谷崎潤一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。153.173.123.131 (会話) による 2016年3月29日 (火) 17:56個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎外部リンク: WP:ELNO)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

谷崎潤一郎
(たにざきじゅんいちろう)
谷崎潤一郎(1913年)
誕生 1886年7月24日
日本の旗 日本東京市日本橋区蛎殻町
(現・東京都中央区
死没 (1965-07-30) 1965年7月30日(79歳没)
日本の旗 日本神奈川県湯河原町
墓地 日本の旗 日本法然院
職業 小説家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 東京帝国大学国文科中退
活動期間 1908年 - 1965年
ジャンル 小説
随筆
戯曲
翻訳
和歌
主題 女性美への崇拝
マゾヒズム
悪魔的心理
日本の伝統美
モダニズム・西洋文化への関心(特に初期)
オリエンタリズム中国文化への関心(主に中期)
文学活動 耽美派
代表作刺青』(1910年)
痴人の愛』(1925年)
(まんじ)』(1928年)
春琴抄』(1933年)
陰翳禮讚』(1933年、随筆)
細雪』(1948年)
』(1956年)
瘋癲老人日記』(1962年)
主な受賞歴 毎日出版文化賞(1947年)
朝日文化賞(1949年)
文化勲章(1949年)
毎日芸術賞(1963年)
デビュー作 『誕生』(戯曲)
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年明治19年)7月24日 - 1965年昭和40年)7月30日)は、日本小説家。明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。現在においても近代日本文学を代表する小説家の一人として、評価は非常に高い。

初期は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなどのスキャンダラスな文脈で語られることが少なくないが、その作風や題材、文体・表現は生涯にわたって様々に変遷した。漢語雅語から俗語方言までを使いこなす端麗な文章と、作品ごとにがらりと変わる巧みな語り口が特徴。『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評高く、「文豪」「大谷崎」と称された。その一方、今日のミステリー・サスペンスの先駆的作品、活劇的な歴史小説、口伝・説話調の幻想譚、果てはグロテスクブラックユーモアなど、娯楽的なジャンルにおいても多く佳作を残している。

来歴・人物

谷崎倉五郎、関の長男として東京府東京市日本橋区に生まれた。弟の谷崎精二は、後に作家、英文学者早稲田大学で教員)となった。

母方の祖父谷崎久右衛門は、一代で財を成した人で、父は江澤家から養子に入ってその事業の一部を任されていた。しかし、祖父の死後事業がうまくいかず、谷崎が阪本尋常高小四年を卒業するころには身代が傾き、上級学校への進学も危ぶまれた。谷崎の才を惜しむ教師らの助言により、住込みの家庭教師をしながら府立一中に入学することができた。散文漢詩をよくし、一年のときに書いた『厭世主義を評す』は周囲を驚かせ、「神童」と言われるほどだった[要出典]

1902年(明治35年)9月、16歳の時、その秀才ぶりに勝浦鞆雄校長から一旦退学をし第二学年から第三学年への編入試験を受けるように勧められる。すると合格し、さらに学年トップの成績をとった。本人が「文章を書くことは余技であった」と回顧しているように、その他の学科の勉強でも優秀な成績を修めた[1]。卒業後、旧制一高に合格。一高入学後、校友会雑誌に小説を発表した。

一高時代、校長の新渡戸稲造と(1908年〈明治41年〉)

1908年(明治41年)、一高卒業後東京帝国大学文科大学国文科に進むが後に学費未納により中退。在学中に和辻哲郎らと第2次『新思潮』を創刊し、処女作の戯曲『誕生』や小説『刺青』(1909年)を発表。早くから永井荷風によって『三田文学』誌上で激賞され、谷崎は文壇において新進作家としての地歩を固めた。以後『少年』、『秘密』などの諸作を書きつぎ、自然主義文学全盛時代にあって物語の筋を重視した反自然主義的な作風を貫いた。

大正時代には当時のモダンな風俗に影響を受けた諸作を発表、探偵小説の分野に新境地を見出したり、映画に深い関心を示したりもし、自身の表現において新しい試みに積極的な意欲を見せた。

