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貨幣史

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貨幣史(かへいし)は貨幣の歴史、および歴史上の各時代における貨幣の機能や貨幣制度の研究を指す。関連する学術分野としては、貨幣とその形態を研究する貨幣学の他に、経済史をはじめとする歴史学や考古学、文化と貨幣の関わりも研究する文化人類学などがある。

概要[編集]

ヤップ島石貨。物品貨幣

貨幣の起源[編集]

貨幣の起源は、市場貿易の起源とは別個にあるとされる。貨幣の機能には、(1)支払い、(2)価値の尺度、(3)蓄蔵、(4)交換手段があり、いずれか1つに用いられていれば貨幣と見なせる[1]

貨幣の4つの機能は、それぞれ異なる起源を持つ。(1)支払いのための貨幣は、責務の決済を起源とする。賠償、貢物、贈物、宗教的犠牲、納税などがこれにあたる。(2)価値尺度のための貨幣は、物々交換や財政の管理を起源とする。歴史的には単位のみの貨幣も存在してきた。(3)蓄蔵のための貨幣は、財や権力の蓄積を起源とする。食料や家畜、身分を表す財宝などがこれにあたる。(4)交換のための貨幣は、財を入手するための間接的交換を起源とする。売買がこれにあたる。4つの機能をすべて備えた貨幣が用いられるようになるのは、文字を持つ社会が発生して以降となる[2]

貨幣の素材[編集]

貨幣の素材には、現在では一般的な金属や紙の他に、さまざまなものが選ばれてきた。地域の伝統や慣習において富と見なされるものが、貨幣として選ばれていた[3]穀物家畜も貨幣となるが、そうした貨幣は消費して減ってしまうと取引に支障が出る。そのため、取引に用いる財に影響が少ない素材として、金属や紙が多く選ばれるようになった。現在知られている最古の硬貨紀元前7世紀リュディアで作られたエレクトロン貨、最古の紙幣は1023年から北宋の政府紙幣として流通した交子とされる。特定の素材の価値で国家の貨幣を裏付ける制度として本位制があり、金本位制銀本位制金銀複本位制などがある。

貨幣には装飾的、儀礼的、呪術的な素材も見られ、宗教的背景を持つ場合もある。たとえば古代中国ではタカラガイが豊産や死者の安寧と結びつけられて神聖とされ、貝貨となった[4]。アフリカのドゴン族の神話では貝貨には生きた力があり、取引をする人間の力に対応している。そして市場での貝貨を用いた交換は、言葉の交換に対応すると見なされた[5]

貨幣の使い分け[編集]

前述のように貨幣には4つの機能があり、いずれかに用いられていれば貨幣と見なせる。歴史的には、用途によって特定の機能の貨幣があり、複数の貨幣を組み合わせて用いられてきた[6]。たとえばバビロニアでは価値尺度としての銀、支払い用の大麦、交換用の羊毛やナツメヤシなどが使い分けられた。中国のでは賜与や贈与の目的や立場に応じて、金、布帛、銅が厳密に使い分けられた[7]。中世の西ヨーロッパはバンク・マネーとも呼ばれる計算用の貨幣を尺度として支払用の複数の貨幣を管理した[8]。日本の江戸時代では石高制のもとで米を価値の尺度として、支払いには主に金、銀、銅を用いた。

身分や性別によって特定の貨幣が使われる場合もある。たとえばロッセル島にはンダップという男性用の貨幣とンコという女性用の貨幣があり、ンダップは23種類、ンコは16種類の異なる価値を備えていた[9]サモアには女性が生産するトガ財(編みゴザ、ヤシ油等)と男性が生産するオロア財(豚、武器等)があり、交換手段の貨幣が浸透するとオロア財が優先して貨幣で買えるようになった[10]トロブリアンド諸島では、クラ交易に用いるクラ財は貨幣で買えないが、クラ財と交換できる豚やヤムイモは貨幣で買える。このため、女性や若者など貨幣収入を得やすい者がクラ交易への影響を強めた[11]。また、15世紀から16世紀のメソアメリカでは食物であるカカオが貨幣としても流通し、アステカではカカオの飲食は貴族、戦士、商人などの階級に限られていた[12]

貨幣と地域[編集]

貨幣には地域内での使用と、貿易や地域間の交易での使用があり、内外で異なる貨幣が定められる場合もある。この違いは貨幣が必要となる周期や取引の大小によって決まり、地域内の貨幣は小額面で周期的であり、貿易の貨幣は高額面で非周期的となる。たとえば18世紀ベンガルでは、穀物の先物取引にはルピー銀貨を用い、穀物を地域内の市場で買うには小額取引に適した貝貨が用いられた。さらに、納税と穀物取引では異なるルピー銀貨が用いられた[13]

マリア・テレジア・ターラー、1780年鋳造

現在では1国1通貨の制度が普及しており、これは後述のように国際金本位制に起源を持つ。それ以前は、貿易用の貨幣は発行者の国を超えて複数の国や地域で用いられた。たとえば古代ギリシアドラクマ、中世イスラーム世界のディナールディルハム、中国の宋銭貿易銀と呼ばれるラテンアメリカのメキシコドルやオーストリアのマリア・テレジア銀貨がそれにあたる[14]

1国1通貨の制度が普及する以前は、地域内で用いられる地域通貨も多数存在した。たとえば穀物や家畜を用いた各地の物品貨幣や、日本の伊勢神宮の所領を中心とした山田羽書、中国の民間紙幣である銭票などが知られている。地域通貨が政府や民間業者の保証なしに流通する場合は、地元で取引される商品の販売可能性によって成り立っていた。

貨幣の発行[編集]

貨幣発行益は、古くから政府や造幣者に注目されてきた。発行した貨幣を用いて財や労働を調達できるほか、貨幣の普及により税の徴収が楽になるという利点がある。また、地金の値段よりも額面が高い貨幣を作れば、差額によってさらに利益は大きい。多くの国家で大量の貨幣が発行され、たとえばペルシアのアケメネス朝ローマ帝国では兵士への支払いに硬貨が多用された[15]。貨幣発行益を得るための造幣は、時として貨幣や政府への信用に影響する。たとえば日本の朝廷が発行した皇朝十二銭は、改鋳のたびに目方と質が低下した新貨が出たため、信用の低下につながった[16]

貨幣を発行する造幣権は基本的に政府や領主に管理され、無断で作る私鋳は厳しく取り締まられた。しかし漢の劉邦は、との戦争時に民間の造幣を許可し、半両銭が普及する後押しとなった。許可の理由として、小額貨幣の推進、算賦という銭を納める人頭税の推進、民間造幣業者の大地主や任侠を味方に引き入れるためなどの説がある[17]。緊急時においては短期間で地域通貨が発行され、たとえば泉州での飢饉の際の私鋳銭、銅不足によって作られたアーマダバードの鉄貨、世界恐慌が起きたあとのワシントン州の木片などがある[18]1685年フランス領カナダでは、銀貨不足のためにトランプを切って作ったカルタ貨幣英語版が通用し、これをアメリカ大陸初の紙幣とする説もある[19]

金属貨幣の発行には大量の金属を必要とし、鉱山での過酷な採掘も伝えられている。アテナイのラウレイオン銀山は奴隷の労働としてもっとも過酷と言われ、ペルー副王領ポトシ銀山では、インカ時代の賦役をもとにしたミタ制によって先住民が酷使され、多数が命を落とした[20]

両替商[編集]

