会計史

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会計史(かいけいし)では、会計歴史について取り扱うものとする。

学問としての会計史[編集]

学問としての会計史は、そもそも史学として認識されているのかさえも微妙なところである。そもそも会計学自体が歴史の浅い学問のせいか、歴史研究としては学者に興味を持たれたのも最近のことであるため、未だに発展途上にあり今後の研究に期待がかかる。

古代オリエント[編集]

世界で最古の文明を生み出したオリエント地域で会計の萌芽が見られた。エジプトバビロニアアッシリアなど複雑な統治機構を有した国家と広範囲にわたる商業網が形成されていた。だが、貨幣に相当するものは存在せず、それ以前の段階の代用貨幣である穀物貨幣などの軽貨類が交換手段としてあるいは国家の歳入歳出の手段として用いられていた。そのため、そうした物資の正確な数量把握が必要とされていた。

エジプトでは紀元前4000年頃より国家機構が形成されて金銀銅以下家畜や穀物、油類までが租税として徴収され、地方の租税は腐敗の怖れの高いものは地元での行政に支出され、それ以外の物が中央のファラオの倉庫に送られて物資ごとに収められた。これらの倉庫を管理するために会計記録官(スレイラブ)をはじめとする記録官、人夫が配置されて租税として収納された物資の管理及び支出を担当した。会計記録官は読書・計算・行政法の知識に通暁し、パピルスに葦草の筆で記録した。紀元前2世紀頃の会計に関する記録がミイラの中に収蔵されて出土されている。

商業が盛んであったバビロニアでは紀元前3500年の会計記録が存在しており、エジプト同様の公的会計の仕組が成立していた。バビロニアの会計記録官は契約成立時の立会人としての役割を果たし、時には粘土板上に契約内容を刻んで債権者に手渡し、万が一の際の保証とした。また、バビロニアの商業は神殿・寺院を中心に運営され、寺院財産の財産目録には寄付だけでなく寺院が直接商業や金融業を手がけていたことが明らかになっている。多くの財貨が神殿に預けられ、神官はその管理・運営に大きな発言権を有した。

古代ギリシア・ローマ[編集]

ギリシアローマ時代になると既に貨幣が登場していた他、多くの出土資料によって会計技術が確立されていたことが明らかになっている。富は神の財産と考えられて神殿などの宗教施設に大部分が蓄積された。だが、実際の管理権は神殿の神官ではなく、国家が責任をもっていた。デロス島の神殿跡から紀元前180年頃の会計記録が発見されており、租税収入や賃貸料、貸付金金利、賃金や祭祀のための支出などの記録が記されている。

ローマの国庫の大半はサツヌルス神殿の地下にあったサツヌルス金庫(aerarium saturni)にて一元的に管理されていた。管理の責任者は財務官であったが、財務官と言えども元老院の許しがなくその中身を動かすことは出来なかった。ローマ時代には備忘帳や会計日記帳に相当するアドヴルサリア(adversaria)が存在し、更に元帳に相当するコデックス(codex)も用いられた。また、貸方・借方の概念もこの時代に発生したとされている。

当時多額の資産を持つローマ貴族は自らが市場で株の購入や貸付などの投資行った場合は選挙権などが剥奪される等厳しい仕組みになっていた。それを逃れるために貴族は奴隷を雇い、奴隷たちに一部の資産を与えて投資をさせていた。出資者である貴族は奴隷に投資をした記録などを残すよう命じた。これぞ現代の会計の目的であるある企業(奴隷)が株主(貴族)に対し企業の財務状態を明らかにするのと全く同じであり、会計の原点である。もっとも当時は単に不正や持ち出しがないかチェックをするための簡単な現金出納帳ではあったが。

封建社会[編集]

9世紀頃の修道院では所領を管理するための所領明細帳(polyptique)が作成され、初期の記帳法が形成されていた。

11世紀イギリスでは封建国家が形成されていた。国王が領主に土地、労働者の管理権限を与え、領主に財産を委託した。ここでも企業(領主)、株主(国王)の関係がある。領主の代理人である荘園執事は、自分の活動を記録する責任負担、責任解除計算書たるものが作成されていた。

荘園の経営は複雑で、領主から任命された執事が荘園の管理責任者であり、村役人は荘園内の全般的な監督に当たった。するとここに会計が必要となる。領主は荘園の経営状態や執事などの働きぶりをチェックするため、執事や村役人は自分の仕事が果たせられているかを証明するためである。そこで領主が執事に荘園の収入を適切に計算するための責任負担、責任解除計算書を記入するよう命じた。

この計算書は、現金計算書穀物表家畜表からなっていた。現金計算書は名の通り地代、販売収入を細かく記入されていた。穀物、家畜表は生産物を記録していた。 現金計算書には「責任負担」項目と「責任解除」の二項目からなる。「責任負担」項目はいわゆる収入、「責任解除」項目がいわゆる支出である。また、このころからすでに未払いの地代など未払金、未収金も記録されていた。まさしく損益計算書の原点であるともいえる。最も計算書を作る目的は領主に納入するための総額を示すためのものであり株主に一定期間の経営状態を明らかにするための現在の損益計算書とは意味合いが全く違うが。

さらに計算書には領主から委託された監査人が計算書をチェックしていた。これも現在の会計監査と全く同じと言ってもいい。

中世ヨーロッパ[編集]

ローマ帝国滅亡後の中世は長年、暗黒時代と考えられてきたが、近年では過剰な評価とされ、商業活動は衰退したのは事実であるが、全く途絶してしまったわけではなかった。この時期には会計の大きな発展は見られなかったが、ノルマン朝イングランドにおいては大蔵省が『収支簿』(パイプ・ロールen))と『土地調査簿』(ドゥームズデイ・ブック)を作成して財政記録を整備するなど、統一的・科学的な会計記録方式の萌芽が見られている。

13世紀末期から14世紀初頭のイタリアにて、これまでの単式簿記に替わる複式簿記の基礎が形成されたと言われている。それを体系化・理論化したのはルカ・パチョーリの著書スムマ(算術、幾何、比および比例に関する全集)であるとされている。複式簿記自体はそれ以前からあったが、これを知識として形にしたパチョーリの功績は大きく、「会計の父」の名に相応しいと言える。これと相前後してヨーロッパにおいてアラビア数字が普及して従来のローマ数字に取って代わり、記帳の簡便性が増したことで、会計技術の更なる進歩を促した。

パチョーリ以後[編集]

スムマ以降の簿記に関する本は学問としての簿記の本ではなく、いわゆる実務書、解説書であった。スムマ以降簿記の理論が新たに作られたり、学者などが研究するようなことはなかった。逆に言えばそれだけ簿記の基礎を作り上げたスムマの貢献度は非常に大きかったといえる。

16~17世紀オランダ[編集]

当時のオランダは商業の発達したいわゆる黄金時代にあり、オランダ東インド会社など大規模な組織の設立もあり簿記の研究がどんどん発達していた。 オランダの二大簿記書に、ジャン・イムピンの「新しい手引き」(1543年発行)、とシモン・ステヴィンの「数学の伝統」(1605年発行)がある。イムピンの書には決算日に在庫を繰り越す期間損益計算の概念が取り入れられている。さらにステヴィンの書には年度ごとの損益を比較するための年次期間損益計算の概念が取り入れられていた。

18世紀~19世紀イギリス[編集]

参考文献[編集]

  • 片岡義雄「会計史」(『社会科学大事典 3』(鹿島研究所出版会、1968年))

関連項目[編集]