サンクトペテルブルク

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サンクトペテルブルク
Санкт-Петербург
サンクトペテルブルクの市旗 サンクトペテルブルクの市章
市旗 市章
愛称 : Piter
位置
の位置図
座標 : 北緯59度56分 東経30度20分 / 北緯59.933度 東経30.333度 / 59.933; 30.333
歴史
建設 1703年5月27日
行政
ロシアの旗 ロシア
 連邦管区 北西連邦管区
 行政区画 サンクトペテルブルク連邦市
 市 サンクトペテルブルク
市長 ゲオルギー・ポルタフチェンコ
地理
面積  
  市域 1431 km2
標高 3 ~ 175 m
人口
人口 (2013年現在)
  市域 5,028,000人
その他
等時帯 モスクワ時間 (UTC+3)
郵便番号 190000 - 199406
市外局番 +7 812
ナンバープレート 78, 98
公式ウェブサイト : http://eng.gov.spb.ru/
サンクトペテルブルク周辺の人工衛星写真ラドガ湖から南西に流れ出したネヴァ川は北西に流路を変え、フィンランド湾最深部に流れ込む。サンクトペテルブルクの街はネヴァ川河口の三角州を中心に発達した。

サンクトペテルブルク: Санкт-Петербург, サンクトピチルブールク, IPA:[sankt pʲɪtʲɪrˈburk] Ru-Sankt Peterburg Leningrad Petrograd Piter.ogg 発音[ヘルプ/ファイル])は、バルト海東部のフィンランド湾最東端に面するネヴァ川河口デルタに位置するロシア西部の都市レニングラード州州都。1914年までロシア帝国首都であった。

第一次世界大戦開戦以降(1914 - 24年)はペトログラードПетроград)、ソビエト連邦時代(1924 - 91年)はレニングラードЛенинград)と呼ばれた。英語圏ではセントピーターズバーグ(Saint Petersburg)と呼ばれ、日本語では短く「ペテルブルク」と表記されることもある。

地理

サンクトペテルブルクと、フィンランド湾に面する他の主要2都市との距離は、フィンランドの首都ヘルシンキまでは300キロメートル (190 mi)、エストニアの首都タリンまでは350キロメートル (220 mi)である[1]

ソ連時代から現代に至るまでのロシアの首都そして帝政時代の副都でもあったモスクワとは、サンクトペテルブルクは直線距離で600km以上離れている(東京~函館、鹿児島~那覇、フランスのパリ~マルセイユ、イギリスのロンドン~アバディーン、ドイツのベルリン~スイスのチューリッヒ間の距離に相当)。これは、サンクトペテルブルクから、バルト海の対岸のスウェーデンの首都ストックホルムリトアニアの首都ビリニュスベラルーシの首都ミンスクとの各距離とほぼ等しい。

ロシア有数の世界都市、港湾都市で、鉄道・国際航路の要衝でもあり、モスクワに次ぐロシア第二の都市である。行政上はモスクワとともに単独で連邦市を形成しており、ロシア連邦を構成する83連邦構成主体のひとつである。人口が100万を超える都市としては世界で最も北に位置する。

市街はネヴァ川河口デルタの島々と両岸に広がり運河網が発達し、バルト海において重要な港市の位置をしめる。ネヴァ川は運河や河川などにより、白海ドニエプル川ヴォルガ川と結ばれているため、この都市はカスピ海やウラル、ヴォルガからの船舶のバルト海への出口となっている。港は冬季である十一月から四月に凍結してしまうが、厳寒期を除いて常に砕氷船が航路を維持している。また、市中心部に運河が縦横に巡る美しい街並みを有することから、「北のヴェネツィア」と称されることもある。

街の中心は、旧海軍省からアレクサンドル・ネフスキー大修道院にいたるネフスキー大通りである。この通りは帝政時代より街の中心であり、現在でもサンクトペテルブルクを代表する建築物や観光名所が立ち並び、多くの観光客も訪れる。

