越中詩郎

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越中詩郎
Shiro Koshinaka
越中詩郎 Shiro Koshinakaの画像
2007年撮影
プロフィール
リングネーム 越中 詩郎
サムライ・シロー
本名 越中 詩郎
ニックネーム 侍戦士
孤高の侍
ド演歌ファイター
身長 185cm
体重 105kg
誕生日 (1958-09-04) 1958年9月4日(65歳)
出身地 東京都江東区
所属 Office K2
スポーツ歴 野球
トレーナー ジャイアント馬場
ハル薗田
坂口征二
デビュー 1979年3月5日
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越中 詩郎(こしなか しろう、1958年9月4日 - )は、日本プロレスラー東京都江東区出身。日本工業大学駒場高等学校卒業。

来歴

全日本プロレス入門まで

プロレスとの出会いは小学校時代であり、当時は金曜日の8時からTVで放映していた。ぶつかり合いの迫力に子供心に圧倒された[1]。中学時代に全日本プロレスを見てファンになる[2]。中学時代は音楽にも熱中していたが、曲作りに必要な良いアイデアが出ないため音楽の道は断念した[1]。高校時代は野球部に入り2年目はファースト、3年目はキャッチャーとレギュラーになるも、甲子園に行くことはできなかった[2]。野球は団体競技であり、自分1人で競技を行って自分で試合に責任を持つことをしたいという越中の志向には合致しなかった[1]。卒業後、電気工事関連の会社に就職するも、プロレスラーへの夢はあきらめきれず、高校時代の野球部の監督からレスリングの監督を通じてジャイアント馬場を紹介されて見習いを経て1978年7月に全日本プロレスに入門する[2]。野球部の監督に相談しようと決意した際は「できっこない」と道場への紹介を拒否されると思っていたが、実際に思いを打ち明けると監督もかつてプロレスラー志望だったため夢を応援してくれた[1]

見習い期間中はジャンボ鶴田に練習を見てもらい、受け身を毎日500本近く取って、基礎の腕立て伏せやスクワットをこなした。厳しい稽古であったが折角監督に紹介してもらった手前投げ出すわけにいかず、生涯の仕事と思って家族の反対を押し切って飛び込んだ以上やり切ることにしたという[1]。入門を正式に認めてもらって1ヶ月か2ヶ月経過した頃、当時巡業で毎日のように開催されたバトルロイヤルに出場。百田義浩からシューズを借りて出場したこのバトルロイヤルではただ殴られて投げられてボコボコにされただけであった[1]

デビューから新日本プロレス移籍まで

1979年3月5日、館山市民センターで園田一治を相手に公式戦デビュー[2]大仁田厚の後を継いで、馬場の付き人を務めた[2]

大部屋時代、あまり好きでない酒に付き合わされ酒に酔って暴れる仲間達と同じ場所に居させられたこと、体を大きくするために先輩の命令で旅館の飯櫃を無理に食べたことなどを苦労話として後に2019年のインタビューで話していた。スケジュールも過酷であり、酷い時は広島での興行が終わった次の日に秋田のリングに上がるというものがあった。デビューしてからというものの脱走したいことが何度もあり、駅のホームで移動の電車を待つ際に東京に逃げ帰ったらどれだけ楽だろうかと考えることがしばしばであった。だが逃げるとすぐに見つかるのが目に見えていたため、実際には脱走に至らなかった[1]

鶴田が退寮した際に先輩の多くも海外遠征に行ってしまい、先輩達から寮をまとめてほしいと告げられた。暫くあても目標も無くジャイアント馬場付け人をおこなっていたが、体重100㎏に達したら海外遠征に行かせてやると馬場から約束されてそれに向かって精進したザ・グレート・カブキからは試合展開の細かい組み立て方を教わり、佐藤昭雄からは若手が底上げして活性化するように発破を掛けられた[1]

1981年2月19日の福島大会で、デビューから245戦目にして後輩相手にようやく初勝利を挙げる。同年8月、三沢光晴のデビュー戦の対戦相手を務め、以後三沢とのカードは「前座の黄金カード」と呼ばれ注目を集めた[3]

