「式守伊之助」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
意味をなしてない接続詞を除去、報道関係の文章そのままのような文体を一部修正。
出典
1行目: 1行目:
'''式守 伊之助'''(しきもり いのすけ)は[[大相撲]]の[[立行司]]の名前で、[[木村庄之助]]に次いで2番目の地位[[番付]]で言うところの西正位[[横綱]]あたる。当代は2013年11月場所から務める[[式守伊之助 (40代)|40代]](2016年11月現在)である。
'''式守 伊之助'''(しきもり いのすけ)は[[大相撲]]の[[立行司]]の名前。[[行司]]として[[木村庄之助]]に次2番目の地位で、[[番付]]の西正位[[横綱]]に相当する。[[2016年]]11月現在の当代は、[[2013年]]11月場所から務める[[式守伊之助 (40代)|40代]]である。


== 解説 ==
== 解説 ==
[[File:39th Inosuke Shikimori in Sumiyoshi Taisha (1) IMG 1474-2 20130302.JPG|thumb|250px|39代伊之助(のち37代庄之助)。式守伊之助の軍配の房色・[[直垂]]の[[菊綴]]は紫白と定められている。]]
[[File:39th Inosuke Shikimori in Sumiyoshi Taisha (1) IMG 1474-2 20130302.JPG|thumb|250px|39代伊之助(のち37代庄之助)。式守伊之助の軍配の房色・[[直垂]]の[[菊綴]]は紫白と定められている。]]
この[[名跡]]は代々[[三役]]格から立行司に昇格する[[行司]]が襲名しており、[[軍配]]に紫白の房、装束に紫白の菊綴じを着用し<ref>1927年から1959年までの伊之助の菊綴・房は、現在のものより白部分が少ない紫白であった。伊之助が用いる現在の紫白は1927年から1951年まで木村玉之助が用い、1951年から1959年までは副立行司が用いていた。</ref>、庄之助同様差し違えた際に切腹する覚悟を意味する[[短刀]]を左腰にし、右腰に[[印籠]]を下げる。本場所では三役格以下と同様に2番を合せている。
この[[名跡]]は代々[[三役]]格から立行司に昇格する行司が襲名しており、[[軍配]]に紫白の房、装束に紫白の菊綴じを着用し<ref>1927年から1959年までの伊之助の菊綴・房は、現在のものより白部分が少ない紫白であった。伊之助が用いる現在の紫白は1927年から1951年まで木村玉之助が用い、1951年から1959年までは副立行司が用いていた。</ref>、庄之助同様に軍配を差し違えた際に切腹する覚悟を意味する[[短刀]]を左腰に帯刀し、右腰に[[印籠]]を下げる。本場所では三役格以下と同様に2番を合せる。


[[式守伊之助 (初代)|初代]]が[[明和]]年間より[[寛政]]年間にかけて使用した軍配が現存する。現在、土俵上で受け継がれている1本の軍配(「'''ゆずり団扇'''」とも呼ぶ)に記されている文字は、どようにむのかはっきりていない。(この軍配の裏面に書かれている文字和歌したためられており正確に読むことができる。その和歌の文面「いにしへの ことりつかひの おもかけを 今ここに見る 御世そめてたき」でる。[[1882年]]の相撲錦絵にすでに登場しているが、伊之助のゆずり団扇となったのは[[木村庄之助 (24代)|20代]]時代の[[1960年]]5月からである
[[式守伊之助 (初代)|初代]]が[[明和]]年間より[[寛政]]年間にかけて使用した軍配「'''ゆずり団扇'''」とも呼ばれて現在も継承され、記される文字の読み下しは不明だが、裏面の和歌は「いにしへの ことりつかひの おもかけを 今ここに見る 御世そめてたき」と読むことがる。[[1882年]]の相撲[[錦絵]]にすでに登場しているが、[[木村庄之助 (24代)|20代伊之助]]時代の[[1960年]]5月から伊之助のゆずり団扇となった


