学校法人慶應義塾
学校法人慶應義塾(がっこうほうじんけいおうぎじゅく)は、日本の学校法人。福澤諭吉が1858年に江戸(現在の中央区明石町)で開いた蘭学塾が起源。明治後期には同人社(のち明治20年代に廃校)、攻玉塾(現・攻玉社中学校・高等学校)と合わせて、「三大義塾」として並び称された。シンボルマークはペンマーク。2011年現在までに大学1校(10キャンパス)、高等学校5校(うち海外教育機関1)、中学校3校、小学校と各種学校各1校を擁する日本有数の規模を誇る学校法人となっている。
目次 |
[編集] 塾訓
- 独立自尊
- 従来の日本の門閥制度や官僚主義を良しとせず、欧州において政府から独立した中産階級(「ミッヅルカラッス」)が国家を牽引し発展させるあり方に独立国のモデルを見た福澤は「一身の独立なくして一国の独立なし」[1]と論じ、まずは各人の独立を旨とし、塾訓とした。
- 実学の精神
- 「常に学問の虚に走らんことを恐」れた福澤が慶應義塾の理念として掲げた指針。これは「実際に役に立つ学問」の意味である誤解されがちであるが、福澤は単なる知識に終わらず、物事の本質や理念や仕組みを理解した上で体得する学問のことを指している。どうやら福澤が意図したものが今日に言う「科学」のことであることは、「実学」の語に「サイヤンス」とルビを振っていることからも分かる[2]。「役に立つことを主眼に置く学問」が実学と見なされることが多く、今日その意味でも流通しているが、福澤は、新しい事物や事柄の表層だけをなぞって実際的な利便だけを追求する学問については、特に語学、工学の勉学における失敗例を挙げながら、こうしたものを軽薄な虚学として福澤は退けている。こうした、基礎学力がないとどんな知識もものにならないとの考えから福澤は学びの手順を明確に示しており(「学問の目的を爰に定め、其術は読書を以て第一歩とす。而して其書は有形学及び数学より始む。地学、窮理学、化学、算術等、是なり。次で史学、経済学、脩身学等、諸科の理学に至る可し。何等の事故あるも此順序を誤る可らず」[3])、この考え方は慶應義塾だけではなく、近代日本の学制の制定に大きく影響している。他に建学理念に「実学」をうたう大学は数多くあるが、英吉利法律学校(現・中央大学、創立者増島六一郎らと共に、馬場辰猪ら福澤門下が前身である三菱商業学校と明治義塾にて教育)、商法講習所(現・一橋大学、創設に際して福澤が森有礼に助力)、東京専門学校(現・早稲田大学、創立に際して矢野文雄が助力)には福澤の間接的影響があり、今日でも残っている例である。
- 半学半教
- ある程度学びを修めた者が後生を教え、学び合い教え合う理念であり制度。私塾としての財政圧迫を救い、塾生の学費を低く抑えるねらいがあった(「社中素より学費に乏しければ、少しく読書に上達したる者は半学半教の法を以て今日に至るまで勉強したることなり。此法は資本なき学塾に於て今後も尚存す可きものなり」[4])。やがて社中協力の重要な理念として残ってゆく。塾中に先生と呼ばれるのは福澤諭吉一人で、塾生、教員、義塾社中を、正式行事に際して、時にはニックネーム的に、みな互いに「〜君」と呼び合う習慣はここに発しており、今日も残っている。同時に、卒業者も教員も学び続けるのをやめてはいけないと釘を刺す訓辞でもある(「然るに年月の沿革に従ひ、或は社中の教師たる者、教場の忙しきに迫られ、教を先きにして学を後にするの弊なしと云う可からず。方今世上の有様を察するに、文化日に進み、朋友の間にても三日見ずして人品を異にする者尠なしとせず。斯る時勢の最中に居て、空しく一身の進歩を怠るは学者のために最も悲しむ可きことなり。故に今より数年の間は定めて半学半教の旨を持続せざる可らず」[5])。
- 社中協力
- 元々慶應義塾の経営難に際して資金を調達するために苦肉の策として作った結社としての制度であり、一私塾を法人化するきっかけともなった(当時福澤は「会社」と命名)。これが教員、塾生、塾員を慶應義塾社中として助け合い協力するという理念に発展した。これは、たびたびに渡る慶應義塾の廃学の危機を救うと共に、日本中の大学が同窓組織を作る先駆的な例となった。
- 一貫教育
- 慶應義塾では幼稚舎から大学・大学院に至るまで一貫教育を行っており、義塾自身もこの一貫教育という手法を自らの特徴として位置づけている[6]。慶應義塾は小学校、中学校、高等学校、大学・大学院の各段階に相当する学校を複数設置しており、特に小学校から高等学校に至る各学校を「一貫教育校」と呼んでいる。これら一貫教育校では、全員が慶應義塾大学に進学することを前提としたカリキュラムにより教育が行われており、大学受験の指導などは一切行われていない。そして、ひとたび一貫教育校に入学すれば、高等学校の課程を一定の成績を得たうえで卒業することを条件に、全員無試験で慶應義塾大学に進学することができる(「塾内進学」、あるいは「内部進学」という。)。大学の各学部学科には塾内進学者の定員が設けられており、進学希望者の数がその定員をオーバーした場合には、当該進学希望者の学業成績順で入学者が決定される。そのため、成績が足りないという理由で希望の学部学科に進学できない者もいる。その場合は、空きのある第2志望以下の学部学科へ入学することになる。なお、必ず慶應義塾大学に進学しなければならないという制約はなく、推薦を辞退したうえで他大学を受験することは可能である(医学部進学希望者は慶應義塾大学への推薦入学権を留保したまま他大学の医学部を受験できるなど、一定の例外はある。詳細は各一貫教育校のホームページを参照のこと。)。
- 塾生皆泳
- 慶應義塾には『塾生皆泳』という言葉があり、「泳ぐ技能を身につけることが、人として備えるべき重要な素養のひとつである」という水泳教育の理念がある。塾生は水泳技術を身につけ、泳げないことが理由で命を落としたり、溺れている人を救えないことがないように、というのがその教えである。
[編集] 設置している大学・学校等
[編集] 大学
- 慶應義塾大学(三田、日吉、矢上、信濃町、湘南藤沢、芝共立、新川崎タウンキャンパス、鶴岡タウンキャンパス、浦和共立、慶應大阪リバーサイドキャンパス、慶應丸の内シティキャンパスの各キャンパス) - 男女共学
[編集] 高等学校
- 慶應義塾高等学校(神奈川県横浜市) - 男子校
- 慶應義塾女子高等学校(東京都港区) - 女子校
- 慶應義塾志木高等学校(埼玉県志木市) - 男子校
- 慶應義塾ニューヨーク学院(ニューヨーク州ウェストチェスター郡) - 男女共学
- 慶應義塾湘南藤沢高等部(神奈川県藤沢市) - 男女共学、中高一貫校
[編集] 中学校
- 慶應義塾普通部(神奈川県横浜市) - 男子校
- 慶應義塾中等部(東京都港区) - 男女共学