1983年4月22日ルー・テーズ杯争奪リーグ戦三沢光晴を破り優勝[2]。1984年3月、三沢とともにメキシコへ遠征し[4]サムライ・シローの名で活躍した[2]。メキシコ遠征中はメインイベントを張らせてもらうなどレスラーとして破格の厚遇を得たが、移動手段、食事、リングコンディションは劣悪そのもので、シューズの真ん中に穴が開いていたり不衛生な飲み水で赤痢を起こしたりと散々な目に遭った[1]。同年7月に、馬場からの国際電話で「三沢を日本に帰せ。チケットを送るから三沢を空港へ送れ」と告げられ、後に三沢がタイガーマスクとして先に凱旋帰国したことに危機感を抱くようになっていき、1985年2月に坂口征二の誘いで、新日本プロレスが遠征を行っていたハワイに飛び、その際に新日本移籍を決意する[5]。同年4月1日の東京スポーツに全日本退団を全日本に提出した辞表と共にスクープされ[5]、そして同年7月に全日本プロレスを離脱し、新日本プロレスに押し掛け同然で移籍して帰国(異説については後述)。同年7月19日の新日本札幌中島体育センター大会に現れ、同年8月1日の新日本両国国技館大会で入団挨拶を行った。なお、すぐに新日本に移籍せず、まず当時設立したばかりのプロモーションだったアジアプロレスに移籍して、そこから新日本に上がるという形を取っていた[6]。後に2019年の記事で新日移籍の真相に関してザ・グレート・カブキが、「メキシコ遠征中に馬場さんから帰国するかどうか聞かれた際にメキシコに残ると答えたが、その横で聞いていた元子さんが『あら、かわいくないわね』と機嫌を損ね、それで帰国しても全日に戻れなくなったので移籍を決めた」という内容を話している[7]

新日本プロレスと全日本プロレスの違いに関して越中は「全日は相撲部屋のような縦社会。新日は体育会系の部活のようなノリ」「馬場さんはガイジンと対等にぶつかり合う大きな体が必要と考えていたが、猪木さんは自分から攻めていくことを要求した」という趣旨の感想を述べている。また、風呂に関しても在籍時代の全日は馬場が風呂から上がるまで他の選手は絶対に入浴できなかったが、新日は試合が終わった順番から入っていくことができ、立場が上のものが風呂から上がるのを待つという全日時代の癖が付いていた越中は猪木から「そんな汗かいて、ウロウロしてんじゃねぇ。早くシャワー浴びろ」と注意された[1]

高田伸彦との抗争

1986年2月6日、IWGPジュニア王座決定リーグ戦の決勝でザ・コブラを破り、初代IWGPジュニアヘビー級王座を獲得[2]。その後、旧UWFから戻ってきた高田伸彦とジュニアベルトを争う。高田のキックを愚直にも正面から受けるファイトスタイルはUWFびいきのファンからも支持を集め、一躍人気レスラーとなった。そのキックや関節技を主体とした攻めの高田と、「耐える美学」「人間サンドバッグ」とまでいわれた受けの越中のシングルマッチは「ジュニア版名勝負数え唄」と形容され、当時のプロレスファンの圧倒的な支持を得た。1987年3月20日、王座決定戦で武藤敬司とのコンビを組み、前田日明・高田伸彦組を破り、第4代IWGPタッグ王座を獲得する[2]。1988年2月7日、第1回トップ・オブ・ザ・スーパージュニアでも優勝し[2]、ジュニアでは敵なしの状態にまで上り詰めた。

ヘビー級転向と反選手会同盟結成

獣神サンダー・ライガーらの台頭や自身のウェイトアップによりヘビー級に戦いの場を移す。1990年9月7日、大阪府立体育会館にてグレート・ムタの日本での初対戦相手を務めた。なお、そのさいにメキシコ修行時代のリングネーム『サムライ・シロー』を名乗り対戦している。ムタ戦の直後にドラゴンボンバーズへ入るも機能せずうやむやな形で消滅し、青柳政司率いる誠心会館との抗争に関して小林邦昭と共に新日本プロレス選手会と対立しヒールに転向。1992年7月31日、頭を剃り上げて反選手会同盟(のちの平成維震軍)を結成[2] し、一躍中堅からトップ戦線へ躍り出る。1994年11月13日、東京ベイNKホールで平成維震軍旗揚げ戦を行い、タイガー・ジェット・シンと対決した[2]。この時期、1995年G1 CLIMAX初戦でIWGP王者(当時)武藤敬司を破るという実績も挙げている。

