本田美奈子.
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| 本田美奈子. | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 出生名 | 工藤美奈子 |
| 出生日 | 1967年7月31日東京都板橋区 |
| 学歴 | 堀越高等学校卒業。 |
| 出身地 | |
| 死没日・地 | 2005年11月6日(満38歳没)東京都港区 |
| ジャンル | J-POP ミュージカル クラシカル・クロスオーバー |
| 職業 | 歌手 女優 |
| 活動期間 | 1985年 - 2005年 |
| レーベル | 東芝EMI マーキュリー バンダイ・ミュージックエンタテインメント マーベラスエンターテイメント コロムビアミュージックエンタテインメント |
| 事務所 | ボンド企画 BMI |
| 共同作業者 | 岩谷時子 井上鑑 岡野博行 |
| 影響 | 越路吹雪 サラ・ブライトマン |
| 公式サイト | 本田美奈子.オフィシャルサイト minako-channel |
本田 美奈子.(ほんだ みなこ、1967年7月31日 - 2005年11月6日)は、日本の歌手、女優である。2004年に本田 美奈子から画数が31画となるよう名前の後に「.(ドット)」をつける改名を行った。本名は工藤 美奈子(くどう みなこ)。
1980年代後半を代表するアイドル歌手であり、1990年代以降は主にミュージカルで活躍した。2000年代に入ってからはクラシックとのクロスオーバーに挑戦するなど、活躍した領域の広汎さでは日本の芸能史上出色の存在である。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] アイドル歌手としてデビュー
1967年7月31日午前11時17分、東京都板橋区上赤塚町(現成増)の成増産院に生まれた。彼女の誕生はラジオの全国放送のその日生まれた新生児を紹介するコーナーで取り上げられた[1]。当時の彼女の家庭は東京都葛飾区柴又に在住していたが、幼いうちに埼玉県朝霞市に移住し、生涯の大半をそこで過ごした。歌が好きで歌手になることを夢見ていた母の影響で幼い頃からいつも歌を歌っていた。小学校の卒業文集には「将来の夢は歌手」と書いていた。
中学生の時『スター誕生!』のオーディションを受け、決戦大会に進出したがプロダクションからのスカウトは受けなかった[2]。1983年原宿で少女隊のメンバーを探していたボンド企画にスカウトされ芸能界に入った。社長の高杉敬二とはこの後ボンド企画倒産後も二人三脚で歩み続けることになる。
当初の少女隊のメンバーという構想に反し、その歌唱力の高さを見込まれソロ歌手として活動することになった。1984年第8回長崎歌謡祭でグランプリを受賞したことがデビューのきっかけとなった。翌1985年4月20日東芝EMIから「殺意のバカンス」でデビュー。4枚目のシングル「Temptation(誘惑)」をヒットさせたほか、12月7日には新人歌手としては異例の武道館コンサートを成功させた。同年の数多くの新人賞を受賞した。
1986年2月5日「1986年のマリリン」をリリースし大ヒットとなった。へそを露出させた衣装や激しく腰を振る振り付けなど当時のアイドル歌手としては異例の演出と相俟って本田の名を広く世間に知らしめた。同曲は今もって本田の最も有名な楽曲である。
1988年に女性だけのメンバーによるロックバンド“MINAKO with WILD CATS”を結成、シングル「あなたと、熱帯」、アルバム『WILD CATS』などを発表した。同年9月11日SHOW-YAが企画した女性ロッカーのみによるジョイントライブ『NAONのYAON』に出演。翌1989年秋に解散した。
[編集] ミュージカルでの活躍
1990年ミュージカル『ミス・サイゴン』のオーディションを受け、約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれた。1992年5月5日『ミス・サイゴン』日本初演。以来一年半のロングランをこなし、その歌唱力、演技力を高く評価された。1992年度第30回ゴールデン・アロー賞演劇新人賞を受賞。
1994年『屋根の上のバイオリン弾き』にホーデル役で出演。9月24日にアルバム『JUNCTION』を、翌1995年6月25日にはアルバム『晴れ ときどき くもり』をリリースし、レコーディング・アーティストとしても復活を果たした。
1996年『王様と私』にタプチム役で出演。
1997年『レ・ミゼラブル』にエポニーヌ役で出演。当時すでに日本初演の際にこの役を演じた島田歌穂が“世界一のエポニーヌ”と称されるほどの評判を得ていたが、本田もそれに劣らぬ評価と人気を獲得した。以後も繰り返しこの役で出演し、エポニーヌは本田の当たり役となった。
1998年エイズチャリティーコンサートで「ある晴れた日に(プッチーニのオペラ『蝶々夫人』より)」を歌い、2000年3月20日サリン事件チャリティーコンサートではラフマニノフの「ヴォカリーズ」を歌った。同年6月19日シドニーオリンピックを記念して開かれたシドニーのオペラハウスでの日豪親善コンサートに服部克久の推薦により出演した際には「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」や「ある晴れた日に」を歌うなど、この頃から次第にクラシックへの志向を強めていた。
同じく2000年10月13日にはデビュー15周年記念コンサート『歌革命』を開催、自身のシングル・メドレーのほか「天城越え」や「ある晴れた日に」などを歌った。
2002年『ひめゆり』にキミ役で出演。日本で制作されたミュージカルへの初の出演となった。
[編集] クラシカル・クロスオーバーへの進出
2003年5月21日初のクラシックアルバム『AVE MARIA』をリリース。ソプラノ的な唱法でクラシックの曲に日本語詞をつけて歌うというユニークなスタイルで新境地を切り開いた。
