皇居
皇居(こうきょ)は、天皇の平常時における宮殿・住居である。現在は東京都千代田区にある。「皇居」の呼称が広く用いられるようになったのは現在の皇居からである。
概要
現在は、第二次世界大戦後に宮城(きゅうじょう)の名称が廃止された東京の江戸城跡一帯を指して皇居と呼んでいる。公式の英語表記は「The Imperial Palace」。天皇の住居である「御所」、各種公的行事や政務の場である「宮殿」、宮内庁庁舎などがある。
江戸時代には京都にあり、御所、禁裏、内裏などと呼ばれていた里内裏であったが、明治維新後の東京行幸の後に留守となり、天皇の指示で保存されて現在に至る。現在は京都御所と称され、英名は「Kyoto Imperial Palace」。行幸後、首都機能が東京に移った際、明確な遷都の法令が発せられなかったので、京都御所を現在も皇居とみなす向きもある。しかし明治以降、京都御所に近代的居住機能が付加されることはなく、平安時代の様式を伝える最高格式の紫宸殿(正殿)や日常生活の場である常御殿などが保存されている文化財となっている。それ以前の御所については遺構が残るのみである。
皇居の呼び名は、内裏(だいり)、御所、大内(おおうち)、大内山、九重(ここのえ)、宮中(きゅうちゅう)、禁中(きんちゅう)、禁裏(きんり)、百敷(ももしき)、紫の庭(むらさきのにわ)、皇宮(こうぐう)、皇城(こうじょう)、宮城(きゅうじょう)、大宮、雲の上、雲居など非常に多い。
歴史
宮(みや)は家(や「屋」)に尊称(み「御」)がついた言葉である。身分の高い人の住居という意味から出発し、やがて天皇や皇族の宮殿を意味するようになった。古代には、天皇の住居は一世ごとに移転され、皇居は宮(みや)と呼ばれる宮殿を指した。『古事記』や『日本書紀』には、4世紀から6世紀にかけての宮殿の多くが奈良盆地の東南の地に営まれたと記されている。
飛鳥の宮
592年に推古天皇が即位した豊浦宮から694年持統天皇が藤原京へ遷都するまでの約100年間は、奈良の南の地飛鳥周辺に宮殿が集中したので飛鳥京と呼ぶことがある。このような宮には、小墾田宮(603年 - 630年)、飛鳥岡本宮(630年 - 636年)、飛鳥板蓋宮(643年 - 655年)、後飛鳥岡本宮(656年 - 672年)、飛鳥浄御原宮(672年 - 694年)などがある。その頃の大規模な居館がいくつか発見されている。それらは地面に穴を掘って柱の根本を固定する掘立柱建物である。これらの建物の内、7世紀以降では、中心建物は南を正面としているのが特徴である。
後には、中国王朝の影響で京(みやこ)が造営されるようになり、天皇は京の中の内裏(だいり)に定着し、これを皇居とした。国政の中枢である朝堂院を始めとする中央官衙は内裏に併設され、合わせて宮城と呼ばれる。
京には、難波京(大阪)、藤原京(奈良)、平城京(奈良)、平安京(京都)などがある。
平安時代から江戸時代
平安京は、794年(延暦13年)に桓武天皇によって定められた。960年(天徳4年)に内裏が焼失し、再建されるまで冷泉院を仮の皇居とした。976年(貞元元年)にも内裏が被災し、藤原兼通の邸宅である堀河殿を仮皇居としている。平安京の内裏はしばしば焼亡したため、摂関や外戚など臣下の邸宅を仮皇居(里内裏)とすることも多かった。平安時代末期からは、内裏があっても里内裏を皇居とすることが一般化した。1227年(安貞元年)に宮城(大内裏)が焼失してからは内裏は再建されず、里内裏を転々とした。南北朝時代の1331年(元弘元年、元徳3年)、北朝の光厳天皇が土御門東洞院殿で即位してからは、この御殿が内裏に定められた。これが、現在の京都御所の前身となる。
明治時代以後