1998年天龍源一郎と組みIWGPタッグ王座獲得。

平成維震軍解散から新日本プロレス離脱へ

1999年2月22日、平成維震軍を解散し新日本本隊に復帰[2]。その後佐々木健介と組みIWGPタッグ王座に返り咲いた。また2000年には分裂後間もない全日本プロレスに参戦し、三冠王者決定トーナメントに出場している。

2003年1月、新日本プロレスを契約満了により退団。選手一本でやっていきたかった越中にとってマッチメイクなど運営の仕事で気が休まらない日々を送るという新日時代終盤の状況は不本意であったが、他に誰も運営の仕事をやる人がいない中で何かあれば絶えず会社に呼び出されていた[1]。その後、WJプロレスに入団。当初は盟主である長州力の片腕的存在だったが、金銭面で揉め、大森隆男らと共にレイバーユニオンを結成。同年10月31日付でフリーランスとなった。WJプロレスが1年で崩壊したことに関しては2019年の取材で「誰のせいでもない」「自分が判断してきたからプロレス人生に悔いはない」と無罰的な態度を示した[1]

フリーランスとしての活動

2004年2月、大森隆男とともに炎武連夢(大谷晋二郎田中将斗組)からNWAインターコンチネンタルタッグ王座を奪取する。さらに、プロレスリング・ノアにも参戦し、かつての平成維震軍の仲間だった齋藤彰俊と共闘、因縁の三沢との対戦も実現した。ZERO1-MAXキングスロードへも参戦。

2006年10月に天山広吉の呼び掛けで、越中は真壁刀義らとG・B・Hを結成して古巣の新日本プロレスで活躍をはじめる。

2007年には、テレビ朝日の『アメトーーク!』内でのケンドーコバヤシによる越中のネタから「越中ブーム」が発生[8]。それも背景に同年5月2日、11年ぶりにIWGPヘビー級選手権試合に臨んだ。入場前の煽りVTRにより開場のボルテージはMAXに上がり、大越中コールの中で入場した越中は、感極まってすぐにはリングに上がることができず、あえてリングの周りを一周して、感情を整えてからリングインした。試合は、王者永田裕志に対しヒップアタックパワーボム侍ドライバー'84ドラゴン・スープレックス・ホールドジャパニーズ・レッグロール・クラッチといった、ジュニア時代から現在までの大技を遺憾なく披露し、入場時と同じ大越中コールの中、ベルト奪取まであと一歩のところで、バックドロップ・ホールドに散った。試合後の記者の呼び掛けには、一言だけ、「サンキュー。サンキューな」と答えた。その後このセリフは、当時共闘していた真壁が2009年にG1を初制覇したときにファンへの感謝の気持ちを述べる際に使用して話題を呼んだ。そのため現在では真壁の名ゼリフとして扱われることの方が主となっている。

2007年8月に蝶野正洋の誘いにのってG・B・Hを離脱した。越中は蝶野、長州力らと「レジェンド」を結成した(レジェンドは、2010年の蝶野の新日本退団まで続いたが、その後は自然消滅または休眠状態。)。

2008年後楽園ホールで行われた『ハッスル・ツアー2008~7.11 in KORAKUEN』からハッスル参戦を表明[9]。日本代表として出場した『ハッスルGP2008』においてザ・モンスター℃を下し、ハッスルデビュー戦を白星で飾った[10]

2009年8月27日に行われたハッスル主催『越中詩郎デビュー30周年記念大会』では新日本の永田裕志、獣神サンダー・ライガーと組み、天龍源一郎、川田利明TAJIRI組と対戦。15分18秒、TAJIRIを高角度パワーボムからのエビ固めで破り勝利[11]。試合後、ファンと共にデビュー30年を振り返った。

2011年5月、3月に晴れてプロレスデビューした橋本真也の長男、橋本大地を相手にタッグマッチを行い、「お前の父ちゃんにしこたまやられたんだ!」とマイクでコメントし、実力差をまざまざと見せつけた。

2012年6月13日、ノア主催三沢光晴メモリアルナイトのメインイベントに登場。森嶋猛とダブルヒップアタックを見せる等の活躍を見せたが、試合中に左足首脱臼骨折を負い長期欠場。