歴史

名前の変遷

青銅の騎士像。市の建設者ピョートル1世を記念した像である

都市の名は「聖ペテロの街」を意味する。これは、建都を命じたピョートル大帝が自分と同名の聖人ペテロの名にちなんで付けたもの。隣国のフィンランドではサンクトペテルブルクを、ペテロのフィンランド語名そのままにピエタリ (Pietari) の名で呼んでいる。

当初はオランダ語風にサンクト・ピーテルブールフ (Санкт-Питер-Бурх) と呼ばれていたが、後にドイツ語風にサンクト・ペテルブルク (Санкт-Петербург) と呼ばれるようになる[2]。なお、単にペテルブルクと呼ばれることも多い。[3] ロシア帝国の首都として長く定着していた。

1914年、第一次世界大戦が始まりロシアがドイツと交戦状態に入ると、ロシア語風にペトログラード (Петроград)[4] と改められた。さらにロシア革命によりソビエト連邦が成立すると、1924年よりレーニンにちなんでレニングラード (Ленинград, リニングラート[5] と改称され、この名称が半世紀続いた。

しかし、ソ連崩壊を受けて、1991年に住民投票によってロシア帝国時代の現在の名称に再び戻った。ロシア人の間ではピーテル (Питер, ピーチェル) の愛称で呼ばれる[6]。州名は従来どおりレニングラード州となっている。

市の建設以前

ネヴァ川河口域は、古くはバルト海からヴォルガ川、ドニエプル川といった内陸水路を通じて黒海へと向かう「ヴァリャーグからギリシャへの道」と呼ばれた交易ルートに位置し、ルーシの北辺に位置していた。キエフ公国が分裂するとノヴゴロド公国の辺境地帯となった。ノヴゴロドはここから発するネヴァ川水路でバルト海とつながっており、ハンザ同盟の4大商館のひとつが置かれた。一方で、ネヴァ川河口はフィンランドを支配下に置くスウェーデンとの国境地帯ともなっており、1240年には両国の間に、現在の中心部東端に当たる場所でネヴァ河畔の戦いが起こった。この戦いはノヴゴロド公アレクサンドルの活躍によりノヴゴロド側が勝利し、アレクサンドルはネヴァ川の勝利者という意味のネフスキーという名を加えて以後アレクサンドル・ネフスキーを名乗るようになった。アレクサンドル・ネフスキーはロシアの英雄の一人となり、サンクトペテルブルク建都後に彼を記念して、古戦場にアレクサンドル・ネフスキー大修道院が建てられた。その後はノヴゴロドを併呑したモスクワ公国領となっていたが、1617年にスウェーデンがここを奪取し、以後ピョートル時代に至るまでこの地域はスウェーデン領となっていた。

都市の歴史-ロシア帝国時代

1910年時点におけるサンクトペテルブルクの地図

ピョートル大帝によって1703年5月27日(グレゴリオ暦。当時のロシアで使われていたユリウス暦では5月13日)に築かれた人工都市であり、現在でも5月27日は建市記念日として市の祝日となっている。[7]

モスクワとサンクトペテルブルクは母性と父性として対比されることもある。その背景としては、モスクワが「大地信仰」を根底とするロシア(「母なる大地、母なるロシア」という表現が用いられる)を象徴する土着の都であったのに対し、ペテルブルクは西欧に倣って「人工的」に建設された西欧的・キリスト教的な父性支配を象徴する都と考えられる、ということがある[要出典]。もっとも、音楽史では西欧派のチャイコフスキーらがモスクワに拠ったのに対し、民族主義を掲げるロシア五人組がペテルブルクに集ったように、この対比は必ずしも固定的ではない。

大北方戦争の過程で、スウェーデンから奪取したバルト海・フィンランド湾沿岸のイングリアに新都として造営された。造営前のサンクトペテルブルク一帯は荒れ果てた沼地であり、河口付近にはペトロパヴロフスク要塞も同時並行で建設されるなど、建造作業は過酷なもので、多くの人命が失われた。その数は1万とも言われる。