慶応4年7月17日(1868年9月3日)に江戸は東京と改められた。同年10月13日(1868年11月26日)、明治天皇が東京に行幸して江戸城西の丸(現在は宮殿のみが建っている・現在の吹上御所とは別の場所)に入った際、江戸城も東京城と改称され、天皇の東幸中の仮皇居と定められた。天皇は一旦京都に戻った。
翌明治2年3月28日(1869年5月9日)、再び東京に行幸し、1877年(明治10年)には京都御所が保存され今に至る(東京奠都の項目を参照)。
歴代の皇居
歴代の皇居(宮都)の一覧。飛鳥時代以前の宮号は『日本書紀』(一部『古事記』)を典拠とする。
宮号 | 期間 | 天皇 | 所在地(推定地含む) | |
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畝傍橿原宮 | 神武天皇元年1月 - | 初代神武天皇 | 奈良県橿原市畝傍町 | |
葛城高丘宮 | 綏靖天皇元年1月 - | 第2代綏靖天皇 | 奈良県御所市森脇 | |
片塩浮孔宮 | 安寧天皇2年 - | 第3代安寧天皇 | 奈良県大和高田市三倉堂 または奈良県橿原市四条町 | |
軽曲峡宮(軽境岡宮) | 懿徳天皇2年1月 - | 第4代懿徳天皇 | 奈良県橿原市白橿町 | |
掖上池心宮(葛城掖上宮) | 孝昭天皇元年7月 - | 第5代孝昭天皇 | 奈良県御所市池之内 | |
室秋津島宮 | 孝安天皇2年10月 - | 第6代孝安天皇 | 奈良県御所市室 | |
黒田廬戸宮 | 孝安天皇102年12月 - | 第7代孝霊天皇 | 奈良県磯城郡田原本町黒田 | |
軽境原宮 | 孝元天皇4年3月 - | 第8代孝元天皇 | 奈良県橿原市見瀬町 | |
春日率川宮 | 開化天皇元年10月 - | 第9代開化天皇 | 奈良県奈良市本子守町 | |
磯城瑞籬宮 | 崇神天皇3年9月 - | 第10代崇神天皇 | 奈良県桜井市金屋 | |
纒向珠城宮(師木玉垣宮) | 垂仁天皇2年10月 - | 第11代垂仁天皇 | 奈良県桜井市穴師 | |
纒向日代宮 | 景行天皇4年11月 - | 第12代景行天皇 | 奈良県桜井市穴師 | |
志賀高穴穂宮 | 景行天皇58年2月 - | 第12代景行天皇 - 第13代成務天皇 | 滋賀県大津市穴太 | |
穴門豊浦宮 | 仲哀天皇2年9月 - | 第14代仲哀天皇 | 山口県下関市長府宮の内町 | |
橿日宮 | 仲哀天皇8年1月 - | 第14代仲哀天皇 | 福岡県福岡市東区香椎 | |
磐余稚桜宮 | 神功皇后摂政3年1月 - | 神功皇后 | 奈良県桜井市谷 または桜井市池之内 | |
軽島豊明宮(軽島明宮) | (遷都年次不明) | 第15代応神天皇 | 奈良県橿原市大軽町 | |
難波大隅宮 | 応神天皇22年3月 - | 第15代応神天皇 | 大阪府大阪市東淀川区大隅 | |
難波高津宮 | 仁徳天皇元年1月 - | 第16代仁徳天皇 | 大阪府大阪市天王寺区餌差町 または大阪市中央区法円坂 | |
磐余稚桜宮 | 履中天皇元年2月 - | 第17代履中天皇 | 奈良県桜井市谷 または桜井市池之内 | |
丹比柴籬宮 | 反正天皇元年10月 - | 第18代反正天皇 | 大阪府松原市上田 | |
遠飛鳥宮 | (遷都年次不明) | 第19代允恭天皇 | 奈良県高市郡明日香村飛鳥 | |
石上穴穂宮 | 允恭天皇42年12月 - | 第20代安康天皇 | 奈良県天理市田町 | |
泊瀬朝倉宮 | 安康天皇3年11月 - | 第21代雄略天皇 | 奈良県桜井市岩坂 または桜井市脇本・黒崎 | |
磐余甕栗宮 | 清寧天皇元年1月 - | 第22代清寧天皇 | 奈良県橿原市東池尻町 | |
忍海角刺宮 | 清寧天皇5年1月 - | (飯豊青皇女) | 奈良県葛城市忍海 | |