行司[[停年]]制実施前の[[1958年]]限りで庄之助同様[[年寄名跡]]より除かれた。現存する行司2家のうち[[式守家]]は[[式守伊之助 (初代)|初代伊之助]]が式守姓を名乗ったことに由来するといわれる。
行司[[停年]]制実施前の[[1958年]]限りで庄之助同様[[年寄名跡]]より除かれた。現存する行司2家のうち[[式守家]]は[[式守伊之助 (初代)|初代伊之助]]が式守姓を名乗ったことに由来するといわれる。


多くが60歳を過ぎてから襲名する傾向にあり、[[式守伊之助 (19代)|19代]]<ref>19代は定年制導入以前である。</ref>、[[式守伊之助 (27代)|27代]]、[[式守伊之助 (30代)|30代]]、[[式守伊之助 (34代)|34代]]が64歳、[[式守伊之助 (26代)|26代]]が63歳で襲名を果たしている。一方、若年襲名の記録として[[式守伊之助 (6代)|6代]]<ref>6代は生年月日が不明である。</ref>と[[式守伊之助 (8代)|8代]](40、[[木村庄之助 (27代)|23代]](48歳)の例あり、当代[[式守伊之助 (40代)|40代]]は54歳で襲名している。
60歳を過ぎてから襲名する者が多く、[[式守伊之助 (19代)|19代]]<ref>19代は定年制導入以前である。</ref>、[[式守伊之助 (27代)|27代]]、[[式守伊之助 (30代)|30代]]、[[式守伊之助 (34代)|34代]]が64歳、[[式守伊之助 (26代)|26代]]が63歳で襲名している。若年襲名[[式守伊之助 (6代)|6代]]<ref>6代は生年月日が不明である。</ref>と[[式守伊之助 (8代)|8代]]が40歳、[[木村庄之助 (27代)|23代]]が48歳、当代[[式守伊之助 (40代)|40代]]は54歳で襲名している。


[[明治]]年間本場所で[[勧進]]元を務めた伊之助が開催直前に亡くなるとう“[[位牌]]勧進元が続いたことがあった。6代、7代、8代、9代と連続して起こり、その直前である5も含め5人続けて現役で亡くなった。さらに、14代は[[1926年]]1月場所から襲名が決まったものの、伊之助として土俵に上がることなく前年暮れに死ている(死後、1926年1月場所の番付は14代として「式守伊之助」と書かれている。「伊之助の祟り」とて恐れられたが、ことごとく偶然が重なったことによる
[[明治]]年間に[[本場所]]で[[勧進]]元を務めた伊之助が開催直前に死去し、わゆる「[[位牌]]勧進元が続いた。[[式守伊之助 (5代)|5代]]、6代、[[式守伊之助 (7代)|7代]]、8代、[[式守伊之助 (9代)|9]]と5人続けて現役で亡くな[[式守伊之助 (14代)|14代]]は[[1926年]]1月場所から襲名となるが伊之助として土俵に上がることなく前年暮れに死た。1926年1月場所の番付は14代として「式守伊之助」と書かれている。のちに「伊之助の祟り」とも喧伝されて恐れられた。


[[木村庄之助 (17代)|10代]]以降は庄之助を襲名することが可能となったため、以後29人中17人が庄之助を襲名している。庄之助に継ぐ地位であるが、6代と8代の2人は庄之助の上位に位置されたことがある。ただし、8代は死跡であったため庄之助より上位として土俵に上がった伊之助は6代1人だけである。
[[木村庄之助 (17代)|10代]]以降は庄之助を襲名することが可能となったため、以後29人中17人が庄之助を襲名している。庄之助に継ぐ地位であるが、6代と8代の2人は庄之助の上位に位置されたことがある。ただし、8代は死跡であったため庄之助より上位として土俵に上がった伊之助は6代1人だけである。