同年東宝によりシェイクスピアの戯曲にもとづくミュージカル『十二夜』が制作され、本田はネコ役を初演した。原作にないこの役はセリフに苦手意識のある本田のために特に作られたものだった。
2004年地球ゴージャス制作のミュージカル『クラウディア』でヒロインのクラウディア役を初演。同年8月29日『N響ほっとコンサート』でNHK交響楽団と共演し「新世界」と「シシリエンヌ」を歌った。11月25日アルバム『時』をリリース。12月1日武道館での『Act Against AIDS』に出演、38度を超える発熱をおして「ジュピター」と「1986年のマリリン」を歌った。この頃からすでに病気の兆候が表れていた。
[編集] 白血病による逝去
風邪に似た症状がなかなか治まらないため、2005年1月に病院の検査を受けたところ急性骨髄性白血病と診断され緊急入院。3回の化学療法による治療の後、5月に臍帯血移植を受け、7月末には一時退院できるまでに回復した。しかしわずか1ヵ月後の8月31日に染色体異常が見つかり9月7日に再入院した。10月には一時退院したものの21日に染色体異常が発見され三度目の入院となった。11月3日に肺に合併症を発し容態が急変、2005年11月6日午前4時38分家族らの見守る中、逝去した。38年と3ヶ月の生涯だった。法名は「釋優聲(しゃく ゆうしょう)」。
[編集] 音楽
[編集] 多彩なジャンルでの活躍
[編集] 演歌への志向
当初は演歌歌手志望で、事務所のオーディションのために準備してきた楽曲は演歌だった[1]。所属するボンド企画に演歌歌手を育てた経験がなかったためにアイドルとしてデビューすることになったものの、本人の強い意向で「殺意のバカンス」をデビュー曲とすることになったのはこうした志向によるものと考えられる。
またロックバンドを解散し再びソロに戻った頃には、新たな方向性として演歌歌手への転向が真剣に模索されていたと言われている。実際この時期に出演したテレビ番組では着物を着て演歌を歌った[3]ほか、演歌歌手として活動する方針であることがマスコミでも報じられており[4]、この計画はある程度具体化していたらしい。
この後にもアルバム『JUNCTION』にオリジナル演歌とも見做し得る楽曲を収録したほか、コンサートでは度々演歌の名曲をカバーしていた。結果的に演歌歌手として活動することはついになかったものの、演歌への志向は生涯を通じて本田の歌手活動に大きな影響を与えていたものと思われる。
[編集] アイドル歌手として
1985年4月20日に「殺意のバカンス」でデビューすると新人離れした歌唱力に加え、可憐な容姿も相俟って順調に人気を獲得した。4枚目のシングル「Temptation(誘惑)」(同年9月28日発売)のヒットは本田にこの年の各種歌唱賞の新人賞を数多くもたらした。翌年の2月5日に発売された「1986年のマリリン」は爆発的なヒットとなり、“へそ出しルック”で激しく腰を振って踊る姿は世の中の注目を集めた。こうした演出の意図について、本田自身は「Temptation(誘惑)」が各種ランキングの10位以内に惜しくも届かなかったのが悔しくてより強く個性を出そうとした、と語っている[1]。
人気の高まりを裏づけるように、同年7月23日発売の「HELP」は公共広告機構のいじめ防止キャンペーン「しらんぷりもいじめ」のテレビコマーシャルで使用された[5]。歌へのこだわりが強くドラマや映画への出演には消極的だった本田だが、1987年放送のドラマ『パパはニュースキャスター』には本人役で出演し、主題歌に採用された「Oneway Generation」(同年2月4日発売)はドラマ自体の好評にも支えられ人気を博した。同じ年の映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』も歌手の役ということで引き受け、劇中事故で亡くなったレーサーの兄に捧げて「孤独なハリケーン」(9月9日発売)を歌った。この3曲で本田にとってオリコンランキング最高位である2位を獲得した[6]。
この時期の楽曲には秋元康による作詞、筒美京平による作曲のものが圧倒的に多い。秋元は当時本田について、プロとアマチュアの境界が曖昧になっていた当時のアイドル・シーンの状況を踏まえて「本田美奈子さんというのは徹底したプロで、全てに関して真剣になるし、それだけプロ根性がすわっている女の子じゃないかな、と思います」と語っていた[7]。
[編集] 洋楽からの影響
元々は洋楽にはあまり詳しくなかったのだろうと見られている。しかしデビュー後は事務所社長の高杉に薦められてマリリン・モンローやマドンナなど外国のスターの映像をくり返し見て演出の参考にしていた[1]。デビュー翌年の「1986年のマリリン」における衣装や振り付けはその影響でもある。この年にはゲイリー・ムーアから楽曲提供を受け、彼のギター・ワークをフィーチャーした「the Cross -愛の十字架-」が制作された。
翌1987年にはブライアン・メイのプロデュースによりシングル「CRAZY NIGHTS」(カップリングは「GOLDEN DAYS」)が制作された。本田は武道館でのコンサートでフレディ・マーキュリーの「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」をカバーしており、このコンサートのライブ盤とデビューアルバムをロンドンEMIを通じてブライアンに送ったところ彼の方から申し出がありコラボレーションが実現した。このシングルの英語版はイギリスをはじめヨーロッパ20ヵ国でリリースされた(なおこの海外盤では「GOLDEN DAYS」の方がA面扱いになっている)。
この年はさらにラトーヤ・ジャクソンの来日公演のプロモートをボンド企画が手がけた縁で彼女とのジョイントコンサートを行い、ジャクソン・ファミリーとも親しくなった。ロサンゼルスのマイケル・ジャクソンの自宅にも招待され、彼らのスタッフのプロデュースにより全曲英語詞のアルバム『OVERSEA』を制作している。このアルバムはアメリカでも発売された。このようにデビューから数年後には海外ミュージシャンとのコラボレートは本田の歌手活動の際立った特徴ともなっていた。
