人民服
人民服(じんみんふく、中国語: 中山装, 英語: Mao suit)とは、上下揃いの上着の一種。かつての中華人民共和国では、制服や標準服とも言うべき物であった。
概要・沿革
人民服は、立折襟で二つの胸ポケットに二つの裾ポケットをもった(ないものもある)前開き五つボタンの上衣[1]と、スラックスでセットになっている。作業着タイプでは頭には前つば付き帽子、いわゆる人民帽と呼ばれる帽子をかぶる。色はカーキ、紺、青、緑などさまざまであるが、いずれも無地である。ネクタイは用いない。孫文着用の物としては純白の物も存在し、現在は上海で保管されている。
この服装の原形は、「孫文(孫中山)が日本留学中に日本の学生服や日本帝国陸軍の軍服をモデルにデザインしたという中山服」であるとされるが、大日本帝国の陸軍軍人で孫文の側近として派遣されていた軍事顧問の佐々木到一が考案したものである。
中山服は中華民国で男子正装として用いられ、戦後の台湾にも引き継がれたが、1950年代末頃には蒋介石ら一部の首脳を除いて背広にとってかわられた。
一方、中国大陸(中華人民共和国)では、1980年代初めまで成人男性の全てが人民服を着用しており、女性にも多く着られていたが、鄧小平による改革開放路線が定着して以降は、政治家も背広を一般的に着用している[2]。現在ではほとんど過去のものとなっており、現在の中国で人民服を手に入れることは難しいといわれる。
礼装としてホワイト・タイ扱いされる主に絹製で濃紺か黒の物が「中山装」、主に木綿製で緑系の労働着タイプが「人民服」という形で中華人民共和国では分けて考える事が多く、「中山装」の方は今も北京や上海の百貨店等で入手可能であるが、「人民服」はすっかり廃れてしまっている。また、上下で色の揃っていない「青年装」という物も一時存在した。灰色の物も存在し、これはニクソン大統領の中国訪問でも知られるように、毛沢東が緑系の人民服とともによく着用し、天安門に掲げられてる毛沢東の肖像画の物も灰色となってる。
1992年に江沢民が、中国共産党中央委員会総書記として日本を訪問したときに、天皇主催の晩餐会において黒い人民服を着用して出席したことがあった。文藝春秋などは[3]、この江の服装に「プロトコルに反する非礼な行為」と批判したが、中国側は「タキシードの調達が間に合わなかったので大使館にあった民族衣装である人民服を使用した。民族衣装の使用は正装であれば問題はないと考えた」と返答している。しかし、晩餐会に同行した中国人関係者は、「廃れつつある人民服」の調達に苦慮したといわれる。
宮内庁・外務省の見解は、中山装は『ホワイト・タイ相当の民族礼服なので問題は無い』という物であり、この件に関しては、文藝春秋が無知の為に恥を掻いた、という認識が一般的である[要出典]。
なお、1978年に訪日した鄧小平も黒い人民服を着て、当時の昭和天皇と謁見してる。2014年3月31日のベルギー国王主催の晩餐会や2015年10月21日のイギリス国王主催の晩餐会では、中華人民共和国主席の習近平は人民服ではなく、立襟の黒いマオカラーを着ている[4][5]。
2009年10月1日の国慶節は中華人民共和国建国60周年であり、10年ぶりの軍事パレードやマスゲームを含む、それまでにない大規模な式典が天安門広場で催されたが、オープンカーに乗った党総書記・胡錦濤は、背広ではなく黒の人民服を着用していたが、1984年の軍事パレードでの鄧小平や1999年の軍事パレードでの江沢民も、中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典での習近平も、黒の人民服を着ており、これは慣例となっている。
軍服と人民服
中国人民解放軍では、1950年代から1980年代まで、人民服が基となっている軍装であった。文化大革命の頃の宣伝写真の人民解放軍の緑色の人民服と人民帽に赤い星の帽章と赤い襟章の服装は、一般的な人民服のイメージとして現在も定着している。
人民解放軍でも、開放政策や軍隊制度の近代化の影響から、1990年代より開襟式の軍装などに切り替わっているが、いまだに人民服型の軍装も使われている。またベトナム人民軍や朝鮮人民軍においても、人民服型の軍装が使われているが、ベトナム人民軍でもドイモイ政策などの影響により、現在は開襟式の制服となっている。また中国との密接な関係にあったエンヴェル・ホッジャ独裁政権時代のアルバニア軍においても、中国人民解放軍とほぼ同じ人民服風の軍装を使用していた。
各国への影響
朝鮮民主主義人民共和国
人民服発祥の地である中国国内で、一般大衆が人民服を着用する機会はほとんど無くなったが、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では닫긴깃양복 閉襟洋服という名で、1948年の建国から現在まで正装[6]または平服として広く着用されている。軍服などの各種制服も、人民服の影響を受けた物が非常に多い。また襟の開いた夏服(開襟洋服)もある。
