ヤマトタケル

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日本武尊像
(大阪府堺市大鳥大社

ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀等に伝わる古代日本皇族(王族)。

日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される[注 1]

第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行なったとされる、日本古代史上の伝説的英雄である。

名称[編集]

日本書紀』・『古事記』・『先代旧事本紀』とも、本の名は「ヲウス(オウス)」、亦の名は「ヤマトヲグナ(ヤマトオグナ)」で、のちに「ヤマトタケル」を称したとする。それぞれ表記は次の通り[1][2]

  • 『日本書紀』・『先代旧事本紀』
    • 本の名:小碓尊(おうすのみこと)、小碓王(おうすのみこ)
    • 亦の名:日本童男(やまとおぐな)
    • のちの名:日本武尊(やまとたけるのみこと)、日本武皇子(やまとたけるのみこ)
  • 『古事記』
    • 本の名:小碓命(おうすのみこと)
    • 亦の名:倭男具那命(やまとおぐなのみこと)、倭男具那王(やまとおぐなのみこ)
    • のちの名:倭建命(やまとたけるのみこと)、倭建御子(やまとたけるのみこ)

「ヲウス(小碓)」の名称について『日本書紀』では、双子(大碓命・小碓尊)として生まれた際に、天皇が怪しんで臼(うす)に向かって叫んだことによるとする[1]。「ヲグナ(童男/男具那)」は未婚の男子の意味[1]。「ヤマトタケル」の名称は、川上梟帥(または熊曾建)の征討時に捧げられた(後述)。「尊」の用字は皇位継承者と目される人物に使用されるもので、『日本書紀』での表記は同書上でヤマトタケルがそのように位置づけられたことによる[1]

その他の文献で見える表記は次の通り。

なお、「武」・「建」の訓については「タケル」ではなく「タケ」とする説がある[3][4]。その中で、「タケル」は野蛮を表現する語であり、尊号に用いられる言葉ではないと指摘される[4]

系譜[編集]

天皇系図 8〜15代

(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)

父は第12代景行天皇。母は皇后播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ、針間之伊那毘能大郎女/稲日稚郎姫)。『古事記』では、針間之伊那毘能大郎女を若建吉備津日子(吉備臣らの祖)の娘とする[2]

『日本書紀』・『先代旧事本紀』では第二皇子とし、同母兄は大碓皇子のみで双子の兄とする[1]。『古事記』では第三皇子とし、同母兄を櫛角別王・大碓命(双子の記載はない)、同母弟を倭根子命・神櫛王とする[2]

妻子は次の通り[1][2](「紀」は日本書紀、「記」は古事記を指す。「旧事本紀」は先代旧事本紀に見える事柄にのみ記載)。

  • 妃:両道入姫皇女(ふたじいりびめのひめみこ、布多遅能伊理毘売命) - 垂仁天皇皇女(記)。
    • 稲依別王(いなよりわけのみこ、記の母は別) - 犬上君・武部君(建部君)の祖(記紀)。
    • 足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと、帯中津日子命) - 第14代仲哀天皇
    • 布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと、記なし)
    • 稚武王(わかたけるのみこ、記なし) - 近江建部君の祖・宮道君等の祖(旧事本紀)。
  • 妃:吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ、大吉備建比売) - 吉備武彦の娘(紀)、吉備臣建日子の妹(記)。
    • 武卵王(たけかいごのみこ、建貝児王) - 讃岐綾君の祖(記紀)、登袁之別・麻佐首・宮道之君らの祖(記)。
    • 十城別王(とおきわけのみこ、記なし) - 伊予別君の祖(紀)。
  • 妃:弟橘媛(おとたちばなひめ、弟橘比売命) - 穂積氏の忍山宿禰の娘(紀)。9男を生む(旧事本紀)。
    • 稚武彦王(わかたけひこのみこ、若建王)
  • 妃:山代之玖々麻毛理比売(やましろのくくまもりひめ、紀なし)
    • 足鏡別王(あしかがみわけのみこ、蘆髪蒲見別王/葦噉竈見別王) - 鎌倉別・小津石代之別・漁田之別の祖(記)。
  • 妃:布多遅比売(ふたじひめ、紀なし) - 淡海安国造の祖の意富多牟和気の娘(記)。
    • 稲依別王(いなよりわけのみこ、紀の母は別) - 両道入姫皇女の所生とする紀とは異同。
  • 一妻(記では名は不詳、旧事本紀では橘媛)
    • 息長田別王(おきながたわけのみこ、紀なし) - 阿波君らの祖(旧事本紀)。

