拉致疑惑』がマスコミで取り上げられるようになると、同年8月頃に北朝鮮向けコルレス業務を取扱が少ない事を理由に打ち切った。同年9月の日朝首脳会談以降、日本と北朝鮮を繋ぐ手段として万景峰号と並ぶ形でコルレス業務がクローズアップされるようになったが、マスコミが取り上げたタイミングでは前出の通り既に取りやめていた。なお、同国との繋がり自体は朝銀信用組合の方が関わり深い。

2003年(平成15年)3月には子会社・北関東リースとの株式移転金融持株会社あしぎんフィナンシャルグループ」を設立し、同社の完全子会社となったが、これは同3月期に単体で赤字だった同銀行の優先株復配を果たす目的なのが明白であり、多くの批判を受けた。

[編集] 一時国有化

2003年(平成15年)9月期の中間決算で、会計監査を担当する中央青山監査法人(のちのみすず監査法人)が、繰延税金資産を計上しないよう通告、この結果債務超過に陥った。同年11月29日午前に取締役会を開催し、自主経営を断念せざるを得ない状態となり、小泉純一郎内閣総理大臣を議長とする金融危機対応会議が同日21時から首相官邸で開催され、2001年(平成13年)に制定された預金保険法102条第1項の3号措置による一時国有化特別危機管理)を決定。足利銀行および上場親会社のあしぎんフィナンシャルグループ会社更生法東京地裁へ申請し、名実ともに経営破綻した。破綻に伴い日向野善明頭取ら経営陣が総辞職。

3号措置および特別危機管理銀行の発動は初で、全国地方銀行協会加盟の(第1)地方銀行の破綻も現状唯一である(2011年時点)。

栃木県財界および地元選出国会議員は、預金保険法102条第1項の1号措置(いわゆる「りそな銀行方式」、預金保険機構の増資による資金注入でそのまま存続できる)を要請した。しかし、りそな銀行の場合は自己資本比率の極端な低下という財務状況であったが、当行は債務超過自己資本比率がマイナス)であったため、破綻処理とそれによる株主責任を選ばざるを得なくなったとされる。足利銀行単体の2003年(平成15年)3月期決算の自己資本比率は(粉飾による見かけ上)4.54%だったが、特別危機管理決定後の金融庁の検査で、233億円の債務超過と認定された。同年12月に預金保険機構の指名により横浜銀行出身の池田憲人が頭取に就任。また、預金保険機構が完全親会社のあしぎんフィナンシャルグループから当行全株式を強制的に取得した。

預金は全額保護で引出請求も従前通り行われるため、翌営業日となる12月1日(月曜日)以降、目立った取り付け騒ぎは発生しなかった。しかしながら破綻により、法人自営業者向けを中心とした不良債権の一部を整理回収機構が取得(債権譲渡)し、新規融資が停止された上で同機構から融資先へ強引な債権回収が行われる等、北海道拓殖銀行の事例と同じく本拠地の地域経済への影響が見られた。特にバブル期の過剰融資で改築・開業し、営業不振となっていた日光那須などの旅館・ホテル業では影響が深刻であり、産業再生機構の再生支援案件以外は殆どが倒産に追いやられ、競売により他者が不動産を獲得するパターンが続出した。

また、当行をメインバンクとする11企業が産業再生機構へ再生支援を申請しているが、連名で支援を申請した金融機関は当行が最多である。主な支援入り案件はホテル四季彩(日光)や金谷ホテル観光(鬼怒川温泉ホテル等)、関東自動車栃木皮革が挙げられる。

[編集] 粉飾決算

2005年(平成17年)2月、池田頭取ら当時の経営陣は、2001年3月期決算における違法配当や、建材会社やゴルフ場への不正融資の責任を巡って向江久夫・元会長ら歴代頭取3名を含む旧経営陣13人を相手取り、総額46億円の損害賠償請求を宇都宮地方裁判所に3件提訴した。

その後、2007年(平成19年)9月、柳田美夫・元頭取ら8人とは、個人資産のうち当面の生活資金としての100万円分以外を処分し賠償に充てることで和解が成立、和解調書には"重大な任務懈怠があった"として経営責任を認める文言が明記された。 また、破綻にいたるまでの粉飾決算を見過ごしたとして中央青山監査法人等に対して損害賠償請求を提訴していたが、同年7月、足銀側が2億6500万円の和解金を受け取ることで和解が成立した[1]

