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[[File:39th Inosuke Shikimori in Sumiyoshi Taisha (1) IMG 1474-2 20130302.JPG|thumb|250px|39代伊之助(のち37代庄之助)。式守伊之助の軍配の房色・[[直垂]]の[[菊綴]]は紫白と定められている。]] |
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この[[名跡]]は |
この[[名跡]]は代々[[三役]]格から立行司に昇格する行司が襲名しており、[[軍配]]に紫白の房、装束に紫白の菊綴じを着用し<ref>1927年から1959年までの伊之助の菊綴・房は、現在のものより白部分が少ない紫白であった。伊之助が用いる現在の紫白は1927年から1951年まで木村玉之助が用い、1951年から1959年までは副立行司が用いていた。</ref>、庄之助同様に軍配を差し違えた際に切腹する覚悟を意味する[[短刀]]を左腰に帯刀し、右腰に[[印籠]]を下げる。本場所では三役格以下と同様に2番を合せる。 |
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[[式守伊之助 (初代)|初代]]が[[明和]]年間より[[寛政]]年間にかけて使用した軍配 |
[[式守伊之助 (初代)|初代]]が[[明和]]年間より[[寛政]]年間にかけて使用した軍配は「'''ゆずり団扇'''」とも呼ばれて現在も継承され、記される文字の読み下しは不明だが、裏面の和歌は「いにしへの ことりつかひの おもかけを 今ここに見る 御世そめてたき」と読むことができる。[[1882年]]の相撲[[錦絵]]にすでに登場しているが、[[木村庄之助 (24代)|20代伊之助]]時代の[[1960年]]5月から伊之助のゆずり団扇となった。 |
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行司[[停年]]制実施前の[[1958年]]限りで庄之助同様に[[年寄名跡]]より除かれた。現存する行司2家のうち[[式守家]]は[[式守伊之助 (初代)|初代伊之助]]が式守姓を名乗ったことに由来するといわれる。 |
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60歳を過ぎてから襲名する者が多く、[[式守伊之助 (19代)|19代]]<ref>19代は定年制導入以前である。</ref>、[[式守伊之助 (27代)|27代]]、[[式守伊之助 (30代)|30代]]、[[式守伊之助 (34代)|34代]]が64歳、[[式守伊之助 (26代)|26代]]が63歳で襲名している。若年の襲名は[[式守伊之助 (6代)|6代]]<ref>6代は生年月日が不明である。</ref>と[[式守伊之助 (8代)|8代]]が40歳、[[木村庄之助 (27代)|23代]]が48歳、当代の[[式守伊之助 (40代)|40代]]は54歳で襲名している。 |
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[[明治]]年間に[[本場所]]で[[勧進]]元を務めた伊之助が開催直前に死去し、いわゆる「[[位牌]]勧進元」が続いた。[[式守伊之助 (5代)|5代]]、6代、[[式守伊之助 (7代)|7代]]、8代、[[式守伊之助 (9代)|9代]]と5人続けて現役で亡くなり、[[式守伊之助 (14代)|14代]]は[[1926年]]1月場所から襲名となるが伊之助として土俵に上がることなく前年暮れに死去した。1926年1月場所の番付は14代として「式守伊之助」と書かれている。のちに「伊之助の祟り」とも喧伝されて恐れられた。 |
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[[木村庄之助 (17代)|10代]]以降は庄之助を襲名することが可能となったため、以後29人中17人が庄之助を襲名している。庄之助に継ぐ地位であるが、6代と8代の2人は庄之助の上位に位置されたことがある。ただし、8代は死跡であったため庄之助より上位として土俵に上がった伊之助は6代1人だけである。 |
[[木村庄之助 (17代)|10代]]以降は庄之助を襲名することが可能となったため、以後29人中17人が庄之助を襲名している。庄之助に継ぐ地位であるが、6代と8代の2人は庄之助の上位に位置されたことがある。ただし、8代は死跡であったため庄之助より上位として土俵に上がった伊之助は6代1人だけである。 |