- 慶應義塾湘南藤沢中等部(神奈川県藤沢市) - 男女共学、中高一貫校
[編集] 小学校
[編集] 各種学校
- 慶應義塾外国語学校(東京都港区)
[編集] 過去に設置していた学校
- 大阪慶應義塾(1873年 - 1875年) → 徳島慶應義塾(1875年 - 1876年)
- 京都慶應義塾(1874年 - 1875年)
- 慶應義塾医学所(1873年 - 1880年)
- 慶應義塾夜間法律科(夜間・1879年 - 1880年・同科を開設した相馬永胤ら4名が独立、専修学校に統合される形で閉鎖)
- 慶應義塾商業学校(夜間・1891年 - 1948年)
- 慶應義塾商工学校(1905年 - 1948年) → 慶應義塾中等部
- 慶應義塾日吉工業学校(旧・藤原工業学校、1943年 - 1945年) + 慶應義塾三田工業学校(1944年 - 1945年) → 慶應義塾工業学校(1945年 - 1948年)
- 慶應義塾大学予科(1920年 - 1949年)
- 慶應義塾高等部(大学専門部・1922年 - 1946年)
- 慶應義塾獣医畜産専門学校(1944年 - 1949年) → 慶應義塾農業高等学校(1948年 - 1957年) → 慶應義塾志木高等学校
- 慶應義塾第一高等学校(1948年 - 1949年) + 慶應義塾第二高等学校(1948年 - 1949年) → 慶應義塾高等学校
- 慶應義塾大学付属医学専門部(1944年 - 1952年)
- 慶應義塾大学医学部付属看護婦養成所(1917年 - 1945年) + 慶應義塾大学医学部付属産婆養成所(1922年 - 1945年) → 慶應義塾大学医学部付属看護婦産婆養成所(1945年 - 1950年) → 慶應義塾大学医学部付属厚生女子学院(1950年 - 1990年) → 慶應義塾看護短期大学(1988年 - 2003年) → 慶應義塾大学看護医療学部
[編集] 沿革
各教育機関の詳細な沿革については各教育機関の記事を参照。
- 1858年 - 福澤諭吉、築地・鉄砲洲の中津藩中屋敷内に蘭学塾を開設。開校当初は塾生の代表が塾長となり、学生として在籍する傍ら教壇に立つことが多かった。
- 1868年 - 芝新銭座(現在の港区浜松町)に移転し、「慶應義塾」と呼称。
- 1871年 - 芝新銭座の校地を近藤真琴へ譲渡、三田にある島原藩中屋敷跡の現校地に移転。明治維新後に洋学・特に英語を学習する生徒が殺到し、校舎の増築がままならなかった築地から移転することになった。
- 1872年 - 初の外国人教員を招請。
- 1873年 - 医学所を設置するも、1880年に閉鎖。
- 1874年 - 幼稚舎開設。
- 1881年 - 慶應義塾仮憲法を制定。この頃、攻玉社・同人社と共に「三大義塾」として並び称され、代表的な各種学校となる。明治十四年の政変。
- 1885年 - 塾章を制定。なお、塾旗も含めて制式化されるのは1964年。
- 1890年 - 大学部(ただし法令上は旧制専門学校)が発足し、文学・理財・法律の三科を設置。従来の課程を普通部と称する。大学部発足に際し、ハーバード大学から教員を招請。
- 1892年 - 剣術・柔術・野球・端艇・弓術・操練・徒歩から成る体育会が発足。
- 1898年 - 幼稚舎を設置。大学部に政治科を増設。塾旗を制定。
- 1899年 - ドイツ・アメリカ合衆国に留学生6名を派遣。
- 1900年 - 大晦日に世紀送迎会(第1回)開催。
- 1901年 - 福澤諭吉死去。同窓生(社中)を中心として慶應義塾維持会を設立。
- 1903年 - 三田綱町球場にて最初の早慶戦。
- 1904年 - 塾歌を制定。ただし、現行の塾歌は1941年に制定されたもの。
- 1906年 - 大学院を設置。
- 1910年 - 文学科の教授を中心に『三田文学』創刊。
- 1912年 - 創立50周年を記念して慶應義塾図書館が竣工。
- 1915年 - 維持会から『三田評論』を創刊。三田大講堂が竣工。
- 1917年 - 北里柴三郎を招請して、東京市四谷区(現新宿区)に大学部医学科を設置。
- 1920年 - 大学部が大学令による大学(文学部・経済学部・法学部・医学部)に昇格、同時に大学予科を設置。大学病院を開設。
- 1930年 - 第1回連合三田会を開催。
- 1934年 - 神奈川県橘樹郡日吉村(現横浜市港北区)に日吉校舎を開設、大学予科を移転する。東京横浜電鉄(現東急電鉄)が誘致し、校舎用地の提供を受けた。
- 1944年 - 財団法人藤原工業大学を統合し、工学部を設置。獣医畜産専門学校を開校。藤原工業大学は藤原銀次郎の寄付により1939年に開校、当初から慶應義塾への統合を前提としていた。
- 1945年 - 戦災と日吉校舎の接収に伴い、中央労働学園の校舎および、川崎市蟹ヶ谷の旧海軍東京通信隊施設を暫定的に使用。図書館にあったステンドグラスも焼失。ようやく1974年に復元が成る。
- 1947年 - 中等部を設置。獣医畜産専門学校を埼玉県北足立郡志紀町(現志木市)に移転。旧東邦電力の東邦産業研究所跡地を、同窓の松永安左エ門による寄付によって取得。
- 1948年 - 通信教育課程を設置。第一高校・第二高校・農業高校を設置。農業高校は志木校地に開校、1957年に志木高校となる。
- 1949年 - 第一・第二高校を統合、慶應義塾高等学校設置。大学は学制改革に伴い、文学部・経済学部・法学部・工学部から成る新制大学となる。日吉校舎の接収解除、同時に高等学校を日吉へ移転。また工学部を西多摩郡小金井町(現小金井市)に移転。
- 1950年 - 大学の一部講義を日吉で開始、日吉は高等学校並びに学部学生の教養課程、三田は学部学生の専門課程として利用することになり、キャンパスの使用方法が大戦前の予科(新制の高等学校3年および学部1・2年に相当)と大学の区分に戻る。
- 1951年 - 学校法人設置認可。新制の大学院設置。
- 1952年 - 医学部が新制大学へ改組。
- 1965年 - 学費改訂と塾債発行から大学紛争が勃発。さらに米軍研究資金導入や大学立法を巡って紛争が長期化、1973年には工学部と通信教育課程を除くすべての学部で卒業式を中止する事態となる。
- 1972年 - 大学工学部を日吉キャンパスの北隣・矢上キャンパスに移転。
- 1990年 - 湘南藤沢キャンパスに大学環境情報学部・大学総合政策学部を設置。ニューヨーク高等部を開校。
- 1992年 - 湘南藤沢キャンパスに藤沢中等部・高等部を開校。
- 2008年 - 創立150年記念式典開催。学校法人共立薬科大学と合併、芝共立キャンパスに薬学部を設置。日吉キャンパスに大学院システムデザイン・マネジメント研究科、メディアデザイン研究科を設置。大阪リバーサイドキャンパスを、大阪市福島区の再開発地区「ほたるまち」に開設。