近飛鳥八釣宮(近飛鳥宮) | 顕宗天皇元年1月 - | 第23代顕宗天皇 | 奈良県高市郡明日香村八釣 または大阪府羽曳野市飛鳥 | |
石上広高宮 | 仁賢天皇元年1月 - | 第24代仁賢天皇 | 奈良県天理市石上町 または天理市嘉幡町 | |
泊瀬列城宮 | 仁賢天皇11年12月 - | 第25代武烈天皇 | 奈良県桜井市出雲 | |
樟葉宮 | 継体天皇元年(507年?)2月 - | 第26代継体天皇 | 大阪府枚方市楠葉丘 | |
筒城宮 | 継体天皇5年(511年?)10月 - | 第26代継体天皇 | 京都府京田辺市多々羅都谷 | |
弟国宮 | 継体天皇12年(518年?)3月 - | 第26代継体天皇 | 京都府長岡京市今里 | |
磐余玉穂宮 | 継体天皇20年(526年?)9月 - | 第26代継体天皇 | 奈良県桜井市池之内 | |
勾金橋宮 | 安閑天皇元年(534年?)1月 - | 第27代安閑天皇 | 奈良県橿原市曲川町 | |
檜隈廬入野宮 | 宣化天皇元年(536年?)1月 - | 第28代宣化天皇 | 奈良県高市郡明日香村檜前 | |
磯城島金刺宮 | 欽明元年(540年?)7月 - | 第29代欽明天皇 | 奈良県桜井市金屋・外山 | |
百済大井宮 | 敏達天皇元年(572年?)4月 - 敏達天皇4年(575年?) | 第30代敏達天皇 | 奈良県桜井市大福 または奈良県北葛城郡広陵町百済 | |
訳語田幸玉宮 (他田宮・磐余訳語田宮) |
敏達天皇4年(575年?) - | 第30代敏達天皇 | 奈良県桜井市戒重 | |
磐余池辺双槻宮 | 敏達天皇14年(585年?)9月 - | 第31代用明天皇 | 奈良県桜井市阿部 | |
倉梯宮(倉椅柴垣宮) | 用明天皇2年(587年?)8月 - | 第32代崇峻天皇 | 奈良県桜井市倉橋 | |
豊浦宮(桜井等由羅宮) | 崇峻天皇5年(592年)12月 - 推古天皇11年(603年)10月 | 第33代推古天皇 | 奈良県高市郡明日香村豊浦 | |
小墾田宮 | 推古天皇11年(603年)10月 - 推古天皇36年(628年)3月 | 第33代推古天皇 | 奈良県高市郡明日香村雷 | |
飛鳥岡本宮(高市岡本宮) | 舒明天皇2年(630年)10月 - 舒明天皇8年(636年)6月 | 第34代舒明天皇 | 奈良県高市郡明日香村岡 | |
田中宮 | 舒明天皇8年(636年)6月 - | 第34代舒明天皇 | 奈良県橿原市田中町 | |
百済宮 | 舒明天皇12年(640年)10月 - 舒明天皇13年(641年)10月 | 第34代舒明天皇 | 奈良県桜井市吉備 または奈良県北葛城郡広陵町百済 | |
飛鳥板蓋宮 | 皇極天皇2年(643年)4月 - 斉明天皇元年(655年)冬 | 第35代皇極天皇 - 第37代斉明天皇 | 奈良県高市郡明日香村岡 | |
難波長柄豊碕宮 | 白雉2年(652年)12月 - 朱鳥元年(686年)1月 | 第36代孝徳天皇 - 第40代天武天皇 | 大阪府大阪市中央区法円坂 | |
飛鳥川原宮 | 斉明天皇元年(655年)冬 - 斉明天皇2年(656年) | 第37代斉明天皇 | 奈良県高市郡明日香村川原 | |
後飛鳥岡本宮 | 斉明天皇2年(656年) - 天智天皇6年(667年)3月 | 第37代斉明天皇 - 第38代天智天皇 | 奈良県高市郡明日香村岡 | |
朝倉橘広庭宮 | 斉明天皇7年(661年)5月 - 7月 | 第37代斉明天皇 | 福岡県朝倉市須川 または朝倉市杷木志波 | |
近江大津宮 | 天智天皇6年(667年)3月 - 天武天皇元年(672年)7月 | 第38代天智天皇 - 第39代弘文天皇 | 滋賀県大津市錦織 | |