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立行司が庄之助、伊之助、のちに[[副立行司]]に降格された[[木村玉之助|玉之助]]、と3人制時代は、[[木村庄之助 (21代)|17代]]と[[木村庄之助 (22代)|18代]]の2人のみが木村玉之助から昇格して伊之助を襲名した。 |
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[[木村庄之助 (33代)|35代]]は伊之助在位1場所で庄之助を襲名した唯一の事例である。[[木村庄之助 (34代)|36代]]は[[2005年]]9月場所に三役格へ昇格して4場所後の[[2006年]]5月場所に伊之助を襲名し、三役格から立行司へ史上最短で昇格した。 |
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[[2008年]]5月場所から |
[[2008年]]5月場所から10代[[三太夫 (行司)|式守勘太夫]]が[[木村庄之助 (36代)|38代]]を襲名した。[[2011年]]11月場所から38代が庄之助を襲名し、[[木村玉光 (16代)|16代木村玉光]]が39代を襲名するはずだったが健康問題を理由に辞退し、伊之助はしばらく空位となった<ref>立行司が一人になるのは庄之助が不在だった[[2006年]]3月場所以来である。</ref>。[[2012年]]11月場所から10代木村庄三郎が[[木村庄之助 (37代)|39代]]を襲名した。[[2013年]]11月場所から39代が庄之助を襲名し、11代[[三太夫 (行司)|式守錦太夫]]が[[式守伊之助 (40代)|40代]]を襲名した。 |
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2017年[[沖縄県]][[宜野湾市]]で巡業が |
[[2017年]]12月16日に[[沖縄県]][[宜野湾市]]で巡業が催された夜に、40代式守伊之助が宿泊先のホテルで食事中に[[酔っ払い|泥酔]]し、部屋まで付き添った10代の若手行司に口唇を数回重ねて胸を1回触れた。1月5日夕刻に幕内行司から報告を受けた[[日本相撲協会|相撲協会]]が事情を質すと「泥酔していたので覚えていない」「自分は[[男色]]の趣味はないので、なぜこのような行為をしたのか分からない」と答えて否定しなかった。[[竹葉山真邦|宮城野親方]]は「飲むと、正気を失うところがあった」「言い聞かせて酒をやめてもらうしかない」と語った<ref>{{Cite news |title=大相撲行司 式守伊之助が若手行司に数回キス 処分検討へ|newspaper=NHK NEWS WEB|date=2018-01-05|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180105/k10011280481000.html|accessdate=2018-01-08|work=NHKオンライン|location=東京|publisher=[[NHK]]|language=jp|archiveurl=|archivedate=|deadlink=}}</ref><ref>{{Cite news|title=式守伊之助、10代行司にセクハラ=冬巡業中に泥酔しキス-大相撲|newspaper=時事ドットコムニュース|date=2018-01-06|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2018010501289&g=spo|accessdate=2018-01-08|agency=[[時事通信社]]|location=東京|work=時事ドットコム|publisher=時事通信社|language=jp|archiveurl=|archivedate=|deadlink=}}</ref>。 |
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== 式守伊之助の代々 == |
== 式守伊之助の代々 == |
2018年1月8日 (月) 05:55時点における版
式守 伊之助(しきもり いのすけ)は大相撲の立行司の名前。行司として木村庄之助に次ぐ2番目の地位で、番付の西正位横綱に相当する。2016年11月現在の当代は、2013年11月場所から務める40代である。
解説
この名跡は代々三役格から立行司に昇格する行司が襲名しており、軍配に紫白の房、装束に紫白の菊綴じを着用し[1]、庄之助同様に軍配を差し違えた際に切腹する覚悟を意味する短刀を左腰に帯刀し、右腰に印籠を下げる。本場所では三役格以下と同様に2番を合せる。
初代が明和年間より寛政年間にかけて使用した軍配は「ゆずり団扇」とも呼ばれて現在も継承され、記される文字の読み下しは不明だが、裏面の和歌は「いにしへの ことりつかひの おもかけを 今ここに見る 御世そめてたき」と読むことができる。1882年の相撲錦絵にすでに登場しているが、20代伊之助時代の1960年5月から伊之助のゆずり団扇となった。