2013年、35周年を迎える。7月7日、ノアの有明コロシアム大会で1年ぶりに復帰した[12]

新日本プロレス移籍の経緯

新日本移籍の経緯については、かつて様々な説が流れたが、現在は越中自身が『やってやるって!』(ケンドーコバヤシとの共著、扶桑社)や『元・新日本プロレス 『人生のリング』を追って』(金澤克彦著、宝島社)で自ら真相を明かしている。それによれば、全日本離脱、新日本移籍の経緯は、三沢光晴がタイガーマスクとして先に凱旋帰国したことに危機感を抱いた中、選手の大量離脱に苦しむ新日本側が大剛鉄之助経由で接触してきたというものである。帰国した足で巡業中で三沢市に滞在していたジャイアント馬場に詫びを入れに出向き、あくまで移籍を認めない馬場を最終的にとりなしたのは、天龍源一郎だった、ということも語られている[2]。別れ際、天龍は「お前、メキシコで苦労して、どうせ金持ってないんだろ!」と言わんばかりに、餞別としてつかみきれないほどの一万円札を越中のポケットにねじ込んだという[5]

また越中は、前記書籍発刊より後に行われたインタビューで、自らに対する馬場の扱いに、かねてから不満を持っていたことを明かしている[13]

得意技

ヒップアタック
ロープに振って跳ね返ってきた相手、または立ったまま(グロッキー状態)の相手に向かって、自らダッシュまたはロープを用いてダッシュする。相手に激突する直前で、自身の体が平仮名の『く』の字になるように、相手に背面を向けるべく自身の体をひねりながらジャンプし、自身の尻を相手の顔面に叩き込む。怪我をしにくい臀部を使用するため自分にダメージは少ないが、相手に対して後ろを向くという危険な技のため、実は難易度が高い。タッグマッチなどで、カットする際にも使用する。
一見して「効いていないのでは?」と言われることもあるが、実際には尾骶骨がまともに相手の顔面に入るため、衝撃度は見た目以上である。テレビの実況では「軽い脳震盪を起こす威力」と紹介されるほか、打たれ強い天龍もこの技を喰らった際には顔を歪めている。佐藤耕平の歯を折ったことで、その威力が証明された。また、武藤敬司は越中の尻を、「とんがっている」と例えている[14]
時には相手にヒップアタック攻撃を読まれ、バックドロップやジャーマン・スープレックスで切り返され、振り向いた際に尾骶骨を蹴られるというカウンター攻撃も何度も食らっている。
旧UWF勢は、ロープに振ってもリバウンドを拒否していたが、なぜかコーナーポストに振ると返ってくることを見抜いた越中が繰り出した。飛んでくるケツの衝撃に前田日明も場外に逃げるしかなかったという。
これらのエピソードを総括して「ダイヤモンドより硬い尻」と言われる。
尚、この技は全日本時代に来日したチャボ・ゲレロから盗んだ、と著書「やってやるって!!」で語っている。
ヒップバット
座った状態でダウンまたは片膝や四つん這い状態の相手の頭めがけて、エルボーバット時のように体を振りかぶって臀部を激しく打ちつける(相手の髪や頭をつかんで決行する場合もある)。また、ほぼ同型の技で、臀部ではなく腿の側面や腰骨を打ち付けていく場合もある。これらは本来、他の選手が使用した場合、ヒップバットとは異なる技として区別されるが、越中が使用した場合は、越中=ヒップバットのイメージが強すぎる為、さらには技の動きがほぼ同型ということもあって、実況や記事などでは総じてヒップバットと報じられる。「厳しい攻め。強烈なヒップバット。ヒップと言うよりは、腰骨のあたりですか?」などの補足形式がとられる。
ダイビング・ヒップアタック
ミサイル・ヒップアタック
場外の相手に、コーナーポストやエプロンからダイブするものをダイビング・ヒップアタックと呼ぶ。リング内の相手に、コーナーポストからダイブするものをミサイル・ヒップアタックと呼ぶ。しかしながら両者は、多くの場合、区分けなくどちらか一方の名前で呼ばれていることがしばしばである。リング内で敢行した場合、キャッチまたはスカされてそのままジャーマンスープレックス等で反撃されることも多い。通常のヒップアタックに比べ、試合終盤のさらにフィニッシュあたりで出すことが主なため、キャッチされてそのままスープレックス・ホールドされ、3カウントを聞くという失態を演じてしまうこともある。