[編集] ロックバンドでの活動
本田はその後女性だけのメンバーでロックバンドを組むことを思い立ち、東京と大阪でオーディションを行い1988年1月に“MINAKO with WILD CATS”を結成した。彼女がこうした試みを行った背景には自身の脱アイドルへの志向のほかに、海外のロックスターと共演した経験や、当時の国内でのバンドブームの影響があったものと考えられる。ツインドラムという特異な編成や、バンドとしてのデビュー曲「あなたと、熱帯」の作曲を忌野清志郎が手がけたことなどは話題となった。
この時期の人気や評価は概ね低調だったが、ロックバンドのリーダーを務めた経験は本田にとってアーティストとしての自己を確立する上で欠かすことのできない過程だったものと思われる。SHOW-YAの提唱で開催されプリンセス・プリンセスなどとともに出演した『NAONのYAON』はこの時代の女性ロッカーたちの活躍の記念碑とも言える。初めて自ら作詞を手がけたのもこの時期だったことは特筆すべきである。
[編集] ミュージカル女優として
ロックバンドとしての活動は少なくとも商業的には成功したとは言えず、1989年秋に解散してソロに戻った後も人気は回復しなかった。本田にとってこの頃は最も苦しい時期で、自身「歩いてきた道が突然、ガケっぷちになって行き止まりになっていた」と回顧している[1]。それでも歌へのこだわりの強い本田はバラエティー番組への出演を断り続け、ドラマや映画の仕事も最小限に絞っていた。
東宝のプロデューサー、酒井喜一郎から『ミス・サイゴン』のオーディションの話を聞かされた[8]時も初めは関心を示さなかったが、全編歌で構成されたミュージカルであることを知ると目の色を変えて意欲を示すようになった。1990年秋に始まったオーディションの選考は数ヵ月にわたり、翌1991年1月13日にキム役に決定すると3月以降の全ての予定をキャンセルして公演に備えた。開幕にあたっては「私は舞台では、演じないからね。生きるからね。強く生きてみせるからね」と抱負を語っていた[1][9]。
アイドル出身の彼女の力量を危ぶむ声もあったが、本田は後述の事故も乗り越えて一年半に及ぶロングランを務め、ヒロイン、キムの内面に肉迫した歌唱と演技を高く評価された。以後も『屋根の上のバイオリン弾き』、『王様と私』、『レ・ミゼラブル』と人気ミュージカルに相次いで出演し、実力派女優としての地位をゆるぎないものにした。
沖縄戦におけるひめゆり学徒隊の悲劇を描いたミュージカル座制作の『ひめゆり』は東宝制作のもの以外では初の出演であり、ヒロインのキミを熱演した。プログラムに掲載されたメッセージ[10]では「会場に足を運んでくださった方々に、戦争の恐ろしさ、平和でいられる事のありがたさを、少しでも感じて頂けたら嬉しく思います」と述べていた。
シェイクスピアの『十二夜』を原作とするミュージカル『十二夜』ではプロデューサーの酒井がセリフに苦手意識のある彼女のために原作にないネコの役を用意した。本田は自分に割り当てられた役が人ではなかったことにとまどいつつも、言葉を喋らない代わりに人間の会話は理解できるという設定を自分の中で用意して真剣に役作りをした[1]。この作品が制作されたのはすでに本田がクラシックの楽曲を歌い始めていた時期で、彼女のパートはソプラノ的な唱法を想定して作られている。没後の再演では彼女が歌ったナンバーはアンサンブルによる歌唱や器楽演奏に置き換えられていた。
サザンオールスターズの名曲をベースに桑田佳祐による書き下ろしを加えて作られた『クラウディア』は岸谷五朗と寺脇康文の主催する演劇ユニット、地球ゴージャスによる初めてのミュージカルで、彼女がそれまで出演してきた作品とはスタッフの顔ぶれも制作手法も異なるものだった。しかし本田は稽古の際のマット運動でむち打ちになるなどのトラブルを起こしながらも、仲間意識を最も大切にする岸谷の方針を共有しつつ役柄を作り上げていった。「可憐であり、けなげであり、強さも持っている」と岸谷が評した[1]ヒロイン、クラウディアの演技が彼女にとって最後のミュージカル出演となった。
『ミス・サイゴン』でエンジニア役として共演した市村正親は、本田の逝去の際に寄せた言葉の中で彼女のミュージカルでの活動を「なくてはならない存在」と称えた[11]。彼女のこうした活躍の要因として、本田の恩師の一人である作曲家の服部克久は彼女の歌声にはミュージカルに必要な悲壮感があったことを指摘し、それは亡くなった後だからそう思うのではなく、彼女が生来持っていたものだと述べた[12]。
[編集] ミュージカル期のスタジオ録音
本田は主な活躍の場をミュージカルの舞台に移してからも、数は多くないもののスタジオ録音のCDをいくつか制作し発表している。その中でも特にマーキュリーレコード在籍時に制作された2枚のアルバムが重要である。
ロックバンド時代の前作『豹的 (TARGET)』以来5年ぶりとなるアルバム『JUNCTION』(1994年9月24日発売)は、映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』で音楽監督を務めた渋谷森久と『ミス・サイゴン』の訳詞を担当した岩谷時子をプロデューサーに迎え制作が進められた。タイトルの通り様々な音楽ジャンルの合流点となることを意図して制作されたこのアルバムはグレゴリオ聖歌を翻案した楽曲で幕を開け、前述の演歌をはじめシャンソン、ファド、チャールストンに分類され得る楽曲などが収録されている。先行シングルとして発売された「つばさ」(同年5月25日発売)は彼女の代表曲ともいうべき存在としてファンの間で親しまれている。