含有率や重量がさまざまな貨幣が流通する地域では、両替商の存在が重要とされた。古代ギリシアのポリスにおけるトラペジーテース、中国の宋代の兌房、中世イスラーム世界のサッラーフ、日本の江戸時代の本両替と銭両替などがある。都市には両替市場が設けられたり、大規模な定期市である年市には両替商が滞在した。ヨーロッパの両替商の中には、現在の銀行にあたる業績を行う者も現れた。中世ヨーロッパの両替商が仕事に用いたバンコという台は、銀行を表すバンクの語源ともなった。

貨幣史と学説[編集]

グレシャムの法則や、貨幣数量説などの貨幣に関する説は限定的であるか、史実に当てはまらない場合がある。グレシャムの法則は金貨については有効だが、良貨にあたる官銭が悪貨を抑制した中国の銅貨には当てはまらない。また、複数の貨幣が流通して多元的に評価されていると、貨幣の総量を測る意味がなく、貨幣数量説の前提が成立しない[21]

貨幣の形態・デザイン[編集]

アレクサンダー3世の肖像、テトラドラクマ銀貨
開元通宝

硬貨の歴史において、ヨーロッパと中国ではデザインが大きく異なる。ヨーロッパの硬貨は権力者の肖像などの図像を入れているが、中国や日本では中心に穴の空いた硬貨を作った。中国の硬貨は円形方孔といって穴が四角く、これは古代の宇宙観である天円地方の思想にもとづいている。この穴は紐を通して大量の枚数をまとめるのにも活用され、小額面の貨幣を運ぶには便利だった[22]。一方、硬貨に穴がないヨーロッパでは運ぶための財布が発達したとも言われ、アテナイでは一般市民は財布を持たず、小額の硬貨は口に入れて運んだという記録もある[23]。イスラーム世界の硬貨は、ヨーロッパから形態を受け継ぎつつ、偶像崇拝を否定するために文字だけを刻印した。

紙幣は、最初の紙幣とされる宋の交子をはじめとして中国や日本では縦長であった。これは文字が縦書きであったことに由来する。ヨーロッパの初期の紙幣は北欧を中心に縦長であり、オーストリア・ハンガリーロシアポーランドブルガリアなどでは19世紀や20世紀まで縦長の紙幣が時折発行されていた。正方形の紙幣としては、スウェーデンフィンランドノルウェーなどがある。現在では横長の紙幣が一般的となっている[24]

貨幣のデザインは発行された時代の芸術とも関連がある。19世紀末から20世紀前半にかけてはアール・ヌーヴォーアール・デコ様式の紙幣がオーストリア・ハンガリー、ドイツフランス、ポーランドなどで発行された。オーストリア・ハンガリーでは、1881年発行の5グルデン札のデザインをグスタフ・クリムトが指導している[25]1945年に日本の新紙幣のデザインを公募した際には、審査員として藤田嗣治杉浦非水が参加した[26]

物々交換と貨幣[編集]

物々交換において、交換比率を決める尺度として貨幣を用いる場合があった。バーターが効率よく行われるために尺度としての貨幣が役立った[27]

バビロニアの物々交換で土地と物財を交換する場合、まず土地を銀の価値で計り、次にその銀の価値と同じだけの物財をそろえて交換した[28]。また、アムール川流域の山丹交易では物々交換が行われていたが、ウリチニヴフなどの山丹人が清と取引をする際、現地で使われていない中国の銅貨を尺度としていた。さらに山丹人と日本の取引では、クロテンの毛皮を尺度にして商品の価値を計った[29]

物品貨幣[編集]

古代中国の貝貨

素材そのものに価値のある貨幣を物品貨幣実物貨幣と呼び、特に初期の貨幣に多い。物品貨幣は、貝殻や石などを用いる自然貨幣と、家畜や穀物などの商品貨幣とに分類される。代表的な物品貨幣にタカラガイなどを用いた貝貨(古代中国、オセアニア、インド)、石貨(オセアニア)、大麦(バビロニア)、布帛(日本、中国、朝鮮)、鼈甲(古代中国)、鯨歯(フィジー)、牛や山羊(東アフリカ)、羽毛などが存在する。古代ギリシアの叙事詩である『イリアス』や『オデュッセイア』では、牡牛が価値の尺度として用いられている。8世紀の中央アジアは絹が帛練と呼ばれる物品貨幣にもなり、絹の品質に応じていくつかの価格帯が定められた[30]。こうした物品貨幣のさまざまな種類は、パウル・アインチッヒ英語版の著作『原始貨幣』に集められている[31]

中世[編集]

文化的、地理的な条件により、カカオ(アステカ、プトゥン・マヤ)、羊毛布や干しタラ(アイスランド)、タカラガイ(西アフリカ)、(日本、中国、朝鮮)などの貨幣は中世以降も流通した。モルディブ諸島で産するタカラガイは、インドの他に14世紀からアフリカのダホメ王国コンゴ王国にも運ばれて貨幣となった。中世ヨーロッパでは、物品貨幣に加えて計算貨幣を尺度とする信用決済が行われた。日本、中国、朝鮮では16世紀までの地域市場において物品貨幣が取引に用いられた[32]。北アメリカ東部の海岸沿いのレナペ族などのインディアンは、ポーマノック(ロングアイランド)で採れる貝からウォンパム英語版というビーズの装身具を作り、内陸の部族との交易や、情報の伝達に用いた。また、日常取引に必要な硬貨が不足すると物品貨幣によって補われる場合もあった。たとえば中国では竹や布の貨幣が作られたり[33]、日本では貫高制にかわって石高制が普及する一因にもなった。

近現代[編集]

北アメリカの13植民地では、17世紀から18世紀にかけて物品貨幣が普及した。本国のイギリスから送られる硬貨は少なく、その大半が輸入品の購入によって流出し、しかも植民地では造幣が禁止されたため、硬貨が常に不足したのが原因である。法的に認められた貨幣として、植民地全土ではトウモロコシが早くから流通した。北部では毛皮貿易で重要な品だったビーバーの毛皮や、ロングアイランドのインディアンが作っていたウォンパムがあった。南部ではタバコや米、そしてタバコの引替券であるタバコ・ノートがあり、タバコとタバコ・ノートは合わせて170年にわたって流通した。その他に家畜、干し魚、肉、チーズ、砂糖、ラム酒、亜麻、綿、羊毛、木材、ピッチ、釘、弾薬、銃なども用いられて取引は複雑になったが、硬貨不足によるデフレーションを緩和する効果はあった。そうした状況下の貿易で流入したスペインドルが少量ながら流通を続け、独立後のアメリカではフローイング・ヘア・ダラーが発行されてドルが通貨単位となる[34]

メソアメリカのカカオは、一部の地域では20世紀まで貨幣として通用した。現在用いられている物品貨幣としては、石貨ヤップ島)や貝貨(パプアニューギニア)がある。特にパプアニューギニアのタブ貝貨は、人頭税の支払いなど行政においても流通している[35]

金属貨幣[編集]

リュディア王国のエレクトロン貨

金属は保存性・等質性・分割性・運搬性において貨幣に適した性質があり、金貨銀貨銅貨鉄貨などが作られた。このうち銅貨は実際には青銅貨である場合が多い。古代から中世にかけての金属貨幣は、金属資源の採掘量に左右される傾向にあり、鉱山が枯渇すると貨幣制度は重大な脅威を受けた。金属貨幣の不足は、小切手為替手形、紙幣などの発生にも影響を与えた。