低空式ヒップアタック
WJ、またはノア参戦時頃から使用。片膝や四つん這い、または座りダウン状態の相手に、通常のヒップアタックと同様の動きで敢行する。低空式であるため、まるで空中を滑り込んでいるかのように、越中の尻が相手の顔面に入っていく。
パワーボム
持ち上げてから数秒タメを作る滞空式パワーボムは侍パワーボムと呼ばれ、天龍との抗争以後多用するようになる。両拳を突き上げながらフォールを奪う。
なお、この超高角度パワーボムは越中が元祖と言われている。
侍ドライバー'84
変形のフィッシャーマンバスター。通常のフィッシャーマンとは逆の足を抱えて持ち上げ、自身がシットダウンしながら相手をマットに垂直に頭(首)から落とす。落としてそのまま、仰向けにダウンした相手の首元に、静かに自身の腿を据え置くパターンもある(それがフォールとなる。形としては、ギロチン・ドロップが完了したときの形となる)。尚、技名の'84は、三沢と共に海外修行をしていた年に由来しており、この技自体が、ノア参戦時に対三沢用の技として新たに開発した技である。使用頻度は多くなく、ここぞというときに敢行する。
ジャーマン・スープレックス
ジュニア時代に使用していた。
ドラゴン・スープレックス
ジュニア時代のフィニッシュ・ホールド。ヘビー転向後は投げっ放し式も併用する。
ブレーンバスター
頻繁に出すのではなく、ここぞという時に「ブレーンバスター」と発してから用いている。
掛けた相手が巨体で体重差がある場合などは、お互いに組んだまま掛け合いとなり会場が沸き立つ。雪崩式ブレーンバスターも使う。
ジュニア時代からヘビー転向後しばらくは低空式ブレーンバスターも併用していた。
パイルドライバー
タッグ時では場外でのハイジャック・パイルドライバーを敢行する。
若手時代はツームストーン・パイルドライバーを使っていたが、現在では全く見られない。
ドロップキック
相手をロープに振ってから仰向けにマットと平行になるように飛ぶ(正面飛び式)。ジュニア時代は、自らダッシュしてのスクリュー式ドロップキックも併用していた。
越中式ジャパニーズ・レッグロール・クラッチ
ロープの反動を利用した越中式。ジュニア時代から好んで多用しており、ヘビーに転向してからも使用している。
ジャンピング・アームブリーカー
越中式と言われ、相手の片腕をロックして絞め上げながら後方に倒れ込む。
河津落とし
相手の左足に自分の右足を絡ませながら相手の右肩に自分の右腕を乗せて、一緒に後方へ倒れこみ相手の後頭部から叩きつける。馬場直伝とも言われる。
腰骨攻撃
主に片ひざをついている相手の髪を掴み、顔面に腰骨をぶつけていく。
痙攣
DDT等を食らった後、下肢を痙攣させる。鶴田直伝とも言われる。
太鼓の乱れ打ち
反選手会同盟、平成維震軍時代からの得意技。
タッグマッチの時、相手を自軍のコーナーに押しやり、四つんばい状態(またはかがませて)味方全員で相手の背中を叩きつける。
テキサスクローバーホールド
ブルドッギング・ヘッドロック
雪崩式ダブルアーム・スープレックス
スモール・パッケージ・ホールド
逆さ押さえ込み
グラウンド・コブラツイスト

人物像

プロレスラーの中では、良識のある常識人として知られる。それらは各種インタビューやブログ、コラムなどでもうかがい知ることができる。 常にコンディションが良いことで知られ、「(プロとして)お客に、チケット代以上の試合を見せる」を信条としている(『やってやるって』内ほかで発言)。これは天龍源一郎も、全く別の場で全く同様のことを述べている(『逆説のプロレス~新日本プロレスG1クライマックス25年全事件の真相~』内ほかで発言)。