[編集] 慶應義塾の三藩
慶應義塾の三藩(けいおうぎじゅくのさんぱん)とは、幕末~維新期に慶應義塾を支えた所縁のある3つの藩[8][9]。紀州藩・越後長岡藩・中津藩の三藩を指す。入塾した藩士はのちに塾長や要職を歴任しているため、学校法人慶應義塾の基礎となっている。
[編集] 三藩
[編集] 越後長岡藩
単身上京して新銭座に入塾した藤野善蔵(のち塾長、長岡洋学校主催)の影響が大きいと伝えられている[10]。長岡藩は戊辰戦争後に藩校崇徳館などで教育改革を進めて江戸の慶應義塾に多くの学生を送った。この結びつきは、大参事として維新後の長岡を指導した三島億二郎が福澤諭吉の思想に共鳴し交流が密であったことも一因であった。
- 主な藩士:牧野鋭橘(越後長岡藩藩主)、城泉太郎(長岡藩家臣、のち塾長)、渡部久馬七(のち塾長)、蘆野巻蔵(のち塾長)、小林寛六郎(「米百俵」で知られる小林虎三郎の弟)、小林雄七郎、秋山恒太郎、名児耶六都、外山脩造、栗山東吾、牧野鍛冶之助、稲垣銀治、三島徳蔵、曽根大太郎、中島武藤太、高野弥次郎、小林見義、山田鶴遊
[編集] 紀州藩
藩の有力者岸嘉一郎が鉄砲洲時代から優秀なる子弟を選抜して塾に送り[11]、慶応2年の冬頃、紀州藩から一時に多数の学生が入塾することになり、従来の塾舎が狭くなりこれを収容しきれなかったので、紀州藩では奥平藩邸内に別に一棟の塾舎を建築し、同藩の学生をここに寄宿せしめることになり、邸内ではこれを「紀州塾」と称してゐた[12]。和歌山藩の入塾生は元治元年九月入塾の臼杵鉄太郎を最初とし、慶応元年三名.慶応二年十名、慶応三年十二名の入塾をみている。中でも紀州徳川家第15代当主徳川頼倫は三宅米吉、英国人のアーサー・ロイド(慶應義塾教授)、米国人のウィリアム・S・リスカム(慶應義塾教授)らに師事して漢学と英語を修め、鎌田栄吉(のち塾長)からは精神的な薫陶を受けている。
- 主な藩士:小泉信吉(のち塾長)、松山棟庵(のち塾長、医師)、草郷清四郎(紀州藩騎兵指揮官)、前田政四郎(紀州藩騎兵仕官)、岸幹太郎(徳川家家令)、和田義郎(慶應義塾幼稚舎創始者)、三宅米吉(歴史学者)、巽孝之丞、中井芳楠(銀行家)、長屋喜弥太(軍目付、陸軍少佐)、小川駒橘(内務官僚、長崎師範学校校長)
[編集] 中津藩
中津藩は福澤諭吉の出身藩であり、いうまでもなく学問の主流を成した藩である。藩主奥平昌邁、藩校進脩館、豊前国から多数の藩士が塾生となった。
[編集] 慶應義塾一貫教育の変遷
| 1899年 (明治32年) |
1920年 (大正9年) |
1944年 (昭和19年) |
1957年 (昭和32年) |
2009年 (平成21年) |
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| 5 | 大学部 文学科 理財科 法律科 政治科 |
大学 文学部 経済学部 法学部 医学部 |
大学 文学部 経済学部 法学部 医学部 工学部 |
4 | 大学 文学部 経済学部 法学部 医学部 工学部 商学部 |
大学 文学部 経済学部 法学部 商学部 医学部 理工学部 総合政策学部 環境情報学部 看護医療学部 薬学部 |
||
| 4 | 3 | |||||||
| 3 | 2 | |||||||
| 2 | 1 | |||||||
| 1 | 3 | 高等学校 志木高等学校 女子高等学校 |
湘南藤沢 高等部 |
高等学校 志木高等学校 女子高等学校 |
ニューヨーク学院 (高等部) |
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| 5 | 普通部 | 普通部 | 普通部 | 2 | ||||
| 4 | 1 | |||||||
| 3 | 3 | 普通部 中等部 |
湘南藤沢 中等部 |
普通部 中等部 |
||||
| 2 | 2 | |||||||
| 1 | 1 | |||||||
| 6 | 幼稚舎 | 幼稚舎 | 幼稚舎 | 6 | 幼稚舎 | 幼稚舎 | ||
| 5 | 5 | |||||||
| 4 | 4 | |||||||
| 3 | 3 | |||||||
| 2 | 2 | |||||||
| 1 | 1 | |||||||
1898年(明治31年)に一貫教育体制が整い、1920年(大正9年)に4学部を擁する総合大学となり、1944年(昭和19年)に工学部、1957年(昭和32年)に商学部を設置して、2009年(平成21年)現在の体制に至る。
また、1906年(明治39年)に大学院が設置され、1942年(昭和17年)に外国語学校が設置された。また、1917年(大正6年)に医学科附属看護婦養成所が設置され、医学部附属女子厚生学院、看護短期大学を経て、看護医療学部となっている。
[編集] 学校法人共立薬科大学との合併
2006年11月、学校法人慶應義塾は学校法人共立薬科大学と合併についての協議に入った。[13]その後両学校法人の間で協議が重ねられた結果、2007年3月に両学校法人の合併を決定し、合併契約書を締結した。[14]これに伴い、両学校法人では2007年9月までに文部科学省から合併認可を得、その後に共立薬科大学の廃止認可申請及び慶應義塾大学薬学部、同大学院薬学研究科の設置認可申請を実施。これらの手続きを経て2008年4月に両学校法人は合併し、慶應義塾大学に薬学部と大学院薬学研究科が設置された。両学校法人は「この合併には双方にメリットがある」としている。慶應義塾大学にとっては、既存の医学部、看護医療学部に薬学部、薬学研究科が加わることにより、同大学の医療分野の教育、研究の一層の充実をはかることができる。一方共立薬科大学にとっては、慶應義塾大学病院を使って実習を行えるようになるなど、より充実した環境のもとで薬学に携わる人材を育成できるというメリットがあるとしている[15]。
[編集] 歴代塾長一覧
1881年の塾長職制度化後の歴代塾長一覧。慶應義塾規約により塾長は学校法人慶應義塾の理事長と慶應義塾大学の学長を兼ねるとされる。
| 氏名 | 就任時期 | 略歴 |
|---|---|---|
| 浜野定四郎 | 1881年 1887年 | - |
| 小泉信吉 | 1887年 1890年 | 横浜正金銀行支配人 |
| 小幡篤次郎 | 1890年 1897年 | 英学者 |
| 鎌田栄吉 | 1898年 1922年 | - |
| 福澤一太郎 | 1922年 1923年 | 福澤諭吉長男 |
| 林毅陸 | 1923年 1933年 | - |
| 小泉信三 | 1933年 1946年 | 経済学者 |