建設後はロシア帝国の首都としてふさわしい街となるよう歴代の皇帝により整備がおこなわれた。1725年には科学アカデミーが、1754年には王宮として冬宮が完成。ネフスキー大通りが整備され、冬宮を中心とした放射状の街並みが作られていった。1757年には演劇アカデミーが創設され、エカチェリーナ2世時代の1762年には冬宮の一角にエルミタージュ美術館の元となる展示室が開設された。人口も増加し、1725年には10万を超え、1800年には22万人が居住していた。1819年にはサンクトペテルブルク大学が創設された。1825年にはデカブリストの乱がこの街で起きたもののすぐ鎮圧された。1837年にはペテルブルクとツァールスコエ・セローとの間にロシア初の鉄道が建設され、1851年にはモスクワとサンクトペテルブルク間の鉄道が完成。[8]この頃より近代化が進み始めた。なお、1873年当時のサンクトペテルブルクの様子は日本の岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』に詳しく記されている[9]。そして19世紀末には聖イサアク大聖堂血の上の救世主教会など、現在でもサンクトペテルブルクの名所となっている建築物が相次いで建設された。また、民間の経済力も向上し、ネフスキー大通りを中心に豪壮な建築物が立ち並ぶようになった。これらの建物の一部は、現在でも残っている。人口も増加し、1869年には67万、1910年には190万人に達していた。[10]

都市の歴史-ソビエト連邦時代

スモーリヌイ修道院はソビエト政権独立宣言がここで行われ、首都がモスクワに移されるまでソビエト政府の中枢であった。
ロシア革命時、冬宮前に押し寄せる民衆

ロシア革命では二月革命十月革命の2つの革命の中心地となり、武装蜂起によるボリシェヴィキの政権奪取やレーニンによる憲法制定会議の解散が起こった。その後、ソヴィエト政権は外国からの干渉を恐れ、首都をより国境から遠いモスクワに移転、1922年に正式に定められたことで、この町は政治の中心地から外れた。

レニングラード市の紋章

ロシア‐フィンランドの国境に近いため、スターリンはフィンランドに対して「大砲の射程内の地域」の割譲を要求したが、フィンランドはこれを拒み、1939年冬戦争が勃発。絶望的な戦力差においても多大な犠牲をソ連に強いたフィンランドは善戦したが、結局翌1940年には当該地域の割譲をもって講和がなされ、この戦争が中立的であったフィンランドの枢軸陣営参加を招いた。第二次世界大戦中は、フィンランドとドイツ両軍を基幹とする枢軸軍によって約900日、足掛け4年にもわたる包囲攻撃を受けた(レニングラード包囲戦)。枢軸軍は敵の戦意を挫くため街と外部の連絡を徹底的に絶ち、物資が途絶えた市中では飢餓により市民・軍人に多数の死者が発生したが、ソ連側は凍結した湖から細々と物資輸送を行うなどして耐え抜いた。その功績により、レニングラードは英雄都市の称号を与えられた。

戦後もレニングラードはソ連第二の都市として存在したが、その歴史的経緯や地理的要因からモスクワとは違った文化や風土を維持した。また、レニングラードの共産党第一書記になることは、ソビエト体制の中で重要な位置を占めることと同義であり、クレムリンでの権力ゲームでも影響力を持つことになった。とはいえ、ロシア革命以降でサンクトペテルブルク(レニングラード)出身者がトップに登り詰めたのはソ連崩壊後、21世紀になって大統領や首相に選ばれたウラジーミル・プーチンが初めてである。

都市の歴史-ロシア連邦

1998年に周辺の8市17町(ツァールスコエ・セローがあるプーシキン市やクロンシュタット等)を編入し、市域が拡大した。

2008年5月に首都モスクワから憲法裁判所が移転し、サンクトペテルブルクはロシアの首都機能の一部を担うこととなった。

2006年に第32回主要国首脳会議(G8サミット)、2013年にG20が開かれている。会場はストレルナru:Стрельна)のコンスタンチン宮殿ru:Константиновский дворец[11]

