平尾博嗣

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平尾 博嗣(平尾 博司)
埼玉西武ライオンズ #8
2009年8月24日(西武第二球場)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 埼玉県浦和市(現:さいたま市緑区
生年月日 (1975-12-31) 1975年12月31日(48歳)
身長
体重
175 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手三塁手一塁手
プロ入り 1993年 ドラフト2位
初出場 1995年4月11日
年俸 3,800万円(2012年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

平尾 博嗣(ひらお ひろし、1975年12月31日 - )は、埼玉西武ライオンズに所属するプロ野球選手内野手)。本名及び2001年までの登録名は「平尾 博司」。愛称は「チャラ尾」。

経歴

プロ入り前

大宮アルディージャにいた斉藤雅人は、中学時代(浦和市立東浦和中学校)の同級生である[1]。また、元大宮アルディージャの桜井直人は高校時代の同級生である。

埼玉県立大宮東高等学校時代は高校屈指のスラッガーとして知られ、通算68本塁打を放った。1993年、春の選抜ではトップバッターに起用され、初戦で先頭打者本塁打を放ちチームに勢いをつけ、またセンス溢れる走塁でチームの準優勝に貢献した。

同年のドラフト阪神から2位指名を受け、入団。超高校級の大型内野手との前評判を引っさげ、入団時に背番号2を与えられるなど、そのパンチ力や軽快な動きは非常に期待されていた。

阪神時代

1995年から出場機会を得、一軍初本塁打を記録した。1996年後半にはベテランの和田豊を三塁に追いやり、二塁手の座を星野おさむと争った。しかしこれ以降伸び悩み、代打や守備固めでの起用が主となり、成績も下降線をたどった。2000年今岡誠の不調でチャンスをつかみレギュラー候補として出場機会を増やしたが、打率.238に終わりレギュラー獲得はならなかった。

元来ヘルニアの持病を持つなど怪我が多かったことから、期待通りの活躍が出来なかった。2001年途中、谷中真二[2]との交換トレードで西武ライオンズへ移籍。阪神から西武へのトレードが発表された時、大好きな阪神から離れることになったため、会見で涙を流していた。また2005年から始まったセパ交流戦時には試合前に、古巣の阪神の選手を西武の選手に紹介するといった一面もあった。[3]

西武・埼玉西武時代

移籍直後の6月20日、対大阪近鉄バファローズ戦で、二塁手を担当していた平尾はファールフライを追いかけて内野とブルペンを隔てるフェンスに激突、右足脛骨と腓骨を骨折した。その後1年以上をリハビリに費やした。

2002年、キャンプイン直前に改名。シーズン終盤にケガから復帰すると、打率.277の好成績を記録。スコット・マクレーントム・エバンスといった外国人から三塁手のレギュラーを奪う活躍を見せた。日本シリーズでも3試合にスタメン出場した。

2003年は、高木浩之二塁手のレギュラーを争い、代打や守備固めもこなした。内野の全ポジションと指名打者で出場し、打順も3・6・7・8・9番を打つなど多様な活躍でチームに貢献した。打率.285、自己最多の7本塁打を記録した。

2004年中島裕之遊撃手に定着したため遊撃手での出場はなかったものの、三塁手として活躍し規定打席未満ながら自身初の3割を記録した。出塁率は4割を超えた。

2005年、右ひじの故障で18試合の出場に留まり、放った安打はわずか10本に終わる不本意なシーズンとなった。しかしシーズン最終試合で本塁打を記録した。

2006年片岡易之二塁手のレギュラーを獲得し、出場機会が減ってしまう苦しいシーズンとなったが、その粘り強いバッティングは健在で、得点圏打率は通常の打率をはるかに超える.290をマークした。左投手に強く、左投手が先発したときには江藤智とともにスタメン出場するのが恒例となった。プレーオフ第一ステージで左投手のソフトバンクの和田毅が先発したときも二人揃って起用された。毎年のように故障で二軍落ちを経験していたが、このシーズンは年間を通じて一軍登録され、自己最多の出場機会を得た。

2007年は、中村の不振や片岡のケガで出場機会が増え、10試合連続スタメン出場などまずまずの結果を残していたものの、2試合連続で犯したエラー伊東勤監督の怒りを買い二軍落ちした[要出典]。ファームでは打率.387、長打率も6割を越えるなど力の差を見せつけたが、一軍に呼ばれることはなく、5年ぶりに公式戦の本塁打はゼロに終わった。11月23日に行われたファン感謝祭では「(二軍に落とされた)6月11日から今日のために準備していました!」と非常に興奮した様子で当日に賭ける想いを吐露していた。