翌1995年に制作された『晴れ ときどき くもり』(6月25日発売)ではプロデューサーに牧田和男を迎え、山梨鐐平、宮沢和史、楠瀬誠志郎といったミュージシャンから楽曲提供を受けた。楠瀬とは「Fall in love with you -恋に落ちて-」でデュエットしている。この曲がシングルカットされた(11月6日発売)際のカップリング曲「あなたとI love you」(当時はアルバムに収録されず、後に『LIFE』で初めてアルバム収録となった)では作詞とともに彼女にとって初となる作曲を手がけた。牧田とは強い信頼関係を築き、互いに兄妹のような存在としてその後も交流が続いた。
[編集] クラシックへの進出
本田は1996年に出演したテレビ番組の中で「最近初めてオペラの『蝶々夫人』を歌った」と語っている[13]。彼女が初めてクラシックの楽曲を歌ったのがいつだったのかははっきりしないが、ここで言及されたコンサートがそうである可能性も考えられる。
前述の通り2000年前後にはクラシックへの志向を強めていた本田だが、本格的にクラシックの楽曲を歌うようになったきっかけは2002年8月31日に東京オペラシティコンサートホールで開催された『グラツィエ・コンサート』だった。クラシックの楽曲を現代人に受け容れやすいスタイルで歌える歌手を探していたコロムビアのプロデューサー、岡野博行はこのコンサートに足を運び、終演後に楽屋を訪れてアルバムを制作することを申し入れた。元よりそうしたアルバムの制作を望んでいた本田は即座に快諾し、企画が進行することとなった。
コロムビア内には本田がアイドルの出身であることで抵抗もあったが、岡野の懸命の説得で実現の運びとなった。『ミス・サイゴン』以来の本田の恩師である岩谷時子が日本語詞を書き下ろし、編曲は井上鑑が担当した。井上を起用した理由について岡野は、のめり込み過ぎない一歩引いたクールさがあり、ホットでのめり込みやすい本田とのバランスが絶妙だろうと考えたと述べている[1]。
一方本田が岡野に大事にしたいと申し出たのは「手作りでやりたい。自分で料理を作るように、丁寧に打ちあわせをして作っていきたい」ということだった[1]。収録曲は100曲以上の候補の中から彼女自身の心に響く曲が選ばれ、本田は歌入れ以外の録音にも全て立ち会った。クロスオーバー歌手としてのデビュー作『AVE MARIA』はこうして完成し、2003年5月21日にリリースされた。
翌2004年11月25日には2枚目のアルバム『時』が発表され、没後に公表されたものも含めるとアルバム2枚強の音源が制作された。そこに共通する考え方は、クラシックの名旋律を歴史的背景にとらわれず現代の感覚で歌うこと、しかし決して奇を衒うのではなく素直に楽曲の素晴らしさを大切にするということで、特にこだわったのは日本語で歌うことだった[14]。こうしたクラシカル・クロスオーバーでの活動は彼女の従来のファン層とは異なる新たな聴衆からの支持を獲得した。音楽評論家の伊熊よし子は本田の新たな音楽の世界を「時代の風を感じさせる」、「背中を押してくれる追い風のような存在」と評した[14]。
[編集] ジャズへの見果てぬ夢
本田は2001年にNHK総合テレビで放送されたテレビドラマ『ハート』にアメリカ帰りのジャズシンガーという設定の役で出演した。劇中のライブシーンで本田はジャズピアニストの西直樹の率いるバンドと共演し、「(You Make Me Feel Like) A Natural Woman」(キャロル・キングとジェリー・ゴフィンの共作でアレサ・フランクリンの歌唱によって知られる)と「I Feel the Earth Move」(キャロル・キングの作でキャロル自ら歌った)の二曲をジャズ風のアレンジで歌った。おそらくこの時の縁がきっかけで西のアルバム『JAZZ BREEZE-スイート・メモリーズ』の収録曲「SWEET MEMORIES」(松田聖子の楽曲)にスキャットで参加した。
芸能レポーターの井上公造は本田の逝去後に寄せたコメントの中で、彼女が40代になったらジャズを歌いたいと語っていたことを明かした[15]。
[編集] 影響関係
『ミス・サイゴン』への出演をきっかけに訳詞を担当していた岩谷時子と懇意になった。岩谷は本田の歌手としての力量を高く評価し、かつてマネージャーを務めていた越路吹雪と重ね合わせて見ていたようである。この後本田は前述の「風流風鈴初恋譚」のほか、オリジナル曲としてはファンの間で最も人気のある「つばさ」など、岩谷からの詞の提供を数多く受けるようになる。後にクラシックアルバムを制作するにあたっても日本語詞の多くを岩谷が提供している。
また岩谷からくり返し思い出話を聞かされていたことから越路吹雪への強いあこがれを抱くようになった。越路のような表現力を持つ歌手になりたいと語っていた[11]。アルバム『JUNCTION』では越路の代表曲である「愛の讃歌」と「アマリア」をカバーしている。
もう一人本田の歌手活動に大きな影響を及ぼした人物としてサラ・ブライトマンの名が挙げられる。インタビューなどでは度々サラへのあこがれを口にしていた。ミュージカルで大成した後クラシックの楽曲に取り組み、クラシカル・クロスオーバーというジャンルの隆盛をもたらしたサラの存在は、クラシックへの志向を強めていた本田の進路決定に際し道しるべのような役割りを果たしたものと思われる。
[編集] 歌唱技術
本田は新たな活躍の場に挑むごとに音域や唱法のバラエティーを広げてきた。クラシックの楽曲を歌うことになった経緯については自身「ミュージカルでいろんな役をこなしているうちにそれまで出せなかったような声を出せるようになった」と説明していた。
『ミス・サイゴン』でキム役をダブルキャストで務めた入絵加奈子は当時本田が「裏声は得意じゃない」と話していたと証言している[16]。しかし『屋根の上のヴァイオリン弾き』のホーデル役はクラシックの声楽のような発声による裏声を求められる難しい役で、『王様と私』のタプチム役ではさらに高い音域を歌うことを要求されたが、トレーニングを積んで見事にこれをこなした。同時期に制作されたアルバム『晴れ ときどき くもり』にはファルセットを多用した楽曲も目立ち、「Lullaby〜優しく抱かせて」の間奏ではオペラ的発声による高音域のスキャットを披露している。