また、立行司が3人制(庄之助、伊之助、[[木村玉之助|玉之助]]。玉之助はのち[[副立行司]]に降格)時代に、木村玉之助から伊之助を襲名したのは[[木村庄之助 (21代)|17代]]と[[木村庄之助 (22代)|18代]]の2人の伊之助のみである
立行司が庄之助、伊之助、のち[[副立行司]]に降格された[[木村玉之助|玉之助]]、と3人制時代[[木村庄之助 (21代)|17代]]と[[木村庄之助 (22代)|18代]]の2人のみが木村玉之助から昇格して伊之助を襲名した


[[木村庄之助 (33代)|35代]]は唯一、伊之助在位1場所で庄之助を襲名しており、[[木村庄之助 (34代)|36代]]は[[2005年]]9月場所に三役格昇格してわずか4場所[[2006年]]5月場所に伊之助を襲名した。これは三役格から立行司に昇格した史上最短の記録ある
[[木村庄之助 (33代)|35代]]は伊之助在位1場所で庄之助を襲名した唯一の事例である。[[木村庄之助 (34代)|36代]]は[[2005年]]9月場所に三役格昇格して4場所後の[[2006年]]5月場所に伊之助を襲名し三役格から立行司史上最短で昇格した


[[2008年]]5月場所から10代[[三太夫 (行司)|式守勘太夫]]が[[木村庄之助 (36代)|38代]]を襲名した。[[2011年]]11月場所より38代が庄之助を襲名し、[[木村玉光 (16代)|16代木村玉光]]が39代を襲名するはずだったが健康問題を理由に辞退したため、伊之助はく空位となった<ref>立行司が一人になるのは庄之助が不在だった[[2006年]]3月場所以来である。</ref>。[[2012年]]11月場所より10代木村庄三郎が[[木村庄之助 (37代)|39代]]を襲名した。[[2013年]]11月場所39代が庄之助を襲名したのに伴い、11代[[三太夫 (行司)|式守錦太夫]]が40代を襲名した。
[[2008年]]5月場所から10代[[三太夫 (行司)|式守勘太夫]]が[[木村庄之助 (36代)|38代]]を襲名した。[[2011年]]11月場所から38代が庄之助を襲名し、[[木村玉光 (16代)|16代木村玉光]]が39代を襲名するはずだったが健康問題を理由に辞退し、伊之助はしばらく空位となった<ref>立行司が一人になるのは庄之助が不在だった[[2006年]]3月場所以来である。</ref>。[[2012年]]11月場所から10代木村庄三郎が[[木村庄之助 (37代)|39代]]を襲名した。[[2013年]]11月場所から39代が庄之助を襲名し、11代[[三太夫 (行司)|式守錦太夫]]が[[式守伊之助 (40代)|40代]]を襲名した。


2017年[[沖縄県]][[宜野湾市]]で巡業が行われた12月16日の夜、40代式守伊之助が宿泊先のホテルで食事中に泥酔した際、部屋まで付き添った10代の若手行司に数回キスし、1触れたとされる。1月5日に報告を受けた協会が伊之助から事情をいたところ、否定しなかったという。宮城野親方は伊之助について「飲むと、正気を失うところがあった」と述べ、「言い聞かせて酒をやめてもらうしかない」と語った相撲協会が、本人から事情聴取した際泥酔していたので覚えていない」や「自分は'''男色'''の趣味はないので、なぜこのような行為をしたのか分からない」などと話した
[[2017年]]12月16日に[[沖縄県]][[宜野湾市]]で巡業が催された夜、40代式守伊之助が宿泊先のホテルで食事中に[[酔っ払い|泥酔]]し、部屋まで付き添った10代の若手行司に口唇を数回重ねて1触れた。1月5日夕刻幕内行司から報告を受けた[[日本相撲協会|相撲協会]]が事情を質すと「泥酔していたので覚えていない」「自分は[[男色]]の趣味はないのでなぜこのような行為をしたのか分からない」と答えて否定しなかった。[[竹葉山真邦|宮城野親方]]は「飲むと、正気を失うところがあった」「言い聞かせて酒をやめてもらうしかない」と語った<ref>{{Cite news |title=大相撲行司 式守伊之助若手行司に数回キス 処分検討へ|newspaper=NHK NEWS WEB|date=2018-01-05|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180105/k10011280481000.html|accessdate=2018-01-08|work=NHKオンライン|location=東京|publisher=[[NHK]]|language=jp|archiveurl=|archivedate=|deadlink=}}</ref><ref>{{Cite news|title=式守伊之助10代行司にセクハラ=冬巡業中に泥酔しキス-大相撲|newspaper=時事ドットコムニュース|date=2018-01-06|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2018010501289&g=spo|accessdate=2018-01-08|agency=[[時事通信社]]|location=東京|work=時事ドットコム|publisher=時事通信社|language=jp|archiveurl=|archivedate=|deadlink=}}</ref>