2008年、中村の大ブレイクによりスタメン出場は限られたが、代打や守備要員として一軍に定着した。8月16日には代打サヨナラ本塁打を記録。得点圏打率も3割を越えた。2008年の日本シリーズでは第5戦にマーク・クルーンから本塁打を放つと、第6戦ではチームの全打点を挙げる活躍を見せ、第7戦で8回表に決勝のタイムリーヒットを放ち、最終的に本塁打2本を含む打率5割を超える活躍を挙げるなどチームの4年ぶりの日本一に貢献し、日本シリーズ優秀選手賞を獲得した。この年フリーエージェント資格を獲得したが、行使せず残留することとなった。プロ入り後はケガが多く、腰痛など度重なる故障に悩まされ、なかなかシーズンをフルに働けないが(2005年は右肘の故障でわずか18試合の出場)、勝負強さを発揮した。

2009年、主に左投手先発時にスタメン起用された。県営大宮球場での対中日ドラゴンズ戦では、浅尾拓也から代打本塁打を放つなど、交流戦終了までにキャリア2位タイとなる5本塁打を記録するなど好調を維持したが、胃腸炎による体調不良で2軍落ち。昇格後も内野安打1本しか放つことが出来ず、打率2割という成績不振に陥った。二軍ではまずまずの成績だったものの、若手を起用するチーム方針から、シーズン終了までを二軍で過ごした。

2010年、シーズンに臨むにおいて、平尾自身は「ここ数年はベテランだからサポートすればいいと思っていて、そこに甘えていた部分も多少はあった。でも他球団に目を向けてみれば自分と同じ年齢の選手がレギュラーでバリバリ活躍している。そんな意味では自分ももっとやらなくてはいけないと思っている」という旨の発言をしている。西武移籍10年目となったシーズンは阿部真宏の加入もあり、開幕を二軍で迎える幸先の悪いスタートとなってしまった。しかし、5月の楽天戦で復帰してからは代打で結果を出し、以降は左投手先発時に一塁手としてスタメン出場することが増えた。

ホセ・フェルナンデスの復帰後は阿部との併用という限られた出場機会ながらコンスタントに活躍し一軍に定着。和田毅から逆転タイムリーを放つなど、サウスポーへの強さ・勝負強さも健在であり、最終的には57試合に出場し、打率.330、36安打、出塁率.398、得点圏打率.357というキャリアハイともいえる成績を残した。

2011年、オープン戦での負傷により開幕2軍スタートとなってしまったが、復帰後は勝負所で代打の切り札として活躍した。しかしシーズン終盤は再三にわたる故障もあり、最終的には2割台前半の打率に終わり、発熱によりCSに出場することもできなかった。それでもチーム3位タイの勝利打点5を記録するなど、ベテランならではの勝負強さを発揮した。

プレースタイル・人物

内野全てのポジションを守れる貴重なユーティリティプレーヤーである。持病の腰痛に加え、年齢による守備範囲の衰えもあり、二塁や三塁を守ることは少なくなったものの、一塁の守備は安定しており、3年間で1失策である。痛烈な打球を体を張って止める場面も目立つ。

高校時代は本塁打を連発する大砲だったが、プロ入り後は守備や流し打ちなどの小技で力を発揮している。

性格はとても明るく、西武移籍後もムードメーカー的な役割を担っている。週1回は欠かさず日焼けサロンに通っていることに加え、茶髪でおちゃらけた姿から、後輩や、一部マスコミでは「チャラ尾」の愛称で親しまれている[4]。しかし2011年からはトレードマークとなっていた茶色い長髪を剃り上げて坊主頭にしている。