| 高橋誠一郎 | 1946年 1947年 | 元・経済学部長 |
| 潮田江次 | 1947年 1956年 | 元・法学部長、福澤諭吉孫 |
| 奥井復太郎 | 1956年 1960年 | 元・経済学部長、都市社会学者 |
| 高村象平 | 1960年 1965年 | 元・経済学部長 |
| 永沢邦夫 | 1965年 1969年 | 元・法学部長 |
| 佐藤朔 | 1969年 1973年 | 元・文学部長 |
| 久野洋 | 1973年 1977年 | 元・工学部長 |
| 石川忠雄 | 1977年 1993年 | 元・法学部長 |
| 鳥居泰彦 | 1993年 2001年 | 元・経済学部長 |
| 安西祐一郎 | 2001年 2009年 | 元・理工学部長 |
| 清家篤 | 2009年 | 元・商学部長 |
[編集] 慶應義塾評議員会
慶應義塾評議員会は1889(明治22)年8月、「慶應義塾仮憲法」に代わる「慶應義塾規約」の制定により、それまでの理事委員会に代わり創立された。
慶應義塾における理事会の発足は1907(明治40)年(財団法人化に伴う改正)であり、ここまでに評議員会が最高意思決定機関として機能しており(1881(明治14)年発足の理事委員会から数えると30年近く)、評議員会を意思決定機関とし、塾長・理事会が執行機関であるという制度的枠組みの原型の大きな変更はない。
現在、私立学校法の規定では、学校法人において評議員会は諮問機関とされている(私立学校法42条1項)が、慶應義塾においては、上記の経緯を鑑み、私立学校法42条2項の規定により、42条1項に列挙される事項の議決を評議員会によるものとし、従前どおり評議員会を最高意思決定機関としている[16]。
4年に1度行われる評議員改選において、卒業生評議員の選挙は、注目されることも多い。卒業生評議員の選挙は、20万人以上いる有権者塾員[17]の郵送投票により行われ、私立学校の役員を決める選挙としては他に例がない大規模なものである。特に、1978年(昭和53年)11月より就任する第25期評議員会選挙において、連記制から単記に改められたため、塾員の関心が高まったとされる。
[編集] 歴史
1889年(明治22年)10月に第1回の評議員会が開催され、以後現在に至るまで続いている。現在の評議員会は、第33期(任期:2010年(平成22年)11月から2014年(平成26年)10月まで)。
[編集] 開催
評議員会は、通常年6回開催される(奇数月の20日前後)。
[編集] 権限
評議員会の権限は、慶應義塾規約に定められている[18]。
- 慶應義塾規約20条
- この規約で評議員会の議決を要するものとした事項
- 事業計画、予算、借入金(当該会計年度内の収入を以て償還する一時の借入金を除く)及び重要な資産の処分に関する事項
- 大学の学部、大学院、図書館、研究所、その他重要な施設の設置、分合、廃止
- 学事又は人事に関する規則であって、収支に重大な影響のあるものの制定又は改廃
- 収益事業に関する重要事項
- その他法人運営に関する重要事項で理事会が適当と認めたもの
上記以外に、以下のものも含まれる。
- 慶應義塾規約の改正(規約5条)
- 慶應義塾の解散(規約5条)
- 他の学校法人若しくは私立学校法第64条第4項の法人との合併(規約5条)
- 塾長の選任(規約8条)
- 常任理事の選任(規約11条2項)
- 監事の選任(規約18条1項)
- 評議員選挙に関する細則(規約19条5項)
- 社頭の推薦(規約26条)
- 社頭空位の場合のおける塾員の特選(規約27条1項3号)
- 義塾解散の場合における清算人による残余財産の処分(規約28条3項)
[編集] 選出区分・任期
評議員会は、95名以上101名以内の評議員によって構成される(慶應義塾規約19条[18])。人数に幅があるのは、死亡等の欠員発生時における定足数の変動を回避するためである。評議員の任期は通常4年、うち教職員評議員のみ2年である。
評議員は大きく分けて次の4つの区分から選出される。
- 推薦評議員(24人以上25人以内):前期の評議員会により選出される。
- 卒業生評議員(28人以上30人以内):全ての塾員[17]による投票により選出される。
- 塾員評議員(28人以上30人以内):「推薦評議員」および「卒業生評議員」が全塾員中から有為の人物を選出。
- 教職員評議員(15人以上16人以内):義塾内の各組織から選出される(各学部(10人)、一貫教育校(3人)、研究所(1人)、職員(2人))
[編集] 構成員
現在は、第33期(任期:2010年(平成22年)11月1日から2014年(平成26年)10月30日まで)[19]。
- 評議員一覧
2010年(平成22年)11月1日現在、100名。(改選による。ただし任期開始前に鈴木忠雄君の死去により1名減員)
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[編集] 事務部門
慶應義塾の事務は、塾監局が中心となって担当している。形式的には学事センターも塾監局に属する組織であって、大学に属する組織ではない。三田以外の各キャンパスに所在する事務室も塾監局の支部の扱いである。ただし、大学病院のある信濃町キャンパスについては、従前は医学部事務局が塾監局の支部として存在していたが、病院経営改革に伴い、大学病院事務局(病院経営ボードに直属)と信濃町キャンパス事務室(塾監局の支部)とに分割されている。
塾監局の系統に属さない組織としては学生総合センターやメディアセンター(図書館)等があり、これらは主として大学に属する組織である。
近年は上記以外にも塾監局の系統に属さない組織(塾長室、広報室、研究支援センター等)が増加している。
なお、慶應義塾の職員は、大学病院や信濃町キャンパス、矢上キャンパスの技術系の職員を除いて、上記の組織の系統の違いに関わらず異動がありうる。
[編集] 式典・記念行事
[編集] 世紀送迎会
- 1900年12月31日、福澤諭吉の提案で、三田山上の慶應義塾にて19世紀と20世紀の「世紀送迎会」を開催。風刺画などで19世紀を振り返り、20世紀の幕開けとともに「儒学者の夢」「階級制度の弊害」「蓄妾の醜態」という3枚の風刺画に一斉射撃して点火、「二十センチュリー」という花火が夜空に浮かび上がるなど趣向を凝らしたものであった[20]。
- 2000年12月31日には、100年前の送迎会にならい三田山上で「第2回世紀送迎会」を開催。自らの意思で世紀を飛び超えるという意味で、21世紀の幕開けより6時間早い午後6時に「カウントアップ」し、新世紀の幕開けを祝った[21]。
[編集] 創立150年式典の開催