== 式守伊之助の代々 ==
== 式守伊之助の代々 ==

2018年1月8日 (月) 05:55時点における版

式守 伊之助(しきもり いのすけ)は大相撲立行司の名前。行司として木村庄之助に次ぐ2番目の地位で、番付の西正位横綱に相当する。2016年11月現在の当代は、2013年11月場所から務める40代である。

解説

39代伊之助(のち37代庄之助)。式守伊之助の軍配の房色・直垂菊綴は紫白と定められている。

この名跡は代々三役格から立行司に昇格する行司が襲名しており、軍配に紫白の房、装束に紫白の菊綴じを着用し[1]、庄之助同様に軍配を差し違えた際に切腹する覚悟を意味する短刀を左腰に帯刀し、右腰に印籠を下げる。本場所では三役格以下と同様に2番を合せる。

初代明和年間より寛政年間にかけて使用した軍配は「ゆずり団扇」とも呼ばれて現在も継承され、記される文字の読み下しは不明だが、裏面の和歌は「いにしへの ことりつかひの おもかけを 今ここに見る 御世そめてたき」と読むことができる。1882年の相撲錦絵にすでに登場しているが、20代伊之助時代の1960年5月から伊之助のゆずり団扇となった。

行司停年制実施前の1958年限りで庄之助同様に年寄名跡より除かれた。現存する行司2家のうち式守家初代伊之助が式守姓を名乗ったことに由来するといわれる。

60歳を過ぎてから襲名する者が多く、19代[2]27代30代34代が64歳、26代が63歳で襲名している。若年の襲名は6代[3]8代が40歳、23代が48歳、当代の40代は54歳で襲名している。

明治年間に本場所勧進元を務めた伊之助が開催直前に死去し、いわゆる「位牌勧進元」が続いた。5代、6代、7代、8代、9代と5人続けて現役で亡くなり、14代1926年1月場所から襲名となるが伊之助として土俵に上がることなく前年暮れに死去した。1926年1月場所の番付は14代として「式守伊之助」と書かれている。のちに「伊之助の祟り」とも喧伝されて恐れられた。

10代以降は庄之助を襲名することが可能となったため、以後29人中17人が庄之助を襲名している。庄之助に継ぐ地位であるが、6代と8代の2人は庄之助の上位に位置されたことがある。ただし、8代は死跡であったため庄之助より上位として土俵に上がった伊之助は6代1人だけである。

立行司が庄之助、伊之助、のちに副立行司に降格された玉之助、と3人制時代は、17代18代の2人のみが木村玉之助から昇格して伊之助を襲名した。

35代は伊之助在位1場所で庄之助を襲名した唯一の事例である。36代2005年9月場所に三役格へ昇格して4場所後の2006年5月場所に伊之助を襲名し、三役格から立行司へ史上最短で昇格した。