『古事記』では、倭建命の曾孫(ひひこ)の迦具漏比売命が景行天皇の妃となって大江王(彦人大兄)を儲けるとするなど矛盾があり、このことから景行天皇とヤマトタケルの親子関係に否定的な説がある[5]。また、各地へ征討に出る雄略天皇などと似た事績があることから、4世紀から7世紀ごろの数人のヤマトの英雄を統合した架空の人物という説もある[5][6]

系図[編集]

 
 
 
 
 
 
豊城入彦命
 
毛野氏族]
 
 
 
 
 
10 崇神天皇
 
 
11 垂仁天皇
 
12 景行天皇
 
日本武尊
 
14 仲哀天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
倭姫命
 
 
13 成務天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
丹波道主命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ◇
 
 
 
神功皇后
(仲哀皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15 応神天皇
 
16 仁徳天皇
 
17 履中天皇
 
市辺押磐皇子
 
飯豊青皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18 反正天皇
 
 
 
 
 
 
24 仁賢天皇
 
手白香皇女
(継体皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
菟道稚郎子皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
23 顕宗天皇
 
 
25 武烈天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19 允恭天皇
 
木梨軽皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20 安康天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21 雄略天皇
 
22 清寧天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
春日大娘皇女
(仁賢皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彦主人王
 
26 継体天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忍坂大中姫
(允恭皇后)
 
 


記録[編集]

古事記』と『日本書紀[7]の説話は、大筋は同じだが、主人公の性格や説話の捉え方や全体の雰囲気に大きな差がある。ここでは浪漫的要素が強く、主人公や父天皇の人間関係から来る悲劇性が濃い『古事記』の説話を中心に述べる。概ね、『日本書紀』の方が天皇賛美の傾向が強く、天皇に従属的である(『日本書紀』の説話は、『古事記』との相違点のみ逐一示す)。

西征[編集]

ヤマトタケル(菊池容斎画)
ヤマトタケル(月岡芳年画)

古事記
父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の違いから、小碓命は素手で兄をつまみ殺してしまう。そのため小碓命は父に恐れられ、疎まれて、九州の熊襲建兄弟の討伐を命じられる。わずかな従者しか与えられなかった小碓命は、まず叔母の倭比売命斎王を勤めた伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。
日本書紀
兄殺しの話はなく、父天皇が平定した九州地方で再び叛乱が起き、16歳の小碓命を討伐に遣わしたとあり、倭姫の登場もなく、従者も与えられている。
先代旧事本紀
(景行天皇)二十年(中略)冬十月 遣日本武尊 令擊熊襲 時年十六歲 按日本紀 當作二十七年[8]とあるのみ。

古事記
九州に入った小碓命は、熊襲建の新室の宴に美少女に変装して忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、その武勇を嘆賞し、自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。
日本書紀
熊襲の首長が川上梟帥〈タケル〉一人とされる点と、台詞が『古事記』のものよりも天皇家に従属的な点を除けば、ほぼ同じ。ヤマトタケルノミコトは日本武尊と表記。

古事記
その後、倭建命は出雲に入り、出雲建と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の太刀を偽物と交換して太刀あわせを申し込み、殺してしまう。
日本書紀
崇神天皇の条に出雲振根と弟の飯入根の物語として、酷似した話があるが、日本武尊の話としては出雲は全く登場しない。熊襲討伐後は吉備や難波の邪神を退治して、水陸の道を開き、天皇の賞賛と寵愛を受ける。

東征[編集]


古事記
西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は再び倭比売命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭比売命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣、草那芸剣(くさなぎのつるぎ)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う。
日本書紀
当初、東征の将軍に選ばれた大碓命は怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊が立候補する。天皇は最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、吉備氏や大伴部氏をつけて出発させる。日本武尊は伊勢で倭姫命より草薙剣を賜る。
最も差異の大きい部分である。『日本書紀』では兄大碓命は存命で、意気地のない兄に代わって日本武尊が自発的に征討におもむく。天皇の期待を集めて出発する日本武尊像は栄光に満ち、『古事記』の涙にくれて旅立つ倭建命像とは、イメージが大きく異なる。

古事記
倭建命はまず尾張国造家に入り、美夜受比売(宮簀媛)と婚約をして東国へ赴く。
日本書紀
対応する話はない。

ヤマトタケル(歌川国芳画)
古事記
相模の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭う。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那芸剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くす。それで、そこを焼遣(やきづ=焼津)という。
日本書紀
駿河が舞台だが大筋はほぼ同じで、焼津の地名の起源を示す。ただし、本文中では火打石で迎え火を付けるだけで、草薙剣で草を掃う記述はない。注記で天叢雲剣が独りでに草を薙ぎ掃い、草薙剣と名付けたと説明される。火打石を叔母に貰った記述はない。