金属貨幣は、はじめは地金を計って用いた。これを秤量貨幣と呼ぶ。やがて、鋳造貨幣すなわち硬貨が現れた。硬貨のように一定の形状・質・重量を持っている貨幣を計数貨幣とも呼ぶ。

地中海や西ヨーロッパでは硬貨の素材として主に金銀が用いられ、中国や古代・中世の日本では銅が用いられた。西ヨーロッパでは領主や商人の交易に銀貨を中心に多用したが、中国では農民の地域市場での取引に銅貨が多用されていた[36]

古代[編集]

メソポタミア[編集]

メソポタミアの銀は、秤量貨幣にあたる。メソポタミアは銀を産出しないため、アナトリア半島のトロス山脈などから銀が運ばれた。シェケルという単位が紀元前30世紀頃から用いられ、シュメル語ではギンと呼ばれた。紀元前22世紀ウル・ナンム王の時代には銀1ギン(約8.3グラム)=大麦1グル(約300リットル)と公定比率を定めた[37]アッカドからバビロン第1王朝の時代にかけてはハルという螺旋型の秤量銀貨が作られ、携帯をして必要な量を切って支払いに用いた[38]。貸付も行われており、紀元前18世紀のハンムラビ法典には、利息の上限として銀は20%、大麦は約33.33%と定められていた。

エジプト[編集]

古代エジプトではナイル川からの砂金やプント国との交易などで豊富な金を集め、宮殿や神殿に貯蔵をした。金は国内の取引には用いられず、秤量金貨として貿易の決済に用いられた。本格的に鋳貨が流入するのは、アレクサンドロス3世による征服で成立したプトレマイオス朝以降となる[39]

インド[編集]

マウリヤ朝の銀貨

紀元前7世紀頃から秤量銀貨が用いられ、紀元前5世紀には打印貨幣の銀貨が登場し、硬貨はマウリヤ朝以降となる。マウリヤ朝ではパナ銀貨やマーシャカ銅貨が使われており[40]、比率は1パナ=16マーシャカとされた[41]。また、マウリヤ朝の時代にはペルシア、アレクサンドロスのヘレニズム諸国、ギリシアなどからの硬貨も流入していた。紀元前2世紀からギリシア人によって北西部にインド・グリーク朝が建国され、ギリシア様式の硬貨が発行されてインドの硬貨に影響を与えた。のちのクシャーナ朝カニシカ1世は、ローマのアウレウス金貨の様式で金貨を作っている。

中国[編集]

布貨
刀貨

の時代にタカラガイや亀甲が貨幣として用いられ、春秋時代には、それらをかたどった青銅貨として銅貝、刀貨、布貨が作られた[42]戦国時代にこれらの鋳貨が普及し、は度量衡を統一して銅銭の半両銭を貨幣重量の基準とした。秦から漢の時代にかけては金、銅貨、布帛が主流となり、漢では五銖銭を発行した[43]の王莽の時代には、銅不足による貨幣経済の混乱を収拾するために宝貨制などの貨幣政策が試みられたが、政策は失敗して穀物や布帛などの物品貨幣が増加し、後漢の五銖銭の再発行まで混乱が続いた[44]。後漢の滅亡後は、董卓によって五銖銭が董卓小銭という硬貨に改鋳され、銘文や研磨などの処理がされていない悪貨だったためインフレーションを招く。魏晋南北朝の時代に五銖銭の発行が再開するが銅不足は解消されず、各地で物品貨幣である布帛、穀物、塩の流通が盛んとなった。やがて銭の不足によって鉄片、裁断した革、重ねた紙なども銭として流通するようになるが、開元通宝の発行により混乱はいったん収束する[45]

春秋戦国時代から漢代にかけては、多くの貨幣論も書かれている。春秋戦国時代の出来事をもとに書かれた『国語』に登場する単穆公は、基準通貨と補助通貨の2種類の貨幣で調整をするという子母相権論を説いた。紀元前5世紀頃の『墨子』では刀貨と穀物価格の関係を論じており、紀元前4世紀頃の『孟子』では一物一価の法則への反論がなされている。司馬遷は『史記』の貨殖列伝で范蠡の逸話を通して物価の変動を説き、『管子』は君主による価格統制をすすめている[46]。文芸作品では、西晋魯褒が当時の社会を風刺した『銭神論』を著している[47]

ギリシア[編集]

古代アテナイのテトラドラクマ銀貨

ヨーロッパでの硬貨は、古代ギリシアの都市国家であるポリスで急速に普及した。現存する世界最古の硬貨は、アナトリア半島のリュディア王国で作られたエレクトロン貨である。これは金銀の自然合金であるエレクトラムを素材としていた。リュディアは豊富に貴金属を産する土地で、砂金状のエレクトラムが採れたパクトロス川はミダス王の伝説でも知られる。リュディアの影響を受けて、紀元前650年頃にはアルゴスで銀貨が作られ、紀元前550年頃にリュディアがエレクトラムから分離した金貨を作り、それをもとにタソスでも金貨が用いられた。この他にスパルタやアルゴスでは鉄貨が用いられ、硬貨は紀元前6世紀にエーゲ海一帯に広まった。ポリスはそれぞれ異なる貨幣を発行したため、両替商が重要な役割を持った。両替商は財産の保管を行いつつ、預けられた金を元手に貸付も始め、こうして銀行も成立した。紀元前5世紀にはアテナイを中心に海上貿易が盛んになり、ドラクマをはじめとするギリシアの銀貨、アケメネス朝ペルシアの金貨であるダリクキュジコスのエレクトロン貨などで取引が行われた[48]

アテナイは紀元前483年からラウレイオン銀山をもとに銀貨を発行して経済力を持ち、ポリス内にも貨幣が普及する。公共事業や民会、陪審に参加する市民にオボルス銀貨を支給する制度が始まると、貧しい市民もポリスの市場で食料を買えるようになり、富裕市民の公共奉仕も貨幣化されていった。アテナイの通貨単位は、1タラントン=60ムナ、1ムナ=100ドラクマ、1ドラクマ=6オボルスとされ、タラントンやムナは計算用の貨幣で実物は存在しなかった。

当時の貨幣論は、プラトンの『国家』、アリストテレスの『政治学』や『ニコマコス倫理学』などに見られる。また、アリストパネス紀元前405年に発表したギリシア喜劇の『』には、アテナイ市民の素姓の低下を貨幣の質の低下にたとえる箇所があり、当時の貨幣事情を反映しているとされている[49]

ローマ[編集]

紀元前240年から225年ごろのアス

古代ローマでは青銅貨のアスが最初に作られ、ギリシアの様式を用いた。ローマは銀行制度もギリシアから引き継ぎ、地域の取引のための両替を行った。帝政に入ると金銀複本位制となり、銀貨のデナリウスは当初98%の銀を含有していたが軍費調達や財政再建の目的で質は低下し、アウレリアヌス帝の頃には含有率3%以下まで下がりインフレーションを起こした[50]。帝政期にはインド洋交易が盛んになり、アウグストゥス帝からトラヤヌス帝の時代のアウレウス金貨やデナリウス銀貨が当時の遺跡から発見されている。アプレイウスによる2世紀の小説『黄金のロバ』には、当時の物価などの貨幣経済が忠実に書かれているという説もある[51]