関東大震災の後、谷崎は関西に移住し、これ以降ふたたび旺盛な執筆を行い、次々と佳品を生みだした。長編『痴人の愛』では妖婦ナオミに翻弄される男の悲喜劇を描いて大きな反響を呼ぶ。続けて『卍』、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』、『武州公秘話』などを発表し、大正以来のモダニズムと中世的な日本の伝統美を両端として文学活動を続けていく。こうした美意識の達者としての谷崎の思想は『文章読本』と『陰翳禮讚』の評論によって知られる。この間、佐藤春夫との「細君譲渡事件」や2度目の結婚・離婚を経て、1935年(昭和10年)に森田松子と3度目の結婚して私生活も充実する。

太平洋戦争中、谷崎は松子夫人とその妹たち四姉妹との生活を題材にした大作『細雪』に取り組み、軍部による発行差し止めに遭いつつも執筆を続け、戦後その全編を発表する(毎日出版文化賞朝日文化賞受賞)。同作の登場人物である二女「幸子」は松子夫人がモデルとなっている。

同戦後は高血圧症が悪化、畢生の文業として取り組んだ『源氏物語』の現代語訳も中断を強いられた。しかし、晩年の谷崎は、『過酸化マンガン水の夢』(1955年)を皮切りに、『』、『瘋癲老人日記』(毎日芸術賞)といった傑作を発表。ノーベル文学賞の候補には、判明しているだけで1958年1960年から1964年まで6回にわたって選ばれ[2][3]、特に1960年と1964年には最終候補(ショートリスト)の5人の中に残っていた[4][3]。最晩年の1964年(昭和39年)には、日本人で初めて全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に選出された[要出典]

