西楚
西楚(せいそ、紀元前206年 - 紀元前202年)は、中国の秦の滅亡後から前漢成立の間にかけて存在した国。項羽によって建国されたが、楚漢戦争で漢王劉邦に敗れたことで僅か4年ほどで滅亡した。正式な国号は「楚」であるため、単に楚とも表記される。
項羽は旧楚を復興させ、諸王の上に君臨する「覇王」として中国の支配を試み、秦朝の中央集権的な官僚制度や郡県制を廃し、復古的な封建制を施行した。
司馬遷の『史記』によるとその領土は楚と梁の旧領9郡である。同書で項羽は、「年代順の統治者の記録」である「本紀」に立てられているが、短命政権だったこともあり、中国史において「王朝」と扱われることはまずない。
歴史
[編集]天下大乱
[編集]紀元前210年、中国統一を成し遂げた秦の始皇帝が崩御すると二世皇帝に胡亥が即位したが、先帝の時代を上回る苛酷な暴政によって民衆の反秦感情は極限に達し、紀元前209年7月についに陳勝と呉広が蜂起し、中国史上初の大規模な農民反乱が勃発した(陳勝・呉広の乱)。これに呼応して多くの実力者が挙兵し、秦の支配に反旗を翻した。旧楚の名門出身の項梁もその一人で、甥の項羽と共に挙兵し、たちまち諸侯勢力の有力者として名を馳せた。項梁は楚の復興を目指し、楚の懐王の孫の熊心(号は祖父と同じく懐王、後に義帝)を探し出し、楚王として擁立した。
秦の滅亡
[編集]紀元前208年、秦の章邯によって項梁が討ち取られ、反秦勢力に動揺が生じた。懐王は「先に秦の本拠の関中に入り、平定した者をその地の王とする(懐王の約)」と諸侯に唱え、戦意を鼓舞した。
項羽は秦を直接滅ぼすために関中への進攻を望んだが、懐王は秦の攻撃を受けている趙の救援を項羽に命じ、一方で劉邦には関中攻めを命じた。劉邦に西進して関中に入り、秦の国都咸陽に到達した。この時、胡亥は既に趙高に殺害されており、趙高は後継の秦王子嬰に殺害されていた。子嬰は劉邦に降伏し、紀元前206年に秦は滅亡した。劉邦は秦の苛烈な法律を廃止して自ら法三章を定め、秦の民衆の支持を得た。趙の救援に向かった項羽は鉅鹿の戦いで秦の主力軍を壊滅させ、その名声は天下に轟き、従える兵力は40万以上に達していた。
西楚覇王
[編集]秦の滅亡後、項羽も軍を率いて関中に入り、劉邦との鴻門の会を経て、咸陽に入城した。項羽は関中王の約を果たす機会を逸したことで懐王を恨み、「義帝」の尊号を贈りながらもその意に叛くようになった。そして項羽は軍功と軍事力を背景に諸侯勢力の盟主的な地位を確立し、自ら功績があると判断した18人の諸侯を王に分封した(項羽十八諸侯)。項羽自身は「西楚」を建国し、自らを「西楚覇王」と号した。項羽によるこの分封は諸侯に不満を抱かせ、特に懐王の約を半ば破り、劉邦を巴・蜀・漢中を領地とする漢王に封じたことは最たる不義であった。項羽は西楚に出立するにあたり、義帝を僻地の長沙郡郴県に移転させ、密命を下してその道中で殺害させた。漢王劉邦は西楚覇王項羽と中国の支配権を争うことを決意し、同年に楚漢戦争が勃発した。
西楚の滅亡
[編集]紀元前202年、項羽は垓下の戦いで漢を中心とした諸侯連合軍に敗れ、自決した。これにより西楚は滅亡し、その領土は漢に併合された。
西楚について
[編集]項羽の領土は旧楚の東方に位置するため、その号が西楚覇王である理由については議論がある。『史記』貨殖列伝に「淮河以北、沛・陳・汝南・南郡は西楚。彭城より東、東海・呉・広陵は東楚。衡山・九江・江南・豫章・長沙は南楚」とあり、『史記集解』が引用する孟康の注釈では、「旧来、江陵を南楚、呉を東楚、彭城を西楚と呼んだ」とある。よって西楚とは彭城の伝統的地域名であり、その彭城を都と定めたことが由来の可能性が考えられる。