- 2008年11月8日、日吉キャンパスで今上天皇・皇后臨席のもとで創立150年記念式典が開催された。司会を務めたのは塾員である石坂浩二と遠藤玲子。式典には塾生・塾員約1万人のほか、ハーバード大学、ケンブリッジ大学の代表者等、慶應義塾にゆかりのある国内外の来賓が数多く参列した[22]。式典の模様は三田キャンパス、湘南藤沢キャンパス、大阪リバーサイドキャンパスに中継され、さらにはインターネットを通じて全世界にも同時中継されている[23]。式典において今上天皇は「今後も国の内外で活躍する人材を数多く育て、送り出すことを期待しています」とおことばを述べた[24]。天皇家と慶應義塾とは、元塾長の小泉信三が天皇の教育係であった等の点で接点があり、塾が主催した「小泉信三展」でも天皇皇后夫妻が来塾している[25]。ちなみに、創立90年と100年の節目においては昭和天皇が式典に臨席している[26]。
- 記念式典翌日には同じく日吉キャンパスにおいて連合三田会大会が開催され、加山雄三、紺野美沙子、櫻井翔などの塾員が登場した[27]。
- 2009年1月10日から3月8日まで、東京国立博物館で「慶應義塾 創立150年記念 『未来をひらく 福沢諭吉展』」[28]が開催された。
[編集] 主な建造物
慶應義塾は日本の教育機関として有数の歴史を持ち、さらに移転や大規模な立替を伴う再整備事業を行っていないため、由緒ある建造物が多数現存している。この節ではそうした建築物の中から特筆すべきものを紹介している。
[編集] 三田キャンパス
1871年(明治4年)芝新銭座より三田(島原藩中屋敷跡)に校舎を移転した。これ以降三田キャンパスは慶應義塾の中心地となる。三田演説館(1875年)、創立50年記念図書館(1912年)など歴史的にも重要な建造物が存在する。
- 幻の門
- 現在東館の位置する場所に存在した門。1959年南校舎が建造され、同時に南門が正門として規定されるまで、事実上同門が正門として機能した。「幻の門」の名称はこれ以降用いられるようになった。
名称のいわれについては諸説あり、酔った学生がふざけて夜中門標を持ち去り、いくら新しいものを設置してもそのつど盗られるので、ついには門標なしの門となりこの名が慣用的に付けられたとする説。このほか「たとえ外見こそはそまつでも、これこそ青春のあこがれと理想を迎え入れる大きな門がそびえ立つように感じられ、これが形式にとらわれない義塾の精神と相通じるように思えて、これを「幻の門」と呼んで歌いあげたものだといわれる」(堀口大學『百年史』)などもある。
現在残る石造りの門が設置されたのは1913年(大正2年)であり、それ以前は旧島原藩邸時代の木造の黒い門が建っていた。2000年(平成12年)、東館の設置に伴い、同館アーチを潜りぬけ、左に曲がった石畳の坂道の上に移設されている。坂道の端には福澤諭吉が馬を繋いだ「馬留石」が存在する。
カレッジソングに『幻の門』(作詞;堀口大学、作曲:山田耕筰1933年(昭和8年)春、ワグネルソサィエティーと応援団共作)がある。
- 三田演説館
- 木造瓦葺、洋風、なまこ壁、床面積58坪余(192.16m²)で、一部2階建で総坪数は付属建物合わせて87.9坪余(290.34m²)。
- 1876年(明治8年)5月1日 - 竣工(現在の図書館旧館と塾監局との中間に存在)
- 1924年(大正13年) - 稲荷山(現在の場所)に移築。
- 1947年(昭和22年)5月 - 修復工事実施
- 1967年(昭和42年)6月 - 重要文化財に指定。
- 1995年(平成7年) - 解体修復工事実施。
-
- 稲荷山
- 慶應義塾図書館・旧館
- 三田演説館と並んで慶應義塾大学を象徴する建造物の一つである。1907年に創立50周年記念事業として1908年起工、1912年竣工された。詳しくは独立記事慶應義塾図書館・旧館を参照のこと。
- 塾監局
- 1926年(大正15年)9月竣工、鉄筋コンクリート造地階共4階建、延740余坪(2450m²)
- 総務部(総務担当、広報担当)、人事部、経理部、管財部、学事センター、基金室、塾員センター、入学センター、一貫教育支援センター、学術事業連携室、塾長室(企画・広報担当、秘書担当)、人事部、第3会議室、国際連携推進室、経営改革プロジェクト室、学術事業連携室、ハラスメント防止委員会事務室
- 南校舎(新)
- 創立150年記念事業として建設された。建物のデザインとしては旧校舎同様のモダニズム様式を踏襲している。
- 全体のイメージは半世紀に渡って塾員・塾生に馴染みの深かった旧校舎に似通ったものとなっている。講義室(大小)、グループ学習室、5階に多目的ホール(680名収容)を設置し大規模授業の他、学会、シンポジウム、講演会など様々な場面で活用可能である。3階には社中交歡 萬來舍(590.43㎡)がある。2011年3月竣工
- 南校舎(旧)
- 1959年、創立百年記念事業として建設。
- 長く三田キャンパスを代表する建造物であり、最も大きな建築物であった。完成にともない南側の門が正門となる。外壁はコンクリート打ちっぱなしの典型的なモダニズム建築であった。36室(2,721人収容)。
- 東館
- 2000年(平成12年)に完成
- 旧図書館の赤煉瓦のイメージで建てられている。嘗て所謂「幻の門」が存在した場所にある。三田通りから台地上にあるキャンパスに至る傾斜を跨ぐ形で建設されており、アーチの上部にはラテン語で福沢諭吉の「HOMO NEC VLLVS CVIQVAM PRAEPOSITVS NEC SVBDITVS CREATVR」=「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の言葉が刻まれている。
- G-SEC Labには米国の作家で医師のマイケル・クライトンの名を冠した「クライトンカフェ」が存在する。その経緯についてはマイケル・クライトン#エピソードを参照のこと。
- 三田研究支援センター、プロジェクト室、グローバルセキュリティ研究所、プロジェクト室、交流スペース、G-ホール、小会議室
- 南別館
- 2009年3月竣工
- 「未来先導館(仮称)を含む南校舎建て替え事業」に伴う事業として、南校舎建て替え工事期間中の代替教室確保を目的に建設された。
- 図書館新館(三田メディアセンター)
- 1982年(昭和57年)竣工。地上6階・地下5階。設計は槇文彦。1983年のBCS賞受賞。文・経・法・商学部の専門領域に関する人文・社会科学分野の資料を所蔵。閲覧室、開架式書庫、グループ学習室、AVホール、インター ネットやデータベース検索のためのエリア、AVコーナー・AV編集室
- 南館