年譜

生家跡
  • 1886年(明治19年) 7月24日東京市日本橋区蛎殻町に生る。父谷崎倉五郎、母関の長男。
  • 1889年(明治22年) 父の経営する日本点灯会社が経営不振のために売却される。
  • 1890年(明治23年) 父、米穀の仲買人をはじめる。弟精二生まれる。
  • 1892年(明治25年) 日本橋阪本小学校尋常科へ入学(一年繰上げ)。
  • 1893年(明治26年) 出席日数不足のためもう一度一年生を行い、首席で進級する。生涯の友人笹沼源之助(日本初の「高級」中華料理店倶楽部偕楽園の御曹司)と知り合う。
  • 1894年(明治27年) 6月20日、明治東京地震に自宅で被災。地震恐怖症の原因(「九月一日」前夜のこと』で恐怖症と告白)。
  • 1897年(明治30年) 同小学校尋常科卒業、高等科に進む。級友と回覧雑誌を行う。
  • 1901年(明治34年) 同高等科卒業。このころ家産傾き、奉公に出されるはずだったが、才能を惜しむ人々の援助により東京府立第一中学校へ進む。吉井勇辰野隆らと知る。
  • 1902年(明治35年) 家業いよいよ逼迫し廃学を迫られるが、北村重昌(上野精養軒主人)の篤志によって住込みの家庭教師となり、学業を行う。
  • 1903年(明治36年) 一中校誌『学友会雑誌』の会幹となる。
  • 1905年(明治38年) 同校卒業、 第一高等学校英法科に進む。
  • 1907年(明治40年) 一高文芸部委員となり『校友会雑誌』に文章を発表する。北村家を出て、学生寮に入る。この頃から学資は伯父と笹沼家より受く。
  • 1908年(明治41年) 同校卒業、東京帝国大学国文科に進む。
  • 1910年(明治43年) この頃、文壇に出られない焦りから神経を病む。第2次『新思潮』創刊に加わる(創刊号は小山内薫の一文のため発禁処分)。
  • 1911年(明治44年)『刺青』、『麒麟』を発表。『少年』『幇間』を発表するが『新思潮』は廃刊に。授業料未納により退学。作品が永井荷風に激賞され、文壇的地位を確立する。
  • 1912年(大正元年) 京都旅行をはじめ各地を放浪、神経衰弱が再発する。徴兵検査を受け、不合格。『秘密』『悪魔』を発表。
  • 1915年(大正4年) 石川千代と結婚し、『お艶殺し』『法成寺物語』『お才と巳之介』 を発表。
  • 1916年(大正5年) 長女鮎子生まれる。『神童』『恐怖時代』を発表。
  • 1917年(大正6年) 母・関死去。妻と娘を実家に預ける。『人魚の嘆き』『異端者の悲しみ』を発表。
  • 1918年(大正7年) 朝鮮、満洲、中国に旅行。『小さな王国』を発表。
  • 1919年(大正8年) 父・倉五郎死去。小田原に転居。『母を恋ふる記』を発表。
  • 1920年(大正9年) 大正活映株式会社脚本部顧問に就任。『鮫人』『芸術一家言』を発表。
  • 1921年(大正10年) 妻千代を佐藤春夫に譲るという前言を翻したため、佐藤と絶交する。
  • 1923年(大正12年) 9月1日関東大震災。当時箱根の山道でバスに乗っており、その谷側の道が崩れるのを見る。横浜山の手の自宅は、地震恐怖症なので頑丈に造られており無事だったが、類焼してしまう。震災後、京都へ移住(後兵庫へ移る)。『肉塊』を発表。
  • 1924年(大正13年) 『痴人の愛』を発表。
  • 1926年(昭和元年) 中国旅行。郭沫若と知り合う。帰国後佐藤春夫と和解する。『上海交遊記』、『上海見聞録』を発表。
  • 1927年(昭和2年) 根津松子と知り合う。『饒舌録』を連載し、芥川龍之介との間で「筋のある小説、ない小説」論争が起こるが、直後に芥川が自殺する。
  • 1928年(昭和3年) 神戸市東灘区岡本に新居(「鎖瀾閣」)を築く。『卍』を発表。
  • 1929年(昭和4年) 妻千代を、和田六郎(後の大坪砂男)に譲る話が出て、それを元に『蓼食ふ蟲』を、前年から連載するが、佐藤春夫の反対で話は壊れる。
  • 1930年(昭和5年) 『乱菊物語』前編を発表。千代と離婚。離婚および千代の佐藤再嫁の旨の挨拶状が有名になり、細君譲渡事件として騒がれる。
  • 1931年(昭和6年) 古川丁未子と結婚。借金のため一時期高野山にこもる。『吉野葛』『盲目物語』『武州公秘話』を発表。
  • 1932年(昭和7年) 兵庫に転居する。隣家は根津松子一家だった。『倚松庵随筆』『蘆刈』を発表。
  • 1933年(昭和8年) 丁未子と別居する。弟精二と絶交。『春琴抄』『陰翳禮讚』を発表。
  • 1934年(昭和9年) 『夏菊』を連載するが、モデルとなった根津家の抗議で中断。『文章読本』を発売、ベストセラーとなる。
  • 1935年(昭和10年) 丁未子と離婚、(根津清太郎とは離婚した)森田松子と結婚する。『源氏物語』の現代語訳に着手。『摂陽随筆』を発表。
  • 1936年(昭和11年) 『猫と庄造と二人のをんな』を発表。
  • 1937年(昭和12年) 創立された帝国芸術院会員に選ばれる。
  • 1938年(昭和13年) 阪神大水害起こる。このときの様子がのちに『細雪』中に映されることになる。源氏物語の現代語訳脱稿する。
  • 1939年(昭和14年) 弟精二と和解。『潤一郎訳源氏物語』刊行されるも、皇室にわたる部分について何箇所かを削除した。
  • 1942年(昭和17年) 熱海市に別荘を借りる。
  • 1943年(昭和18年) 「中央公論」誌上に連載開始された『細雪』が軍部により連載中止となる。以降密かに執筆を続ける。
  • 1944年(昭和19年) 『細雪』上巻を私家版として発行。一家で熱海疎開。
  • 1945年(昭和20年) 津山、ついで勝山に再疎開。
  • 1946年(昭和21年) 京都に転居し、東山区南禅寺下河原町に居を定める(前の潺湲亭)。
  • 1947年(昭和22年) 高血圧症の悪化により執筆が滞りがちとなる。『細雪』上巻を発表(毎日出版文化賞受賞)。
  • 1948年(昭和23年) 『細雪』下巻が完成する。
  • 1949年(昭和24年) 朝日文化賞受賞。下鴨泉川町に転居(後の潺湲亭)。文化勲章受章(第八回)。『月と狂言師』、『少将滋幹の母』を発表。
  • 1950年(昭和25年) 熱海にふたたび別荘を借りる(前の雪後庵)。
  • 1951年(昭和26年) この年以降再び高血圧症悪化、静養を専らとする。文化功労者となる。『潤一郎新訳源氏物語』を発表。
  • 1954年(昭和29年) 熱海市伊豆山に新たに別荘を借りる(後の雪後庵)。
  • 1955年(昭和30年) 『幼少時代』『過酸化マンガン水の夢』を発表。
  • 1956年(昭和31年) 京都潺湲亭を売却し、熱海に転居。『鍵』を発表。
  • 1958年(昭和33年) 右手に麻痺がおこり以降口授(口述筆記)によって執筆する。
法然院にある墓所
  • 1959年(昭和34年) 『夢の浮橋』を発表。
  • 1960年(昭和35年) 狭心症発作で入院。『三つの場合』を発表。
  • 1961年(昭和36年) 『瘋癲老人日記』を発表。
  • 1962年(昭和37年) 『台所太平記』を発表。
  • 1963年(昭和38年) 新宅造成のため東京を転々とする。『瘋癲老人日記』により毎日芸術賞受賞。『雪後庵夜話』を発表。
  • 1964年(昭和39年) 全米芸術院、米国文学アカデミー名誉会員。神奈川県湯河原町の新宅に転居(湘碧山房)。『潤一郎新々訳源氏物語』(口述筆記)を発表。
  • 1965年(昭和40年) 京都に遊ぶ。随筆諸種を発表。7月30日腎不全心不全を併発して79歳で死去。戒名は安楽寿院功誉文林徳潤居士。