古事記
相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。そこで、后の弟橘比売が自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いだ。入水の際に媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠む。

原文: 佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母

読み下し: さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも

訳: 相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ……

弟橘比売は、倭健命の思い出を胸に、幾重もの畳を波の上に引いて海に入るのである。七日後、比売の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた。
日本書紀
「こんな小さな海など一跳びだ」と豪語した日本武尊が神の怒りをかったと記され、同様に妾の弟橘媛の犠牲で難を免れたと記されるが、和歌はない。

「酒折宮」に比定される可能性のある現在の酒折宮(山梨県甲府市酒折)
古事記
その後倭建命は、足柄坂(神奈川・静岡県境)の神を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘比売を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ……)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったと言う。また甲斐国酒折宮連歌の発祥とされる「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」の歌を詠み、それに、「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」と下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。その後、科野(しなの=長野県)を経て、倭建命は尾張に入る。
日本書紀
ルートが大きく異なる。上総からさらに海路で北上し、北上川流域(宮城県)に至る。陸奥平定後は『古事記』同様に、甲斐酒折宮へ入り、「新治…」を詠んだあと、武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って碓日坂(群馬・長野県境。現在の場所としては碓氷峠説と鳥居峠説とがある)で、「あづまはや……」と嘆く。ここで吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし、日本武尊自身は信濃(長野県)に入る。その信濃の坂の神を蒜で殺し、越を周った吉備武彦と合流して、尾張に到る。

伊吹山頂の日本武尊像
古事記
尾張に入った倭建命は、かねてより婚約していた美夜受比売と歌を交わし、その際媛が生理中なのを知るが、そのまま結婚する。そして、伊勢の神剣、草那芸剣を美夜受比売に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ち取ろうと、出立する。
日本書紀
経血が詠まれた和歌はないが、宮簀媛との結婚や、草薙剣を置いて、伊吹山の神を討ちに行くのは同様。
尾張国風土記
宮酢媛の屋敷の桑の木に、日本武命が剣を掛けたところ、剣が不思議に光輝いて手にする事ができずに残したとする。

古事記
素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、白い大猪が現れる。倭建命はこれを神の使いだと無視をするが、実際は神の化身で、大氷雨を降らされ、命は失神する。山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の関ケ原町また米原市とも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。
弱った体で大和を目指して、当芸・杖衝坂・尾津・三重村(岐阜南部から三重北部)と進んで行く。地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情が描かれる。そして、能煩野(三重県亀山市〉に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」から、「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。
日本書紀
日本武尊が伊吹の神の化身の大蛇をまたいで通ったため、神に氷を降らされ、意識が朦朧としたまま下山する。居醒泉でようやく醒めた日本武尊だが、病身となり、尾津から能褒野へ到る。ここから伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、天皇には吉備武彦を遣わして「自らの命は惜しくはありませんが、ただ御前に仕えられなくなる事のみが無念です」と奏上し、自らは能褒野の地で亡くなった。時に30歳であったという。国偲び歌はここでは登場せず、父の景行天皇が九州平定の途中に日向で詠んだ歌とされ、倭建命の辞世とする古事記とほぼ同じ内容だが印象が異なる。

古事記
倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。彼らは陵墓を築いて周囲を這い回り、歌を詠った。すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后たちはなお3首の歌を詠い、その後を追った。これらの歌は「大御葬歌」(天皇の葬儀に歌われる歌[9])となった。
日本書紀
父天皇は寝食も進まず、百官に命じて日本武尊を能褒野陵に葬るが、日本武尊は白鳥[10]となって、大和を指して飛んだ。後には衣だけが残されたという。

古事記
白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。
日本書紀
白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)とされ、その3箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。その後天皇は、武部(健部建部)を日本武尊の御名代とした。
『古事記』と異なり、大和に飛来する点が注目される。

[編集]

日本武尊 能褒野墓
三重県亀山市田村町)

ヤマトタケルの墓は、宮内庁により次の3ヶ所に治定されている[11](能褒野墓に白鳥2陵を付属)。

古典史料の記述[編集]

ヤマトタケルの墓に関する記録
地域 日本書紀 古事記 延喜式 現在の治定
伊勢 能褒野陵 能煩野に陵 能裒野墓 能褒野墓
大和 琴弾原に陵 (記載なし) (記載なし) 白鳥陵
河内 旧市邑に陵 志幾に陵
(白鳥御陵)
(記載なし) 白鳥陵
備考 3陵の総称として
「白鳥陵」とする

