ピョートル1世
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| ピョートル1世 Пётр I Алексеевич |
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|---|---|
| 初代ロシア皇帝 | |
| 在位 | 1682年 - 1725年 |
| 戴冠 | 1682年7月25日(ユリウス暦) |
| 別号 | 第5代モスクワ大公 |
| 姓名 | ピョートル・アレクセーエヴィチ |
| 出生 | 1671年6月9日 モスクワ |
| 死去 | 1725年2月8日 |
| 後継 | エカチェリーナ1世 |
| 配偶者 | エウドキア・ロプーヒナ |
| エカチェリーナ1世 | |
| 子女 | アレクセイ・ペトロヴィチ エリザヴェータ アンナ・ペトロヴナ |
| 王家 | ロマノフ家 |
| 王朝 | ロマノフ朝 |
| 父親 | アレクセイ・ミハイロヴィチ |
| 母親 | ナタリア・ナリュシキナ |
ピョートル1世(ロシア語:Пётр I Алексеевич;ラテン文字表記の例:Pyotr I Alekseevich、1671年6月9日 - 1725年2月8日)は、ロマノフ朝の5代目(在位1682年 - 1725年)。モスクワ大公で、初代ロシア皇帝(インペラートル)。 アレクセイ・ミハイロヴィチの子。出生名はピョートル・アレクセーエヴィチ(Пётр Алексеевич)。その歴史的存在感と2mを超す体躯から、ピョートル大帝(ピョートル・ヴェリーキイ;Пётр Вели́кий)とも称される。妻、エヴドキア。後妻、エカチェリーナ1世。
目次 |
[編集] 人物
モスクワに生まれる。3歳で父を亡くし、1682年、10歳のときに、病弱な兄フョードル3世の死去の跡を継いで、異母兄のイヴァン5世とともにロシア皇帝の座に就いた。はじめ摂政の異母姉ソフィア・アレクセーエヴナの専横を許していたが、次第に宮廷内で支持者を獲得していくと、1689年にソフィア派を宮廷から追放することに成功した。ピョートル1世は同年イヴァン5世を廃位して単独統治を開始した。
ピョートル1世は1696年にロシア海軍を創設すると、オスマン帝国からアゾフ海の制海権を奪って黒海への出口を確保した。1700年に大外交使節団を編成して西欧諸国を視察し、先進技術を修得させ軍の近代化を進めた。1721年に、正式に皇帝(インペラートル)となった。
しかし、1725年部下を助けようと厳冬の海に入った事がきっかけで肺炎にかかり、死去。
[編集] 家系
モスクワ大公アレクセイ・ミハイロヴィチとその第2の妻ナタリア・ナリュシキナの子。異母兄にフョードル3世、イヴァン5世、異母姉にソフィア・アレクセーエヴナがおり、同母妹にフョードラ(1673年-1678年)、ナターリヤ(1674年-1716年)がいる。
最初の妻エウドキア・ロプーヒナとの間に長男アレクセイをもうけた。後妻エカチェリーナ・アレクセーヴナとの間の子には、のちに女帝となるエリザヴェータとアンナ(ホルシュタイン公カール・フリードリヒ妃、ピョートル3世の母)がおり、この2人の娘以外はみな夭逝した。
[編集] 遣欧使節団
1697年にピョートル1世はヨーロッパの軍事や科学技術を学ぶため総勢250名の使節団を結成し、自らもその一員として18ヶ月の視察旅行に参加した。
プロイセンでは砲術を、オランダでは造船術を学んだ。特にオランダの造船所では身分を隠して船大工見習のピーター・ティンメルマンとして雇われ、皇帝自身がハンマーをふるって造船を学んだ(この逸話をテーマにアルベルト・ロルツィングが『皇帝と船大工』というオペレッタを書いている)。オランダでは他にも工場・博物館・病院などを視察に訪れた。なかでも歯科医の技術には強い興味を示し、初歩的な抜歯術の手ほどきを受けると抜歯道具を買い込み、帰国した後には廷臣たちの虫歯を麻酔なしで抜くという行為を生涯の趣味にした。
この使節団は、皇帝ピョートル1世自身が学んだだけではなく、職人や専門家を多数スカウトしロシアに連れ帰ったことでロシアに西欧の技術が広がるきっかけにもなった。
[編集] 大北方戦争
1700年から20年に及び、バルト帝国の座を巡り、カール12世の統治するスウェーデン王国と大北方戦争を開始したが、当初は苦戦を余儀なくされた(1700年、ナルヴァの戦いの大敗など)。しかしロシアの地を跳梁するスウェーデン軍に焦土作戦を仕掛け、1709年にポルタヴァの戦い、1712年にハンゲの海戦で勝利し戦局を打開、オスマン帝国とは外交で躱し(1718年、パッサロヴィッツ条約)、1721年にはニスタット条約によりスウェーデンに代ってバルト帝国の覇者となった。ピョートルは1711年、ポルタヴァの戦いで敗走したスウェーデン軍を追い、オスマン帝国領内へと侵攻したがオスマン帝国との戦闘に敗れ、オスマン軍の捕虜となった。しかしロシアはオスマン帝国を懐柔し、ピョートルは解放された。この事は、オスマン帝国にとって致命的な結果となり、後年オスマン帝国にとって、ロシア帝国に対抗出来ない要因とされる様になったのである。
スウェーデン王カール12世の死を聞いたピョートルは、一言つぶやき、瞑目したと言う。
「彼は完全な戦士であり、英雄であった」
[編集] ペテルブルク
1699年の「反スウェーデン同盟」の盟約に従い、1700年にイングリアに侵攻。ほぼこれを掌握すると、1703年にネヴァ河口のデルタ地帯にサンクトペテルブルクを建設し、1712年に遷都。新都は貿易港であり、バルト海艦隊の基地である。1712年ハンゲの海戦に勝利し、バルト海の制海権を掌握した。
ピョートル1世は貴族と教会を抑えて皇帝権の強化をはかり、産業・教育の改革、行政機関の整備などを進めロシアの近代化に心血を注いだ。その熱心さは、見学に訪れた西欧の造船所で自らハンマーを振るってその技術を習得しようとしたことなどからも窺えよう。また現在に至るロシアの国旗も、ピョートル1世がオランダの国旗に倣い、その色順を変えて採用させたと言われている。
このようにしてロシアはヨーロッパの強国に急成長したが、性急な近代化は様々な社会的矛盾を残すことにもなった。また、西欧のシステムを導入したことでロシアの生活様式は様変わりしたという。ロシア国民からは、彼の西欧化政策は、反キリストによる業と捉えられた。また事実上の絶対主義を開始したピョートル1世以降、ツァーリの政治をツァーリズムと後世言われる様になった。
なお、「聖ペテロの街」を意味する「サンクトペテルブルク」の名付け親はピョートル1世である。「ピョートル」(Пётр)はペトロに当たるロシア語名であり、自分と同名である聖人ペトロにちなんで名付けたもの。
[編集] ピョートル1世に因む地名
- ピョートル大帝湾(Залив Петра Великого)
- ピョートル1世島(Остров Петра I)
- サンクトペテルブルク(Санкт-Петербург)
[編集] 関連項目
- ロシア正教会 - ピョートル1世はロシア正教会への統制を強め、モスクワ総主教庁を廃止した。詳細はピョートル大帝による教会統制策を参照。
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