作品の評価

長い間、日本の近代文学の主流は私小説であり、作家の私生活を描き、人生をいかに生きるべきかを追求する有様を読者に提供することが主な目的といわれてきた。その雰囲気は陰鬱で、陰鬱であることこそが芸術であるという考えかたが一般的だった。そのため、谷崎の作品はしばしば「思想がない」として低い評価が与えられてきた。しかし、私小説中心の文学観から離れたとき、谷崎の小説世界の豊潤さに高い評価が与えられてもいる。なお、『谷崎潤一郎伝 堂々たる生涯』を著した小谷野敦によると、そうした私小説的風土からの断絶を指摘されてきた谷崎は、実は自身の女性遍歴や身辺にひろく材をとりながらあれらの豪奢な物語群を書きついでいたという。

『文章読本』でみずから主張するような「含蓄」のある文体で、いわゆる日本的な美、性や官能を耽美的に描いた。情緒的で豊潤でありながら高い論理性を誇るその文体は、日本文学的情趣と西洋文学的小説作法の交合的なものであり、魅力的な日本語の文章が至りうるひとつの極致であるともいわれる。谷崎の文章は森鴎外志賀直哉に代表される簡勁な表現とは対極的ではあるが、鴎外と並んで小説文体の理想のひとつとされることも多い。

強く美しく(「刺青」の地の文においてこの二つはほぼ等価であると記されている)、そして抗いがたく魅力的な女性と、それに対するマゾヒスティックな主人公の思慕がしばしば作品に登場することから、谷崎と彼の作品は女性礼讃やフェミニズムの観点から論じられることがあるが、これらは谷崎の性愛と肉体に対する興味から発するものだと見るのが一般的である。『家畜人ヤプー』の作者(異説あり)天野哲夫は、谷崎文学はマゾヒズム抜きでは語り得ないと指摘。結婚前の松子夫人にあてた書簡などにもご主人様と下僕の関係として扱って欲しいなどの特異な文面が多く見られる。谷崎の諸作品にはしばしば女性の足に対するフェティシズム足フェチ)が表れている。

関東大震災以前の谷崎の作風は、モダンかつ大衆的であることが知られているが、谷崎自身はそのことを後悔していたらしく、震災以前の作品は「自分の作品として認めたくないものが多い」と言った。そのために震災以前と以後の作品を文学史でも明確に分け、以前の作品を以後の作品に比して低い評価をすることが通例となっていた。しかし、近年、物語小説の復活の機運と、千葉俊二細江光らにより震災以前の作品への再評価がなされている。また、後期にあっても『猫と庄造と二人のをんな』『台所太平記』のように大正期的な雰囲気をうけついだ作品を谷崎自身が書きついでいることも鑑み、作者の低評価については今すこし判断を保留すべき部分がある。