気候

ケッペンの気候区分では亜寒帯湿潤大陸性気候 (Dfb) に属する。北緯60度と非常に高緯度にあるため、5月半ばから7月半ばの2ヶ月間は昼が長く、日の入り後、日の出前も薄明の時間が長い。その一方、冬の日照時間は非常に短い。年間降雪量は297cmほどと欧州の都市のなかでは多い。高緯度なため、日照時間が増えてくる2月が最寒月である。

サンクトペテルブルクの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 8.3
(46.9)
10.2
(50.4)
14.9
(58.8)
25.3
(77.5)
30.9
(87.6)
34.6
(94.3)
35.3
(95.5)
37.1
(98.8)
30.4
(86.7)
21.0
(69.8)
12.3
(54.1)
10.9
(51.6)
37.1
(98.8)
平均最高気温 °C°F −3.1
(26.4)
−3.1
(26.4)
2.0
(35.6)
9.3
(48.7)
16.0
(60.8)
20.0
(68)
23.0
(73.4)
20.8
(69.4)
15.0
(59)
8.6
(47.5)
2.0
(35.6)
−1.5
(29.3)
9.1
(48.4)
日平均気温 °C°F −5.5
(22.1)
−5.8
(21.6)
−1.3
(29.7)
5.1
(41.2)
11.3
(52.3)
15.7
(60.3)
18.8
(65.8)
16.9
(62.4)
11.6
(52.9)
6.2
(43.2)
0.1
(32.2)
−3.7
(25.3)
5.78
(42.42)
平均最低気温 °C°F −8.0
(17.6)
−8.5
(16.7)
−4.2
(24.4)
1.5
(34.7)
7.0
(44.6)
11.7
(53.1)
15.0
(59)
13.5
(56.3)
8.8
(47.8)
4.0
(39.2)
−1.8
(28.8)
−6.1
(21)
2.7
(36.9)
最低気温記録 °C°F −35.9
(−32.6)
−35.2
(−31.4)
−29.9
(−21.8)
−21.8
(−7.2)
−6.6
(20.1)
0.1
(32.2)
4.9
(40.8)
1.3
(34.3)
−3.1
(26.4)
−12.9
(8.8)
−22.2
(−8)
−34.4
(−29.9)
−35.9
(−32.6)
降水量 mm (inch) 44
(1.73)
33
(1.3)
37
(1.46)
31
(1.22)
46
(1.81)
71
(2.8)
79
(3.11)
83
(3.27)
64
(2.52)
67
(2.64)
56
(2.2)
51
(2.01)
662
(26.06)
平均月間日照時間 21.7 53.2 124.0 180.0 260.4 276.0 266.6 213.9 129.0 71.3 24.0 12.4 1,632.5
出典1:Pogoda.ru.net[12]
出典2:HKO (sunshine hours)[13]

行政

行政区

サンクトペテルブルク市行政区

サンクト・ペテルブルクには、18の行政区が設置されている。

  1. アドミラルチェイスキー区(Admiralteysky
  2. ワーシリエオストロフスキー区(Vasileostrovsky
  3. ヴィボルグスキー区(Vyborgsky
  4. カリーニンスキー区(Kalininsky
  5. キーロフスキー区(Kirovsky
  6. コルピンスキー区(Kolpinsky
  7. クラスノグヴァールジェイスキー区(Krasnogvardeysky
  8. クラスノセルスキー区(Krasnoselsky
  9. クロンシュタットスキー区(Kronshtadtsky
  10. クロートヌィ区(Kurortny
  11. モスコフスキー区(Moskovsky
  12. ネフスキー区(Nevsky
  13. ペトログラードスキー区(Petrogradsky
  14. ペトロドヴォレツォヴヌイ区(Petrodvortsovy
  15. プリモルスキー区(沿海区)(Primorsky
  16. プーシキンスキー区(Pushkinsky
  17. フルンゼンスキー区(Frunzensky
  18. ツェントラーリヌイ区(中央区)(Tsentralny

