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ジョージ・フォスター

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョージ・フォスター
George Foster
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アラバマ州タスカルーサ
生年月日 (1948-12-01) 1948年12月1日(75歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
185 lb =約83.9 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1968年 ドラフト3巡目
初出場 1969年9月10日
最終出場 1986年9月6日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ジョージ・アーサー・フォスターGeorge Arthur Foster, 1948年12月1日 - )は、アメリカ合衆国アラバマ州出身の元プロ野球選手外野手)。

愛称は「ザ・デストロイヤー」で、左足を大きく前に出す極端なクローズドスタンスが特徴的だった。1970年代後半のMLBもっとも偉大な打者といわれた名選手であった[1]

経歴

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1969年サンフランシスコ・ジャイアンツでメジャーデビュー。同年と翌 1970年は僅かばかりの試合出場に留まり、レギュラーになりかけた 1971年シーズン途中にシンシナティ・レッズに移籍した。

1972年からの3シーズンは目立った成績は残せなかったが、1975年から力をつけ始め、ビッグレッドマシンと敵チームに恐れられたメンバーの4番打者として1976年から6年連続20本塁打、90打点以上の好成績を記録した。特に1977年1978年には2年連続本塁打王打点王のタイトルを獲得し、レッズの黄金期を支えた。グリップ部分を削り細くしたバットを愛用していた。1977年の52本塁打は、MLB全体でも1966年から1989年までの24シーズンで唯一のシーズン50本塁打[2]の記録である。

1978年オフに日米野球で他レギュラー達と共に来日。日本の野球ファンに全盛期のプレーを披露した。この際、後楽園球場における第1戦で左翼に弾丸ライナーの本塁打を放ち、フコク生命の看板に打球跡を残した。この跡は内野からでも確認でき、後楽園取り壊しの際まで残っていた。また、この時に掛布雅之の打撃をみて素晴らしいと評していた[3]

1970年代のレッズ黄金期が終わり、ニューヨーク・メッツに移籍。メッツでは低めのカーブに対する弱点を衝かれ、レッズ所属時のような打棒はなりを潜めたが、それでも1983年からの3シーズンは一定の成績を残している。

しかし、契約最終年の1986年は自らの衰えに加えて若手の成長でチームが好調(この年メッツはレギュラーシーズンで108勝を挙げ、ワールドシリーズでもボストン・レッドソックスを破りワールドシリーズ優勝を果たす)の中、次第に出場機会が減り、監督のデーブ・ジョンソンを批判し、ウェーバーにかけられ、当時のMLB最低年俸の6万ドル(の歩合)でシカゴ・ホワイトソックスに移籍。移籍初戦で早速本塁打を打ったがその後不振に陥り、1か月足らずで解雇された。その後「日本語を覚えて、来年(1987年)は海の向こうでプレイする」とコメントし、ヤクルトスワローズが獲得に興味を持ったとされるが、オファーには至らず、そのまま引退となった。

2010年2月、オリックス・バファローズと外国人選手獲得に関するアドバイザーとして契約したと発表した。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1969 SF 9 5 5 1 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .400 .400 .400 .800
1970 9 21 19 2 6 1 1 1 12 4 0 0 0 0 2 1 0 5 1 .316 .381 .632 1.013
1971 36 112 105 11 28 5 0 3 42 8 0 1 0 1 6 1 0 27 4 .267 .304 .400 .704
CIN 104 402 368 39 86 18 4 10 142 50 7 6 1 3 23 2 7 93 16 .234 .289 .386 .675
'71計 140 514 473 50 114 23 4 13 184 58 7 7 1 4 29 3 7 120 20 .241 .292 .389 .681
1972 59 152 145 15 29 4 1 2 41 12 2 1 0 1 5 1 1 44 6 .200 .230 .283 .513
1973 17 43 39 6 11 3 0 4 26 9 0 1 0 0 4 0 0 7 1 .282 .349 .667 1.016
1974 106 314 276 31 73 18 0 7 112 41 3 2 2 2 30 5 4 52 8 .264 .343 .406 .749
1975 134 511 463 71 139 24 4 23 240 78 2 1 0 5 40 11 3 73 14 .300 .356 .518 .874
1976 144 627 562 86 172 21 9 29 298 121 17 3 0 9 52 4 4 89 11 .306 .364 .530 .894
1977 158 689 615 124 197 31 2 52 388 149 6 4 0 8 61 10 5 107 17 .320 .382 .631 1.013
1978 158 687 604 97 170 26 7 40 330 120 4 4 0 6 70 16 7 138 18 .281 .360 .546 .906
1979 121 505 440 68 133 18 3 30 247 98 0 2 0 3 59 7 3 105 11 .302 .386 .561 .947
1980 144 608 528 79 144 21 5 25 250 93 1 0 0 4 75 14 1 99 14 .273 .362 .473 .835
1981 108 472 414 64 122 23 2 22 215 90 4 0 0 4 51 5 3 75 12 .295 .373 .519 .892
1982 NYM 151 608 550 64 136 23 2 13 202 70 1 1 0 6 50 9 2 123 13 .247 .309 .367 .676
1983 157 647 601 74 145 19 2 28 252 90 1 1 0 4 38 5 4 111 19 .241 .289 .419 .708
1984 146 595 553 67 149 22 1 24 245 86 2 2 0 6 30 9 6 122 14 .269 .311 .443 .754
1985 129 504 452 57 119 24 1 21 208 77 0 1 0 4 46 5 2 87 8 .263 .331 .460 .791
1986 72 256 233 28 53 6 1 13 100 38 1 1 0 2 21 1 0 53 7 .227 .289 .429 .718
CWS 15 54 51 2 11 0 2 1 18 4 0 0 0 0 3 0 0 8 2 .216 .259 .353 .612
'86計 87 310 284 30 64 6 3 14 118 42 1 1 0 2 24 1 0 61 9 .225 .284 .415 .699
MLB:18年 1977 7812 7023 986 1925 307 47 348 3370 1239 51 31 3 68 666 106 52 1419 196 .274 .338 .480 .818
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

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左翼(LF) 中堅(CF) 右翼(RF) 一塁(1B)
















































タイトル

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表彰

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記録

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背番号

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  • 14(1969年 - 1971年途中)
  • 15(1971年途中 - 1986年)

脚注

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  1. ^ 友成那智『記録への挑戦1 258本を生んだバット』株式会社ポプラ社、2009年、139ページ、ISBN 978-4-591-10582-5
  2. ^ この期間の前年(1965年)にウィリー・メイズが52本、翌年(1990年)にセシル・フィルダーが51本記録している(「50本塁打クラブ」より)。
  3. ^ “ランディ・バースが明かす、日本で戦った最高の投手とは?(2/3)”. Sports Graphic Number Web (文藝春秋). (2015年9月16日). http://number.bunshun.jp/articles/-/824159?page=2 2019年11月8日閲覧。 

関連項目

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外部リンク

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