白鳥古墳 (名古屋市)

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白鳥古墳
Shiratori-kofun (Nagoya) haisho.JPG
拝所
所在地 愛知県名古屋市熱田区白鳥一丁目2番
位置 北緯35度07分38秒
東経136度54分12秒
座標: 北緯35度07分38秒 東経136度54分12秒
形状 前方後円墳
規模 墳丘長70m
高さ7m
埋葬施設 不明
築造時期 6世紀初頭
被葬者 (伝)日本武尊
(推定)尾張氏首長
史跡 なし
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全景

白鳥古墳(しろとりこふん/しらとりこふん)は、愛知県名古屋市熱田区にある前方後円墳白鳥公園に隣接する。

熱田神宮では「白鳥御陵」と称する[1]

概要[編集]

6世紀初頭に築造されたと考えられている前方後円墳で、法持寺のすぐ隣に位置する。かつては法持寺が管理していたが、1876年明治9年)からは熱田神宮に、戦後は名古屋市に管理が移された。

規模と構造[編集]

規模は次の通り。

  • 墳丘全長:70メートル
  • 後円部
    • 直径:45メートル
    • 高さ:6.5メートル
  • 前方部
    • 長さ:30メートル
    • 幅:55メートル
    • 高さ:7メートル

全長70メートルなどとされるが、これらは1951年昭和26年)に名古屋大学が調査測量を行った際の数値である。しかし前方部南端は道路建設で、後円部の東側は鳥居の建設などで、また西側も法持寺の移転改築などに伴って墳裾部が掘削されており、元々の形を留めていない。前述の調査で前方部が削平されている可能性が指摘されているほか、墳丘東側に幅5メートルほどの平坦面があった事から、2段築成であった可能性もあるとされる。

墳丘には須恵質円筒埴輪が巡らされていた。またかつては墳丘の東側から北西側にかけて幅10メートルほどの周濠があったと推定されるが、現在では確認できない状態となっている。

天保8年(1837年)の台風の際に陵上の樹が倒れて内部の石室が露出。「尾張名所図会附録」によれば、石室は全長約3.7メートル、全幅1.2-1.5メートル、深さ1.5-1.8メートルの石垣組みで、5枚の蓋石によって覆われていたという。

遺物[編集]

  • 馬具
    • 楕円形鏡板
    • f字形鏡板
    • 劍菱形杏葉
    • 鐘形杏葉
    • 辻金具
  • その他
    • 双魚形腰佩
  • 玉類
  • 須恵器
    • 器台付三連坩
    • 子坩四個脚付短頸壷
    • 蓋付小坩
    • 高坏
    • 蓋類
    • 器台

これらは法持寺の僧侶の手によって一旦取り出されたが、寺社官への言上・評議の結果、石室へ戻され、墳丘も旧状へと復したと伝わっている。その際に形状や数などが記録された。

被葬者[編集]

古墳は、尾張氏の首長墓と考えられている。

熱田神宮社伝では、日本武尊の陵としている。これは、能褒野に葬られてのち白鳥となった日本武尊が当地に降り立ったという伝承に基づく。神宮では、北方約300メートルにある断夫山古墳を「陀武夫御墓」と称して日本武尊妃の宮簀媛(みやずひめ)の墓とし、現在も毎年5月8日に白鳥古墳と断夫山古墳とにおいて御陵墓祭を行なっている[1]

文化財[編集]

愛知県指定文化財[編集]

  • 有形文化財
    • 鉄地金銅張馬具(考古資料) - 所有者は熱田神宮。1968年(昭和43年)3月11日指定[2]

その他[編集]

本居宣長は当地を訪れた際に、「しきしまの やまとこひしみ 白とりの かけりいましし あとところこれ」と歌を詠んだといわれ[1]、その歌碑が公園の堀川側の入口横に建立されている。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c 宮記 & 2012年, pp. 32-35.
  2. ^ 県指定文化財(名古屋市ホームページ)。

参考文献[編集]

  • 現地説明板(名古屋市教育委員会設置)
  • 三渡俊一郎 『熱田・瑞穂区の考古遺跡』〈文化財叢書 第八一号〉、1981年
  • 『熱田区・白鳥古墳 -法持寺改築に伴う発掘調査の概要-』 名古屋市教育委員会、1986年
  • 「白鳥古墳」『日本歴史地名体系 23 愛知県の地名』 平凡社1981年ISBN 4-582-49023-9
  • 「陵墓」『熱田神宮宮記』 熱田神宮2012年

関連項目[編集]