飛鳥浄御原宮 | 天武天皇元年(672年)冬 - 持統天皇8年(694年)12月 | 第40代天武天皇 - 第41代持統天皇 | 奈良県高市郡明日香村岡 | |
藤原宮 | 持統天皇8年(694年)12月 - 和銅3年(710年)3月 | 第41代持統天皇 - 第43代元明天皇 | 奈良県橿原市高殿町など | |
平城宮(寧楽宮) | 和銅3年(710年)3月 - 天平12年(740年)12月 天平17年(745年)5月 - 延暦3年(784年)11月 |
第43代元明天皇 - 第50代桓武天皇 | 奈良県奈良市佐紀町 | |
難波宮 | 天平6年(734年)3月 - 延暦3年(784年)11月 | 第45代聖武天皇 - 第50代桓武天皇 | 大阪府大阪市中央区法円坂 | |
大養徳恭仁大宮(恭仁宮) | 天平12年(740年)12月 - 天平16年(744年)2月 | 第45代聖武天皇 | 京都府木津川市加茂町例幣など | |
紫香楽宮(信楽宮・甲賀宮) | 天平17年(745年)1月 - 5月 | 第45代聖武天皇 | 滋賀県甲賀市信楽町宮町 | |
保良宮 | 天平宝字5年(761年)10月 - 天平宝字8年(764年)9月 | 第47代淳仁天皇 | 滋賀県大津市国分 | |
由義宮 | 神護景雲3年(769年)10月 - 宝亀元年(770年)8月 | 第48代称徳天皇 | 大阪府八尾市八尾木・都塚 | |
長岡宮 | 延暦3年(784年)11月 - 延暦13年(794年)10月 | 第50代桓武天皇 | 京都府向日市鶏冠井町など | |
平安宮 | 延暦13年(794年)10月 - 明治2年(1869年)3月 | 第50代桓武天皇 - 第122代明治天皇 | 京都府京都市上京区 | |
福原宮 | 治承4年(1180年)6月 - 11月 | 第81代安徳天皇 | 兵庫県神戸市兵庫区荒田町など | |
(南朝) | 吉野行宮 | 延元元年(1336年)12月 - 正平3年(1348年)1月 正平23年(1368年)12月 - 正平24年(1369年)4月 文中2年(1373年)8月 - 天授5年(1379年)頃 元中2年(1385年)頃 - 元中9年(1392年)10月 |
第96代後醍醐天皇 - 第99代後亀山天皇 | 奈良県吉野郡吉野町吉野山 |
賀名生行宮 | 正平3年(1348年)9月 - 正平7年(1352年)2月 正平7年(1352年)5月 - 正平9年(1354年)10月 |
第97代後村上天皇 | 奈良県五條市西吉野町賀名生 または五條市西吉野町黒渕 | |
天野行宮 | 正平9年(1354年)10月 - 正平14年(1359年)12月 正平24年(1369年)4月 - 文中2年(1373年)8月 |
第97代後村上天皇 - 第98代長慶天皇 | 大阪府河内長野市天野町 | |
観心寺行宮 | 正平14年(1359年)12月 - 正平15年(1360年)9月 | 第97代後村上天皇 | 大阪府河内長野市寺元 | |
住吉行宮 | 正平15年(1360年)9月 - 正平23年(1368年)12月 | 第97代後村上天皇 - 第98代長慶天皇 | 大阪府大阪市住吉区墨江 | |
栄山行宮 | 天授5年(1379年)頃 - 元中2年(1385年)頃 | 第98代長慶天皇 - 第99代後亀山天皇 | 奈良県五條市小島町 | |
皇居(宮城) | 明治2年(1869年)3月 - 現在 | 第122代明治天皇 - | 東京都千代田区千代田 |
明治以降の皇居
