アブナー・ダルリンプル
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| 基本情報 | |
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| 出身地 |
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| 生年月日 | 1857年9月9日 |
| 没年月日 | 1939年1月25日(81歳没) |
| 身長 体重 |
5' 10.5" =約179.1 cm 175 lb =約79.4 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投左打 |
| ポジション | 左翼手 |
| 初出場 | 1878年5月1日 |
| 最終出場 | 1891年10月2日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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アブナー・フランク・ダルリンプル[1](Abner Frank Dalrymple、1857年9月9日 - 1939年1月25日)は、主に1880年代に活躍したアメリカ合衆国のプロ野球選手。ポジションは左翼手。ウィスコンシン州グレイショット生まれ。右投げ左打ち。1880年代5度のリーグ優勝をした頃のシカゴ・カブスのリードオフマン。1885年にはナショナルリーグ本塁打王となった。
来歴・人物[編集]
1878年、当時所属していたミルウォーキー・グレイズがナショナルリーグに加盟。ダルリンプルは61試合に出場して.354という高い打率を残し、この年ナショナルリーグはダルリンプルをリーグの『首位打者』と発表した。ただこの当時、打率の計算は勝敗のつかなかった試合の成績を除いて計算されており(当時ダルリンプルの打率は".356"と発表されている)、後年になって記録の見直しが行われた際に、この年の首位打者はポール・ハインズに訂正されている[2]。
ミルウォーキーは1年でナショナルリーグを離れたが、ダルリンプルは翌1879年からシカゴ・ホワイトストッキングス(現カブス)に所属し、リードオフマンを務めた。1880年にはリーグ最多となる91得点と126安打を記録する。翌1881年8月21日のバッファローとの試合では、メジャーリーグで初めて『満塁で敬遠』されたという記録が残っている[3]。
シカゴでは毎年3割前後の打率を残し、1884年には22本もの本塁打(リーグ3位)を放った。これは通算本塁打(43本)のほぼ半分にあたるのだが、この頃シカゴ・ホワイトストッキングスは外野が極端に狭いレイクフロント・パークを本拠地にしており、あまりに狭いため1883年までフェンス越えの当たりを本塁打としないルールを適用していたものを、1884年に撤廃したためでもある。ホワイトストッキングスは1885年に本拠地を移転してこの恩恵はなくなったが、同年はリーグ最多の11本塁打を記録している。
1886年に打撃不振となり、ダルリンプルは同年オフにピッツバーグ・アレゲニーズに放出された。ピッツバーグに2年在籍した後一度メジャーリーグを離れたが、1891年に当時のミルウォーキー・ブルワーズがアメリカン・アソシエーションに加盟した際再びメジャーリーグに登場し、サイクル安打も記録している。メジャーで活躍したのはこの年までで、引退後1939年にイリノイ州で81歳で亡くなっている。
通算成績[編集]
打撃成績[編集]
※数字の後の"*"は、記録不明箇所があることを示す。
| 試合 | 打数 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 得点 | 打点 | 盗塁 | 三振 | 四球 | 死球 | 犠打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 951 | 4172 | 1202 | 217 | 81 | 43 | 813 | 407 | 58* | 359 | 204 | 8* | - | .288 | .323 | .410 |
獲得タイトル・記録[編集]
- ナショナルリーグ最多本塁打:1885年
- ナショナルリーグ最多安打:1880年
- 最多得点:1880年
- サイクル安打:1891年9月12日
脚注[編集]
- ^ 表記は英語発音によらず他資料等の一般表記による。
- ^ “Baseball Library (1878 Chronology)”. 2009年10月27日閲覧。
- ^ “Baseball Library (1881 Chronology)”. 2009年10月27日閲覧。
出典・外部リンク[編集]
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Baseball-Reference (Register)
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