『屋根の上のヴァイオリン弾き』以来本田のボイストレーナーを務めてきた岡崎亮子は最初に会った時あまりに華奢な体つきに不安になったという。しかし背中をさわってみるとしっかりとした筋肉がついていたので大丈夫だと確信したと述べている[1][17]。
1994年発表の「つばさ」には後半に10小節にわたって声を伸ばすロングトーンがある。この部分はファンの間で本田の歌唱力の粋として名高く、彼女をよく知らない聴衆を前にしたコンサートでもその実力のほどを知らしめるのに十分だった。その伸びやかな声を支えていたのはその強靭な背筋だった[17]。
音域は最終的には3オクターブに達していた。これは例えば通奏低音パートも含めて一人で歌った「パッヘルベルのカノン」(アルバム『時』所収)に遺憾なく発揮されている。
しかも本田にはその広い音域を均質な響きの声で発することが可能だった。『レ・ミゼラブル』での共演以来公私ともに親しくしていた森公美子は、普通の歌手には存在する“チェンジ”と呼ばれる地声と裏声が切り換わるポイントが彼女の場合にはどこにあるかわからないと指摘している[17]。
特筆すべきなのは本田が正規のクラシックの声楽のトレーニングを受けることなくこうしたソプラノ的な唱法を会得したということである。近年クラシックとポップスの境界領域で活躍する歌手は増えているが、クラシックの声楽の出身者が多く、彼女が強くあこがれを抱いたサラ・ブライトマンにもデビュー後の一時期に声楽を学んだ経験があり、この点で本田と異なっている。従ってこうした歌唱スタイルは本田が独自に築いたものと見做すこともできるだろう。
演奏家には何度演奏しても同じように演奏するタイプと、その場の感興に応じて表情を変化させていくタイプがあるが、本田は典型的な後者のタイプだった。一連のクラシックアルバムで編曲を務めた井上鑑は「彼女の場合はまわりが変わると、その変化を反映していくような感性を持っている」と評し、プロデューサーの岡野博行は「毎回歌うたびに、表情もすごく変わる」、「その歌の世界を生き、自分に起きてくる感情をすごく大切にして歌っていた」と語った[1]。本田自身はミュージカルのロングランでもテンションが落ちない理由について「何百回やっても毎回違うからちっとも飽きない」と語っていた[18]。
[編集] 作詞・作曲
「愛が聞こえる」(シングル「勝手にさせて」(1989年5月31日発売)のカップリング)で初の作詞を手がけたのを皮切りに多くの詞を残している。結婚が決まった妹に贈った「あなたとI love you」(シングル「Fall in love with you -恋に落ちて-」(1995年11月6日発売)のカップリング)では作詞とともに初の作曲を手がけた。これを含めて生涯に3曲を作曲している。
[編集] 人物
[編集] 人柄
彼女は幼い頃から暮らした朝霞の街を愛し、デビュー後の数年間事務所社長の高杉の自宅に下宿していたほかは朝霞市の実家から仕事に通っていた。帰りが遅くなっても母親の手料理を食べるのが習慣だった。自宅でお気に入りの座椅子に座って窓からけやきの木を眺めるのを好み、近くの緑の多い風景の中を散策するのを楽しみとしていた[19]。気さくな人柄から近隣の住民にも慕われており、後述の通り地元商工会の発案で朝霞駅前に記念碑が建設されたのはその表れでもある。朝霞警察署の一日署長を務めたこともある。
デビュー初期はアイドル歌手として活動したが、本人はアイドルと呼ばれるのを嫌っていた。デビュー曲も本人の強い希望でアイドル色の強い「好きと言いなさい」から大人びた歌謡曲の「殺意のバカンス」に変更された。日頃から「アーティストでありたい」と口にするなど[20]、しばしば事務所やレコード会社の描くイメージ戦略通りの姿を演じることを要求されるアイドル歌手の枠には収まり切らない言動が当初から目立っていた。若い時から自己の信念を確立していた人であったことが窺われる。
その一方で「やっほー」が挨拶代わりの天衣無縫な振る舞いでも知られていた。しかし出演した映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』の音楽監督、渋谷森久との出会いをきっかけに落ち着いて人と接するようになっていった[11]。以前の自分自身については「わがままだった」と述懐している。また『ミス・サイゴン』への出演も歌手としてのキャリアだけでなく、人格の上において大きな転機となった。大勢の人が力を会わせて一つの作品を完成させるという過程を通じて人との共同作業に喜びを見出すようになっていったようである。生前親交のあった関係者は「決して人の悪口を言わない人だった」と口を揃える[17]。
人との絆を大切にする人であったことは毎年正月にわざわざそのための休みをとって2000枚の年賀状を自ら書いていたことにも表れている。メッセージなどの末尾には必ず「心を込めて...」の言葉を添えていた。この言葉は没後に発売されたアルバム『心を込めて...』のタイトルに採用された。ファンを大切にし、いつも「一緒に青春しようね」と呼びかけていた。「青春」は彼女が大切にしていた言葉であり、公式ファンクラブの名称「Blue Spring Club」は「青春クラブ」を訳したものである。
生涯子供を持つことはなかったが、とても子供好きであったことが知られている。『ミス・サイゴン』の楽屋では子役で出演する子供たちを我が子のようにかわいがり、ファンクラブの会合にファンが子供を連れて行くと大喜びしていた。姪や甥には「ママ」と呼ばせて愛情をそそいだという[21]。
[編集] 歌への情熱
[編集] 『ミス・サイゴン』での事故
『ミス・サイゴン』の公演開始から一月ほど経った頃、本番中に舞台装置の滑車に右足を轢かれるという事故が起きた。そのまま一幕最後の「命をあげよう」までを歌い切ったが、舞台から下がった後靴を脱がせてみると骨が露出しているほどの大怪我だった。岸田敏志ら共演者にすぐに病院へ行くよう指示されたが本人は最後まで演じ切ると主張して譲らず、「(ダブルキャストの)入絵加奈子と連絡がついて今こちらへ向かっている」と言い聞かされて初めて声を上げて泣き出した。