デナリウス貨

ローマ帝国は兵士の給与に銀貨を大量に用いたため、地中海世界では銀貨、および銀貨を補う高額通貨の金貨、低額通貨としての銅貨が定着した。ローマ軍団兵の給与は「」で給付され、それがサラリーの語源であるとの説があるが俗説の域をでない。salariumは兵士ではなく高位の役職者に対して定期的に支払われる給与であり、なぜsal(塩)を語源にしているのかは文献的・歴史的には確定できない[52]

中世[編集]

ヨーロッパ[編集]

ローマ帝国崩壊後に西ヨーロッパを統一したフランク王国は、デナリウスを作って銀貨の重量を上積みし、度量衡の改革を行った。またカール大帝の時代には造幣権を国家の独占とした。その理由として、東方の金貨に対する対策、銀鉱の開発、飢饉時の穀物価格高騰に対する購買力強化などがあげられる。銀貨の上積みはその後も続いたため、小額取引用のオボルスも発行された[53]カロリング朝ではリブラという計算用の貨幣単位により、1リブラ=20ソリドゥス金貨=240デナリウス銀貨という比率が定められ、中世ヨーロッパの貨幣制度の基本となった。イングランドでは王の造幣権や計算体系は維持されたが、大陸諸国では領主や都市も独自の貨幣を発行し、同じ名称の貨幣でも異なる計算体系を用いるなど複雑になった[54]。東地中海では、東ローマ帝国ノミスマ金貨を発行し、ローマ帝国のソリドゥス金貨を引き継ぐものとして流通した。また、ヨーロッパにはイスラーム世界からの貨幣が流入し、ヴァイキングの交易によってスカンジナビアにもイスラーム貨幣が貯蔵された[55]

日常の取引で小額面の貨幣が必要とされたが、銀貨は高額だったため、西ヨーロッパ各地で商品貨幣に加えて信用取引が増加した。小規模な市場町では口頭で信用取引が行われ、10世紀からイスラーム世界の小切手や為替手形に接していたイタリアの諸都市では13世紀に預金銀行、為替手形と振替が出現した。13世紀には公証人の証書だったが、やがて信書により行われるようになる。両替商からは高利貸や銀行家として発展をとげる者が出始め、大銀行家から君主にもなったメディチ家もそのひとつである。預金銀行は中流商人による事業で、14世紀には大商人による小切手の原型が流通する。こうした手法は現金輸送の節約に役立ったが、貴金属の不足が続いて硬貨の供給は追いつかず、14世紀から15世紀にかけて深刻になった[56]

西アジア、アフリカ[編集]

ウマイヤ朝のディルハム貨

イスラーム帝国のウマイヤ朝は、東ローマ帝国サーサーン朝ペルシアから領土を獲得し、それぞれの金本位制と銀本位制を引き継いだ。アブドゥルマリクの時代に貨幣制度が整えられ、金貨のディナール、銀貨のディルハム、銅貨のファルスが定められた。ディナールは東ローマ帝国のノミスマにならいつつ、独自の重量を採用した。ディルハムはサーサーン朝のディレムにならって発行し、ファルスは小額取引用とされ、金貨と銀貨はダマスクスの造幣所で発行されて地方へ広まった[57]

金本位制と銀本位制の地域が領土に含まれたため、アッバース朝では金銀複本位制がとられた。やがて征服地に退蔵されていた金の利用、サハラ交易や金鉱での新たな金の獲得、そして技術の向上によって金貨の造幣が活発となり、9世紀からイスラーム世界では金貨が普及した。金貨は貿易の決済として重要とされ、長期間にわたって品位が保たれ、銀貨との交換比率が安定していた[58]

アッバース朝のもとで地中海やインド洋の商業は急増したが、次第に金銀の供給が不足したため、小切手、為替手形、銀行が普及した[59]。サッラーフと呼ばれる両替商は、小規模な業者はスークで両替や旧貨と新貨の交換を行い、大規模になると銀行業として王朝やマムルークなどに融資を行った。銀不足は10世紀ファーティマ朝時代に深刻化し、12世紀のアイユーブ朝時代には金貨の重量基準が変更され、かわって銀貨が中心となる。イスラーム世界における金銀の不足は、15世紀のエジプトでファルス銅貨のインフレーションと穀物価格の高騰などの経済危機につながる。銅貨はファーティマ朝時代には地方当局が発行できるようになっていたため重量が安定せず、しかもアイユーブ朝になると金銀貨との交換比率が定められ、貨幣制度が混乱した。さらにファルス銅貨とは別にディルハム銅貨という計算用の貨幣が導入されると貨幣相場の変動が激しくなり、実際にファルスを用いていた民衆に混乱をもたらした。当時のエジプトの歴史家マクリーズィーは、金銀を取引の中心にすえて貨幣政策を行うよう主張しており、これは現在の貨幣数量説に近い[60]

東アジア[編集]

北宋銭(左上3枚)南宋銭(その他)

唐の滅亡にともない五代十国時代になると銅の不足によって鉛貨や鉄貨も発行され、十国では硬貨の不足が激しく、鉛貨と鉄貨が中心となった。やがて中国を統一したは、悪貨や私鋳を取り締まる一方で銅貨の宋銭を大量に発行する。しかし物価は安定せず、銭荒と呼ばれた[61]。宋銭は、西夏高麗、日本、安南ジャワなどに流入し、貿易の他に各国のレートにもとづいて国内でも流通した[62]

モンゴル帝国銀錠と呼ばれる秤量銀貨と絹糸による税制を定め、13世紀にも引き継がれた。元は紙幣の交鈔を流通させつつ、貴金属の私的な取引を禁じ、銅貨の国内使用もたびたび禁じた。ただし管理貿易による貴金属輸出は続き、銀や銅はモンゴル帝国の領土拡大にともなってユーラシア大陸の東西を横断して運ばれた。イスラーム世界の銀不足は13世紀に解消され、14世紀から再び不足した。イギリスの銀貨発行は14世紀に急減し、イタリアでも銀不足が起きている。こうした現象は、元からの銀の増加と滅亡による停止が原因とされる[63][64]。宋銭が普及した地域では、不足すると私鋳銭により供給され、銅のほかに鉛で作られた質の低いものもあった[65]

日本では、日宋貿易からの宋銭の流入で硬貨が増えるにともない、利銭借銭と呼ばれる金融業も広まった。平安時代後期の12世紀には借上室町時代の中期には土倉酒屋などの金融業者が現れた[66]。宋銭は、日本でそれまでの現物納税にかわって硬貨で納税をする代銭納が普及するきっかけにもなった[67]

アメリカ[編集]

アンデス文明を統一したインカは、各地を編入する一方で、北方の貨幣や交易商人は全国的な制度に取り入れずに残した。北方では、3種類の貨幣が用いられていた。チャキーラと呼ばれる骨製のビーズ紐は、エクアドル高地で使われた。金貨にはチャグァルというボタン状のものがあった。アチャス・モネーダスと呼ばれる銅製の斧は、十進法にもとづいて作られてエクアドルやペルーの海岸で使われた[68]

近世・近代[編集]