短編小説群のなかでは、代表作『刺青』(1910年)における耽美主義、マゾヒズム、江戸文明への憧れと近代化への拒絶、『幇間』(1911年)の自虐趣味、『お艶殺し』(1915年)の江戸趣味と歌舞伎のような豪奢な残虐性、『神童』(1916年)の幼年期に対する憧憬と堕落の愉悦、『人魚の嘆き』(1917年)のロマンティズムや幻想趣味、『異端者の悲しみ』(同年)のエロティシズム、『母を恋ふる記』(1919年)の近親相姦的な愛情と女性崇拝、『鮫人』(1920年)の伝奇趣味などをあげることができる。また、1920年に発表された『藝術一家言』ではその理知的な芸術観や物語論を展開しており、後の芥川龍之介との論争を考える上で興味深い。

『途上』や『呪われた戯曲』など、ミステリーやサスペンスの先駆的な作品も残している。谷崎自身が自身の作品を探偵小説扱いされるのを嫌ったことについても、最初の推理小説『モルグ街の殺人』を書いたことでも知られるエドガー・アラン・ポーも推理小説を意図して書いたわけでは無かったことを引き合いに出して論じている。

関西移住後の代表作は長編が中心となり、ここで谷崎の物語作家としての質的な転換が起こる。『痴人の愛』(1924年)は長編における豊かな風俗性と物語構造の堅牢さがはじめて実を結んだ作品であり、特に風俗描写の問題は大正期諸作の総まとめとして、また戦中戦後の作品への手法論的な影響として大きな意味を持つ。『卍』、『蓼喰ふ虫』(ともに1928年)は、いわゆる夫人譲渡事件などに題材を取った双子の長編というべき作品だが、現代風俗を扱いながら男女愛欲のさまを丁寧に描き、性愛の底知れぬ深遠を見せて、しかも、それが一皮めくれば文明や社会とつながっているという状況を描いた傑作である。手法論としてもすでに吉田健一らが指摘するとおり、昭和初期に勃興したモダニズム文学の影響を受けている。また、この両作から谷崎の文体は目に見えて優れたものとなっていく。

倚松庵」(神戸市東灘区)。1936年(昭和11年)~1943年(昭和18年)にかけて居住し、『細雪』の冒頭部をここで執筆した。

『乱菊物語』(1930年)、『吉野葛』、『盲目物語』、『武州公秘話』(すべて1931年)はいずれも当時の谷崎が関心を持っていた歴史物である。舞台や時代を変えつつも、大正期以来の耽美主義、マゾヒズム、残虐性、ロマン趣味、幻想趣味、エロティシズム、女性崇拝などが受継がれている点が注目される。こうした一連の作品の最終的な成果が『蘆刈』(1932年)と『春琴抄』(1933年)だといえるだろう。特に短編『春琴抄』は谷崎的な主題をすべて含みつつ、かなり実験的な文体を用いることで作者のいわゆる「含蓄」を内に含んだ傑作となっており、その代表作と呼ぶにふさわしい。1934年に『陰翳禮讚』、翌1935年に『文章読本』と二つの批評により、みずからの美意識を遺憾なく開陳するとともに当時の文明を高度に批評した。この時期のしめくくりとなるのは「猫と庄造と二人のをんな」(1936年)である。あたかも大正期の谷崎がよみがえり、『卍』、『蓼喰ふ虫』の文体によって書いたかのような小編の佳品である。

戦中・戦後の谷崎の活動は『細雪』と『源氏物語』現代語訳の執筆に代表される。『細雪』は1942年ごろより筆を起こし、『中央公論』に掲載されたが、1943年奢侈な場面が多いとして2回で掲載禁止となり、以降発表を断念。この年に私家版上巻のみを出版して、戦中何度かの断続を経ながら書き継いだ。1947年ごろには下巻の相当な部分まで完成し、翌1948年全編を出版。これによって谷崎の名声は揺るぎないものとして確立される。一方の『源氏物語』は、1939年から『潤一郎訳源氏物語』として発表されるが、中宮の密通に関わる部分は削除された。戦後手を入れ1951年に『潤一郎新訳源氏物語』を、文体を刷新した『潤一郎新々訳源氏物語』が1964年に刊行し、決定版となる。