行司停年制実施前の1958年限りで庄之助同様に年寄名跡より除かれた。現存する行司2家のうち式守家は初代伊之助が式守姓を名乗ったことに由来するといわれる。
60歳を過ぎてから襲名する者が多く、19代[2]、27代、30代、34代が64歳、26代が63歳で襲名している。若年の襲名は6代[3]と8代が40歳、23代が48歳、当代の40代は54歳で襲名している。
明治年間に本場所で勧進元を務めた伊之助が開催直前に死去し、いわゆる「位牌勧進元」が続いた。5代、6代、7代、8代、9代と5人続けて現役で亡くなり、14代は1926年1月場所から襲名となるが伊之助として土俵に上がることなく前年暮れに死去した。1926年1月場所の番付は14代として「式守伊之助」と書かれている。のちに「伊之助の祟り」とも喧伝されて恐れられた。
10代以降は庄之助を襲名することが可能となったため、以後29人中17人が庄之助を襲名している。庄之助に継ぐ地位であるが、6代と8代の2人は庄之助の上位に位置されたことがある。ただし、8代は死跡であったため庄之助より上位として土俵に上がった伊之助は6代1人だけである。
立行司が庄之助、伊之助、のちに副立行司に降格された玉之助、と3人制時代は、17代と18代の2人のみが木村玉之助から昇格して伊之助を襲名した。
35代は伊之助在位1場所で庄之助を襲名した唯一の事例である。36代は2005年9月場所に三役格へ昇格して4場所後の2006年5月場所に伊之助を襲名し、三役格から立行司へ史上最短で昇格した。
2008年5月場所から10代式守勘太夫が38代を襲名した。2011年11月場所から38代が庄之助を襲名し、16代木村玉光が39代を襲名するはずだったが健康問題を理由に辞退し、伊之助はしばらく空位となった[4]。2012年11月場所から10代木村庄三郎が39代を襲名した。2013年11月場所から39代が庄之助を襲名し、11代式守錦太夫が40代を襲名した。
2017年12月16日に沖縄県宜野湾市で巡業が催された夜に、40代式守伊之助が宿泊先のホテルで食事中に泥酔し、部屋まで付き添った10代の若手行司に口唇を数回重ねて胸を1回触れた。1月5日夕刻に幕内行司から報告を受けた相撲協会が事情を質すと「泥酔していたので覚えていない」「自分は男色の趣味はないので、なぜこのような行為をしたのか分からない」と答えて否定しなかった。宮城野親方は「飲むと、正気を失うところがあった」「言い聞かせて酒をやめてもらうしかない」と語った[5][6]。
式守伊之助の代々
代 | 襲名期間 | 備考 |
---|---|---|
初代 | 1767年3月場所 - 1793年3月場所 | 初代伊勢ノ海五太夫の門弟。年寄・鞍馬山。のち式守蝸牛の隠居号で『相撲隠雲解』を著した |
2代 | 1793年10月場所 - 1819年11月場所 | 初代伊之助の弟子 初代式守見藏→(この間、伊之助を襲名するが伊勢ノ海(柏戸)訴訟事件で一時番付から消滅)→初代式守与太夫→伊之助を再勤 |
3代 | 1820年3月場所 - 1830年11月場所 | 初代伊之助の門人 初代式守夘之助 1795年より13年間も姿を消す |
4代 | 1834年10月場所 - 1837年正月場所 | 2代伊之助の実子 3代式守見藏→2代与太夫 |
5代 | 1839年3月場所 - 1850年3月場所(死跡) | 3代伊之助の弟子 初代式守勘太夫 初代伊勢ヶ濱を二枚鑑札。現役没 |
6代 | 1853年11月場所 - 1880年5月場所 | 4代伊之助の弟子 式守宗助→2代式守鬼一郎 年寄・永浜を二枚鑑札。現役没。在位最長年(28年) |
7代 | 1883年1月場所 - 5月場所 | 5代伊之助の弟子 初代式守与之吉→2代勘太夫→3代鬼一郎→勘太夫(再)→鬼一郎(再) 2代式守秀五郎を二枚鑑札、現役没 |
8代 | 1884年5月場所 - 1898年1月場所(死跡) | 6代伊之助の弟子 初代式守錦太夫→3代与太夫 年寄・永浜を二枚鑑札。現役没 |
9代 | 1898年5月場所 - 1911年2月場所(死跡) | 6代伊之助の弟子 式守竹二郎→初代式守錦之助→2代錦太夫→4代与太夫 年寄・式守伊之助を二枚鑑札。現役没 |
10代 | 1911年5月場所 - 1912年1月場所 | 後に17代木村庄之助 庄之助を襲名した初めての例 |
11代 | 1912年5月場所 - 1914年1月場所 | 京都行司・吉岡一學の養子 吉岡?→木村進 年寄・式守伊之助を二枚鑑札。現役没。現在の行司装束(それまでの裃姿から烏帽子、直垂を着用)の改正発案者 |
12代 | 1915年5月場所 - 1921年5月場所 | 初代高砂が「改正組」を組織したときに行司として参加 木村官司→小市→2代木村誠道 年寄・式守伊之助を二枚鑑札 |