メキシコドル、1894年

スペインのカスティーリャ王国は、アメリカ大陸の植民地化によって金銀を獲得し、16世紀にはスペインのエスクード金貨やレアル銀貨が国際的な貨幣として流通した。アメリカ大陸からの金銀流入は、価格革命と呼ばれる現象の一因とも言われる。各国から商人が集まっていたアントウェルペンが国際的な金融取引の中心となり、イタリアの諸都市に利益をもたらしていた取引の手法がさらに発展した。やがて16世紀後半からオランダの独立運動が盛んになり八十年戦争が起きるとアントウェルペンは衰退し、金融取引の中心はアムステルダムに移る。アムステルダムは17世紀に2種類の銀貨を発行し、銀の含有率が少ない国内用銀貨と、銀の含有率が高い貿易用の銀貨に分けられた[69]アムステルダム銀行は預金管理において計算用の貨幣で実在しないバンク・マネーを尺度に使い、複雑化していた西ヨーロッパの計算体系をまとめる役割も果たした[70]

中国では朱元璋の成立前から銅貨の発行を始めたが、銅不足のため銅貨は貿易用の貨幣となった。こうして永楽通宝宣徳通宝は海外へ流通し、日明貿易により室町時代の日本にも流入した。アメリカ大陸で採掘された貿易銀は、スペインのガレオン貿易で太平洋を経由して中国にも到達し、明は銀の交易圏に組み込まれる。特に16世紀以降は銀の流入が増え、銀の普及に大きな影響を与えた[71]。明は民間の富の蓄積を抑えるために銀の採掘を規制していたが、スペインがマニラへ運んだ銀が明にも5000トンほど持ち込まれ、貿易商人の豪華な生活は民衆の反発も招いた[72]

こうして明では銀と紙幣が貨幣として定着して銅貨発行が衰え、加えて日明貿易の断絶で日本向けの銅貨は停止する。日本では硬貨が不足し、硬貨を尺度とする貫高制から米を尺度とする石高制に移る一因にもなった[73]。17世紀以降の日本は貴金属の産出地となり、ポルトガルマカオ経由で日本と貿易を行った。17世紀前半に日本が支払った銀は、世界全体の産銀量42万キログラムのうち20万に達した。江戸幕府による鎖国令後は、ポルトガルに代わりオランダ東インド会社が日本との貿易によって金、銀、銅を取引した[74]

貿易銀のメキシコドルは国際貿易の決済通貨となり、19世紀から20世紀にかけて同量、同位の銀貨が各地で作られた。たとえば中国の銀元香港ドル、日本の円銀USドルシンガポールドル、ベトナムのピアストルなどがある[75]

紙幣[編集]

交子

中世には、名目貨幣である紙幣が登場した。紙幣は運びやすく、原料とコストの面で利点が多かったが、発行がしやすいためにインフレーションも発生しやすく、しばしば国家の弱体化につながった。現在の紙幣は、中央銀行が発行する銀行券と政府が発行する政府紙幣に大きく分かれるが、その他にも民間で紙幣が発行されてきた。

政府紙幣[編集]

世界初の紙幣は宋の交子とされている。当初は、銅が不足して鉄貨を用いていた四川において鉄貨の預り証として発行された。四川での成功を知った宋政府は交子の発行を官業とし、本銭(兌換準備金)や発行限度額を定めて交子を手形から紙幣に定め、1023年から官営の交子を流通させた。

至元通行寳鈔とその原版

北宋を倒したモンゴル帝国のオゴデイは、江南が勢力外だった当初は銅が不足したため紙幣の交鈔を発行した。モンゴル帝国はクビライの時代に皇帝直轄政権として元を成立させ、1260年に交鈔は法定通貨として流通を始める。交鈔の流通を拒んだり、偽造をする者は死罪となった。交鈔の製造法は、樹皮を薄くのばした上に銅版画を印刷し、皇帝の御璽を押して完成とするもので、300×200ミリを超えるサイズもあった[76]マグリブの旅行家イブン・バットゥータは『大旅行記』で交鈔を「紙のディルハム貨」と呼び[77]、ヴェネツィア商人のマルコ・ポーロは紙幣についての驚きを『東方見聞録』で語っている[78]

モンゴル帝国の地方政権であるイルハン朝では、西アジア初の紙幣としてチャーヴ(鈔)が発行された。1294年に君主のゲイハトゥが放漫財政の再建を目的としたもので、交鈔を参考に作られており漢字も印刷されていた。金属貨幣を禁止してチャーヴを流通させようとしたが、当時のイスラーム社会には定着せず、2ヶ月で回収となった。元の後に成立した明も、銅不足のため1368年に紙幣の大明宝鈔中国語版を発行した。明は紙幣を国内用、銅貨を貿易用の貨幣としたが、やがて紙幣は増発により価値が下がり、銅貨や秤量銀貨の国内使用も解禁となる[79]

欧米で初の政府紙幣は、アメリカ独立戦争13植民地によって発行された。13植民地はイギリスからの独立をするために大陸会議を招集し、独立戦争の戦費として1775年から1779年にかけて大陸紙幣英語版を発行した。この紙幣は13植民地の各州政府で発行され、メキシコドルでの交換を定めていたが、大量発行のためインフレーションを起こした。また急造のために偽造しやすく、イギリス軍によって妨害用の偽札も作られてインフレーションを悪化させた[80]

銀行券[編集]

ストックホルム銀行券

スペインがアメリカ大陸からもたらした金銀が一因となり、16世紀に価格革命と呼ばれる現象が進む。西ヨーロッパの価格は高騰し、人々は盗難や磨耗の危険を避けるために金銀を貴金属細工商である金匠に金庫に預け、預り証として証書を受け取った。この証書は金匠手形とも呼ばれて銀行券の原型となる。金匠手形は金額や発行者名などが手書きのものが流通したが、やがて金匠銀行は王室への巨額の貸付を回収できず破綻した[81]。スペインではサラマンカ学派が研究を進め、現在の貨幣数量説購買力平価説にあたる学説も主張された。

ヨーロッパで最初の紙幣は、1661年にスウェーデンで発行された。スウェーデンは戦費によって財政が疲弊して金銀が不足し、重量がかさんで取引に不便な銅貨を用いていた。その代わりとして民間銀行のストックホルム銀行英語版が銀行券を発行し、政府の承認を受けた[82]。のちにストックホルム銀行は破綻し、初の中央銀行であるスウェーデン国立銀行の設立につながる。

1694年にはイギリスで戦費調達や信用貨幣供給のためにイングランド銀行が設立され、最初の近代的な銀行券を発行する[83]。この銀行券は商業手形の割引に使用され、手形割引によって取引が拡大し、イギリスの国民経済は成長した。イギリスの産業は、18世紀にブラジルのミナスジェライス州で金鉱が発見されると綿製品の輸出で大量の金を獲得し、結果として国際的な金本位制につながってゆく[84]

その他の紙幣[編集]

17世紀の江戸時代の日本では、羽書をはじめとする商人や寺社が発行した私札や、各藩が発行する藩札などの地域通貨が流通した。18世紀以降の中国のにおいては、政府紙幣とは別に民間の紙幣である銭票も用いられた。銭票は穀物店、酒屋、雑貨屋などの商店が発行し、県を基本的な単位とする地域通貨として流通して鎮市などの市場町で用いられ、季節に左右される農産物取引の貨幣受給を調整する役割を果たした。銭票は20世紀まで続いて吊票とも呼ばれ、政府や商会に規制される場合もあった[85]