戦後の代表作としては、ほかに母恋いと近親相姦的愛欲の系譜である『少将滋幹の母』(1949年)、『夢の浮橋』(1959年)がある。『鍵』(1956年)は抑圧される性欲と男女の三角関係をテーマにし、『卍』、『蓼喰ふ虫』の系譜の総決算といえる。さらに、『瘋癲老人日記』(1961年)の迫りくる死の恐怖と愉悦が被虐的な愛欲に重ねあわされた境地もきわめて優れたもので、その文体論的な実験は谷崎の戦後における到達点の一つを示している。

「作品集」・「全集」(没後に数度刊行[5])、『源氏物語現代語訳』は、文庫も含む様々な版で、中央公論社(中央公論新社)で刊行されている。

女性関係

1915年(大正4年)、谷崎は石川千代子と結婚したが、1921年(大正10年)頃谷崎は千代子の妹せい子(『痴人の愛』のモデル)に惹かれ、千代子夫人とは不仲となった。谷崎の友人佐藤春夫は千代子の境遇に同情し、好意を寄せ、三角関係に陥った(佐藤の代表作の一つ『秋刀魚の歌』は千代子に寄せる心情を歌ったもの。また、佐藤は『この三つのもの』を、谷崎は『神と人との間』を書いている)。結局、1926年(大正15年)二人は和解、1930年(昭和5年)、千代子は谷崎と離婚し、佐藤と再婚した。このとき、3人連名の「・・・・・・我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り、・・・・・・素より双方交際の儀は従前の通りにつき、右御諒承の上、一層の御厚誼を賜り度く、いずれ相当仲人を立て、御披露に及ぶべく候えども、取あえず寸楮を以て、御通知申し上げ候・・・・・・」」との声明文を発表したことで「細君譲渡事件」として世の話題になった。

翌1931年(昭和6年)、谷崎は古川丁未子と結婚するが、1934年(昭和9年)離婚。翌年、森田松子と結婚した。

松子が妊娠した際、「藝術的雰囲気を守りたい」という谷崎の意向で中絶したと、谷崎自身が『雪後庵夜話』に書いたためこの件が有名となり、それゆえに谷崎を批判する者も多い。しかし戦時下に書かれた『初昔』によれば、松子は3人の医師から健康上中絶を勧められたというのが真相で、そうでなければ松子の3人の姉妹や医師をどう説得したのか説明がつかない(これも『谷崎潤一郎伝』による)。

大谷崎

谷崎は「大谷崎」と呼ばれるが、丸谷才一によると、これは「おおたにざき」と呼ぶのが正しく、その理由は「歌舞伎の先代歌右衛門つまり五代目中村歌右衛門(屋号は成駒屋)を大成駒と呼ぶ習はしにあやかつたものだからである。この大成駒はもちろんオホナリコマ。ダイナリコマなんて声をかけたら、八重垣姫も政岡も台なしになつてしまふ」[6]という。丸谷はまた、「彼が大谷崎と尊敬されたのは、作風の華麗、生活の豪奢のせいもあつたらう。しかしそれだけではない。単なる谷崎と区別する意味合ひもあつたのです。彼の弟、谷崎精二は早大教授である英文学者でしたが、小説も書きました」[7]とも述べている。

小谷野敦もまた、大谷崎という呼び名は弟の精二と区別するためのものだと述べているが、「だいデュマ」「しょうデュマ」などと同じく、昭和初年の雑誌に「だいたにざき」とルビがあったとして、読み方は「おおたにざき」ではなく「だいたにざき」であると主張している[8]