技術面では受け身の巧さ、切れの良いスープレックス、高角度のパワーボム、瞬時の丸め込み技が特徴である。逃げない受けと緩急の効いた攻めとの組み立てで、名勝負・好勝負を造り出すことに定評がある。また、反体制側に属すことや殺伐とした対抗戦を多く経験しているため、テクニシャンながらラフ殺法も得意とする。(主にヒールとして)相手側や観客を煽り、会場の空気を作り上げていくことにも長けている。

新日本プロレス時代は泥臭さを担当してやろうという意識が本人にあり、エリート集団というイメージであった新日本プロレスにおいては異質な存在であった[1]

派手さはないが、人気・実力ともに三銃士と同等であり、得意なイメージが強い蝶野以外にも、全盛期の武藤、橋本にも数回シングルで勝利しており、藤波、長州からもシングルで勝利している(越中と同時期に活躍した主力選手では、佐々木健介だけにシングルでの勝利がない)。人気については、三銃士のように前面に出るファンではなく、玄人好みの隠れファンが多くいるという意味で、ケンドーコバヤシが「“隠れコシナカン”が多くいる」と表現した。 このように、試合巧者で盛り上がる試合が作れる上、勝ち役も負け役も出来るため、重宝される一方で、器用貧乏的な扱いを受けることも多くあった。

また、近年はヒップアタック等のを利用した攻撃が高い人気を集めており、「ケツだけで試合を組み立てられる」職人レスラーと評価されている。地方大会でも常に全力ファイトを見せ、会場人気はNo.1とも言われる。一方で、そんな会場人気の反面、ファン対応は今一つであるとも言われていたが、これは越中自身の性格云々以上に、長らく反体制側に属していたということが大きく影響していると考えられる。

しかし新日本退団後は、歳を重ねたことも加わってか、越中のファン対応やサービス精神は自身の仕事や活動の幅とともに、飛躍的に軟化している。決して器用なキャラクターではないものの、バラエティやドラマ出演、特にアイドルとの共演が多い。

タイトル歴

新日本プロレス
全日本プロレス
WAR
プロレスリングZERO1
DDTプロレスリング
プロレス大賞

入場曲

中でも「SAMURAI」は反選手会同盟平成維震軍全盛期に使用していたことや、越中の紆余曲折の人生観を表したような曲調もあり、今でも一部で根強い人気がある。

著書

  • やってやるって!!(2007年6月29日、扶桑社ケンドーコバヤシとの共著 ISBN 9784594054038[8]
  • 平成維震軍「覇」道に生きた男たち(2020年1月23日、辰巳出版)越中詩郎、小林邦昭、木村健吾、ザ・グレート・カブキ、青柳政司、齋藤彰俊、AKIRAによる共著

