内々神社
| 内々神社 | |
|---|---|
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| 所在地 | 愛知県春日井市内津町字上町24 |
| 位置 | 北緯35度19分33秒 東経137度03分41秒 / 北緯35.32583度 東経137.06139度 |
| 主祭神 |
建稲種命 日本武尊 宮簀媛 |
| 社格等 |
従二位上 式内社 県社 |
| 創建 | (伝)景行天皇41年 |
| 本殿の様式 | 権現造 |
| 別名 |
内津妙見 妙見社 天神 内津天神 内津神社 |
| 例祭 | 4月15日 |
内々神社(うつつじんじゃ)は、愛知県春日井市内津町にある神社。『延喜式神名帳』の尾張国春部郡「内々神社」に比定されている式内社。
祭神
[編集]歴史
[編集]社伝によれば景行天皇の治世の創建というが、正確な創建年代は不詳。近世まで神仏習合の影響で内津妙見と称され、春日井郡内津村の氏神であった。篠木庄33ケ村の総鎮守として信仰を集めたという。江戸中期に『延喜式神名帳』の春部郡「内々神社」に比定され定説となった。当社を内々神社に比定することに異説は全く見られず、江戸期以降の地誌は一致して当社が内々神社であるとしている。神階については、『尾張国内神名帳』貞治本に「従二位上 内津天神」、元亀本に「従三位 内津天神」とある。
平安期成立とされる『熱田太神宮縁起』には「内津」の由来と内々神社に関する記述がある。それによると東国の平定を終えた日本武尊が内津峠に差し掛かった時、早馬で駆けてきた従者の久米八腹から副将軍である建稲種命が駿河の海で水死したとの報告を受けた。それを聞いた日本武尊は「ああ現哉々々(うつつかな)」と嘆いたので、それが「内津」という地名の由来であるという。文書には「内津社今称天神」という注が記述されている。この注は鎌倉初期に加筆されたものという指摘もあるが、内々神社が「天神」と称していた時代があったようである。
古くは村ごとに毎年湯立神楽を奉納していた。嘉暦年間に妙見寺が創建され、当社の神宮寺と別当を兼ねた。天正3年(1575年)に兵火により焼失し古記録を失ったという。妙見寺の伝によれば、慶長2年(1597年)に豊臣秀吉が朝鮮出兵に際して大杉7本を伐採し帆柱とし、後に礼として社殿を造営したという。
庭園
[編集]神社内の看板には、日本初の作庭家ともいわれる臨済宗の禅僧・夢窓疎石の作庭と伝わると表記されているが、庭園の形式は池泉鑑賞式・廻遊式林泉型の蓬莱庭園[1]。庭園研究者の重森三玲や澤田天瑞は江戸初期としている。
文化財
[編集]- 愛知県指定有形文化財
- 内々神社社殿(本殿・拝殿・幣殿)[2]附:棟札11枚
- 愛知県指定名勝
- 内々神社庭園[3]
- 春日井市指定文化財
ギャラリー
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境内
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庭園
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社殿
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紅葉
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内々神社の隣にある妙見寺
所在地
[編集]- 愛知県春日井市内津町24
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『尾張名所図会』 第三巻 内内神社、1844年
関連項目
[編集]- 妙見寺 (春日井市) - 旧別当寺
- 馬蹄石 - 安祥寺 (春日井市)のすぐ北横、春日井市立西尾小学校付近にある岩盤。東国遠征の帰路で、内津峠に入った日本武尊が、早馬で駆けてきた従者の久米八腹から、東国遠征の帰路で水死した建稲種命の事を聞き「ああ現哉々々(うつつかな)」と嘆いた。そして現在の「西尾」の地まで来た、日本武尊が建稲種命の霊を祭った内津の方を振り返り、馬の尾が西を向いたので「西尾」の地名が付いたとされ、その時、馬の蹄の跡が付いた岩盤が「馬蹄石」、または「駒返り」として伝われている。