経済

旧サンクトペテルブルク証券取引所。現在は中央海軍博物館である

サンクトペテルブルクはロシアを代表する港湾工業都市である。造船業を初めとして、電気機器、工作機械・工具類、農業機械、化学工業、製紙、家具、繊維・衣類、食品加工、タバコ、皮革などの工業が発達している。

文化

文学

サンクトペテルブルクは、ピョートル大帝による建都以来ロシア最大の文化都市として発展してきた。そのため、特に帝政時代にはこの都市を舞台に多くの文化人が活動し、詩や小説などの題材としても扱われてきた。『青銅の騎士』を物した詩人で作家のアレクサンドル・プーシキン、いわゆる「ペテルブルクもの」を物したウクライナ出身の作家ニコライ・ゴーゴリ、『罪と罰』を物したフョードル・ドストエフスキーなどがその代表である。また、イワン・ツルゲーネフの作品にも描かれるように帝政時代のモスクワはひどい「田舎」扱いされており、ペテルブルクで活躍することこそがエリートの絶対条件であると看做されていた。音楽家や画家もペテルブルクで活動するのが基本であり、特に帝政末期ペテルブルク以外で活動するようになった芸術家の一派は「移動派」と呼ばれた(ペテルブルク以外を巡業する派ということ)。こうしたことから、ペテルブルク人は文化意識・水準が高いという誇りを持っているとされている。

音楽

マリインスキー劇場のメインホール
エフゲニー・ムラヴィンスキーが指揮していた時代には、世界有数の実力を誇るオーケストラと言われた。
20年間に渡り音楽監督を務めているヴァレリー・ゲルギエフのもと、現在のロシアで最も評価の高いオペラハウスに成長。オペラ・バレエだけでなくコンサート(同劇場管弦楽団として)においてもレベルの高い演奏を続けている。
  • ウィンナワルツの作曲家として知られるヨハン・シュトラウス2世は、1856年から連続して1865年までと、1869年、それに晩年の1886年の夏にサンクト・ペテルブルクやその近郊の街であるツァールスコエ・セロー(現在のプーシキン)やパヴロフスクを訪れ、特にバヴロフスクの駅舎コンサートではロシア人聴衆を前に多数のワルツやポルカの数々を発表し熱狂的な支持を得た。シュトラウス2世自身も滞在先のロシアからウィーンの友人に宛てたある手紙の中で「生きるならロシアに限ります。ここには多くの金がある。金がある所にこそ生きがいがあるのです!」と述べて書き送っているほどである。そんなロシア滞在時代には多くのセンチメンタルな作品のあれこれが書かれ、それらの多くはロシアの民謡を実際に形として取り入れた作品や、ロシア的に響く内容の性格色濃い作品が多く目に留まる。なお、ヨハン2世の弟のヨーゼフ・シュトラウスも1862年と1869年の夏に兄のヨハン2世に随行する形でロシアを訪れて、パヴロフスクの駅舎で自作を発表し演奏して公式にロシア・デビューを果たしてもいる。
1858年には、渋いチェロの独奏で開始される穏やかな内容のワルツサンクト・ペテルブルクとの別れ op.210や、1860年には素朴ながらも感傷的なロシア情緒が交錯する幾分悲劇的な転調で変化を見せる内容の宝石のポルカ op.242や、「北のヴェネツィア」の愛称の由来となったネヴァ川にちなんで1864年の夏に滞在先のロシアで偶然に書かれたとされる愛らしく無邪気な内容のネヴァ川ポルカ op.288が書かれている。これらの他にもロシア風な作品群が多数ヨハン・シュトラウス2世の作品表上には眠っている。どのロシア時代の作品も傑作と呼ぶべき密度の濃い作品が作品表の中に揃っており、それらの大半は今日、実演奏される機会にはほとんど恵まれず隠され埋もれた状況となっている。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ニューイヤーコンサートでもシュトラウス2世のロシア滞在時代の作品は、いまだにそのほんの一部分の作品が繰り返し演奏・録音されるほかは発掘演奏されずコンサート・ピースとしてレパートリ―に定着していない感が否めない。

