フィル・スペクター

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フィル・スペクター
Phil Spector
出生名 Harvey Phillip Spector
生誕 (1940-12-26) 1940年12月26日(83歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニューヨーク州ニューヨーク
ジャンル ポップガールポップロックパンク・ロック
職業 音楽プロデューサーソングライターセッション・ミュージシャン
担当楽器 ギターピアノ
活動期間 1958年 - 2009年
レーベル フィルズ・レコード
共同作業者

テディ・ベアーズ
ベン・E・キング
ジーン・ピットニー
ザ・クリスタルズ
ダーレン・ラヴ
ボブ・B・ソックス&ザ・ブルージーンズ(英語版)
ザ・ロネッツ
ザ・レッキン・クルー
ライチャス・ブラザーズ
アイク&ティナ・ターナー
ビートルズ
ジョージ・ハリスン
ジョン・レノン
レナード・コーエン
ラモーンズ

スターセイラー(英語版)
公式サイト www.philspector.com

ハーヴェイ・フィリップ・スペクター(Harvey Phillip Spector、1940年12月26日 - )は、アメリカ音楽プロデューサー1960年代から70年代にかけて「ウォール・オブ・サウンド」と称されるプロデュースで、ポピュラー音楽の分野で大きな足跡を残した。

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第64位。

略歴

ニューヨーク市ブロンクスにてロシア系アシュケナジムの家庭に生まれた。父の死後にロサンゼルスに移住。十代の頃から音楽活動を始め、ザ・テディ・ベアーズ(英語版)を結成。「会ったとたんに一目惚れ(To Know Him Is To Love Him)」が全米1位のヒットとなった。しかし彼はすぐにバンド活動よりも音楽制作の方へと興味が移り、音楽プロデューサーとしての活動を始める。

1961年レスター・シルと共にフィレス・レコード(レーベル名は二人の名前 Phill + Les から)を設立。1963年ザ・ロネッツの『ビー・マイ・ベイビー』がヒット。多人数のスタジオ・ミュージシャンを起用し、独特の音響を持つゴールド・スター・スタジオ(英語版)にて録音された複数のテイクを重ねていく作業(オーバーダビング、オーバーダブ)を何度も繰り返して作られた重厚な音は、当時としては非常に斬新なものであった。

この「ウォール・オブ・サウンド(音の)」と呼ばれたスペクターの音作りは、音楽制作者やミュージシャンに大きな影響を与えた。当時はまだ録音技術が発展途上だったゆえ、この手法での録音作業は完成までかなりの時間と労力を要したが、スペクターは偏執的なまでに理想とするサウンド作りにこだわった。また、ステレオ録音が主流となってもモノラルにこだわり続けたところに、彼の偏執ぶりがよく現れている。1963年アルバムクリスマス・ギフト・フォー・ユー・フロム・フィル・スペクター』はクリスマスアルバムの定番として有名であり、クリスマスソングをウォール・オブ・サウンド一色にデコレートしたコンセプト・アルバムであると見る向きもある。

スペクターは早い時期からザ・ビートルズと親交があり、1970年発表のアルバムレット・イット・ビー』のプロデュース(「ゲット・バック・セッション」の再プロデュース)を手がけた。ジョン・レノンジョージ・ハリスンはビートルズ解散寸前の散漫なセッション録音集を一作品として短期間のうちにまとめ上げたスペクターの手腕に感銘を受け、それぞれのソロ・アルバムでプロデューサーに彼を起用している。しかし、ポール・マッカートニーは特に「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」にオーケストラコーラスをオーヴァー・ダブするなどしたスペクターの再プロデュースを「オリジナルコンセプトを無視した過剰プロデュース」として強い不満を持ち、憤慨した。

スペクターは1970年代以降もプロデューサーとして活動していたが、作業中に意見の対立したレノンに向けて拳銃で脅したり、出来が気に入らないマスターテープを勝手に持ち帰って雲隠れしたりといった奇行が目立ち、また麻薬を常習するなどして実力のほどは低迷し、1980年ラモーンズのアルバム『エンド・オブ・ザ・センチュリー』をプロデュースして以降は第一線から退いた。1989年ロックの殿堂入り。

2003年2月、自宅で女優ラナ・クラークソン射殺した容疑逮捕される。スペクターは彼女が自殺を図ったと主張して容疑を否認し、その後保釈されている。2007年9月26日ロサンゼルス地裁の陪審団は有罪か無罪かを判断できない「評決不能」を宣言した。2009年4月13日、検察の申し立てを受けた2度目の審理で、ロサンゼルス郡地裁の陪審により、第2級殺人罪で有罪の評決が出された。 同年5月29日禁固19年の判決が言い渡され、現在はカリフォルニア州立刑務所の薬物中毒治療施設に収監されている。

ブライアン・ウィルソン大瀧詠一山下達郎も彼の影響を大きく受けている(大瀧は評伝の日本語版を監修)。

プロデュースしたミュージシャン

関連項目

外部リンク