明治以降の皇居は、江戸時代末期まで徳川将軍家が居城としていた江戸城跡にある。江戸城の内郭(内堀内)には、本丸、二の丸、三の丸、西の丸のほか、西寄りの部分には「吹上」と呼ばれる庭園があった。「吹上」はかつては屋敷地であったが、明暦の大火(1657年(明暦3年))以降、火除け地として、建物が建てられないようになっていた。
皇室関連施設のうち、宮殿、宮内庁庁舎などは旧西の丸に位置するが、天皇の住まいである御所は江戸城の「吹上」、現在の「吹上御苑」に建てられている。旧西の丸と吹上御苑は道灌堀という堀で隔てられている[1]。城郭としての江戸城は本丸、二の丸、三の丸および西の丸部分のみを言い、道灌堀の西側にある庭園部分は厳密には江戸城には含まれないので、御所は城郭としての江戸城跡に建っているわけではない[2]。
現在、皇居一帯は東京の中央部にありながら、緑豊かな地区で、濠の周りはジョギング道として人気が高い。皇居の住居表示は東京都千代田区千代田1番1号で、本籍として人気が高い住所になっている(郵便番号は100-0001)。また、国有財産としての皇居の価値は、2146億4487万円である(財務省資料に基づく、2009年5月現在)[3]。
衛星パノラマ画像プログラムのGoogle Earthにおいては世界のランドマークの一つとして登録されている。
歴史
- 1868年(慶応4年)、明治天皇の東京行幸により江戸城が東京城(とうけいじょう)と称され、東京の皇居となる。
- 1869年(明治2年)、2度目の東京行幸で天皇の東京滞在が発表され、東京城は皇城(こうじょう)と称される。
- 1873年(明治6年)、それまで天皇の御座所とされていた江戸城西の丸御殿が火災のため焼失し、一時、赤坂離宮を仮皇居とした。
- 1879年(明治12年)西の丸に新宮殿を造営することが決まり、1888年(明治21年)に明治宮殿が落成し、同年10月27日以後、宮城(きゅうじょう)と称された[4]。明治宮殿は、御車寄、正殿、東溜、西溜、豊明殿、千種の間、鳳凰の間など、儀式・応接・政務が行われる公の場である表宮殿と、天皇の住居にあたる奥宮殿とが接続していた。表宮殿は木造で、外観は和風建築だが、内部は和風の格天井からシャンデリアを下げるなど和洋折衷とし、椅子とテーブルを用いていた。この明治宮殿は1945年(昭和20年)5月、空襲による飛び火で焼失した。
- 1935年頃、宮内省第2期庁舎に鋼鉄扉の防空室(地下金庫室)が作られた。だが、内部が狭く大型爆弾に耐えられないことから、宮内省工匠寮の設計で、吹上御所近くに新たに防空壕を作ることになった。のちに御文庫と命名される大本営防空壕が完成するまでの間、昭和天皇・香淳皇后は空襲警報発令のたびに宝剣神璽(三種の神器のうち剣と璽)とともに地下金庫室に避難していた。
- 1941年4月12日に御文庫(おぶんこ)が極秘に着工され、1942年12月31日に完成した。施工を請負ったのは大林組。建築費は約200万円であった。建坪1,320m2。地上1階、地下1階・2階の3階建て。そこには天皇・皇后の寝室、居間、書斎、応接室、皇族御休息所、食堂、洗面所、侍従室、女官室、風呂、便所などがあった。このほか、映写ホール、ピアノ、玉突き台などもあった。屋根は1トン爆弾に耐えるよう、コンクリート1mの上に砂1m、さらにその上にコンクリート1mの計3mの厚さであった[5]。天皇は午前中は表御座所(御政務室)、午後は御文庫で過ごすのが日課であった。
- 1945年6月頃に戦況が悪化したため、さらに頑丈な御文庫附属室が御文庫から90 m離れた地下10mに陸軍工兵部によって建設された。広さ330 m2、56 m2の会議室2つと2つの控室、通信機械室があり、床は板張り、各室とも厚さ約1 mの鉄筋コンクリートの壁で仕切られていた。50トン爆弾にも耐えるよう設計され御文庫とは地下道で結ばれていた[6]。この地下壕はのちの終戦時の2度の御前会議の場所となった。戦後、御文庫附属庫は昭和天皇の意向で修理・保存されることなく朽ちるままになっている。しかし定期的に写真や映像などの記録はとられており戦後70年にあたる平成27年8月にはデジタル音源化された玉音放送とともに映像や写真が公開された[7][8]。