アラブ諸国などイスラームの影響が強い国では、紙幣の導入に時間がかかる場合があった。イスラーム経済に固有の事情により、交換するものは等量・等価でなければならず、素材として価値が高い金属貨幣が重視されたためである。1940年代半ばのアラブ諸国では多種類の金貨や銀貨の他に、貿易の決済やマッカ巡礼者の通貨交換用として英領インドのルピー紙幣が用いられた。サウジアラビアではリヤル銀貨を通貨としていたが、銀価格高騰による流出で通貨危機が発生したため、1953年には事実上の紙幣である巡礼者受領証を発行し、1961年に正式にリヤル紙幣を発行した。巡礼者用の紙幣は、サウジアラビアの他ではインドとパキスタンでも発行され、正式には外貨証券と呼ばれる[86]

国際金本位制[編集]

1817年 最初のソブリン金貨

近代的な金本位制は、法的に平価が定められ、金の裏付けをもとにして紙幣が発行される。金貨は本位貨幣と呼ばれ、金貨との交換が保証される紙幣を兌換紙幣と呼ぶ。兌換紙幣の発行は、発行者が保有する金の量に制約される[87]

金本位制が国際的に広まるきっかけは、1816年にイギリスの貨幣法で本位金貨のソブリン金貨が制定された時である。イギリスは1790年代から英仏戦争による物価の高騰で金準備が激減し、イングランド銀行は1797年に銀行券の金兌換を停止した。この時期には、銀行券の兌換再開をめぐって通貨学派銀行学派の論争が起き、地金論争と呼ばれている。やがて1816年の貨幣法により兌換が再開し、ソブリンは1817年から発行され、銀貨は補助貨幣となった。兌換は再停止をはさみつつ1821年に完全に再開し、1844年ピール銀行条例によってイングランド銀行は銀行券の発行を独占し、中央銀行となった[88]

国際金本位制の成立[編集]

イングランド銀行は公定歩合の操作によって金準備を安定させ、世界各地での産金の増加にともなってロンドンは金地金取引の中心となり、国際的な金融センターとして繁栄した。他の欧米諸国でも金本位制への切り替えが進み、19世紀後半にはイギリスのスターリング・ポンドを中心に国際金本位制が成立する。こうした状況で、中国は銀本位制を守り続けた。国際貿易が進展すると、世界各地で用いられていた伝統的な貨幣は基軸通貨や金との兌換性が高い通貨へ代わり、1国1通貨の制度が普及していった。

一方、国際貿易の進展により農産物の買付が増大すると問題も発生した。地域通貨が兌換紙幣へ代わったのちは、それまで地域通貨が吸収していた農産物の季節変動の影響を兌換紙幣が受けることとなった。1907年恐慌などの信用恐慌の影響も重なり、各国は紙幣の兌換準備が厳しく必要とされるようになる。これが世界各地の信用膨張につながり、在地金融は1920年代を頂点として不振が続いた[89]

国際金本位制の停止[編集]

1914年からの第一次世界大戦により、各国は戦費調達のために金本位制を停止し、政府の裁量で不換紙幣を発行する管理通貨制度に移行する。戦争により金属が不足し、ノートゲルトなどの地域通貨も発行された。金本位制は1919年のアメリカの金輸出解禁をはじめとして再開が進み、1922年ジェノヴァ会議では大戦後の貨幣経済について話し合われ、各国に金本位制再開を求める決議も出された。しかし金本位制を再開した各国は深刻なデフレーションに見舞われる。アメリカでの投機がもとで1929年世界恐慌が起きると、再び相次いで停止された。

ブロック経済[編集]

世界恐慌後の各国は、自国の経済を保護するためにブロック経済を進める。ブロックは通貨圏によって分かれ、英連邦を中心とするスターリングブロック英語版、アメリカを中心とするドルブロック、ドイツのライヒスマルクを中心とする中欧のブロック、フランスを中心に金本位制を最後まで維持したブロック、そして日本のを中心とする日満経済ブロックなどがある。この他に、ルーブルを通貨とするソビエト連邦が独自の経済圏を保っていた。ブロック内での関税同盟や、ブロック間の輸出統制、通商条約の破棄によって国際貿易は分断され、第二次世界大戦の一因となった[90]

ブレトンウッズ体制[編集]

第二次世界大戦中の1944年に、アメリカのブレトン・ウッズで44ヶ国による連合国通貨金融会議が開催される。大戦後の国際通貨制度の枠組みとしてブレトン・ウッズ協定が締結され、国際通貨基金国際復興開発銀行の創設が決定した[91]

ブレトン・ウッズ会議では世界経済の安定のために国際通貨についての提案がなされた。イギリスは超国家的な通貨としてバンコールを提案し、アメリカはUSドルのみが金との兌換を持つという提案をした。最終的にはアメリカ案をもとに運用が決まり、USドルが金との兌換を持ち、各国の通貨はUSドルとの固定相場制を取ることで価値を保証した。これは金為替本位制とも呼ばれ、基軸通貨と世界一の金準備を持つアメリカが金融センターの中心となった。

変動相場制以降[編集]

ニクソンショック[編集]

ブレトン・ウッズ体制により、国際通貨基金の加盟国はUSドルに対する自国通貨の平価を定めた。これにより各国は経済成長をとげる一方、アメリカは国際収支で赤字を続けながらドルを世界に供給する必要が生じた。しかし、アメリカの国際収支の赤字が続けばドルへの信認が低くなり、アメリカの国際収支が改善されればドルの安定供給が維持できない。これは当時トリフィンのジレンマ英語版とも呼ばれた。アメリカではベトナム戦争による財政支出とインフレが続いたためドルの価値が下落し、国際収支の赤字により金準備も減少する。こうして1971年にはUSドルと金との兌換は停止され、ニクソン・ショックと呼ばれた[92]

ブレトン・ウッズ体制は終了し、各国はUSドルとの固定相場制から変動相場制へと移行し、主要な通貨は実体経済の経済力を背景に価値を持つこととなった。ドルは金との固定相場による価値を失う反面で、金の束縛を離れた発行が可能となり、固定相場時代よりも国際間の資本移動が自由になった[93]。現在でも、外国資本の流入を促進するためにUSドルと固定相場制をとるドルペッグ制を採用したり、USドルそのものを自国通貨とすることで価値を保証している国がある[94]

現在では、国家は流通の安定のために法律によって貨幣に強制通用力を持たせている。これを特に法定通貨信用貨幣という。このため、交換の媒介として所定の通貨の使用を拒否することは通常できない。また、この法定通貨は支払完了性を有しており、取引を無条件に完了させる決済手段となる[95]。かつてはさまざまな銀行が銀行券を発行できたが、現在では中央銀行が銀行券の発行を独占している国が多い。中央銀行は、物価の安定、雇用の維持、経済成長の維持、為替レートの安定などを目的として金融政策を行っている[96]

欧州通貨統合[編集]

ヨーロッパでは、第二次世界大戦後に経済統合が進んだ。これは経済的な目的だけでなく、2度の世界大戦やブロック経済の問題をふまえて、安全保障に関わる政治的な目的も含んでいる。こうした歴史的な背景のもと、欧州通貨統合も進められた。1970年には通貨統合についての具体案が出され、1979年から欧州通貨制度が開始する。ドイツマルクを中心とし、参加国はマルクに対するレートを一定の枠内で固定した。1998年には欧州中央銀行を設立、1999年には共通通貨であるユーロを11カ国で導入した[97]。2015年1月1日時点のユーロ圏は19カ国となっている。

通貨危機[編集]