ヤマトタケルの埋葬について、『日本書紀』・『古事記』・『延喜式』に見える記述は次の通り。

  • 日本書紀
    景行天皇40年是歳条では、日本武尊は「能褒野」で没し、それを聞いた天皇は官人に命じて伊勢国の「能褒野陵(のぼののみささぎ)」に埋葬させた。しかし日本武尊は白鳥となって飛び立ち、倭の琴弾原(ことひきはら)、次いで河内の旧市邑(ふるいちのむら、古市邑)に留まったのでそれぞれの地に陵が造られた。そしてこれら3陵をして「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」と称し、これらには日本武尊の衣冠が埋葬されたという[1][14]
    仁徳天皇60年条[原 7][15]では、「白鳥陵」(上記3陵を指すものか[14])は空である旨と、天皇が白鳥陵の陵守廃止を思い止まった旨が記されている[16][14]
  • 古事記
    景行天皇記では、倭建命は伊勢の「能煩野」で没したとし、倭建命の后・子らが能煩野に下向して陵を造ったとする。しかし倭建命は白い千鳥となって伊勢国から飛び立ち、河内国の志幾(しき)に留まったので、その地に陵を造り「白鳥御陵(しらとりのみささぎ)」と称したという[2][14]
  • 延喜式延長5年(927年)成立)
    諸陵寮諸陵式[原 8]では「能裒野墓」の名称で記載され、伊勢国鈴鹿郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する(伊勢国では唯一の陵墓)[17][14]。一方で白鳥陵の記載はない。

通常「陵」の字は天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓、「墓」の字はその他皇族の墓に使用されるが、『日本書紀』や『古事記』で「陵」と見えるのはヤマトタケルが天皇に準ずると位置づけられたことによる[1](現在は能褒野のみ「墓」の表記)。

ヤマトタケルの実在性が低いこともあり、ヤマトタケルの墓はヤマトタケル伝説の創出に伴って創出されたとされる[14]。確かな史料の上では、持統天皇5年(691年[原 9]において有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある[14]。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・彦五瀬命墓(紀伊)・五十瓊敷入彦命墓(和泉)・菟道稚郎子墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある[18]

その後、大宝2年(702年[原 10]には「震倭建命墓。遣使祭之」と見え、鳴動(落雷[19]、別説に地震[20])のあったヤマトタケルの墓(能褒野墓か)に使いが遣わされている[14]。さらに『大宝令』官員令の別記(付属法令)[原 11]には、伊勢国に借墓守3戸の設置が記されており、8世紀初頭には「能裒野墓」が諸陵司の管轄下にあったと見られている[14]。その後、前述の『延喜式』では白鳥三陵のうち「能裒野墓」のみが記載され、10世紀前半頃までの管理・祭祀の継続が認められる[14]

後世の治定[編集]

上記の記述の一方、後世には墓の所伝は失われ所在不明となった。能褒野墓・大和白鳥陵・河内白鳥陵それぞれに関して、治定されるに至った経緯は次の通り。

  • 伊勢の能褒野墓
    近世には白鳥塚(鈴鹿市石薬師町)・武備塚(鈴鹿市長沢町)・双子塚(鈴鹿市長沢町)の3説があり、明治9年(1876年)までには教部省により白鳥塚に定められたが、明治12年(1879年)に宮内省(現・宮内庁)により3説のいずれでもない現墓の丁子塚(能褒野王塚古墳)に改定された[14]。詳細は「能褒野王塚古墳」を参照。
    なお「のぼの(能褒野/能煩野/能裒野)」とは、鈴鹿山脈の野登山(ののぼりやま)山麓を指す地名と推測される[1][14]。この「のぼの」の地が選ばれた背景としては、化身の白鳥が「天空にのぼった」という物語が既に存在し、後世にその物語への付会として「のぼの」の地名が結び付けられたとする説が挙げられている[14]
  • 大和の白鳥陵
    古事記伝』では現陵に関する記述が見える[13]。明治9年(1876年)に教部省により考定された[12]。伊勢・河内に比べ小規模であることなどもあり、別に掖上鑵子塚古墳(奈良県御所市柏原)に比定する説もある[12][13]。「白鳥陵」も参照。
  • 河内の白鳥陵
    明治8年(1875年)に教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳に考定されたが、明治13年(1880年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改定された[12]。現陵は、『河内国陵墓図』では木梨軽太子の「軽之墓」と記されている[12]。かつては西方の峯ヶ塚古墳に比定する説もあったという[21]。「白鳥陵」および「軽里大塚古墳」も参照。

後裔氏族[編集]