病院で診察を受けると足の指4本を骨折しており、19針を縫う重傷だった。全治3ヶ月と診断されたがリハビリに励み、誕生日の7月31日に復帰を果たした。
[編集] 歌に捧げた人生
デビュー当初は「二十歳までに結婚したい」と語っていたこともあるが、実際には生涯独身を通した。いつの頃からか結婚への願望をふっ切るようになったようである。本田に妹のようにかわいがられていた高杉の娘、河村和奈は「私は歌と結婚したから今生では結婚できないの」とうれしそうに話していたと証言している[17]。
アルバム『AVE MARIA』の収録を終えた後、ジャケット制作のためスタッフとの顔合せが行われた。その席で本田は「私はこのアルバムに命を賭けていますので、絶対に失敗できないのでよろしくお願いします」と挨拶した。
舞台には歌の神様がいると話し、いつも出番の前には舞台の天井を見上げて祈りを捧げていた[17]。2004年12月22日のクリスマス・コンサートではめずらしく舞台裏の様子を撮影することを許可していた。このため写真家の原田京子は誰もいない開演前の舞台で天井に両手を差し伸べて祈る本田の姿をとらえることに成功している[1][22]。
[編集] 復帰を目指して
白血病による入院中もストレッチや発声練習を行うなど、復帰への意欲を強く持ち続けていた[23]。臍帯血移植手術を前に公式サイトに寄せたメッセージでは「泣きたい時は我慢しないで泣いています」としつつ「元気な姿で皆さんのもとへ返ります」と述べていた。その後に同じく公式サイトに寄せた肉声メッセージでは、心からの歌を歌える歌手に成長して復帰したいと語っていた。ファンクラブ会員に向けた手記では特に「時-forever for ever-」を歌いたいという意欲を示していた。
本田の入院中に恩師の岩谷時子が路上で転倒し大腿骨を骨折する事故があり、岩谷は本田と同じ病院に運び込まれた。無菌室から出ることができなかった本田は岩谷を励ますため、病室でア・カペラで歌を歌い、ボイスレコーダーに録音して岩谷の病室に届けていた。この録音は三十数曲にも上り、一部はフジテレビの追悼特別番組『天使になった歌姫・本田美奈子.』で紹介されたほか、2008年2月にはこの二人の対話に焦点を当てたNHKのハイビジョン特集『本田美奈子. 最期のボイスレター ~歌がつないだ“いのち”の対話~』が放送された[24]。このうち特に「アメイジング・グレイス」の録音は2006年7月から1年間公共広告機構(AC)の骨髄バンク支援キャンペーンのテレビ、ラジオのコマーシャルに使用され、2008年3月24日には配信限定で一般にリリースされた。
38才の誕生日の前日に一時退院を許された際、世話になった医師や看護師のためにナースステーションで「アメイジング・グレイス」を歌った。この歌唱に涙ぐんで聴き入る看護師の姿をとらえた写真は前述の『天使になった歌姫・本田美奈子.』や『本田美奈子. 最期のボイスレター』で紹介された。
再入院後のある日、見舞いに来た知人がたまたま誕生日だったので居合わせた一同で「ハッピーバースデートゥーユー」を歌った。これが本田の歌った最後の歌となった[21]。
[編集] 手記・歌詞に綴られた言葉
本田は数多く詞を手がけているほか折りにふれ感じたことを手記に残しており[25]、それによりその思想の一端を窺い知ることができる。
[編集] 自然・平和への愛
自然が人の手により破壊されつつある現状には深い関心を寄せていた。「地球へ」と題する手記では子供の頃に朝霞に残る豊かな自然の中で遊んだ思い出を振り返りながら、人と自然との共生への祈りのような思いを書き綴っている。実生活でも自宅近くに市民農園を借りて野菜を作り、そこで近隣の人たちとの交流を楽しんだり、とれた野菜を仕事仲間と一緒に食べたりと自然とふれ合う暮らしを実践していた。
自ら作詞した「タイスの瞑想曲」(アルバム『AVE MARIA』所収)は平和への祈りの歌である。2004年にミュージカル『ひめゆり』に出演した際にプログラムに寄せたメッセージ[10]ではこの歌に言及しつつ、過去に悲惨な戦争を経験しながら今なお戦いを続ける人々がいることを憂え、平和の尊さを訴えている。そして身近にある小さな幸せを感じながら時を過ごすことの大切さを語りかけている。
[編集] 小さな幸せ・時
この「小さな幸せ」は晩年の本田が好んで用いていた言葉であり、この言葉をタイトルにした手記も残している。日々の生活の中で当り前のようにそこにある小さな幸せに気づくことが大切だとくり返し述べていた。発病後一時退院を許されていた時に高杉と家の近くを散歩していて、蒸し暑さに不平を言う高杉に風を感じる幸せを教えさとしたというエピソードも伝えられている[1]。
そしてこの言葉は「時」という主題への関心と結びついていたようである。最後のオリジナル曲となった「時-forever for ever-」は本田が岩谷に名前の一字をとって「時」というタイトルの詞を書いて欲しい、と発注して生まれたものであり、この歌はアルバムのタイトルトラックになった。このアルバムに収められたドヴォルザークの交響曲に自ら詞をつけた「新世界」や、本田の書き残した言葉を元に作られた追悼曲の「wish」も時を主題とした歌と見做すことができる。このように最晩年に時について歌いたいという強い意志を抱いていたことは、本田の到達点を理解する上で極めて重要な手がかりになると考えられる。
[編集] 評価
[編集] 生前の受賞・ランキングなど
本田はデビュー当時から実力派歌手として評価されていたものの、大きな賞やランキングの1位にはあまり縁がなかった。デビューした1985年には各種歌唱賞の新人賞を数多く獲得したが、賞レースの総本山ともいえる大晦日の『日本レコード大賞』(TBS)では新人賞は受賞したものの最優秀新人賞は受賞出来なかった[26]。