- 2005年3月竣工、地上11階、地下5階でsemiac免震システムを採用。大成建設によるRC造。建築面積2,097m²、延べ床面積18,467m²。法科大学院、教室、模擬法廷、自習室や教員室、メディアセンター(図書館) (2005年)平成17年開館)。
- ルーフ・テラス部に「ノグチ・ルーム」が移設されている。
- 新萬來舎
- 竣工:1946年(昭和26年)
- 設計:谷口吉郎、イサム・ノグチ
- 萬來舎は明治9~20年頃まで現在の塾監局付近に存在した建物であった。その後、現在の場所に再建されたが昭和19年戦災により消失してしまった。1951年(昭和26年)谷口吉郎、イサム・ノグチの合作により「新萬來舎」として再建され、南館建設に際して2005年(平成17年)同館屋上に移築されて今日に至っている。庭園、およびノグチのモニュメントも一部同所に移動し展示してある。
- 大学院棟
- 敷地面積:4.8ha、延床面積:8,787m²
- 創立125年記念事業として建設された。
- 講義室、ゼミ室、教員用研究室、産業研究所、東アジア研究所、メディア・コミュニケーション研究所、司法研究室、会計研究室、大学院生研究室、共用パソコン室、国際センター事務室、日本語・日本文化教育センター事務室
[編集] その他
- 西館
- 三田文学編集部、体育会事務室、業務監査室、労働組合三田支部、体育会本部
- 北館
- 大会議室、ホール、北館ホール(240人収容)、ファカルティクラブ
- 第一校舎
- 訪問教員用研究室、教職課程センター研究室
- 研究室棟
- 学部長室、学部長秘書室、研究支援センター本部、談話室、会議室A・B、研究室個室・事務室
- 教員の在室状況を1階の電光掲示板で確認出来る。
- 研究連携推進本部 先導研究センター
- 論理と感性の先端的教育研究拠点、市民社会におけるガバナンスの教育研究拠点、市場の高質化と市場のインフラの総合的設計、社会イノベータコース/学生支援GP、パネルデータ設計・解析センター(パネル調査共同研究拠点)、三田研究支援センター分室
- ※建物そのものは賃貸である。
- 東別館
- 西別館
- 労働組合本部
- 慶應義塾大学出版会、慶應義塾大学通信教育部事務局分室、慶應インターナショナルレジデンス
- 5階建、上部3階は「慶應インターナショナルレジデンス」
- 慶應義塾大学出版会・マーケティング・センター
- 地上3階、地下1階
[編集] 日吉キャンパス
日吉キャンパスは1934年(昭和9年)に大学予科を設置したのが始まりである。第二次世界大戦中は建物の幾つかが海軍の施設(軍令部第3部、人事局、建設部隊等、連合艦隊司令、海軍総隊司令部、航空本部等)として活用された。移転直後から敷地の地下に地下壕が建設され、現在も残る。
キャンパスの入口に門は存在せず、キャンパスを囲む塀はなく一部においては市街地と境界が入り組んでいる場所もある。キャンパスは敷地面積10万坪を誇り、構内には貴重な自然が温存されている。日吉駅からに日吉記念館に至る幅22m、長さ220m中央道路脇には100本の銀杏並木があり、黄葉の季節には市民の憩いの場となっている。銀杏並木は1997年第7回「横浜市まちなみ景観賞」を受賞している。
- 第1校舎
- 慶應義塾高校の校舎(旧:大学予科校舎)
- 第2校舎
- 214、221、224、231、234教室、生物学教室、物理学教室、化学教室
- 1934年(昭和9年)施工される、設計は曾禰中條建築事務所で施工は上遠合名会社、清水組が行う。構造はRC3階建て。正面に円柱を持つ列柱廊が存在する。建物の一部にはアール・デコの装飾が確認される。
- 協生館
- 創立150年記念事業として2008年8月に完成。塾員、塾生のほか広く市民に開放されている施設を含む。CASBEE横浜(横浜市が環境に優しい建物として認証する制度)の第1号として最高位「Sランク」認定されている。
- 慶應義塾専用施設
- 大学体育施設(B1F)(50mプール、飛び込みプール)
- 大学院施設(3-6F)
- 経営管理研究科(ビジネス・スクール)、
- システムデザイン・マネジメント研究科、
- メディアデザイン研究科
- 研修宿泊施設(7F)
- 塾員・塾生以外に開放している施設
- 慶應義塾運営施設(2F)
- 藤原洋記念ホール、
- イベントホール、
- 多目的教室
- 社会・地域連携施設(B1-2F)
- コミュニケーション・プラザ、
- 開放型体育施設(セントラルウェルネスクラブ)
- 保育支援施設(ベネッセチャイルドケアセンター日吉(横浜市認可保育園・一時保育施設))
- 飲食施設:TULLY'S慶應日吉店、HUB慶應日吉店 、クイーン・アリス ガーデンテラス日吉
- 物販施設:ローソン 慶應日吉店
- 慶應義塾専用施設
- 来往舎らいおうしゃ
2001年(平成13年)竣工。清水建設設計・施工
地上7階建て、3階までは共同研究室が中心、4-7階は個人研究室。教員専用のレファレンスライブラリー エクステリアは列柱と大きなガラスが特徴、エントランス側は吹き抜け空間が設けられている。
- 日吉第4校舎独立館
- 慶應義塾創立150年記念事業の一環として2009年3月竣工、4月22日(水)に開所式開催。綱島街道側の土手の斜面を削って用地を確保して建設された。設計・建設は鹿島建設。綱島街道側桜並木アプローチは協生館に続きCASBEE横浜第3号として最高位「Sランク」を認定されている。
- 同建物内には「日吉コミュニケーション・ラウンジ」が開設された。ここには和室「日吉の家」、ラウンジ、(3)インフォメーションスペース、(4)学生活動支援スペース、(5)日吉グローバルスタジオなどが含まれる。同施設は塾員、塾生に開放され授業や課外活動等に活用されている。
- 日吉図書館(日吉メディアセンター)
- 1985年(昭和60年)竣工
- 船をモチーフとして設計されている。蔵書数数約60万冊
- 記念館
- 1958年(昭和33年)11月8日の創立100年記念式典の会場として設計され、1958年(昭和33年)10月竣工。その後各種式典の場として活用される。
- 2011年3月までの竣工を目指して、建て替えを計画中である。
- ※ただし2009年現在工期の延期が検討されている[30]。
- 藤山記念館
- 1958年(昭和33年)塾員藤山愛一郎の寄付により図書館として建てられた。ラウンジ、会議室 、パソコン室、大会議室。
- 日吉新図書館の開館まで藤山記念図書館として使用していたが、現在は藤山記念館と名称を変え、多面的に利用されている。正面右脇に愛一郎の父で同じく塾員の藤山雷太の像がある。
- 経営管理研究科(ビジネス・スクール)旧校舎
- 1978年(昭和53年)に開設.