2008年5月場所から10代式守勘太夫38代を襲名した。2011年11月場所から38代が庄之助を襲名し、16代木村玉光が39代を襲名するはずだったが健康問題を理由に辞退し、伊之助はしばらく空位となった[4]2012年11月場所から10代木村庄三郎が39代を襲名した。2013年11月場所から39代が庄之助を襲名し、11代式守錦太夫40代を襲名した。

2017年12月16日に沖縄県宜野湾市で巡業が催された夜に、40代式守伊之助が宿泊先のホテルで食事中に泥酔し、部屋まで付き添った10代の若手行司に口唇を数回重ねて胸を1回触れた。1月5日夕刻に幕内行司から報告を受けた相撲協会が事情を質すと「泥酔していたので覚えていない」「自分は男色の趣味はないので、なぜこのような行為をしたのか分からない」と答えて否定しなかった。宮城野親方は「飲むと、正気を失うところがあった」「言い聞かせて酒をやめてもらうしかない」と語った[5][6]

式守伊之助の代々

襲名期間 備考
初代 1767年3月場所 - 1793年3月場所 初代伊勢ノ海五太夫の門弟。年寄鞍馬山。のち式守蝸牛の隠居号で『相撲隠雲解』を著した
2代 1793年10月場所 - 1819年11月場所 初代伊之助の弟子
初代式守見藏→(この間、伊之助を襲名するが伊勢ノ海(柏戸)訴訟事件で一時番付から消滅)→初代式守与太夫→伊之助を再勤
3代 1820年3月場所 - 1830年11月場所 初代伊之助の門人
初代式守夘之助
1795年より13年間も姿を消す
4代 1834年10月場所 - 1837年正月場所 2代伊之助の実子
3代式守見藏→2代与太夫
5代 1839年3月場所 - 1850年3月場所(死跡) 3代伊之助の弟子
初代式守勘太夫
初代伊勢ヶ濱二枚鑑札。現役没
6代 1853年11月場所 - 1880年5月場所 4代伊之助の弟子
式守宗助→2代式守鬼一郎
年寄・永浜を二枚鑑札。現役没。在位最長年(28年)
7代 1883年1月場所 - 5月場所 5代伊之助の弟子
初代式守与之吉→2代勘太夫→3代鬼一郎→勘太夫(再)→鬼一郎(再)
2代式守秀五郎を二枚鑑札、現役没
8代 1884年5月場所 - 1898年1月場所(死跡) 6代伊之助の弟子
初代式守錦太夫→3代与太夫
年寄・永浜を二枚鑑札。現役没
9代 1898年5月場所 - 1911年2月場所(死跡) 6代伊之助の弟子
式守竹二郎→初代式守錦之助→2代錦太夫→4代与太夫
年寄・式守伊之助を二枚鑑札。現役没
10代 1911年5月場所 - 1912年1月場所 後に17代木村庄之助
庄之助を襲名した初めての例
11代 1912年5月場所 - 1914年1月場所 京都行司・吉岡一學の養子
吉岡?→木村進
年寄・式守伊之助を二枚鑑札。現役没。現在の行司装束(それまでの姿から烏帽子直垂を着用)の改正発案者
12代 1915年5月場所 - 1921年5月場所 初代高砂が「改正組」を組織したときに行司として参加
木村官司→小市→2代木村誠道
年寄・式守伊之助を二枚鑑札
13代 1922年1月場所 - 1925年5月場所 後に19代木村庄之助
14代 1926年1月場所(死跡) 7代伊之助の弟子
2代式守与之吉→3代勘太夫
14代伊之助襲名も1925年12月26日に急死、翌1926年1月場所の番付には死跡ながら「式守伊之助」として記載された
15代 1926年5月場所 - 1932年5月場所 後に松翁20代木村庄之助
16代 1932年10月場所 - 1938年5月場所 9代伊之助の弟子で、のち養子
式守亀司(亀吉、亀二、亀治、亀助)→4代錦之助→4代錦太夫→7代与太夫
11代立田川を襲名
17代 1939年1月場所 - 1940年3月場所 初めて立行司・11代木村玉之助より継承。後に21代木村庄之助
18代 1940年5月場所 - 1951年5月場所 後に22代木村庄之助
19代 1951年9月場所 - 1959年11月場所 17代庄之助の弟子
木村金吾→3代木村玉治郎→8代木村庄三郎
年寄・式守伊之助を二枚鑑札。式守伊之助として行司停年制初の停年退職。「ひげの伊之助」
20代 1960年1月場所 - 1962年11月場所 後に24代木村庄之助
21代 1963年1月場所 - 1966年7月場所 後に25代木村庄之助
22代 1966年9月場所 - 1973年11月場所 後に26代木村庄之助
23代 1974年1月場所 - 1977年9月場所 後に27代木村庄之助
史上最年少の48歳で襲名。
24代 1977年11月場所 - 1984年3月場所 23代庄之助の弟子
木村正義→正信→3代木村正直
25代 1984年5月場所 - 1990年11月場所 後に28代木村庄之助
26代 1991年1月場所 - 1992年9月場所 木村宗市→6代木村庄次郎(庄二郎)→宗市→庄二郎(再)
27代 1992年11月場所 - 1993年7月場所 三役格13代木村庄太郎の弟子
木村英三→2代木村善之輔→14代庄太郎
28代 1994年5月場所 - 11月場所 後に29代木村庄之助
29代 1995年1月場所 - 2000年7月場所 木村貢→3代善之輔
30代 2000年9月場所 - 11月場所 26代庄之助の弟子
式守文夫→正一郎→7代与之吉(與之吉)→8代勘太夫
31代 2001年1月場所 - 9月場所 後に30代木村庄之助
32代 2001年11月場所 - 2003年3月場所 後に31代木村庄之助
33代 2003年5月場所 - 2005年11月場所 後に32代木村庄之助
34代 2006年1月場所 木村光彦→2代木村光之助
35代 2006年3月場所 後に33代木村庄之助
伊之助在位1場所で庄之助襲名
36代 2006年5月場所 - 2007年3月場所 後に34代木村庄之助
2005年9月場所に三役格昇格から僅か4場所(史上最短)で立行司昇格
37代 2007年5月場所 - 2008年3月場所 後に35代木村庄之助
38代 2008年5月場所 - 2011年9月場所 後に36代木村庄之助
39代 2012年11月場所 - 2013年9月場所 後に37代木村庄之助
40代 2013年11月場所 - 27代庄之助の弟子
式守吉之輔→木村吉之輔→11代錦太夫