オリコンチャートで1位獲得をしたこともなく、最高位は「HELP」「Oneway Generation」「孤独なハリケーン」の2位だった。アイドル時代の彼女の代名詞的な存在である「1986年のマリリン」は3位が最高だった。ただし累計売り上げ枚数ではこの曲が彼女にとって最大の24万枚超を記録している[6]。何度となく出演した『ザ・ベストテン』でも1位を獲得したことがなかった[27]。
『NHK紅白歌合戦』への出場もついになかった。アイドルとして活躍していた当時のNHKにとって“へそ出しルック”で腰を振りながら歌っていたのがマイナス要因になったとも言われている。
本田にとっては『ミス・サイゴン』での熱演を評価されて受賞した1992年度のゴールデン・アロー賞の演劇新人賞が生前に受けた最も大きな表彰といえるかも知れない。なおこのほかの生前の受賞として1987年第4回ベストジーニスト賞一般選出部門、2003年第2回日本ゆかた大賞というファッション関係の賞がある。
[編集] 突然の逝去が呼び起こした反響
38歳の若さでの急逝は社会に衝撃を以て受け止められた。アルバム『アメイジング・グレイス』は売上が急上昇、オリコンの推定累計売上枚数は17万枚を突破し、日本人が歌うクラシックアルバムとしては初のオリコンTOP10入り(7位)を記録した。『AVE MARIA』は22位、『時』も39位まで上昇している。また同じ歌手のアルバムでポップスとクラシックの両方ともTOP10入りしたのも初のケースである[28]。
逝去を受けて日本レコード大賞は特別功労賞を、ゴールデン・アロー賞は芸能功労賞を贈呈した。ゴールデン・アロー賞芸能功労賞受賞時の年齢38は、芸能功労賞の前身にあたる特別賞を受賞の松田優作(1989年度)の40(戸籍上は39)を下回る、物故者最年少受賞となった。なおゴールデン・アロー賞はこのほか前述の演劇新人賞を含め音楽新人賞(1985年度)、グラフ賞(1986年度)と計4度受賞している。
2005年12月16日にはフジテレビ系列で追悼特別番組『天使になった歌姫・本田美奈子.』が放送された。これは本来は白血病からの復帰を前提として難病を克服した本田の姿を放送するために準備されていたもの。生前公私ともに親しくしていた岩崎宏美がナレーションを務めた。ほかにこの年のうちに『たけしの誰でもピカソ』、『題名のない音楽会21』、『ミュージックフェア21』、『徹子の部屋』などでも追悼特集が組まれた。翌2006年には『ドリーム・プレス社』でも追悼特集が放送された。『たけしの誰でもピカソ』ではさらに一周忌に合わせて二週にわたる詳細な特集が放送された[17]。
逝去を伝える報道では「アメイジング・グレイス」を歌うライブ映像が繰り返し流された。また2006年7月から1年間公共広告機構(AC)の骨髄バンク支援キャンペーンに起用され、テレビ、ラジオのコマーシャルでは入院中に病室でア・カペラで歌った「アメイジング・グレイス」が流された[29]。このため日本ではこの歌と本田の存在とが強く結びついて人々に印象づけられることとなった。この歌の作詞者ジョン・ニュートンの自伝「『アメージング・グレース』物語」(2006年12月7日、彩流社)を翻訳した中澤幸夫は「本田美奈子.さんがこの歌を広めたと言っても過言ではない」としている[30]。
[編集] 今も愛される歌声
本田の遺志により朝霞で行われた通夜にはファン・関係者合わせて2700人、告別式には3700人が参列した。彼女の早過ぎる逝去を惜しむ声は絶えることがなく、没後に新たにファンになった人も多い。彼女の公式ファンクラブは多数の要望により没後も存続することになった。
葬儀で弔辞を述べた岸谷五朗やテレビ番組をかけ持ちして思い出を語った岸田敏志、通夜に参列した後会見で悲痛な思いを述べた南野陽子など追悼のコメントを寄せた著名人は枚挙に暇がない。特にデビュー前からの無二の親友である南野は悲嘆が大きく、会見に気丈に応じたのち去り際に泣き崩れる姿がカメラにとらえられていた。海外ではブライアン・メイが彼女との思い出の写真とともに追悼のメッセージを自身のオフィシャルサイトに掲載した[31]。
もう一人本田の訃報に反応を示した外国の音楽家がフィリッパ・ジョルダーノだった。本田は彼女のコンサートを聴きに行き、終演後に楽屋を訪ねて話をしたことがあった。彼女は2005年12月の日本でのクリスマスコンサートで、そうした経緯について説明した上で「ミナコ・ホンダに捧げる」としてシューベルトの「アヴェ・マリア」を歌った[32]。
岩崎宏美がカバーアルバムのシリーズ第3弾『Dear Friends III』(2006年9月27日発売)に収録する曲目のリクエストを募集したところ本田の「つばさ」が圧倒的1位になり、このアルバムの終曲として収められた。岩崎はチェコ・フィルハーモニー管弦楽団と共演したアルバム『PRAHA』(2007年9月26日発売)にも本田への献辞とともに「つばさ」を収録している。岩崎はライナーノートで「彼女のために生まれた歌を、私も大事に、大切に歌い継いでいきたい」と述べている。
大相撲の白鵬はファンからプレゼントされた本田のアルバム『アメイジング・グレイス』を愛聴している[33]。このことを知った本田の所属事務所は2006年の夏場所中に宮城野部屋を訪れて、この年の4月に朝霞市で行われた追悼展のグッズをプレゼントして激励した[34]。
幼少時代から亡くなるまで住んでいた埼玉県朝霞市は、本田の功績を称えて東武東上線朝霞駅の南口駅前広場に記念碑を建設した。これは駅前整備事業の一環として朝霞市の商工会議所の発案で企画されたもの。生誕40周年にあたる2007年7月31日に本田の母、所属事務所社長の高杉敬二、親友の早見優らの臨席のもと除幕式が行われた。闘病中に書いた「笑顔」と題する詩と本田の写真のパネルがはめこまれ、「ありがとう。心を込めて... 本田美奈子」という言葉が刻まれており、ボタンを押すと「新世界」の歌声が流れる仕組みになっている。
[編集] 交友関係
[編集] デビューまで