- 現在は大学院としての機能は協生館に移り、2009年7月現在、建物だけが残っている
[編集] 教育施設
- 第3校舎
- 外国語教育研究センター、ラボ、301-336
- 第4校舎A棟
- J411-J447
- 第4校舎B棟
- 学生総合センター、国際センター、学事センター、学生相談室、J11-39
- 第5校舎
- 第6校舎
- 4階建、グリーン食堂、J611-643、ゼミ1、ゼミ2
- 第7校舎
- 701、703、704教室、理工学部基礎教室、日吉インフォメーションテクノロジーセンター、パソコン室
- 第8校舎
- 811、812、831教室、心理学研究室、美術研究室、音楽学研究室
- 学生団体部室、トレーニングルーム
- 日吉会館(慶應義塾高校)
[編集] 屋内運動施設/スポーツ関連施設
- 体育館
- 柔道場・剣道場
- スポーツ棟
- 体育研究所、卓球場
- 柔道場(慶應義塾高校)
- スポーツ医学研究センター
[編集] 野外運動施設
- ラグビー場(日本ラグビー発祥の地)
- 慶應義塾体育会馬術部
-
グラウンド
(慶應義塾高等学校)
[編集] 厚生施設
- 保健管理センター
- 塾生会館(課外活動棟)
- 食堂棟
- 1階:生協食堂(遊遊キッチン:472席・テラス席220席)、イタリアントマトカフェジュニア(114席)、2階:グリーン食堂(グリーンズマルシェ:531席)、さぼてんExpress(30席)、喫茶売店、3階:公認学生団体のための集会室
- 購買施設棟(生協購買部)
[編集] 宿泊、居住施設
- 日吉寄宿舎
- 設計:谷口吉郎
- 竣工:1937年(昭和12年)
- 下田学生寮(Shimoda Student Village)
- 地上4階建て、延べ面積約1万m2。
- 1階:体育会共用スペース(部室・食堂・トレーニング施設・浴室等)2-4階:宿舎(体育会棟・留学生棟)
- 体育会野球部合宿所
- 2008年4月4日完成
- KBSハウス
- KEIO NESTLE HOUSE
[編集] そのほか
[編集] 信濃町キャンパス
1917年(大正6年)医学科予科が三田に開設され、その後医学部の拠点を信濃町に移転する。戦時中は東京都北多摩郡武蔵野町に疎開し、戦後信濃町に戻る。東門と西門を貫く通路を挟んで北側に、教育施設、南側に臨床施設が設置されている。臨床施設は1号棟、中央棟を中心に枝の様に各種臨床施設が付随している。
施設は老朽化が進んでいる建物もあり創立150年記念事業の一環として、建て替え計画が進行している。1号棟B棟、リハビリテーション棟、2号棟の敷地部分に新病棟が、大学病院別館の部分に予防医療センター、PETを備えた臨床研究棟2の建設が予定されている。
- 新棟
- 1987年(昭和62年)竣工、11階建て1,056床、当時最新のコンピュータを利用した総合医療情報システムを稼働させるための施設として建設された。
- B1-2は業務部門、1,2階は外来施設、3,4階は手術施設、5-10階までは病棟が占め、11階には会議室、レストランが存在する。
- 北里記念医学図書館(信濃町メディアセンター)
- 1937年(昭和12年)に医学部創設に功績があった北里柴三郎博士の威徳を顕彰し建設計画が立ち上がった。広く全国の塾員に募金を募り集まった三十万円を基に和田順顕に設計を依頼する。1944年(昭和19年)、慶應義塾大学に建物が寄贈され、医学部図書館となる。平成16年(2004年)に信濃町メディアセンターと名称変更し今日に至る。医史学の資料として「富士川文庫」、「石黒文庫」等が存在する。北里講堂では慶應医学賞の授与式が行われている。
- 総合医科学研究棟
- 2001年(平成13年)竣工、地下2階、地上9階、塔屋1階、延べ床面積 24400平方メートル
- 主な施設として、リサーチパーク 56ユニット、RI実験センター、中央機器管理部、動物実験センター等がある。
- 臨床研究棟
- 2008年(平成20年)2月竣工、地上5階・地下1階、延べ面積約5,600平方メートル。
- 大スパンモノコック構造を採用し、内部空間に柱がなく、また内部の仕切りを自由に組みかえられる工法を採用している。
- CCR(クリニカル・リサーチ・センター)が位置する。
- 医学部予防医学教室(第3校舎)
- 竣工は1929年(昭和4年)、信濃町キャンパスに現存するものでは最も古い建造物である。
- 構造は鉄筋コンクリート造4階建て設計は曾禰中條建築事務所、施工は清水組によってなされた。
- 現在でも一部の講義は本校舎内で行われている。
- 大学病院別館
- 1932年(昭和7年)竣工する。 設計は曾禰中條建築事務所に依頼し、施工は大林組が行う。2008年に臨床施設としての役目を終え解体工事を完了し、2009年10月3号館建設のための地鎮祭を挙行した[31]。
- 3号館
-
- 北棟(臨床研究棟Ⅱ)
- 地上6階、地下1階(2010年12月竣工予定)
- 低侵襲療法研究開発センター、病院情報システム部、内科系臨床施設
- 南棟
- 地上6階
- 中央臨床検査部門、予防医療センター(仮称)、病棟
[編集] 臨床施設
- 中央棟
- 1963年(昭和38年)竣工
- 1号棟
- 1965年(昭和40年)外来病棟として竣工、A、B2棟からなる。
- B棟は建物東側に螺旋状の避難通路があり、災害時にはバリアフリーで患者の避難が可能となっている。この建築様式は後に東海大学医学部付属病院にも採用されている。
- 包括先進医療センター棟
- 第1,第2MR棟
- SIGNA 1.5T、SIGNA 0.5Tが設置されている。
- CTスキャナー棟
- 霊安室
[編集] 教育・研究施設
- 東校舎
- 1957年(昭和32年)竣工
- 第二校舎
- 1961年(昭和36年)竣工
- PBLルーム
- 新教育研究棟
- 1996年(平成8年)竣工
- 講堂、セミナールームは各種研究会や会合に利用されている。
- 本館臨床講堂
- 臨床講義用階段教室
- 日本ワックスマン財団
- 1957年設立
- 1952年12月、セルマン・エー・ワックスマン博士がノーベル生理学医学賞授賞式の帰途「北里柴三郎生誕百年祭」の招聘により来日した際に設立された。