- 1948年(昭和23年)7月1日に宮城の名称は廃止され、皇居と呼ばれるようになった[9]。
- 1952年(昭和27年)からは宮内庁庁舎の最上階(3階)を仮の宮殿とした。
戦後暫くの間、焼失した宮殿の再建は行われなかった。この理由について、昭和天皇の侍従長を務めた入江相政によると、「お上(昭和天皇)は戦争終了後、『国民が戦災の為に住む家も無く、暮らしもままならぬ時に、新しい宮殿を造ることは出来ぬ』[10]と、国民の生活向上を最優先とすべしという考えから、戦災で消失した宮殿などの再建に待ったをかけていた」と述べている。[要出典]
昭和30年代に入って、日本の復興が一段落した頃に宮殿再建の動きが活発となり、1959年(昭和34年)、皇居造営審議会の答申に基づき、翌1960年(昭和35年)から新しい宮殿の造営が始められた。宮殿(いわゆる新宮殿)は、明治宮殿のように天皇の御所とは接続させず、御所と宮殿を別々に造ることとなった。まず1961年(昭和36年)、昭和天皇および香淳皇后の住居として皇居内吹上地区の御文庫に隣接・組込まれて建設された吹上御所が完成した。新宮殿は明治宮殿跡地に1964年(昭和39年)着工し、1968年(昭和43年)10月竣工。同年11月14日に落成式が挙行され、翌1969年(昭和44年)4月から使用された。なお吹上御所は、1993年(平成5年)12月9日に、皇太后(香淳皇后)の住まいとして吹上大宮御所と改称された[11]。
今上天皇、皇后は、即位後も暫くは引き続き赤坂御所(現東宮御所)に居住[12]しながら皇居宮殿に通っていたが、皇居内吹上地区の一角に新たな御所が建設され、1993年(平成5年)12月8日から使用している[13]。
皇居内の施設
- 宮殿
- 1969年(昭和44年)4月から使用されている。鉄骨鉄筋造で、地上2階、地下1階、延べ面積22,949平方メートル。基本設計は吉村順三。表御座所棟、表御座所附属棟、正殿(せいでん)、豊明殿(ほうめいでん)、連翠(れんすい)、長和殿(ちょうわでん)、千草の間・千鳥の間の7棟からなり、これら建物に面して中庭(ちゅうてい)、東庭(とうてい)、南庭(なんてい)がある。
- 表御座所棟
- 天皇が日常の執務をする部屋(表御座所)のほか、侍従の部屋などがある。
- 正殿
- 豊明殿
- 連翠
- 長和殿
- 南北163メートルにおよぶ細長い建物で、参殿者の休所や、もてなし、拝謁等多目的に使用される。部屋名は北から南へ順に、北溜、北の間、石橋(しゃっきょう)の間、春秋の間、松風の間、波の間、南溜。一般参賀の行なわれる東庭に面しており、一般参賀の際には皇族は長和殿ベランダの中央部に立つ。1969年(昭和44年)1月2日、新宮殿完成後初の皇居一般参賀で昭和天皇らが長和殿ベランダに立った際、パチンコ玉で狙われる事件が発生した。皇族は負傷しなかったが、この事件の後、長和殿ベランダ中央部には防弾ガラスが設けられた。
- 春秋の間
- 宮内では豊明殿に次いで広い大広間で、各国賓客の歓迎会や拝謁等に用いられる。平成に入ってからは、各種レセプションに使用される機会も多くなった。
- 石橋の間、松風の間
- 春秋の間に隣接した広間で、参殿者の休所等として利用される。
- 北の間、波の間
- 参殿者の休所等として利用される部屋。
- 北溜、南溜
- 北車寄、南車寄につながる玄関ホール。北溜は記帳所として利用されることもある。波の間と正殿の間には長さ70メートルほどの回廊があり、国賓等は長和殿から回廊を経て正殿に向かう。