[編集] 一時国有化離脱へ

2006年(平成18年)11月2日、金融庁は受け皿(スポンサー)に求める基本的な条件を提示し、受け皿候補の公募を宣言した[† 1]。 その後2段階の審査を経て、翌年9月21日に同庁は受皿の最終審査に入ることを発表、同年11月22日までに受皿候補より同行の企業価値評価を含む譲受条件等の提出を受けた。

二次選考を通過したスポンサー候補は次の通り

このうち野村連合と地銀連合が出資額などで一騎打ちとなり、それ以外は資力や経済界の反発で落選となった。当初は地銀連合が有力視されていたが、2008年(平成20年)3月14日、金融庁は足利銀行を野村グループ連合が設立する足利ホールディングスへの売却を内定した。株式譲渡額は1200億円[1][2]

一般的に破綻した銀行がスポンサーを得て再建する場合、新たに設立した銀行へ譲渡するか承継銀行に吸収されることにより銀行名が事実上改称されるのが通例であるが(わかしお銀行新生銀行東京スター銀行等)、当行のケースでは創業時の法人格のまま親会社が異動するのみとなり、足利ホールディングス側の意向で、地域におけるネームバリュー等を考慮して現行名を維持する方向となった。

2008年(平成20年)7月1日、当行の株式を足利ホールディングスが取得したことで傘下に入り、特別危機管理体制から解放される。国有化時に頭取を務めた池田憲人が退任し、商工組合中央金庫元理事の藤沢智が頭取に就任した。池田と藤沢は東北大学の同期に当たる。

[編集] 沿革

[編集] 勘定系システム

2011年(平成23年)7月19日勘定系システムNTTデータ地銀共同センターに移行した[2]

[編集] ATM提携関連

[編集] 個人向けサービス

  • 「あしぎんポイントサービス」
  • 足利ホールディングスへの譲渡(一時国有化離脱)前後から、殆どの店舗で営業室(ロビーフロア)のレイアウトを改装し、木目調を多用したインテリアとなっている。個人向けの預金業務取引については基本的に1カ所のハイカウンターで全て受け付け、資産相談やローン取引などは隣接するブース型のローカウンター「smile desk(スマイルデスク)」で取引する。
  • 2008年(平成20年)1月より銀行本体発行クレジットカードの「GOODY(グッディ)カード」を発行開始(あしぎんディーシーカードの保証、三菱UFJニコスへの業務委託による)。それまで新規募集していた「あしぎんDCカード」は募集取りやめとなった。

[編集] アシカ

バブル全盛期の1991年(平成3年)1月に金融機関のテレビCMが解禁されると、よみうりランドのアシカショーで活躍するカリフォルニアアシカのバン(2011年現在も生存中)が直立し、美少女アイドルとして売り出していた栃木出身の小田茜と並んでツーショットするテレビCM「アシカが、よろしく。」が放映。フレーズは“あしかが”の語感を掛けたものである。1994年(平成6年)頃までボーナス時期を中心に放送され、一躍有名となった(関東ローカル#関東ローカルのテレビコマーシャル参照)。CMソングの歌い手は晴山さおりで、CD化されている。

なお、アシカ単独のCM(執務室風の部屋で机に寄りかかり、直立姿の横顔で窓の外を眺め、『あしかが、確か』のコピーが流れるもの)も放送された[† 2]

この宣伝と同時期にアシカ擬人化したオリジナルのマスコットキャラクター「パスカル&パステル」が登場し、2011年(平成23年)のシステム移行前まで総合口座通帳と普通預金磁気キャッシュカードの表面イラストや、コンビニATM画面に使用されていた。なお、栃木県内ではアシカ科の動物は飼育されていないため(営業エリア内に在る東武動物公園大洗水族館では飼育されてはいる)、ご当地とは無関係のキャラクターである。

[編集] 脚注

[編集] 注釈

  1. ^ 同年10月18日、向江久夫は多臓器不全により死去(享年84)。
  2. ^ 2002年(平成14年)1月に過去のCM出演者の捜索をテーマとした、日本テレビ改編期特番でも取り上げられている。

[編集] 出典

  1. ^ 民事提訴事件の一部和解について”. 足利銀行 (2007年7月2日). 2011年11月10日閲覧。
  2. ^ 新システムの稼働開始について (PDF)

[編集] 外部リンク

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