『日本書紀』の日本武尊系譜によれば、ヤマトタケルは犬上君・武部君(稲依別王後裔)、讚岐綾君(武卵王後裔)、伊予別君(十城別王後裔)ら諸氏族の祖とされる。

『古事記』の倭建命系譜によれば、ヤマトタケルは犬上君・建部君(稲依別王後裔)、讚岐綾君・伊勢之別・登袁之別・麻佐首・宮首之別宮道之別か(建貝児王後裔)、鎌倉之別・小津石代之別・漁田之別(足鏡別王後裔)ら諸氏族の祖とされる。

新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。

  • 左京皇別 犬上朝臣 - 出自は謚景行皇の子の日本武尊。
  • 右京皇別 建部公 - 犬上朝臣同祖。日本武尊の後。
  • 和泉国皇別 和気公 - 犬上朝臣同祖。倭建尊の後。
  • 和泉国皇別 県主 - 和気公同祖。日本武尊の後。
  • 和泉国皇別 聟本 - 倭建尊三世孫の大荒田命の後。

なお、『日本書紀』景行天皇40年条では日本武尊のため「武部(たけるべ)」を定めると見え、これを基に建部(武部)をヤマトタケルの名代部とする説もあったが、事実としては名代部ではなく軍事的職業部であったとされる[22][23][1]

考証[編集]

ヤマトタケル説話の構成[編集]

日本武尊の石像
(三重県鈴鹿市・加佐登神社)

ヤマトタケルの物語は、吉井巌が指摘したように、主人公の名前が各場面で変わるのが特徴である。また、説話ごとに相手役の女性も異なる。加えて系図も非常に長大で、その人物や説話の形成には様々な氏族や時代の要請が関連したとわかる。

小碓命の物語(近江・美濃を中心とする穀霊伝説)
妃に野洲の布多遅比売がおり、その子は稲依別王で建部氏や犬上氏の祖であること、近江一の宮建部神宮で祭神がヤマトタケルであることなどから、近江=滋賀県がヤマトタケルと関連が深いことがわかる。兄大碓命の封地が美濃であることも考慮すると、近江の伝承は小碓命のものと思われる。碓や稲依別の名からは、穀霊であることが推察できるが、『山城国風土記』などに、碓から生み出される餅が白鳥に変身する話があり、白鳥との関連もみられる。なお、『武智麻呂伝』にはヤマトタケルが伊吹山で、『平家物語』剣の巻には近江で白鳥となった説話が伝わり、白鳥になる話の根幹が近江にあった可能性は少なくない。
倭姫・倭ヲグナの物語(大和の幼童神伝説)
日本には、桃太郎一寸法師など童形の英雄が悪を征伐する説話が多いが、このくだりもそれらに類似するとされる。折口信夫はそれらの説話の分析により、幼童神的モデルを育てる「小母(おば)」の存在を指摘しており、この場合倭姫がその小母に該当すると見られる。また、少年・ヤマトタケルの女装に関し、様々な文化圏のシャーマニズムに散見される異性装に相通じると指摘される。
出雲タケルの物語
出雲の神門臣の勢力争いの物語の挿入→原型は崇神紀の出雲振根説話
タケル大王・橘姫の物語(関東地方の英雄伝説か?)
常陸国風土記』等には倭武天皇-橘皇后、大橘姫などと表記され、各種の地名起源説話が伝わる。本来は山を象徴する武王と海を表す橘后の神話と推定される。現在でも千葉県などに地名説話が多く残るため、関東に根を下ろした伝承だったと考えられる。
美夜受媛・草薙剣の物語(熱田神宮を巡る伝説)
吉井巌は、皇位の象徴である「三種の神器」のひとつである草薙剣が、なぜ尾張の熱田神宮にあるか説明する物語とする。詳細は草薙剣の項を参照されたい。
斎王倭姫の物語(伊勢神宮を巡る伝説)
死に際の彷徨の物語が、伊勢神宮の神戸の見られる地域で語られ、かつ伊勢斎宮の制度を確立した天武天皇の壬申の乱の際の進軍ルートに重なるため、伊勢との関連が考えられるが、横田健一は『皇太神宮儀式帳』や『倭姫命世記』にヤマトタケルの物語がないことを指摘する。草薙剣に関しヤマトヲグナ説話の登場人物のヤマトヒメと斎王倭姫命を結びつけたため、伊勢地方の説話がヤマトタケルに仮託された可能性も考えられる。
大御葬の物語(葬礼を司った土師氏の伝承)
吉井巌は、聖徳太子の弟で、実在する初の皇族将軍である来目皇子が出征先の九州で病死したことがモデルになったとし、この葬儀を主導した土師氏の葬送儀礼が物語に取り入れられたとする。

草薙剣[編集]