初代最高指導者の金日成は、建国から1960年代までは、人民服と背広の両方を着用していたが、1970年代から1980年代中頃までは、人民服を着て公の場に姿を現すようになり、背広姿は見られなくなった。1984年に東欧諸国を歴訪後、再び背広を着用するようになり、北朝鮮社会でも服装の自由が見られるようになった。1994年の死去と同時に製作された遺影「太陽肖像」や錦繍山太陽宮殿に安置されている遺体も、背広姿である。
2011年の死去まで第2代最高指導者の地位にあった金正日も1990年代までは主に人民服を着用していたが、徐々にカーキ色のジャンパー姿で登場するようになった。これは東ドイツ国家人民軍の制服をもとに、金正日自ら考案したものといわれる。友好国であるロシア連邦や中国の元首と公式に会見する以外、晩年には人民服での登場は非常に少なくなった。一方、金正日の後継者である金正恩は、2010年9月の公式登場以来黒生地の人民服を着用している。ここでは人民服が「革命伝統の継承者」をあらわす記号として機能しているとみられている。
ベトナム民主共和国、ベトナム社会主義共和国
建国以来、中華人民共和国と政治的関係が緊密であったベトナム民主共和国(のちベトナム社会主義共和国)でも、「人民服」と同様の服が平服ないし正装[7]として使用された。
1970年代後半以降、中国との対立や、1980年代後半以降のドイモイ政策による生活の変化の影響もあって、次第に背広などに取って代わられるようになり、レ・ズアンやファン・バン・ドンら「革命第一世代」が姿を消すのに伴い、政治指導者の正装としても用いられなくなった。
サブカルチャー、ファッション
これら中国と政治体制が共通する国々の服装だけでなく、「紅衛兵」の写真や映像とともに伝えられた人民服姿の人々のインパクトは、1960年代後半に、先進工業国において発生した反抗的なサブカルチャーの動きの中で、ライフスタイルのラディカルな変革を示す一種の「記号」となり、さらにはファッションやステージ衣装にも影響を与えた。
- ジャン=リュック・ゴダールが監督した1967年のフランス映画『中国女』では、毛沢東思想に共鳴して共同生活を営む若い男女のグループが、人民服を思わせる青い折り襟の服と帽子を着用した姿で登場する[1]。
- 日本ではイエロー・マジック・オーケストラが赤い人民服風の服(実際は明治時代のスキーウェアがモチーフ)を着て話題になり、彼らのシンボルとなった。メンバーでファッション・デザイナーでもある高橋幸宏のデザインと云われている。
- 台湾では羅大佑が、中国大陸の政治情勢などを揶揄した曲のプロモーションビデオの中で何度か着用した。
- ドラゴンボール、らんま1/2など、登場人物や設定に中国的な要素の強い漫画やアニメーションにおけるキャラクターの服装としても用いられた。
画像
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台湾視察時の蒋介石(中央)、1946年
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中華人民共和国の建国を宣言する毛沢東(中央)ら、1949年
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人民服を着た江青
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北京でヘンリー・キッシンジャーと会談する毛沢東、周恩来
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人民服を題材とした現代彫刻作品(香港)
脚注
- ^ 女性は男性用と同じか、開襟式四つまたは三つボタンで胸ポケットが省かれたタイプのものを着用した。
- ^ ただし、鄧小平自身は引退するまで公式な場では人民服を着続けた。背広姿が見られるようになったのは胡耀邦らの世代からである。
- ^ 「日本中に『江沢民石碑』を建てる『二階俊博』はどこの国の政治家か!」(『週刊新潮』2003年2月13日号)
- ^ “習近平主席夫妻がエリザベス女王主催の歓迎晩餐会に出席”. 人民網日本語版 (2015年10月21日). 2015年11月15日閲覧。
- ^ “習近平主席夫妻がベルギー国王主催の盛大な歓迎晩餐会に出席”. 人民網日本語版 (2015年4月1日). 2015年11月15日閲覧。
- ^ 背広(男性)、チマチョゴリ(女性)と併用。
- ^ 背広(男性)、アオザイ(女性)と併用。