記念館

芦屋市谷崎潤一郎記念館

逸話

  • 日新電機株式会社(本社:京都市右京区)は、文豪・谷崎潤一郎のかつての邸宅「石村亭(せきそんてい)」を所有している。2006年(平成18年)は、日新電機が石村亭を譲り受けて50年目の記念の年にあたった。石村亭は谷崎が「潺湲亭(せんかんてい)」と名付けてこよなく愛した邸宅で、小説『夢の浮橋』の舞台でもある。谷崎は日新電機に譲り渡すにあたり、今の姿をいつまでも保って欲しいとし、その思いを受けて「石村亭」と命名した。外部リンクの節の谷崎潤一郎旧邸宅・石村亭プロジェクトを参照。
  • 日本人作家で唯一フランス語プレイヤード叢書に所収された。英語版でも、『源氏物語』と『細雪』が選ばれた「世界文学名作叢書」がある。
  • 弟子だった今東光が書いたところによると幸田露伴の『運命』の表題を決めたのは谷崎である。当初は『零』という表題だったが、改造社社長山本実彦が露伴の書き下ろした原稿を一読の為持参すると、直ちに目を通し「素晴らしい作品であるが、この『零』という表題では何人も容易に会得することが出来ないであろうから、甚だ失礼ながらこの方がよいのではないか」と言い、これを『運命』と題した。
  • バルザック全集を読破し、バルザックの作品は『ロスト・イリュージョン』(幻滅)を持って最高最大の傑作であると評していた。また、芥川龍之介にもバルザックを読むことを薦めたという[9]
  • 谷崎が少年時代からずっと書いていた日記があったが、彼の死後、遺族も知らない間に散逸してしまったという[10]
  • 随筆家渡辺たをりは谷崎の3番目の妻・松子とその最初の夫・根津清太郎の孫だが、谷崎はたをりを実の孫のようにかわいがり[11]、たをりは後に『祖父 谷崎潤一郎』を上梓している。なお、たをりの夫は演劇評論家の高萩宏である。
  • 谷崎は1958年度ノーベル文学賞の候補になったが、その時期に三島由紀夫らが財団に送った推薦状の内容が、朝日新聞社の情報公開請求により明らかにされた(朝日新聞、2009年9月23日付)。このとき谷崎を推薦したのは三島のほかにパール・バックドナルド・キーンエドウィン・ライシャワーらで三島を含めて計5名おり、最終選考より一段階前の41人の中に含まれていた。ノーベル財団の資料は「ノーベル委員会はこの候補者に興味を持っていることは認めるが、今の時点では受け入れる準備ができていない」と結論づけている。谷崎は1960年のノーベル文学賞候補にもなっており、その際は最終候補の5人の中に入っていた。しかしながら、他の欧米の作家に比べて見劣る点があったため受賞を逃している[12]
  • 谷崎潤一郎は陰影礼賛が有名だが、本人は洋風建築の照明などの明るい家で椅子の暮らしをしていた。

代表作

小説

長編
短篇
  • 刺青
  • 秘密
  • 『少年』
  • 『神童』
  • 『或る異端者の悲み』
    私小説、題名は「悲み」で正しい
  • 『柳湯の事件』
  • 『小さな王国』
  • 『白昼鬼語』  
  • 『途上』
    江戸川乱歩が日本の探偵小説の濫觴と称賛
  • 『私』
    叙述トリックの推理物
  • 『友田と松永の話』
  • 『夢の浮橋』
  • 『幇間』
  • 『二人の稚児』
  • 『母を恋うる記』

評論・随筆

  • 『青春物語』
    パニック障害の症状を記した若い頃の記録
  • 文章読本
  • 陰翳礼讃
  • 『恋愛及び色情について』
  • 『所謂痴呆の藝術に就て』
    人形浄瑠璃を痴呆の芸術としつつも可愛い我が子と評した
  • 『三つの場合』
    ある三人の死を描く
  • 『幼少時代』
    明治時代の日本橋を描く
  • 『門を評す』
    夏目漱石の小説『』の書評
  • 『懶惰の説』
  • 『「つゆのあとさき」を読む』
    永井荷風の小説『つゆのあとさき』の書評
  • 『私の見た大阪及び大阪人』
    大阪の言葉や文化と東京のそれとの比較
  • 『文壇むかしばなし』
  • 『「越前竹人形」を読む』
    水上勉の小説『越前竹人形』の書評

戯曲

翻訳

書簡集

  • 水上勉『谷崎先生の書簡―ある出版社社長への手紙を読む』中央公論社、1991 のち文庫 嶋中雄作宛書翰 
  • 『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』中央公論新社、2006年 のち文庫
  • 『谷崎潤一郎の恋文 松子・重子姉妹との書簡集』中央公論新社、2015年