記紀
日本武尊が帯びた剣は、草薙剣(草那芸剣)といわれる。出雲でスサノオ尊がヤマタノオロチを倒した際にその尾から出てきたもので、天照大神に献上され、天孫降臨に伴い三種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。日本書紀の注記によると、元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名で、日本武尊が駿河で野火攻めに遭った時、この剣が独りでに鞘から抜けて草を薙ぎ払い、難を逃れたことにより草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられたとする。ただし、これは挿入された異伝であり、正式な伝承とは見なされていない[24]。本文では一貫して草薙剣と表記され、途中で名称が変わることはない。古事記でも草那芸剣(大刀)とのみ記される。
働き
草薙剣は、スサノオ尊の十拳剣の刃が欠ける程の業物だったが、日本武尊が武器として使った記述はなく、実用的な働きは草を薙ぎ払う事のみである。平家物語においては日本武尊が草を薙いだところ剣は草を三十余町(3km四方)も薙ぎ伏せたとされている。また、草薙剣をミヤズヒメの元に残した日本武尊は、荒ぶる神の影響で病を得、都に戻ることなく亡くなってしまう。このことから倭姫命は、草薙剣を武器としてよりは、霊的な守護の力を持った神器として、日本武尊に渡したとも解される[24]
神社
尾張のミヤズヒメの元に遺された草薙剣は、この後、熱田神宮にて祀られた。『熱田太神宮縁起』によると、日本武尊の死後、ミヤズヒメが衆人と図って社を建て、神剣を奉納したという。天智7年(668年)僧・道行に盗まれ、その後は宮中に留め置かれた。ところが、朱鳥元年(686年)に天武天皇の病気が草薙剣の祟りとわかり、剣は再び熱田神宮に祀られることになった。熱田神宮にはこのときの剣の帰還をひそかに喜ぶ「酔笑人神事」がある。

信仰[編集]

ヤマトタケルは、建部大社滋賀県大津市)や、白鳥と化したヤマトタケルが最後に降り立った地に建てられたとされる大鳥大社(大阪府堺市西区)の主祭神として祀られる。どちらもその国の一宮とされる。なお、大鳥神社(鷲神社)は各地にあり、大鳥大社はその本社とされる。

神社[編集]

その他[編集]