ギャラリー

脚注

  1. ^ 1927年から1959年までの伊之助の菊綴・房は、現在のものより白部分が少ない紫白であった。伊之助が用いる現在の紫白は1927年から1951年まで木村玉之助が用い、1951年から1959年までは副立行司が用いていた。
  2. ^ 19代は定年制導入以前である。
  3. ^ 6代は生年月日が不明である。
  4. ^ 立行司が一人になるのは庄之助が不在だった2006年3月場所以来である。
  5. ^ “大相撲行司 式守伊之助が若手行司に数回キス 処分検討へ” (jp). NHK NEWS WEB (東京: NHK). (2018年1月5日). https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180105/k10011280481000.html 2018年1月8日閲覧。 
  6. ^ “式守伊之助、10代行司にセクハラ=冬巡業中に泥酔しキス-大相撲” (jp). 時事ドットコムニュース. 時事通信社 (東京: 時事通信社). (2018年1月6日). https://www.jiji.com/jc/article?k=2018010501289&g=spo 2018年1月8日閲覧。 

参考文献

  • 33代木村庄之助・根間弘海『大相撲と歩んだ行司人生51年 -行司に関する用語、規定、番付等の資料付き-』、英宝社、2006年
  • ベースボール・マガジン社『相撲』2014年2月号100頁から101頁

関連項目