マスメディア

新聞
  • ヴェースチ(日刊) - レニングラード州最大の新聞
  • サンクトペテルブルクスキエ・ヴェードモスチ - サンクトペテルブルク市最大の新聞
  • ノーヴァヤ・ガゼータ(月水に発行)
  • コムソモーリスカヤ・プラーヴダ・ペテルブルク(日刊)
  • セントピーターズバーグ・タイムズ(英語紙、週二回)
  • テレヴィディェールニエ・ラジオ(週刊、テレビ・ラジオ番組専門)

など

テレビ
  • ペールヴイ(第一)
  • ロシア1
  • 5 カナール(5 チャンネル)
  • NTV

など12チャンネルくらいがある。

ラジオ
  • ラジオ・ロシア・サンクトペテルブルク(66.3 MHz、ホームページ
  • ラジオTRKペテルブルク(69.47 MHz)
  • ムジカールノエ・ラジオ・オルフェイ(ホームページ

がある。

テレビとラジオの番組表は土曜日の「ヴェースチ」紙、「テレヴィディェールニエ・ラジオ」週刊誌などに、翌週(月~日)のを載せている。

スポーツ

観光

サンクトペテルブルクの観光名所の多くがユネスコの世界遺産に登録されている。サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群を参照のこと。

エルミタージュ美術館
ロシア美術館

美術館

教会・寺院・修道院

その他の建造物

教育

大学

サンクトペテルブルク国立大学

歴史ある、多数の高等教育機関がある。例えば

交通

空港

プルコヴォ空港

市の中心部から17km南にプルコヴォ空港があり、国内線のみならず国際線も多く就航し、市の玄関口となっている。プルコヴォ空港は国内線用のプルコヴォ1ターミナルと国際線用のプルコヴォ2ターミナルに分かれている。両ターミナルともアクセス鉄道はなく、バスが地下鉄駅へと連絡している。

鉄道

サンクトペテルブルク地下鉄路線図

サンクトペテルブルクには5つのターミナル駅があり、列車の目的地が駅名となっている。

エレクトリーチカ(近郊電車)もこれらの駅で発着する。

鉄道でフィンランドからモスクワへ向かう場合、サンクトペテルブルクのフィンランド駅に到着し、市内を地下鉄、バス、タクシーなどで移動してモスクワ駅からモスクワへ向けて出発、モスクワのレニングラード駅に到着することになる。

地下鉄

サンクトペテルブルク地下鉄のキーロフスキー・ザヴォート駅

市内ではサンクトペテルブルク地下鉄が運行されており、2009年現在5路線62駅が存在する。

道路

市内の道路は広く設計されていて、舗装状態もいい。乗合バスマルシュルートカ(小型乗合バス)、トロリーバス路面電車の運行も行われている。タクシーは駅、空港周辺近く以外は比較的少なく、街頭では私設タクシーが横行している。

自動車専用道路はサンクトペテルブルク環状道路が、その西南部分およびフィンランド湾のクロンシュタット島から南岸への部分以外は、ほぼ完成しており、最近誘致した外国企業の工場はほぼこの環状線に沿って配置されている。 [14] サンクトペテルブルクから他都市への道路は、M10幹線道路(モスクワへ、欧州自動車道路網のE105号線の一部)、M11幹線道路エストニア国境へ、同E20号線の一部)、M18幹線道路(ムルマンスクへ、同E105号線の一部)などがある。モスクワへの道路も自動車専用道路がまだなくて、通常道路(M10幹線道路)で、ノヴゴロド州に入る近くまでは片側2車線で、その後は片側1車線でときどき追い越し車線もある状態となる。