全集・作品集

  • 『谷崎潤一郎全集』全12巻 改造社、1930-31
  • 『谷崎潤一郎全集』全30巻(新書判)中央公論社、1957-59
  • 『谷崎潤一郎全集』全28巻 中央公論社、1966-70
  • 『谷崎潤一郎全集』全30巻 中央公論社、1981-83
  • 『谷崎潤一郎全集』全26巻 中央公論新社、2015-(刊行中)

対談

  • 『谷崎潤一郎対談集 藝能編』(小谷野敦細江光編、中央公論新社、2014年9月)
  • 『谷崎潤一郎対談集 文藝編』(同上、2015年3月)

CD

  • 谷崎潤一郎「少年」朗読:朴璐美(日本音声保存)
  • 谷崎出演ラジオ「

伝記

  • 野村尚吾『伝記谷崎潤一郎』六興出版、1972 
  • 平山城児『谷崎潤一郎』清水書院 センチュリーブックス 人と作品 1966
  • 秦恒平『神と玩具との間 昭和初年の谷崎潤一郎』六興出版 1977
  • 稲沢秀夫『聞書谷崎潤一郎』思潮社 1983
  • 同『秘本谷崎潤一郎』全5巻 烏有堂 1991-93
  • 大谷晃一『仮面の谷崎潤一郎』創元社 1984
  • たつみ都志『谷崎潤一郎・「関西」の衝撃』和泉書院 1992 
  • 小谷野敦『谷崎潤一郎 堂々たる人生』中央公論新社、2006 

追憶の書

  • 谷崎松子の諸著作
  • 渡辺たをり『祖父谷崎潤一郎』六興出版 ロッコウブックス 1980 のち中公文庫 
  • 同『花は桜魚は鯛 谷崎潤一郎の食と美』ノラブックス 1985 のち中公文庫 
  • 伊吹和子『われよりほかに 谷崎潤一郎最後の十二年』講談社 1994 のち講談社文芸文庫 
  • 末永泉『谷崎潤一郎先生覚え書き』中央公論新社 2004
  • 渡辺千萬子『落花流水 谷崎潤一郎と祖父関雪の思い出』岩波書店 2007

作家論

  • 野口武彦『谷崎潤一郎論』
  • 渡部直己『谷崎潤一郎 擬態の誘惑』
  • 千葉俊二『谷崎潤一郎 狐とマゾヒズム』小沢書店 1994
  • 野崎歓『谷崎潤一郎と異国の言語』人文書院 2003 のち中公文庫 
  • 細江光『谷崎潤一郎深層のレトリック』和泉書院 2004

関連項目

出典

  1. ^ 『尋中一中日比谷高校八十年の回想』(如蘭会編、1958年)、須藤直勝 『東京府立第一中学校』(近代文藝社、1994年9月) P.147
  2. ^ 三島由紀夫、ノーベル文学賞最終候補だった 63年 日本経済新聞2014年1月3日、2014年1月7日閲覧
  3. ^ a b 64年ノーベル文学賞:谷崎、60年に続き最終選考対象に 毎日新聞 2015年1月3日閲覧
  4. ^ 谷崎潤一郎と西脇順三郎、ノーベル賞候補に4回 読売新聞 2013年1月14日閲覧
  5. ^ 中央公論新社で2015年5月より刊行開始(全26巻)
  6. ^ 丸谷才一『軽いつづら』p.58(新潮社、1993年)
  7. ^ 丸谷才一『軽いつづら』p.60(新潮社、1993年)
  8. ^ 小谷野敦『谷崎潤一郎伝―堂々たる人生』(中央公論新社、2006年)
  9. ^ 今東光 『東光金欄帖』(中央公論社、1978年)谷崎潤一郎 P.111 - 123
  10. ^ 直井明 『本棚のスフィンクス』(論創社)P.336
  11. ^ 小谷野敦 『日本の有名一族 近代エスタブリッシュメントの系図集』(幻冬舎新書 2007年9月30日)P.102 - 104
  12. ^ NHK BS1ワールドWaveトゥナイト』特集 2011年10月5日放送より

参考文献

外部リンク