- 孝養舎
- 看護学部の校舎として使われている。主に1・2年次は湘南藤沢キャンパス(SFC)・看護医療学部校舎を3・4年次の学生は本校舎を使用する。
学生総合センター、学事課、自習室、体育室 - グラウンド
- ミュージアム
- 犬舎
- ボイラー室
[編集] その他(厚生施設など)
- 煉瓦館
- 1995年(平成7年)旧食養研究所跡に建設、設計清水建設
- 現在オフィス・商業施設として利用されている。
- 三四会館
- 三四会事務局
- 慶應稲荷大明神
- 1933年(昭和8年)鎮座
- 慶應義塾塾内に存在する神社であり、受験シーズンには慶應義塾ほか医・歯・薬学部(慶大に限らず)合格祈願の受験生の参拝が見られる。
-
慶應稲荷大明神脇白梅
- コーヒー・ショップ
- STARBUCKS COFFEE
- 花屋
- HANAKITA
- 生協売店
- 購買部が存在し、外部に医療用品を含めた自動販売機が設置されており夜間の需要に対応している。
- グリーンズカフェ
- 職員食堂
[編集] 矢上キャンパス
- 創想館
- 2000年(平成12年)に竣工。地下2階、地上7階、塔屋1階建築面積 2,978m²
- 延床面積 21,286m²。施工は錢高組が担当。セミアクティブ免震構造を採用し、日本免震構造協会賞・技術賞(特別賞)を受賞している。名称は、理工学部の理念を実現する、「創造と想像の拠点」といった意味が込められている。
- 地階閲覧室は全館閉館後も24時まで開室している。
[編集] 湘南藤沢キャンパス
1990年(平成2年) 神奈川県藤沢市に湘南藤沢キャンパスを設置、総合政策学部・環境情報学部を開設
- アルファ館(本館)
- 学部長室、事務室
2001年(平成13年) 看護医療学部を開設
[編集] 芝共立キャンパス
2008年(平成20年) 学校法人共立薬科大学との合併により薬学部・大学院薬学研究科開設芝キャンパス、浦和キャンパスが慶應義塾の施設として新たに加わることになった。
- 1号館
- 正面玄関が設置されている。交通の頻繁な日比谷通りに面しているが、道路までの間に芝公園がありそれが緩衝地帯の役割をなして騒音を防いでくれている。
- 屋上庭園が設けてあり、そこから東京タワーの夜景を楽しむことが出来る。
- トレーニングジム、学生ホール、食堂、売店、事務局、マルチメディア講堂、屋上庭園、薬用植物園分園、体育館(多目的ホール)
- 2号館
- 記念講堂、学生相談室、講義室、実習室、実験動物飼育室
- 3号館
- 2000年(平成12年)竣工
- セミナー室、教員研究室、実験室、マルチメディア・コンピュータ室、芝共立薬学図書館(薬学メディアセンター、蔵書は製本68,000冊)、附属薬局、事務局(総務課、経理課)、生体防御薬学研究センター
[編集] サテライトキャンパス
[編集] 新川崎タウンキャンパス
(K²タウンキャンパス)2000年春に開設。 川崎市との連携・協力により先端的な産官学共同研究を担う施設として開設された
[編集] 脚注
- ^ 福澤諭吉、『学問ノスゝメ』
- ^ 福澤諭吉、「西洋の実学」、『福澤諭吉著作集』第5巻
- ^ 福澤諭吉、「慶應義塾改革の議案」
- ^ 福澤諭吉、「慶應義塾改革の議案」
- ^ 「慶應義塾改革の議案」
- ^ 慶應義塾豆百科:一貫教育
- ^ 慶應義塾は2013 年に小学校を開設し、新しい小中高一貫教育の展開をめざします
- ^ 慶應義塾の「三藩」
- ^ 築地鉄砲洲に 慶應義塾が建学されたころ塾には三つの大きなグル-プがあった。一つは九州中津の奥平藩、これは福澤先生の出身地。二つ目が紀州藩、三つ目が越後長岡藩だった。
- ^ 石川幹明・『福澤諭吉伝』第一巻
- ^ 石川幹明・前揚第一巻
- ^ 「慶應義塾七十五年史」210項
- ^ Keio Top News 学校法人慶應義塾と学校法人共立薬科大学は、合併を前提として協議に入ることで合意 2006/11/20
- ^ Keio Top News 2008年4月1日の合併に向け、学校法人慶應義塾と学校法人共立薬科大学が合併契約を締結 2007/3/26
- ^ [1]
- ^ 慶應義塾組織図、慶應義塾。
- ^ a b 「塾員」とは、「慶應義塾大学学部又は大学院の正規の課程を卒業した者」、「慶應義塾がかつて設置した高等部、大学附属医学専門部、獣医畜産専門学校および看護短期大学の正規の課程を卒業した者」、「社頭の特選した者、社頭空位のときは評議員会の議決により特選した者」をいう(慶應義塾規約27条1項)。
- ^ a b 慶應義塾規約、慶應義塾。
- ^ 評議員一覧、慶應義塾。
- ^ 慶應義塾ステンドグラス2000年1月1日「世紀送迎会」(塾 No.223)
- ^ 慶應義塾ニュース2000年12月31日「第2回世紀送迎会開催」
- ^ 両陛下、慶應義塾創立150年式典に
- ^ 【慶應義塾 創立150年】三田、湘南、大阪に生中継
- ^ 宮内庁ホームページ
- ^ 両陛下、「小泉信三展」ご鑑賞 慶應義塾図書館旧館
- ^ 慶應義塾の周年行事
- ^ 加山雄三さんらコンサート、慶應義塾創立150年記念
- ^ 慶應義塾 創立150年記念 未来をひらく 福沢諭吉展
- ^ 文政12年(1829年)の記録(大郷信斎『道聴塗説』第19編)には、「三田島原侯の別邸に住む老狐は、数百年の星霜を経ていて神霊に通じる力がある」との噂を載せている[2]
- ^ 『慶應塾生新聞』第449号
- ^ 『慶應義塾医学部新聞』第696号
[編集] 参考文献
- 『慶應義塾七十五年史』(1932年(昭和7年)
- 『慶應義塾百年史』(1969年昭和44年)
- 石田潤一郎著、増田彰久写真 1980年『日本の建築 明治大正昭和7 ブルジョワジーの装飾』(三省堂)
- 慶應義塾大学三田情報センター編1972年『慶應義塾図書館史』(慶應義塾大学三田情報センター)
- 『慶應義塾史事典』2008年(平成12年)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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