東京成徳短期大学附属高等学校(現・東京成徳大学高等学校)普通科在学中にスカウトされ、芸能界デビューのため堀越高等学校に転校した。堀越の同級生にはいしのようこ、岡田有希子、長山洋子、南野陽子、森奈みはるらがいた。南野とは編入試験で席が隣同士になったのを機に親しくなった。デビュー当初からドラマに重点を置いて活動してきた南野とは一緒に仕事をする機会は多くなかったが、互いの仕事の内容から私生活のことまで何でも話せる、本田にとって無二の親友だった。
当初はボンド企画社長の高杉敬二の自宅に下宿し、高杉の家族の一員のように過ごした。本田は高杉を“ボス”と呼びならわし、互いに父娘のような存在としてボンド企画倒産などの危機も乗り越えて最後まで活動をともにした。高杉の娘、河村和奈は本田を“おねえちゃま”と呼んで慕っていた[23]。
当時ボンド企画には多くの著名なタレントが所属しており、先輩の松崎しげる、松本伊代などと親しく交流するようになった。芸名は本田より先にデビューしてすでに名前を浸透させていた工藤夕貴[35]と名前が被らないようにとの配慮と、世界的に活躍してほしいという意味を込め、世界にその名を知られる自動車メーカーであるホンダ[36]に因んで付けたと言われている。
[編集] 歌手活動が結んだ縁
坂本冬美とは東芝EMIの広報担当者が同じだった縁で親しくなった。テレビ東京系列で放送された旅番組『鎌倉の旅』の撮影で二人で鎌倉めぐりをしたほか、『東京フレンドパークII』に二人で出演しゲームに興じたこともある。本田の一周忌に朝霞市で開催された追悼イベントでは坂本が本田の遺した「ありがとう」と題する詩を朗読した。
数々のミュージカルへの出演は共演者たちとの友情を育んだ。『ミス・サイゴン』でクリス役を演じた岸田敏志とは兄妹のように親しくなった。本田は岸田のことを彼のヒット曲の歌詞に因んで“モーニン”と呼んでいた。
『レ・ミゼラブル』への出演はそれまで接点のなかった先輩歌手たちとの公私にわたる交遊をもたらした。岩崎宏美は舞台への不安から睡眠薬なしには眠れなくなってしまった自分を本田が絶えず気にかけてくれたことへの感謝の思いを繰り返し口にしている。食べることの好きな森公美子は本田と食事した思い出を楽しそうに語る。森の証言では本田は細身の体に似合わず森と同じ量を食べたという。アイドル歌手としての先輩である早見優はミュージカルの世界では本田の方が先輩にあたり、うまく歌えなくて落ち込んでいる時に励ましてくれたと話す[19]。
『クラウディア』への出演は共演のYU-KIとの友情を育んだ。本田がYU-KIに「白い恋人達」の歌い方を尋ねてきたことがきっかけで打ち解けるようになったという。公演の合間には二人でワインを開けたりショッピングを楽しんだりした。2004年12月の『Act Against AIDS』でも本田と共演したYU-KIは舞台の下手で聴いた本田の「ジュピター」と「1986年のマリリン」を「素晴らしいというのも通り越して、なんか魂が飛んでくるような感じ」と評した[1]。
[編集] 療養生活を支えた絆
本田の入院が伝えられると各方面から励ましのメッセージが寄せられた。ファンティーヌ役で出演予定だった『レ・ミゼラブル』2005年公演の出演者、スタッフからは大きな紙一面に書き込まれた寄せ書きが贈られた。工藤夕貴、YU-KI、伊藤有希の“3人のゆうき”(いずれも『クラウディア』2005年公演の出演者)からはデビュー20周年の記念に「美奈子TV」と題するビデオレターが届けられた。市のイメージソングを歌った縁でひたちなか市の小学生たちからは名前に因んで37,500羽の折り鶴がプレゼントされた[1]。
同時期に白血病と診断され入院したお笑いコンビ「カンニング」の中島忠幸[37]とは互いに文通で励まし合っていた。中島への手紙の中で、本田は病気になったことで自分がいかに人から愛されていたかを思い知ったと述べていた。
クラシックアルバムで編曲を担当していた井上鑑は本田の入院中に復帰第一作となる楽曲をプレゼントした。当時福山雅治のコンサートツアーに同行していた井上はバンドのメンバーの協力を得てデモDVDを作成し病床の本田の許に届けた。福山のデビュー当初からのファンだった[38]本田は泣いて喜んだという。
[編集] 受け継がれる志
本田は入院中、他の入院患者とのふれ合いやファンや仕事仲間からの応援メッセージによって励まされていた。そして自らが病気を克服し再び元気な姿でステージに立つことが同じように難病に苦しむ人の希望になると考え、亡くなる半月ほど前の10月19日に難病患者を支援するための活動として“LIVE FOR LIFE”を立ち上げた。彼女の遺志は遺族や友人、関係者によって受け継がれ、現在はNPO法人として運営されている。この“LIVE FOR LIFE”の協賛により本田の追悼イベントが各地で開催されている。
子供好きな本田は近年子供が虐待などの被害者となる事件が増加していることに心を痛め、恵まれない境遇にいる子供たちのために何かできることはないかと考えていた[39]。この思いを叶えるため、2006年9月本田の遺族は彼女が生前使用していた車をインターネットオークションで売却し、その代金で埼玉県の児童養護施設20ヶ所に寝具100組を寄贈した。
入院中に井上鑑がプレゼントした楽曲は彼女自身が作詞して歌う予定でいたが実現することはなかった。彼女の遺志を叶えるため、本田の書き遺した言葉をもとに一倉宏が歌詞を補作し、井上の呼びかけに応じて集まったミュージシャンが“INOUE AKIRA & M.I.H.BAND”の名義で追悼シングル「wish」(2006年11月1日発売)を完成させた。
2008年5月21日、ヘイリー・ウェステンラは本田の残された音源との仮想的なデュエットによる「アメイジング・グレイス」を収録したシングル「アメイジング・グレイス2008」をリリースした。本田の2004年のライブ映像と並んでヘイリーが歌うプロモーション・ビデオも併せて制作されている[40]。ヘイリーは「本田美奈子さんの歌手としての生き方を知り、彼女の歌う“アメイジング・グレイス”は、希望の心を歌っていると私は感じました」と語っている[41]。