兼六園の日本武尊銅像(明治紀念之標)
  • 東京都 - 岩蔵温泉(東征での傷を岩倉温泉で癒したと伝わる)
  • 石川県 - 兼六園日本武尊の銅像がある(2003年のイグノーベル賞を受賞した金沢大学廣瀬幸雄教授の研究の素材となり、ハトが寄り付かないことをヒントにカラス除けの合金を開発した)
  • 愛知県
    • 一宮市 - 笠懸の松(大和町)、ヤマトタケルが伊吹山に向かう途中、この地の松に笠を懸け休息したと伝わる。また松林の付近に広がるの花をヤマトタケルが愛したとの伝承があり、旧暦の7月7日のこととされている。
    • 名古屋市 - 腰掛岩(中村区岩塚町)、ヤマトタケルが船を待つ間、腰を掛けていたと伝わる。
      • 白鳥古墳(名古屋市熱田区)、ヤマトタケルの陵だと伝わっており、能褒野墓から白鳥となって飛び立ったヤマトタケルが、愛する宮簀媛がいる尾張の地にやって来て、松の木にとまった為、その場所に白鳥御陵が出来たと伝わる。
    • 知多郡 - 生路井(東浦町生路)、ヤマトタケルが尾張氏の兵と共に東征軍の兵力を整えていた時、この地で兵を引き連れて狩りに出掛け、生路(いくじ)の里を通りかかった。熱い夏だったため、喉が渇き、水飲み場を探すが無く、山にある崖の下の大きな岩が湿っていたので、ヤマトタケルが弓のはずで突き立てると清水が湧き出し泉となり、それが村人から生路井と呼ばれる水飲みや、酒造りの水となったと伝わる。
    • 春日井市 - 馬蹄石(春日井市西尾町)、ヤマトタケルが東征から尾張に帰路し、現在の内津峠に来た時、早馬で駆けてきた従者の久米八腹から副将軍の建稲種命が駿河の海に落ち水死したとの報告を聞き「ああ現哉々々(うつつかな)」と嘆いた。そして、西尾の地で建稲種命の霊を祭った内津の方を振り返り、馬の尾が西を向いたので「西尾」の地名が付き、馬のの跡が付いたと伝わる岩盤。「駒返り」とも言われる。
      • 明知町 (春日井市)、ヤマトタケルが上記の内津峠と「西尾(馬蹄石)」に続いてこの地を通りかかった時に、ようやく夜が明けて辺りが知れるようになったことから、「明知」の名が付いたと伝わる。
      • 御手洗(みたらし・みたらい)遺跡(神屋町御手洗)、ヤマトタケルが、上記の「西尾(馬蹄石)」の場所から熱田に帰路する時、手を洗って休んだと伝わる。
  • 岐阜県
    • 不破郡 - 居醒水(関ケ原町玉)、伊吹山での大蛇との戦いで傷ついたヤマトタケルが清水を飲み、高熱が醒めたと伝わり、居醒水と呼ばれる。
    • 腰掛石・鞍掛石(米原市醒井・中仙道)、ヤマトタケルが腰を掛け、鞍を掛けたと伝わる。
    • 養老郡 - 桜の井戸(養老町桜井・みゆき街)、ヤマトタケルが水を飲み、喉を潤したと伝わる井戸。
  • 三重県
    • 四日市市 - 杖衝坂(釆女町)、足洗池(三重命名の池 西坂部町御館)、目洗いの玉葛井(たまかつい 菰野町下村)
    • 桑名市 - 日本武尊尾津前御遺跡、ヤマトタケルが足を洗ったと伝わる平群池(へぐりいけ)、平群神社などがある。
  • 兵庫県 - 加古川市 にヤマトタケルが出生児に入れられたとされる器がある。母、播磨稲日大郎姫の墓とされる日岡御陵がある。
  • 鳥取県 - 倉吉市に、ヤマトタケルが伯耆と美作国境の矢筈仙の山頂の岩石の上に立ち、「この矢のとどく限り兇徒、悪魔は退散して我が守護の地となれ」と念じ矢を放った場所が塔王権現で、現在は石祠と石塔が残る。また、放った矢は現在の倉吉市生竹まで飛び、その地の荒神が受け止めたといわれ、「矢留の荒神さん」と呼ばれる神社が建立されている。
  • 佐賀県 - 鹿島市藤津郡にヤマトタケルがこの地の海岸に至った時、日没となり、船を泊めた。翌朝、見ると、船の綱を大きな藤の蔓に繋いでいた為、「藤津郡」と言う地名が付いたと伝わる。
  • 長野県佐久地方でヤマトタケルが悪い白鹿を退治した。またヤマトタケルは、濃霧の中で 八咫烏に助けられたので、付近に「烏岩」や「烏川」や 「霧積」の地名がある。そしてヤマトタケルは近くに「熊野皇大神社」を造営した。またこの山で「吾妻者耶」と嘆かれたので「留夫山」(とめぶやま)と呼ぶ。一方、ヤマトタケルが軽井沢で一泊された場所を「神宿」というが、今は「借宿」(かりやど)と呼ぶ。またヤマトタケルが川を渡るためにきこりが橋を臨時にかけたので、その橋を「杣の架け橋」と言った。ところで、ヤマトタケルが浅間山麓を見渡すと広範囲にぽつぽつと民家が見えたので、「遠近里」(おちこちのさと)と称えられた[27]。そしてヤマトタケルに随行した「大伴武日連」が佐久の望月で他界し、埋葬した場所が「武陵」(ぶりょう)という地籍だ。ヤマトタケルが休憩した 北相木村の山を「御座山」(おぐらやま)と呼び、越えられた山を「臨降峠」という。またヤマトタケルは「国師ケ岳」の岩穴に籠られたという 伝説もある[28]。なお、ヤマトタケルは、蓼科山の大河原峠を超え、諏訪に出ようとした時、白衣姿の武将が白馬に乗って出現し、道案内をした。武将は「我は諏訪明神である」と言って消えたという[29]
  • 福岡県鞍手郡鞍手町にヤマトタケルが熊襲建兄弟の討伐しに行った時、一時住んでいたと云わる「熊野宮跡」がある。中山鎮座の八剣神社がある、剣岳 (福岡県)を登る途中にあり、村人が熊襲建兄弟討伐で来た、ヤマトタケルを手厚くもてなしたので、ヤマトタケルが帰りに再びこの地に立ち寄り、村人は仮宮を建てた。ヤマトタケルは村人の人情風致を褒めたたえ、この地を「中山」、「植木」と命名して帰って行ったと伝わる。
    • 田川市 - 太刀洗いの井戸、ヤマトタケルがこの地方の、土賊・猪折(いおり)を討った後、太刀を洗ったと伝わる井戸。
  • 鹿児島県 - 霧島市に「熊襲の穴」と呼ばれる洞穴がある。熊襲の首領である熊襲建、川上梟帥の兄弟が居住にしていたと伝われており、熊襲建兄弟の討伐を命じられたヤマトタケルが女装して忍び込み、川上梟帥を誅殺した場所として伝われており、「熊襲の穴」のほか「一名嬢着の穴」とも言われている。

作品[編集]

脚注[編集]