変動相場制による資本移動の規模の増大と加速化は、通貨危機の可能性を高めた。1992年にはポンド危機が発生し、イギリスは欧州為替相場メカニズム(ERM)を離脱した。欧州通貨制度では、参加国の為替レート維持は経常赤字国が負担していたため、マルクに対するポンドの切り下げが予想されたのが原因だった。1994年にはメキシコ・ペソが暴落し、メキシコ通貨危機が起きた。1997年には、タイ・バーツの切り下げが周辺諸国の通貨にも投機を招いた。投資を活発にするためにドルペッグ制をとる国が多く、タイの通貨危機が拡大してアジア通貨危機となった[98]

電子マネー[編集]

1990年代からは、電子決済のサービスである電子マネーが始まった。広義の電子マネーには前払いで既存の通貨から入金するプリペイド式と、クレジットカードと同様のポストペイ式がある。現在ではICカードに入金をする形態が普及している。電子マネーの特徴としては、購入情報の記録、小額決済の短縮化などがある[99]

イギリスのモンデックスは、1995年からプリペイド電子マネーの試験運用を始めた。銀行のATM公衆電話でチャージをして買い物に用いる仕組みで、その後にドイツやフランスでも電子マネーが発行されたが、大きな普及にはつながらなかった。アジアでは、香港の八達通をはじめ1990年代後半から交通機関を中心に電子マネーが普及し、日本でもプリペイド電子マネーの試験運用が始まる。2001年以降は、各国でタッチ式のプリペイド電子マネーの普及が進んでいる[100]

仮想通貨[編集]

法定通貨ではない貨幣として仮想通貨、もしくは暗号通貨があり、著名なものとしてビットコインが知られる。基本的にはデータとしてのみ存在し、暗号によってコピーを防止している。ビットコインはペーパーウォレットという紙に印刷をして保存も可能となっている。

ビットコインは、2009年サトシ・ナカモトという人物が執筆した論文をもとに開発された。Peer to Peer技術によって価値を保証され、中央銀行を介さない貨幣として限定的ながら国際通貨として流通している。国家の通貨のような強制通用力が存在しないが、国際決済にかかるコストが小額であり、匿名性や、国内で複数の通貨が使える利便性などが注目されている。2013年キプロス・ショックの際には、銀行預金の課税を逃れるためにビットコインを選ぶ人々が存在した。一方で、2014年にはビットコイン取引所の最大手であり東京都で事業を行っていたマウントゴックスで、ビットコイン消失事件も発生している[101]

特殊な貨幣[編集]

冥銭[編集]

冥銭副葬品に用いる貨幣を指す。中国古代では陶銭や紙銭が用いられ、のちにその文化が日本にも受け継がれた[102]。日本では六文銭や、近世の六道銭などが知られる[103]。中国、韓国台湾ベトナムでは、葬儀社などで冥国銀行券といった名称の葬儀用紙幣が用意されている。1930年の中国では額面が5円となっているが、その後高額化が進み、一般には存在しない額面となっている[104]。類似の慣習として古代ギリシアでは、地獄の川の渡し守であるカローンへの渡し賃として1オボルスを死者の口に入れた。

軍用手票[編集]

軍用手票とは、戦争の時に占領軍が占領地や交戦地で発行する通貨であり、軍票という通称で呼ばれる。軍票は19世紀にヨーロッパで始まり、占領軍は占領地で物資を徴発するかわりに、軍票で必要物資の調達や軍人への給料の支払いを行った。また、敵国の通貨の使用を禁止して経済を統制する目的もあった。占領軍の自国通貨を支払いにあてた場合は自国でのインフレの可能性があり、敵国通貨を禁止しなければ敵国から物資の調達などをされる可能性があるため、軍票が使用されてきた。発行された軍票は発行国の債務であり、終戦により一般通貨に交換することが必要となるが、戦勝国により敗戦国の軍票が無効とされる例も多い[105]

正式な軍票ではないが、同様の目的でアメリカ軍が1945年に沖縄の久米島で発行した貨幣として久米島紙幣がある。

大東島紙幣[編集]

沖縄の大東島において、20世紀初頭にこの地を所有し実質的に統治した玉置商会大日本製糖)が私的な紙幣を発行した。正式には南北大東島通用引換券と呼ばれ、本来は砂糖手形であったものが島の流通貨幣となった。別名を玉置紙幣ともいう。戦後、米軍軍政下で係争になり、その結果、農民は土地を得た。

炭坑切符[編集]

西表島において、大正 - 昭和戦前時代、強制収容的に仕事をさせ、「監獄部屋」とも称された民間の西表炭坑があった。日本人、台湾人らの労働者の脱走を防止する目的で、経営するいくつかの会社が炭坑切符(俗に「斤券」)という私的紙幣を発行した。当該会社の売店でのみ通用したので、脱走を防止する働きがあった[106]

ハンセン病療養所における通貨[編集]

かつて世界各地のハンセン病療養所やコロニー(Leper colony)において通貨が発行された。ハンセン病隔離施設の場合、菌を伝染させないためや、患者を隔離するのが目的だった。その後、必要性がなくなり廃止された。

特殊貨幣の多くは国家が作ったが、療養所が作ったところもあり、日本では多磨全生園などの療養所が作った。患者の入所時に一般の通貨は強制的に特殊通貨に換えさせられた。硬貨が一般的だが紙幣もあり、その場合は通し番号がついた。クーポン券といってもよい場合もあり、プラスチック製もあった。多磨全生園の場合、貨幣の製造は徽章などを製造する所に発注し、菌の伝染を防ぐために消毒された。日本の療養所の一部では、通帳を併用して貧困者への小遣いなどに利用した[107]。日本では種々の不正事件の発覚が契機となり、各療養所の通貨は昭和30年までに廃止された。廃止時に一般の通貨に換えられたが、米軍軍政下の宮古南静園では、一般の通貨とは換わらなかった。

貨幣の偽造の歴史[編集]

信用通貨と贋金の問題は貨幣の歴史と同じくらい古いとも言われる。価値の裏付けを金属に求めながら、地金価値と額面を厳密に一致させる本位貨幣制の確立は近代以降であり、近代以前の貨幣制度をそれで理解することは難しい。

金属貨幣はしばしば政府や領主などが貨幣発行益を得るために発行され、額面が地金の価値を上回ることがあった。貨幣発行益が大きい場合は贋金の横行を呼び、特に高額の貨幣が偽造され、権力者は取り締まりに苦慮した。和同開珎は銀銭の発行後1年以内に私鋳銭の禁令が出ており、偽造によって銀銭は廃止へ向かった。

紙幣の偽造では、初の紙幣とされる交子が990年頃に出たのちの神宗の時代(1068年1077年)には偽造に関する記述が見られる。日本最古の紙幣とされる羽書は1610年に発行されたが、1624年には偽札についての記述が見られる[108]。スウェーデンのストックホルム銀行券は1661年に始まり、1662年1664年には偽造銀行券が出回っていた[109]。大規模な紙幣偽造としては、ポルトガルの公文書を偽造してエスクド紙幣を500万ドル相当印刷させた事件がある[110]

鋳造貨幣や紙幣以外の偽造もあり、たとえばアステカでは、通貨として使われていたカカオ豆が偽造されていたという記録がある[111]

年表[編集]

出典・脚注[編集]