ゲーム

  • 『越中詩郎の完全無ケツだって!』 - 携帯電話用アプリ。

出演

テレビドラマ

ウェブドラマ

映画

バラエティ・その他

ミュージックビデオ

その他のエピソード

  • 高校卒業後、東京電力に入社。全日本プロレス入門まで1年間働いていた。
  • 全日本プロレスの若手時代、三沢光晴とのシングル戦は『前座の黄金カード』と言われるほど、毎回質の高い試合を見せていた。若手の登竜門と言われた1983年のルー・テーズ杯も、決勝には越中と三沢が勝ち上がっている。
  • ド演歌ファイターというニックネームがあり、コスチュームも和風であるが、ビートルズ[25] の大ファンである。中学で出会い擦りきれるほどレコードを聴いたという。ポール・マッカートニーの幻のコンサートでは、前列の席を入手していたという。最も好きな楽曲は『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』(The Long And Winding Road)であり、永田の持つシングルベルトに挑戦した際、入場時でなくてもいいから煽りVTRで流して欲しいと頼んだら断られたという。
  • 生まれも育ちも東京だが、阪神タイガースの大ファンである。専用チャンネル等、放送のある試合は全試合録画しているほどである。また長州力と、甲子園球場に阪神の激励に駆けつけたこともある。
  • コメントの語尾に「〜してやるって!〜ってことですよ!」などと「やるって!」をつける癖があり、一部から「やるって節」とネーミングされたことがある。
  • 趣味はゴルフ鉄道、映画『男はつらいよ』鑑賞、好きなテレビ番組は暴れん坊将軍水戸黄門大河ドラマなど時代劇
  • 経歴欄にある、反選手会同盟結成時に頭を剃り上げてファイトしたが、越中としては初めてではない。メキシコ遠征時代の1984年7月13日、抗争していたエル・サタニコとのカベジェラ・コントラ・カベジェラで敗れ、丸坊主にされている[26]
  • 1987年、仲村トオル主演映画『新宿純愛物語』に木村健吾と共にヤクザ役で出演予定だったが直前に怪我をしたために出演出来なかった。代役大矢健一(現・剛功)。
  • 30代半ばまで独身を通したため、同じく独身の渕正信とともに『週刊プロレス』・『週刊ゴング』両誌読者コーナー独身ネタの標的にされていた。結婚相手は新日本プロレスの事務方の年下の美人で、日本プロレス界初の職場結婚でもあった。平成維震軍解散後敵対関係となった後藤達俊にも「あんなきれいな嫁さん貰いやがって」と逆恨みされていた。なお、後藤自身も、美人記者と評判だったスポーツ紙プロレス担当記者と結婚し、周囲を驚かせている。
  • ケンドーコバヤシが、アメトーーク!で越中詩郎(大好き)芸人をプレゼンしたことを契機に反響を呼び、越中公式サイトは、一時期アクセスが集中してサーバーがダウンし、閲覧しにくくなった。尚、ケンドーコバヤシは、越中詩郎芸人以前から、越中詩郎漫談なるネタを本ネタとして持っており、自身やバッファロー吾郎のイベントなどでオープニングや入場時に越中のテーマ曲であるSAMURAIを使用するなど、筋金入りの越中ファンである。
  • 新日本プロレスでの長州政権ではマッチメイカーを務めていた時期もあり、三銃士よりも高い給料を貰っていたと言われている。
  • G1 CLIMAXにおける蝶野正洋との公式戦は『真夏の名勝負数え歌』と称されていた。これらは越中が新日本に在籍していた時に5回行われ、越中が3勝2敗で勝ち越している。また、蝶野戦に限らず、武藤、橋本、マシン、馳らと名勝負を多く作り上げ、裏G1男と呼ばれることもある。
  • 2016年11月に発売された『ももクロ×プロレス』(ワニブックス)内で、高城れにと対談し、高城が越中の雑草魂の話に深く感銘して大号泣した。高城は「私がこれから芸能界で生きる道を、大先輩として示してくれた」と述べており、一時期スマホの待受を越中にしていたほどである。越中はももクロのライブ『ももいろクリスマス2016 ~真冬のサンサンサマータイム~』にも出演。有名俳優やアイドルが駆けつけている楽屋の中で、「俺、どうすりゃいいんだよ」と困っていると、高城がメンバーに、「わたしの恩人です」と越中を紹介し、メンバーらは「だから待受が!」と納得したという。
  • メキシコ遠征時代、メキシコの状況を知っていてくれた坂口征二に、シリーズの合間にロサンゼルスなどで会っては食事を御馳走してもらった。越中は御馳走して貰ったたぬきそばを汁まで残さず平らげてなお丼を舐め回していたほど、たまの日本食を喜んでいたという[1]
  • 1987年1月27日に熊本県水俣市の旅館において、新日一行が無礼講が高じて酒に酔って暴れ破壊した際に、自身はドン荒川藤原喜明が喧嘩を始めたのを止めに入った、と2019年のインタビューで覚えているところを語った。最後は武藤敬司高田延彦がロビーから外に出て股間を丸出しにして殴り合い、そこに前田日明も交じって大乱闘となった。乱闘を収束させようと援軍に来たタクシーは、異様な光景に恐れをなして皆逃げ帰ってしまったという。数日後、旅館から300万円から400万円の請求書が届いた[1]