西武時代の2006年から使用された応援歌は、演歌調のメロディーに「はぁ~平尾博嗣だよ~」など変わった歌詞を載せる独特のものである。その後は応援歌のひとつとして定着して名物化していたが、2008年7月19日より新しい応援歌に変更された。サッカー好きだという(本人も「野球を始めたのは学校にサッカー部がなかったから」と公言している)。そのため、登場曲にサッカー関係のものを用いることが多い。また、球界きっての浦和レッドダイヤモンズサポーターとしても知られ[5]、前述のフリーエージェント資格取得に関する記者会見の際には「せっかく取った権利なので、浦和レッズに移籍することにしました」と発言し報道陣を笑わせた[6]。また、春季キャンプ中に浦和のトレーニングシャツを着て、インタビューを受けたこともある。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1995 阪神 35 49 42 4 8 2 0 1 13 6 0 1 1 1 5 0 0 12 0 .190 .271 .310 .580
1996 76 165 150 17 36 6 1 3 53 10 4 0 5 0 10 0 0 34 1 .240 .288 .353 .641
1997 32 31 30 2 2 0 0 1 5 2 0 0 1 0 0 0 0 8 0 .067 .067 .167 .233
1998 38 60 50 2 7 1 0 0 8 0 0 0 6 0 4 0 0 16 2 .140 .204 .160 .364
1999 13 18 15 4 3 0 0 1 6 4 1 0 0 0 3 0 0 4 0 .200 .333 .400 .733
2000 62 209 181 20 43 8 3 2 63 12 2 1 13 0 15 1 0 32 4 .238 .296 .348 .644
2001 西武 4 10 9 0 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 0 0 1 3 1 .222 .300 .222 .522
2002 54 146 137 18 38 8 2 3 59 14 4 2 2 0 7 0 0 28 3 .277 .313 .431 .743
2003 68 198 172 28 49 10 0 7 80 32 3 0 4 2 20 0 0 41 2 .285 .356 .465 .821
2004 43 125 101 21 31 8 1 4 53 20 1 1 1 3 20 0 0 21 3 .307 .411 .525 .936
2005 18 46 42 5 10 1 0 1 14 4 0 0 0 1 3 0 0 13 2 .238 .283 .333 .616
2006 76 227 195 21 45 8 1 5 70 28 1 1 1 2 28 0 1 36 5 .231 .327 .359 .686
2007 33 83 70 6 17 5 0 0 22 5 0 1 3 1 8 0 1 17 1 .243 .325 .314 .639
2008 55 103 93 15 24 4 0 2 34 9 1 1 4 1 3 0 2 23 2 .258 .293 .366 .659
2009 49 132 115 9 23 5 0 5 43 11 0 0 2 0 14 0 1 32 7 .200 .292 .374 .666
2010 57 126 109 14 36 5 1 3 52 17 2 1 3 1 13 0 0 24 4 .330 .398 .477 .875
2011 56 86 76 3 16 4 0 1 23 19 0 0 0 2 7 2 1 19 0 .211 .279 .303 .582
通算:17年 769 1814 1587 189 390 75 9 39 600 194 19 9 46 14 160 3 7 363 37 .246 .315 .378 .693
  • 2011年度シーズン終了時

年度別守備成績

年度 一塁 二塁 三塁 遊撃
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1995 - 2 1 1 0 1 1.000 - 16 8 18 1 4 .963
1996 - 68 103 148 6 34 .977 - -
1997 - 4 9 10 0 2 1.000 1 1 0 0 0 1.000 11 5 10 1 1 .938
1998 - 29 42 39 2 4 .976 - -
1999 - 10 10 8 0 3 1.000 1 0 1 0 0 1.000 -
2000 - 61 112 156 3 25 .989 - 3 6 6 3 1 .800
2001 - 4 3 10 0 3 1.000 - -
2002 - 18 26 46 0 6 1.000 31 19 36 0 4 1.000 -
2003 - 42 57 109 1 20 .994 16 4 13 2 0 .895 3 3 7 1 2 .909
2004 - 9 8 26 0 4 1.000 17 13 27 3 3 .930 -
2005 - 8 10 15 1 4 .962 5 1 7 0 0 1.000 -
2006 - 18 30 34 0 6 1.000 44 20 56 1 3 .987 -
2007 - 11 18 17 1 2 .972 18 7 35 2 1 .955 -
2008 19 95 6 0 3 1.000 15 14 21 1 3 .972 4 5 7 0 0 1.000 -
2009 33 223 11 1 18 .996 4 6 8 0 2 1.000 4 2 2 0 0 1.000 -
2010 29 171 10 0 12 1.000 - 15 4 14 1 1 .947 -
2011 16 77 11 2 7 .978 - - -
通算 97 566 38 3 40 .995 303 449 648 15 119 .986 156 76 204 9 12 .969 33 22 41 6 8 .913

表彰

記録

背番号

  • 2 (1994年 - 1999年)
  • 00 (2000年 - 2001年)
  • 15 (2001年)
  • 23 (2002年)
  • 8 (2003年 - )

登録名

  • 平尾 博司(ひらお ひろし)(1994年 - 2001年)
  • 平尾 博嗣(ひらお ひろし)(2002年 - )

出典

  1. ^ ただし、斉藤は3年生の時に東浦和中の過密解消のため、開校した浦和市立尾間木中学校(現・さいたま市立尾間木中学校)に転校している。
  2. ^ 2008年から同僚となる。
  3. ^ ただし、前述のフリーエージェント資格取得に関する記者会見の際には「西武に来てから僕の野球人生は180度変わった」「西武以外でプレーすることは考えられない」と話しており、現在は阪神へのこだわりは全くない模様である。
  4. ^ 西武“チャラ尾”のひと振りでパ再奪首!、sanspo.com、2010年6月6日。
  5. ^ スポーツ報知「浦和に注入!西武・平尾が日本一魂!」
  6. ^ 日刊スポーツ「西武江藤、平尾がFA行使せず残留」

関連項目