- 北車寄、中車寄、南車寄
- 北車寄は長和殿の北端、南車寄は長和殿の南端、中車寄は長和殿の地下にある。長和殿と東庭の地下は、参殿者のための地下駐車場となっている。
- 回廊、千草の間、千鳥の間
- 庭園(中庭、東庭、南庭)
- 東庭は新年・天皇誕生日の一般参賀の場として使用される。
- 御所
- 吹上大宮御所
- 宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)
- 宮内庁庁舎
- 生物学研究所
- 紅葉山御養蚕所
- 皇居東御苑
- 1968年(昭和43年)10月1日から一般公開されている。
- 桃華楽堂
- 三の丸尚蔵館
- 皇宮警察本部庁舎
- 宮内庁書陵部庁舎
- 宮内庁病院
その他
- 皇居周辺は1周が約5キロで信号機もないことから、手軽なランニングコースになっている(皇居ランニング)[14]。高低差は約26メートル。初心者から上級者まで、幅広く走れる[15]。
- 大きさは約115万m²で,東京ドーム約25個分である。[16]
皇居の自然環境
皇居は江戸城時代から手付かずの自然が残り、貴重な生態系が維持されている。吹上御苑と道灌濠周辺で行われた国立科学博物館による1996 - 2000年度と2009 - 2013年度の二回の調査で、植物2077種、動物6375種の生息が確認されており、フキアゲニリンソウ(草)やニホンコシアカハバチ(蜂)のような新種、イシカワモズク(藻)やヒロクチコギセル(貝)といった絶滅危惧種も確認されている。一方で、アカボシゴマダラ(蝶)やスズミグモ(蜘蛛)のような外来種の侵入も確認された。
こうした調査から、太田道灌の遺徳を偲び道灌時代の遺構に手を加えなかった伝承の信憑性や、明暦の大火後に防火帯として整備した庭園に古い生態系が閉じ込められたこと、2003年に始まった東京都によるディーゼル車規制条例の効果が現れている可能性、地球温暖化(ヒートアイランド)が進行していることなどが示唆された。[17]
脚注
- ^ 現在は上・中・下道灌濠の3つの濠に分かれている。
- ^ 江戸城の本丸、二の丸、三の丸の一部分は、現在は皇居東御苑として一般公開されている。
- ^ 『皇室 Our Imperial Family』43号、扶桑社、2009年、15頁。
- ^ 『皇居御造營落成ニ付自今宮城ト稱セラル件』。ウィキソースより閲覧。
- ^ 松浦総三著『天皇裕仁と東京大空襲』、大月書店
- ^ 入江相政著『入江相政日記』第2巻、朝日新聞社
- ^ 御文庫(おぶんこ)附属庫(ふぞくこ)関係の資料
- ^ ここから、戦後は始まった 御文庫附属室と玉音原盤公表
- ^ 『皇居を宮城と称する告示廃止』。ウィキソースより閲覧。
- ^ 建て替えられなかった御所
- ^ 1993年(平成5年)12月9日『官報』第1297号皇室事項「皇太后陛下の御在所の名称変更」
- ^ (英語) 天皇皇后両陛下の御在所が定められた件, ウィキソースより閲覧。
- ^ 1993年(平成5年)12月9日内閣告示第6号「天皇皇后両陛下の皇居へ御移転が定められた件」
- ^ 産経新聞2010年1月29日配信記
- ^ 皇居ランニングポータルサイト
- ^ 皇居へ行ってみよう - 宮内庁キッズページへようこそ!!
- ^ 国立科学博物館皇居生物相調査グループ『皇居・吹上御苑の生き物』世界文化社、2001年、255ページ頁。ISBN 978-4-41-801303-6。
参考文献
- 『宮殿』毎日新聞社、1969年
関連項目
外部リンク
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