  • 平成維震軍時代、メンバー7人全員がスキンヘッドにしたのは誰の発案でもなく自然な流れであった、と越中は2019年の取材で話していた[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『週刊プロレス』NO.1996 2019年2月13日号 pp.55-60
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「レスラーヒューマンストーリー第202回 越中詩郎」、『週刊プロレス』No.1747、平成26年7月23日号(7月9日発行)、71-74頁、2014年。
  3. ^ 『週刊プロレス』NO.1996 2019年2月13日号 p.61
  4. ^ 越中詩郎 (2 January 2015). "【三沢光晴をめぐる証言vol.3】越中詩郎インタビュー" (Interview). 2016年2月10日閲覧 {{cite interview}}: 不明な引数|program=は無視されます。 (説明)
  5. ^ a b c 週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 vol.8 ベースボール・マガジン社 2015年 P68 - P70
  6. ^ ニュー・プロレスアルバムNo.3 男・サムライ越中詩郎 ベースボールマガジン社 1986年
  7. ^ 『週刊プロレス』NO.1996 2019年2月13日号 p.63
  8. ^ a b 今度はセコンドだって! 越中詩郎、ケンコバと共闘か!?”. ORICON STYLE (2007年7月15日). 2016年2月10日閲覧。
  9. ^ ハッスル 越中詩郎がGP参戦 高田延彦出て来いや~!!”. リアルライブ (2008年7月12日). 2016年2月10日閲覧。
  10. ^ 「ハッスルGP2008」大混乱”. リアルライブ (2008年7月28日). 2016年2月10日閲覧。
  11. ^ ハッスル 越中30周年「ケツ」全開”. リアルライブ (2009年8月28日). 2016年2月10日閲覧。
  12. ^ KENTAが七夕決戦で丸藤を破りGHCヘビー級王座V4 “邪道”大仁田は杉浦に電流爆破デスマッチを要求”. リアルライブ (2013年7月8日). 2016年2月10日閲覧。
  13. ^ 「若手を育てようという発想がなかったんですよ。馬場さんの中では、若手っていうのは、自分の世話をする使用人みたいに思ってるからさ」「(三沢を帰国させるにあたり)「航空券を送るから、メキシコのオフィスに話しておけ」って僕に言うんですよ。それは馬場さんの仕事じゃないんですか?って」「(三沢を送り出した後)それで少しは骨を折ってくれるのかと思ったら、以後一切の連絡はありませんでしたね」(『俺たちのプロレスVOL.2 三沢光晴が教えてくれたこと』 双葉社 ISBN 9784575454819 2014年 P33-36所収のインタビュー『証言2 若手時代、メキシコで苦楽を共にした越中詩郎』)
  14. ^ 2009年12月13日の全日本プロレスファン感謝デーで行われたF-1タッグ選手権試合、武藤&神奈月組vs越中&ケンドーコバヤシ組の試合前のVTRで、武藤が神奈月に上記の台詞を言っているシーンが流れている。
  15. ^ 第4代 越中詩郎&武藤敬司”. 新日本プロレス. 2016年2月10日閲覧。
  16. ^ 第35代 天龍源一郎&越中詩郎”. 新日本プロレス. 2016年2月10日閲覧。
  17. ^ 第37代 佐々木健介&越中詩郎”. 新日本プロレス. 2016年2月10日閲覧。
  18. ^ 初代 越中詩郎”. 新日本プロレス. 2016年2月10日閲覧。
  19. ^ 第3代 越中詩郎”. 新日本プロレス. 2016年2月10日閲覧。
  20. ^ 第7代 越中詩郎”. 新日本プロレス. 2016年2月10日閲覧。
  21. ^ 天木じゅん「越中さんのヒップより私のバストの方が強い!」”. NewsWalker (2017年12月5日). 2017年12月11日閲覧。
  22. ^ 越中詩郎”. ~FUGA~キャスティング~. 2016年8月13日閲覧。
  23. ^ “サ上とロ吉、ニューアルバムにプロレスラー越中詩郎が電撃参戦”. 音楽ナタリー. (2015年2月26日). http://natalie.mu/music/news/139453 2016年2月10日閲覧。 
  24. ^ “サ上とロ吉×越中詩郎PVにNegicco、ハヤシ、スチャ、田我流ら豪華カメオ出演”. 音楽ナタリー. (2015年4月8日). http://natalie.mu/music/news/143512 2016年2月10日閲覧。 
  25. ^ “俺の趣味! 第11回 越中詩郎 ビートルズを語る!「中学のとき、コピーバンドをつくって学園祭に出たんだよ」”. 週プレNEWS. (2014年12月25日). https://wpb.shueisha.co.jp/news/sports/2014/12/25/40996/ 2016年2月10日閲覧。 
  26. ^ 月刊ゴング1984年10月号より

外部リンク