近郊の都市

冬宮前からペテルゴフの宮殿へと向かう水中翼船(2008年)

以下は少し遠くなるが、日帰り旅行地として頻繁に観光バスが出ている。

姉妹都市

双子都市

英語での名称が同一のため、「姉妹都市」でなく「双子都市」(Twin city)提携をしている。なお、セントピーターズバーグの市名はサンクトペテルブルク出身のロシア人移民が故郷にちなんでつけたものである。

標準時

この地域は、モスクワ時間帯標準時を使用している。時差はUTC+3時間で、夏時間はない。(2011年3月までは標準時がUTC+3で夏時間がUTC+4時間、同年3月から2014年10月までは通年UTC+4であった)

ギャラリー

脚注

  1. ^ ヘルシンキおよび駐日エストニア共和国大使館公式ホームページ参照
  2. ^ これはあくまで「ドイツ語風のロシア語名」であって、ドイツ語名ではない。ドイツ語では Sankt Petersburg であり、古典的発音の場合はザンクト・ペーテルスブルク、現在の口語発音ではザンクト・ペータスブアクと呼ばれる。最初の音が濁らず、「ブルク」の前に「ス」の入らない Санкт-Петербург (Sankt-Peterburg) は、ドイツ語名がロシア語化したもの。
  3. ^ 江上波夫 ・山本達朗 ・ 林健太郎成瀬治。『詳説世界史 改訂版』(高等学校 地理歴史科用文部省検定済教科書。1997年3月31日文部省検定済。1999年3月5日 発行。教科書番号 81 山川 世B575。 山川出版社 ) p 173, p 285に「1703年、バルト海沿岸にペテルブルク(→p. 285注①)を建設し, ここに首都を移した」、「戦争開始後、ペテルブルクを改称してペトログラードとなった。さらに第一次世界大戦後レニングラードとなったが, 1991年に旧名のサンクト=ペテルブルクにもどされた」と記載されている。
  4. ^ ドイツ語風の「ブルク」を、ロシア語風(厳密には古代教会スラヴ語風)の「グラード」に変更したもの。意味は同じになる。
  5. ^ 「レーニンの町」という意味。
  6. ^ 不況の今、ソ連文化の良さに注目が集まるJBpress
  7. ^ Законодательное Собрание Санкт-Петербурга. Закон №555-75 от 26 октября 2005 г. «О праздниках и памятных датах в Санкт-Петербурге», в ред. Закона №541-112 от 6 ноября 2008 г. (Legislative Assembly of Saint Petersburg. Law #555-75 of October 26, 2005 On Holidays and Memorial Dates in Saint Petersburg. ).
  8. ^ 「図説 ロシアの歴史」p90 栗生沢猛夫 河出書房新社 2010年5月30日発行
  9. ^ 久米邦武 編『米欧回覧実記・4』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年、47~110頁
  10. ^ 「新版 ロシアを知る事典」p311 平凡社 2004年1月21日発行
  11. ^ コンスタンチン宮殿大辞泉 - Yahoo!辞書
  12. ^ Pogoda.ru.net” (Russian). 2007年7月29日閲覧。
  13. ^ Climatological Information for St.Petersburg, Russia”. Hong Kong Observatory. 2011年4月8日閲覧。
  14. ^ 大前研一『ロシア・ショック』(講談社、2008)
  15. ^ http://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/page/0000017644.html 大阪市ホームページ  大阪市市民の方へ 姉妹都市(サンクト・ペテルブルグ) 2013年3月2日閲覧
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関連項目

外部リンク

政府
日本政府
  1. ^ ロケの当時、レニングラード市ソビエト議長はサプチャークであり、国際関係担当顧問または同市対外関係委員会議長はウラジーミル・プーチンであった。