13代 | 1922年1月場所 - 1925年5月場所 | 後に19代木村庄之助 |
14代 | 1926年1月場所(死跡) | 7代伊之助の弟子 2代式守与之吉→3代勘太夫 14代伊之助襲名も1925年12月26日に急死、翌1926年1月場所の番付には死跡ながら「式守伊之助」として記載された |
15代 | 1926年5月場所 - 1932年5月場所 | 後に松翁20代木村庄之助 |
16代 | 1932年10月場所 - 1938年5月場所 | 9代伊之助の弟子で、のち養子 式守亀司(亀吉、亀二、亀治、亀助)→4代錦之助→4代錦太夫→7代与太夫 11代立田川を襲名 |
17代 | 1939年1月場所 - 1940年3月場所 | 初めて立行司・11代木村玉之助より継承。後に21代木村庄之助 |
18代 | 1940年5月場所 - 1951年5月場所 | 後に22代木村庄之助 |
19代 | 1951年9月場所 - 1959年11月場所 | 17代庄之助の弟子 木村金吾→3代木村玉治郎→8代木村庄三郎 年寄・式守伊之助を二枚鑑札。式守伊之助として行司停年制初の停年退職。「ひげの伊之助」 |
20代 | 1960年1月場所 - 1962年11月場所 | 後に24代木村庄之助 |
21代 | 1963年1月場所 - 1966年7月場所 | 後に25代木村庄之助 |
22代 | 1966年9月場所 - 1973年11月場所 | 後に26代木村庄之助 |
23代 | 1974年1月場所 - 1977年9月場所 | 後に27代木村庄之助 史上最年少の48歳で襲名。 |
24代 | 1977年11月場所 - 1984年3月場所 | 23代庄之助の弟子 木村正義→正信→3代木村正直 |
25代 | 1984年5月場所 - 1990年11月場所 | 後に28代木村庄之助 |
26代 | 1991年1月場所 - 1992年9月場所 | 木村宗市→6代木村庄次郎(庄二郎)→宗市→庄二郎(再) |
27代 | 1992年11月場所 - 1993年7月場所 | 三役格13代木村庄太郎の弟子 木村英三→2代木村善之輔→14代庄太郎 |
28代 | 1994年5月場所 - 11月場所 | 後に29代木村庄之助 |
29代 | 1995年1月場所 - 2000年7月場所 | 木村貢→3代善之輔 |
30代 | 2000年9月場所 - 11月場所 | 26代庄之助の弟子 式守文夫→正一郎→7代与之吉(與之吉)→8代勘太夫 |
31代 | 2001年1月場所 - 9月場所 | 後に30代木村庄之助 |
32代 | 2001年11月場所 - 2003年3月場所 | 後に31代木村庄之助 |
33代 | 2003年5月場所 - 2005年11月場所 | 後に32代木村庄之助 |
34代 | 2006年1月場所 | 木村光彦→2代木村光之助 |
35代 | 2006年3月場所 | 後に33代木村庄之助 伊之助在位1場所で庄之助襲名 |
36代 | 2006年5月場所 - 2007年3月場所 | 後に34代木村庄之助 2005年9月場所に三役格昇格から僅か4場所(史上最短)で立行司昇格 |
37代 | 2007年5月場所 - 2008年3月場所 | 後に35代木村庄之助 |
38代 | 2008年5月場所 - 2011年9月場所 | 後に36代木村庄之助 |
39代 | 2012年11月場所 - 2013年9月場所 | 後に37代木村庄之助 |
40代 | 2013年11月場所 - | 27代庄之助の弟子 式守吉之輔→木村吉之輔→11代錦太夫 |
ギャラリー
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靖国神社奉納大相撲 40代式守伊之助(2017年4月17日撮影)
脚注
- ^ 1927年から1959年までの伊之助の菊綴・房は、現在のものより白部分が少ない紫白であった。伊之助が用いる現在の紫白は1927年から1951年まで木村玉之助が用い、1951年から1959年までは副立行司が用いていた。
- ^ 19代は定年制導入以前である。
- ^ 6代は生年月日が不明である。
- ^ 立行司が一人になるのは庄之助が不在だった2006年3月場所以来である。
- ^ “大相撲行司 式守伊之助が若手行司に数回キス 処分検討へ” (jp). NHK NEWS WEB (東京: NHK). (2018年1月5日) 2018年1月8日閲覧。
- ^ “式守伊之助、10代行司にセクハラ=冬巡業中に泥酔しキス-大相撲” (jp). 時事ドットコムニュース. 時事通信社 (東京: 時事通信社). (2018年1月6日) 2018年1月8日閲覧。
参考文献
- 33代木村庄之助・根間弘海『大相撲と歩んだ行司人生51年 -行司に関する用語、規定、番付等の資料付き-』、英宝社、2006年。
- ベースボール・マガジン社『相撲』2014年2月号100頁から101頁