八朔

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八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦8月1日のこと。

この頃、早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあった。このことから、田の実の節句ともいう。この「たのみ」を「頼み」にかけ、武家公家の間でも、日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、その恩を感謝する意味で贈り物をするようになった。[1]

催し物、祭り[編集]

熊本の八朔祭(はっさくまつり)[編集]

八朔祭の大造り物(熊本県山都町)

熊本県上益城郡山都町浜町では、野山の自然素材を豊富に使った巨大な「造り物」が名物の「八朔祭」が、旧暦に合わせて、毎年、9月第一土日・二日間にわたって開催されている。この祭りは江戸時代中期から始まったとされ、田の神に感謝し、収穫の目安を立てる日とされ、NHKなど全国ニュースにも毎年取り上げられているほど有名な祭りである。

町の中心街を高さ3〜4m、長さ7〜8mにもおよぶ大造り物(山車 他にお囃子隊が同行)が数十基、引き廻される光景は実に壮観で、内外より多くの観光客や写真家を呼び込んでいる。 祭りに合わせて放水する国の重要文化財通潤橋(つうじゅんきょう)の姿は実に見事で、夜には通潤橋の近くで花火も打ち上げられ、日頃は閑散とした山の町が遅くまで大勢の観光客で賑わう。

造り物には順位が付けられ、浜町内の各町や団体が長年培ってきた技術、作品のテーマや形にアイデアや知恵を絞り競っている。祭りの本格的な準備は約1ヶ月前から始まり、町内各地に、造り物の山車を作る小屋や番屋が立つ。

福井の八朔祭[編集]

福井県美浜町新庄区では、五穀豊穣と子孫繁栄を願っておこなわれる。太鼓や笛のおはやしのなか、樽神輿をかついだ行列が田代公会堂を出発し、日吉神社まですすむ。この行列に続いて、男性のシンボルをかたどったご神体を持ったてんぐが進み、見物客の女性をご神体(長さ約60センチの木製)でつつく。このご神体でつつかれた女性は子宝に恵まれるといういわれがある。 [2]

各地の八朔行事[編集]

京都市東山区祇園一帯など花街では、新暦8月1日に芸妓や舞妓がお茶屋や芸事の師匠宅へあいさつに回るのが伝統行事になっている。

福岡県遠賀郡芦屋町では、「八朔の節句」として長男・長女の誕生を祝い、男児はで編む「わら馬」、女児は米粉で作る「だごびーな(団子雛)」を家に飾る行事が行なわれており、300年以上続く伝統行事として、国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財の選択を受けている。

香川県丸亀市では、男児の健やかな成長を祈り、その地方で獲れた米の粉で「八朔だんご馬」を作る風習がある。讃岐藩出身で馬術の名人として名高い曲垣平九郎に因んでいる。

香川県三豊市の旧仁尾町兵庫県たつの市御津町室津地区など、歴史的経緯によって本来は旧暦3月3日に行われる雛祭りを八朔に延期する風習を持つ地域も存在する。

また、徳川家康天正18年8月1日(グレゴリオ暦1590年8月30日)に初めて公式に江戸城に入城したとされることから、江戸幕府はこの日を正月に次ぐ祝日としていた[3]

明治改暦以降は、新暦8月1日月遅れ9月1日に行われるようになった。

二百十日二百二十日とともに台風襲来の特異日とされている。

関連文献[編集]

  • 澤太郎左衛門 徳川家八朔祝賀の起因(同方会雑誌第六号抄出) 舊幕府 第2巻第2号、75頁〜84頁 冨山房雑誌部 明治31年(1898年)2月20日

関連項目[編集]

  • ハッサク - 8月1日ごろに食べられるようになったため、この名が付いた。

脚注[編集]

  1. ^ 「年中行事事典」p638 1958年(昭和33年)5月23日初版発行 西角井正慶編 東京堂出版
  2. ^ 福井新聞 てんぐが女性追い大暴れ!客爆笑 福井・美浜で奇祭「八朔祭」(2012年9月1日午後5時29分) 福井新聞
  3. ^ 「年中行事事典」p639 1958年(昭和33年)5月23日初版発行 西角井正慶編 東京堂出版

外部リンク[編集]