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  2. ^ ポランニー (1977) 第9章
  3. ^ 栗本 (2013) 第8章
  4. ^ 山田 (2000) p17
  5. ^ 坂井 (1999) p230
  6. ^ ポランニー (1977) 第9章
  7. ^ 柿沼 (2015) p186
  8. ^ 名城 (2008)
  9. ^ 湯浅 (1998) p39
  10. ^ 山本・山本 (1996)
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  18. ^ 黒田 (2014) p50
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  22. ^ 柿沼 (2015) p43
  23. ^ 前沢 (1998) p12
  24. ^ 植村 (1994) p299
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  26. ^ 植村 (1994) p25
  27. ^ ポランニー (1977) 第9章
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参考文献[編集]

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  • アリストパネス 『蛙』 高津春繁訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1984年。
  • 逸身喜一郎 『ラテン語のはなし』 大修館書店、2000年。
  • 猪木武徳 『戦後世界経済史 - 自由と平等の視点から』 中央公論新社〈中公新書〉、2009年。
  • 岩田規久男 『金融』 東洋経済新報社、2000年。
  • 植村峻 『お札の文化史』 NTT出版、1994年。
  • 植村峻 『贋札の世界史』 日本放送出版協会、2004年。
  • 大田由紀夫 「一ニ-一五世紀初頭東アジアにおける銅銭の流布 - 日本・中国を中心として」(『社会経済史学』 61巻2号、1995年。)
  • 岡田仁志 『電子マネーがわかる』 日本経済新聞社〈日経文庫〉、2008年。
  • 岡田仁志・高橋郁夫山崎重一郎 『仮想通貨 - 技術・法律・制度』 東洋経済新報社、2015年。
  • カウティリヤ 『実利論 (上)』 上村勝彦訳、原實解説、岩波書店〈岩波文庫〉、1984年。
  • 柿沼陽平 『中国古代の貨幣 - お金をめぐる人びとと暮らし』 吉川弘文館、2015年。
  • 加藤博 『文明としてのイスラム』 東京大学出版会、1995年。
  • 加藤博 『イスラム経済論』 書籍工房早山、2010年。
  • ケヴィン・グリーン 『ローマ経済の考古学』 本村凌二監修、池口守・井上秀太郎訳、平凡社、1999年。
  • 栗本慎一郎 『経済人類学』 講談社〈講談社学術文庫〉、2013年。
  • 黒田明伸 「16・17世紀環シナ海経済と銭貨流通」(歴史学研究会編 『越境する貨幣』 青木書店、1999年。)
  • 黒田明伸 『貨幣システムの世界史 - 〈非対称性〉をよむ(増補新版)』 岩波書店、2014年。
  • ソフィー・D・コウマイケル・D・コウ 『チョコレートの歴史』 樋口幸子訳、河出書房新社、1999年。
  • ベンジャミン・コーヘン 『通貨の地理学 - 通貨のグローバリゼーションが生む国際関係』 宮崎真紀訳、シュプリンガー・フェアラーク東京、2000年。
  • 小林登志子 『五〇〇〇年前の日常 - シュメル人たちの物語』 新潮社〈新潮選書〉、2007年。
  • 小林登志子 『文明の誕生 - メソポタミア、ローマ、そして日本へ』 中央公論新社〈中公新書〉、2015年。
  • 小林正宏中林伸一 『通貨で読み解く世界経済 - ドル、ユーロ、人民元、そして円』 中央公論新社〈中公新書〉、2010年。
  • 坂井信三 「西アフリカの王権と市場」(佐藤次高岸本美緒編 『市場の地域史』 山川出版社、1999年。)
  • 佐々木史郎 『北方から来た交易民』 日本放送出版協会、1996年。
  • 佐藤圭四郎 『イスラーム商業史の研究』 同朋社、1981年。
  • 鈴木公雄編 『貨幣の地域史 - 中世から近世へ』 岩波書店、2007年。
  • 瀧澤武雄西脇康編 『日本史小百科〈貨幣〉』 東京堂出版、1999年。
  • 種村季弘 『詐欺師の楽園』 河出書房新社〈河出文庫〉、1990年。
  • テレンス・N・ダルトロイ 「インカ帝国の経済的基盤」竹内繁訳(島田泉篠田謙一編 『インカ帝国 - 研究のフロンティア』 東海大学出版会〈国立科学博物館叢書〉、2012年。)
  • 角谷英則 『ヴァイキング時代』 京都大学学術出版会〈学術選書〉、2006年。
  • 東野治之 『貨幣の日本史』 朝日新聞社〈朝日選書〉、1997年。
  • 冨田昌弘 『紙幣の博物誌』 筑摩書房〈ちくま新書〉、1996年。
  • 名城邦夫 「中世後期・近世初期西ヨーロッパ・ドイツにおける支払決済システムの成立 - アムステルダム市立為替銀行の意義」 名古屋学院大学論集社会科学篇 第45巻 第1号、2008年。
  • 名城邦夫 「市場の貨幣史 - 資本主義世界経済成立過程における貨幣システムの革新」 名古屋学院大学論集人文・自然科学篇 第50巻 第2号、2014年。
  • イブン・バットゥータ 『大旅行記(全8巻)』 イブン・ジュザイイ編、家島彦一訳、平凡社〈平凡社東洋文庫〉、1996-2002年。
  • 濱下武志 「通貨の地域性と金融市場の重層性」(佐藤次高・岸本美緒編 『市場の地域史』 山川出版社、1999年。)
  • 深田淳太郎 「パプアニューギニア、トーライ社会における貝貨タブをめぐる現在の状況」 くにたち人類学研究vol.1、2006年。
  • ティモシー・ブルック 『フェルメールの帽子 - 作品から読み解くグローバル化の夜明け英語版』 本野英一訳、岩波書店、2014年。
  • カール・ポランニー 『経済の文明史』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2003年。
  • カール・ポランニー 『人間の経済 1』 玉野井芳郎・栗本慎一郎訳 / 『人間の経済 2』 玉野井芳郎・中野忠訳、岩波書店〈岩波モダンクラシックス〉、2005年。
  • 前沢伸行 『ポリス社会に生きる』 山川出版社、1998年。
  • 三木健 『沖縄・西表炭坑史』 日本経済評論社、1996年。
  • 森幹郎 『証言・ハンセン病』 現代書館、2001年。
  • 山田勝芳 『貨幣の中国古代史』 朝日新聞社〈朝日選書〉、2000年。
  • 山田雅彦 「カロリング朝フランク帝国の市場と流通」(山田雅彦編『伝統ヨーロッパとその周辺の市場の歴史』 清文堂、2010年。)
  • 山本泰山本真鳥 『儀礼としての経済』 弘文堂、1996年。
  • 湯浅赳男 『文明の「血液」 - 貨幣から見た世界史(増補新版)』 新評論、1998年。
  • 四日市康博 「銀と銅銭のアジア海道」(四日市康博編著 『モノから見た海域アジア史 - モンゴル〜宋元時代のアジアと日本の交流』 九州大学出版会、2008年。)
  • ヨーロッパ中世史研究会編 『西洋中世史料集』 東京大学出版会、2000年。
  • Kakinuma ,Yohei. The Emergence and Spread of Coins in China from the Spring and Autumn Period to the Warring States Period. In. Bernholz, P. & Vaubel, R. eds. Explaining Monetary and Financial Innovation: A Historical Analysis. Switzerland: Springer. 2014.
  • Jerry Leach and Edmund Leach The Kula: New Perspectives on Massim Exchange. Cambridge University Press, New York. 1983.
  • Roger R. Mcfadden, John Grost, Dennis F. Marr: The numismatic aspects of leprosy, Money, Medals and Miscellanea, D. C. McDonald Associates, Inc. 1993.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]