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注釈

  1. ^ 宮内庁治定墓(能褒野墓・大和白鳥陵・河内白鳥陵)での公式表記、および『国史大辞典』(吉川弘文館)の項目名、『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館)の項目名、『日本人名大辞典』(講談社)の項目名において、「日本武尊」の用字が採用される。

原典

  1. ^ 『日本三代実録』貞観3年(861年)11月11日条。
  2. ^ 『新撰姓氏録』和泉国皇別 和気公条、和泉国皇別 聟本条。
  3. ^ 『釈日本紀』巻7 草薙劔条所引『尾張国風土記』逸文。
  4. ^ 『常陸国風土記』序文、信太郡条、茨城郡条、行方郡条、香島郡条、久慈郡条。
  5. ^ 『常陸国風土記』久慈郡条、多珂郡条。
  6. ^ 『万葉集註釈』巻7所引『阿波国風土記』逸文。
  7. ^ 『日本書紀』仁徳天皇60年10月条。
  8. ^ 『延喜式』巻21(治部省)諸陵寮条。
  9. ^ 『日本書紀』持統天皇5年(691年)10月乙巳(8日)条。
  10. ^ 『続日本紀』大宝2年(702年)八月癸卯(8日)条。
  11. ^ 『令集解』巻2(職員令)諸陵司 諸陵及陵戸名籍事条所引『別記』逸文。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j 『新編日本古典文学全集 2 日本書紀 (1)』小学館、2002年(ジャパンナレッジ版)、pp. 340-397。
  2. ^ a b c d e 『新編日本古典文学全集 1 古事記』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、pp. 212-239。
  3. ^ 日本武尊(国史).
  4. ^ a b 中村啓信 『新版古事記』角川学芸出版[角川ソフィア文庫]、2009年、ISBN 978-4-04-400104-9
  5. ^ a b 吉井巌 『ヤマトタケル』学生社 1977年、2004年OD版、ISBN 4311201141
  6. ^ 井上光貞 『日本の歴史〈1〉神話から歴史へ』中央公論新社中公文庫]、新版2005年ISBN 4122045479
  7. ^ 岩波書店日本古典文学大系本『古事記』、『日本書紀』による。
  8. ^ 先代舊事本紀卷第七 天皇本紀
  9. ^ 「大御葬歌」は昭和天皇の大葬の礼でも詠われた。実際はモガリの宮(死者を埋葬の前に一定期間祭って置くところ)での再生を願ったり、魂を慕う様子を詠った歌だと思われる。
  10. ^ 当時の白鳥は現在のハクチョウ以外にも、白鷺など白い鳥全般を指した。
  11. ^ 『宮内庁書陵部陵墓地形図集成』 学生社、1999年、巻末の「歴代順陵墓等一覧」表。
  12. ^ a b c d e f 白鳥陵(国史).
  13. ^ a b c 「白鳥陵」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』 平凡社、1981年。
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m 「通史編 第3章第1節 ヤマトタケル伝承と鈴鹿地域」『亀山市史』(IT市史、亀山市歴史博物館)。
  15. ^ 亀山市史 通史編 第3章第1節.
  16. ^ 『新編日本古典文学全集 3 日本書紀 (2)』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、pp. 66-67。
  17. ^ 能褒野墓(国史).
  18. ^ 仁藤敦史 「記紀から読み解く、巨大前方後円墳の編年と問題点」『古代史研究の最前線 天皇陵』 洋泉社、2016年、pp. 13-16。
  19. ^ 『続日本紀 上 全現代語訳(講談社学術文庫1030)』 講談社、1992年、p. 52。
  20. ^ 森浩一 『天皇陵古墳への招待(筑摩選書23)』 筑摩書房、2011年、pp. 195-203。
  21. ^ 「前の山古墳」『日本歴史地名大系 28 大阪府の地名』 平凡社。
  22. ^ 「建部」『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。
  23. ^ 「建部」『日本古代氏族事典 新装版』 雄山閣、2015年。
  24. ^ a b 稲田智弘 『伊勢神宮の謎』 学研、2013年、31,32頁。
  25. ^ 『北佐久口碑伝説集北佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会 全434P中268P昭和53年11月15日発行
  26. ^ 『中小企業レポート』長野県中小企業団体中央会平成28年1月新年増刊号全136p中2p
  27. ^ 『北佐久口碑伝説集佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会全434中268P~295P 昭和53年11月15日発行
  28. ^ 『北佐久口碑伝説集北佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会 全434P中268P昭和53年11月15日発行
  29. ^ 『北佐久口碑伝説集南佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会 全434P中6P 昭和53年11月15日発行

参考文献[編集]

関連項目[編集]